南井三鷹の文藝✖︎上等

Home > ブログ > 南井三鷹の言ってみた > 文学業界への提言

文学業界への提言

文芸誌という横並び文化

日本の「商業文芸誌」は、横並び文化で成り立ってきました。
そう、隣の人を見て自分のやることを決めるという、日本的なアレです。
気がつくと、みんなで同じことをやっている……。
これは新規参入がなく、周囲の「空気」から浮かなければ「安全」だという、自己保身的な社会にありがちな構造です。
どこでも同じニュースを流している地上波テレビ局が、その典型です。
商業文芸誌の代表は「文学界」「群像」「新潮」「文藝」「すばる」などですが、それぞれ出版社が違うはずなのに、登場する書き手は驚くほど変わりがありません。
他の文芸誌が評価しない作家を、ある文芸誌だけが掲載することにこだわった、という現象は見られないと思います。
どの雑誌も掲載する作品を作者﹅﹅によって決めていますし、
要求するレベルも全部同じだということです。
文芸誌は複数存在するように見えても、実際は一つのイデオロギーを共有した競争﹅﹅なき﹅﹅中央管理世界でしかないのです。


「日本的」と言っても、漫画雑誌は違うシステムでやっています。
たとえば少年ジャンプでヒットを飛ばした漫画家が、次作を少年サンデーで連載するようになったら、ちょっとした「事件」です。
作家と編集部の間で、何かトラブルでもあったのか、と疑うでしょう。
漫画雑誌に「横並び」の圧力がはたらかないわけではないのですが、
ジャンプでヒットを飛ばした漫画があれば、ライバルのマガジンやサンデーでは、他の漫画家の手で似た趣旨の漫画をぶつけたものです。
たとえばジャンプで囲碁の漫画がヒットすると、サンデーでは将棋の漫画を追っかけ連載する、という具合です。
(最近は雑誌の購読者数を競うより、単行本が主な収入になっているため、このような手法は減ったかもしれません)
このような環境では、否応なく競争が起こります。
面白い作品が他の競合雑誌に掲載されてしまったら、大打撃を受けてしまうのが目に見えているからです。


しかし、文芸誌の場合はそんな心配はありません。
そもそも赤字体質でも廃刊危機が訪れない「守られた」雑誌なので、売り上げを競う必要が乏しいという身も蓋もない話もありますが、
「横並び」なので、隣の雑誌が売れれば、むしろ自分たちもそれにあやかるという発想にしかなりません。
そもそもが競争の起こりにくい環境なのです。
純文学というジャンルで新人がいきなり大ヒットを飛ばすことはほぼありませんし、
仮にそういう大型新人が出てきたとしても、大ヒットを飛ばした後になってから「次はうちの雑誌で書いてください」と、作家が好みそうな異性の編集者でも投入してお願いすれば間に合います。
つまり、他の文芸誌が発掘した作家であっても、文芸業界では「共有財産」にできてしまうわけです。
この場合、大型新人発掘のモチベーションは高くはありません。
むしろ、他の雑誌が労を払って探した作家を、後から起用した方がリスクがなかったりするのです。
このような環境では、新人発掘のモチベーションが高くなるとは思えません。
必然的に「いつも同じ顔ぶれ」のような状態が続き、作品の評価よりも業界にいる年数で「重鎮」とか「大御所」とか言われる人がのさばります。


競争原理のある漫画雑誌が依拠するのが、資本主義的なスタイルだとするならば、
横並びの文芸雑誌は、共産主義的だと言えるのではないでしょうか。
資本主義下では、市場の圧力によって自然と能力主義による競争原理がはたらきます。
そのような価値観の中では、どうしたって才能ある作家を自分たちが発掘しなければいけない、と考えるようになるでしょう。
分散した個々の主体的エネルギーが、発展をもたらします。
しかし共産主義では、中央管理による指導体制でしか、進歩や刷新が生まれません。
中央指導部の指示に従い「横並び」であることを好むので、簡単に権力に屈する環境を作ります。


僕は資本主義がイデオロギー的に優れているとは思いませんが、
共産主義が90年代以降のソビエト支配の崩壊と中国の変貌によって、競争なき世界の「怠惰」と「権威主義」をどう乗り越えるか、という課題を突きつけられたことは無視できないと思っています。
(中国やロシアなどの旧社会主義国が、アメリカに「権威主義国家」と言われてしまうのは、元の体制を乗り越えられないことが原因です)
権力の中枢である中央指導部に従っていれば、保護してもらえるので安全安心だ、
これこそが共産主義的なあり方です。
あれ? それって日本にも見られますよね?
そう、日本は資本主義的な面と共産主義的な面の両方を曖昧に受け入れている国なのです。
その歪みが、エンタメと純文学において表れている、と僕は言いたいのです。


文芸雑誌が共産主義的であるべきかどうかは、難しいところです。
おそらく資本主義の市場原理の中では、文学が生き残るのは厳しいのではないでしょうか。
仮に文芸雑誌が共産主義的であることが正解だとしても、
その問題点である「怠惰」と「権威主義」を改めようとしないのは、それこそ怠惰の極まった態度だと思います。
共産主義国家の多くが崩壊しても、共産主義的な文芸誌が生き残っているのは、
利益が出ずに赤字を積み重ねても、保護してくれる「権力」を頼れる状況にあるからです。
その「権力」が何であるかは、僕は内部の人間でないので明確には示せませんが、
出版社の「良心」だけではなく、必ず背後で文芸誌を支える何らかの「権力機関」が存在しているはずです。
努力しなくても守ってもらえるのですから、現状を変革しようという強い意欲は生まれません。
むしろ、怠惰であることが優先され、労を払わないことが重視されます。
(共産主義的=左派なのに、革新にならず保守を原理とするあたりが笑えますよね)


文芸業界が好む手段に、他のジャンルの三流著名人に小説を書かせる、というものがあります。
他ジャンルで一流になれなかった人に、「私小説的な興味で売る小説」を依頼すれば、自分たちで新人を売り出して有名にする労力は必要ありません。
一時期プロ野球のセ・リーグが、優位性に驕ってFA(フリーエージェント)で他球団の有力選手を横取りし、自分たちで選手の育成をサボって弱体化した構造と同じような「怠惰」が、そこにはあります。
才能ある人を他のジャンルから奪うのではなく、文学以外の表現でも良かった人で、他のジャンルでは通用しなかった三流を集めているのですから、
どうしたって金を出す価値のある文学作品が掲載されるはずがないのです。
出版社の事情で「発掘」された書き手たちに、「文学の価値」がどれだけ理解できるのでしょうか。
所詮彼らが理解しているのは、商売における「マスメディアの価値」でしかないでしょう。
こうして、文学に人生を動かされたことのない書き手が、一夜漬けの知識で文学を語ってしまう醜悪な事態が起こるのです。
マスメディア商売に寄りかかって、横並び文化にどっぷり浸かった「怠惰」な文芸誌の編集者が、文学を愛しているとは僕には思えませんし、
そもそも彼らこそが「文学の価値」を、趣味的にしか理解していない人たちなのだと思います。


SNS時代になり、発信者や表現者になる敷居が、異常に低くなりました。
以前は詩的感性や文章力とともに、文学教養の有無で「実力」が測られていましたが、
ポストモダン以後は、大量生産品の所有や消費によって、ファッション的に他人との差異(個性)を示すだけになりました。
つまり、市場で流通する商品を「媒介メディア」にしてしか、自分を表現できない人が続出するようになったのです。
その延長に、スマホなどの情報端末メディアに依存した自己発信・自己宣伝で、他人との差異(個性)を示す現代社会があります。
発信したい「内容」があるから発信するのではなく、他人との差異を趣味﹅﹅的に﹅﹅示して「自分を他人に認知させる」ための発信ばかりが横行しています。
「他人とは違う私自身を見て!」「他人とは違う僕をわかって!」みたいな甘えん坊精神が、メディアの世界を席巻するようになったのです。
その結果、本は以前に比べて断然読まれなくなっているのに、本を出したい人、雑誌に書きたい人、「表現者」になりたい人ばかりが増えています。


さて、表現者志望が世の中にあふれかえっているとして、今の時代に文芸の才能がある人は、文学の表現者を志望するでしょうか?
残念ながら、文学はメディア上の自己表現の第一志望にはなりにくいでしょう。
おそらく漫画を描く方が先でしょう。
画力に自信がなければエンタメ小説家を志すでしょう。
もしくはYouTuberやVtuberとして活動するでしょう。
それがダメなら脚本家か劇作家、漫画原作者、放送作家になるでしょう。
それがダメならゲームシナリオを作るでしょう。
それがダメならラノベを書くでしょう。
それらがダメになって、初めて文学を選ぶ人が多いと思います。
(ただ、文学業界への就職だと生活費が稼げないので、そういう人は大学に居座ることを目論むようになります)
文芸誌が他のジャンルで通用しなかった三流を「作家」扱いできるのも、そもそも文学の志望者が同様の人間ばかりだからなのです。


確実に少数マイノリティでしょうが、青年期に文学の世界に親しんでしまって、「わたしは最初から文学にしか興味がない!」という人がいるかもしれません。
そんなあなたは不幸です。
今の雑誌編集者は、そういう志の高いマイノリティと仕事をしようとは思いません。
なぜなら、編集者が文学にろくに通じていないことが、志の高い人を相手にするとすぐにバレてしまうからです。
彼らは自己保身のために、自分と同レベルもしくは素人レベルの作家と仕事をしたがります。
もしくは、今の読者はそういうものを求めていない、とか首を横に振りながら、訳知り顔で自分の信じる価値観を押しつけてくることでしょう。
大衆が求めるのは、そんな真面目で高尚なものではないのですよ。
村上春樹のようなエンタメとしても通用する「文学風」の読み物です。
そうして、大衆レベルの教養しかない編集者は、大衆である自分が喜ぶ作品こそ大衆にウケる作品だと頑固に思い込むのです。
明らかに大衆のレベルを超えた知的な作品は、編集の下読み段階で切り捨てられるでしょう。
こうして商業文芸誌の知的水準が、素人レベルにまで落ちていくことになりました。


作品を商品として売っていくためには、広い消費者層に訴える必要がある、
それは結局、素人レベルをターゲットにするという発想になるほかないのですが、これが正解だと思い込んでいる人は多いと思います。
他のジャンルの三流を連れてくるということは、文学ジャンルの素人を連れてくるということですし、
実際、どこぞの教授などは文芸誌に活動拠点を移してから、編集者に「今さら読むの?」みたいな作家の本を勧められて読んでいました。
(もちろん、文学的素養に乏しくても良質な作品を書ければ文句はありませんが、秒でド下手とわかる素人作品が出てくるわけですからね)
俳句雑誌などがやたら初心者向けノウハウの特集をやりたがるのも、こういう思い込みのせいだと思いますが、
内容を素人レベルに下げたことで、以前より文芸誌が売れるようになったという事実があるのでしょうか?
むしろトータルとして見れば、逆の結果になったのではないでしょうか。


実際は専門的で難解な内容の雑誌だと売れない、ということはありません。
僕が以前の記事で取り上げた「軍事研究」という雑誌は、掲載されている記事が非常に専門的で難しいものです。
しかし、「軍事研究」が売れていないようには思えません。
要するに、素人には十分な理解が難しい内容でも、買いたい人や読みたい人はいるのです。
そこでは「専門性の高さ」が、購買の拡大に貢献しているように思います。


商業文芸誌でも、同じような売り方がありえるのではないでしょうか。
せっかく商業誌だけで毎月数誌も出版されているのですから、同じような素人向け作品ばかりではなく、
「専門性の高さ」を売りにした雑誌が一つくらいあってもいいのではないでしょうか。
文芸誌は「横並び」の番組を流すだけのテレビ局のような、権力に管理された護送船団であるべきではないのです。
雑誌で形ばかりの多様性の特集をするよりも、実際にバラエティに富んだ文芸誌を作った方が意義深いのではないでしょうか。
(本質が画一性に貫かれた文芸誌で、ジェンダー等の特集をやっても、最初だけルサンチマンのはけ口になって売れますが、数年後には飽きられて効果がなくなるでしょう)


結局、文学業界は「横並び」を好んでいます。
競争がない方が楽だと思っているのかもしれませんが、ならば正面から社会のアメリカ化に抵抗したらどうでしょう?
資本主義と対決する気概もないわりに、競争からは逃げたいというヘタレ精神だけを抱えて、
権力の管理をあてにして惰性の横並び文化を続ける文芸誌には、甘えた現実逃避精神を拗らせた人が集まるだけになります。
現実逃避の温床でしかないから、いつまでも消費に依拠したポストモダンを信奉する時代遅れの読者と付き合うしかないのです。


 提言① 商業文芸誌は「保護された横並び」をやめて正々堂々と競争しなさい!


文学賞という自己顕示装置

文芸誌に文学としての専門性がなくなったために、新人文学賞の敷居がかつてないほどに低くなっています。
言いたくはありませんが、最近の商業文学誌の新人賞作品は、数ページ読んだだけでリアリティのない「言葉の上だけでの描写」が目に飛び込んできて、読み続けられないことがほとんどです。
それは描写の背後にある実感もしくは想像力の欠如の現れなのですが、
「当人が語っている」という「(潜在的な)一人称への寄りかかり」で、リアリティの欠如が補えると思っていることが、すぐにわかってしまいます。
要は「自分語り」で小説が書けると思っている素人レベルのものが多いわけですが、
作者に話題性があれば、そのレベルでも芥川賞候補にしてもらえます。
短歌・俳句(定型短詩)などはもっと深刻で、「詩型への寄りかかり」で成立した、ほとんど散文という作品が大量発生しています。
詩型の中に収めれば、何でも詩にしてもらえると本気で思っているあたり、純朴でいじらしいことこの上ないのですが、
その精神は権力者のペットにはふさわしくても、文学をやるにはちょっと物足りないものがあります。
すべての文学賞が、10年くらい「該当作なし」を続けないと、こういう「ペット精神(去勢済)」を追放することは不可能という状況になっています。


こういう状況を生んだ原因に、新人文学賞が純粋に作品の文学的評価をする場ではなくなったことが挙げられます。
おそらく、審査をする人も、何が良い文学なのか確固たる信念を持っていないと思います。
むしろ彼らは信念がないことで、商業文学が文学の本質を削ぎ落としていく世の流れに「適応」できたのです。
こうして、文学ならぬ文学という奇妙なジャンルが生まれました。
それを支える文学賞は、優秀な「文学風」商品生産者にお墨﹅﹅付き﹅﹅を与える場になったのです。
「文学風」であることが重要なので、本当に文学や詩であってはいけません。
文学や詩であってはいけないのに、文学や詩であり続けることができるのでしょうか?
もちろん、それは可能です。
「自称」でしかないエセ文学を、業界が集団となって承認していけばいいのです。


そもそも、文学作品は市場で流通する限り、「商品」であることが避けられません。
雑誌の売り上げが赤字であろうと、その事実は変わりません。
文学作品が多くの読者を求めるようになれば、市場を流通することになるのは、ある程度仕方がないと思います。
しかし、文学作品を文学的基準で評価することができなくなり、他のものと同様の商品面でしか評価されなくなると、
すぐれた文学作品を作りたいのか、自己プロデュースの売れる「商品」を作りたいだけなのか、もはや区別ができなくなります。
いや、両者の区別をする必要がなくなります。
作品の評価はもっぱら作者ブランドの名前でなされることになり、
ある程度ブランド化に成功した作者は、作品の出来が悪かろうと批判を許されない存在になります。
作者に対する批判は、ブランド価値の低下につながるからです。
要するに、文学者はデザイナーと同種の商売になったのです。


こうなると、文学という概念は、もはやブランド価値を高める宣伝文句以上のものではなくなります。
欲しいものは、ただ「作者ブランド」に対する社会的評価なのですから。
もはや作品は「誰々の作品」という認識でしか扱われません。
つまりは発信者をブランド化する道具でしかなくなったのです。
これは構造的には、自分のSNS発信に「いいね」の評価をもらう行為と変わりがありません。
だから、マスコミへの売り込みに熱心な文学人が、やたらSNSの発信で自分のイメージを過剰演出したがるのです。
狭いSNSでの承認は金になりませんが、同じ行為でも雑誌メディアで承認を得ることに成功すれば、多少の金にはなります。
文芸誌は共産主義的な世界ですが、その正体は作家同士が「相互フォロー」という「人脈」によって結びついた利益共同体でしかないのです。


日本のプロ野球選手が、アメリカのメジャーリーグでプレーすることを選択すると年棒が大幅に上がったりしますが、
彼らは必ずしも収入を増やす目的だけで渡米するわけではなさそうです。
より高いレベルの場で自分の力が通用するか試したい、高いレベルで自分自身をさらに引き上げたい、という求道者のかおが見えます。
しかし、商業文学の世界で同じような求道的な目的を持った人は見かけません。
むしろ、そういう目的を持った人は、商業市場に取り上げられない「アングラな人」でいる場合が多いのです。
この点でスポーツと文学との差異は、不思議でもあり、不条理でもあると思います。


その差異を考えていくと、実力主義の欠如という問題に突き当たります。
スポーツは競争の中で自分の力を自分で証明することが可能です。
そこで純粋な実力を示すことは、そこまで難しいことではありません。
しかし、文学の実力は、自分で証明することは困難です。
「価値がわかる人」に評価してもらうしかないのです。
そのため、作品評価が「価値のわかる人」によって正確になされるなら実力の世界に近づきますが、
その評価が内輪の打算や人脈で成立するだけになると、実力などそこらへんの石ころ同様の価値しかなくなります。
そうして文学作品は石ころへと変えられ、「業界」の打算や人脈で成立した「管理しやすい偽物」が売り出されるだけになりました。


そういう「管理しやすい偽物」にとって大敵なのは、真に文学的な価値を評価しようとする批評家です。
当然ながら、商業文芸誌は「管理下にある批評家」にしか評価の仕事をさせなくなります。
つまり、批評家がそもそも偽物になるわけです。
能力のある批評家は、そんな「業界の管理」に媚びる理由がないので、そういう「管理下にある批評家」になる人は、必然的に能力不足の人になります。
こうして形ばかりの中身のない批評だけが「プロの批評」ということになり、何も知らない純真な若者が「業界の代弁者」の言うことを真に受ける事態が起こり、いっそう業界堕落が深刻化するのです。
運良く真に文学的な作品評価をする気概のある人が出てきたとしても、
商業文学の業界は内輪の利益を守るために、忌憚のない批評を営業妨害として追放していくほかないのです。


これほど文学業界が薄汚れた商業主義に堕していても、世の中に表現者志望があふれかえっているために、
すっかり堕落した業界にまで表現者になりたい「お客様」がわんさかやってきます。
彼らは自分が一丁前の表現者であるという肩書きアイデンティティ欲しさに、文学賞を欲しがります。
書きたいこと、表現したいことがあるわけではなく、単に他人に「顕示見せびらかし」をする肩書きアイデンティティ欲しさで書いているだけなので、
やはり作者である自分の売り込みにばかり熱意を持っています。
もう作品は誰にも待望されていないのです。
業界にとって必要なのは、単に「受賞作としての商品」です。
文芸誌としては商売のための「受賞作」が必要なので、文学賞の数がやたら増えすぎていますし、
最近の文学賞はよっぽどのことがなければ該当作なしにはなりません。
文学賞のデフレ化によって、その価値がかつてないほどに低下しているため、冷静に見れば受賞作とそうでない作品にそれほどの差はないのです。
だったら、最近のアイドルのように6〜8人くらい同時受賞にして、集団で売り出した方がいい商売になることでしょう。


要するに、今の文学賞は単なる自己顕示装置になったということです。
自分の表現を見せびらかして、表現者として世の中に認められたい、なりたい自分になりたい、
そんな幼稚な欲望を形にしたものでしかありませんので、幼稚な人でも簡単に共感して「いいね」できる作品しか欲望されません。
その結果、文学賞候補はSNS発信のレベルでしかなくなります。
似たり寄ったりで15秒見ればお里が知れるようなものばかりです。
実際、文芸誌の文学新人賞作品など誰が真剣に読むのでしょう?
文学新人賞を狙っている同様の書き手だけではないでしょうか。
実際、書き手志望者の方が純粋読者より多いかもしれない業界ですから、新人賞の応募者に買ってもらうことを販売戦略にしている雑誌ばかりだと思います。


誤解がないように言っておきますが、僕は何も最近の作品が幼稚でダメだと言いたいのではありません。
少なくとも僕が知っている30年前から、文学賞とはそういうものでした。
そもそも文学賞という装置は、幼稚な人たちのために置かれているのです。
はっきり言えば、文学賞こそが多様性を排除するための装置であり、「文学」の名のもとに商業出版社(やアカデミズム)の文学支配を確立する「規律・訓練」の場なのです。
(やたらフーコーとか言いたがるポモ論者たちが、一度としてこういう装置を批判したことがありましたかね?)


もう少し易しい言い方をしましょう。
文学賞は、商業文学を牛耳る連中が、自分たちの仲間にふさわしい人間を選抜するための装置です。
なにしろ「相互フォロー」人脈による利益共同体なのですから、ふさわしいメンバーを選別しないわけにはいきません。
要するに、自分と似たお仲間を求めているだけのことなのです。
当然ながら、多様性の幅が狭い同質集団になりがちですし、そうでなくても集団が前提する同質性からはみ出す言動は、そのメンバーになった途端に抑圧されることになります。
(名が売れた途端に無難なことしか発信しなくなる人の多いこと!)
つまり、建前としては作品を評価する機関ですが、実際は作者にメンバーの資格があるかどうかを評価しているのです。
複数回ノミネートされた作者だから受賞させる、という慣習があったりするのは、本当に作品評価であればありえないことではないでしょうか。


極端な逆説を弄すると思うかもしれませんが、
本気で文学をやりたいのならば、商業出版社が関わる文学賞に選ばれるのは恥だと理解できなければいけません。
文学賞に選ばれたということは、業界という利益共同体の持続にとって都合の良い「良い子」だと判定されたことになります。
それが意味することは、文学の堕落した状況に対してまるで問題意識がない人だと上の世代に侮られた、という事実でしかありません。
優れた作品が文学賞に選ばれることがないとは言いませんが、はっきり言って作品評価に関してはデメリットの方が大きすぎます。
彼らが真に欲しているのは「すぐれた文学作品」ではなくて、業界利権の維持に貢献する「一般人の話題になる商業作品」です。
そんな形だけの文学賞はいらない、と勇気を出して大きな声で言いましょう。
今という時代を生きていない年寄りたちが、今の作品がわかるような顔をしているのも滑稽です。
「頑固ジジイ」が自分の時代の価値観で身勝手にダメ出しや批判をした方が、若い人の反骨心を育てることになって、結果としてどれだけ文学界全体にとってプラスになるかわかりません。
資本主義社会は人々が幼稚であり続けることを望むため、むしろ年寄りが若い人に褒められるとだらしなく喜ぶようになる社会です。
若い人に理解があるような顔をして媚びる年寄りが、どれだけ多いことでしょう。
その意味で、「業界」で権力者の地位にいる人間も含めて、自己顕示と自己保身にしか興味がなく、
看板に「文学」の文字を掲げていても、一般のどこにでもある凡庸な社会の姿がそこにあるだけです。
中身が凡庸な一般社会と同じだからこそ、一般社会でうだつが上がらなかった人が、ニッチな文学業界で「敗者復活」を企てるようになるのです。


それでも文学賞を続けたいのであれば、一誌でいいので一般投票で決める賞があればいいと思います。
できれば死者たちによる投票で決めるのが最高のかたちです。
(その方法については、AIにでも開発してもらえばいいと思います)
死者は生者以上に存在していますので、下読みなどという不透明なプロセスも必要ないと思います。
少しでも文学賞の体質を変えることにはつながるので、試してみることをお勧めします。


 提言② 文学賞を業界利権の維持に利用するのはやめなさい!


なぜ近代文学や海外文学を捨ててしまったのか

さらに根本まで遡って文学衰退の原因を考えると、多くの人が古典文学や近代文学をまともに読まなくなったことを挙げないわけにはいきません。
読書人口そのものが減っているので、文学の読者も当然減るのですが、
おそらく読書人口の中に占める文学を読む人の割合も減っているのではないかと思います。


僕はもう10年以上も商業文芸誌を読んでいないのですが、過去の記憶をさかのぼっても、近代文学の文豪や外国文学の作家の特集企画をあまり見たことがありません。
商業文芸誌は特集企画がないものも多いですが、やたら「今」にばかり接続したがる印象があります。
日本近代文学が新聞小説と結びついて、ジャーナリズムに汚染されすぎたことが問題の根底にあるわけですが、
商業文芸誌は日本の現存作家たちの作品発表や宣伝のための場でしかなく、文学愛好者のための雑誌ですらないというのが実情です。
そうなると、文学愛好者が読むべき雑誌は何になるのでしょうか。
僕には適当な雑誌が思いつきません。


文学や芸術において、死との関係は無視できないものであるはずです。
とりわけ、近代文学の文豪には、自殺者が異常なほど多いという事実もあります。
背後に死というものを抱え込まずに、文学というものがわかるものなのか僕は訝ります。
しかし、現在流通している文芸誌は、実質上、生きている作家に奉仕するものでしかありません。
文学業界が死というものをどこかに忘れてきたことと、文学が衰退したことに全く関係がないとは思えないのです。


議論がわかりやすすぎることを承知で書きますが、
文豪に自殺が目立ったのは、戦前戦中生まれの作家までです。
戦後生まれの作家や詩人で、衝撃の自殺をした人というのは、すぐには思いつきません。
それに対して、ミュージシャンや俳優はどうでしょう?
僕は何人も思いつくことができます。
このようなわかりやすい事実一つをとっても、戦後文学というジャンルは演歌歌手のような文化だとわかります。
若いうちにヒットを飛ばした人が、歳をとって衰えても、いつまでもやたら健康な姿で業界に君臨している感じです。
(もちろん、健康であることが悪いと言っているわけではありません)
まあ、業界の功労者というご身分なのはわかるのですが、詩人は夭折するという伝説はどこにいってしまったのでしょうか。
ハッキリ言えば、文学は退屈な人たちの安心安全な世界になったということです。


おかげでこの業界を志望する人間は、若くても年寄りみたいなメンタルの人が多くなりました。
若いうちなど批判されてナンボだと思うのですが、
ちょっと自著の批判をされたくらいで、感情的にギャーギャー文句を言ったり、嫌がらせをしたり、幼稚な自己保身バカばかりが目につきます。
こんな自己保身バカが恥ずかしげもなく生息する業界で、死というものと向き合うことができるはずがありません。
三島由紀夫が歳をとることを嫌って、死をスペクタクル化して戦後日本人に突きつけたくなった気持ちが、今の僕には理解できてしまうような気がしています。
しかし、日本の文学業界はバブル経済と村上春樹バブルに夢中になって、三島の死が文学の死であったことに気づかないようにしたのです。
(加藤典洋は村上春樹の作品を無理やり死と結びつけて語ろうとしていましたが、それは御用批評家による業界正当化の努力でしかありませんでした)


文学が深く依拠するのは死者たちの世界です。
その意味で、生者の現世利益にしか奉仕しないものを文学と呼ぶのは、詐欺に等しい行為です。
自己宣伝のために利用されるのは、もう問題外すぎて話になりません。
作家たちは自らが死者の立場になって、今の日本の文芸誌や文学作品を読んでみたらいいのです。
それがいかに利権化した商売でしかないかが、よく感じ取れると思います。
生者のためだけにあるものは、文学ではありません。
死者との関係を結ぶことが根底にあるから、文学は宗教と比肩しうるものなのです。
(メディアの壁に守られた安全世界で、メディアで接した震災や戦争について何かを語った気になっているのは、死の反文学的なジャーナリズム化であり情報商品化の一部です)


しかし日本の文学業界は、近代文学まで存在していた「本来の文学」を裏切っています。
経済バブルに浮かれて近代文学と死の影をダンボールに押し込んで粗大ゴミに出し、
死者との関係より観光客が大事な東浩紀のようなラノベお坊ちゃんを担いで、サブカルこそが未来の文学であるかのように思い込むようになりました。
戦前の文学は死の近くにいる人が手を伸ばすものであり、だからこそ、戦場に高村光太郎の詩集を持っていく兵士がいたのです。
しかし、戦後の文学は、老後になってから悠々自適の安心生活を送りたい人が手に取るものになったのです。
単に労働の現実から逃避したいショッピングモール精神(文学フリマ!)の居場所になりました。
こんな文学は端的に言って偽物のハリボテです。
本当の文学の真似をして文学商法に精を出した「新興文学」です。
「新興文学」は近代文学とも切断し、同時代の外国文学とも切断して、ガラパゴス生態系のような国内市場に閉じ込められ、日本の消費回転寿司の中を回遊するしかなくなりました。


現代文学という商品は、もうどん詰まりです。
サブカル化はバブル的な消費生活があってこそ成立するもので、この先の景気後退において急速に支持されなくなるでしょう。
今更ながら従来の文学が必要になると思いますが、文学業界を腐らせた重鎮たちを抱えたまま、時計の針を戻すことができるものでしょうか。
せいぜい安倍派の裏金問題で揺れている自民党のように、「刷新本部」とか言いながら顧問に安倍の腹心だった菅義偉や安倍の盟友だった麻生太郎を起用する内輪センスを発揮するのがオチです。
日本全体がどん詰まりですので、日本文学がそうであっても誰も憤りを感じないかもしれませんね。


僕の虚しい提案ですが、文学はもう一度、書くことより読むことから始めるべきではないかと思います。
僕自身は、人生で書くことより読むことに多くの時間を費やしてきました。
正直、作品を残すことにさほど興味はなく、読みたい本をできるだけ読み切りたいという思いが強いです。
もちろん、これは個人的な価値観なので、書くことに熱心な人がいてもいいのですが、
あまりに読むものを読んでいない人が、業界の後押しでヘボな作品を書いているのを見ると、やれやれとつぶやきたくなるわけです。
やたらあふれている書き手志望の人から手っ取り早く集金するには、「書き方講座」「文学賞の取り方」みたいなノウハウをやれば効果覿面かもしれませんが、
商売を度外視すれば、実際に教えた方がいいのは、過去の偉大な作品の読み方講座の方だと思います。
念のため言いますが、著名作家を集めて有名作品について好き勝手に感想を書かせることは、読み方の手本にはなりません。
もっと読むという行為に、責任が伴わなければいけないと思います。
著名作家には読みが貧しかったら首が飛ぶくらいの緊張感で、作品の読みと向き合う機会を与えるべきではないでしょうか。
読みの実力を問われない業界作家の集まりなど、二世議員が集まる政党と大した違いはありません。


 提言③ 文学作品を読む力を見直し、著名作家にも定期的に読解力を披露してもらおう!


以上、思いつきを言ってみました。
今回の文学業界への3つの提言は、どれも受け入れられないと僕は確信していますので、
将来もし自分が文学の「場」を構築することがあった場合に、実現に邁進しようと思っていますので、どうか皆様の清き一票を南井三鷹にご投票ください。
ご清聴ありがとうございました。


0 Comment

Comment Form

  • お名前name
  • タイトルtitle
  • メールアドレスmail address
  • URLurl
  • コメントcomment
  • パスワードpassword