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たかが俳人されど俳人

コンプレックスを埋めるためのドーピング

この文章は本当はTwitterでつぶやきたかったのですが、
あまりに長くなりすぎるので、不本意ながらブログを使うことにしました。
俳句に興味のない読者は読み飛ばすことをお勧めしますが、
文学や詩の現状を知る手がかりにはなるかもしれません。


最近、安里琉太という1994年生まれの若い俳人が、処女句集『式日』を出しました。
帯文には「到来し、触発する言葉」とか「書くことは、書けなさから始まっていると、今、強く思う。」とか、
安里当人の言葉かわからないのですが、フランス現代思想にでも憧れてしまったかのような浮ついた言葉が踊っています。
(これを見て福田若之『自生地』のデリダってる自意識を思い出してしまいました)
私が書くのではなく、言葉の方から到来したのだ、ということなのでしょうか。
こういう宣伝文句から「自称詩人」感があふれているのですが、いやいや、これは若い人の句集でしかありません。


こういう些細なことを僕がわざわざ取り上げたのは、
メディア露出に勤しむ若い俳人たちに、自分のことを今までの「俳人」イメージで語られたくない、という強いコンプレックスがあることを、
この宣伝文句が雄弁に語っているからです。


このような「読者に流通する自己イメージ」を自らの望んだものにコントロールしたい、という欲望は、
彼ら若手俳人ばかりでなく一部のアーティスト志向の研究者などにも当てはまる現象です。
まあ、個人名など出さなくても「スマホメンタル」と乱暴に括って構わないような気がしています。
自撮りの写真を加工アプリで「修正」し、己の望む「自己像」を演出し、それを流通させることで現実の自己を否定できたような気分になる精神です。
ここで否定される対象になっているものが「現実の自己」であることは、注意しておくべきでしょう。
(そのエクストリームに桑田真澄の息子がいます)
しかし、まずはこの現象そのものを確認したいと思います。
ちなみに、加工アプリを使って逸脱したほどに実像の「見た目」を良くする欲望のことを、僕は「ドーピング」と呼んでいます。


『式日』の奥付には、著者や発行者などと並んで「企画協力 鴇田智哉」という見慣れないクレジットがあります。
自らの句集に「企画協力」とはどのような意味なのかが僕にはよく理解できないのですが、
当人たちが説明してくれる様子はないので、いっそう面妖な感じがあります。
その鴇田智哉は『式日』に付属している栞に、岸本尚毅、鳥居真里子とともに文章を寄せています。
ついついそれを読んでしまったのがまずかったのですが、
鴇田の俳句の解釈というものがドーピングかと思うほどに拡大解釈されたものだったのです。
取り上げられた安里の句の評価とは別に、まず鴇田の俳句の読み方はかなり問題があると思いました。
実は僕は以前、鴇田の『凧と円柱』という句集のレビューを書いたことがあります。
そこで彼の俳句がいかに現実の自己をドーピングして見せるためのものであるかを示しました。
(そのせいで僕は鴇田から許し難い嫌がらせを受けたのですが、とりあえず過去の私怨については控えます)
実作もドーピングなら俳句を読んでもドーピングなので、彼の本質がそこにあると言っても過言ではないと思います。
そしてこのドーピングは、これまでの「俳人」イメージに回収されることを避けたいというコンプレックスによって行われているのです。



「自己像」への執着──なりたい自分になれるよ

鴇田に限らず、『新撰21』で有名になった若手俳人の中で、新しげな扱いをされている人は、
どこか「自己像」に対する執着が強い人が多いように感じます。
そのため、自分の作品も俳人としての「自己像」に奉仕させるものと捉えている感じがあります。
彼らが自己プロデュースのために俳句をやっているとするなら、他人の「自己像」のプロデュースにも協力できるというわけです。
僕は『式日』の「企画協力」というクレジットが、
安里琉太という「ブランド俳人」の企画立ち上げへの協力を意味しているのではないかと受け取っています。
要するに、気分はアパレルなのです。


自分が他人にどう思われているのか気になるのは、人の性だと思うのですが、
SNS時代はそれを拡大しているように感じます。
僕は興味がないのですが、エゴサーチをやらずにいられない人がわりといるようです。
インターネットに接続している時、端末の画面は自分の興味を映し出す鏡となっています。
それが当たり前になってくると、世界が自分の自意識に侵されるようになります。
一人一人が自分の世界を見ていると気がつくと、他人の世界に自分がどう映っているのかが気になるでしょうし、
それを自分の望むようにコントロールしないと不安になるのは不思議ではありません。


「普段何やってるの?」
「俳句を作ってる」
「ああ、俳句ね。新聞やテレビでやってるよね」
俳句=古い、俳句=年寄趣味、俳句=非オシャレ。
僕は俳人ではないので想像することしかできませんが、別に俳人ではなく文学好きというだけでもカースト下位にいる感じがあるのはわかります。
このようなコンプレックスをはねのけることが、一部俳人にとっては非常に重要なことのようなのです。
その結果、これまでの俳人とは異なる「イケてる俳人像」を模索することになるのですが、
最も人気があるのが、落ち目のポストモダン思想にしがみついて詩人ぶろうとする「俳句作家」というポジションです。
『天の川銀河発電所』という若手俳人のアンソロジーの帯文を誰が書いたかについては触れませんが、
残念ながら、今やポストモダン思想=古い、年寄趣味、非オシャレ、でしかないのが皮肉と言うべきでしょう。
どんなに背伸びしても自分は自分でしかないのですが、
阿弥陀如来に封印される前の孫悟空みたいに、筋斗雲で世界の果てにでも行ける気になっているのが気の毒です。


一応誤解がないように先に言っておきたいのですが、
安里琉太の『式日』の句がどれもひどいというわけではありません。
おそらく、作った時系列で並べていればもっと印象は良かったと思います。
(この本が時系列順でないという確信まではありませんが)
問題なのは句集として読んだときに、プロデューサーらしき人物の影が目についてしまうことなのです。
わざわざそう作っているわけですから、「ああ、安里はそういうことがやりたいんだな」と僕が感じるのも仕方がないと思うのです。
しかし、その人物の俳句の読み方が過剰な意味づけでしかないことが問題なのです。


ドーピング解釈のメカニズム

では、鴇田が「共時代へのいざない」という栞文で、安里の句をどのように鑑賞しているかを見ていきましょう。
まず、鴇田は『式日』の冒頭句を取り上げます。

 ひいふつとゆふまぐれくる氷かな

鴇田はこの句の「いきいきとしたスピード感」を指摘したあと、「一瞬の空白のあと」(要するに切れですよね)、「氷、が立ち現れる」とします。
そして、その氷について話が及ぶのですが、こう書いています。


さてこの、氷、とは何だろう。氷かな、とだけ言われ、どんな氷なのかは書かれていない。それだけに私は、氷の氷たるありよう、たとえば氷柱の過ったときの気のおののきを、あるいは氷塊を口に含んだときの息のたかぶりを、ありありと感じる。

「氷かな」とだけ書いてあるだけで、「気のおののき」や「息のたかぶり」を「ありありと感じる」と書いているのに、僕はおののきました。
どうしたら「ありありと感じる」のか、俳人というものはそういう人たちなのか、かなり困惑しましたが、
一瞬の空白のあと、これは正直な感想ではないな、と思いました。
それまでの流れとの関連ではなく、ただ「氷かな」と書くだけでそうなるのなら、
「氷かな」と書かれた句ならすべて、氷に付随する「気」や「息」までも「ありありと」感じさせるはずだからです。
こういうことが起こりえるとしたら、季語の喚起力としか説明がつきません。
要するに、鴇田は季語の喚起力を頼りに解釈しているにすぎません。


また鴇田の書いていることは支離滅裂だと感じます。
「氷柱の過ったときの気のおののき」を「ありありと感じる」には「氷かな」より「氷柱かな」の方が圧倒的に適しているからです。
このあたりの俳句表現に対する甘さは、曖昧な表現ばかりしてきた鴇田の資質が見えて、非常に致命的だと思います。
それに、「氷」は冬の季語のはずですが、鴇田が言う「氷塊を口に含んだとき」は果たして冬なのでしょうか。
普通に思い浮かぶのは夏のイメージですが、冬場に氷塊を口に含んだために冷たすぎて息がたかまったことを言いたいのでしょうか。
このように、鴇田において句のもたらす季感など、己の勝手な妄想より優先すべきものではないのです。
こういう解釈が内実なきドーピングであると言われても文句は言えないと思います。


「空白」と書いて切れを強調したり、季語の喚起力を強く頼っておきながら、
鴇田は切れとも季語とも一言も書きません。
それが不自然だとは言いませんが、おそらく彼は意図的にそのような俳句に回収される語を避けているのでしょう。
季語の喚起力だけは利用しながら、季感に気を払うことができないという俳人としての杜撰さも、
俳人として俳句を作りながら、それを受け容れられず、詩人としての「自己像」を演出することにこだわっていることが原因だと思います。
そこには前述した彼らのコンプレックスが関係しているはずです。


それから鴇田はこう続けます。


ひいふつと、は抜群のスピード感をもたらすとともに、語として軍記物の印象のあるため、時を遡るかのような錯覚をもたらす。ここはどこなのか、今はいつなのかという場へと、心はいざなわれていく。現代であるとか、昔であるとかを超えたところ、あるいはそれらが混在している場へと読者をいざなう言葉のありようである。

例によって大仰な書きようですが、その内容を検証するとどうしても違和感が拭えません。
「ひいふつと」が軍記物に使われている語であることで、「時を遡るかのような錯覚をもたらす」ものでしょうか。
その語が古語であるということは、読み手が持つ予備知識です。
「時を遡るかのような錯覚」は、読み手の感覚です。
鴇田は知識として思い当たったことが読み手の感覚に作用する、と主張しているわけですが、
僕にはそんな現象は信じることができません。
古語によってタイムスリップ感が生まれる、というのはさすがに強引です。
そもそも「ひいふつ」という擬音は、古語辞典を引くと、「射た矢が風を切って飛び、勢いよく当たる音の形容」と書かれており、
現代語訳でも「ひゅう、ぶすり」となっています。
ブスッと的に当たる音までが含まれて「ひいふつと」なのです。
普通に言葉だけ受け止めれば、「ゆふまぐれ」つまり夕暮れですが、夕暮れが唐突に訪れたとして、何かにブスッと当たったことになってしまいます。
まあ、こういう細かいことは揚げ足取りめいているので横におくとしても、
タイムスリップするくらいの感覚が引き起こされたならば、古人の感覚に立ち戻って鑑賞したらどうなのでしょうか。
そうではないということは、要するにただ「古典に出てくる言葉」くらいの認識しかないわけです。
これについても、古語の喚起力以上のことは語られていません。


結局、この句について鴇田は季語の喚起力と古語の喚起力を語っているにすぎません。
行き着く先が、現代と昔が混在した場になるのですが、こんなのは文語俳句であればだいたいそうなるに決まっています。
それだってこの句についての鑑賞にはなりません。
つまり、僕から見れば、鴇田は大方の俳句について言えるようなことを、いかにも句の鑑賞をしているかのように語っているだけなのです。
僕が鴇田の解釈が拡大解釈だと言うのは、俳句のシステムに依存した部分だけを取り出して語っているわりに、
レトリックだけがやたらと大仰で、それが詩を語ることであるかのように見せているところなのです。
こんな凡庸な解釈で詩を語る資格があるものでしょうか。
むしろ、鴇田智哉という俳人が、どうにも俳句のフォーマットに依存してしか俳句を鑑賞できないことを白日にさらしているのではないでしょうか。


この後も、鴇田は句の中から特定の語を取り出して、ドーピングよろしく拡大解釈を展開していきます。
いちいち付き合う労もかけたくないので、興味のある人はのぞいてみてください。


安里琉太の句について

ここまで書いて安里の句について何も言わないのも不満が持たれそうなので、一応触れておこうと思います。
鴇田のドーピング解釈に関してはどうしようもないと思いますが、
僕は安里の「ひいふつとゆふまぐれくる氷かな」の句そのものは、そんなに悪いとは思いません。
ただ、「ひいふつと」という古語に「表現の必然性」を求めようとするならば、かなり込み入った読みが必要になることでしょう。


たとえば「ひいふつと」にスピード感があるというのはその通りだと思いますが、
僕にはこのスピード感が「ひいふつと」という擬音で表現される「必然性」までは、多くの人に理解されるとは思えないのです。
安里の句の意味内容をあえて現代語に翻訳すると、「ビューっと夕暮れが来てしまう、氷だなあ」となります。
早くも夕暮れになってしまった、と日の短さを実感することは誰しもあることなので、共感する人は少なくないと思います。
問題は、その実感を「ひいふつと」という古語で表すことで、読み手に何をもたらそうとしているのか、ということです。
スピード感を表したいだけなら、もっと読み手に伝わる表現があるのではないでしょうか。
その意味で「ひいふつと」という古語表現の選択は、句における「表現の必然性」より、
己のブランドにおいてアピールしたいものがそれであったからではないのか、という疑問が拭えないのは事実です。
ここにも「自己像」への執着が感じられてしまうのですが、それは僕が意地悪だからなのかもしれません。


ここではあえて、「ひいふつと」という表現に必然性がある場合の読みをしてみようと思います。
その場合、むしろ「ひいふつと」が古語である、という知識はない方がいいような気がします。
ヒーフッという一種の呼吸の一吹きに合わせて、瞬間的に夕暮れが訪れてくるような読み方です。
風を切って弓が飛ぶ映像的なスピード感ではなく、生命のリズムの一端において夕暮れが到来するようなあり方です。
(到来し、触発する夕暮れ、ですね)


その瞬間、その呼吸の一点を凝固して捉えた時に、氷への連想に力が与えられるように思います。
気配なき夕暮れ、透き通った氷、時を凝固した一瞬の訪れ、流れを凝固した氷、それらが重なってきます。
このように読むなら、非常に大きな句として読める気がするのです。


僕の読みがレトリックによるドーピングになっているでしょうか?
どの俳句にも言えるようなことを書いているでしょうか?
いやしくも詩に関わっていると思うならば、俳句を読むという行為をもっと追求しなくてはいけないと思います。
安直に加工された「自己像」ばかり求めているから、俳人のくせに俳句がたいして読めないのです。


トータルで言うと、僕はこの句集はそれほどいい句集だとは思いません。
安里の他の句について不満もあります。
ただ、若い俳人でありますし、いいものを持っている人だと思いますので、
誤った道に進まないように気をつけてほしい、と願っています。


出版俳人の天下が導く未来

最後に、現状の俳句界について一言。
すでにTwitterではよく発言しているのですが、
ここ10年くらい俳句の世界では、現実の「自己像」を否定して、メディアで加工された「自己像」を流通させることを重視した、俳句作品おいてけぼりの若手をチヤホヤしてきました。
彼らは「自己像」の演出に興味があるので、句集を出すことを重視していますし、メディア露出やイベント参加による自分の売り込みを好みます。
その結果、彼らの俳句作品に進歩が見られたかというと、むしろ退化したと言える程度のものでしかありません。
自分では新しいことをやっている「気分」ではいるのでしょうが、
誰もやらなかったのは本当に「新しい」からなのでしょうか。
実は過去にやった人はいくらでもいたのですが、その人たちはみんな残らなかったので、誰もやっていないように見えているのではないでしょうか。
残念ながら、そういう若手に適切なことを言えるベテラン俳人は、ほとんど存在しないようです。
結局彼らも若手を後押ししている出版社などのメディアに、反旗を翻す気力がないのです。
まあ、自分たちが死んだ後の俳句のことなど、気に病まなければ問題はありません。
「大洪水よ、我が亡きあとに来たれ!」という言葉を資本家の態度としてマルクスが紹介していますが、
ベテラン俳人たちもそんな心境なのでしょう。


僕は俳句をやらないので、俳句界がどうなろうと構いませんし、正直に言うと期待もしていません。
未熟な俳句を作っている言い訳のために、文学や詩を持ち出す不遜な輩を僕は批判してきましたが、
そういう未熟な若手俳人が、未熟なままプロデューサーを気取ったり、俳句賞の選考委員になったりしているからです。
彼らは自らのコンプレックスから過去の俳句を否定することにエネルギーを注ぎ込む人たちなので、
残念ながら散文表現のなり損ないや、広告言語モドキのような俳句ばかりが評価され、かえって他のジャンルから侮られる結果となるでしょう。


レベルの高い俳句は、俳句のままで十分に詩や文学として評価されてきましたし、
これからもそれは変わらないと思います。
むしろ、俳人でありつつ詩をなしたければ、切磋琢磨してレベルの高い俳句を生み出すことに精進した方がいいのではないでしょうか。
俳句や俳人であることから逃走したところで、「ウマいこと言った」以上のものはできあがらないでしょう。
それは芸人の世界に近いと思います。
芸人のギャグのように次々に消費されては消えていく、それは本当に文学や詩の世界なのでしょうか。
俳句が詩であるためには、詩をめざすのではなく、まずはレベルの高い俳句をめざすのが近道なのではないか、と門外漢の僕は感じています。
それはもちろん、俳句らしいものを作るという意味ではありません。
レベルの高い俳句とはどういうものなのか、ということから始まるものだと思います。


2 Comment

HOHさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
HOHさん、お久しぶりですね。コメントありがとうございます。

無人島という仮定はおもしろいですね。
受け止める読み手の顔が見えているから、曖昧化やドーピングという甘えが許されるのです。
誰もいない場所で、誰が読み手になるかわからない所で、
書いた句が遺書代わりになるかもしれない時に、己をドーピングしても虚しいだけでしょう。

レベルの高い俳句は、おそらく無人島に残されても誰かに拾い上げられる句だと思います。
その意味では、初めから出版流通業者(メディア)やそれを通じた仲間と一体になりたがる人に書けるものではありません。
心に無人島を持つ、すばらしいことだと思いました。

無題

南井さんこんにちは。
今回の論考も興味深く拝読させていただきました。

レベルの高い俳句って何なのでしょうね。
自分もよく考えますが答えは出ませんし、そもそも出していいものなのかもよくわかりません。
ただもし自分が無人島に漂着してそこで俳句を詠むとしたら、ドーピング俳句などは
詠みたくても詠めないだろうと思います。
他者の目が全く想定できない場所で俳句を詠むとしたらそれはどんなものになるか。
その時初めて「レベルの高い俳句」の可能性が見えてくるのではないか。
そんなことを思いました。

本当は無人島まで行かずとも日々の生活の中で、
ドーピングなど通用しない厳然たる客観世界の存在を意識できれば一番いいのですけれどね。

失礼しました。応援しています。





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