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『透明社会』(花伝社)ビョンチョル・ハン 著/守 博紀 訳【前編】

透明性を要求する社会

前回に続きドイツ現代思想のビョンチョル・ハンを読んでいきます。
ハンの『疲労社会』(2010年)のテーマは、「同質なものが多すぎる」こと、つまり「肯定性の過剰」でした。
『透明社会』(2012年)でも同じく「肯定性の過剰」を問題にしているので、『疲労社会』の続編と考えて良いでしょう。


21世紀の社会では、グローバル産業社会の要請によって異質性や他者性が減退しています。
市場取引の拡大には商売における同一基準が必要になるので、異質性が差異へと切り下げられた同質的な社会が求められます。
社会が同質性を前提とするようになると、否定的要素を消し去るメカニズムが発達して、肯定性ばかりがあふれるようになりました。
それが「肯定性の過剰」です。
肯定性があふれると同質なものが多すぎる状態となり、他との差異を明らかにするために自分の能力を自発的に示すことが必要になります。
誰もが「できる」という肯定性を示すプレッシャーに苦しめられるのです。
つまり、現代社会において問題とすべきなのは、もはや否定性や他者性ではなく、肯定性による精神的な暴力プレッシャーだということです。


ハンは『疲労社会』で、このような「肯定性の過剰」による精神疾患を問題にしましたが、
『透明社会』では「肯定性の過剰」が、否定的なものを排除する「透明性」への要求として現れることについて思索しています。


この透明性への要求は、政治や経済の領域に限らないパラダイム転換に由来する。否定性を含んだ社会はこんにちでは消え去り、肯定性のために否定性がつぎからつぎへと撤去されていく社会に取って代わられている。こうして、透明社会はまず肯定社会として姿を現す。
(ビョンチョル・ハン『透明社会』守博紀訳)

ハンの言う透明性とはどういうものでしょうか。
まず、それが社会権力の側からの圧力であるということが重要です。
市民が権力に対して情報公開を要求するようなものではないのです。
重要なのは、透明性とは否定性を解体することによってもたらされる、という認識です。
『疲労社会』では、「肯定性の過剰」が単なるパラダイムシフトとして語られていたのですが、
『透明社会』においては、肯定性が過剰にあふれる社会状況が、否定性を解体する社会システム(=透明社会)によってもたらされていることが、明確に語られるようになっています。
つまり、透明性の要求は、否定性の排除=肯定性の過剰を実現する社会システムの一部になっているのです。
(社会システムの一部だということを強調する意味で、ハンは透明社会ヽヽという呼び方をしています)


『疲労社会』では、能力顕示や過剰肯定が、産業の生産性の拡大から起こるとされていますが、
透明性に関して言うなら、市場取引の拡大と迅速化に原因を求めた方がいいでしょう。
ハンは透明性への要求が、「資本とコミュニケーションと情報のなめらかな流れ」に、事物を無抵抗に組み入れることから起こると考えています。
物事を定められた手順通りになめらかに進めたり、たやすく計算し操作し管理することを求めると、
抵抗らしい抵抗を感じずに物事が進むので、余計な行為や時間が意識されず透明のように感じます。
よく言われる話ですが、ネットで商品購入をしてもらう時に、確認のクリック作業が少ないほど、購入へと至る機会が増します。
要するに、買おうと思っている人に思い直す機会を多く与えない方が、なめらかに購入をすましてもらえるのです。
買うのをやめようか、と思いとどまることが、すでにして否定性なのです。
それを排除することが、市場取引の迅速化や拡大に貢献することは当然です。
もちろん、否定的なAmazonレビューなどは、購入者の利益にはなっても売り手の利益を阻害する要因でしかないので、
企業側の立場からすれば排除されるべきものでしかありません。
注意してほしいのは、透明性はあくまで肯定性のために要求されているのであって、否定的なものを透明に流通させるものではないということです。


透明性はあらゆる社会的事象をとらえて深刻な変化にさらすシステムそのものに内在する強制である。社会のシステムはこんにち、そのシステムのなかで遂行されるあらゆるプロセスを定められた手順にのっとって加速させるために、そうしたプロセスを透明性の強制にさらす。加速せよという圧力は否定性の解体を伴う。
(ハン『透明社会』)

『疲労社会』の時にも指摘しましたが、ハンの問題意識はヴィリリオ的な速度体制と関連させて理解した方がいいと思います。
おそらく、このような透明社会のメカニズムが世界一浸透しているのが日本なのではないでしょうか。
「決まったプロセスを抵抗なく手順通りに進める」という欲望が、(コジェーヴの言う)日本的な「形式主義」の発達を導くからです。
イメージすべきは日本の鉄道文化です。
日本ほど、鉄道がダイヤ通りに正確に運行されることに固執している国はないでしょう。
何も異質なものが入り込むことなく、ダイヤ通りに透明に運行されることが鉄道の理想です。
最近ではスマホを見ながらホームを歩いて転落する人が増えたため、ホームドアを設置する駅が増えましたが、
乗客の安全管理とダイヤの透明な運行が結びついていることにも注意が必要です。
これはハンの問題意識ではありませんが、透明性の要求は安全性の要求と不可分に現れます。
それについても僕はできるかぎり補足しておきたいと思っています。


もうちょっとマクロ的な経済の話をしましょう。
これはハンではなく僕の考えですが、透明社会とは本質的な経済成長が見込めない経済状況で、
成長から果実を得るのではなく、素早い投資マネーの回収をめざす保守的な株主メンタルが招いた社会形態だと思います。
投資マネーの計画的で素早い回収のためには、否定的な不確定要素は邪魔になるだけです。
製品を市場に出す前から、どのくらいのプロモーションを行なって、どのくらいの売り上げを回収するかというマーケティング計画が制作され、その通りに製品が売り上げられることが求められています。
新たなニーズを掘り起こすような商売は別ですが、市場で顧客拡大が見込めない売り上げ維持のフェイズにある場合は、事前の見込み通りに事が運ぶことが「成功」になるわけです。
つまり、事前の見込みと事後的な結果が「同じもの」であるという同質性こそが理想となるのです。
グローバリズムによって領域的な市場拡大が限界に達したので、市場は時間的な拡大(=資本増殖プロセスの加速)へとシフトしました。
それが透明性が強く求められる原因だと、僕は考えます。
(当然ながら、このような資本主義では、未来の富が迅速に「前借り」されて奪われていくことになります)


「同じもの」があふれる社会では、異質性や「他なるもの」につまづく時間がかからないので、仕事やコミュニケーションが円滑に進みます。
偶然のアクシデントや擾乱もなく、頭の中で予定された「都合」通りに進むことを「透明」と見なして、価値とするのです。
時間がかかる余計な要因はとにかく悪なのです。
そのため、企業は最近になって社員の育成をする時間さえ惜しむようになりました。
だからといって、アメリカのような能力採用には強いアレルギーがあるので、新卒一括採用という戦後社会の横並び構造を変える気はありません。
そこで、企業戦士の育成を大学に肩代わりをさせるようになっています。
もはや大学で学問などをしている時間はないのです。
いや、笑えますよね。
多少乱暴な言い方をすれば、今の大学に昔ながらの学問的研究者など一握りいれば十分なのです。
残された研究者は、自分の趣味的学問がいかに実社会で役に立つかを、一般向け出版物などの「売り上げ」によって証明することしかやることはありません。
こうして著作で金儲けをするだけの学者が、何やら社会で役立つ学者であるかのようになったのですが、
学のない一般人の評価で価値が証明される学問とは、ブラックジョークみたいではありませんか。
いや、笑いましょうよ。


透明社会という全体主義

実は『疲労社会』について書いている時から、僕は「肯定性の過剰」とは極めて全体主義的な現象なのではないかと思っていました。
権力のやることを否定することが禁じられ、ひたすら肯定性によってそれに応えるだけの社会は、どう考えても全体主義社会でしかないからです。
『透明社会』を読んでみると、ハンは透明社会が全体主義だと明確に書いています。
とても重要な指摘です。


透明性は、他なるものや異なるものを排除することによって、システムを安定させ加速させる。このシステムそのものに内在する強制ゆえに、透明社会は、同じものでグライヒ画一化シャルテンされた社会になる。この点に、透明社会の全体主義的な特徴がある。「強制的同一化グライヒシャルトゥングを言い表す新しい言葉──透明」。
(ハン『透明社会』)

同質なものが多すぎるのは、同質性が「強制」されているからであり、それがシステムに内在化された社会は、全体主義的だと言えるのです。
透明性とは「強制的同一化グライヒシャルトゥング」なのです。
広い同質性の中にお行儀良く収まる差異性を、異質性であるかのように喧伝して、真の異質性は官僚的システムの中でしっかり排除します。
そうして資本の犬でしかない人が、自分こそ資本主義と戦う異端児だと嘯くだけの浅はかな世界が生まれるのです。
そのような「強制的同一化グライヒシャルトゥング」が行き届いた社会で求められるのが透明性なのです。


透明性とは、物事を否定的に見たり妨げたりする要素がすっかり排除されている状態です。
そのため「肯定性の過剰」と強く結びついています。
物事を否定的に見るのではなく、肯定的な部分に目をやっていくことが良いことだと思い込んでいる人は多いと思いますが、
その人たちが知るべきなのは、その肯定性だけを受容する考え方自体が、市場取引の効率化と消費的享楽を求める体制的イデオロギーでしかないということです。


肯定社会であらゆる場面に使える判断は「いいね」である。フェイスブックが「きらい」ボタンの導入を一貫して拒んできたのはいかにも特徴的である。肯定社会はあらゆる否定性を避ける。というのも、否定性はコミュニケーションを停滞させるからだ。(中略)コミュニケーションの接続は「きらい」よりも「いいね」の方が早くつながる。拒絶の否定性はとりわけ経済的観点から言って活用できない。
(ハン『透明社会』)

肯定社会が重視するのは、何よりも「コミュニケーションの迅速さ」であって、
それを妨げる否定性は暗黙理に排除される、というハンの主張は、『疲労社会』には見られなかったものです。
僕がAmazonレビューを書いていた時には、レビューの評価に「参考にならなかった」という否定的なボタンがありましたが、今はそれもなくなりました。
否定的な評価を排除する機能を整備しておりますので、安心してみんなで楽しくどんどん肯定的な発信をしましょう!
肯定社会は「安心安全」発信社会です。
肯定的な内容であれば、真っ赤な嘘でも自己矛盾した意見でも言うのは自由です。
こうやって刹那を生きる〈自己発信パラノイア〉が、そこかしこに生まれていったのです。


実は〈自己発信パラノイア〉は、透明社会の求めに呼応した存在です。
なぜなら、透明性とは可視化の圧力でもあるからです。
否定的なものや異質なものがないということは、「すべてが見通せる」ということです。
視野を妨げるもの、物事を隠すものは、目の届かない不安な領域を生み出します。
不安な要素が商品購入やコミュニケーションの妨げになるのは言うまでもありません。
透明であるためには、隠れた領域があってはいけないのです。
武器を持つ敵に交渉を求める場合、自ら武器を放り出して両手を挙げ、無抵抗(=透明)であることを示す必要があるわけですが、
秘匿しておくべきプライベートな領域を「すべて見通せる」状態へと可視化することが、武装ヽヽ解除ヽヽの状態となり、相手の「安心安全」を保障することになるのです。
自分が現行社会にとって「安心安全」な存在であることを示すには、〈自己発信パラノイア〉となって、否定性を排除した「肯定的な情報」を数多く発信することが正解です。
SNSでは、自分自身の「肯定的な情報」を発信して「いいね」を獲得することで、自分が「武装解除(=去勢)」された「安心安全」な存在であることを自発的に示すことを要求されるのです。


人々は自らの肯定性を自発的にヽヽヽヽ発信しているので、それが社会体制による肯定性の強制的圧力(強制的同一化グライヒシャルトゥング)であることに無自覚です。
つまり、肯定性を過剰に要求する全体主義は、自覚を伴うことなくいつの間にか参加させられているのです。
この「透明な全体主義」が、自らの肯定性を発信しているつもりで、異質なものの排除に加担する、誹謗中傷やネットリンチなどを無自ヽヽ覚にヽヽ引き起こします。
もはや、現行社会に否定的なことを発信するだけで、反社会的勢力(非国民)になりえるのです。
(権力が大衆の自発性ヽヽヽを恐れる中国やロシアのような権威主義体制では、そのような情報管理の透明化が実現できず、古典的な情報管理をせざるをえなくなります)
透明社会が完成すれば、人々は権力に対する否定的な情報が流れたとしても、
その情報は自らの不安をかき立てることになるので、自発ヽヽ的にヽヽそれを無視するようになるはずです。
そうして否定的な情報は一定量ヽヽヽを超えヽヽヽないヽヽかぎりヽヽヽは、権力が積極的に管理したり抑圧したりしなくても、自然と流れ去るようになるのです。


自らを展示する「ポルノ社会」

〈自己発信パラノイア〉と化した人々が、肯定性を過剰発信するようになると、
秘匿すべきプライベートが透明なものとなり、社会で可視化され共有されていきます。
現代では人々の性的嗜好や性的嫌悪がかつてなく赤裸々に示されるようになっていますが、
このような傾向も私的領域を自発的に肯定することを求める社会的要請の影響です。
人々はなぜ自分がそんなに性をめぐる話題(「萌え」やジェンダー問題を装ったものも含める)を発信したがっているのか、立ち止まって考えた方がいいと思います。
そこには不可視な領域を、不安を生み出す否定性と捉えて、それを自発的に示して排除するメカニズムがはたらいています。
つまり、自発的なプライベートの露出とは、相手に「安心安全」をもたらす武装ヽヽ解除ヽヽとして必要とされているのです。
ハンは、このような自己露出を特徴とする社会を、「展示社会」と呼んでいます。


肯定社会では、いまやありとあらゆる事物が商品になってしまっているので、事物は存在するために展示されなければならない。この肯定社会のなかで、事物の礼拝価値は展示価値のために消滅する。展示価値の観点から見れば、ただそこにあるだけということにはまったくなんの意味もない。みずからのなかで安んじているもの、みずからのもとにとどまっているものはすべて、もはやまったく価値がない。事物は見られるときにのみ価値をもつようになる。展示しなければいけないという強迫により、あらゆるものが見ることのできる状態にさせられる。
(ハン『透明社会』)

ハンはすべてが展示されることで価値を持つ社会が、商品化の要請によってなされていると考えていますが、
商品化の要請と安全のための可視化の要請は、切り離すことのできないものです。
(男にとって金で買える女ほど安全なものはないのです)


上記の引用文を理解するには、展示されることで消滅する「礼拝価値」とは何かということを説明する必要があります。
「礼拝価値」はベンヤミンの考えを参考にしたもので、礼拝に用いられる事物が見られることより、「存在する」ことによって価値を持つものであることに根ざしています。
カーテンの奥で覆われている聖母マリア像には礼拝価値があります。
礼拝では「見えない」という否定性が、価値の源泉になっているのです。
平安時代の貴族女性が自分の姿を男性から見えないように隠していたのも、礼拝価値と関連性があると思います。
「ただそこにあるだけ」という言い方は、ハイデガーの事実存在を踏まえています。
ハイデガーの言う「物」は純粋に礼拝価値で満たされている、ともハンは述べています。
すべてを可視化する展示社会では、このような礼拝価値が消滅してしまうのです。


当然ながら展示社会では、ハイデガーの影響を受けたモーリス・ブランショの『文学空間』(1955年)を支える「われを読むなかれ」という否定性も消滅します。
20世紀まではブランショ的な「意味に結実しきらない」否定性を宿した作品こそが、礼拝的かつ詩的な魅力を持ちえたわけですが、
今や本当に「意味がない」作品を、たやすく消費できる商品として売り出し、それを肯定する宣伝文句として、文学や詩という言葉だけが空疎に漂うだけになっています。
「見られる」ことが価値であると疑わない展示社会では、すべての事物は商品化されるべきであり、市場のカタログ上で可視化されるべきなのです。
もはや注目を集めるべく商品化したものに礼拝的な価値はなく、詩的な価値を生み出す可能性も潰えたのです。


展示された社会のなかではいかなる主体も自分自身を宣伝する広告の客体である。あらゆるものごとがその展示価値で見積もられる。展示された社会とはポルノグラフィックな社会である。あらゆるものが外に向かって披露され、身につけているものを取り去って剥き出しになり人目にさらされる。
(ハン『透明社会』)

主体が自分自身を宣伝する広告の客体だという見解は、ハンが『疲労社会』で展開した「能力の主体」と密接に結びついています。
「能力の主体」と呼ばれている主体は、人々が自分自身の社会的有用性を自発的に示していく──可視化していく──あり方です。
自分がいかに有用であるか、社会における肯定的な存在であるかを、自ら示すということは、自己宣伝にほかなりません。
展示社会では、主体とはショーウインドウに展示され広告化した自己の表層ヽヽのことでしかなくなります。
すべてが露出して可視化されている状態を、ハンはポルノに喩えているのですが、
表層はいくらでも装うことができる、というのがポイントです。
剥き出しの裸体として展示されているものは、広告として見栄えがするように装われた虚構なのです。
展示社会における丸見えになったポルノ的な裸体とは、実際は見栄えが計算された「メガ盛り」の身体でしかありません。
こうして、展示空間であるメディアで目に映るものはすべて偽りになったのです。
「展示のための演出だけが価値を生み出すのであって、事物それ自体に備わる活力はすべて打ち捨てられている」と述べて、ハンはこう続けます。


展示価値はとりわけ美しい外見に左右される。それゆえ、展示しなければという脅迫は、エステサロンとフィットネスジムに通わなければという強迫をもたらす。美容整形手術は展示価値を最大化するという目標を追求する。こんにちの模範が与えるのは、内面の価値などではなく、人びとが暴力的な手段を用いてでも一致しようとする外面の尺度である。展示しなければならないという命法は、目に見えるものや外面を絶対視することに行き着く。目に見えないものは存在しない、なぜならそんなものはなんら展示価値も注目ももたらさないのだから、というわけである。
(ハン『透明社会』)

僕はハンの上記の引用部を読んで、三島由紀夫のことを考えないわけにはいきませんでした。
後期の三島由紀夫は、自らの老化に抵抗するようにボディビルで体を鍛え出し、映画に出演して自らを展示することに取り憑かれていきました。
彼が最終的に、自らの死を展示するために大事件を起こしたことは、多くの人が知るところです。
三島の理解しがたいクーデター計画を、ハンの言う「暴力的な手段を用いてでも一致しようとする外面の尺度」による政治的行動だと考えると、どこか合点がいくのは僕だけでしょうか。
そうなると、三島が求めたのは日本という国家の「美容整形手術」であったということになりますが、
皮肉にもその後に登場した村上春樹でも明らかなように、日本の「美容整形手術」は三島が望んだものとは逆方向の、外見ヽヽだけヽヽの西洋化(=キリスト教文化圏化)へと向かうことになりました。
方向が天皇を中心とした戦前回帰なのか、西洋に植民化された戦後の加速なのかという違いはあっても、視覚化して展示することを価値とする方向に近代文学を導いた点で三島と村上に差異はなかったのです。
(そして、視覚的なものにしか価値を見出せない人々の増加によって、文学は居場所をなくしたのです)


都会は夜になっても煌々と灯りがついていて、本当の暗闇というものを忘れ去ることに懸命です。
コンビニなどの24時間営業の店は、視覚化できない夜の暗闇を排除している存在ですが、
このような営業形態が可能になったのは、すべての時間を消費の欲望の活動時間へと変えた消費資本主義が全般化したためです。
目に映るものがすべて商品となるべき世界では、闇の存在は営業妨害になるだけです。
消費資本主義の布教バイブルと化している漫画やアニメで、ゾロアスター的な善悪の二元論がやたらと持ち出され、
ひたすらサタンを闇に位置づけたがるのは、それこそが一神教のイデオロギーの反映だからです。
闇が悪であるなら、すべてを光のもとに露出することが、何より善であることは言うまでもありません。


資本主義は、あらゆるものを商品として展示しあらゆるものを過剰なハイパー可視性ヴィジビリティへと引き渡すことによって、社会のポルノグラフィ化を高める。目指されるのは展示価値の最大化である。
(ハン『透明社会』)

ハンが使う「展示価値」という言葉は、使用価値にも交換価値にも還元できない経済的な価値形態を示しています。
ただ展示することが価値となるのは、それが人々の関心を集めることに役立つからです。
これを経済の視点から考えると、社会学者のゴールドハーバーが提唱した「アテンションエコノミー(Attention Economy)」と関係します。
(『透明社会』では、「注目資本(Aufmerksamkeitskapital)」という語が用いられていますが、訳注を参照するにアテンションエコノミーのことだと判断しました)
アテンションエコノミーとは何でしょうか?
インターネットの普及によって、SNSやYouTubeなどのオンラインサービスをあまり金銭をかけずに利用できるようになりました。
Googleなどに顕著ですが、サービスを運営するIT企業の収入は広告に頼っています。
広告料の獲得は、そのサービスをオンライン上で人々がどれだけ「注目」したかによって左右されます。
そこで企業はユーザーの興味や関心を惹くことをめざすようになったのですが、「注目」の量は見ている時間で測られます。
つまり、少しでも長く視聴者の注意を引きつけて、広告を見せることがIT企業の収入に直結するのです。
ここでは、人々の「アテンション(注目)」の持続時間が、利益を生む資源となっているのです。


注目の持続が利益を生むとなれば、インターネットではコンテンツの中毒性を高めることが経済的な動機になります。
アテンションエコノミーでは、次々に面白そうなことを展示して見せて、人々の注意や関心を集めることが重要になるのです。
関心を集めるために、自分が持っているものを次々にネット上に展示していくストリップショーへと駆り立てられるのは、それが誰かのヽヽヽ金になるからなのです。


ストゥディウムとプンクトゥム

ハンは展示社会からポルノ社会へと理論を進めるにあたって、ロラン・バルトが『明るい部屋』(1980年)で述べた写真論を持ち出します。
ハンはメディア論にも通じているので、写真についての哲学的な議論にも少し触れておきたいと思います。


4つ前の引用文になりますが、「事物の礼拝価値は展示価値のために消滅する」という文がありました。
礼拝価値については前述しましたが、見られることよりも存在そのものに価値があることを示す言葉でした。
礼拝物は隔離されたり隠されたりするもので、近づくことが禁じられているものです。
そこには否定性による「遠さ」が欠かせません。
展示価値はそのような「遠さ」に支えられた「アウラ」を消滅させるのですが、
ベンヤミンによれば、写真において展示価値に抑圧された礼拝価値の最後の居場所となるのは「人間の顔」だとしています。
人間の顔がどうして「遠さ」を表すのか、疑問を感じるところかもしれませんが、
写真が捉えた人間の瞬間的な表情に、遠く離れた場所にいる愛する人の思い出が、礼拝すべき対象として立ち上がると言うのです。
おそらく、瞬間的な表情は二度と戻ってこないものなので、そこに「遠さ」もしくは「アウラ」があるということなのでしょう。


しかし、ハンはフォトショップなどでデジタル加工が可能になった顔は、「視線のアウラ」が欠けた「展示された顔」でしかないと言います。
展示されるものでしかない顔とは、人間の顔の商品形態なのです。
このような顔には、もはやレヴィナスが「他者の超越」を語る倫理の拠点とした「顔(visage)」などは成立しません。
「透明は超越とは真逆のものだ」とハンは述べています。
透明性には形而上学的な緊張は存在しないのです。
すべてが世俗の中で見通せる凡庸な同質性によって浸透され、支配されているのが透明社会なのです。
ハンは透明社会を「詩人のいない社会」と書いていますが、展示された顔しかない世界は、不可視なものへの感受性を持つ詩人は存在せず、自分を詩人に見せヽヽたいヽヽ人だけが展示されているだけの社会でもあるのです。


話を写真に戻します。
ハンは「ポルノ社会」の章で、演出から解放された裸性に「涜神的潜勢力」を見るアガンベンに対し、その神学的脱構築が展示価値を帯びた透明なポルノグラフィックでしかないと批判します。
その議論を受けてハンが持ち出すのが、バルトの写真論にある2つの要素ストゥディウム(studium)とプンクトゥム(puncktum)です。


バルトの『明るい部屋』は写真に対する哲学的思索が綴られた本ですが、亡き母への思慕に貫かれた私的なエッセイでもあり、独特かつ美しい本です。
読みようによっては聖母信仰のような趣があるせいなのか、アガンベンは『明るい部屋』には批判的ですが、おそらくハンはそれを踏まえてバルトを持ち出したのだと思います。
重要なのは、『明るい部屋』の写真論がきわめて私的な「喪の作業」の中で成立している文学的な本だということです。
バルトは自分にとって写真は「パトス的なもの」と切り離せない、と述べています。
写真を「心の傷のようなものとして掘り下げたい」とも言っています。
そのような感傷的な目の中で、バルトは自分が写真に感じ取ったある「規則」に気づくようになります。
つまり、バルトが写真というメディア体験から取り出した要素が、ストゥディウムとプンクトゥムなのです。
僕はこの2つの要素は、写真以外のメディア体験にも応用できると思っています。
(ストゥディウムとプンクトゥムは共にラテン語なのですが、バルトにとってフランス語で直接に表現できない「距離」が潜んだ概念であることには注意を払う必要があります)


ストゥディウムというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好きヽヽ嫌いヽヽ(I like/I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好きヽヽ(to like)の次元に属し、愛するヽヽヽ(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。
(ロラン・バルト『明るい部屋』花輪光訳)

バルトはストゥディウムに「一般的関心」という語をあてています。
では、プンクトゥムとはいったいどういうものでしょうか。
プンクトゥムについてのバルトの語り方は慎重で、引用で定義を取り出すのは簡単ではありません。


ここで問題になっている写真には、あたかもそうした感じやすい痛点のようなものがあり、ときにはそれが斑点状になってさえいるのだ。問題の標識しるしや傷は、まさしく点の形をしているのである。それゆえ、ストゥディウムの場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私はプンクトゥム(punctum)と呼ぶことにしたい。というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり──しかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私をヽヽ突きヽヽ刺すヽヽ(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。
(バルト『明るい部屋』)

ストゥディウムとは、教養文化を背景とした共示的意味コノテーションによって成立します。
写真に写ったものを読解して、知的な注釈をつけるような関心です。
バルトはストゥディウムを「一般的関心」とか「分別ある関心」と呼びますが、
ポイントになるのは、それが他人と共有される知的な領域における関心であって、「この私」を激しく揺さぶるものではないということです。
ある意味、知的な意味の操作(コード化)で成立するのがストゥディウムです。


それに対してプンクトゥムは、「この私」に内的な乱れを引き起こす「裂け目」「断裂」として機能します。
プンクトゥムはたいてい部分的な対象──具体的な「細部」にあって、その小さな穴から偶然の力によって見る者の心の奥を突き刺すのです。
ストゥディウムが次の関心、次の写真へと急いで向かわせるのに対し、プンクトゥムはその部分に視線を執拗にとどめて、ただ固執させます。
この静止への固執において、写真は俳句に近いものになる、とバルトは書いています。
(つまり、コノテーションの知的な操作を楽しむだけの俳句は、バルトにとっては俳句ではないということです)


ここでは詳細に『明るい部屋』の読解をしている余裕はないので、僕がまとめておきますが、
プンクトゥムは死を予感させる空無によって引き起こされるものです。
死というものは「この私」と遠いところではそれほど心を乱すものにはなりません。
ある種の写真(俳句?)には、社会的常識もしくは知的教養によって守られた「自分」という鎧を、小さな穴から一瞬にして貫き、死の予感を与えてしまう空無の一撃が備わっているのです。


話をハンに戻しますが、ハンはバルトの写真論をポルノ社会について語る文脈で持ち出しています。
なぜポルノ社会という文脈で『明るい部屋』が参照されるのかと言うと、
バルトがストゥディウムだけでプンクトゥムのない「単一な写真」の例として、ポルノ写真を挙げているからです。
バルトはポルノ写真を、「この私」を煽情するエロティックな要素に欠けた性の露出として捉えています。
ここにはプンクトゥムにまつわる非常に重要な指摘があるので、引用して確認したいと思います。


ポルノ写真は一般にセックスを写し、それを動かない対象(フェティッシュ)に変え、壁龕から外に出てこない神像のようにそれを崇拝する。私にとっては、ポルノ写真の映像にプンクトゥムはない。その映像は、せいぜい私を楽しませるだけである(しかもすぐ倦きがくる)。これに反して、エロティックな写真は、セックスを中心的な対象としない(これがまさにエロティクな写真の条件である)。セックスを示さずにいることも大いにありうる。エロティックな写真は観客をフレームの外へ連れ出す。だからこそ、私はそうした写真を活気づけ、そうした写真が私を活気づける。プンクトゥムは、そのとき、微妙な一種の場外となり、映像は、それが示しているものの彼方に、欲望を向かわせるかのようになる。
(バルト『明るい部屋』)

ストゥディウムしか与えないポルノ写真は、フェティッシュと化して一般的関心のコードの中にとどまります。
しかし、プンクトゥムのあるエロティックな写真は、観客をフレームの外──コード化された解釈の外部──へと連れ出すのです。
バルトは写真について語っていますが、もちろんこれはメディアを用いた表現全般(芸術・批評・文学)にも当てはまる話です。
ハンはバルトの写真論を参照して、このようなストゥディウムだけの「単一」なイメージを、ポルノグラフィックなものとして語っています。
現代社会は、メディアによるポルノグラフィックで透明なイメージが氾濫した「ポルノ社会」だとするのです。


バルトはポルノグラフィックなイメージも[プンクトゥムのない]単一な写真に数え入れている。ポルノグラフィックなイメージはなめらかで透明であり、いかなる断裂も、いかなる曖昧さも示さない。(中略)ポルノグラフィックなイメージのなかではあらゆるものが外に向けられ人目にさらされている。ポルノグラフィには内面、秘匿、秘密がない。(中略)こんにちでは、メディアを介したあらゆるイメージが多かれ少なかれポルノグラフィックである。こうしたイメージには、その感じのよさゆえに、プンクトゥムが、意味的な強度がまったく欠けている。こうしたイメージは、つかみかかり傷を負わせるようなものをなにひとつ含まない。それはせいぜいのところ、「いいね」や「スキ」の対象をつくるだけである。
(ハン『透明社会』)

ハンが象徴的に「ポルノグラフィック」と呼んでいる、表層に全て露出した透明なイメージは、ギー・ドゥボールの言う「スペクタクル」と一致します。
スペクタクルについては、いつか本格的に書くことになると思いますが、
ドゥボールが優れているのは、スペクタクルを単に可視的な存在として捉えずに、それが資本の消費的形態であることを見抜いた点にあります。
現代に氾濫したイメージは、プンクトゥムをもたらす「内面」や「秘密」や「意味的な強度」がありません。
つまり、スペクタクルは内面の居場所としての文学を葬り去るものなのです。
あとは自らの内面を資本に売り渡して「意味的な強度」を失った作品を、
広告によって広く流通させ、「文学」や「詩」であるかのように偽装するだけになりました。
(資本の洗脳マインドコントロールでしかない、「意味がない」ものが「詩」だという広告的な流通至上主義を振り回し、文学を実質ヽヽ面でヽヽ消滅させたのです)


たとえば、レベルの低い批評を例にとると、
十分に意味化できない未熟な作品を、一般化した観念や批評用語を用いてむやみに「崇拝」する偽装の手口が流行っています。
ただ意味化作用から逃走している未熟なものを、コードの外部にある形而上学的観念とすり替えることで成立する錯誤なのですが、
このような錯誤はロリコン=マザコン的な〈潜在性の普遍化操作〉だと言えます。
つまり、簡単に言えば、性的に未熟な処女はどの男の所有物にもなれないので、全ての男の外部に存在する聖母と同じ価値を持つ、という錯誤のメカニズムです。
聖母を全ての男の外部に存在させるということが、父性の排除を意味することにも注意が必要です。


このサブカル的欲望のメカニズムは、貨幣の所有が全ての商品を購入する潜在的状態であることからきています。
つまるところ交換価値の崇拝です。
このメカニズムを文学に転じれば、十分に意味化していない作品は、購入した人がいくらでも身勝手に意味づけできるという点で、多くの人に受け入れられる素地があるということになります。
ただ、十分に意味化していない作品には決定的な魅力が宿らないので、それに交換価値を持たせるには、宣伝広告とそれによって動く消費者が欠かせません。
こうしてマーケティングの支配に従属した「文学=サブカル」が作られるのです。
このような〈潜在性の普遍化操作〉は、現実化していない潜在性を基盤としているので、「現実」とぶつかることを巧みに回避することができます。
つまり、潜在性を語っている限り、「現実」にあるフレームや権力的なコード(たとえば貨幣的な交換価値)は、そのまま保存され続けることになるのです。
当然ながら、「文学=サブカル」作品は、既得権を持つ権力者にとって歓迎すべき「安心安全」なものでしかありません。


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