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『「社会正義」はいつも正しい』(早川書房)ヘレン・プラックローズ ジェームズ・リンゼイ 著/山形 浩生 森本 正史 訳

差別批判の裏側──〈社会正義〉の横暴

自由を信条とする「リベラリズム」が、近年になって危機に瀕しています。
リベラリズムの意味は多様でわかりにくいのですが、
異質な価値観の共存と個々人の自由を、理性的な議論によって認め合う態度、と理解しておけばいいでしょう。
liberalという語に「寛大な、度量が大きい」の意味があるように、
自由だけを尊重するのではなく、自由と平等の両立を模索していくのが、本来のリベラリズムです。
リベラリズムは左派的と見なされるので、右派の保守勢力がこの考え方を敵視するのはわかるのですが、
最近になって目立っているのは、リベラルに分類される〈社会正義〉(Social Justice)の活動が、人々の自由を害している状況です。
とりわけ、「表現の自由」が危機にさらされています。
左派の尊重する自由が、〈社会正義〉という左派勢力に脅かされる「ねじれ現象」は、どうして生まれてしまったのでしょうか。


プラックローズとリンゼイの共著『「社会正義」はいつも正しい』(2020年)は、この「ねじれ現象」に答えを示してくれる本です。
彼らはリベラリズム擁護の立場から、左派的な〈社会正義〉活動が引き起こす害悪について考察しています。
本書によると、この問題の原点にあるのは、〈フランス現代思想〉(=ポストモダニズム)の理論です。
〈社会正義〉は、ポストモダン思想から生まれてきたのです。


『「社会正義」はいつも正しい』は、1960年代に誕生した〈フランス現代思想〉が、
2010年代になって、〈社会正義〉の実践運動(Social Justice Movement)に変異した経緯を、歴史的に示しています。
本書の原題は「CYNICAL THEORIES」ですが、原書では「CRITICAL THEORIES」と「CRITICAL(批評の)」が線で消されて、「CYNICAL(冷笑的)」に直される形で記されています。
では、冷笑的な理論から生まれた〈社会正義〉の活動とは、実際はどんなものなのでしょうか。


「自分は差別されている!」という「被害者アイデンティティ」をもとに、差別的な言説を批判するのが、〈社会正義〉の実践です。
それだけなら、「社会的不平等や差別を批判するのは当然でしょ?」と思う人もいるでしょう。
もちろん、差別がよくないのはその通りなのですが、
差別を批判する〈社会正義〉の活動が、考えの違う人々を「排除」する、排他的な運動になっていることが問題なのです。
差別に対する公共的な議論を巻き起こすのではなく、「差別的」と見なした発言を取り上げて「叩く」ことの方が、目的になっているようにも見えます。
最近ではその反応がますます「過剰」になって、気に食わない意見に対して、「正義」を掲げて差別や誹謗中傷だと騒げば、その発言を叩くことができる状況になっています。
当然ながら、このままだと「表現の自由」は、どんどん領域を狭めることになっていきます。


〈社会正義〉を扱う上で厄介なのは、差別反対の「理念」は良いが、「実際にやっていることが悪い」というギャップです。
問題は大義名分となる「理念」ではないのです。
本書で〈社会正義〉が「非リベラルで不寛容」だと言われるのは、「実際にやっていること」に自由を阻害する排他性があるからです。


これはSNSを見れば、わりと実感できます。
フェミニズムやジェンダーの「意識高い系」と思われる人たちが、
攻撃的で排他的な言説を自信満々で広めていて、それに妙に支持が集まっていたりします。
同質性に凝り固まったこれらの人々は、意見が合わない相手とは一切議論もせず(ブロックで排除し)、不寛容な態度で気に入らないものを「吊し上げ」にしていくのですが、
そんな人たちを目撃したことはないでしょうか。


念のため言っておきますが、リベラリズムの立場でも、女性の権利侵害や性的マイノリティの不利益は是正されるべきだ、という考えには同意するのが普通です。
だから、〈社会正義〉が大義名分としている「理念」に、反対する人は多くないのです。
問題なのは、リンチ的な「吊し上げ」に繋がるような、非リベラルで「行き過ぎた」批判です。
つまり、フェミニズムやジェンダーなどの言説や活動には、健全なものと不健全なものがあるということです。
本書では非リベラルで不健ヽヽ全なヽヽ言説や活動の方を、〈社会正義〉と山括弧つきの表記で区別しています。
そのあたりを前提として、この記事を読んでいただけると幸いです。


実は本書の概略を知りたいならば、
翻訳者代表である山形浩生が書いた、「訳者解説」を読むのが手軽です。


フェミニズム、批判的人種理論、クィア理論等々の個別理論については、ここで細かくまとめる余裕はないので本文を参照してほしい。だが、本書によればそうした理論のほとんどは同じ構造を持ち、その歴史的な源流も同じなのだ。こうした様々な「思想」の基本的な源流はかつてのポストモダン思想にあるという。
で、そのポモ思想って何?
ポモ思想は、本書の認識では左派知識人の挫折から生まれたやけっぱちの虚勢だ。一九六〇年代の社会主義(学生運動)の破綻で、左翼系知識人の多くは深い絶望と挫折を感じ、資本主義社会にかわる現実的な方向性を打ち出せなくなった。その幻滅といじけた無力感のため、彼らは無意味な相対化と極論と言葉遊びに退行した。それがポストモダン思想の本質だった、という。
(ヘレン・プラックローズ ジェームズ・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい』所収の山形浩生「訳者解説」より)

ポストモダン思想が、革命という現実的実践に敗れた左派知識人の現実逃避を正当化するものだった、というのは僕も記事で書いていることです。
それが現実逃避である、という弱点を隠すために、ポストモダン知識人はマスメディアと結びついて、
差別や抑圧の原因となる近代ヽヽ的なヽヽ権力を、メディア上で批判するようになりました。
(ここで僕が「近代的な権力」と書いたのは、彼らがポストモダン的な権力──マスメディアとマスプロダクトで成立した情報産業と消費資本主義──を批判しないからです)
これを受けて登場したのが〈社会正義〉の活動家です。
〈社会正義運動〉は、ポストモダンを基盤にしているため、差別是正のための社会運動よりも、
メディア言説上に限定された差別的「認識」の批判、つまりは「言葉狩り」や「吊し上げ」に身を投じてしまうことになります。


だがこれは、一瞬で言葉狩りと思想統制と人民裁判へと転じかねない発想だ。差別的な発言を探して糾弾し、それを述べた人物を吊し上げて、言説を発する立場(つまりは職場など)から追い落とすことで言説の権力構造を変える──まさに現在はびこりつつあるキャンセルカルチャーそのものだ。
(山形浩生「訳者解説」)

山形の言う「キャンセルカルチャー」という語は、過去の差別発言などを掘り起こして、その発言者を糾弾し、表舞台から追放する動きのことです。
要するに、差別発言とされるものをメディアで広く晒して、「吊し上げ」をするのですが、
このようなものが、本当に正義だと言えるのでしょうか。


本書は、ポストモダン思想から〈社会正義〉研究への変化を追っていくのですが、
著者たちの関心は、あくまでアカデミックな〈社会正義〉研究の理論ヽヽと、それがもたらすイデヽヽオロヽヽギーヽヽにあります。
そのため、〈社会正義運動〉の背景にある社会構造や技術──消費資本主義と個人発信メディア──の問題には触れていません。
もっと言えば、このイデオロギーが西洋の価値観を、それ以外の地域に押し付けるのに役立っていることにも触れていません。
たとえば2022年9月に、アメリカの宿敵であるイランで、女性の髪を隠す因習に用いられる、「ヒジャブ」の着用が適切でないとして、逮捕された女性が亡くなった事件がありました。
この事件は大規模なデモを引き起こし、イラン政府に大きな打撃を与えているのですが、
もし西洋の価値観を相対化することができれば、このような女性の抑圧に抗議する勢力が、アメリカの敵を叩くのに役立っていることに気づくことができます。
〈社会正義〉への大規模動員は、西洋の敵に対する「攻撃力」になりえるのです。


〈社会正義〉の「ねじれ構造」

「非リベラルなイデオロギー運動」である〈社会正義〉の横暴を、実感している人はわりといると思うのですが、
その活動を批判すると、「差別」を肯定する差別主義者だとレッテルを貼られるために、表立って批判するのは難しくなっています。
しかし、掲げる「理念」が正しかろうと、〈社会正義運動〉が持つ悪しき同質性と排他性を看過すべきではありません。


〈社会正義運動〉が──何よりも「アイデンティティ・ポリティクス」あるいは「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」という形で、──社会にもたらす影響は、いやでも目につくようになってきた。毎日のように、性差別的、人種差別的、ホモフォビア(同性愛嫌悪)的と解釈される発言や行動で、クビにされたり「キャンセル」されたり、あるいはソーシャルメディアで炎上したりする人が出てくる。(中略)そうした非難が変な深読みに基づくもので、屁理屈の糾弾になっている場合がますます増えている。(中略)これは最善でも、善人たちが「まちがった」ことを言わないように自己検閲することで、二世紀以上にわたりリベラル民主主義に奉仕してきた表現の自由の文化を萎縮させる。最悪の場合、それは悪意に満ちた弱いものいじめとなり──制度化された場合には──ある種の権威主義が生じることとなる。
(ヘレン・プラックローズ ジェームズ・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい』山形浩生 森本正史訳)

日本における〈社会正義〉の活動は、人種差別よりも性差別やLGBTQの分野で目立つのですが、
引用文にあるような「表現の自由の萎縮」や「弱いものいじめ」を、すでに現実で引き起こしています。
彼ら活動家の中に、自らが「無謬の正義執行人」であるかのような態度で、やたら差別だ差別だと一方的に糾弾して、
反対勢力を根絶する「最終的解決」を求めているように思われる人がいるのも事実です。


多くの人(特に学者)は、この問題がいかに根深いかに気づかずにいる。これはイデオロギー的な閉鎖性、異論を一切認めたがらない態度、〈社会正義〉的な社会認識や道徳司令を他人に押しつけようという専制主義的な意志としてあらわれる。
(『「社会正義」はいつも正しい』)

〈社会正義〉が批判されるべきなのは、自分たちへの批判を暴力的に棄却し、イデオロギーの専制的な「押しつけ」を行っているからなのです。
彼らは自分たちの行動が、「表現の自由」を萎縮させることに無自覚です。
差別発言は当然批判されるべきですが、「身勝手な正義」に反対する言論まで抑圧するのは、明らかに「行き過ぎ」です。


以下は〈社会正義〉の権力構造について、僕自身がまとめたものです。

 ① 〈社会正義〉は、「弱者アイデンティティ」の絶対化によるねじヽヽれたヽヽ権威的イデオロギーである
 ② その「正義」の根拠は「抑圧された」と思い込んでいる人々の「個人的体験」の共有にあるため、主観的かつ非理性的であり、明らかに普遍性に欠けている
 ③ 被害者意識による主観的な「正義」は、多くの人に自然な共感を呼ばないため、マスメディアやアカデミズムなどで権力を得ようという野心ばかりが強くなる
 ④ 被害者意識の集団化である〈社会正義〉は、批判や異議を認めるリベラルな態度を持たないので、批判者に対しては、大衆的「吊し上げ」という集団的な弾圧によって応じる


このような〈社会正義〉の暴走が何を引き起こすか、それを考えるのに参考にするべき歴史的事例があります。
〈社会正義運動〉の構造は、中国共産党の林彪派と「四人組」(裏にいるのは毛沢東)によって主導された「文化大革命」に似ているのです。
1966〜1976年の文化大革命は、共産路線の行き詰まりから資本主義的な修正へ向かおうとした勢力を、
共産体制の批判分子である「反革命的な右派」として、排除する大衆的な「吊し上げ」運動でした。
文化大革命は、プロレタリア革命の主体である毛沢東を絶対「正義」とし、敵対する支配層(当時の国家トップであった劉少奇や鄧小平を含む)を打倒する「左派的な暴走」の悲惨な歴史です。
最終的には、ブルジョワ層の出身だからとか、インテリだから、という薄弱な根拠で、革命の批判分子を「吊し上げる」ことが横行しました。
左派的な横暴である〈社会正義〉活動について考えるのに、文化大革命を引き合いに出してみることは、
規模の大小の差は大きいですが、その暴走の「構造」を考える上では非常に示唆的です。
「四人組」の中心として文化大革命を推し進めた江青が、女性であったということも、見逃せない要素です。
(女性だから横暴な社会権力に加担しない、というわけではないのです)


本書の内容からは多少逸脱しますが、
〈社会正義〉が暴走する原因にも、「ねじれ構造」が影響しています。
「差別されている」と、自分が「弱者」であることを宣伝することです、〈社会正義〉は政治力を生み出しています。
ここには、弱さをアピールすることで権力を握るという、逆説的な構造があります。
このようなマジックが成立する種明かしは、後でやることにします。


そもそも、現代のヽヽヽ女性や性的マイノリティは、本当に「社会的弱者」なのでしょうか。
人類の歴史上、彼らの地位は、過去のどの時代よりも尊重されているのではないでしょうか。
「それでも男性や異性愛者と同等に扱われていない!」と主張することはできますが、現実的に差異が存在する中で、完全な平等などありえるものでしょうか。
社会的地位の高い女性は、地位のない男性より、権力を持つ存在と言えるでしょう。
〈社会正義運動〉の主体──アカデミックなキャリアがあったり、メディアで活動をしている女性や性的マイノリティの人たち──が「弱者」である、という捉え方は、単純すぎはしないでしょうか。


ポストモダン社会における「権力」はマスメディアが握っています。
その意味で、マスメディアで自分の主張を展開できる人は、性別や性的嗜好に関わらず、「弱者」ではないと思います。
本当の弱者とは、社会やマスメディアに見向きもされない人のことです。
貧者やホームレスや独居老人のように、人々の視界から消し去られて声を持たない人たちこそ、そう呼ばれるべきなのです。


この「弱者とは誰のことか」という視点は、アカデミックな動向を追う本書にも見られませんが、
〈社会正義〉の「ねじれ」を説明するには欠かせない視点だと思います。
かつての左翼運動は、貧困層と富裕層の階級闘争を意図していました。
しかし、〈社会正義運動〉は、「かつては差別される側だった層でも、今や社会的発信力を持つ人」による活動です。
つまり、〈社会正義〉の活動家は、自らを「弱者」や「被害者」であると位置づけてはいますが、
実際はマスメディアやアカデミズムで一定の発信力を持っている社会的「強者」(もしくは成功者)なのです。
わかりやすく言えば、「自分は弱者だと思い込んでいる強者」だということになります。
そうなると、〈社会正義運動〉の実態は、「発信力を持つようになった強者の、古い価値観に対する闘争」だとわかります。
これは「新興勢力による旧権力の追い落とし」でしかないので、本質は文化大革命と同じく「権力闘争」と言えるわけです。


これこそが〈社会正義運動〉が、「非リベラルで不寛容」になってしまうことの原因です。
〈社会正義〉の活動家は、実際は社会的強者に属する人たちなので、「真の弱者」からは隔絶されていますし、
「権力闘争」が目的なのですから、主な関心は自分たちが権力を握ることにあります。
だから、自分たちのイデオロギーによって傷つく人や犠牲者が出ても、その人たちを「弱者」や「被害者」だとは見なしません。
「弱者」や「被害者」というアイデンティティは、彼ら活動家にとっては権力の源泉です。
権力闘争にばかり興味がある人たちが、自らの権力の源泉である「弱者=被害者アイデンティティ」を他人に譲り渡すわけがありません。
〈社会正義運動〉においては、どんな場合であっても、「弱者」や「被害者」は活動家自身でなければならないのです。
その結果、現実的にはマスメディアで発言力を持つ人たちが、「弱者のフリ」をし続けることになります。
「ねじれ構造」はこうして生まれるのです。


強者が「弱者」を自称するねじヽヽれたヽヽ運動が、なぜこうも力を持つのでしょうか。
その理由は、この〈社会正義運動〉がアイデンティティ政治(=アイデンティティ・ポリティクス)だということに関係しています。
実はポストモダン理論が、年を経てアイデンティティ政治へと変異したことにも、理論的な「ねじれ」があります。
そのあたりは本書に沿って、ポストモダニズムの理論的変奏を追いかけた方がいいでしょう。


ポストモダン思想から〈社会正義〉研究への理論的変奏

本書で最も意義深いのは、〈社会正義〉の理論のルーツが、1960年代の〈フランス現代思想〉にあるということを示したことです。
しかし、一般にはこの連続性は、なかなか理解しにくいもののようです。
たしかに、そこには理論的な「ねじれ」が存在します。


たとえば〈社会正義〉の活動家には、ポストモダン理論の批判をしている人がいますし、
日本でもポストモダンの「広告塔」を引き受けている人が、「ポリティカル・コレクトネス」の批判をしていたりします。
そのため、その両者が系譜的に繋がっているという見方を、受け入れられない人もいるかもしれません。
しかし、僕は以前にある記事で、日本のポストモダン現象は「マイノリティ意識の権力化」だと書いているので、
それが〈社会正義運動〉と重なるものであることは、自然と感じ取っていました。
つまり、ポストモダン思想の本質に「(ユダヤ−イスラエル的な)マイノリティ意識の権力化」があるとわかれば、
マイノリティというアイデンティティを基盤とした〈社会正義運動〉が、ポストモダン思想をルーツにしていることは、難なく理解できるのです。


では、フランスのポストモダニズムとは、どのような思想なのでしょうか。
詳しく説明する余裕がないので、乱暴にまとめると、
ある考えを「真実」や「真理」と判断する根拠となる説明を、「大きな物語(メタナラティブ)」と呼んで、権力者の都合で作られた「便宜的な偽物」とするものです。
ポストモダン思想では、「真実」や「真理」は疑うべきものであるため、全てを決定不能で相対的なものにしてしまいます。
このようなポストモダニズムの考え方が、「客観的真実」の価値を貶めて、各人が自分に都合のいいことを宣伝し合う「ポスト・トゥルース」的状況を生み出しました。


本書はポストモダニズムの重要な原理を2つ、主題を4つにして示しています。


【原理】

 ポストモダンの知の原理: 客観的知識や真実の獲得に関する急速な懐疑主義と、文化構築主義への傾倒
 ポストモダンの政治原理: 社会は権力体系とヒエラルキーで形成され、何をどのように知り得るかはそれらによって決まるという考え

【主題】
 1. 境界の曖昧化
 2. 言語の権力
 3. 文化相対主義
 4. 個人と普遍性の喪失


以上のように本書は箇条書きにしているわけですが、
さらにそのエッセンスを取り出して、問題点を明確にしたいと思います。


 ポストモダン思想: 人々が「客観的真実」と思っているものは、支配的な言説による作為的な「作り物」でしかない、という考え


要は、何でも支配者の都合で作られた「作り物」だという主張なのです。
(ここには神が世界を作った、という宗教の影を見るべきです)
この発想がわかりやすく出ているのは、ポストモダン思想の非歴史的な態度です。
歴史は「客観的事実」と見なされているが、実際は権力を獲得した「勝者」の都合で書かれた「支配的な作り物」であるため、
その言説によって必ず「弱者」が抑圧されている、という考え方がポストモダン的だということです。


ポストモダン思想ではすべての言説や価値観は「作り物」なので、あらゆる境界に明確な根拠はありません。
価値観は支配的な言説によって生み出されるので、言語が権力となります。
すべてが権力者の都合で成立しているので、完全に正しいものはなく、価値は相対的になりますし、普遍性は成立しなくなります。
個人が存在しなくなるのは、ポストモダン思想が「主体」を権力による「作り物」だと批判してしまったからです。
結局、本書が挙げたポストモダニズムの特徴は、すべての価値は特定の文化が生み出した「作り物」だということに起因するのです。


すべてが「作り物」であれば、オリジナルとコピーの対立などなくなります。
あるのは「シミュラークル」というオリジナルのないコピー──神が存在しない世界における「神の似姿コピー」──だけです。
こうしてポストモダニズムは「神の似姿コピー」である人間が頂点に君臨する、複製品だらけの消費社会を肯定していったのです。
こうまとめてみれば、神から人間が権力の座を奪い取る「権力闘争」が、モダン+ポストモダンの背景にあることが理解しやすいと思います。


社会構造が権力による「支配的な作り物」であるなら、
それを是正できるのは、社会の「支配的抑圧」に気づいた「被害者」だけということになります。
このような論理で、ポストモダン思想は抑圧を訴える「被害者」に、社会変革の特権を持たせました。
「被害者意識の権力化」は、こうして成立したのです。


本書の著者は、一通りポストモダニズムを分析した後、
「今日の多くの思想家の間では、ポストモダニズムは絶滅したというのが通説だ」と述べて、それが嘘だと言い切ります。
ポストモダニズムは死んだのではなく、「応用ポストモダニズム」へと発展した、と言うのです。
日本では〈フランス現代思想〉の権威が全く死なないままに、〈社会正義運動〉と共存、連続しているので、本書の主張は理解しやすいところです。
むしろ、本書の主張の正しさは、日本の出版業界の現状によって証明されているのです。


応用ポストモダニズムとしてのジェンダー論

死んだと思われたポストモダニズムが、「応用ポストモダニズム」へと変化して生き延びている、というのが本書の主張です。
では、その「応用ポストモダニズム」とは、どういうものでしょうか。
具体的には、ポストコロニアリズム、クィア理論、批判的人種理論、それに交差性フェミニズムなどです。
本書では、それぞれに章を設けて、具体的に考察、批判をしているのですが、
その細部に立ち入ると、それぞれの理論やその「活動家」を紹介(=宣伝)することになるので、やめておきます。


僕は〈社会正義〉の「ねじれた権力構造」に関心があるのですが、
本書の中にも、「ねじれ構造」に触れた記述が見つけられます。


大まかに「〈社会正義〉研究」と呼ばれるようになったこれらの新分野は、社会正義の概念を公民権運動と他のリベラルな進歩主義的理論から奪取した。こうしたすべてが本格的に始まった時期が、法的平等がおおむね達成されてしまい、人種差別反対運動、フェミニスト運動、LGBT支持運動の御利益がだんだん弱まってきた頃だったのは、偶然ではない。すでに職場での人種差別や性差別は違法となり、同性愛は西洋全域で非犯罪化されてしまったので、西洋における社会的平等の主な障害は、人々の態度、思い込み、期待、言語に内包された偏見のみとなった。
(『「社会正義」はいつも正しい』)

この部分はサラッと書かれているのですが、〈社会正義運動〉の正体を示す非常に重要な指摘だと思います。
本書の著者がここで指摘していることをまとめ直すと、
西洋で性差別や人種差別や同性愛などの法的平等が成立した時から、それらへの偏見を問題化する〈社会正義〉の活動が始まったということです。
つまりは、社会運動としてのマイノリティの権利獲得の戦いが終わった後に、
差別的認識の「残党狩り」をしているのが〈社会正義〉なのです。
もちろん、日本はまだ権利獲得の戦いの最中だ、とこの指摘を否認することは可能ですが、
日本でもマイノリティの権利獲得運動が、一定の支持が約束されている非マイノリティ的状況になっているのは事実です。
つまり、女性や性的マイノリティの勝利は、ほぼ確定しているのです。
戦況が定まってから戦争に参加するような「足軽精神」には、功利的な軽薄さが漂っています。


要するに、〈社会正義〉が「いつも正しい」のは、「後から勝ち馬に乗っている」からなのです。
勝つとわかっている戦いに参加する人たちに、覚悟も強い精神も必要ありません。
〈社会正義〉がメディア上の言説レベルでしか展開しないのも、運動としての実質を必要としない「から騒ぎ」であることが原因です。
そうなると、活動のための活動という自己目的化に突入します。
なにしろ、〈社会正義運動〉の目的であるはずの社会的平等は、もうすでに達成されているのですから。


すでに勝っている側が、敗北が確定している「残党」に対して、どのような態度をとるかは想像に難くありません。
傲慢かつ横暴な態度で相手を扱い、反抗しようものなら、議論などせずに力で抑えつけることでしょう。
冷静に見れば、そんな振る舞いをしている人が、強者と弱者のどちらに属するのかは明白です。
このような「残党狩り」をする資格は、自分が「かつての弱者(=今は勝利者)」だという「アイデンティティ」によって決められています。
繰り返しますが、〈社会正義〉では、自分の「弱者アイデンティティ」を声高に語ることが、逆説的に「勝者」による横暴を可能にすることになるのです。


「ねじれ」を焦点化した、僕自身の見解を書きすぎたので、
本書に沿って元祖ポストモダニズムから応用ポストモダニズムへの変化について説明しておきます。
フランス由来の元祖ポストモダニズムは、社会を「支配権力の場」と見なして、社会的記号をズラし戯れることを抵抗と見なしていたのですが、
応用ポストモダニズムになると、その理論に社会的影響力を持たせたがるようになりました。
社会の価値が権力による言説で作られているのであれば、我々が言説によって好ましい社会のあり方を価値づけることができる、と考えて、
権力による差別や抑圧の不当性を訴えて、人々の考え方を望ましい方向へとコントロールする「実践活動」へと足を踏み入れたのです。
〈社会正義運動〉は、人々の考え方そのものへの干渉であるので、強くイデオロギー色を帯びています。


読者のみなさまは、「クィア Queer」という言葉に耳馴染みがあるでしょうか。
LGBTQのQに当たるものがクィアです。
クィアは、既存の「二元論」的な性のカテゴリーに当てはまらない人々、という定義不能性を特徴としています。


本書は、最近のフェミニズムやクィア理論の人たちが好んで依拠するジュディス・バトラーが、
いかにポストモダン的(デリダ的)な非一貫性と定義不能性を原理としているかを明らかにしています。
バトラーは「クィア」が男性と女性、異性愛と同性愛という「二元論」的分類から「外れたもの」であるため、
「クィア」が分類の絶え間ない脱構築を要求し、分類に当てはまらない人々を解放する、と考えています。
(デリダもバトラーもユダヤ人ですが、僕には定義不能性に価値を持たせる彼らのやり方が、ユダヤ教の神の呼び名の正確な発音が失われていることと無関係に思えないのです)


ちなみに本書のクィア理論への反論は、以下のような感じです。


ところがクィア〈理論〉は──まったく役立たずなことに──性、ジェンダー、セクシュアリティの概念そのものを修正または解体させようとするので、変えようとしている当の社会の人々大半には不可解でどうでもいいものに思われてしまい、ヘタをするとそうした人々から積極的に敬遠されてしまいがちだ。クィア〈理論〉に依拠したクィア活動家たちは、異様なほどの傲慢さと攻撃性──ほとんどの人にとって容認しがたい態度──で活動しがちで、しかも特に標準的セクシュアリティとジェンダーをあざけり、それを指摘する人々を後進的で無作法だと言いつのる。人は一般に自分の性、ジェンダー、セクシュアリティが本物ではないとか、まちがっているとか、よくないものだと言われるのを快く思わない──これはクィア〈理論家〉たちが誰よりもよくわかっているはずのことなのだが。
(『「社会正義」はいつも正しい』)

要するに、性においてノーマルなものはない、と性的な境界を曖昧化していくクィア理論は、
自分の性に疑問のない多くの人には他人事でしかない、という指摘です。
多くの人に受け入れられないからこそ、過激な態度になる、という力学もありそうですが、
個人的には、いかなる同一性にも分類不能なはずのクィアが、〈社会正義〉のアイデンティティ(自己同一性)運動の手助けになっているのは、わかりやすい「ねじれ=矛盾」だと思っています。


ジェンダー研究についても少し触れておきましょう。
ジェンダーの学術研究は、1950〜60年代に主に文学理論として現れました。
80年代までのフェミニズムは、マルクス主義の影響で、性差を階級になぞらえる抑圧的男性/非抑圧的女性という捉え方が中心でした。
しかし、クィア理論の影響によって、2000年代くらいから、男性と女性という分類そのものに異議を唱えるジェンダー論へと移行していきます。
応用ポストモダニズムにふさわしく、ジェンダー研究ではジェンダーを社会的構築物として扱うのです。
要するに、フェミニズムがポストモダンの理論を取り入れたことで、ジェンダー研究へとシフトしたということです。


二〇〇〇年代初頭までに、フェミニズムはポストモダンの知の原理──客観的知識を得ることはできない──と、ポストモダンの政治原理──社会は権力と特権のシステムへと構造化されている──を採択したジェンダー・スタディーズにほぼ完全に取り込まれた。さらにフェミニズムはその急進的および唯物論的な学究的ルーツをほぼ放棄し、それらをポストモダン的な分類曖昧化と文化相対主義に置き換えた──それはジェンダー・スタディーズの交差性とクィア〈理論〉への大きな依存がもたらした、必然的な影響だった。
(『「社会正義」はいつも正しい』)

結局、ジェンダー研究も、応用ポストモダニズムの流れにあるということです。
だから、クィア理論と同じく、男女という分類の曖昧化へ進んでみたり、
批判的人種理論と同じく、女性は「周縁的なアイデンティティ」として、必ず支配権力に抑圧されていなければならなくなります。
仮に家父長支配によって男性が被害に遭っていても、ジェンダー論ではその被害を認めることはできません。
なぜなら、支配権力に抑圧されているのはいつも「女性」だからです。
また、女性が優遇される事例や、女性であることの幸せに対しても、ジェンダー論は「知らん顔」をすることになるでしょう。


さらに問題なのは、ジェンダー研究が性の社会構築性にこだわるために、男女の「生物学的差異」を受け入れないことです。
多くの生物には雌雄の生物学的差異が存在しますし、それを否定する人はほとんどいないでしょう。
実際に、男性と女性では、選択や心理的特徴、関心のあり方や性的行動などの差異が存在するという証拠は大量にある、と本書は述べています。
人間だけに性別の生物学的差異が存在しないのであれば、それはポストモダニズムが批判していたはずの人間中心主義の現れと見なすほかありません。


〈社会正義〉がちっとも社会正義でないワケ

本書の著者は、〈社会正義〉がリベラリズムに害を与えていると主張しています。
なぜそのような結果になるのかと言うと、リベラル(や啓蒙主義)が重視してきた理性や科学によって見極められる客観的事実が、
ポストモダニストによって、支配層である白人、西洋、男性、異性愛に人々を従わせようとする「権力的言説」にされてしまうからです。
こうして〈社会正義〉研究は、科学的事実すら排除すべきものとして扱います。


勘の良い人は気がついたかもしれませんが、応用ポストモダニズムによる世界の見え方は、ある種の「陰謀論」的な見方に非常に近づいています。
社会の不都合のすべては、支配層がわれわれを抑圧しているからなのだ!
支配層の言説の裏には、すべて差別があるのだ!
差別されている「われわれ(のアイデンティティ)」だけが、支配層の権力的なやり方を告発できるのだ!


そう、彼らには「われわれ」という集団的アイデンティティしかなく、「個人」は存在しません。
「自分たちは抑圧されている!」と騒ぐ応用ポストモダニズムは、最終的に「自由な個人」を抑圧するのです。
〈社会正義運動〉は中国の文化大革命と同じく、「われわれ」という集団的主体によって、「個人」に対し「吊し上げ」を行うものです。
僕は〈社会正義運動〉が、表現の自由などの「個人の自由」の価値を低下させることが、一番問題だと思っています。
本書でもポストモダンが「集団アイデンティティを核にする」ことは、大きく問題にされています。
問題は常にアイデンティティであり、それは必ず「集団化」しなければいけません。
なぜなら、「集団アイデンティティ」でなければ、それに政治的な力を持たせることができないからです。


〈社会正義〉の実態が、「われヽヽわれヽヽの正義」を振りかざした単なる「弱いものいじめ」に堕してしまうのは、その集団性のためです。
〈社会正義〉の活動家たちがアカデミズムやマスメディアに接近して、「われわれ」という大文字の主語を獲得しようとするのは、彼らの権力志向を表しています。
だから、僕は〈社会正義運動〉を、社会的意義をほとんど持たない「権力闘争」のパロヽヽディヽヽでしかないと考えているのです。
文化大革命が、毛沢東の革命に「遅れた世代」による、「自分も革命の担い手になりたい」というアイデンティティの形成活動であったのと同様に、
〈社会正義運動〉も、差別批判の公民権運動に「遅れた世代」による、「自分も正義の担い手になりたい」というアイデンティティの形成活動になっているのです。
彼らの欲望は社会を良くすることよりも、常に「なりたい自分」つまりは自己の社会的アイデンティティに向いています。
(社会的アイデンティティの形成を動力にしているので、その形成途上にある若い世代がこの「社会派ぶった自己満足の病気」に罹りやすいのです)


〈社会正義〉の実態は個人のアイデンティティ形成なので、何よりも当事者の「個人的体験」を根拠にしています。
主観的体験によって、社会の客観的構造を明らかにする、という「ねじれ構造」が、またしてもあるわけです。
本書は、〈社会正義〉研究は「抑圧された人々」がみんなヽヽヽ同じヽヽ経験知を持っていることを前提にした「立場理論」だ、としています。
「立場理論」とは、次のような想定によって成立しています。


同じ社会的立場、つまりアイデンティティ──人種、ジェンダー、性、セクシュアリティ、健常状態など──は同じ支配や抑圧の体験を持ち、自分の体験を正しく認識していれば、それを同じように解釈するのだ、という想定。ここから出てくるのは、そうした体験がもっと権威ある十全な世界像を与えてくれるのだという想定だ。
(『「社会正義」はいつも正しい』)

つまり〈社会正義〉を駆動する「集団アイデンティティ」は、「私も同じように抑圧された経験がある!」という自己の経験の「共通化」によって生まれます。
ここでは抑圧の体験の「個」的多様性は、「われわれ」という社会的立場の同一性に、たやすく回収されています。


一人の体験が集団化するということは、スライムが8体集まってキングスライムになるようなものですから、
要するに生物が自らを大きく見せることで自己防衛を図ろうとする、「自己拡大」への欲望と整理することができます。
そのような「キング化」によって、自分の個人的体験でしかないものを、社会的「正義」であるかのように権威化するわけです。
彼らがマスメディアやアカデミズムの強い発信力を安直に利用したがることにも、このような自己強化ドーピングの欲望が窺えます。
文化構築主義を基盤にしていながら、生物に見られる防衛本能で説明できてしまうのが皮肉です。


ちなみに、「立場理論」というものを本書の説明で読んでみたら、面白いことに気づきました。
支配集団が体験する世界は、支配的視点だけで構成されていますが、
抑圧された集団の世界は、支配的視点と抑圧された視点の両方を持つ、というのが立場理論です。
つまり、支配的視点だけでなく、それを超克する視点を持つ抑圧者の「認識」の方がより高次である、というものです。
これはルカーチがプロレタリアの「階級意識」を価値づけた理論をなぞっています。
ブルジョワ階級はブルジョワ世界に制約されているが、プロレタリアはブルジョワ世界とそれを超克する高次の視点を持っている、としてプロレタリアの主体化を肯定したのがルカーチの主張でした。


ブルジョワジーについていえば、かれらのとる方法は直接その社会的存在から出てくる、だから単なる直接性は、表面的ではあるがそのためにかえって克服できない制限として、ブルジョワ思想にまとわりついている。これに反してプロレタリアートは、出発ヽヽ点でヽヽ、すなわち自己の立場を受けいれる瞬間に、この直接性の制限を内的に克服できるのである。
(ジョルジュ・ルカーチ「物象化とプロレタリアートの意識」『歴史と階級意識』平井俊彦訳)

本書では、立場理論をヘーゲルの影響としていますが、
〈社会正義〉理論を「物象化ヽヽヽポストモダニズム」と名づけていることを考えれば、物象化論を有名にしたルカーチのことが頭にないとは思えません。
このことを確認すれば、いかに〈社会正義運動〉がプロレタリアの権力闘争のパロディでしかないかが、よくわかるのではないでしょうか。
(ちなみに「文化大革命」の全称は「無産階級文化大革命」つまりは「プロレタリア文化大革命」です)


僕は階級闘争を否定しない立場ですが、こういう階級闘争のパロディには心底から不真面目さと不愉快さしか感じません。
なぜパロディにしかならないのか、ということの答えは単純で、革命左翼はもうすでに敗北したからです。
〈社会正義運動〉の敗北左翼的な正体は、その活動家や研究者に経済的貧困層への共感や興味がこれっぽっちもないところにハッキリ現れています。
つまり、〈社会正義運動〉とは、資本主義に敵と認定されない場所で、「左翼ごっこ」をしているだけでしかないのです。
本書の著者は、〈社会正義〉が「被害者意識と甘やかし」によるものだと書いていますが、
「ごっこ遊び」でしかないもので、やたら偉そうで専制的な態度をとれてしまう人々に、幼稚さを感じざるをえないことも確かです。
本当に今の社会体制を変革したいのであれば、左翼の先輩方を見習って資本主義体制を批判すればいいのです。
しかし、〈社会正義〉の活動家たちは、社会を本当に支配しているイデオロギーとは戦わず、むしろその庇護をあてにしながら活動をしているのです。
これが「甘え」でなくて何でしょうか。


さすがに本書の著者も目配りが行き届いていて、この重要な事実について指摘しています。
〈社会正義〉の実態は、ジェンダーや性や人種などのアイデンティティ政治でしかないわけですが、そのアイデンティティ研究の形態には意図的に避けられているものがあるのです。


この交差性アイデンティティ一覧に欠けていてびっくりしてしまうものがある。経済的な階級へのまともな言及がまったくないのだ──ときにこれが持ち出されることはあっても、それが中心になることはほとんどない。(中略)経済的な階級は、他の周縁的アイデンティティ形態と「交差的」に組み合わされる場合を除けば、ほとんど言及されない。したがって多くの労働者階級や貧困者が、今日の左派から大いに疎外されているように感じるのも当然だろう──マルクス主義者たちは正当にも、アイデンティティ・ポリティクス系の活動が、きわめてブルジョワ的な問題にばかり取り組んでいると指摘している。
(『「社会正義」はいつも正しい』)

本書では〈社会正義〉がなぜアイデンティティにばかり固執するのか、そして左翼理論を基盤にするわりに貧困問題を避けるのか、の説明をしていません。
これはポストモダニズムの理論的変奏だけでは、実は説明がつきません。
たとえば〈フランス現代思想〉のドゥルーズに強い影響を受けたアントニオ・ネグリは、アイデンティティ政治を批判しています。
つまり、アイデンティティに対する固執は、ポストモダニズムの主要な要素ではないのです。
しかし、〈社会正義〉はアイデンティティへのこだわりなくして成立しません。
本書に「〈社会正義〉研究はいまや、アイデンティティ(何が真実かを決めるレンズとして使われる)とアイデンティティ・ポリティクス(世界変革のための行動に使われる)に深く肩入れしている」と書かれている通りです。


その理由を推測すると、ポストモダニズムと強く結びついている消費社会の影響が浮かび上がってきます。
〈社会正義〉の運動や研究において示されるアイデンティティは、貧困が見えにくくなった高度消費社会において、
人々が商品の選択購入によって、「自分のライフスタイル」を形成し、それを自己のアイデンティティ(自己像)とする「消費的な主体」の延長にあるのです。
消費資本主義では、商品購入の促進のために、人々に商品購入によるファッショナブルなアイデンティティ形成を促します。
そのような社会に慣れ親しむと、他人からどのようにイメージされるか、どのように眼差しを受けるか、という「自己への関心」ばかりが強くなります。
たとえば、男性なのにスカートを履いていたりすると、社会から奇異な目で見られると思いますが、
それが「社会的な偏見」によって成立した差別的な視線だ、と考えるようになれば、もうあなたは〈社会正義〉に一歩足を踏み入れたことになります。
男だってスカートや化粧品を買って、オシャレだと思ってもいいじゃないか、
女だってユニフォームやスパイクを買って、野球やサッカーをプレーしたっていいじゃないか、
BL作品を目につく商品棚に置いて、普通に買ってもらってもいいじゃないか、
こういう「資本増殖」の欲望の延長に、〈社会正義〉のアイデンティティ活動があるのです。
(こういう境界の曖昧グローバル化が、販売側からすれば、顧客層の拡大になることを、忘れてはいけません)
その証拠に、〈社会正義〉は、他人の「自分に対する認識(つまりは自分への視線)」を修正することにばかりこだわっています。
〈社会正義〉の活動家にナルシシズムの匂いを感じたならば、あなたは鼻が効く人だと言えるでしょう。


自分が買った商品が良かったとSNSで発信して、多くの人から共感を示されると、手っ取り早く自分が認められたような気分になるわけですが、
自分が抑圧された体験をSNSやメディアで発信して、多くの人から共感を示されれば、やっぱり自分が認められたような気分になるでしょう。
〈社会正義〉が自分やそれと「同質な人」の主観的体験だけを重視し、科学や歴史、生物学などを無視して平気なのは、その本質が学問的なものではなく消費文化にあるからです。
どの商品を買うかを選ぶのに、いちいち科学的知識などを参照する人がどれだけいるでしょうか。
圧倒的に、実際に買った人の経験による「口コミ」をネットで調べる人が多数ではないかと思います。
そうやって自分と同じ商品を評価する人たちを、「われわれ」として集団化していくのです。
多くの「われわれ」が評価した商品を、たとえばAmazonレビューなどで批判する人がいたら、そんな奴は「吊し上げ」にしてやるしかありません。
〈社会正義運動〉の構図は、このような消費市場でよく見る風景と、どこか似てはいないでしょうか。


しかし、集団アイデンティティは敗れ去る、と本書の著者は言い切ります。
「個」が大事だと感じている人は、このような集団的運動に屈してしまうとお里が知れてしまうので、簡単に賛同しない方がいいでしょう。 


集団アイデンティティだけに注目し、個人性と普遍性を無視する〈社会正義〉アプローチは、人々は個人であり、共通の人間性を持つという単純な理由により、確実に失敗する。アイデンティティ・ポリティクスは、人々に力を与える道ではない。
(『「社会正義」はいつも正しい』)

では、最後に〈社会正義〉の最大の問題点について書いて、このくだらない騒動とお別れしましょう。
最大の問題とは、左派的アイデンティティ政治が、右派的国家主義の専制を助ける結果になる、ということです。
「われわれ」という集団アイデンティティを、最も好んでいる人たちが誰かを考えれば、これはすぐにわかることです。


アイデンティティ重視の左派アイデンティティ・ポリティクスが抱える最大の問題の一つは、それがアイデンティティ重視右派のアイデンティティ・ポリティクスを裏付けてあげて、強化してしまうということだ。
(『「社会正義」はいつも正しい』)

アイデンティティ政治で支配層の批判をすると、支配的アイデンティティを持つ人々が結束して対抗するようになる、と本書は言うのです。
左派がポストモダンに移行するにつれて、ネトウヨ的右派が増えていったのには因果関係があります。
ポストモダンでは社会批判を通じて、自らを「メタ視点」に置くことが重要ですが、
それをしていると、国家の視点を代理することが、最も「メタ視点」になってしまうことになります。


とりわけ西洋と比べると、日本では人種差別の〈社会正義〉研究は人気がありません。
日本は多民族国家だという意識が低く、民族意識においては、簡単に「われわれ」という同一性に吸収されていきます。
そうなると、アイデンティティを語るときに、「私は日本人だ」というアイデンティティを振り回せば、
普遍性を排除するポストモダン的視点では、それ以上の「メタ視点」は存在しないことになります。
男だろうが女だろうが、ゲイだろうがレズだろうが、お前は日本人だろ!
日本人である「われわれ」が、他国からの被害を受けているのに、日本人のお前は何も感じないのか!
そう言われたら、〈社会正義〉の活動家はどのように応じるつもりなのでしょうか。
アイデンティティ政治において、日本では「日本人だろ!」の恫喝に勝てるものはありません。
当然ですが、女性やLGBTQの被害者意識に寄り添うことに馴致されたマスコミは、
他国からの被害者意識をアイデンティティとする右派集団の意見に、反論する力を持たないことでしょう。
その意味で「自分も正義を担う存在になりたい」というだけの幼稚な〈社会正義運動〉は、左派でセクト主義的な内ゲバを行うだけになり、
結果としてネトウヨ的な勢力を調子づかせる、と僕は思っています。


それこそ僕の体験ですが、セクハラ反対の〈社会正義運動〉をしている人たちが、
セクハラに悩む被害者を、冷たく突き放していたのを見たことがあります。
自己への関心で成立した〈社会正義〉は、自己の共感を呼ばない差別や抑圧に関しては冷淡になりがちで、
真剣に困っている「真の被害者」の声を奪っている場合があります。
差別批判の言説が目に入っても、それを主張している人が「真の被害者」なのか、
「被害者アイデンティティ」によって自己強化ドーピングをしたい人なのかを、よくよく見極める必要があります。
山括弧つきの〈社会正義〉では、アイデンティティ形成運動の「集団的共感」から漏れてしまう「本当のマイノリティ」を、無視する結果になるだけです。
そのことを一人でも多くの人に理解してほしいと思っています。


2 Comment

五色さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
五色さん、コメントをありがとうございます。

五色さんは発達障害とされる人たちが、資本主義から「二重に」収奪されていると指摘しています。
その「二重」というところを僕は正確に把握できていませんが、
発達障害の特徴が商品購入に利用される上に、承認欲求を「自分語り」に利用されるということでしょうか。

この記事は僕が性的マイノリティ認知運動によって嫌な目に遭わされたこともあって、性的マイノリティについて焦点が当てられています。
しかし本書『「社会正義」はいつも正しい』の第7章は「障害学とファットスタディーズ」となっていて、
著者たちはクィア的な「応用ポストモダニズム」が「障害の社会モデルに極めてうまく当てはま」ると述べています。
要するに、異性愛を規範とする社会モデルは、健常者を規範とする社会モデルと通じ合っている、と批判するわけです。
そこではフーコーの理論が援用され、健常者であれという社会の規律・訓練の圧力が医療的視点に入り込んでいることが問題にされます。

本書から引用します。
「それでも一部の活動家は、自分の障害──これはうつ病、不安、自殺傾向といった治療可能な精神疾患も含む──がよいものだと固執し、それをアイデンティティの他の側面と似たものだと主張する。そうしたものは、アイデンティティ・ポリティクスにおいて、自分に力をもたらすものとして使えるのだ。」
プラックローズとリンゼイは、ポストモダン理論を背景にして、
障害者が健常主義の文化規範を擾乱するために、自身の障害をアイデンティティとして喜ぶように促されている、と主張します。
彼らはそれが障害者自身にとってマイナスだと言うのですが、ポストモダンが手を握っている消費資本主義にとってプラスであること、
それ以上に、民族主義的なアイデンティティ・ポリティクスに水面下で接続することが問題だと僕は思っています。
つまりポストモダン的な〈社会正義〉運動は左翼的な現象として生じていますが、
内実は右翼的で民族主義的なアイデンティティ重視の姿勢と似たり寄ったりになっているのです。
(つまりは、今は右も左も消費資本主義イデオロギーの支配下で活動しているだけなのです)

詳しくは知らない(興味がない)のですが、トランスジェンダーになりたがる人が増えた、という本が出版中止になったようです。
発達障害を自認する人が増える(発達障害ブーム?笑)のも、同様の現象としてありえると思いますが、
個人的見解で申し訳ないのですが、なりたい人は好きになればいいと思います。
ただし、自己責任でという条件がつきますが。

五色さんが指摘してくれたように、マイノリティをアイデンティティとして積極的に評価する運動は、
消費資本主義のビジネスモデルと合致しています。
だいぶ前から漫画やアニメなどのサブカルでは、そのようなマイノリティ意識やコミュ障的なものを肯定する欲望に満ちていました。
大きく見れば、これらはよくあるサブカル世界の現実化の欲望の一つといえないこともないかもしれません。

「自分語り」というアイデンティティ商売が盛んなのは、自分以外に社会的価値が感じられない人が増えたためですし、
人々を「個人消費者」へと分解して、社会的連帯による権力への抵抗を阻止するというポストモダン権力の目論見からすれば、
そうなるだけの社会構造的イデオロギー的な必然があります。
そのような社会を俯瞰できない人たちが多いのは残念なことですが、
そうでない人が少数者でも連帯していく必要はあると思っています。

ニューロダイバーシティーと社会正義、再送

いつも興味深く論考を拝読しています。

特に、

『「資本増殖」の欲望の延長に、〈社会正義〉のアイデンティティ活動があるのです。
(こういう境界の曖昧グローバル化が、販売側からすれば、顧客層の拡大になることを、忘れてはいけません)
その証拠に、〈社会正義〉は、他人の「自分に対する認識(つまりは自分への視線)」を修正することにばかりこだわっています。
〈社会正義〉の活動家にナルシシズムの匂いを感じたならば、あなたは鼻が効く人だと言えるでしょう。』

という部分について、はっとするとともに、「マイノリティ」といわれる人に、自分のプライベートな領域を語らせ、その内容を商品化するということは、ジェンダーに限らず様々な分野で起こっているように感じました。最近話題になっている、ニューロダイバーシティ(あるいは「大人の発達障害」)もその一つだと思ったので、話題提供のようになってしまいますが、少し思うところを書かせていただきます。


結論から申し上げますと、発達障害と言われるようになった人は、その生来の特性と、発達障害ブームによって、資本主義社会から二重に収奪されているように思いました。
コミュニケーションの苦手さやこだわりを特性とする自閉スペクトラム症と、注意力や多動性に関わるADHDは、ここ20年ほどで診断数が急増し、もともとは就学前後の子供に検査や診断を行うものだったのが、大学や職場での不適応を機に診断される「大人の発達障害」が話題になりました。それらの神経発達性の特性や社会との関わり方については、「ニューロダイバーシティ(神経多様性)」という名目で、(脳科学や臨床医学、遺伝学、社会学、現代思想など多数の分野で)学術的に研究されるだけでなく、当事者研究やオープンダイアローグという形で、診断済みの人や自称、グレーゾーンの人の個人的な語りも公表されるようになりました。実際、当事者のハウツー本やエッセイが毎月のように出版されており、中には、社会人としてはデメリットになりかねないような、かなりインパクトの強い思考内容や失敗談が共有されています。さらには、刺激や人の気持ちに敏感なHSP(繊細さん)という、医学的な診断がなく、自称でしかありえない概念も流行しました。
以上のような状況は、「よりよい社会」を目指すための運動のように見えて、実はLGBTQと同じく、発達障害の当事者の認知や考え(と、それをあけっぴろげに語りたいという欲望)を、資本主義の領域の拡大に利用しているだけに感じました。
自然科学的な要素(遺伝子や脳の特性)を抜きにすると、結局のところ発達障害とは、資本主義社会の「よき消費者であり、悪しき生産者」が押し付けられるレッテルだだと考えます。
キャラクターグッズや楽器を集めることにこだわったり、注意の移り変わりが速くたくさんの動画を再生したり、後先考えずに新商品を購入したりする顧客は、「アテンションエコノミー」の拡大や、デザインが少し違うだけの商品を売りさばくのには格好のカモでしょ
う。情報化が進む前から、資本主義社会は消費者の持つ発達障害的な性質を存分に利用していたと思われます。
しかし、産業の中心がメーカー・商社から、金融やITに移ってくると、よい人材の条件に、クリエイティビティやマルチタスクへの対応力が加わるようになります。発達障害的な特性を持つ人のうち、認知特性を活かして高い創造性を持てるのはごく一握りで、残りの大部分の人は、特性の偏りのマイナスの部分だけをクローズアップされるようになります。こうして「悪しき生産者」に位置づけられてしまった彼らを救うようにみせかけて、科学的なエビデンスや治療法が揃う前に、自助努力によって社会復帰を促したり、内観に基づいた認知特性の「自分語り」を本にして売ったりすることで、当事者の生きづらさを手っ取り早くお金に替えているのが、今の発達障害ブームの裏にあるではないかと疑ってしまいます。
「多様性理解」は非常に聞こえのいい言葉ですが、科学による原因解明や、社会構造の変革をもたらすことなく、自己開示と自助努力を流行させるだけならば、新設された「マイノリティ」の概念に当てはまる人をブランド化して、その人の承認欲求を一時的に満たすだけで終わってしまうのでしょう。

長文になってしまい申し訳ありません。
お時間のあるときにでも、ご意見を聞かせていただけますと幸いです。

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