政治的な左派思想の復活へ
マルクス・エンゲルス全集(MEGA)の編集委員である斎藤幸平が、
マイケル・ハート、マルクス・ガブリエル、ポール・メイソンの3人と資本主義の行末について対談した本です。
斎藤はマルクスの物質代謝について研究しているのですが、
雑誌「現代思想」でマルクス・ガブリエルを早い段階で紹介したり、彼の著書の翻訳に携わっていたりするので、
國分功一郎や千葉雅也よりもガブリエルの対談相手としてふさわしい研究者だと言えるでしょう。
斎藤は消費資本主義に依存した〈フランス現代思想〉のオタク的な人たちとは違って、
マルクスについて語れるのはもちろん、経済思想が専門ということで政治経済についての幅広い教養を持っています。
その意味で左派的なスタンスをしっかりと持った思想系の学者と言えます。
ただの聞き手だと侮っていると、斎藤の思わぬ反論に驚かされることになるでしょう。
個人的な話ですが、少し書いておきたいことがあります。
僕は以前、ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』のAmazonレビューで、
ガブリエルが〈フランス現代思想〉などのポストモダン思想(ポスト構造主義)を批判していることを指摘しました。
当時にそのような意見は他に誰も書いていなかったと記憶しています。
それが正しかったことはもう本書をはじめ後発の翻訳でも明白になっています。
しかし、当時の出版マスコミはガブリエルを〈フランス現代思想〉の延長であるかのように捉える愚かな思い込み(もしくは意図的な操作)をして、
前述のドゥルーズ学者などにガブリエルの著書の帯に推薦文を書かせたり、彼の紹介記事や対談相手を依頼したりしていました。
日本の大手出版社の編集者がいかに勉強をせずに、業界内の「利権」ばかりを優先しているかがよくわかる事例ですので、
読者の皆様には日本の編集者のレベルを判断する材料にしていただきたいと思います。
今回、集英社の編集者が講談社や朝日新聞よりも「普通」に仕事をしていてホッとしました。
目玉である対談相手について僕の知っていることを書きましょう。
マイケル・ハートは『〈帝国〉』(2000年:邦訳2003年)や『マルチチュード』(2004年)などアントニオ・ネグリと共著で名を馳せました。
圧倒的にネグリの知名度が高く、ハートはおまけ(失礼)のような扱われ方でしたので、
今回の単独での登場は珍しくハートが脚光を浴びる機会になったように思います。
ただ、ネグリ=ハートの『〈帝国〉』が日本で話題になったのは、ブッシュ大統領がイラク戦争でアメリカの単独行動主義を露わにした時期で、彼らの描いたグローバル秩序がもう終わりに向かう時でしたし、
二人ともドゥルーズ思想との関わりが深く、その意味では遅れて来たポストモダンの人というのが僕のイメージです。
マルクス・ガブリエルは史上最年少でボン大学教授となり、思弁的実在論が話題になった流れで彼の「新実在論」も注目されるようになりました。
彼の著書『なぜ世界は存在しないのか』は平易な語り口で、ドイツだけでなく日本でもベストセラーになりました。
日本の〈フランス現代思想〉系の出版利権を貪る学者たちが目の色を変えて、彼の本をたいして読みもせずに批判していたのは醜いとしか言いようがありませんでしたね。
ポール・メイソンはイギリスの経済ジャーナリストです。
著書の『ポストキャピタリズム』(2015年)が情報テクノロジーによる資本主義の崩壊を描いたことで話題になりました。
僕は本書を読むまで彼についてはそれほど知りませんでした。
本来の集英社新書のカバーの上に、販促用のカラー表紙がついていたのが目について手に取りました。
そのカバーがB級映画のポスターみたいで思わず苦笑してしまいます。
タイトルの横に「資本主義の終わりか、人間の終焉か?」とのアオリ文句が踊っています。
加えて裏表紙に対談相手の説明があるのですが、そこに付けられたキャッチフレーズがまたサブカル色にあふれています。
内容と関係ないのですが、笑えるのでちょっと紹介しましょう。
マルクス・ガブリエルは「哲学界のロックスター」、マイケル・ハートは「革命の政治哲学者」、ポール・メイソンは「鬼才の経済ジャーナリスト」という具合です。
このカバーデザインが資本主義の終わりを考察する本であるのは、いかにも日本らしいと感じてしまいます。