南井三鷹の文藝✖︎上等

Home > ブログ > 2018年12月の記事

現実逃避に俳句を利用するペテンの危険性

岐路に立つ俳句商業誌

俳句人口のうちのどれほどがシニア層になるのかわかりませんが、
世代ごとに俳句人口比率をわざわざ出さなくても、40代が「若手」と呼ばれる世界が高齢層に支えられていることは明白です。
つまり俳句界で商売をするには高齢層への目配りが必要になるのは今さら言うまでもないことです。
もっとマクロ的な話をすれば、テレビ番組の構成を見るまでもなく、日本全体においてマーケティングの関心が主に購買力のある高齢層になっています。
加えて出版という旧メディアに親しんでいるのは高齢層です。
このような事実を考えれば、俳句で商売を考えた場合、どうしたって高齢者を相手にしなければならないことになります。
出版市場に存在する俳句商業誌のほとんどが高齢層の購買によって支えられているのは間違いのない事実でしょう。


しかし、高齢の人は若い人より安定的な顧客とは言えません。
生物としての必然からより逃れ難いところにいるからです。
30年もすれば僕自身が立派な後期高齢者なのですから、僕より上の世代の方がどれだけ「現役」でいられるかは怪しいと言わざるをえません。
そうなると商売の安定化のためには若い顧客がある程度必要になるのですが、そこに一つ大きな問題が存在するのです。
高齢層と若い層とでは俳句に求めているものがかけ離れているということです。


ものすごく簡単に二分化してしまうと、
形式を固定化して日常実感や目に映った風景を俳句にすることが俳句だと考える高齢層(プレバト含む)と、
実感より詩的表現をめざすその裏で自己承認を求めて「作家」であろうとする若い層という感じでしょうか。
実感共有派と詩的ファッション派というふうにとりあえずはくくってみますが、
念のため僕はどっちも文学とは言いにくいと思っていることを表明しておきます。
ただ、どちらかというと詩的ファッション派には自らが高尚であると錯覚して偉そうにしている不愉快な俳人が多いとは思っています。


商業俳句誌の立場に立てば、現状のメイン購買層である高齢層を無視する紙面づくりはできません。
かといって、未来の読者にそっぽを向かれるのも困るので、詩的ファッション派の若い層にも目配りする必要があります。
その結果、「注目の若手」特集のようなものを企画して、ウケがいい人を適当に起用するということに落ち着きます。
「ウケがいい人」が誰に対してウケがいいのか、という問題もあるのですが、とりあえずそういうことをやっておけば、編集者としてはやることをやっている気分になれるわけです。
僕がここ数年の俳句商業誌を見たかぎりでは、このような発想を越えた内容があったようには思いません。



柄谷行人のポストモダン批判【その2】

ポストモダンという保守思想

前回に引き続き、柄谷行人のポストモダン批判について書いていきます。
柄谷は日本のポストモダンが、実は江戸時代の文化文政期や戦中の「近代の超克」の焼き直しであると述べています。
それについて見ていく前に、僕の〈フランス現代思想〉批判と柄谷の見解の共通点について再度確認しておきたいと思います。


僕は〈フランス現代思想〉の日本での受容が消費資本主義と歩調を合わせたものでしかなく、ポピュリズム的な「サブカル的転回」を果たしたのち、ナショナリズムに奉仕する結果になったと思っています。
このことについて柄谷がどう考えているかを探ってみると、1984年発表の「批評とポスト・モダン」という論考で、
ポストモダニズムが消費社会の論理を再生産するというフレドリック・ジェイムソンの主張を引用してはいるのですが、柄谷自身は「両者は基本的にちがっている」とあまりその考えに乗り気ではありませんでした。
しかし、2001年の『トランスクリティーク』の序文では、それが資本主義的な運動の代弁でしかなくなったことを認めています。
以下に引用してみましょう。


私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考──私自身それに加わっていたといってよい──が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。九〇年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコンストラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。

ディコンストラクション(脱構築)は〈フランス現代思想〉のポスト構造主義の代名詞のようなものです。
柄谷はそれがソビエトなど社会主義陣営が健在なときにだけ意味を持ったと言っています。
僕も消去されたAmazonレビューのコメント欄で、〈フランス現代思想〉はスターリン批判を背景にしたものでしかなく、今は北朝鮮にでも行って主張する以外に価値はないと書いたことがあります。
本当に似たようなことを言っていたんだな、と思います。
(そして、そう主張する僕が今でもマイノリティである以上、柄谷のポストモダン批判はどこかで誰かに握りつぶされたということになるわけです)


このあと、柄谷の文章は次のように続きます。


懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義・サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。

僕の言うことなど聞かなくても良いですから、未だに〈フランス現代思想〉などのポストモダン思想に価値があると勘違いしている人たちは、柄谷のこの文章をよく読んでから発言してほしいものです。
現代のポストモダン思想は全くもって保守的なものでしかないのです。
そのため、ポストモダンに乗っかった人間は案外簡単に保守へと鞍替えすることができるのです。
加えて言っておくべきことは、柄谷の言うポストモダン思想が「当初もっていた破壊性」というものは、日本において発揮されたことは一度だってありません。
本家の西洋に対して破壊性を持つ思想というだけのことで、日本においては歴史上に何度も登場した「よくある発想」でしかないのです。



柄谷行人のポストモダン批判【その1】

利権を超えられなかった柄谷のポストモダン批判

僕はAmazonレビューで〈フランス現代思想〉を俗流化した日本のポストモダン受容を批判してきました。
それに対し、千葉雅也や石田英敬、清水高志などの〈フランス現代思想〉系の学者などからツイッターで悪口を言われたのですが、
最近柄谷行人の著書を読み直してみたところ、僕が批判したような内容はすでに90年代に柄谷行人がすでに指摘していたことと重なっていたことがわかりました。
千葉雅也は僕を「ポストモダン嫌い」として貶めることに必死でしたが、さて、彼は同じことを柄谷行人にも言えるのでしょうか。


僕が権威を後ろ盾にせずに自説を展開していたのをいいことに、自らの不勉強を棚に上げて悪口を言う人の頭の悪さには同情を禁じ得ませんが、
せっかくなので僕と柄谷の見解が近いことをここで示しておこうと思います。
(もちろん、僕と柄谷の見解には異なる部分もあります)
しかし、柄谷のポストモダン批判は驚くほどに現代思想界隈では共有されていないのですね。
これは柄谷自身がポストモダン思想の導入に関係したため、あとになってそれを批判する作業に勢いがなかったということもあるとは思いますが、
当の柄谷自身にポストモダン批判に対する熱意が足りなかったことが最大の要因だと思います。
その後に20年以上もポストモダン思想が隆盛をきわめたこと、そして現在に同様の批判をした僕がどのような立場にあるかを考えれば、当時の柄谷の批判に耳を傾ける人はそれほどいなかったことが想像できます。
実際、柄谷のポストモダン批判を受け継いだ人は皆無だと言って良いのではないでしょうか。


僕は〈フランス現代思想〉に代表されるポストモダン思想が日本のナショナリズムを強める結果になったと思っています。
ざっくり説明すれば、ポストモダン思想は西洋近代を批判するものです。
つまり、西洋にとってみれば「自己反省」を意味することになるはずなのですが、
そもそもの〈フランス現代思想〉にも「反省」の姿勢があったかどうかというと大いに疑問が残ります。
というのも、結局はただのパラダイムシフトでしかなかったと思えるからです。