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アドルノの文化産業批判【中編①】

文化産業の画一性志向

アドルノとホルクハイマーの共著『啓蒙の弁証法』(1947年)は、なぜ近代啓蒙社会がファシズムを生み出したのかを解き明かそうとした書物です。
理性を至上の価値とするはずの社会が野蛮へと反転することを、彼らは「啓蒙の弁証法」と考えているのですが、
そのような反転した社会では、理性が追放されていくため、個人の批判的な感性も排除されます。
全体主義的な戦時体制の中で批判が排除されるのはわかるのですが、
アメリカのような大衆消費社会においても、同様の危険があることを指摘したのが「文化産業」の章です。
アドルノたちは大衆消費文化を生み出す「文化産業」に、個人の主体性剥奪の危険を感じ取りました。
大衆のための非政治的な娯楽作品が、どうして個人の抑圧を招く結果になるのでしょうか。


前回は中途半端なところで切れてしまったのですが、今回はその続きです。
文化産業は作品のメッセージ性ではなく、作品の技術的「クオリティ」によって評価を決めようとします。
その理由は、「クオリティ」は制作費をどれだけ投下するかが勝負であり、多くの資金をかけて作った作品が成功を収めることこそが、資本主義の発展につながるからでした。
資本主義が要請する技術信仰もしくは「クオリティ」信仰が、作品制作に文化資本を無批判に引き入れ、
文化産業を一つの総合的な支配システムとして育て上げたのです。


アドルノは文化産業の生産物(作品=商品)が、計算されコントロールされたもの──ボードリヤールの言う「シミュラークル」──だと指摘します。
文化産業は経済の支配に貢献するものなので、商品としての作品が経済合理性によってコントロールされたものになるのは当然です。
経済システムに属しているかぎり、利潤の計算を要求しないはずがないからです。
そのコントロールされた生産方式が、資本や経済などの社会事情に服属しているために、作品から商品アイデンティティ以外の「自律性」を奪う事態を招くのです。


文化産業にあって新しいのは、もっとも典型的な文化産業の生産物のなかで、売り手の側で厳密に計算しつくされた効果が直接的かつ露骨に優位に置かれているという点である。これまで芸術作品の自律性が完全に純粋なかたちで優勢であったためしなどほとんどないことはもちろんであり、つねにさまざまな作用連関がそこに混入していたわけだが、そうした自律性は文化産業によって排除される傾向にあるのであって、好き勝手に処理する人々の意識のうちにそうした意志があるかどうかは関係ないのである。好き勝手に処理する人々とは、執行機関でもあり、権力者でもある。
(テオドール・W・アドルノ「文化産業についてのレジュメ」竹峰義和訳)

上記の引用文は『啓蒙の弁証法』から16年を経た1963年に、アドルノがラジオで講演をした時のものです。
今は『模範像なしに』(1968年)に所収された「文化産業についてのレジュメ」という小論のかたちになっていますが、
ドイツのファシズム体制に抵抗する意図で戦時中に書かれた文化産業批判が、アドルノの中ではその後も変わらず生き続けていることがハッキリわかります。
これを読めば、『啓蒙の弁証法』の文化産業批判が、アドルノの主導で書かれたことに確信が持てるでしょう。
(『啓蒙の弁証法』の翻訳者である徳永恂は、その難解な文章構成がアドルノ主導であることを示している、と言っています)


文化産業では、経済的な利潤計算が何よりも重視されています。
そのため、表現内容は販売拡大を邪魔しないように配慮されます。
経済原理の支配下にある作品では、もはや芸術的・文学的な「自律性」は作品に欠かせない要素ではなく、付加的な位置づけになります。
「自律性」という言葉は難しいですが、何らかの外部事情からの要請ではなく、作品が一つのリアルな世界として成立するのに必要な要素のことだと僕は考えています。
作品の完成度を高める「自律性」は、商品の使用価値にあたるものであり、作品にとって重要であっても、必ずしも購買者に望まれるとは限りません。
文化産業は交換価値という経済的事情に反する要素──お客様を満足させることに邪魔になる部分──を排除したいので、
芸術的・文学的な「自律性」より購買者への「サービス」に奉仕した作品に、高い評価を与えていくようになります。
最近の小説では自然描写や情景による詩的味わいが断然少なくなっていますが、
これはストーリーとキャラ以外に関心が薄い読者への効率的な「サービス」を追い求めて、作品を豊かにする「自律性」を削っていった例と言えるのではないでしょうか。


引用文に「売り手の側で厳密に計算しつくされた効果が直接的かつ露骨に優位に置かれている」とあるように、
文化産業では利潤の計算という「売り手の商売事情」が何よりも優先されるため、芸術作品や文学作品の「自律性」は邪魔なものでしかないのです。
販売促進に全集中することで、文化産業が売り出す「作品=商品」は、既存の経済体制やその中で暮らす大衆に適合するものに限られていきます。
現行の消費資本主義体制に適応して、ためらいなく消費に財力を傾けてくれるような大衆こそが、文化産業に利益を運んでくれる最良のお客様だからです。
文化産業にとっての「良い作品」とは、人々の消費を喚起するものであって、あくまで作品の評価は「経済社会における効果」によって測られるものでしかありません。
そこで重要になるのは、社会的な効果であり、経済性であって現在性です。
その作品が独自に生み出す自律的な価値観や世界観など、商品の売り手にとっては二の次三の次なのです。


上記の引用文にもう一度戻りますが、後半でもう一つ大事なことが指摘されています。
文化産業が体制の異物となる作品の「自律性」を排除することは、権力者の意志とは全く関係がない、というところです。
これは非常に本質的な問題ですし、誤解している人も多いように見受けられるので、丁寧に説明したいと思います。


文化産業は自分たちの「複製作品=商品」に支配的な地位を与えることで、既存経済体制(資本主義)にとって異質な要素や批判精神を排除していくのですが、
それが「排除」だと多くの人に認識されることなく行われるのです。
「自覚なき排除」もしくは「沈黙の排除」とでも言ったらいいでしょうか。
排除が人々の認識に上らないのは、支配体制によって肯定された「もっと多く売りたい」という欲望の裏側で﹅﹅﹅行われるからです。
自分は体制が肯定する欲望に従っているのだから、それに異を唱える方が社会悪だと自己正当化ができてしまうのです。


問題は「売りたい」「売れたい」という資本主義的な欲望が過剰﹅﹅になる﹅﹅﹅ことです。
過剰に売上を伸ばそうとするから、その障害になるものを排除する必要が出てしまうのです。
身の丈以上に売れるもの、身の丈以上に評価されるものを作ろうとする中に、異質性の排除は自然と織り込まれています。
(つまり、実力以上の評価を受けている人ほど、批判の弾圧に手を染めることになるわけです)
異質性や批判を弾圧した排除の当事者たちは、「自分たちは商売を邪魔された被害者だ」と思い込んで、体制の庇護をあてにするわけですが、
資本主義体制に「排除の欲望」が正当化してもらえるからといって、彼らの弾圧行為が非倫理的であるという事実に変わりはありません。
作品=商品の「実力」以上に過剰なセールスを望む文化産業の作り手は、気づかないうちに「排除の欲望」という悪魔と契約しているのです。


問題なのは経済衰退期の文化産業

アドルノたちは文化産業の本質に「画一化」があることを問題にしています。
『啓蒙の弁証法』や「文化産業についてのレジュメ」を読むと、文化産業の作品が「どれもこれも体制順応をもたらす似たようなもの」であることにアドルノが苛立っていることが伝わります。
ただ、文化産業の作品はどれも画一的だと感じない人、とりわけ体制的であるか否かに興味がない人にとっては、アドルノの批判はなかなか実感できないと思います。
文化産業批判がまともに語られずに、反論ばかりが流通しているのには、アドルノの理論自体にも問題があると思います。
僕が残念に思っているのは、アドルノの文化産業批判が「本質論」になりすぎていることです。


アドルノの文化産業批判は、同一化を強める近代的な均質支配システムの問題として組み立てられています。
近代社会の支配のあり方が、文化にまで及んだことで、文化産業が登場したという認識です。
近代という大きな時代区分で問題を捉えているから、「啓蒙」が主題になっているのです。
商品の大量生産によって、社会において規格化・均質化が進められたのが近代という時代ですが、
そのような商品生産の圧力からすれば、本質的に文化産業の作品も規格化・均質化の流れから自由になることはできないでしょう。


つまり、アドルノが想定している画一化による排除とは次のようなものです。
規格品や既製品によって画一化が進むと、その流れから外れたものは自動的に排除されることになります。
店頭に並べるのにふさわしい形状の野菜や魚以外が、出荷用のベルトコンベアーから取り除かれるのと同じ原理です。
どんなに美味しい野菜でも、規格から外れる不恰好な育ち方をしてしまったら、店には並べられないのです。
パックに入ったイチゴの大きさが、どれもまちまちであったら、大きいものを買えなかった人から不満が出ることでしょう。
多くの購買者に同じ価格で同内容の商品を売るわけですから、ある程度の画一化が要求されるのは市場の必然なのです。
文化産業も大量生産で勝負しているので、多くの購買者に提供できる作品をめざして画一化の傾向を帯びるのは必然です。
このような野菜や魚などの商品化を踏まえれば、アドルノたちが『啓蒙の弁証法』で文明による自然支配を、文化産業の問題と同列で語っていることも理解しやすくなります。


このような近代批判の文脈も重要ではあるのですが、それだけでは文化産業批判が「本質論」になりすぎてしまいます。
文化産業の作品は、本質的に近代の産物なので全部ダメということになりかねません。
しかし、文化産業の作品に他方向的な欲望を反映した多様さがあることは事実ですし、芸術とまで言わなくても、文学に比肩する評価を与えられる作品も(少数ながら)あると僕は思います。
だから、僕はアドルノの文化産業批判を近代論ではなく経済状況の上で考察したいと考えています。
文化産業が消費資本主義システムに依拠しているものであるなら、経済状況の変化によって産業のあり方も大きく異なってくるからです。


たしかに文化産業の「商品=作品」も、画一化の圧力から自由ではありません。
書籍やCDや映画のBlu-rayなどは完全複製品なので、野菜のように生産過程で一定基準の形状に達しないものを排除する必要はないわけですが、
「商品」であるかぎり、その内容が「購買者の欲望にかなう」必要があるという事情を抱えています。
簡単に言えば、「より多くの人」に買いたいと思ってもらう必要がある、という点ではどの商品も事情に変わりはないのです。


問題は「より多くの人」をどの範囲に想定するか、ということにあります。
たとえば社会の景気が良く、文学愛好家という狭い範囲の人を相手にするだけで利益が確保できれば、文学愛好家だけが理解できる高レベルの文学作品を売っても商売は成り立ちます。
このようなマニアックな顧客相手の商売では、一つの商品でカバーできる顧客層が狭いぶん、分散した顧客層ごとに対応する商品が必要となり、自然と商品は多様化します。
しかし、グローバル経済の圧力下で社会が持続的な経済衰退に突入した場合はどうでしょうか。
むやみにグローバルな価値観を称揚するために、ある趣味に「通じている」人から評価をもらうより、
「より多くの人」つまり、趣味の素養や広い教養を持たない「匿名の大衆」に評価される方が、素晴らしいと感じられていくのではないでしょうか。
グローバルな世界では、もはや作品の受け手に素養や資質やセンスを期待してはいけないのです。


さらに、経済衰退局面がこの傾向に追い打ちをかけます。
これまでは限られた顧客だけで利益が得られた商売でも、景気後退が広がっていくと、その商売を維持するだけでは十分な利益が得られなくなります。
つまり顧客数の拡大が至上命題となります。
限定的な趣味人から広範な「匿名の大衆」を顧客とした方が、消費市場が大きくなるのは明らかなので、
利益の拡大を図るなら、「匿名の大衆」を狙って商売した方が金になるという計算がなされるのは必然です。
こうして、経済衰退期の文化産業の創作者たちは「より多くの人」つまり、「匿名の大衆」が好むもの=売れるものを誰もが作ろうとするようになります。
これが作品の画一化をいっそう強めることになるのは必然です。
みんな同じように「匿名の大衆」にウケるものを作ろうとし、同じように「匿名の大衆」の欲望を探り当てて、同じような作品を提供することになるのです。
アドルノの文化産業批判は「本質論」として正しくはあるのですが、
経済的に余裕のない社会でこそ、その弊害が最も眼に見える形で現れてくるのです。
もちろん、それが今の日本の状況であることは言うまでもありません。


景気後退が顕著になると、文化産業の画一化に歯止めがかからなくなります。
とりわけ現在の日本社会では、人手不足が大きな問題になっています。
時間をかけて良い作品を作るだけの人手も時間もないので、どうしても投資した資金を短期で回収しようと目論みます。
経済的視野が短期的になると、最近ヒットした商品の「真似をする」ことが安全策﹅﹅﹅として選ばれます。
ヒットしたということは、そこに「匿名の大衆」の欲望があるという計算が成り立つからです。
新たな市場を掘り当てれば大きな利益が見込めますが、そのようなギャンブルをする余裕がなくなると、企業はすでにヒットした作品の「二番煎じ」である程度の確実な利益を得ようと考えるのです。
いわば消極的な販売戦略と言えますが、このような「消極性」が画一化を引き起こさないはずがありません。
J-POPだと、3月になるとやたらと卒業ソングを売り出し、4月になるとやたらと「桜」という曲を売り出すような販売戦略ですが、
革命的な発想を必要としないヒット作の「二番煎じ」を作ればいいのですから、文化産業としては「才能」を発掘する労をかけずに、自分たちの意に沿う作り手を安く調達すれば済むわけです。


最近の漫画業界で言えば、誰でもわかるレベルで「悪役令嬢モノ」が異常なほど多く生み出されています。
もはや何番煎じなのかわからないほどです。
これだけヒットするのですから、そこに「匿名の大衆」の欲望があるのは明らかですし、それを分析するのも難しくありません。
詳しく説明する余裕がありませんが、「悪役令嬢モノ」とは、
現世で不幸な死に方をした主人公が、自分が遊んでいた「乙女ゲーム」の世界(西洋中世のイメージ)で、ヒロインをいじめる「悪役令嬢」に転生してしまうストーリーを基盤としています。
どうも小説投稿サイト「小説家になろう」で流行したようなのですが、とにかくこの設定を共有する数多くの作品が売り出されているのです。
「悪役令嬢」は家同士の取り決めで、高貴なイケメン王子と婚約をしているのですが、
ゲーム上ではヒロインの「やられ役」なので、ゲームシナリオ通りの展開だと将来的にイケメン王子から婚約破棄をされる運命にあります。
将来に破滅的な出来事が「予定」されている状況下で、「悪役」に転生した主人公がその状況を逆転し、イケメン王子と結ばれるというのがプロトタイプだと思います。


「悪役令嬢モノ」に見られる欲望を分析すれば、
将来的に破滅シナリオが濃厚な日本社会で、その破滅を回避する希望がもらえる、というところではないでしょうか。
なぜ主人公が悪役設定なのか、という点については、連合国の敵であった日本が「転生」によってアメリカに溺愛される、という「戦後日本・グレート・アゲイン」の欲望の投影だと僕は分析しています。
もしこの分析が正しければ、オタク女子の欲望は日本の保守オヤジ的な欲望を(無意識のうちに)ハッキングしていることになるわけです。


「悪役令嬢モノ」の舞台設定が大衆の欲望に合致することが判明すると、これを変奏した「二番煎じ」(訂正可能性?)が数多く売り出されていきました。
婚約破棄を回避して婚約者と結ばれるのが基本のハッピーエンドでしたが、
「悪役令嬢」が積極的に婚約を解消して自由を謳歌したり、レベルを上げて無双の強さを手にしたり、婚約破棄後に別のイケメンに溺愛されるパターンなど発想の微細な差異を競う「大喜利」状態へと発展しています。


このような「大喜利」作品に購買者が満足する状況が生まれるのは、購買者の「オタク化」が進んだからです。
市場に評価されたものを従順に買い続ける受動的な存在がオタクです。
オタクの性質には、変化のない世界に安住したがる保守的(マザコン的)傾向があり、そのため小さな差異を楽しむ二次創作を好んで受け入れます。
1990年代後半からオタク文化は巨大市場として認知され、すっかり文化産業を支える優良なお客様となりました。


西洋の自然支配と消費テーマパーク

「悪役令嬢モノ」の話が出たので、消費にまつわる重要な話をさせてもらおうと思います。
「悪役令嬢モノ」に限らず、漫画などのサブカル作品で主人公が「転生」するのは、なぜ「西洋中世をモチーフにしたゲーム世界」なのでしょうか。
自分であることを維持しながら、異世界に「転生」するということは、自分自身であることに大きな不満はなく、現在自分がいる世界に不満があるということです。
つまり「転生」とは、成長を伴う「自分探し」ではなく、今の自分のまま「自分にふさわしい世界」を探す欲望を表しています。


三島由紀夫は「転生モノ」と言える『豊饒の海』(1971年)を書き上げた直後に割腹自死事件を起こしたのですが、
あの事件には「自分にふさわしい世界」への「転生」を求めていた面があったように思います。
現在自分がいる世界に不満を持つオタクたちも、現実世界から「転生」するロマン主義的な欲望を抱いていますが、それすら文化産業にコントロールされています。
たいていは「転生」先が、文化産業が販売﹅﹅した﹅﹅「ゲーム世界」になるからです。
オタクにとってのユートピアは、オルタナティブな理想社会ではなく、商業的に管理された「ゲーム世界」なのです。
RPGゲームの一般化によってオタクに共有されていった擬似ヨーロッパ中世の世界観は、現実世界への「否定性」で成立しています。
アジア的な生活世界を否定するヨーロッパ的世界であり、科学の支配を否定する魔法などの「奇蹟」にあふれる世界であり、経済実力主義を否定する身分制度と家柄主義の世界……、
僕は「ハリー・ポッター」シリーズを全く読んだことも見たこともないのですが、おそらくその世界観もこの「否定性」の中に収まるのではないでしょうか。


アドルノは文化が野蛮へと反転する「文化と野蛮の弁証法」の根底に、文明による自然支配があると考えていました。
念のために指摘しておきますが、これは極めてキリスト教的な世界観であって、中国文化圏における自然はそれほど文明に対して従順ではありませんでした。
自然支配という驕った発想は、東洋では近代化が進んだ段階になってようやく一般化したもので、そもそもは西洋キリスト教的な価値観に根ざしたものと考えるべきだと思います。


西洋の自然支配というものは、ヨーロッパの幾何学的な庭園文化を見れば明らかなように、
壁を設けて秩序の支配する計算された楽園を作ることを「支配」と見なしています。
西洋人にとって「支配」とは、壁で囲うことと同義なのです。
ベルリンの壁はもちろん、イスラエルが作った壁、トランプがメキシコとの間に作った壁など、彼らはすぐに壁を作りたがります。
絶対に忘れてはいけないのは、中国文化圏には冊封体制はありましたが、欧米列強のような植民地化の発想はなかったということです。
植民地とは、異質な自然を神の支配下に置くという自然支配のメカニズムを、異国の人々に適用したものでしかありません。
植民地は欧米列強が管理する箱庭だったのです。


ポストモダンの戦後世界では、外国を植民地にすることが禁じられたので、
自然支配のメカニズムを用いて、自国の内部に植民地的な箱庭を作るようになりました。
その代表が、消費テーマパークと観光地です。
消費テーマパークは壁で囲われたユートピアですが、その代表であるディズニーランドを見ればわかるとおり、
外部の自然(=生活世界)を排除するための壁そのものの存在は、忘却されるべきものとして設定されています。
観光地の場合は明確な壁で囲われていませんが、「意識の壁」によって生活世界と観光産業の支配地は分割されています。
(だからその壁が機能不全になると、観光地周辺の生活世界が荒らされることになります)


要するに、消費テーマパークと観光地は、ユダヤ=キリスト教が理想とする神の国のパロディであり、西洋文化の擬似植民地なのです。
その世界は唯一神の意志のもとに、支配秩序が維持されていなければなりません。
当然ながら、設けた壁の内部は、神の望まぬ異物が入り込まないように徹底管理されます。
このような管理の中で暮らすことに何の疑問も持たず、趣味的な消費市場の外部にある現実を消し去ることに進んで協力する人々が、オタクなのです。
(つまりオタクとは、ユダヤ=キリスト教の価値観に宗教的ではなく消費的に馴致された存在だということです)


『啓蒙の弁証法』の傑出していた点は、文化産業をこのような西洋近代社会の自然支配の延長として捉えたことです。
たとえて言えば、文化産業は植民地を支配する欧米列強、ディズニーランドの管理企業、観光地の産業組合のような役割を担っています。
ディズニーランドには多様なキャラクターが登場しますが、それはウォルト・ディズニー・カンパニーという企業によって管理され画一化された中での「見せかけの多様性」でしかありません。
文化産業が産出する多様な文化作品も、中央管理が進むにつれて、消費資本主義の世界観にふさわしい作品やキャラクターで画一化される運命なのです。
最近のアニメのキャラクターが、だいたい過去のどこかの作品で見たキャラとかぶっているのは、
「見せかけの多様性」のもとに資本による画一的な管理が強まったことを示しています。
管理がある閾値を超えると、永遠に「二番煎じ」を繰り返すヒート﹅﹅﹅デス﹅﹅の状態となるわけですが、すでにそうなっているのかもしれません。
おそらく、消費市場の内部では、もう新しいものは出てこないのではないでしょうか。
進歩するのは、技術的クオリティだけでしょう。


ここで注意をしておきたいのは、文化商品の画一化がどんなに完成に近づいても、消費者が画一化を自覚﹅﹅しに﹅﹅くい﹅﹅構造になっているということです。
文化産業は作品の自律性を排除して、経済原理による画一化をはかるのですが、
その画一化は「見せかけの多様性」を拡大する中で行われています。
そのため、表面的な現象だけを取り上げれば多様性が拡大しているかのように見えるのです。
頭がキレすぎるアドルノからは文化の画一化にしか見えないものが、一般人には商品選択の幅の多様化に見えているのです。
文化産業の画一化とは、「見かけの選択肢は多いが、どれを選択してもたいした差異はない」という把握しにくい形で進んでいきます。


出版を例にとって具体的な話をしましょう。
出版不況の中で「新書」の売上が好調だったことから、新書市場に参入する出版社がやたらに増えました。
当然ながら出版点数は増えて、その内容も著者もバラエティ豊かになりました。
その現象だけを捉えれば、新書は多様化したと言うことができると思います。
しかし、その時期から新書の質は明らかに落ちました。
表面上はバラエティ豊かになったのですが、どれも手っ取り早く情報を提供するものばかりで、じっくり読むような本はなくなりました。
最近になって漫画商売に乗り出す出版社もだいぶ増えましたが、それで漫画の内容が豊かになったかと言えば疑問です。


このような画一化は、サブスク文化によって頂点に達したと僕は思っています。
サブスクリプションとは、定期料金の支払いによってコンテンツを自由に利用できるシステムですが、
商業音楽のサブスク利用とAIアルゴリズムによる提案によって、利用者は多様な選択肢の中で自分に合った「似たような曲」を聴き続けることになります。
サブスクのヘビーユーザーに「どんな音楽が好きなの?」と質問をしても、まともな返事を得るのは難しいでしょう。
なぜなら、彼らは「かかっている曲はだいたい好き」だからです。
しかし、彼らが聴いている曲は覚えきれないくらい多様であり、それが画一化した趣味だと言われても意味がわからないでしょう。
このような「水面下」での画一化は、アドルノのように文化産業という視点で考えないと理解できないのではないかと思います。


アドルノは文化産業による画一化や排除が、権力者の意志とは無関係に行われている、と指摘していました。
わかりやすい中央の管理権力が存在し、それが意志をもって画一化を進めるという「全体主義の構図」ではないのです。
多くの企業がその市場に参入する多様性の中で、利益確保の効率化という「見えない手」によって、画一化による排除が行われます。
そこでは「排除しよう」という誰かの明確の意志を必要とすることなく、「排除」は自然に﹅﹅﹅行われます。
それが自然﹅﹅であるかのように行われるために、購買者たちは画一化や排除を自覚することもできず、それを取り立てて問題にしようとも思わないのです。


消費者個人を対象とした「見せかけの差異」

『啓蒙の弁証法』の「文化産業」の章をよく読むと、先駆的な考察が数多く見られることに驚きます。
たとえば文化産業がマーケティングの道具でしかないことを語った次の考察なども先駆的だったと思います。


Aという映画とBという映画、あるいは等級を異にする雑誌の読み物の間にあると言い立てられている差異は、内容そのものの差というよりも、むしろ消費者層の分類・組織・理解に合せたものなのである。誰にとっても、誰一人外れる者がないように、何かが予想されるようになっており、区別は印象に刻み込まれ、宣伝文句に謳われている。(中略)一人一人の購買者は、いわば自発的に、あらかじめ表示された自分の「レベル」に合せて行動し、彼のタイプ向きに造られた大量生産のカテゴリーにしたがって選ばなければならない。
(ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法』徳永恂訳)

この内容を1940年代に指摘したのは、相当に早かったと思います。
ここでは文化産業における「読み物」の差異は、「内容そのものの差」ではなくタイプ別の分類「カテゴリー」だとしていますが、
このような「レベル」や「カテゴリー」の差異が、前述した「見せかけの多様性」を形成しているのです。
そこに質的な多様性はありません。
(これが「啓蒙」の問題になるのは、アドルノがカントのカテゴリー論を意識していたからだと思います)


日本の〈俗流フランス現代思想〉が重視した「差異」は、そういう消費的な差異でした。
いろいろな色やデザインが生み出すファッション的な差異はあっても、機能的にはさほどの差はありません。
つまるところ、文化産業が生み出す作品=商品の差異とは、「内容そのものの差」ではなくマーケティング上の分類でしかないのです。
アドルノはそのような消費的差異を統括している単一のシステムを、文化産業と名づけたのです。
要するに、文化産業が提供するのは「見せかけの差異」でしかなく、その根底には資本の増殖を求める一元的な世界があるだけなのです。


消費的差異の本質が一元論であることは、むしろ現代のインターネット社会の方が理解しやすくなっています。
個人をターゲットにした広告マーケティングが常態化しているネットショッピングを考えれば、誰にでもイメージができるからです。
利用者の過去の購買履歴や検索履歴をデータとして蓄積し、それを数理的に計算して個人向けの「おすすめ商品」を表示してくるサービスを考えてください。
その「おすすめ商品」は、あなた個人の嗜好に合ったものとして提案されるので、
原理上は利用者個人にだけ適合するような広告であり、利用者の数だけ差異があることになります。
しかし、そのような広告を表示するサイトは、すべて同一のプラットフォームであるわけです。
「あなただけにオススメの商品」などに、本質的な差異は存在しないのです。


アドルノは「文化産業についてのレジュメ」で、個人性が文化産業のイデオロギーを強めることを指摘しています。
消費者を個人へと分解することは、文化産業のイデオロギーによるものなのです。
広告のターゲットが個人になるのも、同様のイデオロギーが全般化した結果と捉えるべきでしょう。


あらゆる製品は個人的なものを装う。全面的に物象化され、媒介されたものが無媒介性と生の避難所であるかのような印象を与えることで、個人性そのものがイデオロギーを強化することに役立つ。文化産業が第三者による「サービス」のうちに存することに依然として変わりないのであり、古びていく資本循環のプロセスや、文化産業の源である商取引との親近性を保持しつづける。文化産業のイデオロギーがとりわけ奉仕しているのは、個人主義的な芸術とその商業的な搾取から借り受けられたスター・システムである。文化産業は、その経営手法と内容が非人間的になればなるほど、偉大なパーソナリティと称されている人々をますます熱心かつ巧妙に喧伝し、煽動めいた口調を駆使していく。
(「文化産業についてのレジュメ」)

文化産業の製品は、個人的な消費という行為で、「無媒介性と生の避難所」が得られるかのような印象を与えます。
僕はこれをメディアによる「救済」と考えていますが、アドルノはさらに興味深い視点を提供してくれます。
アドルノは難しいことを本当にサラッと書くのですが、ここで言われていることをわかりやすく言うと、こういうことです。
経済システムが「一個人」の価値を低下させ、社会を非人間的な状態にしていくと、
文化産業は個人をスターへと仕立て上げて、「一個人」に社会的な力があるかのような幻想を広めてバランスを取るのです。
つまり、物象化によって失われた個人性を、経済に貢献したスターの個人性で埋め合わせる(=交換する)のが、文化産業のやり口だということです。
「スターになれ、そうすれば君の個人性は救われる」
つまり社会的な疎外感を解決したければ、文化産業で経済的利益を生み出せる個人﹅﹅になれ、という話です。
こうして、文化産業によってオタク化した消費者は「他者との連帯」を嫌悪するようになり、個人性のイデオロギーに飼い慣らされてスターとの同一化を夢見ることになります。


いい機会なので話しておきたいのですが、このような突出した個人との同一化を共同体レベルで推進することを、僕は現代における「天皇制システム」と考えています。
今で言えば、大谷翔平に対するマスコミの異常な「肩入れ」は、僕の言う「天皇制システム」の典型的なあり方でしかありません。
天皇制システムとは、集団主義的な「肩入れ」文化であり、最近流行りの「推し活」というものは天皇制システムの分散化﹅﹅﹅を商売に利用したものだと考えています。
ヤクルトスワローズの村上宗隆が56本のホームランを打った2022年に、「村神様」という言葉が流行語大賞の年間大賞になりましたが、
突出した活躍で国民的な話題をさらった「軍神」を、神様扱いする心性に日本人が「天皇制」を必要としてきた事情を感じ取るべきだと思います。
(もちろん近代天皇制において、天皇が軍隊の統帥権を持つ軍事的リーダーであったことが、軍神崇拝と天皇制を結びつけています。
戦後日本ではその役割がアメリカ軍に移ったため、メジャーリーグで活躍する大谷が軍神=代理天皇と見なされているのです)


天皇制を模倣したスター「肩入れ」システムについてはまた別のところでまとめるとして、重要なことを言います。
消費における「見せかけの多様性」が浸透した社会では、
所属している場所の差異はもちろんのこと、世代や性別の差異も「見せかけ」でしかなくなります。
文化産業の「見せかけの多様性」は、趣味的な消費に依存しているという次元においては一元化した価値の中にあります。
その意味で、「消費的な趣味人」という括りで、多くの人を同一化するようなメタ視点から見れば、
誰もが「趣味的な好み」を生きる喜びや支えにしている、という「オタク的同一性」をもつフラットな存在だと見なすことが可能です。
このような「オタク的同一性」は、現実的な差異を「見せかけ」のように思わせる反動的なロマン主義をはらんでいます。


たとえばクラスメイトの誰もが知らないバンドやアニメを密かに愛している女子高生がいるとします。
彼女は趣味が共有できないクラスメイトに同一化することができず、自分を集団から浮いている存在だと見なしています。
しかし、ひょんなことから同じバンドとアニメが大好きな40代の男性と出会ってしまって意気投合してしまいます。
二人は互いを「親友」と呼び合ったりするでしょう。
性別も世代も違う二人は、それらの現実的な差異が「見せかけ」でしかないと感じます。
そして出会って三か月が経つころに、40代男性が女子高生に自然と男性的な欲望を抱いていくのですが、
すでに世代の差を抹消した二人には、性別の差も必要とされてはいないのです。


何が言いたいのかというと、消費的差異を重視した社会では、世代や性別の違いは大した障害に思えなくなる、ということです。
現代の若者がジェンダーフリーに興味が強いのはいいことですが、その欲望の背景には「オタク的同一性」への過大評価があると僕は思っています。
もしその推測が正しければ、消費を楽しむ余裕がない金銭状況になった時に、
それまで自然であったジェンダーフリーの感覚が消え失せて、性差の問題が大きく実感を持って現れることになるでしょう。
不景気で「オタク的同一性」が機能しにくくなった時に、その穴埋めとして浮上するのは「民族的同一性」つまり天皇制的ナショナリズム(その裏側に屈折したアメリカ従属がある)になるはずです。


文化産業の商品は、ターゲットにする消費者層ごとに「見せかけの差異」があるとはいえ、本質的には統一的な性格を持っています。
これをアドルノは「巧妙に偽装された文化産業製品の同一性」と呼んでいて、ヴァーグナーの総合芸術が引き合いに出されています。
映画化をめざす小説や漫画の構想、映像作品のBGMにおさまっていく現代音楽やジャズ、CM音楽化するポップミュージック、広告化する詩的フレーズ、自己啓発マニュアル化する哲学、時間を埋めるために接続されるYouTubeやTikTok……
これらはすべて資本の増殖を第一目的としています。
資本の増殖を目的とするということは、多く購買されること──要するに「売れる」ことを求めます。
販売数を稼ぐには客単価を上げる方法もあるのですが、文化産業の場合、消費者個人が作品を享受する時間に限界があるために、普通は広い購買層を狙い撃ちする戦略を取ります。
広い購買層とは、多くのお客様が集中する中間層と決まっています。
無味乾燥で特徴も差異もないどこにでもいる存在、それが中間層です。
消費資本主義は、この中間層に多くの人を落とし込むことを狙っています。
イメージとしては、巨大な池に散らばっていた魚をある一箇所に集めるような感じです。
一箇所に集めたら、一気に全部すくいとれるので大儲けできます。
集中化に成功したら、効率的に大儲けしたい文化産業は、中間層に向けた商品ばかりを売り出すようになるでしょう。
するとどうでしょう?
中間層から外れた人たちは、自分たちに見合った商品をなかなか見かけなくなります。
それは孤独です。
とりわけ、消費でしか孤独を癒せない人にとっては最悪です。
彼らは酸素を求めるように、中間層の中に入り込むことを求めるでしょう。
こうして中間層ばかりが分厚くなっていくのですが、そのような個性のない人々の集合は文化産業にとって歓迎すべきことなのです。
しかし、似たり寄ったりの中間層が拡大する一方なら、その社会は強制することなく同質的な全体主義に近づくことにならないでしょうか。
その意味で、アドルノが文化産業に全体主義を生み出す要因があると考えたことは慧眼だったと僕は思います。


もうおわかりだと思いますが、文化産業の支配の中では、文学も思想も芸術も自動車や掃除機やカーテンやカニカマやお菓子などの工業製品と本質は変わらないのです。
結局、「もっと多く売れる製品を作れ」という資本主義の命令に従っているだけなのです。
『啓蒙の弁証法』では、映画がプロデューサーに制御された「様式化」の中にあることが執拗に批判されているのですが、
文化産業でイデオロギーなき図式化・形式化が支配的になるのは、それが工業製品と同様の「規格品」であろうとするからです。
当然ながら、「規格品」が求められる背景には、「もっと多く売る」ための大量生産への適応度を向上させる目的があります。
結局、文化産業がプロデューサーや編集者の意図に沿って様式化・図式化を進めていくのは、
「もっと多く売る」ために中間層という「分厚い消費者層」をターゲットにしているからにほかなりません。
「もっと多く売れ」という一元的な命令は、一神教における神の意志のようなものです。
「もっと多く売れ」が「資本教」の唯一神の命令であるため、そこから生み出される製品の根底には、すべて「もっと多く売れ」という一元的メッセージが刻まれています。


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