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『有閑階級の理論』(講談社学術文庫)ソースティン・ヴェブレン 著/高 哲男 訳【後編】

顕示的浪費の文化的影響

不勉強な哲学者たちの誤りを正すのに紙幅を費やしてしまいましたが、
学者でありメディア露出も多い著名人が出版し、業界ではそれなりの評価を受けた本でさえ、プロの仕事と言えないものがある、と認識することが大切です。
文章の内容は、本質的に、内容そのもの以外(社会的地位や名声など)が判断材料になることなどないのです。
とりわけ権威への依頼心が強い人を信用しすぎるのはお勧めしません。


ここまでが『有閑階級の理論』全14章のうちの4章までにあたります。
おいおい、まだまだ残りの方が断然多いじゃないか、と思われるかもしれませんが、ここからは派生的な内容です。
よく読むと興味深い記述がたくさんあるのですが、
記事の長さを考えて、僕が個人的に興味を惹かれたところをピックアップして書いていきたいと思います。



『有閑階級の理論』(講談社学術文庫)ソースティン・ヴェブレン 著/高 哲男 訳【前編】

異端の経済学者

消費資本主義について考察する上で、読んでおかなければならない本の一つにソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』(1899年)があります。
ヴェブレンには他に『企業の理論』(1904年)などの著作があるのですが、結果として処女作が長く読み継がれることになりました。
僕が100年以上前の古典を取り上げるのは、ヴェブレンの有閑階級についての考察が、アメリカ消費文化への批判であり、
ひいてはアメリカ消費文化を模範として発展した日本の現在の消費文化を考察することに役立つからです。
現在、講談社学術文庫(高哲男 訳)とちくま学芸文庫(村井章子 訳)で翻訳が出ているのですが、ヴェブレン独自の思考展開(特に後半)についていくのが難しく、
僕は両ヴァージョンを計3回(講談社を2回)読んだのですが、3回目でやっと何かが書けるような気がしてきました。
(この記事での引用文は断りがない限り、講談社学術文庫版を用います)


「異端の経済学者」とも言われるヴェブレンの経歴は少し変わっています。
彼はもともと哲学で博士号を取得しています。
カントやハーバート・スペンサーを研究していたようで、「カントの判断力批判」という投稿論文が残っています。
ヴェブレンは哲学科の大学教員になりたかったようなのですが、望むような仕事は見つからず、一度は実家のあるミネソタに戻りました。
幅広い分野にわたって読書をしたのがこの期間だと言われています。
そこからヴェブレンは経済学へと転身し、コーネル大学の大学院へ2年間通います。
そこで指導教授をしていたラフリンに気に入られ、ラフリンがシカゴ大学の経済学部長になると、その縁で助手のポストを得ることになるのです。
ヴェブレンは1899年に『有閑階級の理論』を出版し、翌年には助教授になりましたが、学界での評価はそれほどでもなかったようです。
それでも晩年にはアメリカ経済学会の会長に推薦されたこともありましたが、
ヴェブレンはそれを辞退し、カリフォルニア郊外の小屋で自作の家具とともに質素に暮らしました。
亡くなったのは、1929年の世界大恐慌が起こる直前でした。



『操られる民主主義』(草思社)ジェイミー・バートレット 著/秋山 勝 訳

デジタル・テクノロジーが社会を破壊する?

本書の著者のバートレットはイギリスのソーシャルメディア分析センターのディレクターなので、インターネットの専門家と言えると思います。
原題の直訳が『「国民」対「テクノロジー」:インターネットはどうやって民主主義の息の根をとめるのか(そして、いかにして民主主義を救い出すのか)』となるので、
デジタル・テクノロジーによる社会変化の負の側面を主に取り上げた本と言って良いでしょう。


本書はインターネットやAI、ハイテク企業の問題点を的確に指摘しているのですが、僕自身は驚くような恐怖が描かれているという印象は持ちませんでした。
日本の民主主義がイギリスより未熟なせいなのかもしれませんが、インターネットの存在とは関わりなく、大衆などそんなものだと思っているのかもしれません。
しかし、このような本を読むときに、人間がそうなるのはテクノロジーのせいなのか、そもそも人間とはそういうものなのではないのか、と疑っておくことは重要だと思います。
穏当な結論は、人間はもともとそういうものだが、インターネットはそれを増幅している、というものでしょう。
この発想は多くの人が受け入れやすいものでしょう。


テクノロジーは人間を安楽へと誘導します。
もう我慢しなくていいんだよ、と甘言を弄して、僕たちの行為への敷居をどんどんと低くしていきます。
こうして書いたものが人の手に渡るとき、大昔はすべてを書き写す労苦がありましたが、印刷術の発達によって大幅に作業が短縮されるようになり、インターネットによってとうとう即時的に世界中に発信することができるようになりました。
考えてみればおそろしい進歩ですが、僕たちはすぐにテクノロジーを自らの能力の拡張として把握してしまう、つまりは慣れてしまうのです。