- 2024/11/08
- Category : 【評論】アドルノの文化産業批判
アドルノの文化産業批判【後編①】
文化産業による知性の排除
これまで『啓蒙の弁証法』(1947年)を読み解きながら、アドルノの文化産業批判をアップデートしてきましたが、今回はその完結編です。
文化産業は事前に想定された売り上げの確保を「予定された世界」と見なし、
「予定」がそのまま実現されることを「秩序」だと考えています。
つまり、電車が時刻表通りに狂いなく運行されるような世界を規範としています。
未来とは、将来の利益が不安定になるような予定外のものであってはならないのです。
そのため、文化産業は大衆のニーズを掘り当てる「作品=商品」を生み出す方向から、
自分たちが売り出したものを「予定された」とおりに大衆に買わせるという方向へとシフトしていきました。
事前のマーケティングで「予定された」とおりに商品が売れてくれたら、企業としてこれほど安心・安全なことはありません。
とりわけ、景気後退局面であれば、なおさら心強いことでしょう。
文化産業が売り出すものを、「予定された」とおりに購入してもらうためには、消費者の受動性を極限まで高める──人々が商品を売る企業の言いなりになる──ことを実現する必要があります。
たとえて言えば、消費者を親の言うことに唯々諾々と従う「子供」にすることが、「予定された世界」──支配者のためにある社会──を実現するのです。
アドルノたちは文化産業が作品の自律性と人々の批判精神を奪うことを問題にしていましたが、
文化産業の支配する社会体制が奪うものは、その程度にとどまりません。
そこでは「自分で考える能力」つまりは「主体的な知性」が排除されるのです。
『啓蒙の弁証法』全体を貫くテーマは、なぜ理性を重視する啓蒙社会が、非知性的な野蛮へと反転するのか、というものでした。
アドルノたちは、理性が野蛮を導く逆説を「弁証法」と呼んでいます。
知性に価値を置くはずの社会で、なぜか知性が排除されていくのです。
この排除に、知的商売であるはずの文化産業が関係しています。
人々が「与えられたもので満足する」ような社会を実現するには、どうしたらいいでしょうか。
ポジティブな実現としては、本当に自分が望むものが「与えられた」場合になるでしょう。
人々の欲望がもれなく満たされる社会であれば良いわけです。
好景気ならば、それもある程度可能でしょう。
しかし、景気後退局面では、ネガティブな実現をめざすしかありません。
ネガティブな実現とは、言うならば無理に満足している顔をする社会です。
それは消費者が「満足する」ように、「与えられたもの」への不満を禁じること、むしろ「与えられたもの」に疑問を抱く懐疑的・否定的な知性の居場所を奪うことで実現します。
それは、しばしば批判的意見の否定として現れます。
「不満ならば買わなければいい」
「不満ならば見なければいい」
「不満を言う奴がなぜ存在しているのか、そんな奴は社会から出ていけ!」
このような言葉を、SNSなどで見かけたことはないでしょうか。
これこそが文化産業が支配する社会が作り出した、「与えられたもので満足しなければならない」人たちの価値観なのです。
本当に満足していれば、他人が何を言おうが不安になるはずがないので、
実際のところは、それで「満足しなければならない」と自分に言い聞かせているのです。
自分に言い聞かせているだけならば、まだいいのですが、
周囲と同調することでしか自分を保てない「個」として未熟な人の場合、
自分以外の人たちにも、「与えられたもの」で満足するように同調圧力をかけてきます。
それで不満を表明する人たちを攻撃するようになるわけです。
批判的知性を排除したがる人が、たいてい偉そうな物言いをするのはなぜでしょうか。
それは、劣化社会では知性的でない方が優位に立てるからです。
権力や体制から「与えられたもの」が将来的に悪い結果を招くものである場合、
将来のことを正しく考える知性や責任感がある人の方が、それを受容することはできません。
しかし、今しか考えない非知性的で無責任な人は、強いものに従うことを優先します。
ポイントは、体制から「与えられたもの」を肯定することは、自分の「環境適応力の高さ」を周囲に示すことになるということです。
つまり、権力や体制の「悪」を受け入れることで、自分が「社会環境への適応力」を持っている「模範的な存在」だと思い込むことができるのです。
社会体制が腐敗し劣化していくにつれて、知性ある人は社会体制を批判するようになるため、
体制支持者は「劣化社会への適応力の高さ」を武器にして、知的な批判者に「社会不適合者」のレッテルを貼って排除しようとします。
政治権力が横暴になり社会体制が劣化してしまうと、知性を持っていないことが有利にはたらいてしまうのです。
そのため、知的に劣る人は劣化社会(もしくは劣化した業界)を肯定することによって、自らの知的劣等感を解消しようと目論みます。
体制批判をしている人は、どれだけ知的に優れていても社会不適合者であり、
体制や業界の擁護をする人は、どれだけ知性が欠けていても社会適応において優位にあるのだ、というルサンチマンがそこにあります。
このようなルサンチマンを支持するのが、体制順応を旨とする文化産業なのです。
前回の【中編②】で確認したことですが、購買者は文化産業が販売する商品を購入することで、自分の欲望に社会的な承認を得た気分になります。
消費行為は「社会になじめない」という疎外感や不安感を、一時的に解消してくれる「アヘン」のような役割を果たすものでした。
消費者は文化産業から「与えられたもの」に満足することで、「自分の欲望が社会に適応している」ことを確認してもいるのです。
さらに、文化産業の新商品を積極的に紹介することは、自分の「社会への適応力」を他人に示すことになります。
「消費による社会承認」が支配的になっていくと、社会が劣化した場面で奇妙な弁証法が成立することになります。
社会の劣化が進むと現実逃避の傾向が強まるわけですが、
当然ながら、文化産業は人々の現実逃避の欲望に応える作品を生み出して、消費を喚起します。
一方、消費者は文化産業が売り出す「非現実的な欲望」を受容することで、自分の「社会への適応力」を確認しようとします。
こうして「非現実的」であることが「社会適応」を保証するという奇妙な逆説が成り立ってしまうのです。
たとえば「ネトウヨ」という存在は、歴史を「非現実的」な方向に修正する言説を支持することで「社会適応」を誇っています。
アドルノたちが「弁証法」を重視するのであれば、理性(現実)と欲望(非現実)の価値を逆転させる消費行為の逆説的メカニズムを、考慮する必要があったのではないでしょうか。
資本主義(と宗教)は、いつだって「非現実的な欲望」を拡大させるものでしかないのですから。
理性と欲望の逆転現象は、経済衰退が本格化する劣化社会で、それでもなお資本主義経済における成功を過剰に追い求めることから生じます。
そのような社会では、文化産業が「文化」であることより「産業」であることを優先させることにためらいがなくなります。
とにかく「売りたい」だけの売り手たちが、大衆の「非現実的な欲望」を肯定し、なんとか自分たちの商品を買ってもらおうと頑張ることで、
現実的な知性による批判を「商売の妨害行為」としか感じなくなっていきます。
(低評価のAmazonレビューを書く人は「基本アホ」とか言ってしまう人などはその典型です)
こうして、現実的知性を持つ批判者は社会不適合者になり、
知的劣等感を持つ凡人が、大衆の「非現実的な欲望」を背景として偉そうな顔をするようになります。
「非現実的な欲望」の集中が生み出すフェイク言説の方が真実より価値を持ち、
内輪集団が欲望しない真実はすべて捏造であり誹謗中傷であるという主張がまかり通る事態が起こるのは、
諸産業が経済衰退の現実からかけ離れた利益を求めたせいなのです。
(SNSが知性を排除するルサンチマンの舞台になったのは、実利を求める企業や公権力が多く参入してからです)
以上は僕の分析でしかありませんので、アドルノの意見を聞いてみましょう。
『啓蒙の弁証法』では、知性の排除が「娯楽の本質」から生じているという主張が展開されています。
しかし商売と切っても切れない関係にあるのは、もともと社会の弁護という性格を持つ娯楽の本質なのだ。浮かれているということは現状を承認していることだ。それはただ、社会の動きの全体に対して目をふさぎ、自己を愚化し、どんなとるに足らない作品でも備えているはずの、それぞれの枠の中で全体を省みるという逃げることのできない要求を、最初から無体にも放棄することによってのみ可能なのだ。楽しみに耽るということは、いずれにせよ、「それについて考えてはならない。苦しみがあっても、それは忘れよう」ということを意味する。無力さがその基礎にある。しかしそれが主張するような悪しき現実からの逃避なのではなく、残されていた最後の抵抗への思想からの逃避なのである。娯楽が約束する解放とは、思想からの解放であり、また否定からの解放なのである。(ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法』徳永恂訳)
ここでは娯楽が「それについて考えてはならない」という思考停止を招き寄せるということ、
「社会の弁護という性格」を持ち、悪しき現実に抵抗する「否定性」を排除するということが語られています。
アドルノたちの主張は、娯楽そのものに「社会の弁護」という本質的な性質がある、という論理で組み立てられていますが、
よく読んでみると、「浮かれている」状態が思考停止を導くのであって、娯楽そのものに原因があるわけではありません。
たしかに娯楽に思考停止を進める面がないとは言えませんが、それは本当に「娯楽の本質」なのでしょうか。
ここでも本質論というスタンスが、正しい理解の妨げになっているように思います。
本質論で言うならば、娯楽の主な効用は「楽しみくつろいだ状態」を作り出すことにあると考えるべきです。
アドルノたちは「浮かれている状態」としていますが、この表現は娯楽を現実から引き離すものとして悪く捉えすぎています。
というのも、娯楽の本質は陶酔的な没入感の手前にある、社会的緊張を解きほぐす面にあるからです。
たとえば宴会の席は「浮かれている状態」と言えるでしょうが、それは社会的緊張を解きほぐした「楽しみくつろいだ状態」を基盤にしていると考えるべきでしょう。
「楽しみくつろいだ状態」は、言い換えればリラックスした状態なので、自然とその状態を持続させていくことを望みます。
これがアドルノたちが言う「楽しみに耽る」状態にあたります。
しかし、リラックスした状態とは、個体生物にとって自然な状態ではないでしょうか。
この状態をそれだけで悪であるかのように考えるのは、少し無理があると思います。
その意味で、娯楽そのものに社会体制を保守し、否定的な抵抗を打ち消す性質があると考えるのは難しいでしょう。
むしろ問題とするべきはバランスです。
社会的な状態に緊張感は必要ですが、そればかりでは苦しくなります。
そのため、個人として社会的緊張から解放されてリラックスした状態を求めるのは自然です。
簡単に言えば、オンとオフです。
人はオンとオフをうまく切り替えて、中庸な状態をめざすべきなのですが、オフの面を拡大し過ぎることによって問題が生じます。
アドルノたちが言う「楽しみに耽る」状態とは、社会的な緊張感をオフにしすぎてバランスを欠いたことによって起こるのです。
緊張を欠いた状態になるだけなら何も悪くはないのですが、
オンとオフの境目が曖昧になって、社会的場面がどんどんと娯楽精神に侵食されてしまうと、社会全体の緊張感が失われていきます。
テレビの報道番組に、テレビ局御用達のアイドルタレントやお笑い芸人が出てくるようになると、もう末期的な状態です。
たとえ公職にある人が悪事を働いても、「まあまあ、うるさく言わなくてもいいじゃないか」とか「まあまあ、いつまでも批判することもないでしょう」とか言って終わりになります。
とりわけ消費社会における娯楽は、高額料金を払うほどに高いサービスが受けられる構造になっているため、
お金持ちほど「楽しみに耽る」権利があることになり、社会的場面に娯楽精神の持ち込みが許されて、社会的緊張が低所得層にばかり強要される事態が起こります。
ここでエンタメの経済構造と、封建的支配体制が癒着するのです。
最もわかりやすい例が政治の世界です。
政治の世界では、世襲支配者とエンタメ(スポーツエンタメを含む)の世界で活躍した人が結びついているではありませんか。
オンとオフのバランスが崩れ、社会的なものがエンタメに侵食される現象は、
文化産業がプロデュースしたエンタメ世界を現実化する「無邪気な欲望」によって駆動されます。
つまり、「無邪気」で「楽しい」ものを拡大する「無害なはずの欲望」が、実は社会の劣化を進めていくのです。
これが文化産業の最大の問題点だと思います。
「楽しみ」を過剰に拡大する「無邪気さ」に、社会の危機を見なければならないのです。
誤解がないように明確化しておきますが、エンタメ世界の無邪気な現実化を問題とするときに、社会に害をなすのは再現的実現であって、観念的実現ではありません。
わかりにくいところですが、重要なので強調しておきます。
たとえば『機動戦士ガンダム』というエンタメ作品の世界を現実化しようと欲望するとき、
そこで描かれたイデオロギーを現実化しようとする態度そのものは悪ではありません。
イデオロギーの現実化は、その過程において社会との葛藤があり、その現実化が必要なものかどうかが改めて問われることになるからです。
問題なのは、単純なエンタメ的要素の再現にあります。
作品内に登場したガンダムの実物大を作ろうとするような態度には、大いに害があるのです。
ある種の美的もしくはエンタメ的対象の現実化(表象化)は、その裏にあるイデオロギーを無化してしまうからです。
(これこそが日本のポストモダン連中が政治的イデオロギーを抑圧するのに美的(アート!)趣味を用いた理由でもあります)
『機動戦士ガンダム』のイデオロギーがどれだけ反資本主義的であろうと、実物大ガンダムやプラモデルを金儲けに利用することは可能なのです。
『ウマ娘プリティダービー』のキャラを「無邪気」にかわいいと思って、その現実化のために実際に競走馬を購入すれば、
それがギャンブルを社会に浸透させる効果をもたらすことになるのは明らかです。
再現的実現はエンタメ化による体制支配や金儲けに貢献するだけですが、観念的実現は社会変革の現実的エネルギーとなりうるものです。
映像文化より活字文化を僕が支持するのは、再現的実現ではなく観念的実現を重視する活字文化こそが、社会の方向を大きく変える力になるものだからです。
しかし、現代社会ではすっかり体制の支配が強くなったために、ポストモダン思想に騙された人々が活字文化を軽視して、社会体制の永続化に貢献する再現的実現に耽溺する結果になりました。
世界を見渡せば、このようなエンタメ世界の再現的実現が重大な災厄をもたらしていることに気づくことができます。
ドナルド・トランプはリアリティ番組の司会者として活躍した人ですし、
ウォロディミル・ゼレンスキーは政治風刺ドラマで大統領を演じて、実際に現実の大統領に成り上がった人です。
日本でも芸能事務所所属の橋下徹が、奇妙なほどに求心力を持っていましたが、このような「画面」の中のエンタメ世界を現実化する(再現する)欲望が、非常に危険であることはもっと指摘されるべきだと思います。
このように、文化産業が支配するエンタメを再現的に全体化する(=スクリーン画面を「預言者」に仕立て上げる)欲望には大いに問題があります。
たしかにエンタメは社会的緊張からの解放を人々にもたらしますが、
社会的な緊張感をオフにすることを最大の目的にしてしまったら、はたして正面から現実問題に取り組む姿勢が生まれるでしょうか。
現代消費社会の娯楽は、システムに身を任せて「楽しみに耽る」テーマパーク型になっているので、
その中の住人には利用料を支払う義務はあっても、システムそのものの運営に責任を持つ態度は生まれません。
当然ながら面倒な問題と知的に向き合う態度は育たず、非知性的に楽しいことを消費するばかりになるはずです。
そのような社会では、世界的イベントを誘致したり、観光客を集めたりと、エンタメによって金を集めることしか思いつきません。
娯楽精神は金があるところ(既得権)から、「誘惑」によって金を引っ張ってくることしかできないのです。
こうなると、社会で既得権を持つものをさらに強くする結果になります。
娯楽が「社会の弁護」をする結果になるのは、オンとオフの適切な切り替えを放棄して、娯楽的なオフの領域をむやみに拡大しすぎることにあるのです。
領域を踏み越えた娯楽精神と保守精神とは結合するものなのです。
どちらの精神も、自分に都合の悪い現実とは向き合わず、楽しいことや都合のいいことだけで社会を覆い尽くしたいと願っています。
彼らは現実問題について考える力を持たず、既存の社会システムに「甘える」ことしかできないマザコン的な人たちです。
この手の人たちは、メディア・ジャーナリズムという「母」が報じる現実問題を、SNS等の個人メディアで再現し、いかにも自分が現実問題について考えているような印象操作をしますが、騙されてはいけません。
彼らには「母」に対する依存心があるだけで、深層心理では現実問題をマジメに考える知性には嫌悪感しか抱いていないのです。
ポストモダン的な「再現」の場ではイデオロギーは形式としてしか存在していないので、右と左の立場には実質的な違いはなく、現実の否定という点で手を結ぶことが可能です。
現実を否定することを目的とした非知性的な人たちは、「数」を恃むしかなく、集団となって非現実的な欲望へと突き進みます。
そのような人たちが社会を牽引するとしたら、ファシズムに陥らずにいられるでしょうか。
計画された偶然に服属する信仰者
横光利一は「純粋小説論」(1935年)で、純文学と通俗小説の両方の性質を合わせ持つ「純粋小説」というものを構想しました。
そこではドストエフスキーの『罪と罰』(1866年)が「純粋小説」の模範とされ、純文学が排除してきた「偶然」と「感傷性」が意図的に取り入れられていることに注意が促されています。
要はこれからの純文学に大衆性を取り入れることの重要性をいち早く主張した論なのですが、
大衆性を実現する要素として横光が「偶然」と「感傷性」を挙げたのは、慧眼でした。
それから10年後に、横光は戦時ファシズム体制に協力した「文壇の戦犯」と非難されるわけですが、
「純粋小説論」が純文学を文化産業に適応させる試みだったと考えれば、ファシズムとの関係性は無視できないものがあります。
横光は「偶然」に大衆性を見たわけですが、
『啓蒙の弁証法』において「偶然」は、大衆の「無力感」を示すものとして語られています。
アドルノたちは、なぜ「偶然」と「無力感」を結びつけたのでしょうか。
「偶然」は神の「奇蹟」と同じく、人間にとって操作不能なものだからです。
人間は主体的に「偶然」を操作できませんが、「偶然」において人間は受動的に操作されます。
その事実から「偶然」には、非対称的で階級的な性格が含まれている、と考えることができます。
つまり、偶然を排除できる主体的存在が上位であるのに対して、操作不能な偶然に身を任せるしかない受動的存在は下位とされてしまうのです。
「操作される」ということは、「主体性を奪われる」ことと同義です。
文化産業にとって計画的なものが、消費者にとって偶然的であるとき、消費者は「主体性を奪われ」た状態にあるわけですが、
そのような受動的状態を消費者が受け入れることで、文化産業を上位、消費者を下位とする階級的支配関係が成立することには注意が必要です。
「奇蹟」を行う神を上位、恩恵を受けるだけの信者を下位と置き換えれば、この階級構造が「救済」のメカニズムに関係することが理解できるのではないでしょうか。
『啓蒙の弁証法』で、「偶然と計画とは同じものになる」と語られる事態は、次のようなものです。
文化産業に躾けられた消費者は、商業メディアを通してスクリーン上に映し出された存在を社会的な承認を受けた「成功者」と見なします。
そのような「鏡像」を受け入れて模倣することが、消費者の社会的な承認欲求を満たすこと(母親に愛されること)になるわけです。
そこで観客はスクリーン上のスペクタクル的存在(これを僕は〈メディア的存在者〉と名づけます)に自分を同一化しようと試みますが、
そうなれる確率がいかに低いかを計算できるくらい「利口になって」いて、「誰でもが幸福になれるわけではない」ことを悟っています。
誰だって基本的にはわかっているのだ。誰かが幸運を掴むのは偶然によるのであり、そういう偶然が計画の反面をなしているということを。社会の諸力が広く合理性へと展開を遂げ、誰でもエンジニアや管理職になれるほどになっているからこそ、かえってそういう機能を果すことのできる素養と信頼を社会が誰に授けるかは、まったく非合理的なものになってしまった。(『啓蒙の弁証法』)
多くの人々に水準以上の能力があり、誰でも幸運にあずかる可能性がある場合、社会から「成功者」として誰が選ばれるかは偶然の産物になっていきます。
いや、いくらなんでも成功が実力抜きの偶然で得られるはずはない。
そう思っている人が多いかもしれませんが、運動能力ならともかく、文化産業においては偶然の度合いが圧倒的に優越しているのです。
たとえば、何かの賞で頻繁に「該当者なし」という結果が見られるならば、そこでは一定の能力が要求されていると言えるでしょうが、
ほぼ確実に受賞者が出て、複数が受賞する場合も珍しくなかったりすると、実際は賞の基準に達する作品は少なくないことが判明します。
簡単に言えば、賞の受賞基準は絶対評価ではなく、相対評価であることが知れ渡ってしまうのです。
「誰かが必ず成功する」ということは、「誰でも成功する可能性がある」わけであり、成功の決め手は「偶然」にあるということになります。
しかし、不思議なことに、「成功者」がいったん選ばれると、一転してその選択は偶然ではなく必然として語られるようになります。
成功するだけの理由や、ヒットするだけの理由が事後的に語られ、「誰にでもチャンスがある」ことを否定していくのです。
文化産業はこのような矛盾に支えられているのですが、これを矛盾と感じることもなく、驚くほど多くの人が騙されているようです。
「あなたにも成功のチャンスがある」と呼びかけておきながら、「成功者」が選ばれた途端に、「チャンスはその人にしかなかった」ことが語られて、選ばれなかった多数は「成功者」のための権威づけに利用されるだけに終わります。
文化産業は多くの人に夢を見させて、犠牲者を自分の産業に権威をつける材料として利用するのです。
2022年に行われたアイドルグループ乃木坂46の5期生オーディションには、8万7852人の応募があり、そこから11人が選ばれたのですが、
複数人で応募できる「みんなで応募」制度が採用されたこともあり、応募総数が拡大して国内のグループアイドルオーディション史上最多を記録しました。
このようなニュースのあり方でもわかる通り、選ばれた11人を輝かせているのはそれぞれの資質でも能力でもなく、踏み台にされた8万7841人という犠牲者の数なのです。
8万7841人の夢が供犠として捧げられることで、11人のデーモンを召喚する魔術を用いているのが文化産業だと言ったら、表現に悪意がありすぎるでしょうか。
スカウトから探し出され、やがてスタジオから大々的に世に売り出されるタレントは、独立性を欠く新中間層の理想型である。女優の卵というイメージがOLたちを象徴するものと言われているが、もちろんそれは、女優には、現実の女の子とは違って、素敵なイヴニングドレスが似合うように見えるからなのだ。だから女性観客を捉えて離さないのは、たんに彼女自身がスクリーンに登場することになるかもしれないという可能性だけではない。もっと身に染みて感じられるのは現実との距離だ。幸運のくじを引き当てるのはたった一人なのであり、一人だけが飛び抜けている。数学的には皆が同じチャンスを持つとしても、じつはめいめいにはそのチャンスはほんのわずかしかなく、せいぜい同じようにそれを掴みそこねて、自分自身と変るところはないはずなのに、けっして自分とは同じではない他人の幸福を楽しむだけなのだ。文化産業は、素朴な同一化へと人を招いておきながら、たちまちそれを公然と否認してのける。(『啓蒙の弁証法』)
文化産業における成功は突き詰めれば「偶然」であり、それがスクリーン上の彼や彼女はもしかしたら自分であるかもしれない、という同一化に誘うわけですが、
実際にその「偶然」が自分に訪れる可能性はあまりに少ない、とアドルノたちは述べます。
あれは自分なのだ、という「素朴な同一化」を抱こうにも、「現実との距離」があまりに大きいために同一化をするのは難しく、結局は「他人の幸福を楽しむ」ことに落ち着きます。
僕が不満に思うのは、アドルノたちがマルクス主義の図式で文化産業批判をしたがるわりに、
まさにその階級的性格がメディア技術の一般化によって成立していることに無関心なところです。
誰でも「成功者」になるチャンスがある、という「偶然の平等性」を得るためには、
〈メディア的存在者〉を売り込む文化産業の支配体制に参加する必要があります。
たとえば、ある雑誌の文学賞に応募することは、その雑誌の影響力の拡大に協力したことを意味します。
文化産業は誰でも社会での「成功者」=「救済された人」になる可能性があるかのように、民主的な「動員の呼びかけ」をするわけですが、
実際に動員されたほとんどの人は落選者であり、文化産業とその「成功者=創作商売人」の供犠になる運命です。
多くの人は文化産業の供犠にされることで、文化産業の支配継続を支えているのです。
(実際、ある文芸誌を毎月購入する人の数より、その雑誌の新人賞に応募する人数の方が多いと言われたりもしますよね)
こうして、文化産業の「創作商売人」になることを待ち望む人は、自分でも意識しないうちに文化産業の信者にされてしまい、メディア技術による階級的支配の一般化に協力する結果になっています。
このような階級的支配は、作品のレベルを低下させる原因になっています。
文化産業のメディア支配が安定化し、誰もが「創作商売人」と購買者の間にある階級的差異を自明だと思うようになると、
上位階級である「創作商売人」の中で、作品や才能の優劣を競うことがなくなるからです。
階級に自足した人たちには成長がないので、最初のヒット作より良い作品が作れない作者が続出します。
(まるで大学入学時が学力のピークで、そこからろくに勉強をしない大学生のようではありませんか)
上位階級の中で競争が失われると、受け手には一定レベル以上の能力は不要になるので、消費者からも高度なリテラシーが失われます。
当然ながら、ガチな作品批評や批判は姿を消し、ただのプロモーションがそれに取って替わることとなり、
今評価されている作品が何かはわかっても、その作品のどこが良いのかがわからない、という事態が起こります。
その結果、評価されているから良い作品であり、売れているから良い作品である、という「内容の死」がもたらされるのです。
あとに残るのは、レベルを上げようとしない作り手と高度なリテラシーを持たない消費者の共犯関係です。
何度も言いますが、文化産業は消費者の欲望を管理する権力です。
具体的には、フーコーが言う「司牧権力」の世俗的な形態だと僕は主張します。
司牧とはキリスト教の司祭や牧師を意味する言葉で、フーコーは近代権力のあり方を司牧による管理統制というキリスト教を基盤とした支配構造として捉えていました。
司牧は家畜を管理する羊飼いのような管理者のイメージなのですが、
僕としては、フーコーの言う司牧は「媒介者=メディア」として把握されるべきだと思っています。
つまり司牧権力とは、神の教えを伝導する「司牧=媒介者」が信徒の内面を含んだあり方をケアし、あるべき方向に誘導していく管理権力なのです。
司牧をメディアだと考えれば、文化産業が司牧権力の役割を担っていることがわかると思います。
文化産業とは教会が信徒を管理するように、消費者を統率し指導する権力なのです。
要するに、文化産業の承認を受けた「成功者=創作商売人」が預言者や司祭という媒介者の役割となって、彼らが信者=消費者の心のありようを管理しているということです。
そうなると、それが司牧権力であるならば、文化産業が牛耳るメディア・ネットワークを「神」のようなものと受け止めなければなりません。
(キリスト教の神も、キリスト教信者のネットワークによって維持されているものです)
キリスト教的な神が「奇蹟」によって己の神性を証明したように、文化産業はメディア・ネットワークによって誰を「救済」するかを決める「偶然」を代行する存在として、自身を消費者の上に君臨させるのです。
マルクスは『資本論』(1867年)で商品の物神的性格を指摘しました。
彼の言うフェティシズムとは、社会的労働に由来する商品の価値を商品自体の性格と思い込んで、資本に神秘的な力を認めてしまうことでした。
しかし、僕はそのようなフェティシズムを、偶然でしかないものを必然と「勘違い」することから起こるものと整理したいと思います。
交換価値は商品そのものの価値ではなく、交換を可能にするためのネットワーク上の価値づけでしかありません。
つまり便宜上に設定されたもので、だからこそ流動的で実体がありません。
物品=商品は交換のために便宜上の価値(偶然)をまとっただけなのですが、その商品自体から動かしようのない価値(必然)が発生していると思い込むことで商品のフェティシズムが生まれます。
恐れずに言ってしまえば、商品そのものに社会的価値を認めることは性的倒錯(もしくは愛)のようなものなのです。
偶然に好きになった恋愛対象を、他の誰もがきっと恋に落ちる魅力的な相手だと思い込むような倒錯(もしくは愛)なのです。
文化産業に売り出された「成功者=創作商売人」という商品も同様の存在でしかありません。
実は偶然に選ばれた人たちでしかないにもかかわらず、彼らには誰もが認める「司牧」としての必然的な価値があったかのように「勘違い」されているだけのことなのです。
だから、文化産業は「成功者=創作商売人」が役に立つ時には誰もが認めるべき才能ある人のように扱うのですが、
いったん役に立たないと見なすやいなや、彼らが「偶然」や「勘違い」に支えられた存在であることを暴露して、自分たちの力がより上位にあることを示そうとします。
偶然を操ることが文化産業による「成功者」の管理方法なのです。
偶然に支えられただけの「成功者」は、実力では自らを支えられないので簡単に葬り去られる存在です。
残酷な神は、預言者や司祭の位置にある「成功者」が神そのものと混同されることを避けるために、
ある程度の時期が来たら彼らを偶然性の海へと突き落とすか、死へと誘うことで、自分たちの楽園から追放します。
そうして「ああ、彼らも人の子であった。誰もがああいう人間になる可能性があったのだ」と人々はつぶやくのです。
『啓蒙の弁証法』の引用文の最後に「文化産業は、素朴な同一化へと人を招いておきながら、たちまちそれを公然と否認してのける」とあったように、
同一化への誘惑とその否認は一定サイクルで循環を繰り返すようになっていて、この循環を通して神の純粋性は保存されることになります。
このような懲罰的な暴露を含めた「偶然」の力を「必然」と取り違えることが神の存在要件なのです。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」というイエス(ダビデ)の言葉が有名ですが、
「わが神」に聞かずとも、神がイエスを見捨てた必然的な理由など、本当は存在しないことが今や明らかなのではないでしょうか。
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