南井三鷹の文藝✖︎上等

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ソシュール言語学は西洋中心主義でしかない

〈フランス現代思想〉の入口を問い直す

構造主義、ポスト構造主義に代表される〈フランス現代思想〉は、その言語的なアプローチから「言語論的転回」と言われたりしますが、
その始まりはF・ソシュールの言語学にあります。
僕は前々からソシュール言語学に疑問を抱かない日本人は思考停止をしていると見なしているのですが、
ソシュール的な記号論や〈フランス現代思想〉を権威として疑わない人の多さに嫌気がさします。
ハッキリ言えば、オマエたちは西洋人ではないんだぞ、ということなのですが、
日本には西洋人に憧れる「ワナビー西洋人」が多いせいなのか、そのことを否認し続ける「自己逃避」を延々と続けています。
〈フランス現代思想〉はそのような「ワナビー西洋人」のさもしい自意識を満たすために日本で流通したので、
実際の〈フランス現代思想〉とは似ても似つかない〈俗流フランス現代思想〉となってしまいました。
〈俗流フランス現代思想〉はヨーロッパ近代を批判のターゲットとすることで、
その外部にある日本を相対的に持ち上げ、自分たちが「西洋から評価される日本」であるという幻想を振りまくことになりました。
(実際は日本も帝国主義に加担したので「ヨーロッパ近代」の外部にはいないのですが、
インチキ学者はこのことに触れずに自己欺瞞を貪っています)


最近は伝統文学である俳句の「若手」にも、西洋の現代詩に憧れる「ワナビー西洋人」が前衛ヅラをして〈俗流フランス現代思想〉を持ち出しているくらいなので、
その闇の深さは相当なものだと感じています。 



『古代インド哲学史概説』 (佼成出版社) 金岡 秀友 著 【その2】

「一」と「多」との合一すなわち「梵我一如」が意味するもの

アーリヤ人による最古の文献である『リグ・ヴェーダ』が成立してから、ほかにも多くのヴェーダ文献が編纂されるようになります。
本書では成立期によってそれらを「第一次ヴェーダ」「第二次ヴェーダ」「第三次ヴェーダ」と分けています。


第二次ヴェーダに分類されるものの中で代表的なものは、祭祀で唱えるマントラの解説や解釈などを集成した「ブラフーマナ」文献です。
ブラフーマナ(梵書)は言ってみれば儀式書です。
ヴェーダ祭式のやり方と祭詞・呪句についての解説などで構成されている「祭祀の書」です。
ブラフーマナには、神より人間の方を上位とする考えがあると金岡は指摘します。
というのは、文献の規定通りに間違いなく祭祀を実行すれば、神は人間の要求を拒むことができないと考えられていたからです。
これが祭祀の厳密な規定に対する知識と実行の権限を持つ者(バラモン)が、神々を動かし、宇宙を支配する権力者と見なされることにつながったのです。
神を祭祀の道具と見るインド的な神の捉え方(神観)は、ユダヤ・キリストの神とは異質と金岡は述べます。


ブラフーマナにおける神観の特色は、ヴェーダ、ことに『リグ・ヴェーダ』において一般的であった自然崇拝的なそれから、その背後の力、根源的な力、宇宙神的なものを求めるようになったことにある。

金岡はこのように書いて、第二次ヴェーダにプラジャーパティという世界の創造主が登場する理由を説明します。
神々が抽象化していくことによって、「無」や「ブラフマン(最高真実)」などの世界の根本原因が求められるようになっていったわけです。


ついで第三次ヴェーダの文献へと発展していくわけですが、第三次ヴェーダの中核は「ウパニシャッド」と呼ばれる文献です。
ウパニシャッドの語義は明瞭ではないのですが、「誰かのそばに坐す」という意味から派生しているようで、
師匠と弟子の間で伝達される秘教・奥義のような意味合いで把握されています。
キリスト教徒やイスラム教徒は、仏教より早くウパニシャッドに出会ったため、
インド思想と言えばウパニシャッドという発想だったようです。



〈俗流フランス現代思想〉という思想たりえない「まやかし」

日本の個の脆弱さを隠蔽する〈フランス現代思想〉

日本には共同体と個とのフェアなコミュニケーションが成立していない社会です。
そのため、共同体による個の切り捨て(デッドコミュニケーション)が、個を抑圧するかたち(村八分など)で作用してきました。
その原因にまでは僕の研究は行き届いていませんが、多くの識者が指摘しているように、おそらく日本が中華帝国の圧力下にありながら、適度に辺境にあったことが影響していると思います。
国内の内的関係以上に外圧との関係が優先されるお国柄であったため、 外的事情の前では内部の意見などたいした価値がなかったのでしょう。


そのため、日本では内的事情を協議や代表制を通じたコミュニケーションを支配者が吸い上げるようなシステムが発達しませんでした。
それは現代まで続いていますので、日本人なら誰でも思い当たるのではないでしょうか。
たとえば日本は民主主義国家を標榜していますが、官僚や政治家は国民の意思などよりアメリカ政府の顔色をうかがっています。
もちろん、このような姿勢は「戦後」に成立したものではありません。
外圧に対してチキンである日本人は、そのような自意識をはねのけようと、他の国に対して攻撃的になります。
そうやって自分たちは本当は外圧など何とも思っていないのだ、という自己欺瞞に生きるわけです。


では、外圧をはねのけて福沢諭吉が言うような自主独立をすればいいかというと、問題はそう簡単ではないのです。
恐ろしいことに、日本人が外圧をはねのけようとすると、国内の支配層が外圧の代わりに国内を支配することになるため、
よりいっそう内部に対する一方的な強権を発動するようになるのです。
つまり、攘夷思想(もしくは天皇親政)がより不幸な支配を生んでしまうという土壌が日本にはあるわけです。
この問題を解決するには、日本の大衆が一度でも市民革命を実行するしかないと僕は思うのですが、
まあ、そんなことがありえるかといえば、絶対にないと僕は思っています。
歴史というのは、かくも恐ろしいものです。


このように日本人は外圧を背後にした共同体の一方的な抑圧の中で生きています。
過度に抑圧的な人々だと僕は思いますが、日本人自身は案外自分たちの国に不満をあまり持っていないようです。
権力に対して抑圧的な生を甘受する代わりに、個人は大きな責任から逃れた「自由」を享受できるようになっているからです。
このような社会では個人の自由はいわば与えられた「自由」でしかないのですが、
このような飼い犬のような人生がなかなかに心地良いものなのです。
共同体の支配の及ばない空間でだけ個の享楽を謳歌することができるというシステムなのですが、
このような「公」と「私」の領域の使い分けによって、日本人は自らの抑圧的な生をそうと認識することなく生きることができたのです。


さて、それでは個人がより自由になるにはどうしたらよいでしょうか?
平均的な日本人の発想であれば、それは「私」の領域を拡大することを目指すことになるでしょう。
個人は私的空間において享楽的にしか存在せず、社会から逃避して引きこもることが個であるかのように錯覚するようになるのです。
日本ではインターネットがまさにそのような個の享楽の場としてサブカル的(性的)欲望と連動して発展を果たしました。
日本の大人がスマホ中毒者として外でもインターネットばかりいじっているのは、
それが「公」の領域に対する「私」の領域の侵略行為であるからです。
スマホに夢中にさえなれれば、誰でも傍若無人な「無頼派」になることができるのです。


〈俗流フランス現代思想〉という思想的価値のない現状維持装置

このような惨めな「私」の充実をただ後押ししているのが、ニューアカ以後の〈フランス現代思想〉です。
彼らが商業的に成功したのは、それが平均的な日本人の欲望を正当化しているからにほかなりません。
(勘違いしないでほしいのですが、〈フランス現代思想〉中心の哲学観を持つ人などは日本では間違いなく凡庸です。
こういう人間が自分を頭のデキの違う思想人だと思い込んでいることほど滑稽なことはありません)
「逃走」「切断」と社会からの逃避を訴えることが、ドゥルーズ=ガタリ的な無意識の欲動と重ねて語られるようになりました。
しかし、ここまで書いてきたように、日本での俗流化した〈フランス現代思想〉のルーツは〈フランス現代思想〉などにはなく、
単に日本の近代社会の構造において成立したものでしかありません。
ドゥルーズ=ガタリは個の充実と共同体のありようをどう結びつけるか、その「接続」的な意味をしっかり考えているのに対し、
浅田彰や東浩紀や千葉雅也などの〈俗流フランス現代思想〉のアイドルたちは、 共同体からメタ的に引きこもる「逃走」や「切断」の面ばかりを語っていました。
彼らがサブカル的な欲望の近くに位置し続けていたのも、「メタ的引きこもり」の享楽的精神が共通していたためです。
これらの「切断」戦略は、これまで支配者側の共同体が行ってきたディスコミュニケーションを自らが行うことで、
自分が支配側の立場に立っている「気分」になるということでしかありません。
(下層ネット民の中にやたら権力者側と同一化した視点を持っている人がいるのはそのためです)


しかし、スマホ全盛時代になって、共同体から逃走するだけの「私」の領域拡大という戦術には全く思想価値がなくなりました。
おそらく東浩紀もそのことを悟って、あれだけネットに入れ込んでいたのに今更出版の世界に戻ってきたのでしょう。
(もちろん僕は彼の思慮の浅さを嘲笑しているわけですが、そのことに気づきもしない千葉雅也の痴性などは語るに及びません)
今になって〈俗流フランス現代思想〉などをありがたがっている人間は、もはや現代思想オタクしかいないと思います。


しかし、いまだバブルの夢を引きずっている僕ら団塊ジュニア世代が、出版社やアカデミズムでも主力になり始めてしまい、
発想の転換もできないまま無意味な〈俗流フランス現代思想〉を思想扱いし続けています。
中身だけ見たら、まったく思想的な価値のない「現状肯定」でしかない〈俗流フランス現代思想〉などでは、 暴力的な抑圧へと舵を切る可能性を持つ社会と戦うことなど叶いません。
社会との葛藤が現実逃避によって解決できるなどという甘い「まやかし」など一刻も早く諦めるべきです。
僕たち一人一人に与えられた社会的責任を武器として、一丸となって共同体へ圧力をかけ返してやることが重要だと考えます。
まずは、個人と共同体との間のコミュニケーション回路を作り上げる必要があります。
個人の要請によって、もっと行政や企業の情報開示ができるような社会を目指す必要があると僕は強く思っています。


そのためには、まず「公」と「私」の二分法(デッドコミュニケーション)を前提とした〈俗流フランス現代思想〉のようなサブカル精神を反省することが大切です。
(この精神をなぜ僕がサブカル精神と呼ぶのかは別の機会にお話しします)
日本人的な諦観を捨てて、不屈の精神で共同体へのコミュニケーションを挑むこと、これこそが日本に未来をもたらすものだと僕は信じています。


『古代インド哲学史概説』 (佼成出版社) 金岡 秀友 著 【その1】

多と一を結びつけることが哲学の課題

本書は1979年に刊行された『インド哲学史概説』の新装改題版です。
岩波新書の赤松明彦『インド哲学10講』を読み始めたところ、恥ずかしながら内容についていけなかったため、まずは概論的な知識が必要だと痛感して、本書を先に読むことにしました。
金岡は古代インド文化の成立から順を追って丁寧にわかりやすく説明しているので、僕のような初学者でも困らずに読み進められました。


インドは現代でも多言語国家です。
地方が変わるとインド人同士でも言葉が通じないことがよくあるようです。
つまりは異質な「多」が集合してインドという「一」を構成しているわけですが、
外来のアーリヤ人が原住民を征服して成立したと見られる古代の時点から、このような異質性の混淆というのはインド的な現象で、
それが古代インド思想にも影を落としているように感じました。


古代インド思想は先住民を征服したアーリヤ人(人種というより文化区分に近いようです)によって担われています。
アーリヤ人の源流はコーカサス地方で、ヨーロッパ人と祖先を同じくするということになります。
白い肌のアーリヤ人は征服民である自らを非アーリヤ人と峻別し、皮膚の色で差別を行いました。
「ヴァルナ」(色を意味する)という語が、カースト制度(世襲的社会階層制度)の原型である4つの基本階級を表すようになったのはそのためです。


そのアーリヤ人の最古の文献が『リグ・ヴェーダ』です。
『リグ・ヴェーダ』では4つのヴァルナが、プルシャという巨人(原人)を口、両腕、両腿、両足に解体して発生したと語られます。
こうしてアーリヤ人はヴァルナに神学的な根拠を与えようとしたのです。
『リグ・ヴェーダ』は紀元前1200~1000年くらいに原型が成立したと見られますが、実際に文字化されたのはだいぶ後のことになるようです。