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ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その5】

極の不動

荒木飛呂彦の人気漫画『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの第3部「スターダストクルセイダース」(1992年)で、
主人公の空条承太郎と宿敵のDIOとのラストバトルは、双方の「時間を止める能力」の使い方で勝負がつきます。
9秒間も時間が止められるDIOが、2秒止めるのが精一杯の承太郎に敗れた原因は、優越感による慢心以外にないわけですが、
時間を何秒間止められるか、という逆説的な現象は、「時間を止める」ということが認知上の錯覚でしかなく、
実際は自身が高速で動いているために、周囲の時間が止まって見える、ということに起因します。
時間が静止する感覚は、認知主体が度を超えた高速で動いているからこそ起こるのです。
つまり、速度を極限まで加速していくと、時間が静止する「瞬間」がだんだんと引き伸ばされていくことになります。
こうして「加速」による価値が、「瞬間」の価値へと置き換えられるのです。


ポール・ヴィリリオの『瞬間の君臨』(1990年)では、高速移動を可能にする乗り物によって、
時間を「瞬間」にまで圧縮していく新たな知覚の場が確立したことが語られています。
これは、乗り物の延長に映画などの「映像空間」を位置づける、ヴィリリオ独特の知覚変化の歴史を踏まえたものです。


私たちは一九世紀と二〇世紀の大半を使って、あらゆる形の自動の乗り物の大発展を目撃したにしても、それで乗りヽヽ物のヽヽ変貌ヽヽが終ヽヽ止符ヽヽを打ヽヽったヽヽわけヽヽではヽヽないヽヽ。というのも、これからの社会は、今まで同様のスピードで、いや、それ以上のスピードで、奔放な遊牧生活ノマディズムから不動状態イネルシーへと変貌していき、決定的な定住状態へと向かっていくからだ。
実際その見かけとは裏腹に、一九三〇年代から、ラジオ、テレビ、レーダー、ソナーの発達によって電子工学機器が生まれたが、それによって大きな力を持ちはじめたのは、オーディオ・ヴィジュエルという乗り物だった。
(ポール・ヴィリリオ『瞬間の君臨』土屋進訳)

電子工学機器によるAV(オーディオ・ヴィジュアル)環境が、加速する乗り物だという認識はきわめて重要です。
最新の電子メディア機器であるスマートフォンが乗り物であれば、それが乗せられるものは明らかに肉体ではないからです。
僕は乗り物=メディア機器が「彼岸」へと向かう「魂」を乗せるものであり、
乗り物=メディア機器が開く知覚空間が、地上における「彼岸」であると考えています。
つまり、メディア空間という「彼岸」の中で、人々は生きながら身体的に死んでいるのです。


この引用文で注目してほしいのは、「これからの社会」が「奔放な遊牧生活ノマディズムから不動状態イネルシーへと変貌」すると書かれている部分です。
ヴィリリオはドゥルーズやガタリと親しかったので、日本では〈フランス現代思想〉に位置づけられてはいますが、
明らかにAV機器の発展によって、ドゥルーズ=ガタリ的なノマディズムが敗れ去ることを宣告しています。


AV機器は「動かない乗り物」だとヴィリリオは述べています。
大画面テレビに異国の風景が映し出されれば、その場にいるような「視聴覚的(AV的)」環境を手に入れることになります。
異国に行かずとも、異国に行ったかのようなAV環境を手に入れられるのです。
この最新の乗り物は、出発することなく到着があるだけです。
つまり、決して現実の場所に行くことがなく、ただ目的地の画像イメージと音響イメージが「啓示」のように到来するだけになります。
このような物理的移動を伴わない「静止移動」のことを、ヴィリリオは「極の不動イネルシー・ポレール」と呼んでいます。
(実は『瞬間の君臨』の原題は、「極の不動 L’inertie polaire」です)
「極の不動」という言葉は、一方の極からもう一方の極へ移動するという概念の無力化を示しています。
つまり、身体を伴う通常の意味での「移動」という概念の終焉です。
もはや物理的な移動よりも、メディア端末間でイメージだけを移動させる方が圧倒的に速いのです。
イメージだけが高速移動する世界では、人も物も物理性を脱ぎ捨てた「魂(本質=イデア)」となるわけですが、
僕はこのような「魂だけが移動する」世界を、この世を「彼岸」とする神学的欲望の実現と捉えています。
つまり、高速移動することによって、人や物は物理性を捨てた「イメージ」として永遠に救済されるのです。


これまでの建築術を消滅させる論理と美学の広まりに伴い、将来、私たヽヽちはヽヽあらヽヽゆるヽヽ所にヽヽ住むヽヽようヽヽになヽヽことは確かだ。スクリーン上のイメージによってのみ存在する「動物園ビデオ」の動物たちのように、私たちは撮影されたイメージによって存在するようになる。昨夜か一昨夜撮られた映像、ありふれた場所で撮られた映像、異様な郊外で撮られた映像、私たちはあちらこちらで映像化された現実感のないイメージによって初めて存在するようになるのだ。
(ヴィリリオ『瞬間の君臨』)

ヴィリリオの本業は建築家なので、現実空間が次々にイメージへと置き換えられる事態に対する強い危機感が感じられます。
「イメージの中に住まうこと」を、当時のヴィリリオは「映画になってしまうこと」と表現しています。
ディズニーランドやUSJなどのテーマパークから、秋葉原のコスプレそしてSNSの自撮り文化へと展開するイメージ化した人間の「運命」は、
乗り物としてのメディア機器の小型化(端末化)によって、より確定的になっています。


乗り物による移動から映像イメージへの転換は、歴史という外延的な時間から「瞬間」という歴史を持たない時間の凝縮への移行をもたらします。
デヴィッド・ハーヴェイの『ポストモダニティの条件』(1990年)は、奇しくも『瞬間の君臨』と同じ年の出版ですが、
ポストモダンを「時間と空間の圧縮」という観点から整理している点で、ヴィリリオの問題意識と重なります。
(『ポストモダニティの条件』には、ヴィリリオについての言及もあります)
ハーヴェイは、「瞬間」だけが存在するポストモダニズムの時間感覚が、
意味という本質的な深みを失った「底なしの断片化とはかなさ」をもたらしている、と指摘します。


時間的地平が崩壊し、瞬間性への執着が生じるのは、部分的には現代の文化生産で出来事、スペクタクル、ハプニング、メディア・イメージが強調されることによってである。文化生産者たちは、新しい技術、メディア、そして最終的にマルチメディアの可能性について探求し、利用することを身につけてきた。しかしながら、その結果、モダンの生活のつかの間の性格をあらためて強調し、さらにそれを賛美することにさえなった。
(デヴィッド・ハーヴェイ『ポストモダニティの条件』吉原直樹・和泉浩・大塚彩美訳)

ポストモダン的な瞬間性は「文化生産者たち」が最新のメディア・テクノロジーを利用して、
近代的な時間の圧縮を強調し賛美したことによってもたらされました。
「文化生産者たち」のメディア技術による表層的コミュニケーションが、かつての「高級文化」とポップカルチャーを接近させることになった、ともハーヴェイは書いています。
つまり、マルチメディアの利用によって、哲学や文学とアニメ等のサブカルの区別を希薄にすること(=高級文化のディズニーランド化)は、典型的なポストモダニズムの「文化生産者たち」のやり方なのです。
このような「文化生産者たち」が数多く登場したのが、消費資本主義の隆盛のためであるのは、言うまでもありません。
そして、文化生産によるポストモダニズムは、ハーヴェイが指摘するように近代的価値観の延長でしかなく、近代批判としての実効性は全くないのです。


メディア的視線の神学的優位性

『瞬間の君臨』の中でヴィリリオは多くのページを費やして、映画やテレビなどのAV環境が乗り物の発展系に位置することを示そうとしています。
その当時、彼の先見的な考察はあまり理解が得られなかったようです。
多くの例を出して説得を試みようとしている努力を見るのは気の毒になります。
しかし、今の時代にヴィリリオの考察に抵抗する人はあまりいないでしょう。
テレワークが一般化した現在、自宅から移動することもなく、会社の会議に映像イメージとして出席することなど当たり前になっているからです。
乗り物を使う必要もなく、パソコンの前に座っただけで会社にイメージ移動できるのです。
新型コロナの蔓延によって、物理的な接触を避けるオンラインのライブ配信イベントなども多く開催されました。
オンラインの無観客ライブという、どこがLIVE(生きている)なのか意味がわからなくなる言葉が普通に使われていたのは、苦笑するしかありません。
ZOOMというアプリによるオンライン飲み会なども話題になりました。
オンラインが手軽な移動手段であることは、もはや誰もが実感していることです。


重要なことだが、在宅勤務ヽヽヽヽが始まり、通信ヽヽテレビヽヽヽ会議ヽヽ(テレコンフェランス)の画面でテレミーティングが提唱されるこの時代、人々はそれと平行して、監禁状態の変化をはっきりと目撃するようになる。(中略)
これからは、拘留者も監視[視る側]に回るだろう。テレビでニュースや出来事を観ることを通して…。ただし、あまりにも明白なことを一つ付け加えなければならない。それは、囚人であるなしにかかわらず、視聴者が自分たちのテレビ受像機のスイッチを入れるや、テレビヽヽヽの場ヽヽ、言い換えれば視覚の場[視られる側]にいるのは、自分たちだということだ。そしてその視覚の場では、視聴者はスイッチを切ること以外いかなる力もない…。
(ヴィリリオ『瞬間の君臨』)

ここでヴィリリオが指摘していることは、より突っ込んで考察すべき重要な問題です。
加速が静止となり、歴史が瞬間になり、監視される側が監視するようになる逆説的なメディア環境では、
AV機器や端末メディアを使用して「視る」ことが、同時に誰かから「視られる」ことを意味するということです。
私たちがスマホでネットを利用すると、利用履歴や閲覧履歴などが記録されます。
Googleなどは、おそらくGmailの本文に書き込んだ文字情報も、分析対象にしているのではないかと感じる時があります。
私たちはメディア端末で覗き見をすることで、自分の関心を覗き見られているのです。
(ちなみに僕はこのブログへのアクセスを分析する機能の使用を拒否しています)


対面的な「見る/見られる」の関係は「見る=見られる」であって、対等でフェアなものと言えます。
しかし、メディアにおける「視る/視られる」の関係は、どこまでも一方的な覗き見を基盤としているので、
「視る」側に「視られる」側よりも優位な立場をもたらします。
つまり、覗き見る自分をさらに覗き見る上位存在があるというヒエラルキー構造があるわけです。
メディア・テクノロジーがどうにも権力的な性格を持つのは、「見る=見られる」のフェアな地平から遊離して、「見られずに視る」優位な立場を与えるからにほかなりません。


ヴィリリオは『情報エネルギー化社会』(1993年)の冒頭で、「第四の権力」であるメディアは法を超えた存在だと言っています。
メディアが法を超えてしまうのは、そこに神学的構造があるからです。
「見られずに視る」ことができる権力的存在とは、果てしなく神に近いものではないでしょうか。
「視る/視られる」のメディア的関係は、どこまでも一方的な「監視」であって、「視る」側に疑似的な神の視線を与えるため、神学的優位がもたらされます。
メディアにおける「監視」の視線というのは、疑似的な神の目だということです。
それは絶えず上位にあることを宿命づけられているため、「見られずに視る」メディア的自己を、よりメタ的な立場を目指して世界の外部へと放逐していくことになります。


ここまでくれば、ポストモダンと呼ばれる現代思想が、いかに一神教のメディア論的変奏でしかないことが理解しやすくなります。
一神教が太陽という唯一の光源を基盤にしているとしたら、ポストモダン世界とは光源となる太陽が複数存在することで成立しています。
東浩紀が『存在論的、郵便的』(1998年)で主張した超越性の複数化などというものは、光源にあたる情報源メディアの複数化によってもたらされたメディア・ミックス的世界観でしかありません。
そこにあるのはあくまで暫定的なメタ視点でしかなく、真の意味での超越性ではないのです。
要するにポストモダンとは、太陽を唯一の光源とした現実世界を、複数の人工的な光源から生み出されるイメージ世界に置き換える欲望だと言っていいでしょう。
その意味で、ポストモダンは人間中心主義(というより、人為中心主義)をさらに加速させたものでしかありません。
(太陽が複数あるメディア的世界とは、パラレルワールドが乱立する世界なのです)


これをヴィリリオ的な表現にすれば、太陽光の自然照明よりも電気による照明が優位となり、
さらには「直接的な照明」(対面世界)が生み出す現実より、「間接的なイメージ」(見られずに視る)のメディア的環境の方が優位にある状況だと言えます。
ヴィリリオはこのようなメディアが生み出すイメージの優位を、「リアルタイム」の支配がもたらす現実空間の危機としています。


外観イメージが作り出すリアルタイム世界

ヴィリリオの言う「リアルタイム」とは、現実の出来事とそれを転送するメディア映像との間に時差がない状態のことです。
いわゆるテレビのLIVE中継を思い浮かべればわかりやすいのですが、
遠く離れた場所の出来事が、目の前の画面に「同時的」に映し出されている状況がリアルタイムの場です。
たとえば、2001年にニューヨークで起こった旅客機による同時多発テロは、テロの被害現場がリアルタイムで世界に中継され、多くの人に衝撃を与えました。
「その場にいない」にもかかわらず、その場にいるかのように知覚することを可能にするのが、リアルタイムの映像転送です。
このリアルタイムの映像転送を、ヴィリリオは〈外観の移送交換トランサパランス〉と呼んでいます。


突然行われるようになった知覚しうる外観の交換は、結局、「知覚できる現実の新しい照明」による全面的な脱現実化の先駆けにすぎない。現実とは、もはや以前のように、ただ「単純明快な外観アパラント」であるだけではなく、「透けてトランス見えるパラント」ものであり、もう少し正確に言えば、「外観の移送交換トランサパランス」なのだ。
(ヴィリリオ『瞬間の君臨』)

ここで「脱現実化」と言われているように、ヴィリリオが警鐘を鳴らすのは、リアルタイムのメディア空間による現実空間(=外部空間)の抹消です。
「リアルタイムによって、私たちは一瞬のうちに空間から追放されてしまうだろう」と彼が述べるように、
私たちは、メディア上の〈外観の移送交換トランサパランス〉によって、自らの身体を現実空間に残したまま、一瞬にして「知覚=魂」だけの存在となって「彼岸」へと追放されてしまうのです。
(もちろん、宗教的にはこの現象を「救済」と呼ぶわけですが)


リアルタイムのメディア空間では、画面の内側が外の世界を映し出すため、内側と外側が逆転します。
この「内外逆転」の知覚変化は、建築では内側と外側の区別をもたらす敷居やドアなどの消滅として現れる、とヴィリリオは言うのですが、
僕は全面ガラス張りで「透明性」を実現した、開放空間への欲望を高めるのではないかと思います。
隠れた内側をメディアによって可視的な表層へと置き換える欲望が、透明性を求めるのです。


メディアが生み出すリアルタイム世界が、現実空間よりも上位になると、
実際に存在する事物より、その外観イメージという可視的な表層の方が優位に立つようになります。


瞬時移送のリアルタイムが、実際に移動する場や地域の現実空間リアルスペースよりも優位に立ち、イメーヽヽヽジがヽヽ実際にヽヽヽ提示ヽヽされるヽヽヽ事物やヽヽヽ存在ヽヽよりもヽヽヽ優位にヽヽヽ立つヽヽ時、電子による間接的なイメージ照出が電気による直接的な照明を引き継ぐようになる。
(ヴィリリオ『瞬間の君臨』)

メディアを通したイメージが優位に立つ間接性の勝利とは、自然に対する人為の勝利であり、此岸に対する彼岸の勝利なのです。
ヴィリリオはリアルタイムについて、「電子視覚工学が作り上げる集約時間」と表現していますが、
電子工学による時間とは人為的な光であり、そこでは光の持続時間である瞬間だけが存在することになります。
瞬間しか存在しない世界では、価値も瞬間においてしか存在できません。
電子的なメディア上に存在する価値というものは、本質的に瞬間にしか属さないのです。
そのため、そこでは瞬間ごとに絶えず価値の確認がなされる必要があります。


外観の移送交換トランサパランス〉についての引用文で、ヴィリリオがそれを「透けて見える」つまり「透明」ということに引っかけていることに気づいた方もいると思います。
外的世界をAVメディア機器(現代ならばスマホやタブレットなどのメディア端末)の画面の中に閉じ込めて、「外部」を人為的に追放することに慣れてしまうと、
たとえ近距離であろうと自分の目が届かない場所は、すべて外的世界のさらなる外部空間(=虚無)となるために恐怖の対象になります。
この恐怖を克服するには、虚無を生み出す空間を排除するしかありません。
解決策は、遠くの視野を得るために、どこまでも光が届くように空間を透明にすることです。
透明性の要請は、虚無の恐怖を振り払う欲望からきています。
虚無という不可視の外部空間を排除するには、自らの可視的な視野をどこまでも広げていくしかありません。
建物の窓がどんどん大きくなり、果ては全面ガラス張りを求める透明性への追求は、
テレビやモニター画面を巨大化し、果ては360℃を撮影して映写する施設を生み出すことでしょう。
スクリーンや巨大モニターに流れる映像は、私たちに「外的世界を見ている」という安心感を与えます。
その「外的世界」がたとえ作為に満ちたものであっても、いや、作為に満ちている方が、外部を知覚しているという気持ちを高めてくれるのです。


巨大モニター画面に映し出される映像は、外的世界の外部性を去勢ヽヽし、内的なもの──所有可能なイメージ──へと交換します。
モニター内部に映し出されたイメージは、「消毒された外部」であり、純粋な外部ではありません。
ヴィリリオは『ネガティヴ・ホライズン』(1984年)で、車のフロントガラス越しの視野が、映画のスクリーンへと置き換えられたと主張していましたが、
巨大モニターに映った映像は、ガラス越しの風景の延長に位置するのものなので、視野の透明性を確保することに貢献します。
ある建造物の至る所を監視カメラで撮影し、その光景を多くのモニターに映し出したとしたら、その建物は透明であると言えるのではないでしょうか。
離れた場所の「外観」を転送する〈外観の移送交換トランサパランス〉が「透けて見えるトランスパラント」と同義になるのは、このような理由です。


では、画面上のイメージに占拠された私たちの映画ヽヽ的なヽヽ生活ヽヽによって、追放された真の外部──不可視な虚無──はどこにあるのでしょうか。
80歳を越えたドン・デリーロの小品『沈黙』(2020年)は、まさにこの問題を扱った小説だと僕には思えました。
『沈黙』のあらすじはこんな感じです。
ある老夫婦が友人たちを自宅に招いて、大画面テレビでスーパーボウルを観戦することにしていたのですが、
原因不明の停電が起こり、電子機器や通信機器が正常に機能せず、友人の乗っていた飛行機も不時着してしまいます。
「ウイルスに、疫病、空港の発着ロビーを進み、顔にマスクをして、街中には誰もいなくなった」というコロナ禍を想像させるセリフから、
この作品が新型コロナのパンデミックを予見したという見方も成り立ちますが、僕はそういう「旬な出来事」には関心がありません。
題名の『沈黙』が意図するものは、明らかにメディア機器の沈黙であり、テクノロジーに依存した現代人の自己疎外──「ゾンビ化」だからです。


『沈黙』の第一部の最後はこのような文で終わります。


食事中もマックスは画面を見ており、食べ終わると皿を下ろして、見続けた。彼は床からバーボンのボトルとグラスを取り上げ、自分で一杯注いだ。ボトルを下ろすとグラスを両手で持った。
そして彼は空白の画面をじっと見つめた。
(ドン・デリーロ『沈黙』日吉信貴訳)

小説のラストは次のような文です。


マックスは聞いていない。彼は何も理解しない。テレビの前に座り、両手を首の後ろで組み、肘を突き出している。
そして彼は空白の画面をじっと見つめる。
(デリーロ『沈黙』)

最後の一文はほとんど同じですが、停電で何も映らなくなった大画面テレビの「空白の画面」こそが、不可視な虚無の居場所にほかなりません。
「空白の画面」を見続ける人の姿は、なんとも奇妙に思えますが、
しかし、それこそがメディア上の映像を見つめる私たちの真の姿ではないでしょうか。
街中で誰もが自分のスマホの画面を覗き込んでいる風景を目にして、奇妙な光景だと感じたことは誰にでもあると思います。
唐突に、彼らが話の通じないゾンビの群れに思えることさえあるかもしれません。
ある宗教を信じている人が、その宗教を信じていない人からどのように見えるかは明白です。
「彼らは虚無の中に自分の見たいものを見出して信仰している」


不安の存在がないようにすべてを明るみに出したい、という透明性への欲求が、
メディアにおける〈外観の移送交換トランサパランス〉で実現されると、「透明」の意味が変化する、とヴィリリオは述べます。
外観イメージが透明で「くっきりとよく見える」には、高精度の映像を映し出すモニター画面が必要です。
そうなると、光学レンズの精度を高めて透明に「視る」ことより、高精度な映像を生み出し、その巨大な情報量をいち速く転送するコンピュータの性能の方が重要になります。
そこでは「透明」の実現が、「相対性そのもの、すなわち時空の透明性ではなく、外観のリアリティーの透明化」へと置き換えられ、
いわゆる4K画質や8K画質の映像へと、無限に「解像度」を高めていくことが、加速を意味することになるわけです。


すでに高精度なデジタル映像は、人間の身体的知覚を超える領域に達していますが、
その「解像度」の追求が人間の感覚を疎外し、イデアの領域へと至ろうとするのは、その視野が「光の神」のものだからです。
究極の透明とはすべてを見通せる神の視野であり、そこに至ることが形而上的・神学的欲望であるのは言うまでもありません。
現代の形而上学とは、〈外観の移送交換トランサパランス〉によって、「解像度」の高い映像イメージを、世界の至る所に「流通」させることで実現されるのです。
国内の至る所で流通する、コインやお札に描かれた権力者の肖像イメージがそのお手本になることでしょう。
貨幣と権力者のイメージが結びつくのは、「交換」と「権力」に親密な関係があるからです。
市場における「交換」の数量は、多くの人に影響を与えるという点で「権力」にほかならないのです。
商品がその質を向上させて「交換(貨幣)」の数量を稼ごうとするように、映像イメージもその「解像度」を向上させて、〈外観の移送交換トランサパランス〉によって人々の関心アテンションを稼ごうとします。


ここにはポストモダン思想が決して問題にしようとしない、「視覚による一元化」という唯一神を支える全体化のメカニズムがはたらいています。
可視的な情報の一元化によって虚無ヽヽを排除することに成功すれば、唯一神である「光の神」の有力な臣下として光の権力を握ることができるでしょう。
自らが生み出した視覚的イメージを至る所に流通させようという欲望は、商品の売り上げを稼ぐのと同様の「権力への意志」(無神論的信仰)なのです。


リアルタイムと外観イメージが支配する自己中心世界

ヴィリリオの著書の中でも、『瞬間の君臨』はとりわけ取り扱う問題が拡散して捉えどころがありません。
僕はそれを体系的に整理しているわけですが、一番わかりにくいのがヴィリリオの「リアルタイム」へのこだわりです。
なぜリアルタイムがそこまで問題なのか。
速度と移動の話から、どうして時間的な同時性が問題になってしまうのか。
ヴィリリオはこのあたりの思想的飛躍を丁寧に説明しないで、アインシュタインの相対性理論と光学を持ってくるために、『知の欺瞞』(1997年)でソーカルやブリクモンに突っ込まれてしまうのです。


念のためにこれまでの流れを整理しておきたいと思います。

① 自動車や飛行機などの移動手段がさらなる加速を求めた結果、誕生したのが映画などのAV環境である。
② こうして物理的移動が外観イメージの移送へと置き換えられ、肉体は不動のまま情報だけが移動するようになった。
③ 物理的移動のないメディア画面上の移動はイメージの遍在化を導き、場所の概念を無効化するとともに主役を時間へと譲ることになった。
④ メディア画面上で共有される外観イメージが作り出す時間を、リアルタイムと呼ぶ。
⑤ 場所を消失させて成立したリアルタイムは、現実時間を同時的にイメージ化した世界へと置き換えるので、現実空間そのものを消去することになる。


最後の⑤については、実はまだ書いていない部分ですが、
ヴィリリオが「光−時間」であるリアルタイムを問題視するのは、それが現実空間を消去するからなのです。
現実空間を消去し、メディア上の情報イメージが実在の地位を奪うようになると、人々はリアルタイムの中に囚われることになります。


確かに、「脱−構築」という言葉があちこちで聞こえる。しかしそれは、現代の建築家の幾人かが考えているような使い方ではないようだ。建築学ヽヽヽでのヽヽ脱構築ヽヽヽとはヽヽ近年ヽヽ見らヽヽれるヽヽ空間にヽヽヽ対するヽヽヽリアルヽヽヽタイムヽヽヽ優位性ヽヽヽがもたヽヽヽらしたヽヽヽものだヽヽヽ。それは、今までの活動に対して瞬間的な応答活動が優位に立ち、物の外観アパランスそのものに対して、「移送トラン外観アパランス」が優位を占めることの帰結とも言えるだろう。
(ヴィリリオ『瞬間の君臨』)

ヴィリリオは〈フランス現代思想〉を象徴する「脱−構築」の概念に引っかけて、
現実空間に対してメディアが生み出す「今」という時間が「優位に立つ」ことを「(建築学での)脱−構築」と呼んでいます。
ヴィリリオは用心深いので、思想としての「脱−構築」とメディア情報が現実より優位になる「脱−構築」を区別していますが、
デリダに代表される〈フランス現代思想〉の「脱−構築」にも、現実に対するメディア情報の優位性を見てとることができます。
たとえばその発端にあるソシュール言語学ひとつ取ってみても、それはハッキリしています。
記号としての言語と、それが示す現実の対象との関係を「恣意的」なものとし、
記号同士の差異的関係こそが本源的であるとしたのが、ソシュール言語学の現代思想的アプローチでした。
この「言語論的転回」には、記号とそれを示す現実対象との関係を切り捨て、情報世界内部の記号と記号の関係を本質とする「内向性」を見なければなりません。
ポストモダン思想とは、このような内向的かつ閉鎖的な「記号の自律性」を打ち立てるためにあったとまとめてもいいと思います。


このような「ポストモダン運動」の背景にあるのは、人間を他律的に縛りつける「一神」からの解放──神の死──です。
神の支配から自由になって、人間が自律的に自分で自分を支配するようになることが、近代モダンから後期近代ポストモダンに至る西洋由来の欲望です。
つまり、人間の救済を司る一神に対して、「不要」を突きつけることが近代の欲望であり、ポストモダンもその欲望を忠実になぞっています。


一神による救済は不要である──ちっぽけな人間がそう言って平然としているためには、
人間の人間による救済が必要になるのは道理です。
その方法とは、僕が何度も強調していることですが、人間が生きる現実世界をそのまま「彼岸」に変えるというものです。
近代以降のメディア世界とは、人間による救済の真似事なのです。
救済を求める人々は、ひたすらメディア空間という「彼岸」へと接続するようになり、
自らのメディア・アバターを「真の自己」と偽って、イメージ化した世界で生きることを夢見るようになります。
このような救済への欲望をわかりやすく表現したものが、「メタバース」であることは言うまでもありません。


1998年に書かれた『瞬間の君臨』で、ヴィリリオはメタバースの登場をすでに予告しています。
次の引用文を見れば、メタバースというものが核爆弾と本質的に変わらない効用──「一神が持つ破壊能力」──を持つことがわかるはずです。


行動と遠隔行動テレアクション。存在と遠隔存在テレプレザンス。こういった異様な接合は、機械の伝送信号の強度と、人間の神経パルスの強度を混ぜ合わせ、宇宙空間あるいは地上空間の広がりを消し去ると共に、動物としての肉体の広がりをも消し去ってしまう…。なぜなら、肉体ヽヽエネヽヽルギーヽヽヽは機械に移送されるからだ。(中略)こうして「人間−機械」のインターフェイスは、あらゆる物理的な支えを次々と排除し、人間と場所との間に恒常的な無重力状態を作り出している。結局、かの名高いリアルタイムは、広がりや持続の全面的な仮想現実化という怪しげなものを利用して、現実空間と、そこにある全てのものを抹殺することに貢献しているのだ。
(ヴィリリオ『瞬間の君臨』)

上記の引用文で「広がりや持続の全面的な仮想現実化という怪しげなもの」と言われているものは、今で言うメタバースのことと考えてもいいでしょう。
現実時間と同時的リアルタイムに存在する仮想現実空間。
それこそが現実を置き換える「彼岸」であり、人間の人間による救済です。
しかし、その救済はメディア・テクノロジーが機能しなければ成立しませんし、商業的な目的によってしか維持できません。


メタバースのような仮想現実世界が、現実空間とそこにあるものを一瞬にして抹殺するならば、
そのような全面的な破壊は核爆弾にも等しい威力を持つと言えるのではないでしょうか。
近代という時代は、国家の独裁的指導者を一神のように崇める体制を生み出し、異質な敵を物理的に殲滅する最終解決をめざしたわけですが、
ポストモダンという時代では、メディア空間に外観を移送することで、自然的空間と動物的身体を殲滅することをめざすことにしたのです。
自然的空間と動物的身体の殲滅は、救済の対象が「知覚する魂」だけであることを示しています。
確かに殲滅の手段は平和的になったわけですが、救済となる彼岸の到来(=現実世界の抹消)を実現する宗教的目的は相変わらず維持されているのです。


私たちはこうして、(内向的な)自己中心的エゴ・サントレな空間のコントロールに向かい、もはやかつてのように(外向的な)外部中心的エグゾ・サントレな空間の整備に向かうことはない。かつての、なにがしかの「地平線」という古典的な参照基準は、自分自身という参照基準に置き換わるのだ。人間は、重さを持つ自己という唯一の物体だけを、つまり唯一の極だけを指標にするようになる。
(ヴィリリオ『瞬間の君臨』)

『瞬間の君臨』の原題は「極の不動 L’inertie polaire」ですが、この原題が意図することは、
メディア上で情報だけを移送し、物理的に移動することをやめた人間が、知覚主体である自己を不動の極として、内向的な世界を生きる未来の姿です。
「不動」が常態化した世界では、働くために、気晴らしのために、買い物のために自宅から出る必要はなくなる、とヴィリリオは言います。
そこでは「究極の安全な隠れ家」が現実のものになるのです。
ヴィリリオは建築家にふさわしく、まだ「住居」のイメージを手放していませんが、
その「究極の安全な隠れ家」という神話空間は、間違いなく「自分専用のメディア端末を接続できる個室」であればそれで十分です。
今や手元に端末さえあれば、街中でも職場でも学校でも電車の中でも「自分専用の個室」を擬似的に作り上げることは可能です。
手元のスマホを覗き込む人々は、自分が身を置く現実空間を二次的なものへと後退させ、
自らは「知覚する魂」となって、メディア空間という「彼岸」を欲望のままにさまよい、事情が許すかぎり長くその場にとどまりたいと思うようになります。


メディアの権力性と身体性の喪失

続く『情報エネルギー化社会』──原題「エンジンの技術 L’art du moteur」──で、
ヴィリリオは冒頭からテレビや出版ジャーナリズム等の大衆マスへの情報伝達メディアを「第四の権力」と呼び、その権力の本質を「抹消と隠蔽」に見ています。
一般的にマスメディアは「大衆に情報を伝える」メディアだと思われていますが、ヴィリリオはその権力性を「大衆に伝える情報を選択ヽヽするヽヽ」ことに見ています。
都合のいい情報だけを「選択」して伝え、都合の悪い情報は抹消し隠蔽するのがマスメディアという第四の権力の姿なのです。


メディア産業は、根幹で腐食している民主主義の現状を大いに利用している。というのも、互いに影響を及ぼし合うテレビと出版ジャーナリズムは、根拠ヽヽのないヽヽヽ偽のニュースを報道してはならないが、自分たちに都合の悪い情報や、自分たちの利益を損なうかもしれない事実を、検閲や禁止によって意図的に言い落とすことができるからだ
(ヴィリリオ『情報エネルギー化社会』土屋進訳)

伝達情報の選択による「抹消と隠蔽」を、ヴィリリオは「意図的沈黙」と書いています。
とりわけ日本社会は個人が自由に意見を言い合う土壌のない集団主義的社会なので、「意図的沈黙」に対する疑問と反発があまり起こりません。
これがマスメディアの権力をより強める結果になっています。


今やマスメディアは法を超える権力になったのです。
法を支える「理性」に訴えることなく、「慣例や慣行」を生み出して無意識領域を操作する力を持っているからです。
理性より無意識を優越させる〈フランス現代思想〉に代表されるポストモダン思想が、マスメディアが持つ権力の近傍にあり続けているのは、
両者が同じ価値観を共有していることと無関係ではありません。


黎明期のマスメディアは、限られた人しか知ることのできない情報を、大衆マスに向けて大量発信することが主な権能でした。
しかし、マスメディアが戦時体制の〈総力戦テクノロジー〉として戦争のための「兵器」となってからは、
大衆マスが依拠する現実世界を、権力にとって都合のいい「物語世界」へと同時的リアルタイムに置き換える力を持つようになりました。
現実空間を「物語=彼岸」へと置き換えることは、現実空間の抹消すなわち破壊を伴います。
つまり、マスメディアは、人々の「知覚する魂」を安逸な「彼岸」へと招き入れている間に、身体が依拠する現実空間を消し去る〈安楽死テクノロジー〉となったのです。


ヴィリリオが知覚麻痺と安楽死の関係についてインタビューで語った部分を見つけたので、参考のためにここに引用しておきます。


ナチスの安楽死ユーサネイジア知覚麻痺アネスシージアとともに始まったのです。これはとても重要なことです。(中略)ゲッペルスは国家に麻酔をかけた人物です。そして国家が知覚麻痺に陥ったあと、社会の安楽死を、すなわち隣人たちの安楽死を、最終的には国民全体の安楽死を進めたのです。ドイツのプロパガンダ情宣局が知覚を麻痺させることさえしなければ、民族の大量虐殺は起こらなかったでしょう。私の考えでは、少なくともゲッペルスについてはヒトラーと並ぶ責任者として捉えるべきです──あくまで、少なくとも、と言っているのですよ。ゲッペルスは最重要人物です。
(ポール・ヴィリリオ『黄昏の夜明け』土屋進訳)

ゲッペルス無くしてナチスはあそこまで戦えなかった、というヴィリリオの見解には僕も同意します。
〈安楽死テクノロジー〉という術語は僕の創作ですが、ヴィリリオもメディア・プロパガンダの文脈で安楽死という語を用いてたので安心しました。


マスメディアが〈総力戦テクノロジー〉=〈安楽死テクノロジー〉になってからは、
文学からも芸術からも音楽からも現実空間と結びついた身体性が失われていくようになりました。
物理的な支えを失った身体をヴィリリオは「無重力状態」と呼んでいましたが、マスメディアと絶えず接続する人たちは、否応なく身体の無重力状態に突入しています。
こうして、重度メディア依存症の人間の行動は、脳の構造分析によって説明がつく程度のものでしかなくなり、
脳について語れば精神について語っているかのような幻想が、まことしやかに語られるようになりました。


商業音楽に至っては、テープやCD等の音源の物理的根拠もなくなり、ただインターネットに接続して音楽を流せば事足りるようになりました。
今でも駅前や街角のライブハウスで、聴衆の身体に訴えかけるライブ演奏を行うミュージシャンは数多くいますが、
そういうミュージシャンは身体を介在しない商業音楽を生業としている人よりも尊いと思われていません。
世間的には、何万回再生されたとか、何万ダウンロードされたとか、そういうマスメディア上のコピー量でしか、ミュージシャンの価値は評価されないのです。
なぜなら、流通するコピーとは貨幣の等価物だからです。
それが数量の崇拝をもたらします。


文学はそもそも物質性とは縁遠い言語を主戦場とするものです。
しかし、芸術がそうであるように、文学は身体性に欠ける媒体を用いつつ、身体性を感じさせるという「不可能を可能にする神秘」をめざすものでした。
しかし、マスメディアが主導する消費資本主義の中で、文学における身体性はどんどんと失われていきました。
たとえば中上健次という作家は、紀州の土着的な身体性において我々の前に何度も現れ直します。
彼が肉体労働をしていた、というプロフィールが意味を持つのも、作品における彼の身体性を裏づけるためにほかなりません。
それに対して、三島由紀夫という作家は、作品の中に身体性を宿すことに成功したという印象はありません。
彼にとって身体とは、ボディビルで鍛え上げるべき「精神的対象」でしかありませんでした。
彼の「豊饒の海」シリーズを読むと、彼が最後に起こした事件は、唯心論に拠り所を見出して、転生のために身体を葬り去る儀式を行なったのではないか、という疑惑を感じないわけにはいきません。
その儀式のためにマスメディア向けのパフォーマンスを必要とした理由までは、おそらく秀才の三島本人も理解はしていなかったと思います。


村上春樹に至っては、もはや身体性は性行為に縮減されています。
ポルノとも揶揄される春樹の性描写は、身体性を守るための最後の砦のようなものです。
『ねじまき鳥クロニクル』(1994年)には、ノモンハン事件でソ連兵が日本兵捕虜の皮剥ぎをする場面があります。
生きたまま皮を剥ぐという凄惨な描写でも、三島由紀夫が「憂国」(1961年)でめざしたような身体的苦痛を描き出す意図は見られず、
性描写と同じように、滑らかな語りの中に沈み込んでしまいました。
本質的に商業的マス文化に依拠した作品世界で、ある部分だけ身体性を宿らせるなどという試みがうまくいくはずはないのです。


そして、それ以後の世代の文学には、身体性を見出すこともできなくなりました。
男性より身体的制約の強い女性の方が、作品に身体性を宿すことに秀でるようになりましたが、
題材が内輪的もしくはジェンダー的なものに限定される場合が多いようです。
かつては自然や社会との身体的関係を扱っていた俳句は、身体喪失をごまかすように抽象的な言語的イメージをこねくり回すまでに衰弱しましたが、
出版ジャーナリズムがそれを「新しい」とチヤホヤして空疎なカーニバルを演出しています。
もはや文学には「不可能を可能にする神秘」に挑む詩的な姿勢などすっかり消えてしまい、ただマスメディアで取り上げられて何者かになりたい、という低レベルな「立身出世」を求める無知蒙昧な輩が集まる場でしかなくなりました。


21世紀になって、もっぱらメディア上の身体性と言えば、スポーツとダンスもしくは筋肉トレーニングに集約されるようになっています。
スポーツもダンスも規範的な動きや周囲との連携へと身体を適合させる「規律・訓練」に支配されたものです。
ヴィリリオは、スポーツに対しても辛辣な批判を展開しています。


スポーツ・トレーニングとは、主体の意識ヽヽ介入ヽヽ時間ヽヽを極限までカットできるようになるための訓練である。もう少し具体的にいえば、トレーニングの目的は、現実世界を忘れ、疑念や躊躇から自らを解放し、反省意識の助けなしに肉体がひとりでに動くように感じられるまで、運動の通時性を圧縮し、共時性を確立することなのだ。
ハイレベルのスポーツでは、考えることに時間を費やすことはできない。一流スポーツ選手は、もはや自己の状態を自省することはない。
(ヴィリリオ『情報エネルギー化社会』)

もちろん、ここでヴィリリオが訴えたいのは、スポーツにおける「速度の追求」です。
タイムを競うスポーツはもちろん、得点を競うスポーツでも身体の運動速度の追求は避けられないテーマです。
身体運動の速度を追求する上で、反省意識の介入は時間のロスになるので排除される必要が出てくるのです。
一流スポーツ選手の延長に、一流の兵士がいるとすれば、
完全な兵士パーフェクト・ソルジャーとは、疑念や躊躇という意識を介入させることなく、「肉体がひとりでに動」いて相手を殺害することができる存在になるでしょう。


ヴィリリオが面白いのは、スポーツがはらむ「意識活動の低下」を、情報隠蔽による現実感の喪失と結びつけているところです。
「瞬間」だけが存在する共時的なリアルタイムの世界では、「意識なき肉体の瞬時反応」こそが求められます。
反省意識を介在しない共時性における身体的同調──つまりは身体的なシンクロ状態──を極限まで高めたわかりやすい例が、アーティスティックスイミングであり、韓流グループアイドルです。
これは徹底した「規律・訓練」のもとでしか成立させることはできません。


ヴィリリオはスポーツに見られる意識低下を、情報隠蔽と結びつけて、「現実感の喪失は情報隠蔽がもたらす」と述べています。
この結論には飛躍がありすぎるので、情報隠蔽の問題よりも、スポーツが意識の依拠する時間を「瞬間」にまで切り詰めることを問題にした方がいいと思います。
「瞬間」において考えることができることは、非常に限られてきます。
スポーツは、まさに瞬時の判断で運動を開始しないと、成功が得られない競技です。
人間は「瞬間」を生きることで、必然的に共時的な意識低下の状態へと落ち込むのです。
その意識低下状態が、情報隠蔽と同様の効果をもたらす、というのが丁寧な論理構築になると思います。
つまり、意識低下状態の「瞬間」を共時ヽヽ的なヽヽ居場所にしているのが、スポーツや高速のダンスパフォーマンスなのです。
そのような「瞬間」の生をマスメディアが慣習化・慣例化することによって、人々が反省意識を持たない精神を規範とするようになると、情報隠蔽の土壌ができあがります。
メディアによる情報隠蔽が常態化すれば、現実感に対する無関心が蔓延し、ただ内輪の人々の共時的な関心だけが現実であるかのような錯覚に陥ることでしょう。


もちろん、これはスポーツやダンスのある一面を取り上げているにすぎません。
ヴィリリオは動きが空間や時間を構成するようなダンスの振り付けについては、身体統御の技法として評価しています。


現実空間が抹消され、そこに依拠する身体が失われることによって、身体もメディア上の存在になっていきます。
身体の内部は小さなカメラによって覗き込まれ、その様子がモニター上に映し出されます。
外観の移送交換トランサパランス〉によってモニターに映し出された身体の内部は、ある種の遠隔地の風景にほかなりません。
こうして個人の肉体にまで遠隔のフロンティアが見出されていくようになります。
これをヴィリリオはナノテクノロジー(10億分の1メートルを制御する技術)による体内植民地化と呼んでいます。

リアルヽヽヽタイムヽヽヽの遠隔技術が時間差を消滅させたことにともなって、(物理学的あるいは地球物理学的)広がりという現実ヽヽ空間ヽヽは消滅した。いや正確に言えば衰退してしまったというべきだろう。その必然的な帰結として。行きヽヽ場をヽヽ失ったヽヽヽ先端ヽヽ技術ヽヽとそヽヽの技ヽヽ術がヽヽ生みヽヽ出すヽヽマイヽヽクロヽヽマシヽヽンはヽヽ生体ヽヽ内のヽヽ器官ヽヽへとヽヽ向かヽヽってヽヽいるヽヽのだヽヽ
(ヴィリリオ『情報エネルギー化社会』)

ここで注意しておきたいのは、リアルタイムの〈外観の移送交換トランサパランス〉においても、内部と外部が反転しているということです。
身体の内部が外部の遠隔地であり、外部の遠隔地が端末の内部にある、という「内外逆転」の世界は、
外延的広がりを持つ現実空間の抹消を伴うために、「すべてが自己の内部にある」という実感の中で知覚されます。
こうして、人々は自己の外に出る必要がなくなるのです。
物理的移動の消滅は、精神的世界を縮小していくことになり、人間の幼児化を進めることでしょう。


AVメディアによって物理的な移動が衰退すると、私たちはもはや自己の外へと「移動」する必要がなくなり、出発が存在することのない純粋な「到着」だけを体験するようになる、とヴィリリオは言います。
そのとき私たちのもとに「到着」するのは、情報によって構成された世界──「情報宇宙」です。
「あらゆる所へ情報が到着するようになり、リアルタイムで情報がどんどん移動するようになる」ことで、「救済は幻想の中でしか見出すことができなくなる」とヴィリリオは述べますが、
僕の考えでは、実はそれこそが一神教の思い描いた「救済」のメディア技術的実現なのです。
なぜなら、そもそも一神教が説く「彼岸」における救済などは幻想でしかないのですから。
幻想を必要とする精神の弱さが、メディア権力を地球レベルへと巨大化する動力となって、「技術的救済」に身を委ねるように人々を「総動員」していくのです。


こうしてヴィリリオは速度から情報論へと舵を切るようになるのですが、
例によって紙幅が尽きましたので、続きは次回にしようと思います。
【その6】を気長にお待ちください。


7 Comment

往来市井人さんへの返答

往来市井人さん、返答が遅くなりました、南井三鷹です。

僕が「彼岸への疾走」と書いたことから、fastの語義との関係を提示していただきました。
ファシズムとの関係など、深い洞察があります。

せっかく有用な視点を示していただいたのですが、僕はどうにも語義的なアプローチに関心が薄いんですよ。
言語のルーツにある程度の共通性が見られるヨーロッパ人たちにとっては、
語義的アプローチはいわば自らの「文化的基盤=文化的無意識」への探究という意味があるでしょう。
しかし、日本人にとって、西洋思想は外部から「意識的に取り入れた」ものです。
その意味で西洋思想への哲学的アプローチは、ヨーロッパ人と同じ既存文化の根底へ遡行する方法論より、
外部から異文化を観察・分析する方法論の方を好んでいます。
(「中動態」のようにインド−ヨーロッパ語の古代文法を、日本に強引に当てはめる西洋中心主義丸出しの歴史意識を持っていると思われたくないですから)

でも、これはあくまで僕のスタンスです。
往来市井人さんは、自分なりの問題意識で考えてくださっているので、それを進めていけばいいと思いますよ。

fastの意味の多様性

度々の投稿、失礼致します。

「彼岸への疾走」をテーマとして、調べ直した時、fastの意味の多様性を確認し、それが、南井様の評論の内容と関係があるのではないかと思案しました。

fastには
1.固定された、しっかりとした
2.速く、俊敏な
3.断食
主にこの3つの意味があり、

元々は1.の固定されたという意味が主であり、2.の速さについては[run fast]のようにしっかりと走るという副詞的な意味から派生したようです。
(断食についてはしっかりとした意志を持ち続けるということから派生したようです。)

上記の派生通り、固定されているから、加速できると言えば、それまでですが、固定と移動、そして宗教的意義を内包するこの言葉からは、「彼岸への疾走」の欲望との関係を、感じずにはいられませんでした。

初歩的な問題提起となりましたが、南井様から、返信を頂けることを心から願っています。

(蛇足ですが、
fastの語源であるfasはfastの、1.固定された という意味として使われており、ファシズムの由来となったファスケスとの関係があります。
また古代ローマに遡ると、凱旋式の際、御輿にファスキヌスという局部を擬した装飾を施すことで、嫉妬や憎悪などの邪眼[観られること]から、将軍を守護すると信じられていました。
これは、南井様の第四回の評論内で提示された、セックスシンボルと重なるものと考えています。)

往来市井人さんへの返答

南井三鷹です。

往来市井人さんはご自分に厳しいですが、僕の書いたことは「批判」ではなく解釈の「修正」程度ですよ(笑)
「MOバブル」が出てきたことには驚きましたが、
それにしても、「細分化」が、質量を軽くして速度を増すために行われる、という分析は鋭いですね。
つまり、細分化とはインターネットを支えるパケット通信の原理なんですよね。
情報流通の速度の追求には、細分化と表層化は欠かせません。

残念ながら、この思想的闘争にハッピーエンドはないでしょう。
ヴィリリオへの批判で、「問題に対する対処法が示されていない」というものがあります。
僕があえて対策を言うなら、マスメディアやそれが生み出す共同体(国家を含む)にできる限り依存するな、という程度です。
しかし、これができる人はほとんどいません。
メディア共同体(要はメディア上の「みんなの遊び場」)に依存する人ほど、資本の後押しを受けたメディアの権力性を無視するものです。

皮肉なことですが、マスメディアの陥穽に落ちない人とは、マスメディアを通しては出会いにくいんですよね。
僕はそういう希少な人に向けて書いているのですが、
メディア依存をしている人間が多数のために、いつも多数を敵に回すことになっています。

それでも誰かがマスメディアの根源的な批判をしなければいけないと思います。
たとえその批判が無数に流通するイメージの一つとして消費されるにしても、です。

批判していただきありがとうございました。

 前のめりで書いてしまったイメージから、意図を理解して頂けただけでなく、本論の致命的な問題点とそれによる南井様の評論からのズレを指摘され、評論の内容に沿ったイメージに再構築してくださった事は、本当に嬉しく、感謝の想いでいっぱいです。

 繰り返しになりますが、改めて整理した内容を掲載させてください。

 亀(現実?)に追いつこうとするため、アキレス(自分の理解ではメディア空間に限定)と同化することで、身体性以上の速度を手に入れる事ができ、より亀(現実?)に近づけたと実感するが、時間の細分化による操作(流通力と価値決定で現実の活動を数値化し、通貨と相同であるとして、操作可能なものへ変えてしまうこと。それを可能にする権力)によって到来した加工された現実と区別がつかない。(身体性以上の能力で構築された現実のため、知覚の域を超えている。)
 加速の欲望(「加速=運動÷質量ー抵抗」と雑に定義した時、速度を依存しているため、これ以上の運動が望めないなら)は細分化の欲望へと変化(まず自身の質量を減らす事で、加速の増大を目指す。)し、権力を増進することになる。(自身の身体性を細分化することは、身体性を交換可能なものに変えること、その価値決定と流通は権力に依存するものである。)
 権力の操作によっておとずれた現実を受け入れる人々は自分達が前進することを求めるのではなく、(加速を身体性の細分化によって行なっているため)目前の景色(加速の等式を支える運動の前提条件、自分の理解ではメディア空間)が消失しないことを求めるようになる。
 そうして景色は形骸化(運動の定数は変わらない)し、交換可能になる。(変わらなくても機能し続けるということは、定数が変わっても機能は持続する。)
 亀(現実?)は代替可能な存在(目的が現実への到達から、加速の等式の中で、身体性を細分化して数量を増加させることに入れ替わっているから。)となり不要となる。
 こうして矛盾は盾なき矛となり(問題を加速で突破する事で抵抗を無効化すること、それは自身が抵抗できない商品となる事でもある。)自己による救済は達成される。(権力への服従と同化 それによる自己の無効化)

 このように「速度ー内ー存在」を権力によって設定された景色の中を延々と走り続けることで、自身の問題を強引に解決し、現実から永久に疎外する体制維持装置という安直な発想で考えてしまいました。

 しかし評論の命題として一貫しており、「速度ー内ー存在」の前後の文脈にも示されている「彼岸への疾走」という課題を無視してしまった本論は解釈として不適切かつ不十分でした。

 このようになってしまった理由は3つあると考えています。

 1つめは、問題の極端な単純化であり、メディア空間や加速を求める体制を安易に権力資本の増殖運動と同列に考えたために、権力と自己という二項対立(セカイ系)に陥り、ヴィリリオの理論のエッセンスが全く失われてしまいました。
 その二項対立に固執するあまり、2つめの問題であり、南井様がご指摘くださった亀を(現実)に設定したことは、権力へ数量主義に対して多くの人が批判的な視座を持ち占有性が崩れれば、自然と現実に向き合うことが出来るというサブカル的なハッピーエンドを夢見た、幻想のためと考えています。
 本論の中での亀(現実)とは、結局この幻想のために用意された複数化された現実の一つであり、メディア空間を掠るどころか、メディア空間によって成立した事象内に依存している結果となってしまいました。(釈迦の掌を飛ぶ孫悟空のような始末です。)
 そして、3つめの理由であり、私が最も重大な失態と考えていることは、第一、この本論そのものが自身の考案ではなく、南井様が佐野波布一というお名前で活動されていた際のアーカイブ内に保存されていた「MOバブル」という評論を参考にして書いたもののためです。
 「MOバブル」の評論の中で示された、村上春樹の小説の身体性の描写や、時間的同時性を保ちつつ空間を越える構造が、今回の「極の不動」の内容と共通していると考え、整合性を無視してそのまま適用しました。(アキレスと亀のイメージも同評論内で示された「九十九十九」の結末の総括を焼き直したに過ぎません。)
 自身の経験ではなく、他者の論説を安易に流用して解釈したために、自己を論説の対象から勝手に除外した無責任な言説になってしまったと考えています。(この無意識の態度が、「彼岸への疾走」という文脈から自己を切り離して考えるという失態を冒してしまったと反省しています。)
 
 まとめとして、南井氏が考える(速度ー内ー存在)とは、権力が現実から身体を疎外し続ける構造ではなく、そういった構造とをひっくるめて、全て破壊され、イメージと化した存在が堆積し、情報を覗き込み続ける端末世界であること。
 本論はそうした端末世界に対して対抗することはできず、むしろそれにより保存される複数化された一つのイメージでしかないこと。
 何よりも自分をイメージの一部であるという現実から除外し、否定する幻想がイメージの保存のための原動力となっている。
 結果、本論は自分の幻想の為に掘られた墓穴であった。
 安易な単純化と他者への依存心と無自覚、今回の批判で浮かび上がった私個人の欠点と無能力を踏まえて行くことで、(速度ー内ー存在)に動員されることなく、自己の方向を決定できる孤独について内省していきたいと思います。
 
錯綜した長文となりましたが、改めて、批判していただき本当にありがとうございました。

城前佑樹(白樹烝)さん、往来市井人さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
城前佑樹(白樹烝)さん、往来市井人さん、更新の遅いブログとのお付き合いと温かいコメントありがとうございます。


城前佑樹さん

城前さんのおっしゃる通り、一神教は厳しい砂漠で生まれたので、
現実の苦しみを抹消する神の救済が強く求められたのだと思います。
だからこそ、神には現実を抹消する力がなくてはなりませんし、
その技術的実現には、現実空間を抹消する力を持った「兵器」が必要なのです。
当然ながら、そうして実現される「彼岸」を肯定するのは、僕の意図するところではありません。

キリスト教を信仰してもいない東洋人が、西洋崇拝の心理に促されて、
自らの歴史的・文化的土壌を破壊していくのは、見るに耐えないものがあります。
僕自身は一神教やその「無重力状態」に対抗すべく、宇宙と人間の調和をめざした東洋思想を立て直したいと思っていますが、
一神教には「世界経済」のパワーという後ろ盾があるため、経済的なハイパー資本主義に対する対抗運動が同時に必要です。
それについても構想はありますが、まだ勉強中なので、だいぶお待ちいただくことになりそうです。
ただ、人々がこのポストモダン社会がおかしい、と本気で思わないことには何も始まらないのです。
その意味で徹底したポストモダン批判がもっとなされないことには、
社会変革には結びつかず、個人の満足で終わるだけになるでしょう。


往来市井人さん

アキレスと亀のイメージで把握するというのは面白い発想ですね。
「ゼノンのパラドックス」にあるアキレスと亀については、僕個人は「時間の空間的把握」によるものと解釈しています。
ヴィリリオは空間の時間化を語っているように見えますので、そこに関連性を見出すことには理があると思います。

解釈によるところではあるのですが、
往来市井人さんが書いてくれたように、加速して追いつこうとしているもの(亀)が「現実」であるのかどうか、という点には注意を払いたいところです。
往来市井人さんは、〈速度-内-存在〉に疎外された現実を取り戻す「疎外論」の文脈を見出しました。
市田良彦はヴィリリオを疎外論で片づけているので、ヴィリリオをそのように読んでもおかしくはないのですが、
僕自身は、むしろ現実から逃走する「彼岸」(もしくは救済)への疾走として考えています。
移動は目的地への移動であるわけですが、同時にここから離れたい、という離脱の移動でもあるのです。

現実離脱の移動をメディアが肩代わりするようになることで、人間は現実から疎外されます。
むしろ、一神教の本質は現実に追いつくことではなく、現実から離れること、
つまり、亀がアキレスから逃げ続けることにあると言えます。
そして究極には、アキレスがその場で足踏みをし続けるという「不動の移動」こそが、
絶対に追いつかれることのない亀を実現させるのです。

そうなると、重要なのは、自分が移動しているという「錯覚」を、共時的に集団で確認することだけです。
現実では、瀕死の亀がほとんど動けなくなっているのに、アキレスたちは手元の画面に映る素早く動く亀を覗き込み、
横にいる自分そっくりなアキレスたちと「亀速いな」と確認し合いながら、その場で足踏みを続けるのです。
こうしているうちに現実の亀は死んでしまい、アキレスたちは彼岸にいるはずの亀を画面上で追い続けることになります。

往来市井人さんの考えを参考にして、僕がアキレスと亀のイメージで考えると、こうなります。
面白いご意見をありがとうございました。
またコメントをお寄せください。

速度ー内ー存続

時間停止の例から始まり、不可能性による救済によって解説された、今回の[極の不動]についての評論で、南井氏が提唱された(速度ー内ー存在)についての雑感を抱くことができました。私はアキレスと亀のイメージて考えています。

現実(亀)に疎外されていると感じる人々が、現実に追いつけると謳った速度ー内ー存続(アキレス)と同化し、追いついていくことで、実感を得て更なる加速を求めるが、それは時間の細分化による操作(メタ操作=権力)によって到来した、加工された現実と区別がつかない。加速の欲望はそのまま細分化の欲望へと変化し、権力を増進することになる。権力の操作によって到来した現実を受け入れる人々は自分達が前進していくことを求めるのではなく、目前の景色(前提条件)が消失しない事を求めるようになる。そして景色は形骸化し、交換可能な記号となる。こうして現実は代替可能な存在となり、現実(亀)は不要となる。矛盾は盾なき矛となり、自己による救済が達成される。

ヴィリリオの論は多くのテーマを包括しているので南井氏が考える(速度内存在)とは、様々な事象と結びついたより深い内容だと考えていますが、私個人の理解ではまだ十分にテーマを深められませんでした。

この感想をどうか批判していただき、この評論から更なる発想が得られ、南井氏の評論をよりよく理解できるようご助力いただける事を願います。



拝読させていただきました。

今回の南井さんの批評に出ていた「彼岸」の話は相当に怖いものだと思いました。

メディア技術により実現した「瞬間」を追い続ける速度感、それが現実での身体感覚を葬り去ろうとしていく様に、人間は耐えられるとは思えません。
現実における(抵抗を含んだ)人間関係、風土、自然、そういったものは確かに思い通りにいきませんが、だからこそ身体的な関わりに手応えがあるのだと私は思っています。
メディアの問題に関わらず、外的なものがない世界(自分の意識通りの世界)において速度を増していき「瞬間」のみの世界が到来した際には、人間の意識はその場に耐えられず狂気に陥るでしょう。具体的な私ごとはここでは書きませんが、少なくとも私はそのような「無重力状態」に耐えられませんでした。
(南井さんの文章における「彼岸」も肯定することは到底できず、むしろ「地獄」のように思います)

彼岸というものは日本よりも過酷な環境下で生まれたキリスト教圏の国々だからこそのものなのだろうとは納得できますが、
そのためにメディア技術によって「総動員」されている自分達自身を自覚・自戒しなければならないですね。

ただどんなに現実に代わるメディア空間が実現したとしても、画面から這い出ればどんな人にも現実界は存在するということは間違いないのではないでしょうか。そこに希望はあるように思います。
(「国敗れて山河あり」ならぬ「メディア廃れて山河あり」ではないですが笑)

さて、西洋の彼岸は現実抹消により実現するのでしょうが、東洋での彼岸は現実において身体的に感受するものという感があります。
古からの仏教画、俳句などがただのイメージではなかった所以でしょうが、現代ポストモダニズム批判が一区切りつきましたら、南井さんにはぜひ東洋思想のほうもご教授いただけるとありがたいです。

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