- 2024/06/29
- Category : 【評論】アドルノの文化産業批判
アドルノの文化産業批判【中編②】
アドルノが陥った罠
これまで僕は『啓蒙の弁証法』や「文化産業についてのレジュメ」に従って、アドルノの文化産業批判を取り上げてきたのですが、
ここからはアドルノの理論について物足りないと感じる点について言及したいと思います。
生意気なようですが、僕はアドルノの文化産業批判は不徹底な理論だと思っています。
それは文化産業の「様式化」を批判する彼らの主張自体が、「資本家こそが悪であり、労働者は搾取された被害者である」というマルクス主義的な「図式」に依存しているからです。
アドルノは文化産業という「売り手(資本家)」については激烈に批判しているのですが、「買い手(消費者)」の欲望や生き方をほとんど批判してはいません。
そのため、消費者は無力な被害者であるかのような印象を与えます。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
文化産業は市場を通じて商品を販売しているだけなので、商品の受容を強制することはできません。
商品を自発的に購入する人々がいないと、文化産業の作品は無力です。
文化産業が支配を確立するには、文化産業が産み出した商品を喜んで享受する「購買者」の存在が必須なのです。
その意味で、文化産業とその「お客様」は共犯的な関係にあると僕は考えています。
だから、アドルノのように文化産業だけを批判する姿勢には、疑いの目を持たずにはいられないのです。
むしろ、消費者の共犯性を語らないことで、文化産業の体制的システムに抵抗不能な巨大な力を持たせてしまっているようにも思えます。
この問題の本質に至るには、文化産業批判をマルクス主義的な図式から解放する必要があると考えます。
アドルノの文化産業批判がエリート主義だという批判を受けるのは、マルクス主義の階級闘争の「図式」が、文化産業のマーケティングに吸収されてしまったからです。
というのも、実は文化産業の側が、マルクス主義的な「下剋上」を自らの正当性のアピールに利用しているのです。
マルクス主義から派生したフランス現代思想が、大衆メディアと結びついてサブカル消費物になり、批判理論として死を迎えたのはそれが原因です。
ピラミッド型の階層ヒエラルキーは、階層が下がるほど数量的には拡大するので、
数量を求める「消費拡大の圧力」は、大衆向けに文化のレベルを下げるようにはたらきます。
中国共産党が簡体字を普及させたように、マルクス主義的な大衆思考も知的・文化的な敷居を下げることを求めます。
皮肉なことに、文化的な敷居の低下においては、マルクス主義と「消費拡大の欲望」が手を握ることは可能なのです。
(初心者向け入門書ばかりが売り出される風景は、両者の結託に支えられています)
文化産業によるマルクス主義の悪用については、『啓蒙の弁証法』の中ですでにアドルノたち自身が指摘しています。
市民的芸術の純粋性は、物質的な実生活に対立する自由の王国として祭り上げられてきたが、じつは当初から、下層階級を排除することで購われたものであった。しかし下層階級の事態こそ真の普遍性を示すものであり、芸術は、まさしく虚偽の普遍性を名乗る目的から自由になることによって、真の普遍性に忠実であろうとするのである。「厳粛な」芸術は、実生活の窮迫と圧迫に照らせば、厳粛さなぞおかしくてしようがないと嗤う人々、一心に働いている時以外の時間をボケッとして過すことに使えれば、それを喜びとしなければならない人々、そのどちらからも拒絶された。軽い芸術は自主的な芸術を影として伴っていた。それは厳粛な芸術の社会的な良心のうずきなのだ。厳粛な芸術が、その社会的な諸前提に基づいて真理を捉え損なわざるをえなかったとすれば、その同じ事情が、軽い芸術に対しては、実質的正義の外観を与える。分裂そのものが真理なのだ。それは少なくとも、さまざまの領域の寄せ集めとしての文化の否定性を表現している。対立は、少なくとも軽い芸術を厳粛な芸術へ、逆に厳粛な芸術を軽い芸術へと取り込むことによって、解消される。ところでそれを企てるのが文化産業なのだ。(ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法』徳永恂訳)
この引用文は、文化産業が高尚な芸術を大衆の消費領域に移すことを説明したものです。
この直前に「軽い芸術」の意義を認めるような文章があるのですが、それがアドルノの意見だと考えるのは早とちりで、
最後まで読めば明確なように、この部分はあくまで文化産業の言い分を代弁したものです。
その言い分とは、高尚で厳粛な芸術は下層階級を排除している、というものです。
ならば労働者という「下部構造」を重視するマルクス主義の図式からすれば、下層階級のためにある唯物論的な軽い芸術こそが「正義」だということになります。
このような純粋な芸術と軽い芸術の対立を融合するべく、高尚な芸術を消費的な娯楽へと吸収するのが、文化産業の創作手法なのです。
『啓蒙の弁証法』では「ベートーヴェンとカジノ・ド・パリの総合」を融合の例にしていますが、
クラシック曲をサンプリングしてヒップホップの曲に取り込んだり、マルクス・アウレリウスの本を漫画の小道具にしたり、「厳粛な」文化を取り入れたサブカル作品は山のようにあります。
問題はそれが「実生活の窮迫と圧迫」にさらされた下層階級に寄り添う「左翼的な正義」の体現に見えることです。
文化産業は、生活に苦しむ下層階級に娯楽を提供するという「左翼的な正義」を大義名分として、その裏で労働者の搾取に勤しむ構造を持っているのです。
文化産業は下層階級に親しまれ、その正当化をするような構造があるため、「左翼的な正義」に貢献しているように見えます。
そのため、それ批判するアドルノこそが、大衆の敵でありエリート主義だと批判されることになります。
日本でもフランス現代思想系の売文家が、現代思想をサブカル化してオタク消費を推し進め、
「秋葉原」的なオタク文化の一般普及を背景に、販売力と発言力を強めていきました。
サブカルを現代思想の「ご主人様」にした東浩紀や、AKBブームの宣伝マンとしてヘビーローテーションしていた宇野常寛、勘違いとセンスの境界を脱構築した千葉雅也など、
どこに左翼的な思想信条があるのかわからない体制的な保守主義者を、これまた左翼とは名ばかりの大手老舗新聞やマスコミが知識人扱いしてきたのは、
それこそが体制的な文化産業が反体制のフリをするための手口だからなのです。
こうして文化産業は、サブカル言論人を利用しつつ大衆の味方のフリをし続けているのです。
これは恐ろしく巧妙な罠ではありませんか。
サブカル作品の内容がおおかた保守的なものばかりであっても、なぜかサブカル系の知識人を左翼的だと考える人が多いのは、このような罠に落ちている人が多いからです。
大衆娯楽は労働者の味方であり、左翼思想も労働者の味方だから、大衆娯楽やサブカルチャーは左翼的なのだ、という短絡思考がそこにはあります。
いや、失礼かもしれませんが、もう笑わずにはいられません。
要するに、下層階級にある大衆は自分たちを真に解放する左翼思想と、
自分たちにその場しのぎの解放感を与えてくれる文化産業との優劣の判断が十分にできないのです。
むしろ、文化産業のサブカル文化の方を価値あるものと考えているのではないでしょうか。
大衆の精神性や知力はその程度のものなのです。
彼らは支配されるしかない存在であり、文化産業に小金を払って搾取されていればいいだけの存在なのです。
僕はアドルノほどお人好しではないので、大衆の知力など信じていませんし、
自分の書き物を「より多くの人」に届けたいとも思わないので、数量的価値しかない大衆や下層階級の批判を厭う気はありません。
自分から文学的エリート主義(竹林の一賢?)だと公言してもいいと思っています。
「予定された世界」の受動的「聴衆=消費者」
言うまでもないことかもしれませんが、文化産業が最も重視する要素は「娯楽性」です。
「文化産業が消費者を操縦するといっても、それは娯楽を媒介にしてのことだ」とアドルノたちが言うように、
文化産業は作品の娯楽性によって、消費者を操縦し服従させていくわけです。
一般的に娯楽性はレジャーと結びつくものなので、労働とは対立する価値に思えます。
しかし、アドルノたちによれば、娯楽と労働は相補的な関係にあります。
娯楽とは、後期資本主義下における労働の延長である。娯楽とは、機械化された労働過程を回避しようと思う者が、そういう労働過程に新たに耐えるために、欲しがるものなのだ。だが同時に機械化は、ひま人とその幸福にも、それと同じような力を及ぼす。それは娯楽商品の工場生産を根本から規定しているので、ひま人といえども、労働工程そのものの模像以外には、もはや何も経験することはできない。(『啓蒙の弁証法』)
ここで言われていることを簡単にまとめれば、明日の労働のために今日の娯楽がある、ということです。
「この娯楽があるから、明日も働ける」でもいいわけですが、
娯楽作品のめざすものは、人々を明日の労働生活や家庭生活、学校生活へと送り返すことにあるのです。
相補的な関係の中で娯楽は労働に依存し、娯楽が提供する非現実はすでにある現実に依存することになります。
だから、娯楽は「見せかけ」以上の新しさを提示することはありません。
「見せかけ」の奥を覗き込むのは、危険な行為として禁じられます。
表面だけに没頭し、現実が二次元であると思い込むことが、娯楽に適応した生き方なのです。
ネガティブな現実を不可視な深海へとしまい込むことを憶えた人々は、その現実を抑え込むために次なる娯楽を求め、娯楽資金のために明日の労働を受け容れます。
こうして、娯楽と労働がますます連動していくのです。
このような娯楽と労働の関係をアイロニカルに示しているのが、スマホの課金ゲームです。
1日の労働を終えて家路につく時に、通勤電車でスマホのゲーム画面を開いてレベル上げに勤しんでいる人を目にすると、
会社で労働をした後に、ゲーム内世界でも労働をする勤勉さは何だろうかと思ったりします。
さらに現実労働で得た金を、ゲーム世界の労働環境改善のために課金する人もいます。
しかし、そんな僕自身もたまにYouTubeなどで動画を見ていたりするので、これも通信料やサブスク料金を払っていることを考えれば、
料金を払ってわざわざ動画を見るという「労働」を、勤務後に勤勉に行っているのと変わらないことに気づかされるわけです。
(見たい動画を真剣に探すと労働感が出てしまうので、そこはAIのオススメ動画の自動再生機能でそれを労働と気づかせないようにするわけです)
せめて本を読めば有意義だと思うのですが、労働で疲れきった脳にそれだけの余力はなく、
頭を使わないで楽しめる娯楽へと誘われていくことになります。
こうなると、もはや賃金労働の合間に「娯楽労働」をしているのと変わりません。
今や労働と娯楽は一体化のフェイズに入ったと言えるでしょう。
賃金労働で疲れきった後に「娯楽労働」に勤しむ事態は、疎外論によってしか説明がつかないと僕は思っています。
つまり、賃金労働では達成感や充実感が得られず、自分が本質から疎外された状態にあるため、
レベルアップが数値化されているゲーム世界で、達成感を目に見える形で獲得して虚しさを埋めようとしてしまうのです。
(娯楽世界がオンラインでネットワーク化し、擬似社会を形成する必要があるのは、その中での達成感をより社会的成果の代替物へと近づけるためでしょう)
賃金労働の虚しさを埋めようとする行為すら、労働や消費へと変換して金儲けに利用するのが文化産業だと言ってもいいでしょう。
かつてなら労働者の「主体化」を促して、資本家に階級闘争を挑むという戦術が有効だったのですが、
金融資本主義の隆盛によって、もはや貨幣増殖の主役は労働者(というより人間)ではなくなってしまいました。
今や貨幣増殖の主役は、想定通りの利益をもたらす「計算式」でしかなくなったのです。
【中編①】の『啓蒙の弁証法』の引用文に、「誰にとっても、誰一人外れる者がないように、何かが予想されるようになっており、区別は印象に刻み込まれ、宣伝文句に謳われている」とありましたが、
20世紀中頃の時点で、「予想」と「宣伝」の相補的関係に気づいていたアドルノの社会学的知性はさすがだと思います。
「予想される」ものが何かはハッキリ書かれていませんが、おそらく「消費的な欲望」ではないでしょうか。
個人個人の消費的な欲望が「予想」され、その区別と分類に従って「宣伝」が行われるのです。
わざわざ「予想」がなされるのは、その商品を欲しがりそうな人に商品情報を速やかに届けて、利益を確実にしたいからです。
予想外の暴落要素を避けて確実な利益を得るために、「予想」を高確率で実現できる商品開発がなされ、その確実性を高めるために「宣伝」が行われます。
利益の「計算式」と広告宣伝は消費資本主義の両輪です。
広告はあらかじめ計算された利益に基づいて打ち出されるので、
事前に想定された利益が大きいほど、広告の物量は膨れ上がります。
そうして広告を多く打ったものが売れるようになり、広告量と利益の因果関係が確実になっていくと、売り手の認識がひっくり返ることになります。
広告の物量が大きければ、利益が大きくなると考えるようになるのです。
売り手がそう考えるようになれば、広告業界はしめたものです。
大きな利益を求めるなら、広告量の拡大に先行投資すべきだ、という誘い文句がもっともらしく聞こえるようになるからです。
こうなると、広告業界と金融業界のビジネスモデルは同じようなものになるのではないでしょうか。
なぜなら、どちらも未来への期待値だけを相手にしている商売だからです。
未来に多くの利益が期待できるからこそ、株や金融商品が売れるのです。
重要なのは「期待」という未来に向かう心理であって、今の「現実」ではありません。
広告業界と金融業界が力を持つ社会では、リアルな現実は人々の期待に従属することになるでしょう。
重要なのはポジティブな未来予想であり、それは現場で起こっているのではなく、人々の脳内で起こっているのです。
このような「脳内主義」がAI信仰に結びつくとしたら、笑えることではありませんか。
広告が「計算式」の実現性を高めるものであるならば、
消費者が広告の誘惑に従順であればあるほど都合がいいわけです。
こうして消費資本主義社会では、人々が広告メディアに従順であることを求めるようになります。
マーケティングや広告に反旗を翻すような消費者は「計算式」を狂わせる擾乱要素なので、
あらゆる手段を用いて、批判言説や低評価レビューなどを封じる必要があります。
消費者には能動的な感性など持ってもらう必要はないのです。
あくまで予定通りに商品を購入する受動的な存在であることが求められています。
(文化産業の権力化によって、読者が売り手である著者を批判することを不当だと感じる知性のない輩が出てくるのです)
『啓蒙の弁証法』を注意深く読めば、文化産業の大きな目的が、消費者の主体性を奪って飼い慣らすことにあることがわかります。
今日決定力を振っているのは、体制のうちにひそむ必然性、つまり消費者を無視するわけにはいかないが、いかなる瞬間にも消費者には抵抗の可能性の予感を与えない、という必然性である。この原理は、たしかにあらゆる欲求は文化産業によって充足されうると考えることを消費者に命令するが、しかし他方では、消費者がそういう欲求の中で自己自身をもっぱら永遠の消費者、文化産業の客体としてしか経験しないように、あらかじめこういう欲求を調整することをも要求する。文化産業は、自分たちの欺瞞が消費者の欲求を充たすものであるかのように吹き込むばかりではない。それ以上に文化産業の意味するところは、消費者が、何であれ、与えられたもので満足しなければならない、というところにある。(『啓蒙の弁証法』)
この箇所は非常に重要な指摘だと思います。
文化産業は消費者の「欲求」に応える文化的「商品」を売りつけることで、その金銭的な対価を得るだけにとどまりません。
あらゆる欲求を自分たちの商品で充足するように、消費者を馴致することも可能にします。
文化産業から「与えられたもの」に満足してしまうことで、消費者は自らの主体性──体制への抵抗可能性──をも体制側に売り渡すことになるのです。
こうして、労働者は社会に対する不満や疎外感を、体制への抵抗運動に結びつけることなく個人レベルで解消し、明日も職場に脚を運ぶのです。
文化産業の娯楽とは「あらかじめ出発点に舞い戻るように決められている」「逃走と駆け落ち」だとアドルノたちは言うのですが、
その意味するところは、産業的な娯楽とは最終的に何の変哲もない日常に戻ることが約束された「一時的な逃走」だということです。
娯楽と労働の相補的な関係についてはすでに述べましたが、産業的な娯楽の本質は人々を日常に閉じ込めることにある、と言ってもいいでしょう。
娯楽による「逃走」とは、「その中で自分自身を忘れたいという諦念」であり、結局は現実世界における(永遠の労働者=消費者としての)自分自身からの「逃走」でしかありません。
(「逃走」をお題目として主体性を攻撃した〈俗流フランス現代思想〉が、いかに文化産業の代弁者であったが、よくわかるのではないでしょうか)
文化産業は体制の「計算式」の管理下にある「予定された世界」を消費者に売りつけます。
「予定された世界」というのはアドルノではなく僕自身の語彙ですが、
想定された利益の確保に必要な、現在の社会体制や既得権の永続化を「予定された世界」と僕は呼んでいます。
消費者は自分の欲求を現実世界にぶつけるのではなく、文化産業が提供する作品によって解消するように求められ、
それに従うように自己を矯正していくことで、体制に対して何の抵抗的アクションを取ることができない「予定された人」になっていきます。
それは「与えられた」文化産業の商品にしか関心がなく、「与えられたもので満足しなければならない」ことに不満もなく、すっかり飼い慣らされてしまった受動的人間(オタク)のことです。
(オタクが社会批判をしても、体制的な文化産業やマスメディアに「与えられた」問題意識を内面化するだけで、何ら主体性がありません)
以上のようなアドルノたちの主張は、概ね正しいと僕は思っています。
しかし、前述したように、彼らのアプローチがマルクス主義の図式に依拠しすぎているという問題に触れないわけにはいきません。
文化産業が消費者の主体性を奪うことに貢献しているのはその通りですが、
それはすべて文化産業の責任なのか、という疑問が残るのです。
文化産業の支配は、彼らが売り出した娯楽商品を、消費者の側が積極的に購入しなければ成立しません。
そう考えると、購入するかどうかを決定できる消費者の方が、より優位な立場にあるとも言えるのです。
堕落した商品を買わせようとした産業側が悪いのか、それをホイホイと買う消費者側が悪いのか、
これは、不倫関係において妻子ある相手を誘惑した女が悪いのか、それを積極的に受け入れた男が悪いのか、という問いと似ています。
概括的に言ってしまえば、両者は共犯関係にあると考えるべきでしょう。
文化産業の支配システムが恐ろしいのは、消費者=労働者を共犯者にしてしまうからではないでしょうか。
文化産業は消費者をカモにして大きな利益を引き出そうとしますが、
消費者も体制に抵抗できない自分の「弱さ」を「正当化」するために、文化産業を利用している面があるのです。
アドルノが触れなかった共犯のメカニズムはこうなっています。
文化産業はお客様の欲望に適うような作品を売り出して、利益確保を狙うのですが、
その一方で購買者たる大衆は、自分の欲望を商品市場に受容してもらい、「うまく社会になじめない」という不安感や疎外感を埋めようと目論んでいます。
商品取引は完全な社会的行為なので、それを成立させればどんな人でも社会性の(一時的な)獲得が可能です。
両者の取引が成立することで、文化産業は利益を手にすることができ、
消費者の方は自己の欲望に「社会のお墨付き」を得て、自分が社会に「フィット」したかのような安心感に満たされます。
つまり、消費者にとって文化産業が大量流通させる「作品=商品」の本質的な効果は、自身の欲望の「正当化」にあるのです。
文化産業とは、お客様に「自己正当化」の機会を売りつける商売だと言ってもいいでしょう。
このような文化産業の性格にどっぷり依存して育った人が、自分も文化産業の作り手になっていくので、
文化産業はますます「自己正当化」で商売をするだけの産業になっていきます。
「自己正当化」をエネルギーにしている産業が、自分たちの商売を批判する言説を排除するようになるのは必然ではないでしょうか。
文化産業の購買者はその作品によって自分の欲望を「正当化」する快楽を貪っています。
社会から疎外された実感を、商品交換の社会性によってやり過ごす存在を「オタク」だと定義すれば、
彼らは文化産業が一定のクオリティをもとに生産した商品を、社会適応の幻想を得るための餌として消費し続ける家畜のようなものだと言えるでしょう。
餌を与えられることに慣れてしまうと、その餌が「二番煎じ」でマンネリ化しても買わずにいられない事態が起こります。
消費をしていないと、社会からの疎外感が前面に浮かび上がってしまうからです。
消費行為の家畜と化した大衆に、もはやマルクス主義的な抵抗どころか客観的な社会認識さえ期待することはできません。
簡単に言えば、文化産業の支配が確立した社会状態とは、社会的連帯の敗北状態なのです。
文化産業と消費者の共犯関係は、好景気であれば拡大するほかありません。
だから、日本ではバブル景気の80年代後半以後に文化産業の楽園が登場したのです。
文化産業から「与えられたもので満足」できてしまうかぎりは、この「予定された世界」に生きていることに葛藤を抱いたり、絶望を感じなくてすむので、
葛藤や絶望というネガティブなものから「逃走」したい人ほど、自分の欲求を文化産業の趣味的商品の中で積極的に解消しようと過剰適応をします。
社会に認めてもらえない欲望が強まるほど、その欲望を文化産業の中で認めてもらうほかなく、ますます文化産業に依存する事態になるのです。
たとえは悪いですが、つらい現実からの逃避にドラッグを利用する社会で、生きづらさが強まるとドラッグの利用者がますます増えるのと同じような構造です。
マルクスは宗教を大衆のアヘンだと言いましたが、
文化産業の商品は、ネガティブなものに対する現実的抵抗を選ぶことのできない「人間的な弱さ」を支持してくれるドラッグなのです。
文化産業には、弱さにつけ込む面があるのです。
現代アートと「交換不能なもの」の交換
もうおわかりだと思いますが、『啓蒙の弁証法』の文化産業批判が多くの人に共有されると大変なことになります。
誤解を恐れずにわかりやすく言えば、異性関係における弱者を救済する性風俗を無くすような主張になるからです。
文化産業の批判が支持されにくいのは、文化産業が「人間的な弱さ」を擁護・肯定してくれることにあります。
だから、文化産業批判やサブカル批判をすると、「強者の論理」を振り回しているように見えるわけです。
このあたりに、アドルノがエリート主義として批判される謂れがあるように感じます。
しかし、アドルノにしても僕にしてもそうなのですが、何も娯楽やサブカルを否定しようというわけではないのです。
昔のように芸術や文学や思想と娯楽を別のものとしてきちんと区別することを望んでいるだけなのです。
問題なのは、すべてを娯楽的なものに吸収しようとする〈安楽の全体主義〉という一元論なのです。
アドルノから少し離れてしまうのですが、ここからは、市場において芸術と娯楽の領域をなぜ明確に切り分けることができないのか、ということについて書いていきます。
それは、なぜ聖(芸術)と俗(エンタメ)の二元論が可能でないのか、と問うことでもあります。
文化産業の娯楽一元論は、境界を抹消するグローバル化=世俗一元論の猛威と歩調を合わせて拡大してきました。
世俗一元論は明らかに宗教(キリスト教)を世俗的宗教(資本教)に吸収するものです。
資本主義が各種領域をグローバル化していく世俗的一元化の運動こそが、「啓蒙」の正体だったのです。
その点で、僕はアドルノたちが「啓蒙」を問題の核に据えたことは間違っていたと思います。
問題の元凶は価値判断のすべてを市場に委ねる一元化であり、
啓蒙主義の基盤にもなっているキリスト教の融合拡大主義です。
己の周辺にあるものを取り込んで、自分の一部にしてしまうスライム的な宗教がキリスト教です。
融合拡大型の宗教的世界観が世俗レベルの貨幣経済と「融合」した姿こそが、グローバル資本主義なのです。
これを本気で批判するには、啓蒙批判でも資本主義批判でも足りません。
西洋文化批判、とりわけキリスト教の融合拡大の欲望を批判する以外にありません。
このキリスト教的欲望こそが、芸術を娯楽へと「融合」し、世俗一元論つまり市場価値一元論を「拡大」しているのです。
現代において娯楽と芸術の区別が比較的なされているジャンルは美術でしょう。
美術においては、厳粛な芸術というものが未だ存在しているかのように思われているのではないでしょうか。
実際、『啓蒙の弁証法』の「文化産業」の章で主に批判されているのは、複製を前提とした映画・ラジオ・雑誌であり、美術に対する批判というものは見かけません。
実は美術というジャンルにおいては、文化産業による自律性の剥奪があまり危惧されていないと言えるのです。
(もちろん、アドルノが美術に目を向けていないだけで、実際は美術だけが例外だということはありません)
では、現代アートを含む美術だけがなぜ文化産業の支配を免れているように見えるのでしょうか。
その理由は、単純に美術作品それ自体が超高額の商品になってしまったからです。
オークションで20億円以上で落札されたバンクシーの作品を見れば明らかですが、オリジナルの美術作品は億単位の金で取引される可能性を持つものです。
このように一般人から見れば意味不明なほどの大金が動く美術品の市場を「アートマーケット」と呼ぶわけですが、
そこでの取引が一般市場と違う価値観で動いていると考えるのは思い込みです。
商品がアートであり超高額であっても、そこにはたらいているのは芸術性とは無縁の市場原理でしかありません。
だから、文化産業の生産物とアートマーケットの作品には、金額以上に本質的な違いはありません。
違いがあるとすれば、文化産業の商品は大量生産の「コピー」でしかないので、高額取引が不可能だという点でしょう。
つまり、オリジナルとコピーを明確に区別できる世界では、芸術が生き残っているかのように思うことが可能です。
しかし、その作品が芸術と見なされるのは、あくまで市場における交換価値が尋常でない価格になるからであって、作品の中に芸術性が宿っているからではありません。
要するに、美術作品や現代アート作品は「ブランド価値」を効果的に示す道具として、資本主義にうまく適応できただけなのです。
金持ちがステイタスを示すのに役立つ、高額の腕時計や高級車のさらに上位の存在です。
中身がないのになぜ超高額で取引されるのか、というメカニズムをざっと説明すれば、
固定的な実体を持たないスライムこそが、無限の融合拡大を可能にする「神の似姿」にほかならないからです。
一神教の神とは、実体化できない「非存在の存在」ではなかったでしょうか。
現代アートの価値は芸術性ではなく、交換価値の異常な高さにあるのですから、ハッキリ言えば所有している人に芸術眼などは必要ありません。
せいぜい将来に高値になるであろう作品を、早いうちに見抜く眼力が必要になるくらいです。
しかしその能力は、将来に大活躍するサラブレッドを見抜いてセリで購入するようなものでしかなく、業界経験を積んだ専門家のビジネス的視点によってガイドを受けることが可能です。
簡単に言えば、将来有望な金融投資を先駆けて行う能力であって、資本主義の体制にすっかり取り込まれた退屈なものでしかありません。
かつて「芸術作品は時代を先取りする」と思われていましたが、
今ではそれが「将来成長すると予測される企業に前もって投資する」というありきたりな投資メンタルの反映でしかなくなりました。
すっかり芸術が市場に組み込まれた世界では、飛び抜けて高額な市場価値を実現するものを、すべて芸術と見なすことも可能です。
リオネル・メッシのシュートの軌道や、大谷翔平のホームランボールの速度なども、「芸術的」と表現することが可能だということです。
スポーツを例に取ると明らかですが、そこには文化産業を支える「技術信仰」が強く見られます。
「芸術的フリーキック」という表現がもっともらしく通用するのは、大衆にとって芸術とは技術信仰の謂でしかないからです。
だから、あるジャンルにおいて評価の基準が技術の話題に限られるようになったとしたら、そのジャンルは芸術性を失ってしまい、すっかり産業的な市場に支配されたと考えていいでしょう。
誤解を恐れずに言えば、文化産業の価値観の中で生き残った「芸術」とは、ビジネスの価値観で測られる「ありきたりのもの」でしかなくなりました。
ありきたりなビジネスの価値観とは、多くの人に欲望される「突出した技術」や「突出したアイデア」がすばらしいという価値観です。
ビジネスですから、あくまで多くの人に欲望されなければなりません。
いわゆる社会的弱者や凡庸な大衆は多数派を形成していますので、彼らを批判して敵に回すような人は、どんなに才能が突出していても文化産業に評価されることはありません。
現代の「芸術」は、文化産業の商品と同じく、本当はビジネス同様の価値観に依拠しているのです。
ビジネス同様の価値でしかないものに、「アート」の価値を持たせるには、
一見してビジネスだとわかりにくいものにするしかありません。
ビジネスの価値を超えている(プライスレスな)ものを提供していると思わせることが、芸術的な成功です。
こうして、「自分の価値を巧妙に偽るもの」が、芸術やアートだということになったのです。
市場価値に依存していながら、市場価値を超えた存在だと示すもの、
そのような欺瞞を成立させるには、「交換不能なもの」に市場価値を持たせることしかありません。
市場価値の中で芸術を成立させる場合、最後に行き着く先はここではないでしょうか。
すべてが交換できる領域において、「交換不能なもの」を交換するという茶番です。
たとえば自分が置かれた現実状況は簡単に交換できません。
家庭環境はもちろん、国の経済状況や戦争状態などは現実と強く結びついているために、簡単に交換することは不可能です。
バンクシーというアーティストが活躍するのは、このような現実状況と結びついた場所ではなかったでしょうか。
世界各地の悲惨な生活状況を、平和な観客たちに知らせる「広報」のようなアート作品もそうですが、
現実状況と強く結びついたライブ的な作品から、作品だけを取り出して交換することに何の意味があるのでしょう?
もはやそこに芸術的な実態がないことは明らかです。
(むしろ受け手に現実状況の追体験を呼び起こしたいなら、文学という表現を選ぶ方が妥当です)
つまり、どうしても交換がしたいのです。
現代アートは市場価値に依存しているために、どこまでも交換に依拠したものにしかならないのです。
だから交換不能な現実状況も、交換の場に置きたいのです。
(ポストモダン的な文化構築主義というのも、すべてを交換可能にする発想でしかありません)
「交換不能な現実」を交換することは、中身を伴わない詐欺的な行為でしかありません。
しかし、そのような詐欺が資本にとっては意味のあることなのです。
「交換不能なもの」を交換してみせることが、真に「交換不能なもの」を否定することになるからです。
真に「交換不能なもの」を否定することこそが、資本の支配下にある「芸術」や文化産業の目的なのです。
(現代の性差別反対というお題目は、有性生物の雌雄体という「交換不能な現実」を交換したいという現代アート的な欲望で駆動されているのです)
このような「市場芸術」の交換を実存レベルに置き換えてみると、
「誰にも理解されない自分自身」という「交換不能なもの」を交換しようと勤しむ詐欺的行為として現れます。
本当に「誰にも理解されない」のであれば、それを交換することが不可能なのは明らかです。
交換に勤しんでいる時点で、それが誰にでも理解できる「ありきたり」で幼稚な実感であることはハッキリしているのですが、
実際は詐欺的手法なので「それを言ったらおしまいよ」ということになります。
現代アートが「ありきたり」なビジネスの価値観に依拠していることを隠蔽するように、
誰もが抱く「ありきたり」な実感を、「誰にも理解されない」ものとして流通させることで、
それが「ありきたり」な価値観であることを隠蔽しようとするのです。
現代アートも文化産業も、やっていることはこんな隠蔽行為ばかりです。
本質が隠蔽行為なので、それに依存する人たちは真実を暴露されることを強く恐れています。
彼らの「交換行為=金儲け」に最も邪魔なのは、真実を暴露する「批評」です。
だとすれば、それらを一撃のもとに崩壊させることができるのも、真実を暴く「批評」ではないでしょうか。
僕自身は、文化産業批判は「現代アート的なもの」の批判とセットで行われなければ意味がないと思っています。
アドルノはあくまで芸術の擁護者だったと思いますが、僕はもう市場に支配された芸術や文学に何かを期待していません。
少なくとも、すべてを市場で交換することで「救済」が得られると思っている現代人の「資本教信仰」をコテンパンに挫くことから、芸術や文学の再生は始まると思っています。
最後はアドルノの文化産業批判を超えて話をしてしまいましたが、『啓蒙の弁証法』の文化産業批判のページはまだ半分くらい残っているので、続きを書く必要があるでしょう。
ほとんど語り尽くした気もするので、これで終わりたい気もするのですが、一応は次回をお待ちください。
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