南井三鷹の文藝✖︎上等

Home > ブログ > 2018年08月の記事

ソシュール言語学は西洋中心主義でしかない

〈フランス現代思想〉の入口を問い直す

構造主義、ポスト構造主義に代表される〈フランス現代思想〉は、その言語的なアプローチから「言語論的転回」と言われたりしますが、
その始まりはF・ソシュールの言語学にあります。
僕は前々からソシュール言語学に疑問を抱かない日本人は思考停止をしていると見なしているのですが、
ソシュール的な記号論や〈フランス現代思想〉を権威として疑わない人の多さに嫌気がさします。
ハッキリ言えば、オマエたちは西洋人ではないんだぞ、ということなのですが、
日本には西洋人に憧れる「ワナビー西洋人」が多いせいなのか、そのことを否認し続ける「自己逃避」を延々と続けています。
〈フランス現代思想〉はそのような「ワナビー西洋人」のさもしい自意識を満たすために日本で流通したので、
実際の〈フランス現代思想〉とは似ても似つかない〈俗流フランス現代思想〉となってしまいました。
〈俗流フランス現代思想〉はヨーロッパ近代を批判のターゲットとすることで、
その外部にある日本を相対的に持ち上げ、自分たちが「西洋から評価される日本」であるという幻想を振りまくことになりました。
(実際は日本も帝国主義に加担したので「ヨーロッパ近代」の外部にはいないのですが、
インチキ学者はこのことに触れずに自己欺瞞を貪っています)



『古代インド哲学史概説』 (佼成出版社) 金岡 秀友 著 【その2】

「一」と「多」との合一すなわち「梵我一如」が意味するもの

アーリヤ人による最古の文献である『リグ・ヴェーダ』が成立してから、ほかにも多くのヴェーダ文献が編纂されるようになります。
本書では成立期によってそれらを「第一次ヴェーダ」「第二次ヴェーダ」「第三次ヴェーダ」と分けています。


第二次ヴェーダに分類されるものの中で代表的なものは、祭祀で唱えるマントラの解説や解釈などを集成した「ブラフーマナ」文献です。
ブラフーマナ(梵書)は言ってみれば儀式書です。
ヴェーダ祭式のやり方と祭詞・呪句についての解説などで構成されている「祭祀の書」です。
ブラフーマナには、神より人間の方を上位とする考えがあると金岡は指摘します。
というのは、文献の規定通りに間違いなく祭祀を実行すれば、神は人間の要求を拒むことができないと考えられていたからです。
これが祭祀の厳密な規定に対する知識と実行の権限を持つ者(バラモン)が、神々を動かし、宇宙を支配する権力者と見なされることにつながったのです。
神を祭祀の道具と見るインド的な神の捉え方(神観)は、ユダヤ・キリストの神とは異質と金岡は述べます。


ブラフーマナにおける神観の特色は、ヴェーダ、ことに『リグ・ヴェーダ』において一般的であった自然崇拝的なそれから、その背後の力、根源的な力、宇宙神的なものを求めるようになったことにある。

金岡はこのように書いて、第二次ヴェーダにプラジャーパティという世界の創造主が登場する理由を説明します。
神々が抽象化していくことによって、「無」や「ブラフマン(最高真実)」などの世界の根本原因が求められるようになっていったわけです。



〈俗流フランス現代思想〉という思想たりえない「まやかし」

日本の個の脆弱さを隠蔽する〈フランス現代思想〉

日本には共同体と個とのフェアなコミュニケーションが成立していない社会です。
そのため、共同体による個の切り捨て(デッドコミュニケーション)が、個を抑圧するかたち(村八分など)で作用してきました。
その原因にまでは僕の研究は行き届いていませんが、多くの識者が指摘しているように、おそらく日本が中華帝国の圧力下にありながら、適度に辺境にあったことが影響していると思います。
国内の内的関係以上に外圧との関係が優先されるお国柄であったため、 外的事情の前では内部の意見などたいした価値がなかったのでしょう。



『古代インド哲学史概説』 (佼成出版社) 金岡 秀友 著 【その1】

多と一を結びつけることが哲学の課題

本書は1979年に刊行された『インド哲学史概説』の新装改題版です。
岩波新書の赤松明彦『インド哲学10講』を読み始めたところ、恥ずかしながら内容についていけなかったため、まずは概論的な知識が必要だと痛感して、本書を先に読むことにしました。
金岡は古代インド文化の成立から順を追って丁寧にわかりやすく説明しているので、僕のような初学者でも困らずに読み進められました。


インドは現代でも多言語国家です。
地方が変わるとインド人同士でも言葉が通じないことがよくあるようです。
つまりは異質な「多」が集合してインドという「一」を構成しているわけですが、
外来のアーリヤ人が原住民を征服して成立したと見られる古代の時点から、このような異質性の混淆というのはインド的な現象で、
それが古代インド思想にも影を落としているように感じました。