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ソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』(講談社学術文庫)高 哲男 訳【後編】

顕示的浪費の文化的影響

不勉強な哲学者たちの誤りを正すのに紙幅を費やしてしまいましたが、
学者でありメディア露出も多い著名人が出版し、業界ではそれなりの評価を受けた本でさえ、プロの仕事と言えないものがある、と認識することが大切です。
文章の内容は、本質的に、内容そのもの以外(社会的地位や名声など)が判断材料になることなどないのです。
とりわけ権威への依頼心が強い人を信用しすぎるのはお勧めしません。


ここまでが『有閑階級の理論』全14章のうちの4章までにあたります。
おいおい、まだまだ残りの方が断然多いじゃないか、と思われるかもしれませんが、ここからは派生的な内容です。
よく読むと興味深い記述がたくさんあるのですが、
記事の長さを考えて、僕が個人的に興味を惹かれたところをピックアップして書いていきたいと思います。


顕示的消費として行われる支出は、無限に拡大する可能性がある、とヴェブレンは述べます。
収入が減るよりも、支出の水準を落とす方が困難であることに加え、
顕示的消費で支出される額は、がんばれば今の自分でも達成できる理想額になります。
そのため、各階層は社会的ランクが1つだけ上位の階層を羨みつつ張り合うようになるのです。
自分の階層とかけはなれた存在については、上位でも下位でも視界に入りません。
「個人の生活水準がどのようなものになるかをおおよそ決定するのは、個々人が所属している社会や階級内部でお墨つきを得ている支出の基準である」
というヴェブレンの記述からは、顕示的消費が個人的な虚栄心とは関係なく、
社会に組み込まれシステム化されていることを読みとるべきでしょう。


顕示的浪費は周囲からの尊敬を得るために行われることなので、何にお金をかければ尊敬に値するか、ということを考えるように人々を促します。
ヴェブレンは尊敬に値する支出を行うという慣行が、宗教的分野の神聖な建物や崇拝用の道具にも及んでいると指摘します。
(ここにアドルノ先生は激怒したわけですが)
宗教的儀式には定式文言フォーミュラのくりかえしが見られます。
古い呪術性を持った言葉が、その内実を失って形式化したあとも使われているのは、
その顕示的な言葉の浪費において、儀式を司る主人(司祭など)の社会的能力を示す目的がある、とヴェブレンは考えています。
この話は宗教だけでなく文学にも当てはまりそうな感じがします。


文学といえば、ヴェブレンはウィリアム・モリスの話をするときに、芸術的な出版事業について取り上げています。
本を作る上で手作り感や「オールド・スタイル」(無骨な紙面、手漉き紙、昔流の活字など)など使い勝手が悪いものを好むのは、
「時間と努力を浪費できる能力」を証明してくれるからだ、と彼は述べます。
機械製の製品より手作り品が優越する、というモリス的な発想は、ヴェブレンからすれば、顕示的な浪費や閑暇の現れでしかありません。
(ここに國分功一郎がまた文句を言っていますが、例によって不勉強なイチャモンなので割愛します)
全面的にヴェブレンの意見に賛成する必要はないと思いますが、
内容がひどく同時代的なものでしかないにもかかわらず、造本において古めかしいスタイルをとる本には、
著者の有閑階級意識を顕示する欲望を嗅ぎとることができる、という点には僕も同意します。
限定出版にも同様の効果があるとヴェブレンは述べています。


こういうヴェブレンの実証的な記述に当たると、國分のように、あれもこれも顕示的閑暇で説明すると思う人が出てくるのはわかります。
ですが、そもそもヴェブレンは顕示的閑暇や顕示的消費というものが原理として文化を制限していると考えています。
その前提に立てば、根底的な原理として見出されたものが、いろいろなものに適用できなければおかしいのです。
いろいろな現象にヴェブレンが顕示的閑暇の痕跡を見つけ出すのは、当然の展開だと思います。
それに注意深く読めば、すべてが顕示的な要素で決まるわけではない、とヴェブレンが書いている箇所を何度も見つけることができるはずです。
ヴェブレンは直観にすぐれた、いわゆるパラノイア型の天才です。
11か国の言葉を自由に使えたらしい、と宇沢弘文も書いていますので、言語能力だけでも相当なものです。
浅薄なポストモダン理解だとパラノイアは悪いものにされているのですが、そういう思考法でしかつかみ取れないものがあることも事実です。


他にも興味深いヴェブレンの指摘はたくさんあります。
有閑階級の生活様式は古い過去から受け継がれたものであるため、初期の野蛮時代の風習や理想などを体現しています。
略奪が価値を持った時代の価値観も保存され、有閑階級は武勇の精神を尊重するとしています。
ヴェブレンがおもしろいのは、この武勇の精神の尊重が現代ではスポーツに現れている、と主張することです。
こういうところも文句を言いたい人はたくさん出てきそうなものです。


こうなると、有閑階級は野蛮で略奪的な特性を現代にまで保存してきた存在ということになります。


現代的な産業における有閑階級に属する人々の職業は、一定の略奪的な習慣や性癖を生き延びさせるような種類のものである。

ヴェブレンの書き方がわかりにくいのですが、現代の有閑階級は古い略奪的な習慣を保持できる職業についている、と言っています。
どうして有閑階級が古い習慣や性癖を持ち続けるのか、というのは注目すべきポイントです。
おそらく有閑階級が産業労働を免除された存在であるため、
産業労働の世界で生み出された価値観の圧力を受けることがなく、野蛮時代の特質を保存し続けることができたのだと思います。
そうなると、社会的階層が上位に位置するほど、昔ながらの考えを保持し続けることになるわけです。



ソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』(講談社学術文庫)高 哲男 訳【前編】

異端の経済学者

消費資本主義について考察する上で、読んでおかなければならない本の一つにソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』(1899年)があります。
ヴェブレンには他に『企業の理論』(1904年)などの著作があるのですが、結果として処女作が長く読み継がれることになりました。
僕が100年以上前の古典を取り上げるのは、ヴェブレンの有閑階級についての考察が、アメリカ消費文化への批判であり、
ひいてはアメリカ消費文化を模範として発展した日本の現在の消費文化を考察することに役立つからです。
現在、講談社学術文庫(高哲男 訳)とちくま学芸文庫(村井章子 訳)で翻訳が出ているのですが、ヴェブレン独自の思考展開(特に後半)についていくのが難しく、
僕は両ヴァージョンを計3回(講談社を2回)読んだのですが、3回目でやっと何かが書けるような気がしてきました。
(この記事での引用文は断りがない限り、講談社学術文庫版を用います)


「異端の経済学者」とも言われるヴェブレンの経歴は少し変わっています。
彼はもともと哲学で博士号を取得しています。
カントやハーバート・スペンサーを研究していたようで、「カントの判断力批判」という投稿論文が残っています。
ヴェブレンは哲学科の大学教員になりたかったようなのですが、望むような仕事は見つからず、一度は実家のあるミネソタに戻りました。
幅広い分野にわたって読書をしたのがこの期間だと言われています。
そこからヴェブレンは経済学へと転身し、コーネル大学の大学院へ2年間通います。
そこで指導教授をしていたラフリンに気に入られ、ラフリンがシカゴ大学の経済学部長になると、その縁で助手のポストを得ることになるのです。
ヴェブレンは1899年に『有閑階級の理論』を出版し、翌年には助教授になりましたが、学界での評価はそれほどでもなかったようです。
それでも晩年にはアメリカ経済学会の会長に推薦されたこともありましたが、
ヴェブレンはそれを辞退し、カリフォルニア郊外の小屋で自作の家具とともに質素に暮らしました。
亡くなったのは、1929年の世界大恐慌が起こる直前でした。


ヴェブレンの経済学に若き日の哲学研究が影響しているかどうかに関しては、様々な意見があるようです。
ハーバート・スペンサーの影響が晩年の著作に反映されている、とはジョン・K・ガルブレイスの言葉です。
カントの影響というのは、僕が読んだ印象では、あまり感じられませんでした。


彼が「異端」と言われる理由は本書を読むとよくわかります。
経済人というものは合理的に損得勘定をして意思決定をするものだ、という多くの経済理論とはまるで違って、
富裕層というものは古代から続いている人類学的な社会習慣に基づいて、非合理的に見える消費行動をするものだ、と主張しているからです。
労働することが人間のあるべき姿であるという考えに反して、労働しないことが上流の階層であることの証明だ、としているからです。
さらに言えば、一般に経済学の範疇だと思われている領域を激しく逸脱し、人類学や社会学の領域に踏み込むような考察をしています。
ガルブレイスは、ヴェブレンが人類学や社会学を用いたのは、富裕層への敵意をわかりにくくするための隠れ蓑だと言っていますが、
僕はそういう印象は抱きませんでした。
ヴェブレンは経済学という学問上の領域を突破して、人間とはこういうものだという一種の「人間学」を試みていたように感じるのです。
こういう規格外のものがアカデミズムの世界で評価されるのは、いかにアメリカでも難しかっただろうと思います。


『有閑階級の理論』は単純な原理に貫かれているので、いくらでも簡単にまとめることは可能なのですが、
進化経済学という変わった学問ジャンルを構想していたためか、話題が広範囲に及ぶためか、文章のせいか、
実際は後半部に行くにつれて読みにくくなる難解な本です。
正直なところ、その部分に迫るほどの読書はできていないのですが、なるべく深いところまで触れていきたいと思っています。



『操られる民主主義』(草思社)ジェイミー・バートレット 著/秋山 勝 訳

デジタル・テクノロジーが社会を破壊する?

本書の著者のバートレットはイギリスのソーシャルメディア分析センターのディレクターなので、インターネットの専門家と言えると思います。
原題の直訳が『「国民」対「テクノロジー」:インターネットはどうやって民主主義の息の根をとめるのか(そして、いかにして民主主義を救い出すのか)』となるので、
デジタル・テクノロジーによる社会変化の負の側面を主に取り上げた本と言って良いでしょう。


本書はインターネットやAI、ハイテク企業の問題点を的確に指摘しているのですが、僕自身は驚くような恐怖が描かれているという印象は持ちませんでした。
日本の民主主義がイギリスより未熟なせいなのかもしれませんが、インターネットの存在とは関わりなく、大衆などそんなものだと思っているのかもしれません。
しかし、このような本を読むときに、人間がそうなるのはテクノロジーのせいなのか、そもそも人間とはそういうものなのではないのか、と疑っておくことは重要だと思います。
穏当な結論は、人間はもともとそういうものだが、インターネットはそれを増幅している、というものでしょう。
この発想は多くの人が受け入れやすいものでしょう。


テクノロジーは人間を安楽へと誘導します。
もう我慢しなくていいんだよ、と甘言を弄して、僕たちの行為への敷居をどんどんと低くしていきます。
こうして書いたものが人の手に渡るとき、大昔はすべてを書き写す労苦がありましたが、印刷術の発達によって大幅に作業が短縮されるようになり、インターネットによってとうとう即時的に世界中に発信することができるようになりました。
考えてみればおそろしい進歩ですが、僕たちはすぐにテクノロジーを自らの能力の拡張として把握してしまう、つまりは慣れてしまうのです。