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「資本主義批判」で儲けるために

出版業界も「番宣」花ざかり

斎藤幸平の新刊『ゼロからの『資本論』』が、店頭に積み上げられているのを見て、
またこういう商売か、と思ってしまいました。
「こういう商売」というのは、テレビで言う「番宣」にあたる自己宣伝のコンテンツ化のことです。
出版に当てはめるならば、自分の利益に関与する書物を宣伝するための書物ということになります。


テレビが自局の番組宣伝を目的としたスポットCMや番組を、公然と流すようになったのはいつからでしょうか。
露骨な番宣は「バラエティ番組」が増えた90年代から、急に増えた気がしています。
まず民放で、番宣CMやドラマの出演者による宣伝バラエティ番組が頻繁に見られるようになり、
それが常態化すると、受信料をもらっているNHKまでもが、番宣を平気で流すようになりました。
(それに伴って、お笑い芸人のドラマ起用が増えて、日本のドラマがバラエティ化するようになります)
今月のNHKだと、大河ドラマの宣伝を意図した徳川家康の話題が、各種の番組で引っ切りなしでした。
(たとえば「美の壺」というBS番組でお茶をテーマとした時に、静岡のお茶から徳川家康をぶっ込んできたりする感じです)
もはやテレビ局は視聴者に宣伝を意識させない「ステルス番宣」の技術ばかり磨いている、とさえ言えそうです。


出版界も同様の宣伝手法が増えています。
他の書籍の宣伝になるような書籍を作って売るという商売モデルです。
その商売モデルの一つに、「入門書」というジャンルがあります。


専門の学術書というものは、読むのに難解であるのはもちろん、ある程度の基礎教養を前提として書かれているものが少なくありません。
そのような「敷居の高さ」を軽減する目的で出されているのが、「入門書」です。
新書スタイルでは、この手の「入門書」が花ざかりですが、
最近の「入門書」は、本当に初学者を真の学問へと導くために出されているのか、怪しいものが増えています。
それらの本は、難解な理論を読む力がない未熟な人や、時間をかけて基礎教養を積み重ねる根気のない人に、
お手軽に「わかったような気分」をもたらす程度の内容でしかありません。
しかし、学問より売上に貢献することを目的とした宣伝本であれば、それで十分です。
読者に手っ取り早く「わかったような気分」を味わってもらって、いい気分で次の本を買ってもらおう、という顧客満足による販売促進こそが重要なのですから。
「消費者」に満足してもらえたら、難解な専門書でも買ってもらえる可能性が高まります。


昔は入門書でも、そのジャンルで実績がある重鎮が、初学者に向けてわかりやすく書いて出したものです。
丸山眞男の『日本の思想』(1961年)は入門書を謳っていませんが、一般向けに書かれていながら、
いつまでも読み継がれる古典レベルの新書として残っていたりします。


しかし、最近はどうでしょう?
著者が若い研究者でも、初学者が相手ならば適当なことを言っても通用するだろう、という甘い見通しの本が増えています。
若手を起用すれば、安い原稿料で書いてもらえるという出版社サイドの計算もあるでしょう。
そう言えば、「創造的誤読」を公然と指摘された学者に、「入門書」を書かせたケースもありました。
つまり、執筆する人の専門性など、それほど気にしていないのです。
今の大手出版社には、初学者用の入門書として「内容の良い本」を作ろうという意図は感じられません。
ただ、売れている人の名前で、興味本位の素人に本を買ってもらおう、という安い発想で本を作っているのです。
だから内容はそれほどでもないのですが、新書なら1000円程度の出費なので、コスパに見合っていれば合格です。
仮に書いてあることが専門的に見ていいかげんでも、業界内部の専門家が、業界の宣伝になる「入門書」の批判などするはずもないので安心です。


そう、今や「入門書」は初学者のためにではなく、売上を伸ばしたい出版社と、特定業界の「宣伝」のために存在しているのです。
斎藤幸平の『ゼロからの『資本論』』もそういう本の一つだろう、と感じました。
「ゼロ」が前提では、本当に何も知らない人が相手なので、この本は『資本論』の存在ヽヽを知ヽヽってヽヽもらヽヽことを目的としています。
あとで検証しますが、彼の本は資本主義批判としては、あまり役に立つ気がしませんでした。
それより「マルクス」と『資本論』、環境問題、加えて斎藤幸平自身の宣伝に貢献することでしょう。
宣伝というものは、宣伝をするために露出している人も、同時に売り出してくれるのです。


最近はテレビを見る若い人が減ったので、少し前の現象になりますが、
CMに多く起用される女優や、CMでよく耳にする曲がブレイクする、ということが珍しくありませんでした。
つまり、その宣伝が売ろうとしている商品以上に、宣伝に出ている人や流れている曲がヒットしてしまうことがあるのです。
人気YouTuberにも、このような宣伝肩代わりタイプは少なくないと思います。
要はヒット商品を宣伝することで、「見る目がある人」という信用ヽヽが生まれてしまうのでしょう。
そうなると、出版の世界でも同様の現象が起こらないはずがありません。
他人の本を宣伝する「広告塔」のような仕事をして、評価の目を持っているかのようなアイデンティティを形成した人が、売れっ子になっていくという現象です。
宣伝は、宣伝した商品だけを売るわけではありません。
消費物を宣伝する主体も、同時に売っていくものなのです。


つまり、「宣伝は人のためならず」ということになります。
ラーメンでもパンでも温泉でも、消費される商品を数多く紹介する「広告塔」にさえなれば、あなた自身をマスコミに売り込むことも可能でしょう。


環境思想家マルクス2.0へのアップデート

斎藤幸平の『ゼロからの『資本論』』に話を戻しますが、
この本はもともとNHKの番組「100分de名著」のテキストを、下敷きにして加筆したものです。
『資本論』を紹介する番組のテキストを、ちょっといじって二度儲けようという魂胆にも見えますが、それは僕の見方が意地悪なのでしょうか。
この本も一見して『資本論』の「入門書」を意図した内容であることがわかります。
しかし、この本を読んでみたところ、『資本論』がどの程度わかるのか疑問でしかありませんでした。
内容の多くが、斎藤幸平当人の主張としか思えなかったからです。
中には自己都合で歪められた解釈が普通に書かれていて、びっくりするところもありました。
たとえば、この本では「物象化」という概念について、このように説明されています。


「使用価値」のために物を作っていた時代は、文字通り、人間が「物を使っていた」わけですが、「価値」のためにモノを作る資本主義のもとでは立場が逆転し、人間がモノに振り回され、支配されるようになる。この現象をマルクスは「ぶっしょう」と呼びます。
(斎藤幸平『ゼロからの『資本論』』)

僕はマルクス研究者ではありませんが、『資本論』はもちろん読みましたし、それに関する本も何冊も読んでいますが、
「物象化」という言葉に対する解釈として、このような説明を聞いたのは初めてです。


実は『資本論』に「物象化(Versachlichung)」という言葉は4回ほど出てくるだけです。
マルクス自身がこの言葉について説明している記述は、おそらくないはずですが、
人間が主体的に生産したモノが、社会関係の場である市場で交換される商品と化すことを、「物象化」という言葉で表していると僕は思っています。
そのため、斎藤が書いている人間とモノとの「支配」関係の逆転を、マルクスが「物象化」と呼んだというのは、正確さを欠いた拡大解釈と感じます。
(むしろ斎藤の説明は、ルカーチの物象化論に依拠しているように思えます)
初学者向けに「ゼロから」『資本論』を理解させるのであれば、原典に忠実な解釈を教えるべきではないでしょうか。


斎藤のドイッチャー記念賞の論文『大洪水の前に』(2019年)に、物象化についての記述がないか探してみたところ、
このような文章にぶつかりました。


私的生産者の労働が社会的性格を獲得することができるのは、価値を媒介とした商品交換によってであるが、その際、彼らは自らの「生産物」を「商品」とするように関わっている。この社会的な振舞いによって、生産物(上着や机)は純粋に社会的な力(価値)を付与されている。この純粋に社会的な力を物が獲得することによって、「物」は「物象」へ転化するのである。これが物象化である。
(斎藤幸平『大洪水の前に』)

上記の物象化の説明を見れば、かつてのヽヽヽヽ斎藤の理解は、前述した僕の理解とほとんど変わらないことがわかります。
つまり、斎藤は物象化についてオーソドックスな理解ができているのに、素人向けの本では、わざと違う説明を書いたということになります。
その理由を推測すれば、彼のコミュニズム思想を宣伝するためであろうと思われるのですが、
もう一つ、自分が著作の売上によって社会的な力を得ている「物象化の推進者」であることを、隠蔽する狙いもあるのかもしれません。
どちらにしても、斎藤が自己都合で解釈を歪めている、という印象は禁じえません。


また、しばしば斎藤が使用価値を価値(=交換価値)から切り離して使うことも、個人的には違和感がありました。
使用価値と価値(=交換価値)は商品の二重性を示すものなので、使用価値を求めた物作りから交換価値を求める物作りへと変化するような書き方も、あまり賛成できません。
仕事をしている彼は嫌な人だが、飲みに行くと良い人なんだ、
人間にもこういう社会的側面と個人的側面があるわけですが、
だからといって、仕事をしないで個人的側面だけで生きればいい、という切り離し方ができないのと同じです。
しかし、どうにも斎藤は使用価値だけでモノが成立するような書き方をしているように思えます。


このような斎藤の『資本論』読解の不自然さには、ある事情が窺えます。
マルクスを「地球環境の危機を訴えた思想家」へとアップデートしたい、というマルクス研究者の内輪事情です。
マルクスの草稿や抜粋ノートの研究によって、晩年のマルクスが農地の土壌汚染について、関心を持っていたことがわかりました。
それで斎藤は、近年の地球温暖化を先駆けて批判した思想家として、マルクスを「売り出そう」としているのですが、
マルクスの私的な勉強ノートが根拠なので、「理論」というものが伴っていませんし、
それを新しいマルクス像として全体化すると、どうしても無理が出てきます。
この無理を通そうとすると、最近流行のフェイクニュースのように、都合のいい部分を切り貼りした「宣伝」に堕してしまうのです。
結局は、新たな「マルクス2.0」というリバヽヽイバヽヽ商品ヽヽを、過大広告しているだけなのですが、
これこそが消費資本主義のマーケティング手法に思えるのは、僕だけなのでしょうか。


資本主義批判も「売れれば勝ち」の不毛

斎藤は資本主義による環境破壊を問題にして、〈コモン〉という「(資源)共有社会」を未来型コミュニズムとして提示しています。
しかし、この〈コモン〉の理論的根拠が全くわからないので、出来の悪い宗教的ユートピアにすらなっていません。
かつては誰の所有でもなかった自然資源という共有物が、営利企業によってミネラルウォーターという「商品」として売り出され、環境破壊を生み出している、
自然環境は本来みんなのものであるから、かつてのようにみんなで「共有(コモン)」しよう、
このように斎藤が描く〈コモン〉のあり方は、原始共同体への安直な回帰を超えるものではありません。
現実的にグローバルなレベルでどう実現できるのか、さっぱりわからないのです。


たとえば斎藤は資源の共有コモンの話をするときに、好んで「水」の話をしています。
これはちょっとズルいように感じました。
資源共有の話で一番の問題は、みんなで共有できるほど資源が豊富にあるのか、ということです。
その点で、日本には「水」なら豊富にありますので、「水」の話をすることで〈コモン〉思想の欠点が隠蔽できるわけです。
これが石油や天然ガス、もしくは大豆や小麦の話になった場合、日本ではどうやって「共有コモン」すればいいのでしょうか。
海外の資源をどうやって他国が「共有コモン」などできるのでしょうか。
〈コモン〉の話をするときには、自給率の話を避けて通ることはできないはずです。
仮にグローバルなレベルで共有するにしても、世界全人口に行き渡るほどに資源など存在するものではありません。
それだけ有り余る資源があれば、人類史において戦争は断然少なくなっていたでしょう。


マルクスが環境問題に関心を持っていた、という主張を仮に受け入れたとしても、それは「土地(農地)」に関わる問題だけです。
かつては共有物であった「土地」が、私的所有物として「物件化(=物象化)」したことを問題視したから、
私的所有の廃止という共産主義へと結びついていたのです。
ちなみに斎藤は私的所有の批判について、ごまかし戦略をとっているように見えます。
『大洪水の前に』では、私的所有を批判的に扱っていました。
しかし、新書大賞の『人新世の「資本論」』(2021年)や今回の本では、〈コモン〉という語を前に押し出して、私的所有批判は表に出そうとはしないわけです。
これが学者として誠実な態度と言えるのでしょうか。


僕がずっと気になっているのは、斎藤自身が〈コモン〉という来るべき共同社会の実現のために、何を実践ヽヽしているのかということです。
彼の本を読んでいても、この点が全く伝わってきません。
そもそも、彼が本当に環境保護に関心が高いのかどうかも疑わしいと思っています。
彼の興味は、ただマルクスの復権による、自分自身の利益なのではないか、という疑いが消えないのです。


このような疑惑が拭えないのは、斎藤が自分ヽヽに関ヽヽするヽヽことヽヽについては、ちっとも資本主義的なやり方を批判もしなければ改めもしないことにあります。
簡単に言えば、「他人の行為を批判するわりには、自分も同じことをしているじゃないか」ということに尽きます。
たとえば、『ゼロからの『資本論』』のこのような記述が引っかかるのです。


それだから、売れそうな「商品」を、人間はひたすら作り続ける。実際にはすぐゴミになる、大して役に立ちそうもない物も、売れるなら、とにかくたくさん作るのです。
この話は100円ショップに行くとわかりますよね。そこで売られているものの多くは、どうでもいいプラスチック製品です。それが、魅力的な商品名と可愛い包装やデザインによって「踊り始める」。そうやって、使用価値を無視するような粗雑な商品があふれ、ゴミが増えていく。
それと並行して、広告業やマーケティングの仕事ばかりが増えていきます。なぜかといえば、消費者もバカではないので、すぐにゴミを買ってしまったと気がつくわけです。すると、商品の魔法が解けて、飽きてしまう。だから、次から次へと、手を替え品を替え、新しいゴミを魅力的な商品として売り出さなければいけないのです。
(斎藤幸平『ゼロからの『資本論』』)

斎藤はこれを「物象化」の例として出しているのですが、
この文章の内容は、ほとんどフェイクニュースだと言ってもいいのではないでしょうか。
この引用文は物象化の例というより、僕が冒頭に書いたような消費資本主義批判にあたります。
たしかに消費資本主義では、「大して役に立ちそうもない物」を「売れる」から「たくさん作」って、「ゴミが増えていく」結果になっています。
しかし、このような消費資本主義の典型例として「100円ショップ」を例として出すのは、生活者の感覚としておかしいのではないでしょうか。


本当に斎藤が100円ショップに行ったことがあるのか疑問になりますが、
100円ショップの商品が「使用価値を無視する」「どうでもいいプラスチック製品」ばかりということがあるでしょうか?
むしろ「使用価値」に全振りしたような用途明瞭なものばかりです。
「魅力的な商品名」のついたものが多いでしょうか?
僕は100円ショップの商品で、商品名を意識したことはほとんどありません。
(仕事で一番使っている付箋紙の商品名は「ふせん」です)
「可愛い包装やデザイン」など、100円廉価の製品でやれるはずもありません。
そもそもが現実と真逆のことを言っているように思えるのです。


これは決して揚げ足取りというレベルの話ではありません。
むしろ斎藤幸平という「物象化した学者」が持つ問題の核心といえます。
簡単にいえば、斎藤の批判は現実から遊離した「的外れ」のオンパレードだということです。
(そもそもマルクスが環境思想家であるかのような主張が、大いに「的外れ」なわけですから)
つまりは現実逃避にしか役立っていない、という点で、敗北マルクス主義に依拠した〈フランス現代思想〉と全く変わりがないのです。


むしろ、このような消費資本主義批判をするなら、ディズニーショップで売っているグッズを例に出せばいいのです。
あれこそ「大して役に立ちそうもない物」を、ディズニーという魅力的なブランドや可愛いキャラクターやデザインで、過剰に価値づけして売っているではありませんか。
理論の正しさを示したいなら、ディズニー商法を批判する方が適切です。
しかし斎藤にそれを教えても、ディズニー(とそのファン)を敵に回す選択はしないでしょう。


この引用文を読んで僕が苦笑してしまったのは、
斎藤幸平の『ゼロからの『資本論』』こそが、「ゴミ」を平気で増やしている商品だからです。
これまで僕が書いてきたように、本書の内容が「大して役に立ちそうもない物」であるということもありますが、
それ以上に誰の目にもわかる矛盾が、本書のカバーに現れています。
この本は通常のNHK新書のカバーの上に、さらに斎藤幸平の腕組み写真をあしらったカバーがかけてあります。
つまり、この本はカバーが二重にかかっているのです。
無駄にカバーをつけてゴミを増やしておきながら、環境保護を訴えるというのはどういう神経なのでしょうか。
このように「自分について」だけは批判を免罪してしまう斎藤の態度には、自らをメタ化するダメな現代思想オタクの顔が重なります。


さらに言えば、加筆したとはいえ、この本はNHK「100分de名著」のテキストの焼き直しです。
すでに市場にある商品を、「魅力的な商品名と可愛い包装やデザインによって」売り出して、
「ゴミを増やしていく」ことに貢献しているのは、本当に100円ショップなのでしょうか。
むしろ出版点数を増やしすぎた出版業界ではないのでしょうか。
その答えは日々処分される本の数が教えてくれます。


SPY×COMMUNITYに気をつけろ!

斎藤幸平には、現実逃避をしていないで、まずは自らの足元から批判をしてほしいと強く願っていますが、
彼にそんなことをする気配はこれっぽっちもありません。
なぜなら、おそらく彼自身がコミュニズムの未来などを信じてはいないからです。
自分自身がどっぷり消費資本主義のメカニズムに依拠して平気でいるのですから、そう結論するのが妥当です。
斎藤が資本主義批判で手に入れたものは、巨額の印税と若手思想家の名声と東京大学准教授のポストです。
もちろんすべて私的所有に基づいた私的な利益です。
これだけ多くのものを手に入れた人が、本気でこの社会を変えたいと思うものでしょうか。
むしろ、未来の社会構想をこのような人物が語っていることこそが、未来に対する希望なきニヒリズムを深めていく結果になっていると思います。


ここで真実を語っておきましょう。
消費拡大のメカニズムを批判せず、むしろ消費拡大に貢献している人が行う「資本主義批判」は、
本気で社会を変革することにつながらないので、支配体制にとっては大歓迎なのです。
自称「保守」の右派は、共産主義を仮想敵にすることがアイデンティティ形成に必要なので、一生懸命に斎藤幸平を批判していたりしますが、
彼の本がどれだけ売れようと、左派勢力拡大の心配などする必要はありません。
なぜなら、消費促進のための「資本主義批判」は、体制に批判的な人たちの「ガス抜き」としてのスパイ的役割を果たしてくれるからです。
つまり、資本主義の批判で儲けるためには、本気で社会変革につながるような「真面目な批判」にならないことが大事なのです。


もはやマルクスを担ぎ出されても、資本主義体制はびくともしないというのが、斎藤幸平が売れていることの背景です。
もしかしたら、日本の支配層は西洋諸国のように若者が環境問題への意識を高めて、経済活動の邪魔をすることを恐れていて、
本気の環境保護運動をされたら困ると思っているのかもしれません。
その点、斎藤幸平のようなマルクス主義者が環境保護を訴えてくれれば、いざ若者の環境意識が高まったときに、
「彼らは共産主義者だ!」とレッテルを貼って、力づくで弾圧しやすくなります。
支配層にそういう計算があると想像するのは、考えすぎでしょうか。


皮肉なことですが、斎藤幸平の本が読まれているようでは、環境に対する危機意識が社会変革に結びつくことはないでしょう。   
社会の消費的な支配体制にダメージを与えない「的外れ」な批判によって、
ただ自分を売り込んで出世していく「チートな人生」を生きることが、「成功者」への道だと若者に錯覚させるだけに終わります。
もう日本の大手出版社は、こういう「ズル賢さ」に基づいた成功モデルしか提示できなくなりました。


僕は翻訳以外では新刊本への興味をどんどん失っています。
どうやら「新しいゴミを魅力的な商品として売り出す」出版業界の広告やマーケティングの魔法には、すっかり飽きてしまったようです。
それでも読書に関しては困ることはありません。
読み応えのある古典が、いくらでも残されているのですから。
しかし、それを公共図書館という〈コモン〉で守っていくことさえ、消費資本主義社会ではいずれ難しくなるような気がしています。


3 Comment

生き方と自己欺瞞

南井さん、ご返信ありがとうございます。

最近の大手出版社の商売が問題とのこと、
この出版不況の中で、それでも目先の利益を出したいとする姿勢が軽薄な結果を生んでいるように思います。
書籍の販路拡大は困難、それだったら自他共に納得する良い本を作ろうという方向に舵を切ってくれれば良いのですが。
おそらくは月々の出版点数の数合わせのために出しているケースもあるのではないでしょうか。

斎藤の『大洪水の前に』がKADOKAWAで文庫化した件については、出版社からの打診だとしても
彼自身の突き詰めが甘かったという一言に過ぎないでしょうね。
私自身人のことは言えませんが、学者になるほどの人が自己欺瞞に気付かないものなのかな、
と少し不思議に思っています。
何もかも流れに飲み込もうとする消費資本主義の威力に真向かうには、
人一人ではどうしようもないということなのかもしれません。

最後に生き方のことですが、
私の生き方を重視する姿勢は、ただ自分の生き方が良くないからに過ぎません。
人付き合いや生活そのものも上手くいっているとは言えず、それだけに頭と実際のあいだの自己欺瞞が募る日々です。
とりあえず俳句を詠むなどする身としては、その欺瞞を覆って物を作るのはやめようと思っているくらいですね。
自分に適した「生き方」をする場所とポジティブに「受け入れる」南井さんの姿勢は私の目指したいところで、
また南井さんの文章とこちらの実際と合わせ勉強させていただきます。

城前佑樹(白樹烝)さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
城前佑樹(白樹烝)さん、いつも丁寧なコメントをありがとうございます。

書店に限らず、サービス業をしていれば、自分が消費社会の金儲けと無関係というわけにはいきませんよね。
それは僕も同じです。
出版業でも、真面目な本作りをしている会社は、まだまだあると思います。
たいてい問題があるのは、大手出版社の商売です。

実際、斎藤幸平も堀之内出版と仕事をしていた時は、こんな堕落はしていませんでした。
斎藤は堀之内出版から出した『大洪水の前に』を、昨年10月に「あの」角川で文庫化しています。
Kadokawaの専務や会長がオリンピック贈賄容疑で逮捕されたのは昨年9月ですから、
斎藤は東京オリンピックを強く批判しているわりに、角川がオリンピック汚職企業と認識した上で、自分の著者を出したことになります。
斎藤はSDGsの金儲け姿勢を批判していますが、自分自身の倫理なき金儲け姿勢については、全然批判的視座がありません。

おそらく斎藤幸平は比較的真面目な人物ではないかと僕は思っていますが、
「社会と戦えないナルシス左翼」という甘ったれた性向は、真面目さの美徳では擁護できないのです。
ウーバーイーツの労働体験本などは、読む気もしません。

読書人にどんどんと現実逃避的な傾向が強まっている中で、
城前さんの、「生活=生き方」を強く意識する姿勢が、僕の暗い気持ちに明るい日差しとなって差し込んできます。
仰るとおり、人々は「消費=ライフスタイル」を自分の一部のように思っているのかもしれません。
消費社会批判をするたびに、僕は社会の片隅に追いやられていく気がしていますが、
そこが案外に自分に適した「生き方」をする場所だと、最近はポジティブに捉えています。

読ませていただきました。

今回の論考も、切れ味鋭く出版メディアの矛盾を突いていて、
思わず膝を打つと同時に(書店員の私としては)耳の痛い話でした。

私の感触として、斎藤幸平はまず社会の表舞台に立つことで影響力を得、
その上で社会の是正を行う構えなのかな、とぼんやり思っていましたが、
南井さんの今回の論理でそのような感触は幻想だとはっきりしたところがあります(本の二重カバーは最近多いですが、いかんせん扱いが悪く勘弁してほしいものです笑)

また、斎藤は『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』という体験記風エッセイも最近出版し、
こちらの方は「学者なのに現場を知っているぞ」というポーズを取っているように思え、
その自意識ありありとした商売っ気に辟易しているところです苦笑

白洲正子は往年の文士について「生活の隅々まで染み通っていなければ思想とは言えない、というのが彼らの思想であった」とし、
贅沢な暮らしをしながらマルクスを論じることなど最も恥ずべき行為だったに違いないと語っていました。
今の学者は、生活と思想という葛藤も消費の波に飲まれてしまっているのでしょうか。
というよりも、消費している・されているという意識すらもなくなっているような気もします。

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