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現代アートへのレクイエム【その2】

 デュシャンのレディメイド

前回は小崎哲哉の『現代アートとは何か』を参照しながら、現代アートを資本主義との関係の面から概観しましたが、
今回はその芸術性のありかを内容の面に踏み込んで見ていきたいと思っています。


現代アートを語る上でどうしても避けて通れないのがマルセル・デュシャンのレディメイドです。
僕が参照した現代アート関連の本で、デュシャンに触れていないものはありませんでした。
英国のアート専門家500人を対象にした「最も強い影響力を持った20世紀のアート作品」という2004年のアンケートで、
最重要作品に選ばれたのがデュシャンの《泉》です。
専門家が20世紀を代表するアート作品とするくらいですから、その意義の大きさは折り紙付きだと言えます。
しかし、《泉》という作品が登場した経緯を詳しく知ると、その作品としての実態が不確かなものだったことに驚きました。


《泉》は1917年にニューヨークの公募展にデュシャンが出品したものです。
結局は展示拒否という結果になったのですが、
それというのも、《泉》はデュシャンが買ってきた磁器性の男性用小便器に「R. MUTT 1917」というサインをしただけの作品だったのです。
有名な作品なのでご存知の方も多いでしょうが、便器をアートだと主張するのは、常識的な美意識からすれば反発を招く行為です。
この公募展はニューヨークの独立芸術家協会が主催していたのですが、
その理事であったデュシャンと仲間2人が、協会の主流派を非難する意図で仕掛けた作品だと言われています。
《泉》は架空の芸術家リチャード・マットの作品として出品されたのですが、最初から展示拒否をされる目論見で用意されたものだったのです。


このような事情を知ると、《泉》は単なる内輪揉めによるスキャンダル狙いの作品だったと考えることができます。
作品そのものに芸術的な意図がどれほどあったのかも疑問です。
仲間がいたわけですからデュシャンの単独犯でもありません。
それどころか、驚くことに《泉》はデュシャンの作品ではないという説もあるくらいです。
というのも、展示拒否となった《泉》は、作品が確固たるオブジェとして存在する機会を得ることもなく、
ただ事後的に写真が残っているだけの「幻の作品」だったのです。


それが後々に20世紀を代表する重要な作品と評価されて、今ではデュシャンは「現代アートの父」とされています。
この作品を分水嶺として、アートは新たなステージに入ったという評価は多くの本でなされています。
『マルセル・デュシャンとアメリカ』(2016年)で研究者の平芳幸浩は、
ネオ・ダダイズムやコンセプチュアル・アートなどの戦後アメリカ美術の中でデュシャンがどう受容されたかを丁寧に追っています。
戦後アメリカ美術の変遷において、デュシャンは何度も元祖のような存在として呼び出されています。
《泉》が20世紀に最も影響を与えた作品に輝いたのは、平芳が示した通り、その後のアメリカ美術との強い関わりによるものだと思います。


その平芳がキュレーションをした「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展が開催されたのは2004年でした。
僕は実際にこの展覧会に足を運んだことがあるのですが、
そのカタログで平芳は、デュシャンが1950年代後半に「発見」されたと記しています。
30代後半以降にほとんど作品を発表しなくなり、忘れられた存在となっていたデュシャンの評価はわりと最近になって確立されたのです。
それが工業化によって消費資本主義が浸透する時期と重なっているのは偶然ではないと思います。


自らの技量で作品を制作するのではなく、既製品を用いてオブジェに仕立てた作品のことを「レディメイド」とデュシャンは名付けました。
オーダーメイドと対比してこの言葉が用いられたようです。
デュシャンは《泉》以前の1913年にレディメイド作品を発表していました。
それ以前には絵画を描いていたのですが、デュシャンは目の快楽に貢献するだけの絵画を「網膜的」として退けました。
1913年に台所用スツールに自転車の車輪を取り付けて回転させるオブジェを制作しました。
制作とは言っても、既製品を組み合わせただけではあるので、広い意味でこれはレディメイドと解釈されています。
デュシャンは1915年に雪かき用のシャベルを購入して、《In Advance of the Broken Arm(腕が折れる前に)》と命名しました。
1950年代以降のネオ・ダダイズムやポップ・アート、ミニマル・アートやコンセプチュアル・アートの源流を振り返った時、
デュシャンのレディメイドにそれらの要素が存在していたため、これが現代アートの先駆的作品として評価されるようになったのです。


レディメイドの革新性

では、現代アートの「母体」である《泉》やレディメイドには、どのような革新性があったのでしょうか。
よく指摘されるのは、作品が美術家によって「制作」されることの意味が薄まったということです。
レディメイドは既製品を用いたオブジェですから、物体的な基盤は工業製品でしかありません。
美術家が自らの技術で制作する要素がほとんど捨てられてしまっているのです。
そのため、芸術は選択判断と命名行為であると見なされるようになりました。
よく引用されるティエリー・ド・デューヴの文章がわかりやすいので、僕も引用しておこうと思います。


レディメイドは、芸術を実践することと芸術を判断することとの区別を消去するものであるのだから。レディメイドを前にして、観者の方が作者に遅れをとるという点を除けば、作者は観者と異なった位置にあるわけではない。作者は全く出来合いの物体を選び、判断を下し、それを芸術と命名する。観者は再び判断し、再び命名する。誰でもがレディメイドを選択しうるのであって、そのためにはいかなる技術的手腕も、規則や慣例へのいかなる服従も必要とされない。(ティエリー・ド・デューヴ『芸術の名において』松浦寿夫・松岡新一郎訳)

この文章ではレディメイドが選択と命名によって成立することのほかに、作者と鑑賞者との位置が変わらないことが挙げられています。
まるでレディメイドが技術に関わらず誰でも芸術家になることを可能にしたかのようです。
このド・デューヴの文章を受けて、小崎哲哉も「アート作品はひと握りの天才がつくり出すものではなく、選択・判断・命名によって誰にでも生み出しうるというわけだ」(『現代アートとは何か』)と述べています。


しかし、僕が注目したいのは、ド・デューヴの文章にある「観者の方が作者に遅れをとるという点を除けば」という条件節の方です。
選択・判断・命名によって、誰にでもアートを生み出す「可能性」は開かれているように見えますが、
「先に行く」か「遅れをとる」かの違いが作者と単なる鑑賞者を決定的に分かつのです。
これは資本主義の利益競争の仕組みそのものではないでしょうか。
レディメイド以降の現代アートとはどこか資本主義における開発競争と似てはいないでしょうか。
星に命名できるのは最初に発見した人ですし、体操の新技には最初に成功した人の名前がつきます。
そこで決定的なものは本当に「選択・判断」なのでしょうか?
誰よりも「早く」それを生み出すことにあるのではないでしょうか。
「早さ」を求めるのであれば、熟練の技術を身につけるよりも既製品を用いる方が理にかなっていると言えるのです。
僕の読んだかぎりでは、現代アートの本にレディメイドを「早さ」との関係で考えたものはありませんでした。


画家の宇佐美圭司は著書『20世紀美術』(1994年)で、デュシャンをテクノロジーの進展に魅せられた芸術家としています。
有名なデュシャンの《彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも(通称:大ガラス)》に、
エンジンのメカニズムに刺激されたと思われる「エネルギー変換機構」が描かれている点に宇佐美は注目します。
宇佐美の考察が面白いのは、デュシャンには最新テクノロジーへの憧れとともに、原点へ還ろうとする「還元的情熱」が見られるとしているところです。


にもかかわらず今世紀初頭、テクノロジー爆発の時代は、同時にアートの世界で、還元的情熱が燃えあがった時代でもあったといえるのである。(中略)これは人間のイマジネーションの根幹にかかわる問題である。例をマルセル・デュシャンにとって考えてみよう。彼はテクノロジーの進展に敏感であり、しかも最も意識的に還元的情熱にとらわれたアーティストであった。晩年のインタヴューに「私のしたことは一にも還元、二にも還元だった」と答えたのは他ならぬデュシャンであった。(宇佐美圭司『20世紀美術』)

宇佐美はレディメイドに還元的情熱の終着点を見ています。
レディメイドのように表現をなくしてしまった作品は、還元し尽くされた沈黙の世界であり、
「人間の生と関わりあう場が予想され得ない」ものだと言うのです。
レディメイドというオブジェそのものに表現としての価値が乏しいのは宇佐美の言う通りだと思いますが、
そのようなものがどうしてアートとして通用しているのか、ということを考えなければ批判をしても意味がないと僕は思います。


念のため、デュシャン自身の語ったことも参考にしてみましょう。
彼が絵画を描くのをやめたのは、目が喜ぶだけの絵画を「網膜的」だと感じたことにありました。


網膜のスリルなんて! 以前は、絵画はもっと別の機能を持っていました。それは宗教的でも、哲学的でも、道徳的でもありえたのです。(マルセル・デュシャン、ピエール・カバンヌ『マルセル・デュシャンは語る』岩佐鉄男、小林康夫訳)

デュシャンの言うとおりのことを主張したのが美学者のアーサー・C・ダントーです。
ダントーはデュシャン以後のアートは哲学になったと言うのですが、これについてはのちに触れようと思います。


また、デュシャンは絵画が同じテーマの反復によって画家の趣味を生むと考えていて、反復するアイデアをアーティストの「マスターベーション」だとも語っています。
デュシャンにとって、レディメイドは美的な快楽に対する抵抗でした。
レディメイドの選択は、趣味の欠如した「視覚的無関心」によってなされるとデュシャンは語っています。


宇佐美はそのような趣味の欠如を「美しいものやおもしろいものは何もないというペシミズム」だとしていますが、
レディメイドがそこまで趣味の欠如を実現できているかは怪しいものです。
平芳幸浩はレディメイドの選択に趣味が影響していないと言い切れるかは難しいと疑義を呈しています。
特定のアーティストの「選択」であるかぎりは、何らかの趣味が読み取られてしまうはずだからです。
レディメイドは美的感覚の排除にはある程度成功したと言えると思いますが、
趣味の欠如した「視覚的無関心」を実現したと考えるのは難しいと思います。


僕はレディメイドの革新性を考えるとするなら、アートの価値が作品の物質性にないことを示したことにあると思っています。
オブジェという物体に価値が宿るわけではない、ということです。
デュシャンに最も影響を受けたのがコンセプチュアル・アートだと言われるのは、このような物質性からの離脱という面にあるように思います。
それは《泉》が実際は展示物としては存在せず、スティーグリッツによって撮られた写真としての存在でしかなかったことに象徴されていると言えるでしょう。


注意しておきたいのは、デュシャンのレディメイドやその影響下にあるコンセプチュアル・アートが、
高価なオブジェとしての美術作品を批判する意図を持っていたということです。
彼らはアート作品が高額な装飾品として取引されることに批判的でした。
しかし、デュシャンを祖とする現代アートはアートマーケットで高額取引をされ続けています。
つまり、彼らの批判は全くの空振りに終わったわけです。
象徴的なのは、デュシャンのレディメイドのうち、フランスで展示されたオリジナルと言うべきオブジェは紛失していて、
現存しているのはアメリカ移住後に作られたレプリカでしかないのに、そのレプリカが高額な値段で取引されているのです。
ポストモダン的なオリジナル批判は、資本主義にとって何のダメージにもならないのです。
オリジナルであろうがレプリカであろうが、物質性があろうがなかろうが、人の欲望を強く惹き寄せるものが高額商品になるだけのことなのです。
「情報」が市場交換のネットワーク内部で高い価値を持つ時代に、対象の物質性を批判することに意義があるわけがありません。


レディメイドから現代アートへ

平芳幸浩は『マルセル・デュシャンとは何か』(2018年)で、レディメイドの意義をタイプ別に考察しています。
平芳はアメリカの現代アート史をデュシャンとの関連で研究しているので、
ここで指摘されたタイプはその後の現代アートの展開に密接に関わっています。
レディメイドが現代アートにどのように影響したかを確認するのに適しているので載せてみようと思います。


①既成の価値を破壊する装置
 【ダダイズム型】
②発見されたオブジェあるいは「見立て」の装置
 【シュルレアリスム型】
③概念としてのアートを発生させる装置
 【コンセプチュアル・アート型】
④制度・文脈・枠組みを前景化させる装置
 【メタ・アート型】
⑤絵画を代替する装置
 【還元主義型】
⑥出来事を起動させる装置
 【リレーショナル・アート型】
⑦アートを機械的に生産するシステム
 【オートメーション型】
⑧アートを定義することの可能性を否定する様式
 【脱アートシステム型】


平芳はこのような分類をしています。
⑧だけは著書の最後の方になって紹介されています。
先ほど述べた、デュシャンがアートの価格決定システムもしくは流通システムからの離反を意図していたことを踏まえて書かれています。


端的に言って、これらレディメイドに発する現代アートのタイプは資本主義システムと強く結びついたものに思えます。
対象を別のものに置き換え(②⑤)たり、対象をメタな文脈に置いて(③④)みたり、外部の構造と関連づけて(④⑥)みたりして、
既存の価値から「脱コード化」していく(①⑧)、システマティックに自動化された(⑦)運動だと考えられるのです。
そこでは一旦成立した価値を相対化するための「乗り越えの身振り」が絶えず行われていきます。
そうしてすべてが「出来事」化していき、すべてがシステムの「運動」へと回収されてしまうのです。
その結果として残るものといえば、資本の自己増殖でしかありません。


平芳はデュシャンの遺作である《与えられたとせよ ⒈落ちる水 ⒉照明用ガス》を「秘匿と複製禁止」を示すものと考えています。
この遺作はデュシャンが20年をかけて制作したもので、
死の翌年(1968年)に彼の遺言によってフィラデルフィア美術館に寄贈されるまで、その存在は隠されたままでした。
そのように「秘匿」されていただけでなく、デュシャンは遺言の中でこの遺作内部の写真複製を15年間禁止していました。
「複製禁止」というデュシャンの要求によって、鑑賞者はこの作品を見るためにフィラデルフィア美術館に直接足を運ぶしかなくなったのです。


このデュシャンの遺作に対する態度には、美術館という制度への依存と複製禁止によるオリジナルの擁護が見られます。
これによってデュシャンがそれまでのデュシャン像をひっくり返したというのが平芳の見方です。


これら複製を許容する身振りと、芸術作品のオリジナル神話を否定したデュシャンの偉大なる態度は、最後の最後になって徹底的に否定され直すこととなるのだ。「芸術作品」のオリジナル神話への回帰。それは二十世紀の芸術の大きな足跡の一つであったレディメイド神話の崩壊を告げるものであり、デュシャンを祖としてマルチプルという芸術の新しいあり方を模索してきた芸術家たちの行為を否定するものであった。(平芳幸浩『マルセル・デュシャンとアメリカ』)

デュシャンという芸術家の同一性にこだわる人には衝撃の展開なのかもしれませんが、
デュシャンを祖とする現代アートが既存のコードの「書き換え」にあると考えれば、デュシャンが遺作において自らの過去を否定しようとしたことは特に意外ではありません。
むしろ、現代アートを体現した芸術家であるなら、自らにまつわる神話を破壊する作品を遺作として残すのは、
最後まで現代アートの道を突き進んだ結果とは言えないでしょうか。


このように、現代アートの欲望は「コードの書き換え」という資本主義的な欲望と手を結んでいます。
資本主義は「既存のものの乗り越え」によって資本の自己増殖を求めるわけですが、
現代アートを「乗り越えの身振り」を繰り返す「運動」として捉えた場合、その「運動」はいったい何をエネルギーとしているのかという問題が残ります。
果てしないメタ化の「運動」の先にあるものとは何なのでしょうか。
その問いに答える前に、今しばらく現代アートについての考察を別の視点から続けたいと思います。


アートをアートにする自己言及という制度

デュシャンの《泉》によってアートが命名されるものとなった、という意見は多くの文献で語られているのですが、
それはアートをアートとして人々に認知させる機能を担っているものが何であるかをデュシャンが明確にしたということがあります。
平芳のタイプ分類でいうと④にあたるものになりますが、単なる工業製品であるレディメイドをアートだと認定したときに、
「いったいアートとは何なのか」というアートそのものについての問いが問題にされてしまうということです。


つまりレディメイドは「アートとは何か」という問いに答えを与えるようなアート全体の内実について言及する性質を持っている。そして同時に、個々のレディメイドはそれ自体がアートに含まれるものでもあるので、アート全体への言及はレディメイド自身への言及にもなっている。それゆえ、アートでありメタ・アートであるということは、自己批判=自己言及的な作品であるということだ。(平芳幸浩『マルセル・デュシャンとは何か』)

この指摘はアートのみならず、どのジャンルの表現を考える上でも欠かせない重要なものだと思います。
この「自己批判=自己言及」を平芳はモダニズム的なものと捉えていますが、そうではありません。
これこそが消費資本主義的な「運動」の背景にあるものなのです。
冷静に見ればポストモダンでも同様の「自己批判=自己言及」が行われていることがわかるはずです。


我々が日常で「自己批判=自己言及」を最もよく目にする場面が広告であることは言うまでもありません。
そこでは「これからの自己」による「これまでの自己」の「乗り越えの身振り」がさんざんに繰り返されています。
性能アップや機能の付加、さらに美味しくなりました、など過去の自己を批判しつつ自己言及をする「モードの運動」がそこにはあります。
ここではいつでも「現在」が「過去」に勝利するようになっています。
(そうでないと資本は増殖しないからです)
「現代〇〇」とは、「現代」が勝利し続けることを約束された「デキレース」だと言ってもいいのかもしれません。
つまり、マルセル・デュシャンとは「現代」の勝利を前提とした視点から召喚された古くて新しい芸術家だったのです。


レディメイド以降、アートは命名作用になったという意見を何度も紹介してきましたが、
たとえば前回に紹介したコスースはアートは芸術家がこれはアートであると言うことでアートになる、という主張しています。
このアートはアートである、という宣言とは要するにトートロジーです。
しかし、本当にそんな宣言だけでアートとして認知されるなら、誰でもアーティストになることができてしまいます。
問題はこのトートロジーがただのトートロジーではないということです。


「AはAである」というトートロジー的な言明に対し、ヘーゲルは最初の「Aは」と次の「Aである」は同一性だけでなく実際には差異があると言っています。
これに時間的な差異を見出して「差延」としたのがデリダです。
つまり、後のAの中に最初のAが含まれているわけです。
最初のAは後のAに内在していると言っても同じです。
この時間的な差異を正確に表現すれば「AはA'である」となります。


僕はここに「G-W-G'」という資本の論理が入り込んでいると考えています。
マルクスは『資本論』で「G(貨幣)-W(商品)-G'(貨幣+剰余価値)」という交換によって資本が自己増殖することを示しました。
資本家は剰余価値による資本の増殖分(G')を想像的に先取りすることによって、商品交換へのインセンティブを獲得します。
これをトートロジーに当てはめると、「AはA'である」となるわけです。
経済成長を前提とした資本主義においては、時間的な差異は将来における資本増殖を意味するのですから、
トートロジーは単なるトートロジーにとどまらず、過去の「乗り越え」となるわけです。
これをOSやアプリのアップデート(2.0とか2.1とか)として考えてもいいと思います。


要するに、コスースが言うように「これはアートである」と言えばアートと見なされるトートロジーの状態にあるためには、
そもそもの「これ」がアートを指示していなければいけないことになります。
ここに現代アートが自己言及に陥る原因があります。


そもそも「これはアートである」と言うときに、対象となる「これ」が誰が見てもアートとしか認知できないものなら、命名の意義は無に等しくなります。
「これ」が本当にアートなの? という疑問を持たれるものであるからこそ、「これがアートである」という言明が命名行為と見なされるのです。
そう考えれば、デュシャンの《泉》が便器をアートだと宣言したことの意味がよくわかるのではないでしょうか。
現代アートとは、一見アートと認知しにくいものを「これはアートである」と命名して、
アートの範囲を果てしなく拡大する「自己増殖運動」なのです。
商品交換の外部にあるものを市場に取り入れて商品化し、果てしなく市場を拡大する資本主義の「自己拡大運動」と現代アートの「自己拡大運動」は同種のシステムで駆動しているのです。
菅原教夫は『やさしい美術』(1992年)でレディメイドが商品として成立することを指摘してこう述べています。


商品と美術。あるいは大量生産とモダニズム。このふたつはデュシャン以降の美術を語る際に重要な関係をなすものである。新しい製品を買うことは一般に楽しい。なぜなら新しいものはきれいで気持ちがいいし、未知の使用価値が珍しいから。同じことは美術についてもあてはまる。それは使用価値こそ持たないものの、徐々に交換価値を持ち出し、かつ珍しい。ここで二つに対する欲望に共通するのは物に対する愛、つまりフェティシズムである。(菅原教夫『やさしい美術』)

菅原は商品と美術の類似性に着目しているため、フェティシズムを問題にしていますが、
僕が考えたいのはアート作品が商品と同様の構造を持つシステムの中にあることについてです。
そこには自らのネットワーク体系に「外部」を取り込んで拡大しようとする欲望が見られます。
自己言及を繰り返していくことで、果てしなく自己の領域を拡大する欲望がそこにはあるのです。
このような「ネットワーク拡大の欲望」という領域的な欲望を時間的な前進運動へと転化するのが資本主義の特徴です。


領域拡大と外部志向

蛇足かもしれませんが、現代アートがいかに自らの「外部」を領域化しようとしてきたのか少しだけ触れておきましょう。
現代美術の評論家であるヴィクター・バーギンは『現代美術の迷路』(1994年)で、コンセプチュアル・アートが外への志向に根ざしていると書いています。


コンセプチュアル・アートを突き動かしているのは、広く誤解されているのとは違って、芸術をてるヽヽという欲求ではない。(中略)それはむしろ、制度とその実践を開放ヽヽしようとするものであり、美術館のドアと窓を周りの世界に向かって開け放とうとするものなのである。(ヴィクター・バーギン『現代美術の迷路』室井尚、酒井信雄訳)

バーギンはコンセプチュアリズムから政治的なものへの関心が現れてきたと述べるのですが、
芸術の外部への志向が行き過ぎると、政治的コンセプトが芸術性を置き去りにして、ポピュリズムを招き寄せることになったりするのです。


バーギンは世界大戦前のアメリカでは「高級」文化と「低級」文化の差異が消去されていったと書いています。
世界が戦時の総動員体制に向かう時期に、マスメディアによる芸術の大衆化が進んだのは偶然ではないと思います。
第二次世界大戦が総動員体制によって前線と銃後の区別を失い、戦禍の果てしない拡大をもたらした時期に、
アートもエリート芸術家の閉じられた世界から、領域拡大をはかり芸術総動員体制へと移行していったと考えるべきでしょう。


領域拡大は外部にあったものを内部に取り込むことで確認されるので、外部への志向と内部への視線が同時に成立する、もしくは重ねられることになります。
このような傾向はミニマル・アートに見られます。
菅原教夫はミニマル・アートは「作品の中に何もない代わり、それが置かれたスペースや環境とこれを見る人とのいわば外的な関係が問題」だと言います。
ドナルド・ジャッドの《untitled》という作品を例にして、オブジェとしての物体そのものではなく、
オブジェとそれを見る人の関係において、自らの知覚の構造を「体験」することに重点があるとしています。
逆に言えば、自らの内的な知覚を外部に投影して理解しようとすることでもあります。



港千尋が『インフラグラム』(2019年)の冒頭で紹介している三上晴子の1996年のアート作品《モレキュラー・インフォマティクス──視線のモロフォロジー》も、自分の知覚を体験する作品です。
この作品では体験者は椅子に腰掛け、ゴーグルをつけることになります。
そのゴーグルにはつけられた視線検出センサーによって、体験者の視線の動きが検知され、それが分子モデルの形状をしたイメージ映像として表示されます。
体験者は自分自身の無意識の眼差しを断続的な分子の形状で体験するのです。


このような自らの無意識を可視化しようとする態度は、シュールレアリスム的ではないか、と思う間もなく港はアンドレ・ブルトンの話を始めます。
その後にはデュシャンのテクノロジー志向について語られます。
港が視線と機械化の話を結びつけていくのは、インターネット社会において人間の注意や眼差しが「資源」となっていることを指摘したいからなのです。


港はケヴィン・ケリーの『インターネットの次に来るもの』(2016年)を参考にして、情報に向けられる注意「アテンション」が金銭を呼び込む希少な「資源」であると述べます。
これを踏まえてアテンション・エコノミーという言葉も登場します。
情報に視線を送る人間の数はそうそう変わらないので、情報が増えていくほどにそこへ向けられるアテンションの獲得競争は激しさを増すことになります。
僕は自分のブログのPVや訪問数などのデータを全く見ないのですが、この手の数値がアテンションの量を示すと言ってもいいでしょう。
(僕の場合はアテンションが金銭につながらないので関心がないのかもしれませんが)
おもしろいのは、港がアテンション・エコノミーの起源を消費資本主義の成立期だと考えていることです。


アテンション・エコノミーが生まれる条件は、社会の基盤がそれまでの製造業中心から金融やコミュニケーションサービスなどの、非物質的な商品中心に移行したことだが、よく言われるように、それが起きたのが一九七〇年代であった。(港千尋『インフラグラム』)

コンセプチュアル・アートの全盛期が1970年前後であることを考えると、消費資本主義という「非物質的な商品中心」の経済への発展が、現代アートと密接に関係していることがここでも確認できるわけです。
しかし、ここで立ち止まって思い出したいのは、デュシャンは網膜的な絵画に対して否定的であったためにレディメイドへと移行したということです。
アートを視覚から解放するためにコンセプチュアルなアートがあったのではないのか。
それと視線のアテンションを「資源」とするインターネット的な経済原理をどうして重ねて把握できるのか。
そんな疑問が生まれるのも当然かもしれません。
しかし、対象を物質性から離脱させて抽象化することと、眼差しの行き先が重要な意味を持つことには強い相関性があるのです。


資本主義システムと他者志向

その話をする前に資本主義システムについて少し語っておきます。
浅田彰は『構造と力』で近代のシステムを「全員が互いに追いつき追いこそうとする」競争過程として描きました。
手近な対象を追いかけ、それに追いつくとまた別の対象が現れ、それをまた追いかける、
このような競争過程が内面化されると、対象に追いついた時点の「未来の自己」を先取りするようになり、
「現時点の自己」が「未来の自己」を追いかけるようになります。
「結果、「主体」はいつまでたっても自分自身に追いつこうとして走り続けることになる」のです。
これを浅田は負債のメタファーによってこう表現しています。
「「主体」は自分自身に対して負った負債を埋めようとしてむなしく走り続けることになるのだ」
このような近代的な「主体」が巨大化した姿が、借金を未来に先送りし続ける現在の先進国の国家財政のあり方であるのは言うまでもありません。


我々は手近なブームや話題が起こるたびに、それを追いかけるように参加を促されます。
それに追いついた頃には、「次はコレ」とばかりに新たなものを追いかけさせられることになります。
すると、何度も追いついているはずなのに、ちっとも追いかけっこが終わらないという状況が起こります。
このようなシステムにおいては、追いかける先にあるメタレベルに追いついてオブジェクトレベルに引き起こした途端、メタレベルはさらに先へと跳躍している必要があります。
まるで逃げ水のようです。


しかし、負債を負った自己とは本当に「自己」なのでしょうか?
負債とはそもそも他者に属するものではないのでしょうか。
自分が負った負債の返済に奔走する姿は、もはや他者のために生きている姿でしかないのではないでしょうか。


社会学者の大澤真幸は「第三者の審級」という彼独自の概念を用いて、資本主義システムを「経験可能領域の普遍化」として描いています。
大澤は普遍化と言いますが、要するに領域をおしひろげていくことです。
外部を内に取り込んで我々が経験できる領域を拡張していくのが、資本主義における「神」の姿です。
余談ですが、伏瀬のヒット作『転生したらスライムだった件』の主人公であるスライム(リムル・テンペスト)は、外部を取り込んで自らのものにするという資本主義的な「神」を戯画化した存在です。
その意味で彼がどんどんと自己領域を拡大していくのは当然の展開と言えるのです。


「神」が無限の拡大運動であるならば、終わりはあってはならないことになります。
ある時期から人気連載漫画は人気を保ち続けるかぎり終わることが難しくなりました。
倒しても倒しても新たな敵が現れ、終わりなき戦いを繰り広げることになります。
資本主義的な近代システムは、領域拡大を特徴としているため、戦争=競争の領域を全般化(総動員)しただけでなく、戦争=競争を永続化することにも貢献しています。
このような絶えざる戦争=競争に傷ついた心性が「世界の終わり」を待望するのは必然です。
そうして、今度は「世界の終わり」が手を替え品を替え消費されるようになっていくのです。


1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件は、まさに経験領域を逸脱した「空中浮遊」などのメタへの接続に魅せられた若者が、
ハルマゲドンという「世界の終わり」を待望して引き起こしたテロとして把握されるべきでしょう。
ISISにも同様の心性が窺えるのですが、資本主義社会を破壊する行為は資本主義システムによって生み出されているのです。
その意味では資本主義の「外部」をめざすテロは、速度超過によって引き起こされる自動車事故のメタファーで考えることもできます。
2001年のニューヨーク同時多発テロが飛行機事故のかたちをとっていたのは象徴的です。
原子力発電所の事故に関しては言うまでもありません。
科学の進歩が事故の生産を意味することを、すでにポール・ヴィリリオが指摘しています。


ありとあらゆる経験と失敗、そして事故を二つの千年紀にわたって続けた後、第三千年紀は、グローバリゼーションとともに、成功ヽヽの失ヽヽ敗とヽヽいうヽヽ逆説ヽヽを打ち立てる。なにしろ、災禍を引き起こすのは〈進歩〉の成功にほかならないのだから。今や良心を欠き、傲慢なまでの勝利に酔って昔日の善行まで消し去ってしまう科学、その科学から、全面的な事故が生まれるのだ。(ポール・ヴィリリオ『アクシデント 事故と文明』小林正巳訳)

せっかくオウム真理教の話が出たので、オウム真理教の考察で有名になった大澤真幸の論をもう少し取り上げたいと思います。
大澤は『戦後の思想空間』(1998年)で、80年代の思想が「消費社会的シニシズム」を促進したと述べています。
とりわけ浅田彰と蓮實重彦の2人が消費社会的シニシズムを打ち破ろうとして、結果としてそれを広めることになったとしています。
さらにその親玉としてデリダの「脱構築」を挙げています。
デリダは先ほど僕が現代アートのトートロジーの話をするときにも登場しましたね。


大澤はシニシズムを古典的イデオロギーを一段前に進めたメタ的な視点にた立ったイデオロギーだとします。


シニシズムというのは自分自身の虚偽性を自覚した虚偽意識なのです。啓蒙された虚偽意識だと言ってもよい。それは、「嘘だとわかっているけれども、わざとそうしているんだよ」という態度をとるのです。(中略)別に真実だと思って信じているわけではない。嘘だとわかっているけれども、そうしているのです。(大澤真幸『戦後の思想空間』)

このような消費社会的シニシズムを大澤はのちに「アイロニカルな没入」という言葉で表すようになるのですが、
このあと大澤はシニシズムの例として商品の広告を持ち出します。
広告を「こんなの嘘だ」と思いつつ商品を購入してしまうのがシニカル理性だと説明します。


大澤はこのようなシニシズムの純粋形態が他者への絶対帰依だとして、オウム真理教に結びつけます。
自己の「乗り越え」とも言える自己の解脱を果たすには、自己の意志を捨てなくてはいけません。
そのためには他者の意志だけで動けばいい、と大澤は言います。
自己の行動をすべて他者に委ねてしまうことの極端な例が、麻原彰晃への絶対帰依になるわけです。


大澤はこのようなシニシズムがポストモダン的な相対化によって獲得されたものだと述べます。


相対化は、いわば自己を他者化することによって、自己の自己たるゆえんとなる自己の意志を他者に委ねてしまうことによって、果たされるわけです。(大澤真幸『戦後の思想空間』)

僕はここで読者の方々に〈フランス現代思想〉の理性や主体性の批判について想起してほしいと思っています。
國分功一郎は『中動態の世界』(2017年)で意志を解体することの意義を少しも疑っていないようでしたが、彼はオウム事件を真剣に考えたことがあるのでしょうか。
このようなシニシズムについてはフランスの方が日本より遅れていると僕は思います。
それはミシェル・ウエルベックの『服従』を参考にしてみれば想像できることです。


『服従』については僕の過去のレビューを参考にしていただきたいのですが、
内容を簡単に語ると、近未来のフランスにイスラム政権が誕生するという話です。
ウエルベックは主人公が最後にイスラム教に帰依するという皮肉を描くのですが、
このような絶対他者への帰依がヨーロッパ世界の終わりと結び付けられて描かれていることを見逃すことはできません。


注目すべきなのは、大澤がこのようなシニシズムを「消費社会的」と名づけていることです。
他者への帰依には資本主義の心理メカニズムが強く影響しているのです。
大澤が指摘したように、消費社会的シニシズムにおいては自分が信じてもいないことを実行してしまうわけですが、
このような事態が起こるのは、自分自身は「これは嘘だ」と感じたとしても、
そのとき、他の人々はそれが良いものだと信じるのではないか、と思うことに起因します。
他の人が信じるように思えるため、自分自身では疑念を感じていても、他の人の行動に合わせてしまうのです。
つまり、自分の感覚より他人の感覚をあてにしているからこそ起こる心性なのです。


大澤は消費社会的シニシズムの説明に株式市場を例として出していますが、
これが金融資本主義の原理であることを経済学者ジョン・メイナード・ケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)の中で用いた美人投票の例え話で確認しておく必要があります。
ケインズは投資家の行動パターンを美人コンテストの投票に置き換えて述べます。
100人の女性から最も美人だと思う6人を選ぶ新聞投票で、それが全体投票のトップ6に最も近かった人が商品を得られる場合、
投票者は自分が美しいと思う人ではなく、他の人たちも美人だと思う人を選ぶようになる、というものです。
このように株式市場では良い銘柄を選ぶよりも、他の人が買いたいと思うであろう値上がりの期待できる銘柄を選ぶようになるのです。


消費資本主義も同様です。
自分の好みで買うものを選ぶのではなく、売上ランキングに影響されて購入する人は少なくないでしょう。
取り立てて面白いと思わなくても、話題の本や書店が勧める本を買ってしまう人も多いと思います。
プロモーションだけで売れていると判断されるものも少なくありません。
そもそも、店舗では物理的に商品を並べるスペースが限られてしまいます。
そのスペースに置かれない商品は購入されることはありませんので、まずは陳列の座をめぐる争いがあるわけです。
それ以前に商品化の機会を得る争いもあります。
実際に消費者が商品を選考する以前に、美人投票のように売り手が投票結果を予測して何を陳列するかを決めているのです。


このような他人の意志に従うことが自己の利益に直結するのが金融資本主義であり、消費資本主義なのです。
ここには明確に他者志向が存在します。
大澤は浅田や蓮實が消費社会シニシズムを打ち破ろうとしていたとかばいますが、彼らに自著を売る気がなかったとは到底思えません。
自ら消費財を作っておいて消費社会批判を意図していたなど、僕にはお笑いとしか思えないのです。
彼らには消費社会批判ができるほどの思想の深さはなかったと思います。


〈痕跡化〉の無限ループ

ポストモダン的相対化や消費社会的シニシズムによる他者志向が、自己を果てしなくズラしてメタ化することとなり、
いつの間にか自分自身も信じていないことを言い出すようになります。
現代思想系の人が自分の主張している論と実際の行動が全然違ったりするのは、彼らが自分自身を生きていないメタ的な立ち位置(流行的立場)にいるからです。
彼らはズレることで「相対主義の思想家」の位置を確保できるのですから、最終的には現代アートと同じく、「なんでもあり」になっていくことになるのです。
しかし、その「立場」さえ外してしまえば、ただ一貫性のないことを偉そうに語っている社会的に未成熟な人物でしかないわけです。


さて、話をもとに戻します。
消費資本主義のシステムは経験的自己を「超越的自己=他者」の位置へとメタ化することを求めますが、
それが達成されたとたんに、さらなる他者が出現し、その「他者=超越的自己」をめざす競争に再び駆り立てられます。
競走馬みたいなもので、この運動が停止すると資本主義は死んでしまうのです。
ここで資本主義システムの根源的な欲望が理解できるようになります。
それは絶えざる運動の「持続」です。
流行りの言葉で言えばサステイナブルというやつです。


これを「持続」という視点から見るなら、「他者=超越的自己」であるような超越性の位置は、逃げ水のように永遠に追いつけないところにあります。
そうなると私たちの視界からは消えてしまうわけです。
その結果、資本主義の持続的運動は「他者=超越的自己」の絶えざる格下げとして認識されることになります。
勝者が生まれるたび転落した敗者が出ますし、勝者の歴史の裏側には敗者の歴史があるのです。
そのため超越性の交代は「かつて超越的だったものの転落」によって示すしかなくなるのです。
(このあたりの論は大澤真幸が同じようなことをどこかで書いていた気がするのですが、蔵書をあさっても見つけられませんでした)
僕は転落した「かつて超越的だったもの」を、かつて超越的だったことを示す「痕跡」として考えたいと思っています。
そう考えれば、資本主義システムは延々と超越性を〈痕跡化〉する運動だと解釈できるのです。


このことを考えるのに最適なのが、サミュエル・べケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』(1952年)です。
有名な作品なので説明は不要かもしれませんが、念のため説明をしておきます。
この戯曲は2幕で構成されています。
老浮浪者ヴラジーミルとエストラゴンの2人が面識のないゴドーという人物を待ち続けるのですが、
取り立てて何かが起こるわけでもなく、たわいもない会話を積み重ねるだけの話なので、不条理劇などと言われます。
第一幕の最後では使いの少年が現れて、ゴドーの伝言をヴラジーミルとエストラゴンに伝えます。
その内容は今晩は来られないが明日は来る、というものでした。
第二幕は次の日のはずなのですが、第一幕と同じ人物が登場するのに第一幕より明らかに衰退しています。
同じ展開がなぞられるため、反復が暗示されるのですが、何とも言えない疲労感も漂っています。
結局、次の日もゴドーが来ないとまた少年から知らされます。
そこでヴラジーミルとエストラゴンが自殺を図るも失敗して終幕になります。


この決して現れることのない待人ゴドーを神(GOD)と解釈するのが一般的です。
僕もこの解釈には逆らいません。
ただ、来る来ると言って来やしないゴドーは資本主義的な「神」だと言いたいのです。
ゴドーは自分自身の姿を見せることなく、少年というメディア(貨幣)を通してその存在を示すだけです。
超越性は直接的な領域には姿を現すことなく、伝言という「痕跡」によって間接的に暗示されます。


こう考えると、何かが「痕跡」となるということは、超越性を暗示することへとつながります。
つまり、いろいろなものを〈痕跡化〉することが、この世界に神がいることを証し立てることになるのです。
絶えざる〈痕跡化〉によって、この世に神の存在があることを確認し続けるのが、消費資本主義という神学システムだと言っても過言ではないでしょう。
消費行為によって購入された商品は、拡張を続ける資本主義システム全体を暫定的に暗示する「痕跡」となるのです。
あなたが他人の欲望に応じて買った商品の中には、運が良ければ、美人投票によって勝者となった超越性を色濃く反映する「痕跡」があるかもしれません。
ボードリヤールが消費には奇跡を待つ原始的な心性があると指摘するのはそのためです。


このような〈痕跡化〉はデリダの思想との関連で語られるべきだと僕は思います。
とりわけ僕が重視するのは『根源の彼方に グラマトロジーについて』(1967年)です。
大澤真幸が消費社会的シニシズムの親玉としてデリダをあげていたことが思い出されます。
(長々とした本を読むよりウィキペディアの説明を読む方が簡潔でわかりやすいですね)
ここでデリダはソシュール言語学を下敷にして音声中心主義批判を展開します。
デリダが克服をめざしているのは目の前に「存在する」という「現前性」です。
現在という時間を特権化する「現前性」を脱構築するために、デリダは時間的なズレである差延を導入したのです。
『声と現象』(1967年)を読めば、「自分が語るのを同時に自分で聞く」という音声の自己触発性を問題にしていることがわかります。
デリダは現前性を回避するために、文字は音声をコピーしたものという考えを批判し、「書かれたもの」つまりエクリチュールを音声より本質的なものとします。
このようなデリダの思想はハイデガーの「存在の呼び声」を〈痕跡化〉していくものだと考えることができます。


このようなデリダの仕事を安直に消費文化に接続したのが東浩紀です。
現前性と直接性の区別をしなければ、間接的なメディア(記号)を持ち上げるだけで十分です。
東はデリダの重視したエクリチュールをメディア上の記号へと置き換えて、メディア上の記号を「痕跡」としたオタクの実存を応援したのです。
(その意味で東はポストモダン思想家と言うより、オタク実存主義者と考えるべきだと思います)
デリダは音声へと遡行しないエクリチュールによる差異を本源化しましたが、
東はアニメキャラという記号を、オリジナルを持たないコピーとして哲学的な対象に格上げしようとしました。


『動物化するポストモダン』で東はアニメキャラのデザインを分解し、それを記号化して「萌え要素」としたのですが、
アニメに欠かすことのできない「声優」という要素を考察から外しました。
声優を考察せずにアニメを語るのは、ファンの視点からするとありえないことだと思うのですが、
これは東の思想的な都合によって実態を捩じ曲げたために起こった事態だと思い当たりました。
東が「萌え要素」から声優を外す必要があったのは、キャラ(記号)の背後に声優という音声要素を置いてしまうと、
肉声への遡行という現前性への回路が確保されてしまい、彼の思想がデリダ思想を踏まえていることにならなくなってしまうからです。
このような「抜け道」をごまかし続けたところに、東がデリダ思想よりもオタク消費文化の方に共感していたことが見てとれると思います。
今や初音ミクやキズナアイが現前性溢れるライブ活動をしているのですから、エクリチュールを消費文化の偶像に置き換える試みにはデリダ思想の跡形もありません。
この時点で、日本の現代思想はマイノリティのための「癒しビジネス」になってしまいました。
日本の〈フランス現代思想〉がいかに俗流であるかが、よくわかるというものです。


「痕跡」にまつわる二重性と現代アート

だいぶ話が現代アートから遠ざかった感じになってしまいましたが、
もともとの論点は、現代アートが視覚的対象である物質から逃れて概念的な方向へ進んだことと、
視線のアテンションを「資源」とする資本主義とがどうして重ねられるのかということにありました。
視覚から逃れつつ視覚に依存するようなあり方がどうして成立するのか、という課題です。
この話をするために読者の皆様に長い長い回り道をしていただいたのです。


資本主義という神学システムは、そのつどそのつど超越性の「痕跡」を示す〈痕跡化〉を無限に繰り返し、超越性そのものには絶対に到達しないように終局を先送りします。
このとき、「痕跡」が果たす記号的な役割は二つあります。
ひとつは「痕跡」としての現在の自己自身を示すことです。
もうひとつは超越性の「痕跡」として、彼方に遠ざかった超越性の存在を事後的に示すことです。
その意味で、「痕跡」において時間は二重化されています。


つまり、現前するものとしては空虚な「痕跡」でしかないものが、「痕跡」であるがゆえに超越性との関係を示すということです。
現前性と結びついた「痕跡」そのものは視線によるアテンションを集める必要があります。
なぜなら、その「痕跡」の向こうには超越性が暗示されているからです。
超越性との関連を持つものが、視線を集めないはずがないので、超越性を志向する「痕跡」は自然と人々の注意を惹こうと勤しむことになります。
(このあたりの心理メカニズムはカルヴァンの予定説と似ています)
そして、その向こうにある超越性そのものは、「痕跡」の本質が過去の時間に属するため、視覚的に現前するものとしては把握できません。


こうして「痕跡」は、それが超越性の「痕跡」であることを証明するために、
人々の視線を多く集めると同時に、その「痕跡」が示す対象を視覚的領域から逃れる方向へとズラしていくのです。
このような〈痕跡化〉のメカニズムに大いに依存しているのが現代アートなのです。
現代アートは作品そのものを〈痕跡化〉しているのです。
デュシャンの《泉》が現代アートの象徴として語られるのは、それこそが完璧に「痕跡」としてしか存在していないからです。
オブジェとして価値を持たない便器であることに加えて、オブジェそのものとしても存在せず、ただ写真という「痕跡」として残っているだけ。
それでも《泉》は芸術的価値を少しも損なわないのです。
これは空無な「痕跡」であることが逆に価値となるというメカニズムなくして説明がつきません。
その後の現代アートも多かれ少なかれ〈痕跡化〉によって超越性を暗示し続けることで、法外な価値を担わされています。


〈痕跡化〉による超越性の指示は、それが過去の自分自身に対する乗り越えとして示されなくてはならないため、
どうしても自己言及から逃れられなくなります。
現代アート作品は、作品そのものがいかに無価値であるかを示すと同時に、それが「アートとは何か」という超越的な問いを発しながら、アート領域の拡張を達成していることをも示さなくては成功とは言えません。
こうして現代アートは消費資本主義システムが生み出した神学システム(西洋思想システム)を強化する役割を担っているのです。


書き始めたら予定していた内容とだいぶ違う方向に来てしまいました。
予定していたボードリヤールには全く触れることができなかったので、ダントーの論とともに次回の【その3】で書きたいと思っています。


8 Comment

南海さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
南海さん、パワフルなコメントありがとうございます。

実は僕は使用価値と交換価値に基づいてアートの話をするのにはためらいがあって避けていたのですが、
南海さんが果敢に挑んでいるので僕も少しだけ考えます。

アートはハイデガー的な道具性(日常的な使用価値)の用具的連関(ネットワーク)から逸脱していることでアートと見做されます。
その意味でアートに市場価値があるとすれば、純粋な交換価値であり、それはシニフィエなきシニフィアンに近似すると思われます。
使用価値を持たない交換価値は、リミッターのない価値創造となるため、破格の価値がついてしまう、というのが僕の理解です。
その意味で南海さんが現代アートが使用価値を否定しているとするのはその通りだと思います。

また知的に触発されるコメントをお待ちしています。

無題

南井様
現代アートには疎いので思い付きですが、ちょこっと触れられている資本論の価値形態論の部分から少し展開してみたいと思います。
確かマルクスはこんなことを書いていました(例示は適当)。1エレのリンネル=1着の上着という等式では、リンネルは上着によってみずからの交換価値を現わしている。これに対し、1エレのリンネル=1エレのリンネルという等式はむしろ、リンネルの使用価値を現わしている。南井様の議論で言えば使用価値は物質性と言い換えられるでしょうし、超越性といっても大過ないと思われます。芸術作品の使用価値≒物質性≒超越性。ゴッホのひまわり=ゴッホのひまわりです。ゴッホのひまわり=10億円とかいうのは資本のメカニズムによって生み出される交換価値に過ぎません。実際には10憶円でゴッホのひまわりが出来るわけではないし、それを鑑賞する私たちの時間が購えるわけでもありません。芸術作品の使用価値≒物質性≒超越性は、交換価値への置き換えが不可能なものであるはずです。
だとすれば現代アートというのは芸術作品の使用価値≒物質性≒超越性の否定の上に成立っているものと言えるのではないでしょうか。鑑賞している暇があったらオークションにでも出品しろ、という訳です。そのような現代アートは確かに資本主義に対する批評性を持ち得るものではあると思います(実際のアーティストの意図は知りません)。例えば現代アートは「これ(例えば便器)はアートである」という常套手段によって、便器=アート=10億円とかいう無茶苦茶な等式を生みだすわけですが、考えてみれば資本主義下での交換価値というのはすべて無茶苦茶なものです。例えば便器=1万円=1着の上着という等式は資本主義のなかで生きる人間にとっては当然のことですが(便器職人が便器を1万円で売って上着を買ったわけですね)、使用価値を考えれば、便器=便器と上着=上着を等号で結ぶ何の共通の要素も存在しない。こういう奇妙さを浮かび上がらせる点において、便器=アート=10億円という等式が、便器=1万円=1着の上着という資本主義の通常の等式に対する批評性を持つことになる訳です。まあ居直ってしまえばただのボロい商売と変わりませんけどね。
私がちょっと不快に思うのは、無限にあり得る等式のなかで「便器=アート」こそが批評的な等式になり得るという無邪気な考えです。便器は私たちの生活に不可欠なものですし、工業製品の便器にだってデザイナーがついているはずです。お前らのアートに値段がついてるのが不思議なだけで、便器に値段がついてるのは全然不思議じゃないぞ、という気がしますね。

クロさんへの返答

あまり精神状態が良くない時は無理をしない方がいいですね。
僕の書いたものは黄昏を超えて死者の国に存在しているようなものなので、急いで読むこともないですよ。

無題

読み取れないのは、南井さんではなく、私にあると思います…。

最近、何も受け付けなくなっていまして…。文化的な生活とはかけ離れています。
音楽も邦楽を聴くとザワザワして離れて…洋楽も、何も聴けません。
本を読むとざわめくんです。映像媒体は、何分も集中が持ちません。
精神的に情報を処理することに耐えられなくなっている気がします。

なんででしょうね…南井さんの論考をいつも楽しみにしていたのですが…(もちろんいつもちゃんと読めていたとは言えませんが)とうとう読めなくなってしまいました。

20余年生きてきて、なんだか人生の黄昏を感じています(気持ちとしてはもう70年は生きたような気持ちです)。

長々と失礼しました。

クロさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
クロさん、コメントありがとうございます。

今回の記事は内容と僕の文章スタイルが噛み合っているか心配な面があります。
ネット型の情報伝達向きの文章で、飛躍のある批評的な内容がどう伝わるかは難しいところです。
ただ、同じような内容をこの先も繰り返して主張しますので、気長にお付き合いいただければ、と思います。

僕のTwitterはあまり読むことをオススメしません(笑)

『動物化するポストモダン』についてはまさにクロさんのご指摘通りで、僕も回収できたと思いました。
誤訳については原書で読めない僕が悪いので、あまり気にしたことがありません。

無題

今回の論考は思考が追いつかなかったです…。
じっくり読み直したいと思います。

ただ、千葉の考えるアート観とは異なるという点はにじみ出ていたと思います。

動物化するポストモダンのくだり、千葉の勉強の哲学のレビューで書かれていたところですよね。ここでやっと回収された…という感じでしょうか。

Twitter始めて見ました。
南井さんをフォローはまだしていませんが…ツイートを読ませていただいています。
野崎歓は、星の王子さまもスタンダールも誤訳していたらしいのですが、大丈夫でしょうかね…。

雨蛙さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
雨蛙さん、コメントありがとうございます。

なるほど、ミニマルミュージックときましたか。
たしかにミニマルミュージックにも還元主義とテクノロジーが重ねられているように思います。
わかりやすいので現代アートを題材にしていますが、資本主義の欲望によって引き起こされたものは、どのジャンルにも影響していると思います。

俳句界にも俳句外部のものを俳句に取り入れて、自ら「これも俳句だ」と命名するマズい傾向が見られますね。
こういう作風の人が現代アートや現代思想で自分の行為を権威づけようとしても、
動機は単に資本主義の欲望に貢献しているだけでしかないということです。
だから彼らにはサブカルオタク程度のメンタリティしか見つけられないのです。

ミニマルミュージック

 昔、小沼純一氏の『ミニマルミュージックその展開と思考』という本を持っていました。「差異」「差延」「千のプラトー」「構造と力」という用語を使っていましたが、哲学思想に疎い私はよく分かりませんでした。90年代のミニマルテクノの愛好家達は自らを権威付けるため、ミニマルミュージックのオリジーネーターを云々する傾向がありました。90年代の流行です。その流れに私もありました。しかし後になって冷静に考えてみると、ミニマルテクノはコンピュータ作曲の操作の単純化から生まれた物で、リズムパターンのカットアンドペーストで出来るので、音楽理論の達人だったオリジネーターとは全く違います。結局、愛好家達は権威を身に付けたかっただけでしたね。今になって分かりました。ミニマルミュージックとミニマルアートの関係性は希薄だと思いました。ミニマルアートの文献を少し読みましたが、ピンと来ませんでした。ミニマルミュージックは前衛音楽と民族音楽の影響から生まれました。これは確かです。
 デュシャンの名前も芸術家によく利用されますね。
 俳人も権威が欲しいんですね。多くの俳人が権威追従タイプですから、権威があればおいしい思いが出来るんですね。
 長文失礼致しました。

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