南井三鷹の文藝✖︎上等

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「反伝統」という詐術

伝統をめぐる「対立」などあるのか

俳句界には「伝統」と「反伝統」という対立軸があるようです。
俳人の中には何かしらの了解があるのかもしれませんが、このような「対立図式」が外部の人間である僕には正しいとは思えません。
少し前のことになりますが、「俳句界」2019年1月号で「「ホトトギス」は永遠に不滅です」というタイトルの特集がありました。
この特集が本気なのか皮肉なのか、一見しただけではよくわかりませんが、「巻頭言」を寄せた筑紫磐井にとっては明らかに皮肉でした。
この筑紫の文章について少し語ってみたいと思います。


筑紫は「巻頭言」の最初で、鶴見大学の名誉教授だった山下一海の著作集の別巻にある文章を引用しています。
一人の研究者の見解だけを頼りに、俳諧の何たるかを「定義」しようとする筑紫の態度に違和感はあるのですが、
まずはその引用された山下の文章を見ていきます。
山下は「俳諧にとって伝統とは何か」という文章の中で、


俳諧にとって、伝統とは破壊するためのものであったのではなかろうか。しかし、大切なことは、伝統を破壊することによって新しい伝統を創開しているということである。

と述べているのですが、この文章を引用した筑紫は、


伝統墨守の俳人は驚愕するだろう。芭蕉・蕪村も現代俳句も通じて言えることは、「伝統ということを否定するところに俳諧の生命がある」「否定されるべきものと否定するものとの間の往復運動が、俳諧史を動かして行くエネルギーであった」ということになるのである。これは文学を越えた実証哲学的な視点であるように思う。

と書いています。
筑紫は山下の文章に伝統墨守の俳人が驚愕すると得意げですが
俳人でもない僕が驚愕したのは、筑紫当人が自分で引用した文章をちゃんと読んでいないということでした。
山下が「大切なことは」とご丁寧に強調までして、
「伝統を破壊する」ことの目的が「新しい伝統を創開」することにあるとしているにもかかわらず、
筑紫の文からは山下が強調した「新しい伝統」という視点が完全に欠落しているのです。
その結果、山下が単なる伝統破壊を推奨しているかのようにまとめられています。


「伝統ということを否定するところに俳諧の生命がある」という山下の文章を引用して、
筑紫は「現代俳句も通じて言える」と書いていますが、僕がこの山下の「俳諧にとって伝統とは何か」を読んだところ、
この箇所は「俳諧にとって」とあるように、完全に芭蕉について語る文の中に存在していたものです。
山下は現代俳句の話など全くしていないのですから、ここは筑紫が自分の見解を勝手に滑り込ませたものだと言えます。
山下は同じ文章で「芭蕉にとっての伝統は、「貞徳の涎」として、否定されるべきものとしてのみ存在した」と書いています。
つまり、山下が俳諧における伝統の破壊と言ったものは、「芭蕉が蕉風を創開した」ことについて述べたものなのです。


山下があくまで新たな伝統の「創開」を重視していることは、筑紫の引用文を見るだけでもわかることだと思います。
新たな伝統のために既存の伝統を破壊する行為は、単純に伝統に「対立」するものとして考えることはできません。
将来に伝統になりうるものでなくてはならないからです。
この筑紫の杜撰かつ意図的な「対立図式」が、彼自身の欲望を投影した結果であることは想像に難くありません。
要するに、アカデミックな世界ならば絶対に問題になるレベルの恣意的な読み換えだということです。


山下の「俳諧にとって伝統とは何か」をそのまま読めば、「伝統」がテーマであることは題名でも明らかです。
芭蕉の蕉風俳句がその後の伝統となったように、俳諧では伝統への反発が新たな伝統を生み出してきたという内容です。
冒頭にはこのような記述があります。


伝統への反発の強さが、新しい生命を生み出す活力となるのなら、伝統の存在もまた、歴史の革新に一つの寄与をなしているといえる。

つまり、伝統への反発もまた革新を生むエネルギーとして「歴史」に寄与する、ということです。
伝統への反発がその後の「歴史」へと寄与することが前提になっている話であることを見逃してしまうと、山下の意図がわからなくなります。
引用文にうまく身を隠したつもりなのかもしれませんが、俳諧とは伝統の破壊だ、などと一方向へと偏った意見を述べているのは筑紫であって、山下ではないのです。
伝統への反発が新たな伝統となるのですから、伝統と本質的に「対立」するものなど、山下はこれっぽっちも提示していないのです。
「俳諧にとって伝統とは何か」の最後の段落で、実は山下はこのように書いています。


俳諧の伝統否定・伝統反逆を説きながら、結局、私は俳諧の伝統を説いているわけである。



私生活主義イデオロギー

私生活主義という新たなイデオロギー

80年代のバブル景気以降に広まったポストモダン思想は、イデオロギーなどの近代的体系性を批判する思想として登場しました。
近代の結末にあった第二次世界大戦と、世界の破滅を視野に収めた冷戦時代を乗り越えるためには、
資本主義と社会主義の対立を生み出す国家的イデオロギーに対する批判が有効でした。
しかし、90年代に入ると社会主義陣営が崩壊し、世界には資本主義しか選択肢がなくなりました。
日本で「ポストモダン」という言葉が本格化するのはこの時期で、もうイデオロギーの時代ではないということが、
「大きな物語」の崩壊などという言葉で語られました。
今読むほどの価値があるとは思えない東浩紀の『動物化するポストモダン』が2001年出版当時に大きな話題を呼んだのは、
イデオロギーという「大きな物語」が終焉し、消費資本主義的な私生活重視の価値観が一般化したという背景があったからです。


しかし、日本の「ポストモダン」という言葉が脱イデオロギー(もしくは脱社会主義)を表すものであるとハッキリさせてしまえば、
日本のポストモダンが70年代後半に始まっていたことが理解しやすくなります。
なぜなら、日本の脱社会主義つまりは脱左翼運動が鮮明になったのは、72年のあさま山荘での連合赤軍事件だからです。
連合赤軍事件によって、学生などの左翼運動が凄惨な内ゲバを繰り返すだけで、社会的な広がりを持ちえないことがわかり、
左翼的な政治姿勢への支持が失速していったのです。
1972年は若者にとって政治の季節の終わりを刻み込まれた歴史的な年でありました。
それが僕の生まれた年です。


政治の季節の終わりは、陰に陽に政治と関係を持ち続けた近代文学の終わりを導きました。
70年にすでに三島由紀夫が自決し、72年にはノーベル文学賞作家の川端康成が自殺しています。
その後は左翼的学生運動の傍観者だった村上春樹が文壇の中心的存在となり、日本の若者の政治からの逃避が決定的になりました。
政治運動に関係しないのはもちろん、政治的関心も弱くなり、ついには社会への関心を失っていくことになりました。


社会への関心が失われると、反比例するように自分自身とその周囲への関心が高まるようになっていきます。
自分への関心に集中する私生活主義の登場です。
ポストモダン思想は趣味的関心に特化した私生活主義の付属物として登場しました。
要するに、ポストモダン思想とは私生活主義という新たなイデオロギーを後押しする理論として登場したのです。
その意味でポストモダン思想の実態はイデオロギー批判ではありません。
社会への関心よりも個人的な趣味的関心を重視して、消費にはげむべきだという消費社会のイデオロギーだと考えるべきなのです。


ポストモダン思想は私生活主義というイデオロギーの一部を構成するものでしかありません。
社会的関心がある程度死滅した世界においては、もはや私生活主義を裏付ける理論など必要はなくなります。
現在、ポストモダン思想が下火になっているのは、このような私生活主義が完全に社会的関心の排除に成功したからに見えます。
その意味で、より進んだ私生活主義の立場からポストモダン思想を批判する人に対しては、立場が違うので距離を取りたいと思っています。



平気でデタラメを書く仲正昌樹というアカデミズムの恥部

論理を操れず罵倒するだけなのに「学者」を名乗る売文屋

先頃、金沢大学教授の仲正昌樹が講談社現代新書から『ヘーゲルを越えるヘーゲル』を出しました。
仲正は〈フランス現代思想〉を専門にしているとも思えない(彼の留学先はドイツです)のに、フランスのポストモダン思想関連の本をたくさん出しています。
まともなアカデミシャンなら到底ありえないことですので、現代の売れ筋の思想に媚びて本を売っている売文屋であると僕は思っています。
(この人の専門的な思想書を本屋で見かけたことがあるでしょうか。それよりも参考書的な講義録みたいな本ばかり出している印象です)


最近、仲正は上述したヘーゲルと題した本を出したのですが、〈フランス現代思想〉は基本的に反ヘーゲルの立場だけに、これまで仲正が扱ってきた〈フランス現代思想〉とは立場がだいぶ違います。
「越える」と書いたところでヘーゲルを基軸にした本ではあるわけですから、やはり節操がないと感じるのは当然ではないでしょうか。
マルクス・ガブリエルの著書のセールスが好調だったことで〈フランス現代思想〉の旗色が悪くなってきたために、ドイツ思想を看板にしてアピールするという売文屋らしい変わり身への意志を感じました。
そこで僕は仲正の軽薄さを批判するツイートをしたのですが、それに対して仲正が明月堂書店とかいうよく知らない出版社のブログで僕への文句を書いていたのを発見しました。
それがきちんと反論をするでもなく、単に僕に対して「バカ」とか「おバカ」とかを連発するだけの罵倒で構成された上に、ネット経由で得たであろう誤った情報を垂れ流した内容だったのです。
「月刊極北59回」の仲正の文章の中から僕について書かれた部分を以下に引用します。


  最近出した拙著『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)に対して、「南井三鷹」というバカが、読みもしないで、タイトルと、著者である私についての雑な印象だけで、失礼な決め付けツイートをしていた。この男は以前「佐野波布一」を名乗り、千葉雅也氏を主要ターゲットにして言いがかりをつけていた。例えば、千葉氏を中心に編集された雑誌の現在思想系の特集を読みもしないで、駒場人脈の書き手ばかり採用している、千葉一派による思想論壇の支配に反対する、というようなことをamazonレビューなどに書いて、悦に入っていた。かなり狂っているが、自分だけは論壇・文壇のために戦う闘士のつもりのようである。そのおバカの三鷹曰く、

反ヘーゲルのフランスポストモダンにすり寄って商売していた仲正昌樹が新たにヘーゲルの新書を出したようだ。こういう信念のない商売人の本を支持する人に思想の素養はない。

そして出版社はいつまでもこういう寄生虫が大好きだ。なぜずっとヘーゲルを研究してきた人に本を書かせないのか。内実のない本を出版して人々を愚民化している出版社よ、罪を数えろ。

 こういう低レベルの人を起用するならネットでいいじゃないか。出版社はもっと高付加価値なものを高値で売る西欧のブランドのような商売をしないとネットに飲み込まれるだけだ。

  この三つのツイートだけで、この男が逆恨みの権化であること、出版業界に関して非論理的な妄想を抱いていること、および、「思想史の基本が全く分かっていないこと」を、自ら暴露してしまっている。バカの三鷹は、佐野波布一時代に、吉本隆明の専門家を装っていたが、この調子だと、吉本の主要テクストのどれ一つとして理解していないだろう。「方法論」を学ぶ意義が分からないまま、学者の世界のことについてああだ、こうだと言っていると、こういうどうしようもない廃棄物になってしまう。

とまあ、こんな具合なのですが、この文章を読んでみて、どうして僕が「バカ」と言われなければいけないのか、誰か理解できる方はおられるのでしょうか?
僕には全くわかりません。
仲正がヘーゲル以降の思想家を扱っていようが、僕がツイートで文句を言ったのは「ヘーゲル本」の体裁で著書を出版した態度についてです。
僕はタイトルを中心として批判しているのですから、「タイトルだけで」と文句を言うのは的外れもいいところで全く反論になりません。
題名に「ヘーゲル」とつけたくせに、内容はヘーゲルと関係がないとでも言うのでしょうか。
(というか、ヘーゲルの現代思想への影響という本でしたけどね)
これはヘーゲルの本ではない、とか、フランスポストモダンにすり寄っていない、と反論するでもなく、はたまた、自分はずっとヘーゲルを研究してきた、と強弁するでもないのに、どこについて僕をバカ扱いしているのか意味がわかりません。



「現在」に依存する「甘え」を許すな

無知な「若手」俳人のワガママはもうたくさんだ

50歳以下の人を「若手」と呼ぶのもどうかと思うのですが、
『新撰21』(邑書林)以後に頭角を現した若手俳人たちの多くには共通する「病理」が感じられます。
簡単に言えば、自分の作品を「俳句」であると言いたがるくせに、
俳句の歴史や詩型の制約からは自由にさせてくれ、というものです。
彼らは俳句の因習から自由な新しい俳人を気取っていますが、その実ただ俳句の資産にぶらさがってアンモラルなことを貪っているだけに終わっています。
大きなものには守られたいが、その中では好きにやりたい、という発想は、ガキっぽい「病理」とも言えるものなのですが、
商業主義に走る俳句出版界では彼らが新しいことをやっている若手であるかのように捉えています。
冷静に見れば堕落しただけの作品を、新しい潮流であるかのように扱い、
それを大御所たちが見て見ぬ振りをしているというのが現状です。
日本の内輪組織のアンモラルさについては、最近のスポーツ界ではかなり表面化しているのですが、
同じく因習を維持している伝統文学の世界では、一般人の注目が低いのをいいことに、同様の問題に対して批判精神が薄いように思います。


過去の俳句の歴史を批判的に乗り越える作品づくりというのは、新たな創造だと言えますし、僕も歓迎します。
しかし、俳句を俳句たらしめてきたものを単なる「制度」として批判し、自分の思いつきをそのまま俳句として流通させようとする態度は、
俳句の名を借りて好き勝手なことをやる「俳句へのタダ乗り行為」に等しいと言えるでしょう。
実作の力も乏しい俳人がやたらと理屈を振り回し、その実主張の内容が「好きにやらせろ」でしかないという昨今の現象を見ていると、
読む一方の純粋読者である僕からすると、読者そっちのけで作者が自己都合のことを言っているだけにしか思えません。
(俳人は読者の多くが俳人であることに甘えていると思います。他のジャンルではこんなくだらない主張に耳を貸す人などいないでしょう)
あまりに不毛なので、こういうくだらない主張を簡単に切り捨てるられるように、「若手のワガママ」をまとめておこうと思います。