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アニメ【推しの子】にハマってみた

「推し=母親」の二重性

今回は2023年4月〜6月期に放映されたアニメ『【推しの子】』(第一期)を取り上げて、「今」という時代を考えたいと思います。
この作品がヒットしたことは感覚でわかります。
僕は毎週楽しみました。
アニメ最終話以降の展開が気になるので、赤坂アカ・横槍メンゴの原作漫画を読みたい気持ちもあるのですが、
僕は純粋にアニメ作品として味わうことに決めました。
(無料で楽しめるから、という面も大きいですが)
なので、この記事のネタバレ情報は、ほぼアニメ化したところまでの内容です。


この作品の設定には、「今っぽい」仕掛けが数多くなされています。
物語の主人公は星野アクア(愛久愛海)と星野ルビー(瑠美衣)の双子です。
二人は芸能学校の学生ですが、養母が経営する芸能事務所に所属する俳優とアイドルです。
二人には出生の秘密があります。
アクアとルビーは、「B小町」というアイドルグループのカリスマセンターだった星野アイ(16歳?)が、極秘出産して産んだ子供たちなのです。
「今っぽい」仕掛けというのは、アクアとルビーの双子が、それぞれ前世の記憶を持つ「転生者」だということです。
ただ、流行りの異世界転生ではなく、現世で転生してしまうのです。


アクアの前世は、アイの担当医だった産婦人科医のゴローで、彼はアイを推しているオタクでした。
ただ、ゴローはアイが出産するまさにその時に、アイのストーカーに殺害されてしまいます。
そして、気づくと「推し」であったアイの息子へと転生していたのです。
双子の妹ルビーの前世は、そのゴローの患者で長く病院生活を余儀なくされていた天童寺さりなです。
彼女には闘病生活の希望として、アイを推していた過去がありました。
しかし、さりなは12歳で亡くなっていました。


ストーリーに関しては、おそらく解説しているサイトがあるでしょうから、興味のある方はそちらを見ていただくといいでしょう。
アイは双子の母親である事実を世間に隠して、アイドル活動を続けていき、人気絶頂の中でストーカーに刺殺されてしまいます。
アニメでは、ここまでが90分という長尺の第1話になっていました。


第2話以降は、高校生に成長したアクアとルビーが、芸能界を志していく展開になっていきますが、
転生者アクアは、身体は幼児でも頭脳は大人、の名探偵コナン状態なので、
当時の状況から、母親を刺殺したストーカーに住所などの情報を与えた黒幕が、自分の父親だと推理します。
そのため、幼少期以後の人生を復讐へと捧げていくのです。
アクアは父親探しのために、芸能界へと足を踏み入れるようになります。


このような説明だけでも、この作品のプロットが破天荒でダークだということは理解できると思います。
転生モノは「人生のやり直しで、良い夢を見る」ケースがほとんどで、転生後にダークな人生をやり直すパターンは多くありません。
また、物語の序盤でかけがえのない人の死と直面した場合、悲劇を避けるために、過去へとタイムリープする方がありがちです。
【推しの子】では、転生やタイムリープという「奇蹟」によって、ネガティブな現実から逃れるのではなく、
主人公たちが転生後も「現実世界」を生きることで、「成長」のやり直しをしていくのです。
「今」を舞台とした成長物語という面が、多くの人々の心をつかんだのではないでしょうか。
(転生という設定で、若くない世代もアクアに感情移入しやすくなっているのは、非常に巧みだと思います)
これが売れるのはよくわかります。


では、【推しの子】の「今っぽさ」は、どこにあるのでしょうか。
作品の中心に「母性幻想」があることは、無関係ではないでしょう。
推しているアイドルの子供に転生する、ということは、好きなアイドルに母親幻想を持つことを「公認」されたも同然です。
今の時代、男性が好きな女性に母親の幻想を押しつけると、ある方面から痛烈な攻撃にさらされるところですが、
転生という「チートな設定」によって、アクアは「推し」のアイドルを母親と同一化することが可能になっています。
アニメの第7話で、理想の女性を聞かれたアクアが、平気で母親そのものを答えるシーンがあるのですが、
転生という「フィルター」がなければ、超絶痛いマザコン野郎でしかありません。
アクアとルビーは、幼少期に目の前で母親を殺されるというトラウマを抱えています。
アイは小さい頃に母親が逮捕されて施設で育っていますし、産婦人科医ゴローは自分の出産時に母を亡くしているようです。
設定の時点で、主要キャラクターが母親や母性を希求する展開になることは明確だと思います。


僕はオタク文化の子宮回帰願望やマザコン状態を、アメリカ依存精神の現れとして批判してきましたが、
非常に逆説的に思えるのは、高度経済成長以後の日本は、むしろ母子の結びつきが強い社会構造であったということです。
父親が長く会社で勤務していたために、家庭における存在感が薄れていき、
家庭では母と子供がベッタリと一体化するようになっていきました。
つまり、現代は子供と母親の関係が、他の時代より密接なのです。
母子関係が密接な時代に、早くに母親を亡くしたキャラへの共感が高まるのは、一見不思議に思えるかもしれませんが、むしろ必然だと僕は考えています。
日常的に母子一体化を経験してきた子供たちは、母性的愛情に満ちた環境が当たり前になっているので、
少し母性から遠ざかるだけで、不安や恐怖を強く感じてしまうはずだからです。
そういう人たちが、幼いときに母を亡くし、母の面影を狂おしく求めるキャラに難なく共感できるのは、別に不思議なことではありません。


主要女性キャラの有馬かなや黒川あかねも、内面独白で母親との関係を口にすることが目立ちました。
母親という存在が、この作品では重要な鍵となっているのです。
母親が芸能人で、養母も芸能事務所の社長だったり、子役時代から芸能界に身を置いたりしている主要キャラにとって、芸能界は普通に自分の育って﹅﹅﹅きた﹅﹅世界﹅﹅でしかありません。
「この芸能界せかいにおいて嘘は武器だ」というのが、このアニメのキャッチフレーズですが、
「芸能界=自分の育った世界」となる人だけを集めた作品であれば、そのフレーズの意味は、「自分が生きる上で嘘は武器だ」と置き換えられるのは言うまでもありません。
しかし、嘘を肯定するようなキャッチフレーズとは裏腹に、
アクアとルビーの存在は、アイの嘘によって世間から隠されてきました。
結局、隠された真実に逆上したストーカーに、アイは殺されてしまったので、
実は母親のついた嘘こそが、アクアと母親を引き裂いた真の原因だと言えるのです。
母親のアイは芸能人であるかぎり、嘘をついていく必要があるので、自分の愛する双子たちにも「愛してる」とは言えませんでした。
刺されて死んでいく時に初めて子供たちに「愛してる」と言えたのは、もはや彼女が「芸能界」で生きていく存在ではなくなったからではないでしょうか。


実は【推しの子】は、死に際のアイが「母性愛」という「真実」を手に入れたことで、哀しくも切ない物語を早々と完結させてしまった感があります。
しかし、物語はそれで終わるどころか、そこから始まります。
不幸なアクアとルビーは、母親の面影を追いかけて「フェイク」の世界へと足を踏み入れていきます。
【推しの子】という物語の本質は、完結したあとも続いていくエクストラステージにあるのかもしれません。
(子役として芸能人生を一度終えてしまった有馬かなが、アクアとルビーの最も近くにいるキャラなのはそのためでしょうか)
アクアのように、母親が亡くなってしまったのに、母親に囚われ続けて復讐の人生を歩むのは、本来なら人生の損失です。
しかし、アクアは一度ゴローとして死んだ身なので、エクストラステージである転生後の人生を復讐で棒に振っても、そこまでの損害はありません。
そういう意味で、この作品は視聴者に優しい「嘘」で守られている、と考えることもできます。


「推し」と「母性」との関係

【推しの子】がヒットしている理由の一つは、母性的な愛を求める心情を、芸能界での成り上がりストーリーと重ねたことです。
簡単に言えば、「母性の希求」と「商売」との関係を正面から取り上げたことが、傑出しているのです。
(残念ながら、文芸誌あたりでJブンガクをやっている連中には、こういうセンスでサブカルに勝てる人材はいません。
平野啓一郎だと、死んだ母親をVR(ヴァーチャル・リアリティ)で甦らせる程度のアイデアしか思いつきません)


【推しの子】は「母性の希求」をテーマとしていますが、これを直接的に描かなかったことは、成功の一因だと思います。
転生という設定によって「マザコン」をアイロニカルに描いたことが、
「イタい欲望」をオタクに自覚なく受け入れさせることができた要因です。
要は「母と子の話」として、直接「マザコン」を描いてしまうのは、抵抗を呼び起こすのでNGだということです。
(その意味で、有馬や黒川のような女性キャラにだけ、直接的に母親への思いを語らせるあたり、原作者は男性なのだろうと思わせます)
なぜ直接描いてはいけないのかと言うと、オタク世代のマザコンは、母子一体化を進めた社会によって、無意﹅﹅識の﹅﹅領域で成立しているものだからです。


80年代以後の母子一体化の強化は、父親の多くが「会社人間」であった日本社会の構造によって、社会レベルで進んでいった現象です。
「ビジネスマン」が「24時間戦えますか?」と、仕事に全エネルギーの集中を求められる中、
家庭や子育ては専業主婦に代表される女性の仕事と認識されていました。
こうして、父親を会社に取られた母と子は、母性しか存在しない家庭で一体化を強めていったのです。


つまり、逸脱したマザコン野郎が増えているわけではありません。
社会的環境が、子供のマザコン化を導いたのです。
問題は個人ではなく社会環境にあるので、それを個人のマザコン傾向として指摘しても自覚できる人は多くないでしょう。
そのため、直接的にマザコンを描くと、反発と否認が起こるだけに終わります。
重要なのは、現代社会が「母性幻想」に取り憑かれている、という認識です。
(本当に母を亡くしたわけでもないのに、母を亡くしたかのように母性を希求するので「幻想」と呼んでいます)
オタク世代の「母性幻想」は、とりわけバブル以後にアメリカを母として依存を強める「日米一体化」の欲望と深く関係しています。
その点で、「母性幻想」は無意識かつ集団的・社会的なものとして描かれなければ、リアルなものにはなりません。


そこで「推し」というものがクローズアップされるわけです。
個人的な性欲を、消費市場で集団的に解消する「萌え」が登場し、
それが「推し」という「投資活動」を生み出したことについては、僕は以前「「推し」の構造」という記事で説明を試みたことがあります。
簡単に言うと、「推し」とは特定の「趣味的共同体」への所属を前提とし、そのメンバーの中から「投資」の対象を選択する行為です。
「推し」は、好みの対象に、金銭のみならず愛情や時間を惜しみ﹅﹅﹅なく﹅﹅投資﹅﹅する﹅﹅行為です。
好みの趣味的共同体の中から、好みの対象を選ぶことが、国民の資産を貯蓄から投資へと振り向けていく社会の流れとパラレルに進んでいる点には、注意が必要です。
貯蓄から投資へ、という流れは、アメリカ的な金融市場の実現を意図したものです。
「推し」も原則的には一人を選ぶことであるという点で、「唯一神への帰依」のパロディ化になっています。
「推し」の背景に「唯一神への帰依」があるのは、アメリカを中心としたキリスト教文化の影響を感じます。
(唯一神の唯一性が厳密でない点や、偶像崇拝を許容するあたりは、キリスト教のぬるさがモデルになっていると推測できます)


簡単に言えば、「母親に自分だけを見てほしい」という欲望は、「他者の関心アテンション」の獲得が、投資資金の獲得に重なる経済的主体の欲望へと置き換えられるということです。
アイドルというのは、「他者の視線アテンション」が、純粋に「商売」の売上に直結する職業です。
「ファンからのアフェクション」の量が、自分を見守る母性愛の強さに相当するならば、
アイドルがファンから多くの支持を獲得することは、揺るぎない母の愛を手に入れることと似ているのではないでしょうか。
こうしてアイドルという商売は、母性的な愛を求めることが、そのまま商売の成功へと直接的に接続する舞台になるのです。
アイドルが未成年であれば、その傾向はなおさら強まるはずです。


【推しの子】ではSNS上での炎上問題が扱われていましたが、
SNS的主体とアイドルが共に「関心のアテンション経済エコノミー」において成立していることが、よく現れているエピソードでした。
SNS的主体にとって、アイドルは自らの上位モデルにあたります。
その意味で、「B小町」に人気YouTuberのMEMちょが加わる展開も自然です。
(韓国アイドルグループNewJeansの「Attention」は、巧妙に自己言及を盛り込んだ曲にも思えます)


ジョン・レノンの母性希求

「母性の希求」は、サブカルチャーにとって重要な要素だと思います。
もしかしたら、本質的な要素かもしれません。
ひとつ、歴史的な有名人の例を出しましょう。
サブカルチャーの世界的カリスマと言えば、「ビートルズ」の中心人物だったジョン・レノンの名前が必ず上がるはずです。
そのジョン・レノンを語る上で欠かせないものが、「母性の希求」です。
ビートルズ脱退後のジョンのソロアルバム「Plastic Ono Band(邦題:ジョンの魂)」(1970年)は、それが芸術的レベルにまで高められた傑作だと僕は疑いません。


ドイツ軍の空襲の不安の中にあったリヴァプールで誕生したジョンは、幼少時に父が航海中で不在で、母は他の男と同棲していたため、母の姉に育てられました。
一時的に母がジョンを連れ戻したことがあったようなのですが、結局は伯母の家で暮らしていました。
その母親は、ジョンが18歳の時に交通事故で死んでいます。
彼の相棒であるポール・マッカートニーも14歳で母親を亡くしています。
ビートルズのツートップは、この世にいない母を慕う心を強く持っていたのです。


「プラスティック・オノ・バンド」は、「マザコン的母性希求」を原動力とした「私小説性」の高いアルバムです。
除夜の鐘の音から始まる最初の曲は、そのもの「Mother」という曲です。
「母さん、行かないで。父さん、家に帰ってきて」というフレーズが哀切にシャウトされ続けます。
(この曲を日常的に聴くのはキツいので、若い頃の僕はこのアルバムをジョンの命日にだけ聴いてました)
「Look At Me」という「他者からの関心アテンション」を自我へとダイレクトに接続した歌もあります。
(有馬かなは心中で「誰か私を見て」と十数年叫び続けてきた子でしたね)
そして最後は「My Mummy’s Dead」という私的な弾き語り曲で終わります。


ジョン・レノンはこのアルバムでカリスマ的人気を確立したわけではありませんが、
彼のこのような面が「アイドル」としての資質に貢献したと僕は考えています。
一応指摘しておきたいのは、ジョンがこのようなアルバムを作れるようになったのは、オノ・ヨーコという新たな母と出会ったからでした。
サブカルチャーにおける「アイドル」は、「母性希求」のエネルギーが集中するところに成立する面があるのではないでしょうか。


欲望を隠すことに憧れるオタク男子、欲望を出すことに憧れる陰キャ女子

【推しの子】のアクアは、「推し」で母親でもあるアイの死の真相に執着するうちに、芸能人として着実に出世していきます。
母親に執着するうちに社会的に成功していくのは、だいぶ都合のいい展開にも思えますが、
「他者の関心アテンション」を獲得することが「売れる」ことに直結する芸能人であれば、リアリティが感じられるような気がするから不思議です。
実は欲望を丸出しにすることなく、社会的成功を収めるということは、マザコン的な欲望にかなっています。
なぜなら、自分が泣き出すだけで、自分の欲望を察知してかなえてくれるのが、母親だからです。
あくまで一般論ですが、母親とは、言語化して伝えなくても、向こうから勝手に察知して世話を焼いてくれる存在だと思われているところがあると思います。


このようなマザコン的欲望に囚われている男子は、自分の欲望をハッキリ言語化することを嫌います。
言語化してかなえてもらうのでは普通すぎて、そこに自分への特別な「母性愛」はないからです。
つまり、「母性的な愛情」を希求すればするほど、自分の欲望を明確に言語化(意味化)することに、価値がなくなるのです。
アクアというキャラは、自分の欲望を他の人に話すことはありませんし、芸能界での出世を明確に望んでいるふうでもないのに、着実に成功への階段を登っています。
あげく、美形なのに周囲の女性キャラの世話を焼く「母性的な気遣い」をスマートにやってのけるので、モテモテです。
僕は個人的にアクア推しですが、このようなラノベ的な主人公のルーツがどこにあるかはハッキリしています。
村上春樹の小説の主人公です。


『羊をめぐる冒険』(1982年)から、村上春樹の描く主人公はある種のパターンを踏襲するようになりました。
主人公が自分の欲望を言語化しなくても、女性キャラがそれを代弁してくれたり、やってくれたりする作品世界になっているのです。
とりわけ特徴的なのは、男性主人公と同等かその上に位置する男性ライバルが、作品上から巧妙に排除されている、ということです。
村上春樹の世界は、男性にとって、母親の愛を求める同性の競争相手が存在しない世界です。
何もしなくてもアメリカが日本を守ってくれるという「母性幻想」を維持するために、このような世界が必要とされるのです。
80年代以後のオタク男子は、このような「母性幻想=アメリカ幻想」によって「何もしない」ように自己を「去勢」してきました。
(このようなメンタルだと、日本同様にアメリカに守られている韓国を、自分と同等の兄弟として扱うことに、強い嫌悪を抱くはずです)


自分の欲望を出すことを避けたり、それを隠すために言い訳を繰り出したりするのが、消費文化に依存するオタク男子的なあり方です。
自分が言わなくても、「お母さん的なもの」が勝手に世話をしてくれるのを、彼らはいつまでも待っているのです。
その「お母さん的なもの」は、消費的マスメディアによるコンテンツ(=母乳)を提供してくれるエンタメ企業だったり、エンタメ業界だったりします。
【推しの子】の作品世界は、まさにそのようなエンタメ業界を舞台にしているのです。


このような「去勢」されたオタク男子と「ペア」になる存在が、内向的な自分を克服して自分の欲望に忠実になろうとする女子です。
オタク男子は自分が隠している思いを、代わりにやってくれる母親を求めているので、
内向的な「陰キャ」でありながら、自分の「夢=欲望」へと無理﹅﹅をして﹅﹅﹅向かっていく女子に心惹かれることになります。
この「無理をして」というところがポイントです。
ハナから健康的に夢へと爆進する女子だと、オタク男子は劣等感を抱いてしまい、求める母性へと接続しなくなってしまうからです。


アニメ第11話で、ルビーのアイドルグループ「B小町」が、映えある初ステージに立ちましたが、
メインキャラのルビーそっちのけで、有馬かなのネガティブな内面ばかりに焦点が当たっていたのも、そういう事情があると思いました。
ルビーはどうにも健康的な「陽キャ」すぎるんですよね。


ということで、自分の欲望を隠したいマザコン男子と、無理をして自分の欲望を生きようとする陰キャ女子というコンビができあがります。
どちらも、「他人の母性的な関心アテンション」を獲得することを求めている点では同じです。
陰キャ女子は「無理をして」いるので、とりわけ自分ががんばっていることを認められたいと思っています。
それに気づいて、慈愛の母のように見守って応援してくれる人を、求めるようになるはずです。
このような女子がアイドルになって、「他人の関心アテンション」を求めるために奮闘するのは非常に自然です。


母を殺したダークな世界

【推しの子】では、母を死に至らしめた父親への復讐というダークな欲望が、物語を駆動する原動力になっているのですが、
ここにも「今っぽさ」が現れています。
物語の舞台に芸能界を選んでいるのも、「大人の社会はダークで汚いもの」という世界観をリアルに描きやすいからでしょう。
この「社会のダークさ」が、「母性幻想」を社会レベルで引き起こしている要因です。
「母性幻想」が高まるためには、「世界はダークで汚いもの」だという了解が必要なのです。
そこには、世界や社会に対するニヒリズムがあるわけですが、社会レベルでこの絶望感が「今」まさに強まっていると感じます。


その理由は、日本社会の変化にあります。
日本では、「お上に任せる」という言葉で、いまだに民主政治が語られます。
国や為政者は我々の面倒を見てくれるはずなので、お任せしよう、という発想です。
つまり、日本国民は、政治や社会に「父母のような面倒見」を期待しがちなのです。
それが、統治者の方から自分たちに関心を注いでくれる、という幻想を育てます。
戦時中に国民は「天皇の赤子」と言われましたが、国民が国家元首に「父母」をイメージする点で、
近代国家日本はシステマティックなものではなく、親という人格的な存在として受け取られていたことがわかります。
実際、ある程度そのような実態は存在していました。
戦後になっても、日本には家族主義的な経営体制があり、会社が社員の面倒を見るという「倫理」があったのです。
「面倒見」とは、母性的な眼差しのことなので、それは統治者や経営者の「母性」を示していたと考えていいと思います。
それを制度化したものの代表が、「終身雇用制度」です。
「終身雇用制度」は、一度会社に入りさえすれば、一生面倒を見てくれるという「母性的な制度」だと言えます。
(日本では、学校なども入学さえすれば、よほどでなければ卒業させてくれますね)


小泉政権以後に、市場原理を推し進める新自由主義的な政策を取り入れていくに従って、
「終身雇用制度」が適用されない非正規雇用の比率が増えていきました。
雇用の流動化が進むと、「母性的な制度」の世話になれる人は当然ながら激減します。
さらに、露骨な世代間格差が若者を苦しめている現実が加わります。
若い世代ほど、社会保障制度を含めた国家による「母性的な保障」が手薄になり、
これまでの世代よりも、政治的に「母の愛情」が不足した状態に置かれているのが現実です。
つまり、「父母の役割」であった国家が、「母」の面をどんどんと削ぎ落としていったのです。


このような日本社会の現在を、金儲けを至上のものとする国家(父性)によって、「母性」が殺された状態とイメージしてみたらどうでしょうか。
若い人を中心に、この社会に「父に母を殺されたダークな復讐心」を抱いても不思議はないという気がします。
母性を奪った父親への復讐を志すアクアの物語がヒットした背景には、若い世代の「国家や社会が進む方向への反発」があるのではないでしょうか。
荒唐無稽な設定で生まれたアクアというキャラに、どこか他人事でない共感を抱けるとしたら、
そこに「今」を生きる等身大の若者の姿を見つけられるからだと僕は思います。


以上、【推しの子】から「今」という時代を考えてみました。
エクストラステージは人気があるかぎり追加されるので、先のストーリーが大荒れになる予感はしますが、
ここまでだいぶ楽しませてもらったので、僕はもう満足しています。
もちろん、第二期にも期待をしています。
首を長くして、アニメ制作を待っているつもりです。


2 Comment

往来市井人さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、コメントをありがとうございます。

僕は基本的にサブカルに対して否定的なことばかり書いているので、この記事にコメントが来ると思っていませんでした(笑)
ポジティブに作品紹介をしたつもりはなかったのですが、他の方からの感想を知ることができたのは嬉しいですね。

【推しの子】は普通に見て、母性希求という感じはしないんですよ。
「わからないようにやっている」という点に、僕の執筆動機があったのです。
「わからないようにやる」のが、母性的に世話を焼くやり方であり、母性的な権力の手口です。
「わからないようにやっている」からこそ、その母性希求の根は深いのではないでしょうか。
僕はそれをあえて「わかるように」書いておきたかったのです。

往来市井人さんが指摘してくれたように、【推しの子】にも「大人になりたくない」という、
前回取り上げたポップ短歌と同様の、責任逃避的な欲望があります。
この欲望が、バブル崩壊以後の「時間を進めたくない(時間が30年失われている)」日本社会で肯定され続けているわけです。

さらに言えば、この先の日本社会は、時間が進まないどころか、「時間を戻す」欲望へと突き進むと思います。
この現象は、すべて母性希求(母子一体化)の欲望に還元できます。
子宮回帰の欲望とは、時間を戻すことで実現されるからです。
日本の統治者とその支持者たちは、無意識のうちに、敗戦直後のアメリカ進駐軍に支配された占領下の日本をめざしているのです。
なぜなら、アメリカとの一体化こそが、アメリカによって生み出された「戦後日本」の子宮回帰だからです。
彼らはこの欲望の実現を「わからないようにやる」ことをめざしていくことでしょう。
アメリカ軍事産業に貢献するだけの防衛費の増額が、国民がわからないうちに決まっていたのは、そういうことなのです。

この問題については、次の記事で抵抗策を取り上げる予定です。
良かったら、次回の記事もお読みください。

とても興味を持ちました

今回の記事を拝読し、「推しの子」という作品にとても興味を持ち、まず、第四話まで視聴しました。

作品を視聴する前に、母親の復讐を胸に、芸能界で成功を続けていく星野愛久愛海(以降アクア)の紹介から、また安直にもガンダムのシャア・アズナブルを思い浮かべてしまいました。

しかし、母の喪失から、自身の能力を俯瞰的に確かめながら、成長するアクアの姿には心打たれたました。
(転生という設定と推し活という擬似主体性でそう見えるのかも知れませんが。)

上記の邪推が意味を持つほどに、この作品には過去と未来を「今」に繋ぐ転生、距離の近さと共同体の関係を同一視する疑似家族、表題である「推し活」に代表される共同体を前提とした選択的主体性の要素が、適度にずっこけるポップな作風で包装されています。

これらの要素が「母性希求」の一部なのか、それとも、「母性希求」によって包装されているかは
今の自分にはわかりませんが、紹介の通り、無意識的な欲望が主体的な嘘によって叶えられることを作品の序盤の内容からもよく感じ取ることができました。

ただ、謎からより遠ざけるためとはいえ、星野アイの死後、事務所の社長が失踪し、シングル擬似家庭になったり、未成年を強調するためとはいえ、二十歳の誕生日に死を迎えるという、若さに取り憑かれた悪趣味には抵抗を感じました。

それでもキャラクターと周縁の芸能界を丁寧に描く展開はとても面白く、時間の余裕がある時は是非、視聴を続けていきたいと思いました。

とても面白い紹介を執筆してくださり、
ありがとうございました。

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