南井三鷹の文藝✖︎上等

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集約−拡散ゲーム

集約と拡散のせめぎ合い

社会のかたちは時代ごとに移り変わっていきます。
右に寄ったと思えば、今度は左に寄ってみたり、またその逆になったり、なかなか同じかたちを維持し続けることができません。
そのような社会変化を大きく捉えれば、「集約」と「拡散」のせめぎ合い、というふうに整理できると僕は思っています。
「集約」とは、さまざまなものを一つにまとめることですが、
人々が集まって社会を形成することが、まずは社会集約の運動だと言えます。
その上でさらに集約の運動を推し進めると、中央集権的な管理へとたどり着くことになるでしょう。
集約は中央に管理された同一性を価値とする運動です。
「拡散」は、集まっていたものが散り散りになって拡がっていくことです。
集団が個へと分解するのは拡散運動ですし、社会形態としては権力分散型や地方自治にあたります。
拡散は多様性を価値とする個々の自立を価値とする運動です。
大雑把に言えば、国家権力を中心として人々をまとめ上げた「近代」は集約の時代でしたし、
自由市場を前提として脱中心的な欲望を称揚した「ポストモダン」は拡散の時代でした。



文学業界への提言

文芸誌という横並び文化

日本の「商業文芸誌」は、横並び文化で成り立ってきました。
そう、隣の人を見て自分のやることを決めるという、日本的なアレです。
気がつくと、みんなで同じことをやっている……。
これは新規参入がなく、周囲の「空気」から浮かなければ「安全」だという、自己保身的な社会にありがちな構造です。
どこでも同じニュースを流している地上波テレビ局が、その典型です。
商業文芸誌の代表は「文学界」「群像」「新潮」「文藝」「すばる」などですが、それぞれ出版社が違うはずなのに、登場する書き手は驚くほど変わりがありません。
他の文芸誌が評価しない作家を、ある文芸誌だけが掲載することにこだわった、という現象は見られないと思います。
どの雑誌も掲載する作品を作者﹅﹅によって決めていますし、
要求するレベルも全部同じだということです。
文芸誌は複数存在するように見えても、実際は一つのイデオロギーを共有した競争﹅﹅なき﹅﹅中央管理世界でしかないのです。



アニメ【推しの子】にハマってみた

「推し=母親」の二重性

今回は2023年4月〜6月期に放映されたアニメ『【推しの子】』(第一期)を取り上げて、「今」という時代を考えたいと思います。
この作品がヒットしたことは感覚でわかります。
僕は毎週楽しみました。
アニメ最終話以降の展開が気になるので、赤坂アカ・横槍メンゴの原作漫画を読みたい気持ちもあるのですが、
僕は純粋にアニメ作品として味わうことに決めました。
(無料で楽しめるから、という面も大きいですが)
なので、この記事のネタバレ情報は、ほぼアニメ化したところまでの内容です。



「わかりやすさ」の落とし穴

同質性を基盤とする「疑似家族」

いわゆるポストモダン思想は、資本主義体制(西側)と社会主義体制(東側)という二項対立を乗り越えることを存在意義としていました。
しかし、ポストモダン思想が支持を集めた後でも、
イデオロギーの対立「図式」が、解体されることはありませんでした。
90年代の社会主義体制の崩壊によって、
東西のイデオロギー対立は、「現状肯定=保守的右派」と「現状批判=改革的左派」の対立に引き継がれました。
その内実は複雑化しているものの、わかりやすい二項対立図式はいつまでも維持されています。
その理由はシンプルです。
たいてい考えることが嫌いな人は、自分と異なる意見に真摯に応じるより、異なる主張をする人を「敵陣営」と見なして排除することを好むからです。
とりわけ日本では、肩書き主義によって、主張の内容を吟味するよりも、主張する人が「何者か」を判断基準にすることに、あまり疑問がありません。



「資本主義批判」で儲けるために

出版業界も「番宣」花ざかり

斎藤幸平の新刊『ゼロからの『資本論』』が、店頭に積み上げられているのを見て、
またこういう商売か、と思ってしまいました。
「こういう商売」というのは、テレビで言う「番宣」にあたる自己宣伝のコンテンツ化のことです。
出版に当てはめるならば、自分の利益に関与する書物を宣伝するための書物ということになります。



現代思想の正体

タイムリープ化する「現代思想」

「ポストモダン思想」でも「現代思想」でも呼び方は何でもいいのですが、
特定のフランス現代思想を「最新」の哲学だと見なす神話ヽヽが、日本ではいつまでも信じられています。
簡単にまとめれば、ドゥルーズ=ガタリやデリダを中心とするフランス現代思想は、「68年の思想」と呼ばれるもので、
依拠する時代背景はもう50年前になるわけですから、ちっとも「現代」ではないわけです。
日本でフランス現代思想がブーム化したのは、浅田彰や中沢新一が「ニューアカ」と呼ばれて「知の商品化」が起こった80年代になります。
「商品化」と言われるのは、それが一般読者向けの出版ジャーナリズムと結びついた「商売」(さらに言えば「広告」)だったからです。
メディア・ジャーナリズムが「最新」の消費事情について取り上げるのを目にすることは日常茶飯事ですが、
それと全く同じ感覚で「最新」として売り出された思想の消費事情を、「現代思想」と呼んで知的な態度のように偽装してきました。
簡単に言えば、「現代思想」や「ポストモダン思想」とは、学術的な評価が定まっていない流行の西洋思想を、「人気商品」として売り出したものです。
大衆的人気を背景にして高尚な思想を語っている気分になるだけの、「凡庸な遊戯(ごっこ遊び)」だったということです。



「推し」の構造

「萌え」という消費の燃料

Twitterのフォロワーさんから、「推し」がよくわからない、というリプをいただいたので、「推し」について書こうと思ったのですが、
Twitterは論説には向かないメディアなので、ここに書くことにしました。
「推し」は「萌え」と関係が深いので、まずは「萌え」について復習したいと思います。
「萌え」は現実的に結実しない性欲を、社会的に認知してもらおうとする欲動のことでした。
そこでは性欲が現実的な相手に向けられることはなく、架空の対象へと向けられることで去勢されています。
対象と結ばれることのない虚しさを、商品購入やイベントなどの消費行為によって補完し、
性的な趣味的共同体に参入することで癒していくことが「萌え」の本質でした。



文化の骨について

韓国映画の快進撃

この前、地上波で韓国映画『パラサイト 半地下の家族』が放映していたのにたまたま気づいて、だいたい3分遅れくらいで見始めました。
実を言うと僕は映画嫌いです。
正確に言えば映画館ヽヽヽ嫌いなのかもしれませんが、
どうにも映画を見る意欲に乏しく、普段は目についたものをテレビで流して見るくらいなのですが、
さすがに『パラサイト』は、カンヌ国際映画祭でパルムドールに選ばれ、第92回アカデミー賞で作品賞をはじめ4部門を制覇した名作です。
暇があったら見てしまうものではあります。
たいした期待も持たずに見始めましたが、早めから観客を引き込むような巧みな作りで、最後までおもしろく見てしまいました。
僕はその程度の観客なので、映画にも詳しくありませんし、ポン・ジュノ監督の他の作品も全く知りません。
(後で調べてみたら、『グエムル 漢江の怪物』はCMを見た記憶がかすかにありました)
でも、この作品を見たら少し言ってみたいことが出てきました。


韓国に対する好き嫌いは別として、ある程度客観的な目で見ていくと、
映画やドラマに関しては、日本より韓国の方がクオリティの高いものを作っていると思います。
僕は以前に韓国の恋愛ドラマがなぜ日本の恋愛ドラマよりおもしろいのかを文章にしたことがあるのですが、
今やそこで書いた韓国ドラマのエッセンスを日本のドラマも真似するようになっています。
NiziUなど、グループアイドル界でも韓国の方法論を日本が後追いしているのが現状です。
(日本のアイドルにはBTSのようにビルボードで1位になる日は来ないでしょうが)
僕は読んでいないのですが、書店の外国文学の棚を見ているだけでも、韓国作家の本が増えた気がします。
マンガやアニメに関しては、まだ日本がリードを保っていると思いますが、
市場の狭いところで勝っているだけにも思えます。
まあ、この種の議論は感情的になる人もいるでしょうから、客観的評価というより僕の個人的感想ということでも構いません。
どんなに国内で大声を出しても、国際評価がついてこなければ虚しいだけですけどね。



私生活主義イデオロギー

私生活主義という新たなイデオロギー

80年代のバブル景気以降に広まったポストモダン思想は、イデオロギーなどの近代的体系性を批判する思想として登場しました。
近代の結末にあった第二次世界大戦と、世界の破滅を視野に収めた冷戦時代を乗り越えるためには、
資本主義と社会主義の対立を生み出す国家的イデオロギーに対する批判が有効でした。
しかし、90年代に入ると社会主義陣営が崩壊し、世界には資本主義しか選択肢がなくなりました。
日本で「ポストモダン」という言葉が本格化するのはこの時期で、もうイデオロギーの時代ではないということが、
「大きな物語」の崩壊などという言葉で語られました。
今読むほどの価値があるとは思えない東浩紀の『動物化するポストモダン』が2001年出版当時に大きな話題を呼んだのは、
イデオロギーという「大きな物語」が終焉し、消費資本主義的な私生活重視の価値観が一般化したという背景があったからです。


しかし、日本の「ポストモダン」という言葉が脱イデオロギー(もしくは脱社会主義)を表すものであるとハッキリさせてしまえば、
日本のポストモダンが70年代後半に始まっていたことが理解しやすくなります。
なぜなら、日本の脱社会主義つまりは脱左翼運動が鮮明になったのは、72年のあさま山荘での連合赤軍事件だからです。
連合赤軍事件によって、学生などの左翼運動が凄惨な内ゲバを繰り返すだけで、社会的な広がりを持ちえないことがわかり、
左翼的な政治姿勢への支持が失速していったのです。
1972年は若者にとって政治の季節の終わりを刻み込まれた歴史的な年でありました。
それが僕の生まれた年です。



平気でデタラメを書く仲正昌樹というアカデミズムの恥部

論理を操れず罵倒するだけなのに「学者」を名乗る売文屋

先頃、金沢大学教授の仲正昌樹が講談社現代新書から『ヘーゲルを越えるヘーゲル』を出しました。
仲正は〈フランス現代思想〉を専門にしているとも思えない(彼の留学先はドイツです)のに、フランスのポストモダン思想関連の本をたくさん出しています。
まともなアカデミシャンなら到底ありえないことですので、現代の売れ筋の思想に媚びて本を売っている売文屋であると僕は思っています。
(この人の専門的な思想書を本屋で見かけたことがあるでしょうか。それよりも参考書的な講義録みたいな本ばかり出している印象です)