南井三鷹の文藝✖︎上等

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抵抗✖︎上等

南井三鷹は日本的な悪しき精神構造に抵抗します

僕の批評には日本人が無意識に維持している悪しき精神構造を明るみに出し、批判する意図があります。
それをわかりやすくまとめれば、「同質的でない相手との対面的でフェアな関係からの逃避」ということになります。
日本ではフェアな関係を保障する相手は同質性を持つ相手に限られていて、同質的でない相手に対してはそれなりの社会的地位がある人でもフェアでない態度をとることが許容されています。
これが日本で同質的な「場」を正義の前提とする内輪主義を横行させる原因となっています。


日本社会の本音を抑圧する体制は、「他者に対する非対面的で一方的な権力体制」によって生み出されたものです。
つまり、日本社会は無意識下で「場」を握っている者(=権力者)の一方的な暴力を原理として認めてきたということです。
内輪という「場」に支えられた日本の権力者は真の「実力」に裏打ちされた存在ではありません。
そのため、領域横断的な実力者とまともに「対面」すると、自らの「メッキ」が剥がれてしまいます。
非実力者である権力者が自らの権力を維持する方法があるとしたら、
実力ある「他者」である反対者とは「対面」を避けつづけ、「フェア」さのカケラもない隠蔽行為を行って情報を「一方的」に握りつづけ、批判者や反対者を「暴力的」に排除することになるはずです。
(天皇という象徴をトップに置く「天皇制」とは、非実力者を頂点に置く利権構造による支配体制のことだと僕は考えます)


このような権力者のあり方に抵抗するはずの日本の弱者は、あろうことか権力者の精神を「模倣」することにつとめてきました。
僕は「近代文学」がこのような「対面的でフェアな関係からの逃避」をつづけてきたことを明らかにしようと思っています。
その延長にある「現代的」な現象がポストモダン文化というものです。
ポストモダンという現象は「まやかしの豊かさ」であったバブル経済の多幸感を背景に、
権力との「対面」「対決」を避けて、対象と対等の位置に立たず、反経験主義をベースに自らを「メタ化」する精神を育みました。
具体的には〈フランス現代思想〉と「サブカル的オタク」の精神として、30年以上にわたってポストモダン現象は論壇などで肯定的に語られました。
他者を重視するはずの〈フランス現代思想〉が日本で内輪主義にとどまってしまうのは、その内実に日本の権力構造に対する批判が全く存在せず、その構造を弱者が「気分的に」模倣しただけだったからです。
このような「弱者による強者気分の模倣」という現実逃避は、近年になってネット民が権力と同一化したがる傾向(いわゆるネトウヨ)に顕著ですが、
もともとが伝統的な精神構造であるだけに、もっと危機は全般化していると僕は捉えています。


このような日本の悪しき精神構造を僕一人で批判することに効果があるとはこれっぽっちも信じていませんが、
ポストモダン現象にどっぷり身を置いているくせに、権力批判をしているような顔をしている利権主義者たちを「いい気分」にしないことくらいは僕にもできるかもしれません。
それが僕の抵抗戦ですし、僕が「現代日本」に全的にコミットしていないことを証明する手段だと思っています。