- 2024/11/09
- Category : 【評論】アドルノの文化産業批判
アドルノの文化産業批判【後編②】
現実を「救済の地」へと改変する〈メディア的存在者〉
少しアドルノの文脈から離れてしまいますが、ここで僕はメディア端末や出版物の中で「司牧」の役割を演じる〈メディア的存在者〉について少し説明しておきたいと思います。
前出の引用文では、映画を観る女性観客はスクリーン上の女優に自分もなれるかもしれないと感じるとともに、
スクリーン上の存在(メディア的存在者)と現実の自分との距離を意識しないわけにはいかない、と語られていました。
ここでアドルノたちの言う「現実との距離」が、〈メディア的存在者〉である女優と現実の自分との差異であり、「商業的メディア空間と現実との距離」を示していることは、強調しておきたいところです。
こうして映画を見ている自分が、実際に映画に出演しているかもしれない。
文化産業が管理する「メディア空間」に、自分も作り手の一員として入り込むことがあるかもしれない。
その可能性を現実化する要因が「偶然」であるのは、すでに確認したところです。
文化産業が司る「商業的メディア空間」と現実生活との距離は、奇蹟にも近い「偶然」によってしか埋められません。
それは、ある日突然に日常生活から異世界に転生してしまうのと同じくらい荒唐無稽なことにも思えます。
そのため、同一化の困難が露呈した後に「商業的メディア空間」へと参入する夢を持ち続けることは、
奇蹟によって「神の国」への転生を夢見ることと、ほとんど変わらなくなります。
現実から隔てられた「商業的メディア空間」は彼岸にある「神の国」と二重写しとなり、
「商業的メディア空間」を映し出すスクリーンは、あちらの世界にある「神の国」を映し出す「預言的メディア(=広告)」と見なされるようになります。
今や人々の魂が到達すべき「神の国」は、スクリーンや画面の中に存在するのです。
しかし、スクリーンや画面の中の「神の国」は、消費者という下層階級にとっては眺めるしかないものです。
その中にリアルに住もうと企てるならば、この現実世界を「神の国」そっくりに似せるしかありません。
そのような動機で、スクリーン上の「神の国」を手元に引き寄せるために、現実を「神の国」に近づけていくことが求められていきます。
こうして、消費行為によって人々は現実はスクリーン上の「広告」を模倣するように躾けられていくのです。
そのとき文化産業は、神の預言を伝える大聖堂の役割を果たすことになります。
『啓蒙の弁証法』の文脈では、このような「偶然」に支えられたスクリーン上の〈メディア的存在者〉が「類の同一性」を強化すると指摘します。
信仰を共有する人々の中から偶然によって選ばれた者は、誰とでも交換可能な、類的なサンプルでしかないからです。
今はスクリーンの上で、幸福な人たちは、公衆の一人一人と同じ類のサンプルとなる。しかしそういう一律性のうちに、人間的諸要素間のどうしようもない疎隔が生じてくる。完成された類似性とは絶対的差異である。類の同一性は個々のものの同一性を禁止する。文化産業は、類的本質としての人間を意地悪い形で実現した。どの人をとって見ても、すべて任意の誰かと取り換えることのできるもの、つまり代替可能な類例性の一つでしかない。(ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法』徳永恂訳)
この引用文で語られているような事態は、実はスクリーン上の俳優を見る以上に、漫画やアニメの「キャラ」においてもっと先鋭化されるのではないか、と僕は感じました。
スクリーン上の俳優の場合、交換可能な類的同一性と言いながら、その人の個性的な魅力や外見の美しさを完全に排除することはできません。
誰もがあんなに美男美女ではない、という事実の前に類的性質は簡単に破壊されます。
一方アニメキャラの場合、大部分が記号で形成されていて、「商業的メディア空間」に住まう類的同一性としてしか存在できないため、
現実の自分との対応関係を確認する必要がなくなります。
わかりやすく言えば、スクリーン上の〈メディア的存在者〉が実在の人物であれば、現実の自分との視覚的差異を意識せずにはいられないのですが、
それがアニメキャラであれば、気持ち一つで同一化は誰にでも可能です。
要するに、アニメキャラとの類的同一化においては、現実との距離や差異に対する反省がはたらかなくなるのです。
(SNSのアイコンにアニメ風の美少女を用いている中年男性に、自己反省を欠いた人が目立つのは気のせいではないでしょう)
注意しておきたいのは、「キャラ」的な類的同一性は、アドルノたちが言うような「類的本質としての人間」にはならないということです。
「あのキャラは私だ」という類的同一化は、実際は時代的な枠組の中でしか成り立ちません。
アニメの人気キャラには、時代的な特徴が刻まれているものだからです。
「熱血キャラ」が欲望を集める時代もあれば、「ツンデレキャラ」や「コミュ障キャラ」が欲望を集める時代もあるわけです。
その意味で、「商業メディア空間」における類的同一性は、人間の普遍的本質よりも、ある時代的な価値における社会的な「一般性」と深い関わりを持つものと言えるでしょう。
個人が「キャラ」という一般化した「ありがちなパターン」に分類されるようになると、「その人らしさ」という個性を持たない「擬似個人」が溢れるようになっていきます。
つまり、「擬似個人」には数種類のタイプが用意されているのです。
外向的キャラに内向的キャラ、文化系に体育会系、人脈キャラに孤立キャラ、モテと非モテなど、二分法の対立軸をもとに「ありがちなパターン」が用意されるのが普通です。
そのため、アニメの場合、同種のキャラを系譜として整理することも可能です。
そのようなキャラ的な分類を自己認知に適用したものが、ユングのタイプ論をもとにしたMBTI(Myers -Briggs Type Indicator)という国際規格です。
性格検査によって16タイプのどこかに自分を分類することで、グローバルに自分のキャラを認識したり、認知させたりできるのです。
引用文でアドルノたちは、このようなサンプルの一律性に関わることが、「人間的諸要素間のどうしようもない疎隔」をもたらすと指摘していました。
この部分には説明がないので、どう理解すればいいのかがよくわからないのですが、
一律性によって人間性の複雑さが削ぎ落とされるという意味で僕は理解しています。
サンプルにおいては人間の持つ性質がわかりやすく提示されるため、多様な性質が明確に切り分けられ、それらが複雑に絡み合う状態を把握するのが難しくなります。
それに続く「類の同一性は個々のものの同一性を禁止する」という文はよくわかります。
誰でもありえるような類的サンプルは、ちょっとずつ誰かに似ているわけですが、具体的な個人と全体的に同一化することはありません
類的同一性とは一般化であり、一般観念からはみ出す個的要素については、余計なものでしかないのです。
文化産業が誰とでも交換できる類的同一性(キャラ)を売りたがるのは、交換できるものしか商品にならないからです。
つまり、キャラとは商品化された人間の姿であり、市場で労働者という商品と化した人間存在は、プライベートにおいても市場での交換を基盤としたキャラとなることを求められます。
そうなると、ますます人々は漫画やアニメのキャラに自分自身を発見するようになり、自分をスクリーン上で交換される類的存在(メディア的存在者)に見立てるようになっていくという悪循環が起こるのです。
このように「かけがえのない個人」であったものがメディア上で交換される「擬似個人=キャラ」にされてしまうのは、
文化産業が現実世界を「商業的メディア空間」という「神の国」としてスクリーン上に映し出し、すべてを市場で交換可能なものとしてしまったからです。
彼らの欲望は、現実世界をすべて市場交換の世界にしていくことです。
ディズニーの作品世界やハリー・ポッターの作品世界を、現実においてテーマパーク化していくのはもちろん、
等身大の動くガンダムを制作したり、ドラえもんの道具を科学で実現しようとしたりするだけでなく、
果ては個人が現実存在であることをやめて、スクリーンの中に住まうアバター(=メディア的存在者)となることを求められていきます。
(前述したエンタメ世界の再現的現実化という現象も、この欲望によって推し進められています)
このようなスクリーン上のフィクション世界を、現実世界において実現していく欲望が、資本主義における宗教的「救済」と連結されているのです。
メディアを司る文化産業は、資本主義の宗教面を支える「教会」の役割を果たす「司牧権力」なのです。
僕は資本主義が肯定する価値観を、「資本教」という普遍宗教の教義として考える必要があると思っています。
資本教の主な教義は、「価値とは交換であり、力とは数である」というものになりますが、
資本教については『啓蒙の弁証法』から離れた内容になるので、ここでは詳しく踏み込みません。
興味のある方は資本教についての過去記事を参照してください。
今の文脈で言えば、文化産業とは文化商品によって消費者を管理することを目的とした資本教の「司牧機関」だということです。
そこで売り出される作品=商品は、最終的には資本教を肯定するための広告にしかなりません。
要するに、文化産業の目的はマスメディアで(ユダヤ=キリスト的な)資本教の「広告活動(=布教)」をすることにあるのですが、
ユダヤ的価値観に依拠するアドルノやフランクフルト学派の批判理論では、それをとことん明らかにすることは難しいでしょう。
文化産業と広告の本質的な関係については、最後に触れようと思っています。
文化産業の社会福祉的性格
その前に、取り上げておかなければならない問題があります。
文化産業が支配体制からはみ出すことの恐怖を人々に植えつけ、自ら進んで体制に服従するように導いていく、というものです。
この自発的服従のメカニズムはエディプス・コンプレックス的な「去勢不安」と関わっています。
「去勢不安」とは、母親を独占したい子供が対立する父親から去勢される不安を抱いていて、
その不安から逃れるために母親への欲望を無意識に押し込むという心理メカニズムです。
子供が抑圧的な「去勢不安」に屈してしまうのは、父親の庇護下から自立して生きていけない存在だからです。
このメカニズムを家庭から社会へと拡大すれば、体制への反抗を諦めることで社会福祉に「面倒を見てもらえる」という構図と一致します。
たとえ社会体制が抑圧的な父のようであっても、社会体制に「面倒を見てもらう」ことをあてにしているかぎり、自ら進んで体制に従うほかありません。
生活水準の段階は、正確に、階層なり個人なりが体制とどういう内的結びつきを持つかに対応している。管理職なら信用されるのは当然であるが、漫画誌に出てくる、そして現実にも生きているダグウッドのようなしがないサラリーマンでも、[体制内にいるかぎり]社会的信用がないわけではない。しかし、「飢えたり凍えたりしている者」は、かつてその人が充分な将来性を持っていた時でさえ、いつもマークされている。彼はアウトサイダーであり、そしてたまに起る凶悪犯罪を別にすれば、アウトサイダーであることはもっとも重い罪なのである。(『啓蒙の弁証法』)
この「面倒を見てもらえる」という社会福祉への依存性が、横暴な社会体制に服従する人たちの本質的な動機ではないかと僕は思っています。
ドイツやアメリカの事情はわかりませんが、とりわけ経済成長期からバブルに至る日本型経営のスタイルは、会社を「家族」とする家族的経営を基盤としていました。
一度企業に雇用されれば、終身雇用制度が前提となっていたため、家族の一員であるかのように会社に一生「面倒を見てもらえる」ことも珍しくありませんでした。
学校もそうです。
大学受験を見てもわかるとおり、組織の一員になるためのハードルは高いのですが、
いったん入学してしまえば、卒業までは「面倒を見てもらえる」ケースが多いのも事実です。
物書きと出版社の関係も同様で、いったん文学賞を受賞したり幸運にも著者が売れたりして、「文化産業の書き手」として信用を得てしまえば、
たとえ差別発言やセクハラをしたとしても、出版マスコミに「面倒を見てもらえる」のです。
出版業界の書き手たちが、業界内部と一般社会の間に上下関係があると思い込み、その階級性に胡座をかいて、モラル不問の居丈高で醜悪な態度になるのは、このような家族主義的(家父長制的)な社会構造に依拠しているからです。
文化産業の発展にも、このような社会福祉的な「面倒を見てもらえる」という依存精神が大きく寄与しています。
日本の文化産業がオタクという消費社会の家畜の支配を確立した時期が、
家族主義的な日本型経済が世界から称賛された80年代バブル期だったのは偶然ではありません。
この時期にヒットしたのが村上春樹の作品であり、その世界観は「アメリカに面倒を見てもらえる」ことをあてにした対米従属体制に支えられています。
日本の文化産業の根底には、政治的立場の左右を問わず、「アメリカに面倒を見てもらえる」という保守性が刻み込まれているのですが、
斎藤幸平を見てもわかるとおり、日本の左派論客とされる人たちの多くは文化産業の厚い壁の中に入り込んで、「業界の物書き」の一員になることにばかり一生懸命です。
対米従属体制の中で支配を確立した文化産業に飼われている「業界の物書き」が、
「アメリカに面倒を見てもらえる」精神の権化である村上春樹を、正面から批判することができないのは当然でしょう。
業界に面倒を見てもらいたいのならば、コレだけは絶対やめてくださいね。
コレを守れない人は、我々壁の中のグループの一員とは見なせませんから。
ちゃんと踏み絵を踏んでもらえないと、内側には入れられないんですよ。
日本の組織の多くは、このような内輪的な「信用」に基づく排他性と閉鎖性に貫かれています。
もちろん、このような組織において、能力主義や実力主義は二次的な価値にしかなりません。
なにしろ、自分が力をつけるよりも、「力のある組織」に「面倒を見てもらえる」人間になることの方が重要なのですから。
力のある社会組織の一員であったり、社会に名が知られたりして「社会的信用」を得ていれば、社会から「面倒を見てもらえる」のです。
当然のことですが、貨幣とは「社会的信用」を物質化したものです。
「社会的信用」を示すことは、貨幣を増やす能力を示すことにあたります。
要するに、社会福祉とは金銭的価値に還元できるものなのです。
アドルノたちが貧乏人を「アウトサイダー」と表現するのは、貨幣を持たないことが「社会的信用」の欠如と見なされるからです。
だから、貨幣が貨幣を生む金融資本主義という非人間的な経済が蔓延すると、労働者というだけでは「信用」が得にくくなるので、真面目に働いても社会は面倒を見てくれなくなります。
こうして金融資本主義に慣らされた国家や企業が、組織内の労働者より株主などの「出資者」の方を有り難がるようになり、社会福祉を軽視していくのです。
ただ、ここでは福祉の問題を扱いたいわけではないので、文化産業に話を戻します。
自由主義では貧乏人は怠け者と見なされたが、今日では、自動的にうさんくさい目で見られるようになる。外部にあって人から配慮されない者は強制収容所へ行くか、いずれにせよ、下賎な労働ないしスラムの地獄へと行くほかはない。ところが文化産業は、管理された人々のための積極的ないし消極的な福祉事業を、りっぱな人々の世界での人間どうしの直接的な連帯であるかのように描いて見せる。(中略)経営学的観点から讃えられている仲間関係の助成は、すでに各工場において生産性を高めるために重視されているが、それはまさしく生産における人間関係をあたかも直接的な関係であり、再び私的なものにするかのように見せかけることによって、じつは人間の究極の私的な情動をさえも社会的統制の下に置くものなのだ。(『啓蒙の弁証法』)
実はアドルノたちの主張の力点は、上に引用した文章よりもその後に続く内容にあります。
この後の内容とは、文化産業は「悲劇」を商品として売りつけることで、大衆たちに「人生とはしょせんこういうものだ」とあきらめさせ、
悲劇の後に訪れる秩序へと従うように義務づけていく、というものです。
「野蛮な本能と同じく革命的な本能を抑制するのに、昔から文化は寄与してきた」と文化による去勢が語られたあと、
文化産業において悲劇は「勇気と感情の自由」を描くものではなく、「自分が何の価値もないことに気づき敗北を自認させる」ものでしかなくなる、と述べられます。
このあたりの批判もなかなかに激烈で、取り上げる価値はあるのですが、
僕の見るところ、現在の文化産業は悲劇による「マゾヒズム的」な主体化という方法ではなく、もっと別の方法で大衆を馴致しています。
それを理解するには、引用した文化産業の社会福祉的性格を詳しく考察する必要があります。
文化産業に社会福祉的性格があると僕が考えるのは、このようなことです。
たとえば生活に窮乏した人々を救うのが福祉であるならば、
コミュ障キャラが活躍する商業作品が、コミュニケーション能力に欠けて苦しんでいる人々に、
「ああ、自分も社会に受け入れてもらえるんだ」という肯定感を喚起させるとしたら、その作品は社会福祉としての役割の一端を担っていないでしょうか。
上の引用文でアドルノたちが指摘している「生産における人間関係をあたかも直接的な関係であり、再び私的なものにするかのように見せかける」演出は、まさにドラマや漫画でよく目にするものです。
ドラマや漫画・アニメで主人公の「職場(=生産の場)」が描かれる場合、そこは学生サークルのようなノリで、周囲に気の合う人たちがやたらと出てきたりします。
場合によっては、職場の成員の多くがオタク趣味だったり、主人公のオタク的気質に妙に理解があったりします。
ひどい場合、自分の推していた俳優が引退したと思ったら、職場の上司になっていたりします。
設定としてあまりに幼稚ではないか、と思ったりしますが、このような作品に一定の需要があるのは、
これが(心理的な)社会福祉として機能し、下層労働者を支えているからなのです。
言いにくいことですが、ハッキリ言いましょう。
文化産業は、サブカル消費に享楽するだけで他に取り柄がない人間でも「社会に面倒を見てもらえる」という幻想を売りつけて儲けを得ています。
文化産業が売り出す非現実的な商品を買い求めていれば、社会の福祉機能によって「面倒を見てもらえる」ので、
安心して文化産業の商品を買い続けて、何ら社会的努力をする必要はないのだ、と消費者を誘導して薬物依存のような状態にしています。
こうして現実になじめない人たちが、消費行為によってますます現実から遠ざかるようになっていきます。
場合によっては、小説やドラマに描かれた職場を「約束された神の国」のような「あるべき現実の姿」だと思い込みすぎて、
その状態に達していない現実に対して憎悪を抱き、言うほど悪いことをしたわけでもない「隣人」を憎むようになるかもしれません。
自分の仲間は文化産業の中にいて、現実に話が通じる人はいない、
文化産業の趣味商売やそれに依拠したSNSの同志の中に真実を求める人としかわかり合えない、
消費者がこのようなメンタルになっていけばしめたものです。
彼らは教会の教えに自ら従う信者のように、文化産業の商品世界に積極的に参与することを選ぶようになります。
【中編①】で取り上げた「悪役令嬢モノ」を例にとって説明しましょう。
「悪役令嬢モノ」は、現世で悲運だった主人公が悪役令嬢に転生して、予定された破滅を回避し、イケメン権力者に溺愛される、というストーリーが基本なのですが、
その転生した世界が「乙女ゲーム」の世界だというのが基本的なお約束として共有されています。
主人公が転生した世界は前世でプレイ済みの「乙女ゲーム」の世界なので、主人公だけ(場合によってはライバルも)がその先のシナリオ展開に対する知識を持っていて、そのアドバンテージを利して未来のトラブルを回避していきます。
「自分だけがこの世界の先行きを知っている」というメタ知識こそが、主人公の優位性になるわけですが、
この構造は『東京リベンジャーズ』などのタイムリープものにも見られます。
(余談ですが、メタに立つことが優位である、というポモオタク的価値観は、『アオアシ』『ブルーロック』などの最近のサッカー漫画でも流行しています)
「悪役令嬢モノ」において、主人公にメタ知識をもたらしてくれるものが、前世においてプレイしていた「乙女ゲーム」のオタク体験であるというのがここでのポイントです。
「ゲーム」の世界が文化産業によって支配され、構築された「箱庭」であることは言うまでもありません。
つまり、前世で文化産業の消費テーマパークにハマっていたことが、来世で破滅シナリオを逆転させるメタ知識を主人公にもたらす構造になっているのです。
ここで発せられているメッセージは、「消費に依存するオタクであれ、さすれば救われる」にほかなりません。
要するに「悪役令嬢モノ」とは、文化産業の家畜であることが、来世での「救済」を導くことを教え諭す宗教的テクストだということです。
この「安上がりな宗教」に恐ろしさを感じないでいられる人は幸せです。
現代の文化産業のやり方は非常に狡猾であり、大衆にマゾヒズム的に諦念を教え込む「訓練」をさせるのではなく、安っぽい新興宗教の手口で消費者に「救済」を売りつけているのです。
バラバラに離散した「信者たち」が持ち運びのできる信仰対象を所有し、約束された「救済」を待ち望んで現実の「迫害」を耐え忍ぶ──、
このようなあり方のプロトタイプを探すならば、ユダヤ教に行き着くのではないでしょうか。
(いずれ記事にしたいと思いますが、ユダヤ教こそが神の無力を覆い隠すために自分たちの原罪を創造した、マゾヒズム的な様相をもつ宗教なのです)
文化産業の背後には、「迫害」を運命として耐え忍ぶユダヤ=キリスト教の影が存在します。
だからこそ、ユダヤ=キリスト教的な支配を相対化できないフランクフルト学派の文化産業批判は、文化産業と同じメディア的表層に依拠するものにとどまり、
「大衆の文化を攻撃するアンチのエリート主義」と受け取られて終わってしまうのです。
重要なことなので強調しておきますが、
消費資本主義下で「産業」と化した文化を批判するなら、ユダヤ=キリスト教を模倣したメディア技術の支配構造にメスを入れないと意味がありません。
宗教批判を回避したメディア論に、現代的な価値は乏しいのです。
交換に飲み込まれた擬似個人と擬似芸術
『啓蒙の弁証法』の展開では、この後に「一般的なものの権力」によって、個人が「擬似個人」へと置き換えられたことが指摘されます。
これは前述した「類的一般性=キャラ」を「擬似個人」として語り直したものと考えるべき部分です。
「擬似個人」とは、市民的一般性のシステムによって教育され、個性の犠牲の上に「一人前の大人」として仕立て上げられた個人の姿です。
マスメディアに統制された「一般性」が社会に行き渡り、それが個人を形成するようになると、「個々人が何ら個々人ではなく、たんに一般者の中へ回収される結び目にすぎな」くなります。
結節点としての個人とは、ネットワーク上で機能する「擬似個人=キャラ」であり、「一般的なものの権力」の前に敗れ去った人間の姿なのです。
市民の生活は、仕事と私生活に、その私生活は世間体と親愛関係に、その親愛関係は夫婦の不機嫌な共同生活と、自分とも誰とも不仲になったまったくの独りぼっちという辛い慰めとに分裂している。そういう市民は、すでに潜在的には感激しつつ同時に毒づいているナチ党員と同じであり、あるいは、友情というものをもはやたんに「社会接触」(social contact)としてしか、つまり内面的には触れ合うところのない者どうしの社会的接触としてしか考えることのできない今日の大都市生活者と同じなのだ。(『啓蒙の弁証法』)
ここで言われている「社会接触」とは、一般的なものに支配された個人同士がネットワーク上で衝突し、結びつけられることです。
この接触を生み出すものは本質的に「偶然」であり、それこそが大衆を支配する原理であることは前に書きました。
この引用文にある大都市生活者の「内面的には触れ合うところのない者どうしの社会的接触」とは、
今や大都市生活者というより、インターネットとりわけSNS上の「社会接触」を思い浮かべてもらう方が実感しやすいでしょう。
本当は「内面的には触れ合うことのない」大都市生活者たちの間に、
深い内面的接触があるかのようなファンタジーを擬似的に描くのが村上春樹の小説だとすれば、
そのような「癒しのファンタジー」の機能は、SNSに引き継がれているように思います。
たとえば、駅やコンビニや駐車場などで見知らぬ人に親切にされたエピソードをエックスなどに投稿し、そのご本人様をSNS上で探し当てて皆で「ほっこり」するという「消費行為」がそれに当たります。
その瞬間にだけ、匿名の普通の人が不特定多数に注目されるヒーローになるのです。
「ごく普通の者でもヒーローになれるということは、安っぽさの崇拝の一部なのだ」とアドルノたちは述べていますが、
これこそが市場やSNSのバズ・マーケティング的欲望であり、一般性に吸収された言説の安っぽさへの崇拝なのです。
なぜ一般性がこれほどまでに支配力を持つのか、アドルノたちはその理由を明確に説明してくれません。
ファシズムへの攻撃を優先したのか、言うまでもないことだと思っていたのかわかりませんが、代わりに僕が理由を説明すると、
「交換」の領域を拡大するためには、一般性の支配力を強める必要があるからです。
人々を一般性の中に収めることだけが、交換領域の全般化を可能にします。
交換されるものが一般的であればあるほど、誰とでも交換が可能になることは言うまでもありませんが、
同じように、一般的な人間になればなるほど、彼らが求めるものは「同じようなもの」になり、そこではあらゆるものが交換可能になるはずなのです。
『資本論』で貨幣形態の前に、「一般的価値形態」が置かれているのは、すべてのものと交換できる媒介である貨幣が、一般性によって支えられなければならないからです。
つまり、商品経済の支配力を極限まで高めるためには、すべての人々を一般性の中に回収する必要があるのです。
一般から外れた個性的な人など、貨幣の支配の前には余計な擾乱要素でしかないというわけなのです。
資本主義の自己膨張がすべてを商品経済の領域へと取り込んでいくのは、交換の領域を限界まで拡大するためです。
現代で言えば、何でもインターネットに接続させようとする欲望が、そのわかりやすい例ですし、いずれは一般性を集約したAIという24時間年中無休の労働者にすべてを処理させる欲望へと移行していくことでしょう。
(そして、最後に残された人間的な能力は「抵抗する」ことだけになるのです)
商品経済に組み込まれた文学のサブカル化が、今や役割を終えてSNSのチープな「やり取り=交換」へと引き継がれるのは、
交換領域の拡大をめざす消費資本主義的なポストモダン社会の必然と言えるのかもしれませんが、
すでに『啓蒙の弁証法』でこの問題は芸術の商品化として語られています。
すべては、それがある別のものの役に立つかどうかという観点の下でしか認められない。たとえこの別のものが、漠然としか視野に入ってこない場合でもそうなのだ。すべては、何かと交換できるかぎりでのみ価値を持つので、それ自身が何ものかであることによって価値を持つのではない。(『啓蒙の弁証法』)
上の引用文を見れば、すべてを交換の中に置くことが、「それ自身が何ものかである」という自律性を奪っているとアドルノたちが考えていることがわかります。
そう、問題は交換のネットワークの果てなき拡大であり、それを背景とした一般性の支配なのです。
「別のものの役に立つ」という「道具」のネットワークについては、ハイデガーが『存在と時間』(1927年)の中で取り上げていますし、
「道具」を「記号」に置き換えれば、ボードリヤールの問題意識に到達します。
これらはすべて貨幣を成立させるような「交換」の前提条件となる抽象化の機能を示しています。
アドルノにとって芸術の自律性とは、交換のネットワークに収まりきらないものとしてあることがわかります。
その意味で、芸術の商品化とは芸術のニセモノ化であり、「アート」とは一般人の凡庸さに奉仕することを意味するだけになるのです。
商品となって交換価値で評価されるだけとなった芸術は、「新しさ」によってしか存在意義を示せなくなります。
「見慣れないもの」によって、商品ネットワークの中にこれまで存在しなかったかのように自身を偽装することが、「芸術的」だと見なされるようになるのです。
「芸術がそれに固有の自律性を捨てることを誓って、誇らしげに消費財の下に自分を組み入れることが、新しさの魅力となっている」とアドルノたちが言う事態は、
それまで商品ネットワークの外部にあったはずの芸術を、消費の材料として「切り売り」することが新しく思える、ということでしかありません。
つまり、それまで芸術や文学や思想だったものから芸術性や文学性や思想性を奪うことで「新しさ」を得るのです。
こうして文化産業によって芸術や文学と宣伝されたニセモノは、「新しさ」や流行のもとで「〜年代」のパラダイムを彩る消費物と成り果てていきました。
「文化財の受容において、使用価値と呼ぶことのできるものは、交換価値にとって代られ、深く味わう代りに流行に外れないことが、眼識の代りに通ぶること、恰好をつけることが重んじられるようになる」という一文は、
完全に今の芸術や文学や思想シーンの予言のようになっているではありませんか。
芸術や文学の価値は、一般性の度合いを可視化した基準──つまりは貨幣量──によって評価されるものでしかなくなりました。
これは芸術や文学における「環境破壊」にほかならないのですが、
文化産業はニセモノを本物のように偽って扱う共犯者だけを芸術や文学の「番人」に指名して、「環境破壊」の事実をごまかし続けていきます。
文化産業とは、大衆が「環境破壊」の事実と直面することを阻害し、交換が支配する商品世界の中に閉じ込める役割を担っているのです。
そのための手段として最大の効果をもたらしているのは広告です。
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2 Comment
菅原潤さんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2024/11/11 17:17)
- [コメントを編集する]
菅原潤さん、コメントをありがとうございます。
アメリカ大統領選は一大イベントになっていますね。
どうやらアメリカでは選挙キャンペーンでグッズ販売をしているらしく、その収益を選挙活動に使っているようです。
(日本では公職選挙法違反になると思いますが)
台湾の選挙もエンタメっぽさ全開ですので、そこに消費行為のノリはあると思います。
ただ、秋元康の発案かはわかりませんが、「AKB選抜総選挙」はエンタメ消費行為を「政治的行為」であるかのように偽って、
「国民的行事」であるかのように見せようとした腹黒い意図でなされたイベントだと僕は思っています。
つまり、ベクトルが逆なんですね。
選挙が消費行為になっているのではなく、AKBにおいては消費行為が政治参加であるかのように偽装されているのです。
その証拠に、AKB選抜総選挙は、一人で何票もの組織票を買うことができる「金権選挙」になっています。
つまりは一人で何口でもOKという「投資」でしかないものを、「総選挙」だと偽ったわけです。
投資行為が民主政治であるかのような錯覚は、選挙を消費行為と錯覚するより問題があると考えます。
政治家が消費される「商品」になっても、優良な商品を買えたならば政治に悪いことがあるでしょうか。
しかし、ただ多くの金が注ぎ込まれた対象が「成功者=権力者」になる社会など、ろくなものではありません。
AKB選抜総選挙が共有しているのは、(たとえ裏金であっても)政治資金を多く集める議員が優秀だという、
どこかの一強政党の一強派閥の価値観なのではないでしょうか。
大統領選について
- 菅原潤さん
- (2024/11/10 04:12)
- [コメントを編集する]