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アドルノの文化産業批判【後編③】

タダより高いものはない──広告権力

『啓蒙の弁証法』の文化産業の章の最後になって語られるのが、文化産業と広告との関係です。
少し考えればわかることですが、文化産業が売り出す作品=商品は、その内容を十分に味わう前に料金を支払うことになる場合が普通です。
たとえば見終わった後に映画料金を払ったり、読破した後に本の代金を払ったりすることはありません。
内容がよくわからない状態で購入するのであれば、購入にはギャンブルの要素があるわけですが、
競馬に予想屋が欠かせないように、商品の「評価」をしてくれる広告(紹介記事を含む)の役割が重要になってきます。
そのため文化産業は、商品の「評価」に関わる広告(紹介記事)を業界のコントロール下に置いて、消費者に自分たちが売りたい商品を購入させるよう誘導していくことになります。
(当然ながら、商品購入にマイナスとなる正論を、消費者が信頼することを彼らは恐れています)


要するに、文化産業による広告活動はフェアな作品評価を妨げるのです。
文化産業批判には広告批判が避けられません。
なぜなら、文化産業による文化の商品化は、広告の全般化と歩調を合わせて進められてきたからです。


文化とはパラドキシカルな商品である。それはもはや交換されないほど、完全に交換法則の下に置かれており、もはや使用に耐えないほどめちゃめちゃに使いつくされている。だから文化は広告と融合するのだ。(中略)広告は文化産業の生命を救う霊薬なのだ。
(ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法』徳永恂訳)

「文化は広告と融合する」という指摘は、いつでも取り上げられ、繰り返し確認されるべきものなのですが、実は現代思想や社会批評において広告に対する有効な批判理論というものを僕は見たことがありません。
資本主義を批判する人でさえ、広告業を批判のターゲットにすることはないのです。
Googleの収入のほとんどが広告料であるように、マスメディアを支えているものは広告なので、
そこで活躍する書き手たちが広告の批判をしないのは当然かもしれません。
しかし、大学の研究者や受け手側である購買者や消費者たちが、広告を批判しようとしないのはなぜでしょうか。


マスメディアを無料﹅﹅で見られるのは、広告が機能しているおかげだと知っているからだと思います。
地上波のテレビやYouTubeを無料で見るには、広告料を払う企業スポンサーの存在が欠かせません。
広告活動がメディアの利用料金を下げていて、消費者や利用者はその恩恵を受けています。
メディアの利便性と広告活動には切っても切れない関係があるわけです。
たとえば僕のこのブログを例にすれば、広告表示を許可すれば僕の支払う月額利用料はなくなります。
広告から自由になりたければ、自腹を切らないといけないのです。
つまり、広告の批判には「金がかかる」ということです。


『啓蒙の弁証法』の文化産業の章で、露骨にナチスドイツの批判が見られるのは、メディアと広告について書かれた部分に集中しています。
つまり、アドルノたちは、広告と文化産業(マスメディア)の融合にこそ、ファシズム的な要素が強く現れていると思っているのです。
言うなれば、マスメディアによる広告はファシズムの車輪の片側に当たるわけですが、
それが「消費者の金銭的負担の軽減」を交換条件として成立していることはアドルノたちも明確には意識してはいないようです。
ただ、『啓蒙の弁証法』でラジオについて語るところに、わずかに利用料無料について触れている箇所があるので、それを引用しておきます。


ラジオは一般に、自分の文化製品自体を商品として人に届けることを断念する。アメリカではラジオは聴衆から料金を徴収しない。そうすることでラジオは、特定の利害や党派を超えた構成という欺瞞的形式を獲得する。それはファシズムにとっても同じくおあつらえ向きのものだ。そこではラジオは総統があまねく呼びかける口となる。街頭のスピーカーをつうじて、彼の声は危急を告げるセイレーンの叫びに変る。現代のプロパガンダは、いずれにせよ、それから区別しがたいのだが。国家社会主義者たち自身、ラジオは、宗教改革にとっての印刷機同様、彼らの仕事に形を与えるものだということをわきまえていた。宗教社会学によって作り出された形而上的なカリスマを総統が持つとすれば、それは結局、彼のラジオ演説がどんな隅々にも響くということにすぎないのが証明された。それは神的精神の遍在のデモーニッシュなパロディ化である。
(『啓蒙の弁証法』)

当時は「リアルタイム」のメディアと言えばラジオですが、今やテレビやネット動画も無料コンテンツとして認識されています。
アドルノたちは無料であることが、「特定の利害や党派を超えた」印象を生み出すと言っています。
無料であるということは、誰に﹅﹅でも﹅﹅アクセスする資格があるということであり、
それこそが人々に「あまねく呼びかける」ことを可能にし、「神的精神の遍在性」を実現していくのです。
ここでは「ラジオ」と「プロパガンダ」と「宗教」がセットで語られているわけですが、
これらをつなぐものが「受け手に料金がかからない」という事実であることに、アドルノたちは自覚的ではありません。
真に語るべきなのは、「文化と広告の一体化」よりも「メディアと広告と宗教の一体化」であり、それが料金ゼロによって成し遂げられるということなのです。


人間の言葉を絶対化するという誤った掟、それがラジオの内在的傾向なのだ。そこでは勧誘は命令となる。
(『啓蒙の弁証法』)

広告による勧誘は、当然ながら従う義務のないものです。
しかし、それが総統の命令のように拒否することのできないものに変わってしまう、とアドルノたちは述べます。
それを可能にするのがラジオなのだ、と言うだけでは多くの人を納得させるのは難しいでしょう。
やはり勧誘と命令の間には大きな隔たりがあるからです。
ここで大事なのは、なぜその隔たりがなくなるのか、ということを考えることです。
私たちはなぜメディア上で紹介された商品を、買わないといけないような気になるのでしょうか。


一つには、「多数が求めるものこそが重要なのだ」という民主﹅﹅的な﹅﹅確信を誰もが持っているためです。
「多数の人に欲望されるもの=売れているもの=重要なもの」という思い込みが強いのです。
ここで問題になっているのは、明らかに「質」ではなく「多数性」でしかありません。
多数に支持されているものこそが価値であるため、量は量であることで質となるのです。
パンと魚を数人に分け与えてもバズりませんが、5万人もの飢えを満たせば立派な救世主メシアです。
(ここではある宗教の社会的影響力が、信者の「多数性」でしか示されないことを考える必要があります)


またラジオが「同時的リアルタイム」なメディアであることも見逃せません。
「リアルタイム」のマスメディアが情報を提供すると、否応なしに「同時的」に多数=マスへと大量に情報が流されます。
彼らは「多数性」に加えて「同時性」という価値を自らのものにしています。
そのため、土砂災害の危険に関わる気象情報や、仮想敵国のミサイル発射情報などをいち早く提供して、「安全」に飢えた大量の人々の飢えを瞬時に満たすことができます。
つまり、マスメディアは「同時」に「多数」への影響力を持つことで、「救世主」たる資格を持つのです。
ただ、マスメディアが「救世主」としての性質をあらわにするのは、多くの人々が苦境にあって飢えて﹅﹅﹅いる﹅﹅時に限るのです。
「偉大なる総統」が必要とされるのは危機の時であって、余裕のある平時においてはパロディとして消費されるだけのものでしかありません。


「飢え」こそが、広告の勧誘を命令へと変えていきます。
逆に言えば、マスメディアは多くの人の「飢え」をキャッチすることで、その力を維持することができるのです。
たとえば身近な例で語らせてもらうと、先ごろ米がスーパーの商品棚から姿を消すことがありました。
米が手に入らないということは、消費者が文字通り「飢えている」状態に陥っているということです。
落ち着いて待っていれば新米が入ってくる時期にもかかわらず、
必要以上に買い占める人がいたらしく、商品棚はすっからかんでした。
品薄状態に拍車がかかったのは、明らかにテレビで米不足を報道し始めてからです。
マスメディアが「店で米が手に入らない」と伝えただけで、それこそ広告で勧誘すらしていなくても、視聴者のある程度が「今すぐ米を買え」という命令として受け取ったのは想像に難くありません。
主食が不足するかもしれない、という飢餓感を刺激するだけで、単なる事実の報道が命令として機能することがあるのです。
マスメディアが「救世主」として命令権を発動できるのは、大衆が「飢えている」という現実をキャッチして、「多数」の支持が得られそうな情報を提供できた時なのです。
(つまり、マスメディアの命令は、深層心理で大衆が支持するものでなくてはならないため、
その本質は大衆が自身に命令する「自作自演」にあるのですが、この話をすると問題がややこしくなるので今はやめておきます)


広告が命令として機能する状態を、僕は「広告の権力化」として示しておきますが、
では、人々に「飢え」や生活の困窮がなければ、「広告の権力化」は避けられるのでしょうか。
実は、そうとは言い切れません。
前提に飢餓的状況がなくても、広告が実質的に命令として機能するケースはありえます。
商品に希少性がある場合です。


たとえば、それほど欲しかった商品でもないのに、どこを探しても在庫がないということがわかると、猛烈に欲しくなったりしないでしょうか。
また、他人がなかなか手に入れられないものを所有していることが、自分を偉く見せるような気がしないでしょうか。
自分はそれほど欲しいと思わない商品でも、手に入れられる人が少ないという「希少性」があれば、
その商品を他人が強く求めることがわかるので、自分もそれを強く求めてしまうでしょう。
自分がその物を使用する欲望よりも、他人様が欲望する物を所有することに価値を感じている状態とは、
使用価値(自分にとっての必要性)よりも交換価値(他人がどれだけ欲しがるか)を遥かに重視する状態と表現することが可能です。


自分自身はその価値を信じていないのに、価値があるかのような態度を取ってしまう現象を、「アイロニカルな没入」と名づけたのは大澤真幸でした。
要するに、ネタだとわかっているものに、あえて﹅﹅﹅本気で乗ってみる態度を言うのですが、
検索してみたら、最近の大澤は「陰謀論」の説明にこの語を利用しているようです。
『不可能性の時代』(2008年)では、オタクが狭い特殊領域に執着することを説明するのに「アイロニカルな没入」が用いられていましたが、
もともとこの態度は、虚偽だと認識している広告に従ってしまうシニシズムとして語られていました。
広告内容が嘘だと理性的にはわかっているのに、それを信じ込んでいるかのように商品を買っている、
テレビや動画の食レポなんて、どうせ過剰に褒めていると理性では「わかっている」が、
それを食べたくなって行列に並んでしまう、という態度が「アイロニカルな没入」だと考えればいいでしょう。


しかし大澤の説明で引っかかるのは、嘘だと「わかっている」という彼らの理性をどこまで信用できるのか、という点です。
彼らは本当に理性的にそれが嘘だと「わかっている」のでしょうか。
実際に「アイロニカルな没入」において「わかっている」のは、その広告を「多くの人が本当だと信じている」ことなのではないでしょうか。
自分は嘘だろうと疑って﹅﹅﹅いるが、多くの人がそれを信じているので、自分も「多数の価値観」にあえて﹅﹅﹅従っているというのが「アイロニカルな没入」の正体に思えます。
つまり、自分個人の価値判断より「多数」の間で交換される一般的価値観を優先させているのです。
これを商品経済に置き換えれば、使用価値と交換価値を完全に切り離して、後者を前者より優越させることに対応します。


ちなみに僕の考えですが、陰謀論において「アイロニカルな没入」を語るなら、それは広告とは真逆の面が現れたものと考えるべきでしょう。
多くの人が嘘だと「わかっている」陰謀論を、自分は案外信じている(もしくは信じたい)のです。
つまりは交換価値への不信から、自身の使用価値だけを重視する態度が捻じ曲がって現れたものと僕は解釈します。
陰謀論者が「陰謀論は嘘だと(理性では)わかっていますよ」と言うとしたら、
「その論をみんなが嘘だと思っていることはわかっていますよ。でも、私には確信があるのです」の意味であって、実際に彼らが依拠しているのは陰謀論の内容ではなく、一般的な言説への不信ではないでしょうか。


「アイロニカルな没入」を生み出すような、使用価値と交換価値の極限までの乖離は、ある社会状況下でのみ起こりうる現象だと考えます。
その状況とは、金融資本主義が現実の実体経済を無視するまでに拡大している状況です。
たとえば労働者の賃金が上がらずに、金融資本の制度的基礎である株式市場ばかりが高値で推移している今の日本の状況は、
金融資本主義による歪みだと捉えて良いでしょう。
実は金融資本主義の定義は明確ではないのですが、僕は「生産過程から遊離した資本が、生産過程を支配している状態」だと考えています。
とりわけ金融グロバリゼーションは、実体経済から遊離した金融取引の膨張をもたらしました。


僕は金融資本と再生産(実体経済)との「遊離」が、交換価値と使用価値との「遊離」にも影響すると考えています。
これを文化産業の支配拡大に対応させることができます。
生産過程から遊離した資本を金融機関や格付け機関が下支えするようになると、
作品の実体的評価(使用価値)から遊離した「業界の評価(交換価値)」を出版マスコミなどの文化産業や業界人が下支えする構造が力を持つのです。
使用価値と交換価値が連動しなくなり、使用価値を無視して交換価値だけを価値と見なす人が増えていくと、
市場に接続する(業界内の)他者や社会の動向だけが価値の基準となるために、それを知らせてくれるマスメディアや広告に踊らされる結果になります。
要するに、マスメディアの広告やプロパガンダがファシズムに奉仕することになるのは、
交換価値が使用価値のくびきを引きちぎって一人歩きした状況──集団的な妄想が現実的な価値を無視したとき──に限ります。
実体経済が好調であり、社会が現実に安定した基盤を維持できているならば、文化産業もマスメディアも広告もある程度の健全性を保つはずなのです。


消費者に「アイロニカルな没入」のような心理状態を生み出す、使用価値を極小化して交換価値だけを異常に高めた状態とは、
ハッキリ言ってしまえば、「詐欺商法の天国」です。
何の変哲もない壺を、宗教で色づけしてとんでもない高額で売りつけるような商法だからです。
自分の感性では素晴らしいとは思えない物でも、権威を後ろ盾にした人たちやその人たちを担ぐマスメディアがやたらに褒めそやす物であれば、消費者は高い価値があると信じ込んでしまうのです。
文化産業と広告が一体化することが問題なのは、文化産業の担い手や要人が評価する「交換価値の高そうな中身のないシロモノ」を、
ものがわからない若い人や素人に売りつけるという詐欺的な商売が横行するからです。
ちなみに、このような詐欺商売を防ぎ、正しい価値づけを行うのが評論家や批評家の役割なのですが、
文化産業は自分たちの商売の邪魔になる「正しい評価をする批評家」には絶対に仕事をさせようとしません。
彼らが重視する「評論家」は、業界が交換価値を高めたい凡庸な作品や無能な作家を大袈裟に褒め称える業界の代弁者スポークスマンだけなのです。


かつて自由競争社会では、広告は市場で買い手の手引きとなる社会的役割を果していた。それは選択を容易にし、もっと有能な見知らぬ売り手が彼の商品をしかるべき男に届けるのを補助したものだ。広告はたんに値が張るだけでなく手間暇を省く働きをした。自由市場が終ろうとする今日では、体制の支配が広告を盾にして自らを守っている。広告は消費者たちを巨大コンツェルンにつなぐ絆を強化する。(中略)結局はコンツェルンのポケットに還流していく広告料は、やっかいな部外者アウトサイダーと張り合って打ち負かすという面倒を省く。つまり権威を持つ者が、自分の指導的地歩を守ることを保証する。その点で広告料は、全体主義国家において企業の開設と拡張を統制していた経済評議会決定と似ていないことはない。広告は今日ではある否定的原理であり、制動装置である。つまりその刻印を帯びていないものは、すべて経済的に下級品扱いされる。
(『啓蒙の弁証法』)

この引用文の広告批判の密度にはものすごいものがあります。
広告の権力化、いわば「広告権力」の成立について、端的にまとめられているので、少し丁寧に味わってみましょう。


まず、アドルノたちは1947年時点で「自由競争社会」がすでに過去のものとなっていると認識しています。
この認識は地味に重要です。
なぜなら80年近く後の今になっても、いまだ市場が自由競争で成立していると思い込んでいる人が多いからです。
「多数が支持するものは良いものだ」という価値づけは、公正な自由競争があって初めて成立するものですが、
その前提条件が失われていることがわかっていない人が、いまだ圧倒的多数派を形成しています。
少し考えればわかると思いますが、「多数が支持するものが良いもの」であるならば、「良いものを売れば必ず多数が支持する」ことになるはずなのです。
しかし、実際はそうなってはいません。
なぜなら、消費者や購買者カスタマーが何の予備情報も持たない「先入観から自由な状態」で、その商品のみと出会う機会が少ないからです。


自分の買い物を振り返ってみればわかると思いますが、購買者カスタマーが商品とフラットに出会う機会はそれほどありません。
商品が「無知のヴェール」をまとっていることは稀なのです。
たとえば面白い小説を読みたいと思った時に、テレビの情報番組や雑誌の広告、売り上げランキングやネットの口コミ、書店での配置などを参考にして探すものではないでしょうか。
そのような「補足情報」を操作するだけで、同じ小説でも売り上げを伸ばしたり落としたりすることは可能ですし、実際に行われています。
その補足情報を購買者の目につくところに提示しやすくするには、その業界における企業(や利権を持つ組織)の支配力がものを言います。
簡単に言えば、「情報操作」によって客の間で広がる商品の評価(=交換価値)を大きく変えることができるのです。


そのような支配企業による「情報操作」の力がマーケティング技術によって強くなればなるほど、
購買者の目が曇ることになり、中身の伴わない商品が不当に高い評価を受ける事態が起こります。
それによって得をするのは、もちろん消費者ではありません。
商品のクオリティに関係なく一定の売り上げを確保できる販売側(文化においては文化産業)になります。
その証拠に売れてはいるが内容の伴わない本をAmazonレビューなどで正しく批判してみると良いでしょう。
目の肥えた消費者は同調してくれるものの、能力のない著者とその出版社の関係者が表から裏から「批判潰し」をしてきます。
補足情報の力に頼って売り上げを伸ばしているだけの本だからこそ、マスメディア上で説得力のある批判が補足情報として広まることを恐れなければならないのです。


今の市場に自由競争が存在するという認識は妄念です。
「良い商品は競争に勝って売れたものである」という価値観は、自由競争においてしか成立しないので、それは過去のものでしかありません。
マスメディアの支配が全般化し、使用価値と交換価値が切り離されたポストモダン市場においては、多くの人が高い価値を認めた商品でも、購入者にとっての価値にならないケースが増えるのです。
その原因はアドルノたちが述べているように、既存勢力の支配体制を維持するための仕組みであり、広告が権力化するような大衆向け商売のマーケティング手法にあります。
もし、かつてのような自由競争を蘇らせたければ、すべての商品の広告宣伝を平等にするか、広告を無力化しなければいけないでしょう。


重要なのは、広告イメージが商品の自由競争を破壊する、という真理です。
広告とは自由を阻害する「病原菌ウィルス」なのです。
(ウィルスならば無料なのは当然です)
アドルノたちが指摘するように、巨大企業の広告戦略は自由競争で相手を打ち負かす手間を省きます。
正面から商品の良さを競い合うことなく、多数に流通するイメージや多数が崇拝する権威によって商品を勝利に導くのが広告なのです。
いわば、権威頼りのアンフェアな競争であり、卑怯﹅﹅者の﹅﹅やり口﹅﹅﹅です。


なぜ自由競争が妨げられ、売る側の売りたい作品が売れるだけではいけないのでしょうか。
それは本当に優れた作品が、「作品内容の実質」だけで評価されることがなくなるからです。
作品が商品として市場に出る以前に、体制側──公正な評価より自らの既得権や利権を保持することを優先する権力側──による作品の「検閲」や「選別」が行われ、
受け手が必要とし評価する作品よりも、自分たちにとって都合のいい作品だけが評価されるのが当然であるかのように、大衆を馴致するからなのです。
体制側の評価に慣らされた消費者たちは、いつの間にか業界通や経営者の目線を内面化し、
その目線で評価することで「他の人より優れた自分」を偽装するようになります。


アドルノたちは大衆批判をしないのですが、本当のことを言えば、「広告権力」に力を持たせているのは「権威」と「同調圧力」に弱い怠惰な消費者です。
たとえ広告が「中身カラッポな商品」をさかんに宣伝しても、消費者が自身にとっての使用価値を貪欲に求めるなら、そんな商品には見向きもしないはずです。
しかし、自身にとっての価値で商品の評価をすることをやめてしまう人たちがいるのです。
その理由はすでに書いたように、消費行為には「交換」によって「自分が社会に適合した」気分を味わわせてくれる側面があるからです。
つまり、労働市場において自分の社会的評価がイマイチだったり、身近な社会的関係に満たされていなかったりして、社会から「疎外」されている人などは、
「社会に適合した」気分を得たいがために、「交換価値」だけを求めて商品を選択する強い動機を持っています。
そういう自己承認の物象化に対する抵抗力のない「リアルな社会関係が貧しい人」ほど、広告やマスメディアの「情報操作」に簡単に操られてしまうことでしょう。
「広告権力」が行使する卑怯﹅﹅者の﹅﹅やり口﹅﹅﹅は、対面的な人間関係の貧しさにつけ込んでくるのです。


服従者の「許された自由」

ここまで語れば理解しやすいと思いますが、周囲に影響されずに適切な選択ができる「自立した個人」は、
広告に抵抗する力を備えているので、広告を権力化するのに都合が悪い存在です。
だから広告とそれに従属する権威的マスメディアは、個人の自立心や作品の自律性を排除しようとします。
広告に抵抗する人がいなくなれば、広告は巨大な権力として機能します。
「自立した個人」を排除する広告の社会権力化を、僕は「広告権力」と呼びたいと思います。
文化産業は「広告権力」たるマスメディアと一体化して、消費者から自立心と自律性を奪う病原菌ウィルスを広めているのです。


これまで見てきたように『啓蒙の弁証法』でアドルノたちは、文化産業が芸術の自律性を奪うことをさかんに批判しているのですが、
文化産業がなぜ自律性を奪うのか、なぜ体制と癒着するのか、なぜ広告と一体化するのか、なぜファシズムの危機と結びつくのか、という疑問に対して明確な答を用意できていません。
それが物足りないので、僕が彼らの代わりにハッキリ言います。
それは「権力への意志」なのです。


要するにすべては「自らを権力化する努力」なのです。
文化産業は「文化の大衆振興」を利用して、自らを権力化することをめざしています。
言うまでもないことですが、売り上げを伸ばすということは、資本主義社会では権力を持つことと同義です。
必要以上の金を儲けたい、という欲望と、権力を持ちたい、という欲望を切り離すことは不可能です。
文化産業の目的は文化を良いものにすることではなく、過剰に金を儲けることでしかありません。
それはキリスト教の教会勢力が、政治権力と相互補完的な関係の中で、「布教」という広告活動によって権力を握っていった歴史のパロディのようなものです。
文化産業は、消費文化を通じて現代における「司牧権力」の役割を担っています。


アドルノをはじめとするフランクフルト学派の批判理論が、それほどの社会的インパクトを持てなかったのは、
マルクス主義をベースにしているわりに、マルクスほどに宗教批判(ユダヤ=キリスト教批判)ができなかったからです。
物象化の批判だけをしても、足りないのです。
文化産業批判は教会批判でなくてはなりませんし、最終的にはユダヤ=キリスト教批判でなくてはならないのです。
ユダヤに固執するアドルノにはそれをやり通すだけの覚悟がなかった、と僕は思います。
だから『啓蒙の弁証法』は中途半端なものとなり、芸術エリート主義者のイチャモンとして批判される隙だらけの理論になってしまったのです。


基本的に宗教は「神への服従」を求めるものです。
つまり、宗教世界において「自由」もしくは自律性とは、神が許す範囲において、「神への服従」が疑われない範囲において認められるものでしかありません。
文化産業が売り出す作品にしても、アカデミズムの研究にしても、現代の神(資本教の神)に認められる範囲ならば、自由な主張が許されています。


ならばその神が服従する信者たちにどの程度の自由を許すかという「神の裁量」によって、「服従者たちの自由」の範囲は大きくも小さくもなります。
神の心が広ければ、信者たちの自由は大きくなりますし、その逆ならば小さく限られます。
宗教の世俗化というプロセスは、この「服従者たちの自由」を広げていくものとしてありました。
逆に、ファシズム体制の台頭は、「服従者たちの自由」をどんどん縮小していくものでした。


当然の力学として、「服従者の自由」が小さくなればなるほど、支配者の権力は強く強大になります。
だから支配者が自らの権力を強めるには、「服従者の自由」を小さくしていくことが求められるのですが、
そのためには服従者の従属する度合いが、かなり強くなくてはなりません。
自由を縮小しても、信者たちが服従をやめないことが条件なのですから。
抽象論ではわかりにくいので、ここでは文化産業に限定して考えてみましょう。


景気後退によって社会の購買力が低下していけば、総体的な商品の売り上げは下がっていくのが自然の摂理です。
その自然に抵抗して売り上げをキープしようとするなら、文化産業は自らの支配力や宣伝能力を拡大し、消費者が吟味して購入する自由──「服従者たちの自由」──を縮小することを目論むでしょう。
これが1990年代から2020年代までの「失われた30年」の実態です。
「服従者」たる消費者はマスメディアや「業界」によって自立心や自律性を奪われ、権威が評価するものが「買うべき良い商品」なのだと思い込み、馴致されていきました。
その結果、30年前よりも内容に乏しく退屈な商品でも、メディア技術向上の恩恵で、ある程度の売り上げが見込めるようになりました。
僕は村上春樹や村上龍のサブカル文学には批判的ですが、その後の世代に彼ら以下の作家しかいないのも事実です。
最初のヒット作で話題のピークを迎えて、そこから延命をはかるだけというのが、最近の文化産業によくあるパターンです。
この「伸びしろの無さ」が、いかにも経済無成長﹅﹅﹅国家にふさわしい感じですが、
このような「無成長」現象が全般化している理由は、文化産業が自らの権威を維持することに執心して、
書き手をはじめとする「服従者たちの自由」を縮小してしまったことが影響しています。
一度売れてしまうと、文化産業やマスメディアの「マーケティングの計算」に組み込まれてしまうので、
「服従者」たちはその計算に沿うものを作ることを、「期待に応える」ことだと勘違いしていきます。
市場の「経済的期待」という圧力が、クリエイターに冒険を回避させて体制内に閉じ込めて、「服従者」の枠を超える可能性を奪う結果となるのです。
市場に管理された「服従者たちの自由」に不満を持たない表現者だけが文化産業に愛され、
いったん文化産業に愛されてしまうと、もはやその時点で成長はなくなり、文化産業の駒の一つとしてメディアビジネス人生を過ごすだけになります。
「自分はアーティスト気質なので、サラリーマンには向かないのだ」とか言っていた人が、気がつけば文化産業の「ビジネスマン」を演じているのです。


今や奇妙な逆説が成立しています。
斜陽産業となった文化産業が、権力維持を図って「服従者たちの自由」を縮小してしまったために、
むしろ文化産業が使いたがるクリエイターは、縮小された狭い枠に簡単に収まってしまう凡庸な人だけになってしまったのです。
なぜなら、才能の大きな人にとって「服従者たちの自由」という狭い枠は、自分が高く飛ぶための翼を奪う鳥籠としか感じませんが、
才能が乏しい人の場合は翼をどれだけ広げても、籠にぶつかることすらなく、案外守られている感じもあって、居心地良く過ごせるからです。
(檻の中というものは、安心・安全なものです)
つまり、「服従者たちの自由」とは鳥籠の中の自由でしかないわけですが、
その自由のスペースが一定範囲より狭くなってしまうと、翼の大きな人はもはや翼を広げないようにするか、文化産業から離脱するよりありません。
だからこそ、文化産業からの離脱は、自分の翼の大きさを確認する機会にもなりえます。
才能ある野球選手が日本を離れてメジャーリーグに挑戦するように、文化産業やアカデミズムのぬるま湯を離れて、
広大な過去と未来をもつ「人類史の文化体系」という大空へと飛翔することができるのは、狭い文化産業の檻を飛び出した人だけなのです。


経済衰退期において文化産業が管理する市場は、もはや広大な外の世界ではなくなりました。
ロングセラーの定番お菓子や、シウマイ弁当のシュウマイが小さくなったように、
文化産業の新商品も、かつて見たものが縮小し劣化したものばかりです。
もはや、消費者が新しいと感じるものは、その直前まで文化産業が関わっていなかった作品だけ──要するに見慣れない新人の作品だけ──になってしまいました。
そのため、文化産業は「広告権力」によって、次々とニューカマーやネクストカマーを売り出すことで「刷新感」を充当するしかなくなっています。
それが煮詰まると最近のK-popのように、新人グループが乱立していく結果になるわけです。
そのような新人たちの「生き残りゲーム」に関しては、YouTuberの成功確率ほどではないにしても、ほんの一握り以外は勝利を手にすることはないでしょう。


僕はアドルノたちが主張するように、文化産業そのものがファシズムを導くとは思いません。
問題があるのは、経済衰退期における文化産業の既得権保持なのです。
経済衰退によって既得権の維持が難しくなったのに、
斜陽な企業や業界を生き残らせようとして、都合の悪い現実を否定するからファシズムが起こるのです。
僕の考えでは、ファシズムとは集団的妄念による現実の抹殺を目的とする体制のことです。
死に向かう現実を克服することをエネルギーとしているので、ファシズム体制は宗教と似てしまいます。


問題は経済衰退によって、市場において許された「服従者の自由」が縮小されていくことに慣れてしまうことです。
「服従者の自由」が縮小され、マスメディアによってつまらない作品ばかりが騒がれる状態にノーと言えない社会が、ファシズムを準備するのです。
つまらない作品を「つまらない」と言わせない社会や業界は、その体質がファシズムに近づいていることを自覚すべきでしょう。
社会の文化的な自由の縮小に慣れた人たちは、政治的もしくは社会的な自由の縮小にも慣れてしまい、
「広告権力」が提示してくる経済的に管理された狭い狭いメディア世界=オタク的な世界を、自分が関与することのできる全経験領域だと信じるようになります。
そうしてメディアに飼い慣らされ、自立心も自律性も放棄した人々は、自分たちに呼びかけてくるもの、自分が関心を示したものだけを「価値」だと信じるようになるのです。


文化産業がでっちあげるものは、幸福な人生のための手引きでもなければ、道義的責任を果たすための新たな技法でもなく、「権力者の利害関心を後ろ盾にしているものの言うことを聞け」という勧告なのである。文化産業が宣伝する同意は、実質をともなわない曖昧な権威を強化する。
(アドルノ「文化産業についてのレジュメ」竹峰義和訳)

文化産業が消費者に伝えるメッセージは、「権力者の利害関心を後ろ盾にしているものの言うことを聞け」に集約できます。
つまり、文化産業は単に娯楽的な商品を売り出すだけでなく、その商品を広めることで「社会の規範」を作り上げるのです。
この規範的メッセージに従うことで、消費者は権力者の「後ろ盾」を得ることができ、自分が「社会に適合した」気分になれるのです。
その代わり、彼らは服従者でしかなくなります。
アドルノは僕のように「服従者の自由」の縮小という言葉で語っていませんが、
「文化産業についてのレジュメ」で、文化産業が人々の自我の弱さを促進し、意識を11歳の子供の状態に退行させていくことに警鐘を鳴らしています。
文化産業が消費者を知性に欠けた「子供」に変えていくことについては、今回の記事の冒頭でも触れたとおりです。


文化産業の最終的な帰結となるのが、人々の依存性と隷属性であるわけだが、それをもっとも忠実にあらわしているのは、(あるインタビュー調査で)アメリカ人の被験者が述べた次のような意見であろう。すなわち、もしも人々が著名人たちの意見に従おうとすれば、それだけで現代という時代の窮状に終止符が打たれるというのだ。文化産業は、まさにみずからが示唆しようとする秩序に従って世界は万事順調に進んでいるという満足感を喚起することによって、人々に代用品の充足をもたらす。しかし、それは人々を欺いて存在するかのように見せかけている幸福を騙し取るのだ。文化産業のすべての効果とは反啓蒙のそれである。
(「文化産業についてのレジュメ」)

文化産業に隷属する著名人の規範的﹅﹅﹅意見が力を持つことで、世界の「秩序」は正常に保たれ、「万事順調」であるかのような満足感を得ることができます。
消費行為が作り上げた「秩序」を享受することで、私たちの現実は消費促進のための「予定された世界」となり、私たちの幸福は見せかけだけの「代用品の充足」でしかなくなるのです。
もちろん、このような商売は全社会規模の詐欺でしかないわけですが、「依存性と隷属性」の中にある人々は、それを詐欺と認識するだけの「主体的な知性」を奪われています。
このような全社会規模の詐欺は「穏やかな全体主義」であり、このような堕落した社会が成立するのは、テクノロジーの進歩によって人間の意識が退行してしまったからなのです。
それをアドルノは「反啓蒙」と呼んでいます。


文化産業における技術やクオリティの向上は、画面上の「見せかけ」を魅力的に見せて「代用品」の充足精度を高めます。
その「代用品」に満足した瞬間から、オリジナルを手にする意欲は奪われています。
消費社会への依存と隷属が強まれば、「主体的な知性」は排除されて精神は退行してしまい、消費社会の構造そのものが自分を不幸にしているとは考えられなくなります。
自分が不幸なのは、もっと多く稼いでいないからだ、と思うようになるのです。
左翼的な階級闘争と社会変革は、大衆が「代用品シミュラークルの充足」を得ることと引き換えに失われていったのです。


今や、次のことを理解しなければいけません。
文化産業が支配する社会では、「純真」であることや「素直」であることは、全くもって美徳とは言えないということです。
文化産業や著名人が流通﹅﹅させる規範的「秩序」を、社会的な価値だと純真に信じ込み、素直に従うことは、
自分が持っているはずの自由を「商品選択の自由」へとすり替える結果になるからです。
文化産業が想定する「秩序」とは、彼らが売りたいものを、「予定された」とおりに消費者が買ってくれる安定状態です。
ここで強調しておきたいのは、文化産業に準備されたベストセラーを買うことは、自分の選択のように見えて自分の選択ではないということです。
多数者の選択を「代用コピー」した「見せかけの民主的選択」でしかありません。
精神が退行して11歳の子供と変わらないメンタリティの大人が増えれば、広告が要求するままにベストセラーを買ってもらうことができますし、
政治においては、多くの人の欲望に叶う「偽の処方箋」を提示することで、体制に向けられるはずの批判を他に差し向けることも容易になることでしょう。
SNSでは「偽の処方箋」に影響されて、むやみに集団となって差別的(反差別的な建前ポリコレも含む)な攻撃性を向ける人たちが多く見られます。
ひどい場合は、SNSで勧誘された異常な高額バイトに参加して、強盗殺人をする手駒にされてしまう若者まで生み出す始末です。
このような「反啓蒙」の傾向は、文化産業が生み出した消費的な「依存性と隷属性」によって引き起こされたものなのです。
巨大化した「広告権力」が文化と政治の全領域を覆い尽くした社会体制は、人々の依存心を集約することで、強制なき「穏やかなファシズム」を成立させているのです。


以上で、アドルノの文化産業批判についての記事を終わろうと思います。
『啓蒙の弁証法』の展開を追いかけた論考だったので、内容をコンパクトにまとめることはできませんでしたが、
現代においても色褪せない批判だと感じた部分については、だいたい取り上げられたような気がします。
長々とお付き合いしていただき、ありがとうございました。


6 Comment

往来市井人さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、コメントをありがとうございます。

今回の論考を夏目漱石の『こころ』と関連づけたのは面白いですね。
『こころ』で「先生」は、メタ的な立場にあり続けたことで親友の「K」を自殺に追い込みました。
往来市井人さんは、それが偶然を運命に見せかけるやり方で、同性愛的だと指摘したわけですが、
たしか小森陽一は語り手の「私」と先生が同性愛の関係にあるというテクスト論的な読みを開陳したと記憶しています。
その読みにはポカンとしましたが、先生とKの同性愛的な関係を考えるのには実があると思います。

ただ、この時代の男性同士の親密な関係を同性愛のように捉えると、性愛の印象が強くなってそこに影を落とす社会性が認識しにくくなってしまいます。
その意味で「家族的」と考えるのは興味深い指摘でした。
二人の関係を家族として捉えると、『こころ』は家族間トラブルもしくは兄弟による母をめぐる争いの話になるからです。
カインとアベルの変奏であるスタインベックの『エデンの東』が、兄弟による父をめぐる争い(そこでの母は娼婦でしかない)であったことと対置してみると、より興味深いものがあります。
また、村上春樹の主人公に男兄弟がいないことも合わせて考えると、彼が漱石の問題からいかに「逃走」した非文学的な作家かもよくわかるのではないでしょうか。
(カラマーゾフの「兄弟」から影響を受けたとの春樹の発言に、自らの弱みを隠す意図を読み取るべきですね)

『こころ』が「場と融解」していくのは、それが大局的な視野で書かれた小説だからではないか、と思わなくもありません。
つまり、それが兄弟を見殺しにする話であるのならば、時代状況を考えると、日本による朝鮮支配に重ねることができるからです。
たしか『明暗』では、小林という人物が朝鮮に渡る時に、自分をすっかり変えることができるかという問いかけを残したと思います。
Kは自分の信念を守り続けて自殺するわけですが、その悲劇を回避するために自分をすっかり変えること、
日本が「外発的」な西洋化をすることで朝鮮や中国を虐げることを、漱石はやむなしと考えていたと主張することもできるのかもしれません。
(そして村上春樹はアメリカという母をアジアで独占する日本を、家族構成のように自然で運命的なものとして受け入れていたことになります)

話を次に進めますが、僕は天皇を「外部」の代理表象の役割だと考えています。
アメリカは純粋な「外部」なので、それが天皇と結びつくのは自然なのです。
(ちなみに大谷翔平は天皇の「地位」に近いのではなく、擬似天皇の役割を果たしているのです)
天皇は交換ネットワークの「外部」を示すものであり、それを飾って敬意を示すことで、日本人は外部を内部へと繰り込む閉鎖的な世界を構築している、というのが僕の考えです。

ハーレムの召使(宦官)の話に移りますが、
去勢された人が召使にあてがわれるだけで、召使になるために自分から望んで去勢されるわけでもないと思いますが、
日本人は自分から「去勢された息子」となることで、アメリカを自分の母と思い込むことに必死になっているのです。
(その同性愛的=家族的な努力の価値はキリスト教文化圏には通じないので、ただ滑稽なだけなのですが)

私的な葛藤を運命として承認するネットワークに参入するように、広告に呼びかけられて文化産業の商品ネットワークに参入する、
という往来市井人さんのまとめは、だいたい合っているように感じます。
ただ母性が父性の傀儡であるというのは、戦後日本の権力構造としては正しいのですが、普遍的なものとは言えないと思います。
父性への服従を示すのは母性ではなく妻や娼婦となるべき「女性性(交換対象としての女性)」であり、
昨今のフェミニスト系が拒否したがっているのは、これだと思います。
母性とはもっと巨大なものであり、むしろ父性はその支配力への抵抗を示すものです。
つまり、父性的な一神教の本質とは「自然=母性」への抵抗思想であり、自然支配のイデオロギーだということです。

アメリカのナルシスト現象の話ですが、
人類総発信社会になれば、誰もが何かで他人のアテンションを惹く必要がありますので、
自分が価値を感じているもので大々的に自分を飾り立てて、自らの魅力を示すことに勤しむことになるでしょう。
望ましいリアクションがあれば、ナルシシズムが一時的に満たされるでしょうが、いつまで続けていけるかは怪しいところです。
もう10年もすれば、「発信疲れ」のような病気が流行るのではないでしょうか。
まあ、現実そのものに耐えられず、何でも「盛り盛り」にするのが今の時代だということでしょう。
僕はと言えば、文筆活動において特に盛っているところはないので、熱心な読者の方とお会いすることに障害はありません。

城前佑樹(白樹烝)さんへの再返答

応答のコメントありがとうございます。

城前さんは「自分の世代には文化において全体主義的な空気が流れていた(……)かもしれない」と書いていましたが、
「全体主義的な空気」があったとして、それがいつからなのかを判定するのは難しいでしょうね。
今回の記事で僕はそれを「景気後退期」としたわけですが、それだけでは十分な条件づけではないでしょう。

1993年の細川内閣誕生で「戦後55年体制」が崩れてから、
小泉政権時に政治がバラエティ化するポピュリズムが一般化し、
2009年に革新政権へと交代したのですが、その反動によって2012年から2020年までの安倍長期内閣で保守化(アメリカ依存ナルシシズムの強化)が起こりました。
大衆的な「反動」というのは全体主義の条件になりえると思います。
ただ、この時期はスマホという先端メディア技術が普及した時期でもあります。
(スマホの普及率はNTTドコモのモバイル社会研究所のデータでは、2010年に4%、2015年に51%、2021年に92%で、普及の時期が安倍長期政権とほぼ一致します)
スマホ普及に伴うSNSユーザーの増加という要素も、大衆的「反動」(その内容はたいてい現実逃避)を後押ししたことでしょう。

城前さんは「反動」時代の空気が肌に合わず、孤立感の中にあったのでしょうか。
そんな時代の空気が肌に合わないことは、むしろ大局的に見れば「健全」と言えるような気がしますが、
他の人となかなか分かち合えない思いだと、それを「健全」だと開き直るのは難しいと思います。

ただ、孤立感の中にいる城前さんを支えた作品が、文化産業の「商品」であったことは、それほど否定的に捉える必要はないと思うのです。
僕自身を振り返っても、思春期時代に自分を支えたものは、仏教思想と中国古典だけでなくアニメや漫画だったりします。
重要なのは、「商品」にも使用価値が高いものと低いものがあり、
文化産業にどっぷり支えられたものと単に居候をしているものがあるということです。
記事にも書きましたが、僕が望むことは文化産業の追放ではなく、
大衆的な消費物と芸術的文学的な作品との「二元的な区別」です。
消費ポピュリズム的な価値の「一元化」こそが問題なのです。
それは市場にあるものはすべて「商品」であるという自覚からしか、始めることはできません。

骨董の世界や青山二郎については何か語れるほどの素養が僕にはありませんが、
そのような「物」の世界への関心が文学に大事なことは想像がつきます。
最近は言葉だけをいじっていれば詩や文学が作れると思っている人が多く、「現実」や「物」が失われて安直に観念や自意識を振り回すケースが目につきます。
言葉の組み合わせ方だけで「才能アリ」とか「脱ボン」とか、そんなレベルで語られているのでは地盤沈下が起こるだけです。
交換価値に依拠するポストモダンを「真に受けたバカ」が、
ソシュールを大義名分として言葉が「(城前さんの言う)物自体」から自由に遊離すると思っているわけですが、
いいかげん文学業の人たちも、消費物しか作れない自分たちの愚かさに気づく必要があると思います。

僕は作品について沈黙することを語っただけなのですが、
城前さんが沈黙の本質について深く洞察していることに驚きました。
「物」と向き合うリアリズムを実行してきたから、城前さんは「ただ一人生きてただ死ぬ」ことを言語化できるのかもしれませんね。

精神的に向上心のない奴は馬鹿だからこそいいじゃんか。

拝読致しました。
けれども、整然とした論稿を前に、どのように述べるべきか迷い、勝手ながら
文化産業の共犯者として、私自身の素直な
想いをお伝えしようと考えました。

題に設けましたのは、高校時代「こころ」に
ついて私が感じた、素直な感想になります。

授業の課題として、
「何故Kは、
自殺してしまったのか?」について
班ごとに討議が行われました。

まだ性的な事柄に関して純真でいた私は
恋愛による私的な問題を回避しようとして
過労や図書館などでの登場が多く、
私生活が不透明なことから、彼自身の
生真面目さが、自殺の原因であり、怨恨は
なかったと判断して勝手に納得しました。

有頂天になった私は、
「Kに言ってしまったあの否定から、
二人の関係は徐々に断絶していき、
社会的な重圧の中に孤立させてしまった。」
と主張した後、
「彼の恋愛感情を認めてあげて、
性的な関心を共有していけるなら
結婚しても二人仲良くできたのでは?」
(彼女のことが好きだったのか!
「偶然」だなぁ!こっちも気になっていたんだ!
気を張り過ぎて危ういと思っていたけど、
そういう事にも興味があって嬉しいよ!
この後の事は忘れて、一緒に出掛けないか?)
などと主張して、反感を買いました。

そして言葉通り、彼の恋愛感情を認めても、
結婚を譲るつもりは全く無いため、
竹馬の友として温かく寄り添いながら、
家族との了解などを
着々と進め、「予め」そうであったかのように
結婚を誓い合った二人が、Kの前に
同好の仲のまま、現れることになります。
このような非人間的な存在が、
私が無邪気に夢想した「理想の先生」です。

南井様は、「対面的でフェアな関係からの逃避」
について、「こころ」を例にあげておりました。
だが、今回の論稿で示された通り、
偶然を装い、運命的な関係だと見せかける
先生?はKにつきつけた先生と同様に、
メタな立場に立っていると言えます。
こうした、偶然から必然に見せかける方法は
同性愛的であり、もっといえば
親を選べない家族的な方法だと考えました。

また、彼女が先生とKどちらとも
拒む態度がなかったため、「交換」の記号として
無邪気に利用することができたのでしょう。
加えて、先生は最後、乃木大将に
殉じると称して、私的な問題を
場と融解させてしまいますが、
(一神教的な価値観が無いため?)
私の先生?も現代的なポジティブさで、
再現されたものでしかありません。
悪役令嬢を例にあげていたように、
封建的な体制も、結局は現代的な肯定性を
助長するものであり、どちらも場から自由に
なれないものだと思います。

別の方への回答を引用されていただきますが、
南井様は、父の役割をアメリカが担い、
母の役割を天皇が担っていると、して
日本人については回答されませんでした。
(今の天皇の地位に近い人物は大谷翔平選手)
上記の通りなら、天皇とは国際的(経済的)に
承認され、人々の関心の間て交換されるに
値する存在ということなのでしょうか?

凡庸な例ですが、ハーレムの召使は
去勢する事によって、主人からの信頼を
得て、身近な世話をすることが許されるように
我々日本人もアメリカ(文化)に対して、
去勢された態度を示すことで、
アメリカに承認された人々を身近に感じ、
そうした人々と空間を共有していると
錯覚していられるということでしょうか?
(当然、非性的・観念的なものであり、
日本型経営なら召使も家族として、
子供の一人だと呼んでくれるでしょう。)

以上の点から、
私のように私的な葛藤を避けるとき、
そうした葛藤を仕方のない運命的なもの
だと承認してくれる存在が求められまる。
運命的な見解を受け入れることで、
その存在に接近する事ができる。
私的な葛藤から解放され自由な様に見える
態度が、誰に向けられたものでもない
無制限の誘惑をもたらし、その誘惑に
応えた人々は、その人が信じている
運命的な存在を介して、接近することになる。
結果、人々は自由な態度を追い求めて、
組織の体系に入り込んでいくことになる。
広告とは、(商品による)自由な態度を代表する
ものであり、(闘争によって勝ち取る平等で)
自由な態度を代表するものではない。
その間には、それら(処女・母)を管理する
メディア(司牧・ポン引き)が存在する。
そうしてメディアの元で
社会性(理性的態度・金銭)を証明することで
許されるが、所有した瞬間に自由な態度は
見えなくなり、かといって運命の相手にも
なれないし、その覚悟もないので、
(主人のふりはする)
再び、メディアのもとで欲望する。
こうした循環を円滑に行えるように、
自身の社会性を強化すること(啓蒙・交換)
それを行える人が権威を持ち、
それを承認するメディアが権力をもつ。
(回答の通り、広告は誰に受け入れる
でもない布教であり、実体はありません。
それに執着してる時点で、やっぱり
へなちょこだということでしょうか?)
乱雑ですが、このように考えました。

南井様は、運命を受け入れさせる父性よりも
場に迎え入れる母性の方が、文化産業で
力を持っているという旨の主張をされました。
その通りだと思いますが、私が考えたように
この母性とは、運命を強要する父性に対する
服従の模倣でしかないので、
母性を求めながら結局は父性を受け入れる
ことになり、人々が父性を無視できるほど、
母性にのめり込んでいられるから
そのようになっているのでしょうか?
(ともすると、私は
アドルノの時代よりもよっぽど幼児化が
進んでいるということでしょうね。)

正直、南井様のおっしゃる通り、
文化産業に靡いてしまうのは
やっぱり否定できません。
けれども、その葛藤から逃れれば、
このようになると自ら思案した以上、
これを運命と受け入れる訳にはいきません。
「こころ」が時代性に影響されながらも
こうした葛藤を現代まで残した以上、
現代的な発想では同様に
廃れていくことでしょう。
共犯に居直ってファシストでいるよりも
自分の罪を認め、その落とし前を
自分でつける。
そうして自分の運命を信じることで、
やっと父性に対抗することができる。
マッチョな考えですが、やっぱり
親にべったりじゃ、
異性は振り向きませんからね。

南井様は母性こそが問題だと主張されて
おりますが、今の私は一先ず、
そうする事で父性の傀儡の母性に対抗し、
母性を手にするこではなく、
選択的夫婦別姓よろしく、
「あなた達は誰ですか?」と主張します。
そうして家族では無く一対一の隣人として、
向き合わなければ相手にされないでしょう。

長くなりましたが、結局、今回も
自身のコンプレックスを吐露するだけに
終わってしまいました。引き続き
考えを重ねていきます。

最後に、自己愛過剰社会という
アメリカでナルシストが増加している
事に関する本を読んだのですが、
そうした人々は、自分の赤ん坊を
お姫様と呼んで甘やかしSNS上に公開したり、
見栄を張るために、金融に大きく
依存して多重債務者になっていたり、
美人な他人をアイコンにして
「I’m fascinater」(私は誘惑者です。)と
プロフィールに書くなど面白かったです。
インターネットや金融などの実態のない物が
ナルシズムを強化する良い参考になりました。
南井様とは、私がお姫様や多重債務者や
無粋な他人ではなく、一人の人間として
お会いできる日がくるよう努めてまいります。

長時間、お付き合い頂き、
誠にありがとうございました。

沈黙を人に強いる作品

自分の不勉強なコメントに暖かい返信をいただき、ありがとうございました。

南井さんは、なぜ自分たちは「商品」としての「作品」にしか魅力を感じないのか、という問いを立てて下さいました。
私は生まれた時から(文化といえば)文化産業的な存在にしかアクセスしにくかった平成時代・中流層の生まれですが、
ゲームやアニメなど広く流通しているからこそ話題を合わそうと触れざるを得ないものが多くあったように思います。
今回の論考から敷衍すれば、
既に自分の世代には文化において全体主義的な空気が流れていたため、
さらに文化産業の力が強大になるループに嵌っていたのかもしれないと気づきました。

私は何故かそのような空気感が肌に合わず、一人本を読んだり音楽を聴いたりしていましたが、
やはり孤立感を学生時代一人で抱え込めず、心身のバランスを崩した人間です。
また、そんな孤立した年少の自分が触れていたものも、結局は人を文化産業の掌の上で踊らすための「商品」だったろうと思います。
(南井さんが見抜いたように、
私が「市場に流通していれば全ての作品は『商品』だという事実を受け入れることに葛藤を感じる」理由は、
その孤立感から縋った数々の作品が商品であることを受け入れると、幼い頃の自分が瓦解するためでしょう)

その上で、エンタメ的・オタク的な要素とは一線を引いて、
人に沈黙を強いる作品、物自体があるということに気付くことになりました。
そのきっかけとなった骨董の世界や「青山二郎」という固有名を持つ人物について触れるのは差し控えますが、
人生において出会う物事は必然だということ、その出会い別れですら自由意志が取り計らうことが出来る部分は微々たるものかもしれない、と今では思います。

私は南井さんのように、間違った生き方に自信を持つことがまだできないですし、
万巻の書を読んで、ユダヤ・キリスト教にルーツを持つ<資本教>を挫く批評を生み出すことは出来ないでしょうが、
一つの沈黙を強いるような何か(それは『作品』でなくてもよいように思います)を残すことが出来れば良いと考えています。
ただ、そのような生き方はただ一人生きてただ死ぬという、世の中的に差し引きなしに戻るだけの一事かもしれません笑

城前佑樹(白樹烝)さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
城前佑樹(白樹烝)さん、コメントをありがとうございます。

熱意をもって記事を読んでいただいて嬉しく思います。
「一つ一つの作品」は市場で交換されるかぎりは、僕がどう思うかどうかに関わりなく「商品」です。
城前さんがその事実を認めることに葛藤を感じているのなら、
むしろ、なぜ私たちは「商品」としての「作品」にしか魅力を感じないのか、
それをぜひ考えてみてほしいと思いました。

自分の親や配偶者のすばらしさを、自分だけがわかっているだけでは不満なので、社会の多くの人に認めてもらおうと熱心に運動することはありませんよね。
それなのに、なぜすばらしい作品や推しのアイドルになると、社会の多くの人にその価値が認められてほしいと思うのか。
それは後者が自分には独占できない「商品」だからです。
「商品」は大富豪でもないかぎり、個人が独占できないものであり、だからこそいくらでもコピーが可能で、いくらでも広めることができるのです。

もし、城前さんが「一つ一つの作品」を自分が独占できるもの、他の人と交換しないもの、として受容することができるならば、
「商品」としての性質と付き合わずにいられるかもしれません。
しかしその場合、その作品について完全に沈黙することが求められるでしょう。

最近の広告は貧相ですか。
確かに個人端末の時代になって、広告のあり方に大きな変化が見られるように感じます。
公共的な場における広告というのは、ますます力を失って貧相になることでしょう。

城前さんの周囲の雰囲気は、日本の現状に違和感を感じつつ「我慢」しているという感じなのですね。
まあ、多くの人が「我慢」をしていると思いますが、どこまで「我慢」できているかは外からではわかりませんよ。
外では「我慢」をしている顔で、ネット端末の中では弱者や外国人に対して差別的なイジメを支持したりしている可能性もあります。
その場合、「我慢」というより「リスクを取りたくない」だけだったりするかもしれませんね。
他人は当てにならないですよ。

安心していただきたいのですが、
僕は「この世の中が間違っている」と主張したつもりはありません。
これが資本教の世界ですし、そもそも知性に欠ける大衆はファシズムが好きなのです。
むしろ、僕の生き方が間違っているのだと承知しています(笑)

読ませていただきました。

大論考本当にお疲れ様でした。
私は不勉強ながら「文化産業」という語句も、さらにはアドルノという人物の存在も知りませんでしたが、
御説一々ごもっとも言う他なく、「服従者」としての自分自身を情けなく思うばかりです。

重要な論点が多くあるため、まだ噛み砕くことが出来ていませんが、
文化産業が全体主義を呼び込むというアドルノの論旨、
しかしながら本当は(文化産業を批判すると共に)ユダヤ・キリスト教価値観を元にした
<資本教>を挫かなくてはいけない、という南井さんの主旨はしかと伝わってきました。

その中で、自分は社会の隅の一介の一人として、
一つ一つの作品(私はそのようには言いづらいですが南井さんなら「商品」と同義と言うかもしれません)の価値はどう決めるのか、具体的に言えなくてはならないと思いました。

また、広告と商品との関係ですが、今の日本の経済衰退の状況では広告すらもどんどんと貧相なものになっていると感じます。
それは動画サービスでの隙間広告においても、大シネコンで放映される映画予告においても、電車などに貼られているベルトセラー本の広告においても見られるように思うのです。
南井さんやアドルノが捉えた以上に、今の日本人の心性は荒んでいるのでしょう。
(その荒みがあるという現実を直視できれば良いのでしょうが、その荒みに衝動的に乗り回されているのが現状なのではないでしょうか)

自分も周りの人達に聞いてみるのですが、
政治的にも社会的にも実生活的にも、今の日本の現状に違和感を持っていない人はいないようです。
ただ、南井さんの言う体制への抵抗運動とはならないようなのですが、
その理由として確かに「去勢不安」というのも頷けるのですが、
本当の理由としては今の「違和感への我慢」と抵抗への「エネルギー」どちらを取るかで「我慢」を取っているように思うのです。
南井さんのような方から見ると、例えば「既得権益の保守」と見えるような人達にもそのような平衡感覚で動いている個々人もいるように感じます(それが「穏やかなファシズム」と言われてしまえばそれまでですが、
私はまだ「この世の中が間違っている」という確信など持てずにいます)。

拙文失礼致しました。

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