南井三鷹の文藝✖︎上等

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『力と交換様式』(岩波書店)柄谷 行人 著

生産から交換へ

去る12月8日に柄谷行人がアメリカのバーグルエン賞に選ばれました。
僕は柄谷から多くを学んできたので、彼の実績が国際的に認められたことを非常に喜ばしく思っています。
その柄谷が集大成的に追求しているのが「交換様式」論です。
それを改めてまとめた『力と交換様式』(2022年)を今回は取り上げます。


「交換様式」とは何なのか、と思う人もいるかもしれませんが、広く社会的に行われている交換を、タイプ別に把握したものです。
それまでのマルクス主義理論では、経済的土台となる生産様式が社会を構成するという発想でしたが、
柄谷は生産様式が土台であることを認めつつ、問題意識を生産様式から交換様式へと移すことを提案しています。
「生産様式から交換様式への移行」が近年の柄谷のテーマなのです。



『透明社会』(花伝社)ビョンチョル・ハン 著/守 博紀 訳【後編】

居心地を追求した静止=生死なきオタク社会

サブカル文学の批判に共感する人は少ないでしょうから、話を『透明社会』に戻しますが、
ハンはプンクトゥムを「静止の場所」として捉えています。
ハンがポルノとして示すイメージとは、広告のことだと考えるとわかりやすいと思います。
テレビでもネットでも広告というものは流れ去るものでしかありません。
わざわざ静止して熟考するものではありませんし、熟考させる間もなく消費の欲望を喚起し、購入へとつなげるのが目的です。


こんにち生じている視覚的なもののポルノグラフィ化は脱文化化として進行する。ポルノグラフィックで脱文化化されたイメージは、読解すべきものをなにも与えない。それは広告イメージのように、媒介されることなく接触して伝染するように作用する。
(ビョンチョル・ハン『透明社会』守博紀訳)

ただメディア上で展示されるだけのイメージは、読解されることを求めません。
意味などという遅いものに媒介されることなく、ただ素早く接触し伝染することが至上命題です。
そこに「静止の場所」であるプンクトゥムが入り込む余地はありません。
(ハンは広告イメージにはストゥディウムも存在しないと書いています)



『透明社会』(花伝社)ビョンチョル・ハン 著/守 博紀 訳【前編】

透明性を要求する社会

前回に続きドイツ現代思想のビョンチョル・ハンを読んでいきます。
ハンの『疲労社会』(2010年)のテーマは、「同質なものが多すぎる」こと、つまり「肯定性の過剰」でした。
『透明社会』(2012年)でも同じく「肯定性の過剰」を問題にしているので、『疲労社会』の続編と考えて良いでしょう。


21世紀の社会では、グローバル産業社会の要請によって異質性や他者性が減退しています。
市場取引の拡大には商売における同一基準が必要になるので、異質性が差異へと切り下げられた同質的な社会が求められます。
社会が同質性を前提とするようになると、否定的要素を消し去るメカニズムが発達して、肯定性ばかりがあふれるようになりました。
それが「肯定性の過剰」です。
肯定性があふれると同質なものが多すぎる状態となり、他との差異を明らかにするために自分の能力を自発的に示すことが必要になります。
誰もが「できる」という肯定性を示すプレッシャーに苦しめられるのです。
つまり、現代社会において問題とすべきなのは、もはや否定性や他者性ではなく、肯定性による精神的な暴力プレッシャーだということです。



『疲労社会』(花伝社)ビョンチョル・ハン 著/横山 陸 訳

ポストモダンとは同質性の過剰

昨年、ビョンチョル・ハンの著作の翻訳が、花伝社から2冊同時に出版されました。
『疲労社会』(2010年)と『透明社会』(2012年)の2冊は、どちらも今から10年も前の本ですが、
短くて読みやすいので、ドイツの現代思想の一端を知るのにいい本です。
ビョンチョル・ハンは韓国からドイツに渡り、現象学研究で教授資格を獲得した人で、哲学やメディア論が専門です。
ベルリン芸術大学の教授だったので、ヨーロッパのアート界で高い評価を受けているのですが、
彼の著書は多彩で、現代社会論以外にもハイデガー論や東洋思想の本も書いています。
『禅仏教の哲学』(2002年)では、禅の理解のために俳句を取り上げているようです。



『人新世の「資本論」』(集英社新書)斎藤 幸平 著

新書大賞という「売り文句」

斎藤幸平の論考やインタビュー本を、僕はだいぶ前から何度か取り上げています。
彼は大昔に僕のAmazonレビューについて千葉雅也とTwitterでやりとりしているので、僕のことも記憶の隅には残っていると思います。
そんな昔馴染みの斎藤の著書『人新世の「資本論」』(2020年)が、今年の新書大賞の第1位に選ばれたというニュースを知って、
発売当初に購入したまま放っておいた本書を読むことにしました。
なぜ今まで読んでいなかったのかというと、僕はすでに斎藤の書いた専門論考をいくつも読んでいるので、だいたい内容が想像できるからです。



『現代思想の基礎理論』(講談社学術文庫) 今村 仁司 著

80年代にねじ曲げられた現代思想

ポストモダンという価値観が日本では〈フランス現代思想〉との関連で語られてきました。しかし、ポストモダンがマルクス主義とどう関係してきたのかを理解している人は少ないように思います。
マルクス主義はスターリン批判(1956年)フランスの五月革命(1968年)を境に、大きな転換を迫られることになったのですが、
日本で現代思想の代名詞となった〈フランス現代思想〉がその影響下にあることは、僕の世代になるとあまり考慮されていなかったように思います。
フランスの知識人は伝統的に左派だというのが常識なのですが、
フレンチ・セオリーがアメリカでウケたこともあって、そのあたりの事情がぼやかされてしまっているように思います。


本場の〈フランス現代思想〉は左派的な性質を持っているのですが、
日本のとりわけニューアカ以降の現代思想ブームは、ソビエト社会主義体制の落ち目の時期と重なったため、
マルクスの影響を隠蔽するようなかたちで、アメリカ消費文化の牽引役を果たしてきました。
これが本来の〈フランス現代思想〉とは似ても似つかないものであるため、僕は〈俗流フランス現代思想〉と呼んでいます。
そのため日本では、フランス思想といってもマルクスの『資本論』の読み直しを行ったアルチュセールにこだわっている市田良彦のような存在はマイナーで、
学問的内実に乏しい学者なのか文筆家なのかよくわからない人が、
青土社や河出書房新社などの出版ジャーナリズムと癒着関係にあって幅をきかせてきました。
(こういう人に限って、マルクスはもちろんアルチュセールにもスピノザにも触れずにドゥルーズを語っていたりするのです)
その結果、日本の無知な出版ジャーナリズムしか知らない人が、「リゾーム」とか「差延」とかいうキーワードを振り回して現代思想を理解した気分になっています。
現代思想の政治的な面を意図的に脱色(去勢)してきたのが、日本のオタク向け現代思想というものなのです。


そのような〈フランス現代思想〉の日本的「ねじ曲げ」が行われる以前に、
マルクス経済学とアルチュセール思想に詳しい今村仁司が、マルクス主義の文脈をからめて現代思想を紹介していた本を見つけました。
『現代思想の基礎理論』(1992年)という本です。
残念ながら今は絶版になっています。
本書を読むと、僕がAmazonレビューに書いて散々文句を言われた内容が普通に書かれていました。
この本がもっと読まれていれば、僕が不当な攻撃を受けることもなかったように思います。


たとえば、僕が〈フランス現代思想〉が出版界の中心にある、と書いたことを取り上げて、
佐野波布一(僕の旧筆名)を当てにならないレビュアーだと中傷記事を書いた人がいましたが、
残念ながらその程度のことは本書にしっかり書かれています。
「現在の日本の文化ジャーナリズムを眺めてみますと、ヨーロッパのある地域で話題になっている一部の思想が乱舞しているようです」
今村が言う「ヨーロッパのある地域」とはもちろんフランスのことです。
今村は〈フランス現代思想〉を「流行」と捉えています。
〈フランス現代思想〉は現代思想の代表ではなく、日本の「流行」でしかないという視点が1987年の時点には存在していたのです。
今村は続く部分でこうも書いています。


日本で好んで話題にされている当世風の思想は、この広い地球上の一画で生れたもの、つまりフランスの思想です。構造主義、ポスト構造主義、ディコンストラクション、ポストモダン、等々はおおむねフランス産であり、そのうちのあるものはフランスからアメリカに輸出され、アメリカ化したフランス物が日本に輸入されて、文化産業によってニューモデルの文化商品として流行しているといってよいでしょう。

これを今村は「病的な現象」であり、「知識人たちは、フランス物ばかり流行する日本の文化状況に対してしきりに反撥しています」と述べています。
これを読めば、僕の言っていたことなど一昔前の知識人の普通の意見だったことが想像できるのですが、
ニューアカ以降の「文化商品」でしか思想を知らない僕周辺の世代は、
出版ジャーナリズムを正義と短絡する消費市場崇拝に染まっています。
本書を読むと、アカデミシャンが出版ジャーナリズムと距離を保っていた時代にノスタルジーを感じずにはいられません。



『柄谷行人浅田彰全対話』(講談社文芸文庫)柄谷 行人 浅田 彰 著

対談という日本的な文化

本書は1985年から1998年にかけて行われた、柄谷行人と浅田彰の対話を6回分収録しています。
対談というのは良くも悪くも日本的な文化だと思います。
日本のジャーナリズムでは大人気企画で、2人だと「対談」、複数だと「座談会」と呼ばれたりするのですが、
座談会は菊池寛が「文藝春秋」誌上で初めて企画したと言われています。
これらはあまり欧米では行われていないもののようです。
欧米ではインタビューの形で話し手と聞き手をある程度しっかり分けて、
話し手の考えを読者にわかるように伝える、というジャーナリスティックな目的で行われているように思います。
しかし、対談や座談会では共通の「場」に複数の人が参入し、ある話題について意見を交換するというかたちで進みます。



『未来への大分岐』(集英社新書)マルクス・ガブリエル マイケル・ハート ポール・メイソン 斎藤 幸平 著

政治的な左派思想の復活へ

マルクス・エンゲルス全集(MEGA)の編集委員である斎藤幸平が、
マイケル・ハート、マルクス・ガブリエル、ポール・メイソンの3人と資本主義の行末について対談した本です。
斎藤はマルクスの物質代謝について研究しているのですが、
雑誌「現代思想」でマルクス・ガブリエルを早い段階で紹介したり、彼の著書の翻訳に携わっていたりするので、
國分功一郎や千葉雅也よりもガブリエルの対談相手としてふさわしい研究者だと言えるでしょう。


斎藤は消費資本主義に依存した〈フランス現代思想〉のオタク的な人たちとは違って、
マルクスについて語れるのはもちろん、経済思想が専門ということで政治経済についての幅広い教養を持っています。
その意味で左派的なスタンスをしっかりと持った思想系の学者と言えます。
ただの聞き手だと侮っていると、斎藤の思わぬ反論に驚かされることになるでしょう。


個人的な話ですが、少し書いておきたいことがあります。
僕は以前、ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』のAmazonレビューで、
ガブリエルが〈フランス現代思想〉などのポストモダン思想(ポスト構造主義)を批判していることを指摘しました。
当時にそのような意見は他に誰も書いていなかったと記憶しています。
それが正しかったことはもう本書をはじめ後発の翻訳でも明白になっています。
しかし、当時の出版マスコミはガブリエルを〈フランス現代思想〉の延長であるかのように捉える愚かな思い込み(もしくは意図的な操作)をして、
前述のドゥルーズ学者などにガブリエルの著書の帯に推薦文を書かせたり、彼の紹介記事や対談相手を依頼したりしていました。
日本の大手出版社の編集者がいかに勉強をせずに、業界内の「利権」ばかりを優先しているかがよくわかる事例ですので、
読者の皆様には日本の編集者のレベルを判断する材料にしていただきたいと思います。
今回、集英社の編集者が講談社や朝日新聞よりも「普通」に仕事をしていてホッとしました。


目玉である対談相手について僕の知っていることを書きましょう。
マイケル・ハートは『〈帝国〉』(2000年:邦訳2003年)や『マルチチュード』(2004年)などアントニオ・ネグリと共著で名を馳せました。
圧倒的にネグリの知名度が高く、ハートはおまけ(失礼)のような扱われ方でしたので、
今回の単独での登場は珍しくハートが脚光を浴びる機会になったように思います。
ただ、ネグリ=ハートの『〈帝国〉』が日本で話題になったのは、ブッシュ大統領がイラク戦争でアメリカの単独行動主義を露わにした時期で、彼らの描いたグローバル秩序がもう終わりに向かう時でしたし、
二人ともドゥルーズ思想との関わりが深く、その意味では遅れて来たポストモダンの人というのが僕のイメージです。


マルクス・ガブリエルは史上最年少でボン大学教授となり、思弁的実在論が話題になった流れで彼の「新実在論」も注目されるようになりました。
彼の著書『なぜ世界は存在しないのか』は平易な語り口で、ドイツだけでなく日本でもベストセラーになりました。
日本の〈フランス現代思想〉系の出版利権を貪る学者たちが目の色を変えて、彼の本をたいして読みもせずに批判していたのは醜いとしか言いようがありませんでしたね。


ポール・メイソンはイギリスの経済ジャーナリストです。
著書の『ポストキャピタリズム』(2015年)が情報テクノロジーによる資本主義の崩壊を描いたことで話題になりました。
僕は本書を読むまで彼についてはそれほど知りませんでした。


本来の集英社新書のカバーの上に、販促用のカラー表紙がついていたのが目について手に取りました。
そのカバーがB級映画のポスターみたいで思わず苦笑してしまいます。
タイトルの横に「資本主義の終わりか、人間の終焉か?」とのアオリ文句が踊っています。
加えて裏表紙に対談相手の説明があるのですが、そこに付けられたキャッチフレーズがまたサブカル色にあふれています。
内容と関係ないのですが、笑えるのでちょっと紹介しましょう。
マルクス・ガブリエルは「哲学界のロックスター」、マイケル・ハートは「革命の政治哲学者」、ポール・メイソンは「鬼才の経済ジャーナリスト」という具合です。
このカバーデザインが資本主義の終わりを考察する本であるのは、いかにも日本らしいと感じてしまいます。



『資本主義リアリズム』(堀之内出版) +『わが人生の幽霊たち』(ele-king books)マーク・フィッシャー 著/セバスチャン・ブロイ 河南 瑠莉 訳/五井 健太郎 訳

ニック・ランドと近い存在?

2018年2月に出版された本書『資本主義リアリズム』(原書は2009年刊)が、フィッシャーの著作を初めて日本語に翻訳した本だと思います。
僕が彼のことを知ったのも、書店でこの本を見つけたときになるわけですが、
驚いたことに、それより前の2017年1月にフィッシャーはすでに自殺していたのです。
2019年に『わが人生の幽霊たち──うつ病、憑在論、失われた未来』(原書は2014年刊)が続いて出版され、
彼の音楽ブログ「k–punk」を中心とした内容に触れることができるようになったのですが、
すでに著者が死んでしまっていることで、皮肉にも日本の読者にとってフィッシャーはまさに「憑在論」的な現れ方をしているように思います。
(憑在論についてはあとで触れます)



『世界史の実験』(岩波新書) 柄谷 行人 著

柳田国男の可能性の中心

本書は柄谷行人の3年ぶりの本です。
語り下ろしなので、柄谷特有の文体よりはだいぶ読みやすくなっているように思います。
題名こそ「世界史」となっていますが、本書の内容は明らかに柳田国男論だと言えます。
柄谷は2013年に『柳田国男論』(インスクリプト)、2014年に『遊動論──柳田国男と山人』(文春新書)を出版していますので、
本書はその延長に位置づけられるものと考えてよいでしょう。


実は僕は本書の前に出ている柄谷の柳田論には興味がそそられなかったので、全く読んでいないのですが、
ちょっと調べた感じでは、『世界史の実験』の第2部にあたる山人についての考察は、すでに前著で語られている内容とそれほど変わりがないように見えます。


柄谷が強い関心を抱いているのが「山人」という存在です。
柳田国男は『遠野物語』や『山の人生』で山人について語っています。
しかし、山人が実在したことを実証することができなかったため、柳田は平地農民である「常民」ばかりを語るようになりました。
その結果、柳田は日本人の文化的多様性を無視したと批判されているのですが、柄谷は柳田が山人の存在を生涯追い続けたと反論します。
柄谷が言うように柳田が山人の存在にこだわっていたのか、それとも放棄したのかについては、僕には判断がつかないのですが、
その真偽は問わないことにして、なぜ柄谷が柳田の山人にこだわっているのか、そして柳田論でしかないものをどうして「世界史」などと言うのか考えてみたいと思います。