南井三鷹の文藝✖︎上等

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柄谷行人のポストモダン批判【その1】

利権を超えられなかった柄谷のポストモダン批判

僕はAmazonレビューで〈フランス現代思想〉を俗流化した日本のポストモダン受容を批判してきました。
それに対し、千葉雅也や石田英敬、清水高志などの〈フランス現代思想〉系の学者などからツイッターで悪口を言われたのですが、
最近柄谷行人の著書を読み直してみたところ、僕が批判したような内容はすでに90年代に柄谷行人がすでに指摘していたことと重なっていたことがわかりました。
千葉雅也は僕を「ポストモダン嫌い」として貶めることに必死でしたが、さて、彼は同じことを柄谷行人にも言えるのでしょうか。


僕が権威を後ろ盾にせずに自説を展開していたのをいいことに、自らの不勉強を棚に上げて悪口を言う人の頭の悪さには同情を禁じ得ませんが、
せっかくなので僕と柄谷の見解が近いことをここで示しておこうと思います。
(もちろん、僕と柄谷の見解には異なる部分もあります)
しかし、柄谷のポストモダン批判は驚くほどに現代思想界隈では共有されていないのですね。
これは柄谷自身がポストモダン思想の導入に関係したため、あとになってそれを批判する作業に勢いがなかったということもあるとは思いますが、
当の柄谷自身にポストモダン批判に対する熱意が足りなかったことが最大の要因だと思います。
その後に20年以上もポストモダン思想が隆盛をきわめたこと、そして現在に同様の批判をした僕がどのような立場にあるかを考えれば、当時の柄谷の批判に耳を傾ける人はそれほどいなかったことが想像できます。
実際、柄谷のポストモダン批判を受け継いだ人は皆無だと言って良いのではないでしょうか。


僕は〈フランス現代思想〉に代表されるポストモダン思想が日本のナショナリズムを強める結果になったと思っています。
ざっくり説明すれば、ポストモダン思想は西洋近代を批判するものです。
つまり、西洋にとってみれば「自己反省」を意味することになるはずなのですが、
そもそもの〈フランス現代思想〉にも「反省」の姿勢があったかどうかというと大いに疑問が残ります。
というのも、結局はただのパラダイムシフトでしかなかったと思えるからです。



『操られる民主主義』(草思社)ジェイミー・バートレット 著/秋山 勝 訳

デジタル・テクノロジーが社会を破壊する?

本書の著者のバートレットはイギリスのソーシャルメディア分析センターのディレクターなので、インターネットの専門家と言えると思います。
原題の直訳が『「国民」対「テクノロジー」:インターネットはどうやって民主主義の息の根をとめるのか(そして、いかにして民主主義を救い出すのか)』となるので、
デジタル・テクノロジーによる社会変化の負の側面を主に取り上げた本と言って良いでしょう。


本書はインターネットやAI、ハイテク企業の問題点を的確に指摘しているのですが、僕自身は驚くような恐怖が描かれているという印象は持ちませんでした。
日本の民主主義がイギリスより未熟なせいなのかもしれませんが、インターネットの存在とは関わりなく、大衆などそんなものだと思っているのかもしれません。
しかし、このような本を読むときに、人間がそうなるのはテクノロジーのせいなのか、そもそも人間とはそういうものなのではないのか、と疑っておくことは重要だと思います。
穏当な結論は、人間はもともとそういうものだが、インターネットはそれを増幅している、というものでしょう。
この発想は多くの人が受け入れやすいものでしょう。


テクノロジーは人間を安楽へと誘導します。
もう我慢しなくていいんだよ、と甘言を弄して、僕たちの行為への敷居をどんどんと低くしていきます。
こうして書いたものが人の手に渡るとき、大昔はすべてを書き写す労苦がありましたが、印刷術の発達によって大幅に作業が短縮されるようになり、インターネットによってとうとう即時的に世界中に発信することができるようになりました。
考えてみればおそろしい進歩ですが、僕たちはすぐにテクノロジーを自らの能力の拡張として把握してしまう、つまりは慣れてしまうのです。



平気でデタラメを書く仲正昌樹というアカデミズムの恥部

論理を操れず罵倒するだけなのに「学者」を名乗る売文屋

先頃、金沢大学教授の仲正昌樹が講談社現代新書から『ヘーゲルを越えるヘーゲル』を出しました。
仲正は〈フランス現代思想〉を専門にしているとも思えない(彼の留学先はドイツです)のに、フランスのポストモダン思想関連の本をたくさん出しています。
まともなアカデミシャンなら到底ありえないことですので、現代の売れ筋の思想に媚びて本を売っている売文屋であると僕は思っています。
(この人の専門的な思想書を本屋で見かけたことがあるでしょうか。それよりも参考書的な講義録みたいな本ばかり出している印象です)


最近、仲正は上述したヘーゲルと題した本を出したのですが、〈フランス現代思想〉は基本的に反ヘーゲルの立場だけに、これまで仲正が扱ってきた〈フランス現代思想〉とは立場がだいぶ違います。
「越える」と書いたところでヘーゲルを基軸にした本ではあるわけですから、やはり節操がないと感じるのは当然ではないでしょうか。
マルクス・ガブリエルの著書のセールスが好調だったことで〈フランス現代思想〉の旗色が悪くなってきたために、ドイツ思想を看板にしてアピールするという売文屋らしい変わり身への意志を感じました。
そこで僕は仲正の軽薄さを批判するツイートをしたのですが、それに対して仲正が明月堂書店とかいうよく知らない出版社のブログで僕への文句を書いていたのを発見しました。
それがきちんと反論をするでもなく、単に僕に対して「バカ」とか「おバカ」とかを連発するだけの罵倒で構成された上に、ネット経由で得たであろう誤った情報を垂れ流した内容だったのです。
「月刊極北59回」の仲正の文章の中から僕について書かれた部分を以下に引用します。


  最近出した拙著『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)に対して、「南井三鷹」というバカが、読みもしないで、タイトルと、著者である私についての雑な印象だけで、失礼な決め付けツイートをしていた。この男は以前「佐野波布一」を名乗り、千葉雅也氏を主要ターゲットにして言いがかりをつけていた。例えば、千葉氏を中心に編集された雑誌の現在思想系の特集を読みもしないで、駒場人脈の書き手ばかり採用している、千葉一派による思想論壇の支配に反対する、というようなことをamazonレビューなどに書いて、悦に入っていた。かなり狂っているが、自分だけは論壇・文壇のために戦う闘士のつもりのようである。そのおバカの三鷹曰く、

反ヘーゲルのフランスポストモダンにすり寄って商売していた仲正昌樹が新たにヘーゲルの新書を出したようだ。こういう信念のない商売人の本を支持する人に思想の素養はない。

そして出版社はいつまでもこういう寄生虫が大好きだ。なぜずっとヘーゲルを研究してきた人に本を書かせないのか。内実のない本を出版して人々を愚民化している出版社よ、罪を数えろ。

 こういう低レベルの人を起用するならネットでいいじゃないか。出版社はもっと高付加価値なものを高値で売る西欧のブランドのような商売をしないとネットに飲み込まれるだけだ。

  この三つのツイートだけで、この男が逆恨みの権化であること、出版業界に関して非論理的な妄想を抱いていること、および、「思想史の基本が全く分かっていないこと」を、自ら暴露してしまっている。バカの三鷹は、佐野波布一時代に、吉本隆明の専門家を装っていたが、この調子だと、吉本の主要テクストのどれ一つとして理解していないだろう。「方法論」を学ぶ意義が分からないまま、学者の世界のことについてああだ、こうだと言っていると、こういうどうしようもない廃棄物になってしまう。

とまあ、こんな具合なのですが、この文章を読んでみて、どうして僕が「バカ」と言われなければいけないのか、誰か理解できる方はおられるのでしょうか?
僕には全くわかりません。
仲正がヘーゲル以降の思想家を扱っていようが、僕がツイートで文句を言ったのは「ヘーゲル本」の体裁で著書を出版した態度についてです。
僕はタイトルを中心として批判しているのですから、「タイトルだけで」と文句を言うのは的外れもいいところで全く反論になりません。
題名に「ヘーゲル」とつけたくせに、内容はヘーゲルと関係がないとでも言うのでしょうか。
(というか、ヘーゲルの現代思想への影響という本でしたけどね)
これはヘーゲルの本ではない、とか、フランスポストモダンにすり寄っていない、と反論するでもなく、はたまた、自分はずっとヘーゲルを研究してきた、と強弁するでもないのに、どこについて僕をバカ扱いしているのか意味がわかりません。



『海の音』 (朔出版) 友岡 子郷 著

真摯さは才能に勝る

これは句集に限ったことではありませんが、文学作品を読むと、書いたその人と会ったこともないのに、まるでその人と親しくつきあっているかのように思えることがあります。
親しく付き合えばその人の良い面も悪い面も知ることになるのですが、そのような理解の上で作品を読むと、書いた人が作品上で実現したがっていることも理解できるようになります。
それが真摯に文学的なものに奉仕しているのか、それともただ功利的な自己愛に根ざしたものなのかを僕は重視しています。
文学には才能というものも当然あると僕は思っていますが、僕自身の批評的評価においては才能が真摯な思いに勝るとは思っていません。
一般に才能があると思われている人を僕が批判するときは、その人に文学的な真摯さが欠けているからだと判断していただいて結構です。


このような前置きを書いたのは、今回取り上げる友岡子郷の句集には目立った才気のようなものは感じないのですが、俳句に対する真摯さがあふれているからです。
僕はこの句集を読んだ時に友岡その人に対しての予備知識は全くありませんでした。
(おそらく相当に年配なんだろうとは想像していましたが)
句集を読むにつれて海の近くに住んでいることや奥さんを先に亡くされたことなどが想像できるようになりました。
文学作品は否応なく書いた人の人生と結びついてしまうのですが、そこから逃げないことが文学に対する第一の姿勢であることを確認させられました。
そう、文学には人生があるのです。
だから個々の作品が独立して語られるのではなく、「作家」や「詩人」というかたちで記憶され語られることになるのです。
自分の貧しい人生から逃避するためにイメージや言葉をこねくり回しても、文学にも詩に結実しない徒労でしかないのですが、
商品化ファシズムを生きる高度成長期以後の世代はそのことを自覚することもないまま、文学と商品の区別もつかずに人生を終えていくことになる運命にあります。



作品所有の欲望について

「基本的歌権の尊重」という批評殺し

まずは、あきれた話。
短歌ムック「ねむらない樹」というのを適当に眺めていたら、批評を殺したがっている若手歌人がいることを知りました。
「ニューウェーブ30年」というシンポジウムで人気歌人の穂村弘が語った話なのですが、
穂村は「基本的に若い人の方の考え方が正しいという発想」だと宣言しつつ、自分の批評が若手の寺井龍哉から「そういう批評はいまは無しなんですよ」と言われて困惑したというものです。


穂村はこの若手の言い分を、書かれた歌にはそれだけの理由があるから、最大限リスペクトして批評する必要がある、という「基本的歌権」みたいなものと理解しています。
僕はこの「基本的歌権」という穂村の言葉には皮肉があるように感じましたが、寺井自身はまったくそうは感じなかったようで、同誌の短歌時評でこう書いています。


それぞれの作品の背後には固有の必然性があり、評者の後追いのさかしらでは推しはかりきれないのものなのではないか、というのは、穂村が前出のシンポジウムで私との対話をもとに提示した「基本的歌権の尊重」なる新語の指す事態である。(原文ママ)


この文章で寺井は、言葉を「個人個人の間で断絶的に所有されるものであるという発想があるのかもしれない」と述べたあとに、服部真理子の文章を例として挙げ、
「言葉は誰のものでもない」と否定的な見解を述べて、批評を「無し」にする態度は自分自身のものではないという書き方をしています。
寺井が(口では)言葉は誰のものでもないと言っていますが、では短歌作品はどうなのでしょうか。
作られた短歌は誰のものでもない、とは寺井は書きません。
穂村の語るエピソードからすると、「基本的歌権」を穂村の意見であるかのように書いている寺井の文章にはどこか欺瞞があるようにしか思えないのですが、
その意見が誰のものであれ、短詩系の作者の一部が批判的な批評をつぶしたがっていることは僕の実体験からもまちがいないと言い切れます。
そこには、作品を自分自身の代理物として、たとえヘタクソでも尊重してほしい、という「甘え」が見え隠れしています。



『カントの「悪」論』(講談社学術文庫)中島 義道 著【その2】

定言命法と仮言命法

中島義道のカント読解の続きです。
前回はカント倫理学が「誠実性の原理」という理性のはたらきによって成立しているという中島の主張を確認しました。
しかし、自己愛に基づく「幸福の原理」の声の大きさの前に、理性の声はかき消されがちだとカントは言います。
カントは自己愛と理性を比べたときに、易きに流れる人間が自己愛という「悪」へと傾くことをよく自覚していました。
理性信仰に基づく倫理学をカント自身が「危うい立場」と語り、脆いものとして捉えているのはそのためなのですが、
中島は「カント倫理学の真価は、まさに倫理学の危うさ、道徳的善さの危うさ、人間存在の危うさをしっかり見据えているところにある」と言います。


さて、理性の声に従って道徳的な善を実践するには、自分の意志から行う主観的な行為に客観的な普遍妥当性がなくてはなりません。
主観的な行為を普遍的なものへと格上げしていくことが、カント哲学の中核と言ってもいいのではないかと思います。
この昇格の手続きをカントは「定言命法」というかたちで成立させようとします。


定言命法と比較されるものに「仮言命法」というものがあります。
仮言命法は「約束を守る」などの格律を「嫌われたくないから」などの別の目的のために遂行するあり方を言います。
しかし、定言命法はそのような条件なしに「約束を守る」という格律を遂行するというもので、ただ理性に従ってすべきことを行うというところに特徴があります。



『カントの「悪」論』(講談社学術文庫)中島 義道 著【その1】

カント倫理学の真髄は自己愛の排除にある

本書の原本は2011年に勁草書房から出版された『悪への自由』です。
カントが道徳的な善を「形式」に求めたために、倫理が「形式」にあるかのように解釈する俗説(ラカンの読みがこれにあたる)があるのですが、
これに対して中島はカント倫理学には「形式」の名のもとに「誠実性の原理」という実質が潜んでいることを明らかにしています。
専門的な哲学研究にとどまらない活躍をしている中島の書いたものだけあって、解説は平易な文で読みやすく書かれています。
(それでも第三章の議論は難しく、僕には追いかけるので精一杯でしたが)


中島は「形式」だけで倫理学が成り立つはずがない、と言います。
表面的には「形式」を強調する姿勢をとっていても、それを支えるのはカントの信念というべきもので、これを中島は「誠実性」という言葉で説明します。
カント倫理学を裏で支えているのは「誠実性の原理」なのです。
カントは「誠実性の原理」が生命や安全や快適などを求める「幸福の原理」よりも重要だと考えました。
この誠実性を支えているものが快や幸福ではなく、理性であるということが非常に重要です。


さらに強調しておきたいのは、カントに「誠実性の実現のためには自己愛を徹底的に粉砕しなければならないという信念」があるとするところです。


巧妙に隠された自己愛、善良な行為の陰にとぐろを巻いている自己愛に対する嫌悪こそ、カント倫理学の骨格を形成している。

中島はカントにおいて理性が自己愛と真っ向から対立するものであることを明らかにしています。
本書は第三章、第四章とカントの自由に関する考察が続いていくのですが、前半部で語られた自己愛と理性の対立関係と定言命法についての部分が僕には非常におもしろく感じました。
理性が自己愛の排除を強く求めることを示している部分を引用しましょう。


理性に起源を有する感情は「知的軽蔑(intellektuelle Verachtung)」、すなわちあらゆる自己愛に基づく動機を軽蔑して排除するという知的感情である。道徳法則に対する尊敬という感情は、この知的軽蔑のいわば反射形態にすぎない。

ここで中島が強調しているのは、尊敬という感情が起こるのは道徳法則という「そと」にあるものに対してではなく、あくまで自己愛を排除する理性の「うち」に対してであるということなのですが、ここで議論は少々複雑になってきます。
理性自体は自分の「うち」にあるのですが、その対象である道徳法則は自分の「そと」にあるからです。 これを中島は「道徳法則は可想的性格として自分の「うち」にあるが、さしあたり常に経験的性格として自分の「そと」にある」と説明します。



批評を殺す〈内実に対するニヒリズム〉

〈内実に対するニヒリズム〉という日本の病理

僕はこのブログのトップページに「批評がすべて誹謗中傷扱いされる時代」と書いています。
批評の衰退はだいぶ前から起こっていることですが、SNSが一般化した時代になって、
作り手たちの「批評殺し」(というか批判殺し)の欲望がいよいよ前景化してきたと感じているからです。
もちろん、前々から創作者は批評家による批判をおもしろくないと思っていたと思います。
しかし、ある種の「必要悪」としてその存在を認めてきた部分があったと思います。


僕がこの現象を意識しはじめたのは、純文学のジャンルにおけるある出来事でした。
2006年冬号の「文藝」という雑誌で、高橋源一郎と保坂和志が対談をしたのですが、
「小説は小説家にしかわからない」と批評を否定する趣旨のやりとりがあったのです。
評論家の田中和生が「文学界」同年6月号でその態度に疑問を呈したのですが、
この論争は文壇全体を巻き込むほどに盛り上がることもなく終わったような気がします。
他者を重視するはずのポストモダン思想に前のめりだった人たちが、同質性に居直っている姿に僕はあきれたのですが、
このような同質集団に信を置く「日本人の本音」が露出したのが、日本型ポストモダンの成れの果てであったと今なら言うことができます。


西洋の自己反省によって日本が自己満足を深めたのが日本型ポストモダン現象であったわけですが、
他者を称揚するはずの思想が、日本に入ってくると既得権の保護のための保守思想になってしまう、それが日本という場所なのです。
「前提」を共有しない他者を重視し、同質性を解体するはずの思想を語る人が、平気で同質性による他者の排除を欲望し、ときに実行する、
そんな自らが支持する思想への矛盾した態度は、いったい何に起因するのでしょうか。


僕はそこに「評価されれば内容なんてどうでもいいんだ」という〈内実に対するニヒリズム〉があると思っています。
〈内実に対するニヒリズム〉が、ポストモダン思想などよりはるかに根源的な思想として日本には根づいているのです。



『個人空間の誕生』 (ちくま学芸文庫) イーフー・トゥアン 著

実際の原題は「分節化世界と自己」

邦題は『個人空間の誕生』となっていますが、本書に「個人空間」の考察を期待して読んでみると、物足りなさが残りました。
そこで原題を見てみると、「Segmented Worlds and Self」とありますので、「分節化された世界と自己」の方が正確かもしれません。


著者のイーフー・トゥアン(段義孚)は天津生まれですが、アメリカの大学で学位を取得し、
人間主義的地理学の創建者とされているそうです。
西洋の異邦人であるトゥアンは、西洋を相対化する視点を持たざるを得なかったため、
本書の分析もどこか外から西洋を眺めているような冷静さ(というか冷淡さ)が感じられ、
考察が終始理知的で非常に明晰な論考になっています。


ところどころに中国人の空間意識についての考察があるのですが、実は僕はこちらの方が冴えたことを言っていると感じました。
考えてみれば、トゥアンは中国にとっても内なる異邦人として、広い視野から考察できる立場にあったのです。



芸術で現代に挑むために

ポストモダンという「近代=世界大戦」批判の恣意性

1990年の冷戦構造崩壊以後、資本主義一強体制となってから、文学は世界的に衰退しています。
それは2016年のノーベル文学賞をボブ・ディランが受賞したことでも明らかです。
日本ではいまだ「純文学」を扱う文芸誌が存在し続けてはいますが、吉本興業のお笑い芸人が芥川賞を受賞したことで、
出版社にとっては、文学そのものより文芸誌や芥川賞の生き残りの方が重要であることがハッキリしました。
社会性に欠けた研究者をスター扱いする思想界を含めて、出版業界を中心とした文学や思想の形骸化は決定的な局面にあると思います。


日本ではやっと90年代になってポストモダンという語が広まっていった感がありますが、
ポストモダンの問題意識(大義名分)が近代批判にあったことは明らかです。
近代化の末路が世界大戦と核戦争による人類滅亡の可能性であったという事実が、近代的思考に修正を余儀なくさせることになったのです。
しかし、ここからポストモダンの近代批判は恣意的な展開を見せるようになりました。
ポストモダンの前提はあくまでモダン(近代)にあるため、近代のどの部分を残してどの部分を修正するか、
つまりは脱構築する部分についての共通認識が甘かったことがその原因です。
結果、批判すべき近代とは何であるのかについては暖味なまま、「近代=悪」というお題目だけが流通し、
ポストモダンは批判としての内実をほとんど持つことなく終わりました。


ポストモダンの恣意的な展開とはどのようなものなのでしょうか。
たとえば世界大戦の原因に帝国主義がありました。
戦後、帝国主義は一応は放棄されたのですが、中央が周縁を収奪する資本主義のシステムそのものは形を変えて維持されています。
資本主義とそれに対抗する共産主義が核戦争の危機を生み出したため、
ポストモダンは二項対立や国家的イデオロギーの批判を展開しましたが、
国家社会主義は批判できても、潜在的にグローバルである資本主義を批判するには至りませんでした。
資本主義を批判できずに真の近代批判が達成できるはずもありません。
あろうことか、日本では資本主義批判であるはずの〈フランス現代思想〉が消費資本主義の擁護に用いられている始末です。