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『収容所から来た遺書』(文春文庫)辺見 じゅん 著

帰国へダモイ」という希望

「大東亜戦争」と言われる日本と連合国との戦争は、1945年に「終戦」を迎えました。
しかし、国家が降伏を宣言した時に、戦争から兵士たちが解放されるわけではありません。
戦争終結後も戦争状態を生きなければならなかった人たちがいました。
その代表が、捕虜になった人たちです。
とりわけ過酷であったことが知られるのが、ソビエト連邦に投降し、強制収容所(ラーゲリ)で長きにわたり抑留された兵士や民間人です。
いわゆる「シベリア抑留」ですが、実は僕の祖父も日本軍兵士として出征し、シベリアで抑留されていました。
祖父は戦争の話をしたがりませんでしたが、とりわけ収容所の生活については祖母にも話さなかったようです。
終戦間近の1945年8月に、ソ連軍は中立条約を破棄して満州や樺太などの日本領内に侵攻しました。
もう日本軍に抵抗する力はなく、投降する兵士も多数出ました。
ソ連に抑留された日本人は、厚生労働省のレポートでは57万とされていますが、70万を超えるという説もあります。
ただでさえ猛烈な寒さに襲われるシベリアで、満足な食事も得られずに厳しい労働に従事させられたため、
本国に帰ることなく亡くなった人は最低でも5万5千人に上ります。


辺見じゅんの『収容所ラーゲリから来た遺書』(1989年)は、その中の一人である山本はたについて書かれたノンフィクションです。
12月には山本とその妻モジミの「愛の実話」として「ラーゲリより愛を込めて」という映画の公開も決まっています。
山本はロシア語に堪能だったため満鉄調査部に入社しましたが、1944年に召集され、1945年には関東軍情報部のハルビン特務機関に配属されました。
日本の降伏後、牡丹江収容所で通訳をさせられていた山本は、1946年にスベルドロフスク収容所へと移送されたのですが、
不幸にもソ連の情報収集に従事していたことで、戦犯として将校クラスの刑期を言い渡されたとも言われています。
これはあまりに重い刑期であったので、山本がソ連のスパイになることを拒んだからではないか、という想像がされています。


「シベリア」の範囲には曖昧なところがあります。
もともとはウラル山脈を分水嶺としてその東側を言っていましたが、ソ連や現ロシア連邦では極東部とウラル山脈東南麓は除外されています。
山本のいたスベルドロフスクはまさにウラル山脈の東南麓に位置するので、現在では除外地域ですが、古い区分だとシベリアに含まれます。
ここでの収容所生活を辺見じゅんはこう描写しています。


ラーゲリの朝は、レールの切れ端をつるしてハンマーで叩く鐘の音で始まる。毎朝六時にはこの鐘が不気味に鳴り響き、重労働の一日を告げた。
夏は三時になると日が昇り、夜は九時まで明るい白夜である。しかし、冬は朝の九時を過ぎても薄暗く、午後の四時になると夕闇に包まれる。
青空と太陽をおがめる日はひと冬にそう多くない。雪雲の重くたれこめた、うっとうしい冬空の日がつづき、しばしば吹雪ふぶく。よほどの吹雪か零下四十度を下回らないかぎり、作業に変更はなかった。

食事はひどいもので、一日に黒パンが三五〇グラム、朝夕にカーシャと呼ばれるかゆ飯盒はんごうに半杯ずつか野菜の切れはしが二、三片浮かんだ塩味のスープ、砂糖が小さじ一杯支給されるだけだ。毎日が空腹との戦いだった。
(辺見じゅん『収容所から来た遺書』)

ソ連時代に革命家の名から名付けられたスベルドロフスクは、現在ではエカテリンブルクという旧名に戻っています。
夏と冬の寒暖の差が大きく、平均気温で見ても最高は24度付近、最低は−15度付近です。
−40度という環境は、僕には想像もつきません。
辺見が書いている通り、冬の日照時間はかなり短いです。


捕虜たちにとっては、粗末な黒パンでさえご馳走に思えていくらしく、黒パンをめぐる喧嘩は絶えなかったようです。
一日で350グラムは気の毒なほど少量ですが、仕事のノルマが達成できないと支給が200グラムや150グラムに減らされました。
ノルマを上回ると支給量が増える取り決めだったのですが、上回った者はいなかったと辺見は書いています。
支給が減らされれば体力が落ちるのは必然です。
体力が落ちて作業量が減る悪循環へと陥ると、ついには栄養失調で夜中に誰にも気づかれずに死んでいくのです。
「死ぬと、身体中にまとわりついていたシラミがいっせいに逃げ出すのですぐに分った」


彼らシベリア抑留者の希望は、日本への帰国以外にありませんでした。
(わずかにソ連に帰化した人もいるにはいたようですが)
「家へ、故郷へ」を意味するロシア語「ダモイ(домо́й)」が、彼らの希望の言葉だったのです。
しかし、その希望は遥か遠くにありすぎました。
過酷な環境と重労働、それに日本兵捕虜の中でいまだに続いている階級差別。
「帰国なんてできっこない」という絶望に負けて、気力を失う者も珍しくありませんでした。
しかし、山本幡男は違いました。
日本に帰国するという希望を抱き続けるために、山本は牡丹江収容所から一緒だった松野輝彦に、「勉強会」を開くことを提案しました。
「勉強会」というあまりに場違いな言葉に驚いた松野でしたが、山本の「生きて帰るのだという希望を捨てたらじきに死んでしまうぞ」という言葉で参加を決めます。
松野は日本に妻と二人の子供がいます。
山本も妻のモジミと子供四人を日本に残していました。


十月に入ったころには、山本を囲んでの勉強会が始まった。最初のうちは都合のいい日に互いに声をかけ合って、営内の「レーニン部屋」と呼ぶ十二畳ほどの板敷の読書室に集まった。
(『収容所から来た遺書』)

第一回目の勉強会で、山本は「万葉集」の防人の歌を暗唱しましたが、雰囲気が暗くなったため、すぐに恋の歌を取り上げました。
山本の口から次々と万葉集の歌が出てくるので、他のメンバーは目を丸くしたようです。
山本はロシア語ができるのはもちろん、シベリアの少数民族についての著書もあるインテリです。
当時の教養人はオタク的ではなく、人文知に対する幅広い知識を持っていましたし、そうでなければ教養人とは言えなかったのです。


山本は学生時代に共産主義運動に関わっていました。
東京外国語学校を卒業する間際に、三・一五事件で逮捕されて退学処分になっています。
勉強会で『ソ同盟共産党小史』(1938年)を使っていたこともあり、山本は周囲から共産主義者だと批判されたりもしました。
そのため、勉強会をやめていく人たちも出てきましたが、山本は冷ややかな周囲の目を気にすることもなく、参加者が一人でもいれば講義を続けました。


共産主義者だった山本がソ連側とうまくやっていると思っている人は、勉強会の中にもいたようです。
しかし、山本がそんなに器用に立ち回れる人物でないことがハッキリする事件が起こりました。
「同志会」と名を変えた勉強会のメンバーが40人に達したころ、同志会の初期メンバーの清水修造が作業場からの帰りに事故死したのです。
清水と親しかった初期メンバーの難波武成は、祭壇をこしらえて白樺の木で清水の位牌を作り、タバコを線香代わりにして通夜を営みました。


清水と親しかった人びとが通夜に集まっていると、ソ連人将校が衛兵を連れてやってきた。そして、集まった者たちに解散を命じると、いきなり祭壇を壊しかけた。
そのときだった。山本が血相を変えて将校の前にとびだしていき、激しい口調でロシア語を叫んだ。解散には応じられないと大声でまくしたてて後にひかない山本に、集まった男たちは目を見張った。それは、スベルドロフスクにきて以来、日本人がソ連人将校に敢然と歯向かっている初めての姿だった。
(『収容所から来た遺書』)

山本の剣幕に負けた将校はそのまま立ち去り、通夜は続行されました。
その後に清水の死を悼む自作の詩を、山本が激しく涙をこぼしながら震える声で読み上げると、そのうちに周りにいた人も一緒になって歌うようになりました。
この夜の山本の姿に心を打たれた人は少なくありませんでした。


そののち、山本は南満州鉄道株式会社(満鉄)時代の仕事からソ連側にスパイの嫌疑をかけられるようになります。
満鉄は日露戦争によってロシアから獲得した利権で成立していたので、ソ連から敵視されていたのだと思います。
山本は同志会の会長を降ろされ、通訳の仕事も別の人に代えられます。
そして1948年を迎えた頃に、山本は訊問のために監禁されてしまいました。
その期間は8か月に及んだとのことですが、どのような理由で監禁されていたのかは、証言が得られなかったのか、辺見の本には書かれていません。
ソ連のスパイになるように要求されていたのかわかりませんが、
山本が解放された翌月に、捕虜の帰国が突然決まり、山本もいったんはそのメンバーに入っていたので、まだ長期の刑が決まっていたわけではないと思います。
しかし、帰国の夢は儚いものでした。
捕虜の仲間と共に帰還列車に乗り込んだ山本は、帰国することはかなわず、ハバロフスクの手前で列車から降ろされて、別の収容所に移送されてしまったのです。


山本は帰国の直前で梯子を外された形なので、はかりしれない絶望感に襲われたと思いますが、
辺見は捕虜を帰国させるか否かの判断に、ソ連側に信頼されていた日本人の関与があったことを匂わせています。
山本たちを帰還列車から降ろしたソ連兵の中に、小柄な日本人が一人混じっていたことが、その話の真実味を高めています。


「アムール句会」がつなぐ意志

帰還列車から降ろされた山本は、その後にハバロフスク地区の収容所ラーゲリに移されたようです。
この営内での「民主運動」は、軽く描かれているだけですが、本当に嫌なものです。
「民主運動」はソ連による共産主義教育です。
収容所では共産主義こそが体制思想であったわけです。
率先して「民主運動」に関わる活動家アクチブたちが、体制的でない人を吊し上げにして、リンチを加えるのです。
その一番の標的が山本幡男でした。
その原因は、やはり山本が満鉄にいた反ソビエトのスパイだという嫌疑にあったようです。


念のために言っておきますが、こういうリンチが起こるのは共産主義が悪い思想だとかそういうことが原因ではありません。
体制的な思想がどんな性質のものであれ、体制に属する人間が、体制の力をもってして弱い人間を痛めつけるのが、人間の暗部だということなのです。
そうしないと、自分が体制から反動分子だと思われるので、誰もが批判をしなくなります。
実際に反共であった日本国内でも、軍国主義に同調しないものを、同じように非国民として痛めつけていました。
イデオロギーが悪いのでもなく、権力の近くにいたがる凡庸な人間にありがちな行動というだけのことです。


しかし、共産主義運動に共感していた山本が、反ソビエトの反動分子として吊し上げに合うのは不思議なことに思えます。
そこにソ連側の思惑の変化があったと、辺見は説明しています。
初期の収容所では捕虜を速やかに従わせるために、軍隊組織の上下関係がそのまま保存されました。
しかし敗戦という事実が知れ渡ると、軍隊の上下関係を保証するものがなくなり、下級兵士の不満が抑えられなくなります。
そこでソ連は下級兵士の中で大卒のインテリを、旧日本軍秩序の解体をめざすマルクス主義的な「反軍」闘争へと向かわせました。
辺見は、山本の勉強会が発足したのがこの時期にあたるため、山本も「反軍」闘争の一端を担ったとしています。
その後、1947年の秋以降になると、かつて共産主義運動をしていたインテリたちは、ソ連から邪魔者扱いされるようになりました。
ソ連が求める人材が、主体的に考えるインテリより、収容所で初めて共産主義に出会った若い人材になったためです。
収容所内で教育された若い人は、ソ連側の教育を盲目的に鵜呑みにするので、実践的な活動家アクチブとして利用するのに適していたのです。
こうして、山本に限らず初期の収容所で通訳をしていたリーダー的な人物が、「反動」扱いされるようになっていきました。
要は、体制による教育と異なる教育をほどこす人が邪魔だったということでしょう。
「民主活動」に積極的に関わることが、帰国者に選ばれることへとつながったことが、凄惨なリンチや密告を推し進めることにもなりました。


欠席裁判等のほとんど形式的な裁判で「戦犯」とされた人たちは、矯正労働収容所へと移されていきます。
1949年にハバロフスクの矯正労働収容所へと移送された山本は、野草ばかり食べる環境で食中毒となり、休養室に担ぎ込まれました。
休養室にいる間はさすがに食事がまともになり、看護婦の見回りも1日に1度なので、患者たちは作業中より自由に話すことができました。
その休養室で知り合った森田市雄に俳句のたしなみがあると知った山本は、前の収容所から一緒だった新森貞と三人で俳句を作るようになります。
山本は相当に衰弱していたのですが、「必ずみんなで日本に帰る」という希望をつなぐために俳句を作ることにしたのです。
新森は俳句を全く知らなかったのですが、山本の語る俳句の魅力に引き込まれるように始めていました。


シベリアには春や秋の季節はほとんどなく、夏から一足飛びに冬が訪れる。長く厳しい寒さが終るともう夏だったが、空気も風も木や草も注意して眺めると、やはり春も秋もあるのだと、山本はよく語った。
「俳句に季語があるのはね、しんちゃん、へそだと思えばいいよ。かならずついているものだよね。季語といったって難しく考える必要なんてないんだ」
山本は新森のことを「新ちゃん」と親しみをこめて呼ぶようになっていた。
「冬になるとマロースという寒波がやってくる。綿外套フハイカを着ても寒くて、音まで凍ってしまう。石を叩いても木を打ってもキーンというあの不気味な金属音が耳にへばりついてくる。焚き火しても燃えないよね。新ちゃん、これはみんな季語になるんだよ」
「寒波」「フハイカ」「凍る」「焚き火」「寒さ」……と山本は地面にひとつずつ書くと、みんな冬の季語なのだと教えた。
新森は歳時記など見たことがなかったが、なにげなく見たり、聞いたり感じていた事柄のひとつひとつが季節の言葉になるのだと聞いて、そうしたものが急に身近に感じられてくるのが不思議だった。息をするだけで胸のなかに氷の板をつっこまれるようなあの寒波マロースも季語になるのかと思うと、風景だけではなく、天候や気温までいままでとは違ったものに思えた。
(『収容所から来た遺書』)

ここで山本が語っている「季語になる」という表現が僕には新鮮でした。
最近の俳人が季語について書いた文章を読むと、季語は「決まり」としてネガティブに捉えられていることが多かったからです。
つまり季語というものが先に成立していて、それをどう使うかというノウハウが語られる感じです。
しかし、自分の身近にある事柄が「季語になる」のであれば、季語とは自分の実感から生まれるものであって、その実感を宿す柱になるものです。
自分が生きている実感から生まれてくるものが季語だという発想です。
こう考えると、季語は表現を縛る不自由なもの、という感覚にはならず、生の実感を表現へと手渡してくれる自由なものに思えてきます。


こうして山本たち3人の密やかな句会が始まりました。
句会はアムール河にちなんで「アムール句会」と名づけられます。
次第にメンバーが増えていくと、体裁もそれらしくなっていきました。
セメント袋を細長く切って短冊を作り、馬の尻尾の毛筆で煤煙を水に溶かした擬似墨汁で集まった句を清記して参加者に回します。
参加者は互いに良いと思う句を選び、選ばれた句の作者は名乗りをあげます。
最後に山本が選句をして批評を加え、優れた順から天・地・人としていきました。
誰も選ばなかった句に山本が優れた評価を与えたときは、選ばれた人の喜びは特別で、誰もが嬉しそうな顔になりました。


そのうちにメンバーは俳号をつけるようになりました。
森田は「栗仙」、新森は「古峯」、山本は「北溟子」という雅号で仲間に呼ばれていました。
元関東軍報道部長で大佐だった長谷川宇一(俳号:芋逸)がメンバーになると、
関東軍参謀だった草地貞吾(俳号:宇山)、少将で参謀副長の坂間訓一(俳号:湘江)など、かつての高級将校が次々と仲間になりました。
他にも憲兵隊だったくさ敏夫(俳号:梅城)や、その同僚だった竹田軍四郎(俳号:秋径)が加わります。
句会が終わるとソ連兵に見つからないように、セメント袋の短冊を土に埋めたり、便所の中に細かくちぎって捨てたりしました。


アムール句会には、山本を中心に少将から一兵卒、民間人にいたるまで、さまざまな人びとが集まった。旧軍隊の組織から見れば選者の山本は一等兵にすぎなかったが、句会では階級名や名前で呼ぶこともなく、みんな俳号でとおした。軍隊での階級や句会での年功序列を山本はもっとも嫌っていた。
(『収容所から来た遺書』)

アムール句会は収容所でのつらい労働を忘れさせてくれる気晴らしであっただけでなく、
何としても日本へと帰国しようという希望をつなぎとめる役割を果たしました。
彼らの俳号の多くが故郷にちなんだものであったことが、それを示しています。
「ぼくたちはみんなで帰国するのです。その日まで美しい日本語を忘れぬようにしたい」
山本は句会でたびたびそう語ったそうですが、重労働25年などの刑期を言い渡された人たちが、いつ叶うとも知らない帰国に望みを持ち続けるのは、それほどに困難でした。
収容所の中でも影響を持ち続けた軍隊の階級ヒエラルキーが、アムール句会の中に持ち込まれなかったのは、
山本の軍人嫌いだけではなく、やはり無記名で行われる句会という「座」の性質も貢献したのではないかと思います。
文学とは、社会的な地位や役割を脱ぎ捨てた「個人としての生」が現れる場であるべきなのです。
(だから本来の文学精神は、有力メディアに取り入る「立身出世」を軽蔑します)


では、ここで『収容所から来た遺書』に載っているアムール句会のメンバーたちの俳句を紹介しましょう。


 しんに燕大きく来りけり         栗仙

シベリアでは燕の到来が夏の訪れを知らせます。
夏になると長く厳しい冬を耐え忍んだ生き物たちが、生き生きと輝き出すのですが、
生命のみずみずしさを運んでくる使者としての燕が、つらく苦しい強制労働に打ち勝つ活力をもたらしてくれるかのように思えます。


 独房の秋を得たるは蝿の友         宇山

独房の中で一人で過ごす秋、壁を動き回る蝿が無聊を慰めてくれる友のように思えてきた、という解釈が妥当でしょう。
ただ、僕はこのように読みたくなりました。
宇山自身は独房に入れられて、季節を実感することもできずに過ごしています。
独房で友と思えるのは蝿くらいですが、その蝿も小窓から外へ逃げ去っていきます。
一抹の寂しさと共に、これであいつは秋を感じることができるのだな、という思いがよぎったのでしょう。
季節を実感できるということは、我が身の「自由」を意味するのだ、と気づかされる句でもあります。


 蜻蛉せいれいや撫遠の山の低き午后         芋逸

晴れた日にハバロフスクからアムール河を望むと、はるか遠くの岸に緑の山並みが低く連なっていて、そこは満州の撫遠という地にあたります。
国境の向こうを眺める長谷川芋逸の脳裏には、満州にいた時の思い出がかすめているのでしょうか。
盛り上がることもなく単調に続く山並みを、川面を軽やかに飛ぶ蜻蛉が背景として遠ざけてしまう一瞬に、
単調な毎日の重みを慰撫するような午後のさわやかさを感じ取っています。


 春寒や草にすがつて鳴る紙片        秋径

草にからまったセメント袋の紙片が、冷たい風に吹かれて音を立てている様子を詠んだ句です。
立春後の寒さを示す「春寒」という季語と、音の取り合わせは珍しい試みではありませんが、
紙が草に「すがつて」いるという擬人化を織り込むことで、
すがるものもなく、シベリアの風の冷たさにまともにさらされている竹田秋径の身体的な感覚が喚起されます。


 不幸なる児となり果てぬもがり笛      湘江

この句は坂間湘江が日本からの頼りで妻の死を知った時の句です。
1952年になると、収容所から日本へ手紙を送ることができるようになっていました。
返信が届くまではだいぶ長い時間がかかりましたが、中には不幸な知らせもあったのです。
冬の風が柵を通り抜けていくときの高い音が、子供の泣き声のように湘江の耳には聞こえていたのでしょう。
句会に出た人々は、この句を涙なしで読むことはできませんでした。


これらの句には山本の俳句観が少なからず影響しています。
アムール句会のメンバーのために山本が書いた、「句に就いて」という文章によってそれは窺い知れます。
竹田秋径はその文章を密かにセメント袋の切れ端に書き写して、小さく折り畳んでズボンの縫い目に入れて持ち歩いていました。
おかげで私たちは山本の俳句観を知ることができます。
少し長いので分割しますが、個人的には強く共感するものがあったので、『収容所から来た遺書』からその全文を引用します。


高山ちょぎゅうは「文は人なり」と言つた。私はこれにならつて「俳句は人なり」と言ひい。俳句を磨かうと思へば先づ人を磨かねばならぬ。自分のつたない俳句を見る度に、私は言ひ知れない淋しさを覚える。様々な色の絵具を使つてやたら塗りまくつても美しい絵は出来ない。一本の鉛筆でも真に迫つた面白い絵が描けることもある。
俳句にしても同様である。美辞麗句をもてあまして空しく悩む愚を去つて言葉を縦横に駆使する事を学ばねばならぬ。平凡な何の変哲もない言葉の集りがすばらしい俳句を形づくる事があるではないか。道具も大事だが腕は一層大事である。
(『収容所から来た遺書』)

山本は「俳句は人なり」と言いますが、これは大きく文学全体について言えることです。
くだらない人物の書いた文学作品が偉大だった試しはありません。
日本には「道」という発想がありますが、芸事はそれを磨くことがその人の人間性を磨くことと切り離せないのです。
とりわけ最近の出版メディアは、表層を嘘で塗りまくった低劣な作品を過剰に宣伝して、
それが卑しい大衆趣味にかなって売り上げを伸ばすと、その低劣さこそが実は高尚であるかのような嘘を重ねていけばいいと思っています。
(まるで借金をさらなる借金で埋め合わせるような手口です)
しかし、過酷な環境の中でいつ生命が尽きるともわからない収容所の人々には、そのような金満的な嘘八百が魅力的なものに映るわけがありません。
現実から逃避した観念的な言葉を、「イデア」などという美辞麗句で飾れば、自分たちの句に高い値段ヽヽがつくと思い込んでいる俳人たちを見ると、
彼らの人生の貧しさだけが伝わってきて、それこそ「言ひ知れない淋しさ」を覚えないわけにはいきません。


虚構を用いて真実を表す文学作品があることは事実ですが、それにはそれだけの構造と一定の分量が必要です。
どう考えても、短詩である俳句が得意とするところではありません。
そのため、虚構で内実の乏しさをごまかす俳句には句集という単位が必要になります。
私的趣味の延長にある「世界観(らしきもの)」によって句集を出版して、その俳人が依拠している虚構性をアプリとして読者にダウンロードしてもらい、
その後はその俳人の「名前」を見るたびに、句が前提としている「世界観(らしきもの)」を読者の方で補完(忖度)して読んであげることになります。
句を読むときの前提として、その作者専用アプリを開くため、その句が「個性的」に見えるというカラクリです。
要するに、今の俳句界にはもう共通のフォーマットはないということなのですが、
自分の俳句を読むためのアプリを読者にダウンロードさせるための「売り込み」という努力ばかりが目につく業界が、文学とか詩だとか言っているのは、単に彼らに現実認識ができていないだけではないでしょうか。
山本の「俳句は人なり」は本来なら全く特別な主張ではないわけですが、
商業主義の方が当たり前の環境になってしまった人たちには、山本の言っていることすら理解ができない(もしくは認められない)のではないかと僕は懸念します。


良い俳句とは何か。格調のすぐれて整つた面白い俳句、魅力の多い句にある。俳句の面白さは、①内容の深さ、②映像の鮮やかさ、③連想の豊さ、④余韻の大きさ、⑤思想の高さ等々である。視覚的、音感的に魅力のあるもの、印象が鮮明で実感に迫るもの、抽象的に言へば美と真実のこもつたものである。勿論、これは俳句だけに限つた事ではない。
(『収容所から来た遺書』)

良い俳句は格調が整っている、これは基本中の基本原則だと思います。
山本はこれを最初に確認して、その上で面白さや魅力を具体的に5つに分けて語っています。
なぜ格調を整える必要があるかは明快で、17音しかない俳句が詩としての機能を果たせるのは、「そう表現するしかない」という説得力が備わっているからなのです。
それが作り手の才能の差にかかわらず、表現をつきつめた俳句が詩として成立しうる最大の理由です。
17音という短さは、誰でも表現をつきつめられる適当な上限として存在しているのです。
大衆性を持ちながら詩として成立する俳句の魅力は、ここにあると僕も考えています。


しかし、最近の俳句は「能力社会」の要請に従って自己の能力を示す手段に成り下がって、
俳句らしい格調を備えた句を「大衆的で平凡」と考える人が増えて、潔く言い切るべきところをわざわざ「の」や「て」でダラダラと繋いだり、
尻切れトンボな形で終えて句を読者に投げ出し、無用な余韻を生み出した気になったりする「型ズラし」の散文的な句が多くなっています。
そうして俳句らしい格調を備えた意味明瞭な句を「大衆的で平凡」だと決めつけ、
不明瞭な表現による意味不明な句を、「非凡な詩」だと内輪で詐称する倒錯ヽヽが流行しています。
現代俳句というものが実作者以外に興味が持たれなくなって久しいので、倒錯でしかない作品でも、実作者同士で詩人気分を演出できれば心が満たされるようですが、
そういう内輪の倒錯に依拠しながら、外部の読者を得ようという欲望だけは強かったりするのには辟易させられます。
明日死ぬかわからない身で俳句を作っているアムール句会の人たちは、意味不明瞭で読者に勝手な解釈を許す句を残してこの世を去ることに満足ができたでしょうか。


格調の高さというのは、それだけでは抽象的ですが、
要するに五七五だけで全てを言い切り、動かしようのないものとして(物質性を備えたかのように)そこにある俳句が持つ「揺るぎなさ」や「潔さ」のことです。
既知の句のネットワークに依存しただけの句は、貧弱すぎます。
曖昧さや作為的なズラしに終始した句集でも「商品化」さえしたら、俳句作品として意味もなく実在できると思っているような「バブル消費ボケ」の中高年の俳人が増えていますが、
そんな句など書店一つないシベリアの風の前では、簡単に吹き飛ばされてしまうことでしょう。
人間存在の軽さが当たり前となった環境に、たった17音で抵抗するためには、人間的な実感と格調を備えた詩型を支えにせずに何を支えにできるというのでしょうか。
本来の俳句がそれだけの力を備えていたことを、アムール句会の面々が証明してくれています


再び言ふ。良い俳句とは何か。一度口誦み、もう一度口誦みたくなる俳句、一読して忘れがたく記憶に残る俳句、いつ思ひ起しても楽しめる俳句、後味のすばらしくいい俳句。千句の中のたつた一句でもよいからさういふ俳句を作りたい。
写生といふ事を皮相に解釈してなんでもかでも見たままの事実を句にして万事事了れりとする初心者が多い。事実より真実へ、現象より本質へとゆかねばならぬのである。正しく言へば事実を通じて真実を、現象を通じて本質であらう。
(『収容所から来た遺書』)

書き写した竹田は、山本が書いた最後の一文が難しくて理解に苦しんだようですが、それでもこの文章を繰り返し読んでいました。
良い俳句は記憶に残り、何度も口ずさんで思い出してくなるというのは、その通りでしょう。
コンパクトな俳句は記憶するのに適しています。
記憶を容易にするためにも、格調が整っていることは重要になります。


最後の一文からは、山本の俳句観の深さを感じました。
眼前にある事実はあくまで現象で、そこから真実や本質へと至ることを、俳句のあるべき道としているからです。
俳句に真実や本質が存することは重要ですが、それは表層的な事実や現象を描くことを「通じて」示されなければならないのです。
本質的なことを抽象的な概念やイメージとしてそのまま並べても、俳句の良さは発揮されません。
その理由は、先にも述べたとおり、短い詩型では実感を支えにしなければ吹けば飛んでしまう句にしかならないからです。
うるさく言えば、これには詩型の短さだけでなく、超越神への信仰がない人たちの詩であることも関係していると思います。
(西洋の超越性を真似して持ち込んだ程度で、俳句が詩になると期待している人もいるようですが、雰囲気以上のものにはなりません)


余談なので軽くすませますが、僕が山本の俳句観に共感したのは、それが僕の考える俳句のあるべき姿とほぼ同じだったからです。
事実や実際の事象から物事の本質へと至る、という俳句のあり方を、僕は朱子学で言う「格物致知」の実践として考えています。
「格物致知」については僕自身がまだ勉強中なこともあって、いつか詳しく扱おうと思っていますので、ここでは簡単に触れます。
「格」とは「至る」という意味で、「物」は単なる物質や物体などのモノのことではなく、もっと広い意味で「物事」という感じです。
つまり「格物」とは、物事の本質へと至り、きわめることを意味します。
「致知」は「知を致す」ということですが、知識をおしひろげて、とことんまで知的能力を発揮することを言います。
「格物」も「致知」も本質へと至るために知をとことん窮めることなのですが、
知的情報として認識することではなく、切実な実感として知ることが求められています。
たとえば垣内景子は『朱子学入門』(2015年)で「格物」をこのように説明しています。


親子関係という「物」に「格る」とは、「孝」という親子関係の「理」を単に知っていることにとどまるものではない。知識として知っているだけならば、そんなことは誰でも知っている。問題は、どれだけ切実に知っているのかということにある。絶対にそうでなければならないという実感、そしてそれゆえ少しの懈怠もなく自然にそう振る舞えるということ、これが朱熹のいう「格る」ということなのであり、「窮める」ということなのであった。
(垣内景子『朱子学入門』)

垣内は「致知」も含めて、「動かしようもない物事の現実に直面し、それがどうしてもそうでなければならないということをどれだけ実感をもって知りうるのか」が問題だと述べています。
このような知の窮め方が、安直なポストモダン的懐疑などが及びもつかない厳しさにあることがおわかりになるでしょうか。
朱子学が知的エリートの思想であり、ポストモダンが消費的な大衆思想であるのは、その難しさや厳しさから考えれば当然のことなのです。
アムール句会のメンバーに、関東軍の知的エリートかつ収容所の体制側(ソ連側)に屈しない精神力を持つ人が多かったのは、山本にとって地獄の中の数少ない幸運だったかもしれません。


山本は「文芸」という冊子を編集して、こっそり捕虜仲間に回していました。
アムール句会のメンバーではありませんでしたが、山本と親しくなった野本貞夫も、その影響で「創作」という同人誌を作り始めました。
山本は「創作」の方にも小説やエッセイや詩などを寄稿しています。
山本の「文芸」も野本の「創作」も、何人かが回覧した後は、検査で見つからないようにすぐに処分されました。
まさに芭蕉の「文台引おろせば即反故也」の精神を地で行くような感じです。
1951年ごろには、収容所の監視も緩やかになったので、「文芸」はセメント紙ではなく、ソ連製のザラ紙になり、
5つの中隊で回し読みされて多くの読者を得るようになっていました。


大トリに山本の句を紹介しましょう。


 如月きさらぎや嶺々を青しと見る夕べ        北溟子

この句は山本が病床にいた野本を励ますために作った見舞いの句です。
2月のシベリアは寒気の最も厳しい時期です。
そのため作業場までの道は足元を見るだけで、周囲の景色を見る余裕は生まれません。
『収容所から来た遺書』では、2月終わりには春の気配から自然と山々へと眼がいき、枯色だった山が青みがかっていることに気づいた、という解釈がされています。
しかし、周囲が暗くなる「夕べ」とされていること、山の嶺が青いという表現が夏を連想させることから、実景として「嶺々を青しと見る」ことができたとは思えません。
おそらく、山本は最も寒さの厳しい2月にも夏の緑豊かな山嶺を「幻視」していたのではないかと思います。
厳しい冬のあとには必ず夏が来るように、希望にあふれた自分たちの帰国ダモイは必ず実現する、という山本の帰国への強い意志が込められた句だと僕は解釈します。


かなわなかった帰国

実は野本は山本と知り合った当初、山本が帰国の可能性を口にすることに反発を感じていました。
誰もが期待している「帰国ダモイ」は、現実には遠ざかっていくばかりなのに、
それを安易に語り出すのは、大衆の関心を得ようとする媚びた態度に思えたのです。
しかし、山本は心の底からダモイの日が来ることを信じて疑っていませんでした。
それがわかると、野本は山本に励まされるようになっていきました。


野本が山本と自殺の話をしたときのことです。
山本はこんなことを言いました。


「ぼくはね、自殺なんて考えたことありませんよ。こんな楽しい世の中なのになんで自分から死ななきゃならんのですか。生きておれば、かならず楽しいことがたくさんあるよ」
そう山本はいうと、下を向いてニッと笑った。
ラーゲリのなかにいながら、「こんな楽しい世の中」という山本は、普通の人間を測るものしでは測りきれない、別の物指しで見なければ理解できない人物だと思った。(中略)どんなに理不尽ではあっても絶望することなく、いまいる状況のなかに喜びも楽しみも見いだし、しかもそれを他人にまで及ぼしてしまうところに、山本の精神の強靭さと凄さがある、と野本は理解した。
(『収容所から来た遺書』)

自殺を考えるくらいの過酷な収容所生活の中で、命を落とす者も多くいました。
アムール句会のメンバーも一人また一人と亡くなっていき、ある時期は追悼句会が続くこともありました。


絶望的な状況にも決して屈しなかった山本でしたが、妻のモジミと手紙のやりとりもできるようになった1953年に、喉の痛みでラーゲリ内の病院に入院するようになってしまいました。
今度は山本を見舞う番になった野本は、病室で山本から「ダモイ情報」を聞かされます。
山本はソ連の新聞などから国際情勢に関わる情報を入手していたので、それらの情報を分析した上での論理的結論でした。
その後、野本は漏れてしまいましたが、実際に400名くらいの帰国が決まりました。


その数日後に追加で40名程度の帰国が決まりましたが、その中には長谷川芋逸の姿がありました。
これが第一次の長期抑留者の帰還です。
帰還者一行はハバロフスクの駅から貨車に押し込まれナホトカへ向かいましたが、ラーゲリを出る前に厳重な私物検査が行われました。
情報漏洩に神経をとがらせていたのか、字が書かれているものは紙切れ一枚に至るまで没収されました。
帰還船で京都の舞鶴港に上陸した長谷川たちは、8年に及ぶシベリア抑留の疲労を振り払って、すぐに記憶を頼りにシベリア抑留者1682人の名簿を作り始めました。
さらに残された同胞の帰還に向けて、国会への請願などの活動に勤しむようになります。


1954年になっても山本の病状は回復せず、見舞いに来る人たちの目にも身体の衰弱が明らかになってきました。
耳から膿がひどく出ていても、ラーゲリの軍医は中耳炎という診断を譲らず、治療らしい治療は行われませんでした。
中央病院で検査をしてほしい、と収容所長に嘆願書を出した人たちもいましたが、取り合ってもらえませんでした。
しかし、山本の病状が思わしくなくても、アムール句会は週に一回きっちり開かれました。


このころから山本は、仲間がラーゲリ内の売店で購入してくれたノートに、憑かれたように何かを書きつけるようになりました。
病室で検査をされる心配はなかったので、寝台の下に隠したノートを折を見て取り出しては書いていました。
ある日、作業を終えた野本が病室を見舞うと、山本のノートの表紙に「平民の書」と書かれているのが目に入ります。
山本は「これはね、ぼくの遺書なんですよ」と言って、右でも左でもない、東洋でも西洋でもない「第三の思想」が創造されるべきだ、と熱い口調で語りました。
山本が「日本文化研究会」という小さな集まりを始めたのもこの頃です。
膿の出る右耳はあまり聞こえていないのか、相手の声に反応がない時もありました。
間歇的に強い痛みがあるらしく、痛みが治まるのを待つような姿も見られました。
そんな状況でも、山本の視線は日本や世界の将来へと注がれていたのです。


嘆願書のおかげで、2月下旬になって山本の入院が許可されました。
しかし、入院したはずの山本は、翌日には退院してラーゲリに戻っていました。
「喉頭癌性肉腫」でもう手の施しようがなかったのです。
「癌だったのか……」山本が末期癌だと知った人々は顔を見合わせ、湧き上がる怒りをどうすることもできずに声を落とすだけでした。
作業で収入を得た野本が山本に買ってほしいものを訊ねると、上等なタバコを少しいただきますか、と返事がありました。
野本は売店で最も高価なタバコ「モスクワ」を買って、山本に手渡すと、山本はそれを鼻に近づけて、とてもいい香りだ、と呟きました。
もう山本の身体は、タバコを吸うことができる状態ではなかったのです。
しかし、そんな状態でも、山本は書くのをやめていませんでした。
山本のノートには、「海鳴り」いう詩が書かれていました。
枕元には、日本から送られてきた山本の家族の写真が飾ってあります。
妻と母の間には少女となった娘が写っていて、その奥に学生服を着た3人の息子の姿が見えます。
彼らが日本で山本の帰国を待ち望んでいるのです。


山本の記した俳句の心構えを、肌身離さず身につけていたアムール句会の竹田秋径は、
見舞いに行って山本から受け取ったメモを、変わらず自分の教えとして大事にしていました。
帰還の日まで没収されないように、折りたたんでズボンの縫い目に仕舞い込んだメモには、
「終局に於いて必ず正しきものが勝つといふ信念だけはあへて人にゆづるものではない」というものがあり、
竹田はこれを自分の生きる指針として強く心に刻みつけたそうです。


「北溟子を生きて日本に帰そう」と集った有志が、毎日代わる代わるつきっきりで看病をするようになりました。
耳からは膿が出続けていて、咽喉の激痛も頻繁になり、首は瘤のように硬くなっていました。
寄付金で食料を購入するのは、山本と同じ島根出身の坂本省吾の役割でした。
食べられるものも少なくなった山本の命は、牛乳と卵で繋がれていましたが、
卵は囚人が給与される品目ではなかったので、作業で柵外に出た仲間が検査の危険を冒して入手するしかありませんでした。
日本から送られてきた小包から、食料を提供する者もいました。
少し前まで気力を振り絞って句会の選をしていた山本も、3月に開催された200回目のアムール句会に出席することはかないませんでしたが、
見舞いに来た森田栗仙に、帰国したらシベリア句集を作ろう、と首の瘤に声帯をつぶされたような嗄れた声で気丈に言いました。
話すたびにヒューヒューと風のような音が鳴るようになっていました。


5月になると山本は話せなくなり、筆談で会話をするしかなくなります。
首が風船玉のように膨れてしまい、患部が破れて異臭がしていました。
満鉄調査部時代に山本の上司だった佐藤健雄が、瀬島龍三の提案を受けて、断腸の思いで山本に遺書を書くことを提案します。
山本は微かに頷いて、しばらく目を閉じた後に、傍のノートに「明日」とだけ書きました。
翌日に佐藤が山本の病室を訪ねると、ノートに4通分の遺書が綴られていました。
1通は「本文」、残り3通は「お母さま!」「妻よ!」「子供等へ」と題されていました。
この遺書の内容は『収容所から来た遺書』で再現されているので、それを読んでいただきたいのですが、
ここに「本文」の冒頭を少しだけ引用します。


到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった。鉛筆をとるのも涙。どうしてまともにこの書を綴れよう!
病床生活永くして一年三カ月にわたり、衰弱甚だしきを以て、意の如く筆も運ばず、思ったことの何分の一も書き表せないのが何より残念。
皆さんに対する私のこの限り無い、無量の愛情とあはれみのこころを一体どうして筆で現すことができようか。唯、無言の涙、抱擁、握手によって辛うじてその一部を表し得るに過ぎないであらうが、ここは日本を去る数千粁、どうしてそれが出来ようぞ。
(『収容所から来た遺書』)

8月15日に山本はアムール句会の最後の選を行いました。
寝たきりの山本に句稿を病室に届けていたのは、森田栗仙でした。
森田が山本から受け取った句稿には、◎や◯と共に「選のみ」という字が記されていました。
その作業の間に絶え間ない激痛が山本を襲ったことは、森田には痛いほどわかりました。
すでに山本の眼は黄疸症状によって黄色く濁っていましたが、その輝きはアムール句会結成のきっかけとなった、森田と俳句について語り合った時の山本そのものでした。
その夜、山本の足をさすって献身的な介護をしていた新見此助に、山本は最後となる走り書きを渡しました。
「死ノウト思ツテモ死ネナイ スベテハ天命デス 遺書ハ万一ノ場合ノコト
小生勿論生キントシテ闘争シテヰル 希ミハ有ルノデスカラ決シテ100%悲観セズヤツテユキマセウ」


山本が息を引き取ったのは、それから10日後になります。
1954年8月25日──その日は収容所の日本人は作業に出ていたため、誰にも見取られることはありませんでした。
享年45歳でした。


収容所から来た遺書

山本は仲間たちに、必ず自分の遺書を家族に届けてほしい、と頼んでいました。
しかし、帰国ダモイが決まったとしても、文字の書かれた紙は全て検査で没収されてしまいます。
遺書を届ける方法は、一文字残らず誰かが記憶するしかなさそうでした。
満鉄で元上司だった佐藤健雄は、ラーゲリ内の浴場の脱衣所でひっそりと山本の葬儀が行われたあと、遺書を暗記することを信用できる人物に提案しました。
ただ、山本の信頼が篤かった野本貞夫や坂本省吾は、すでに山本から個人的に依頼されているだろうと考えて声をかけませんでした。
佐藤が遺書の暗記を信用できる人物にしぼったのは、何より日本人によるソ連側への密告を恐れたからです。


満州国の参事官だったアムール句会の瀬崎清(俳号:木良)は、「子供等へ」と「妻よ!」の遺書を担当しました。
瀬崎は留守中の所持品検査のことを考えて、山本の字体を真似して遺書をノートに書き写し、
作業に出るときは写しを胴巻きの中に入れて身につけていました。
すると、ある日の抜き打ち検査で山本が書いた遺書と未完成の「平民の書」が没収されてしまいました。
写しを作っておいた瀬崎の用心が功を奏したのです。


ハルビン特務機関で山本の同僚だった後藤孝敏は、「子供等へ」と「本文」を暗記し、瀬崎と同じように写しを作って、作業着の中に縫い込みました。
アムール句会の日下梅城は、「妻よ!」を筆写して綿外套フハイカの綿の中に隠しました。
そして周囲に人の気配がないときに取り出して、覚えにくい箇所に赤線を引いたりしながら暗記に努めました。
アムール句会草創メンバーの森田栗仙も、日下と同じく「妻よ!」を担当していました。
「お母さま!」を担当した山岸研は、帰国の情報を語る山本に何度も励まされてきました。
ハルビン特務機関にいた経験から、写しは危険だと判断して、暗記を終えると文書はすぐに捨てました。
献身的に山本の看病をしていた新見此助は、「お母さま!」と「子供等へ」を担当しました。
遺書を書き写し、下着に縫い付けて作業場に出ましたが、新見にとっては山本の死の10日前に渡された走り書きのメモの方が大切でした。


野本貞夫はやはり山本から全文の暗記を頼まれていました。
しかし、野本にとっては遺書そのものよりも「平民の書」が没収されたことがショックでした。
山本が到達した最高の思想が書かれていたはずだけに、それが失われたことが残念でならなかったのです。
坂本省吾も「妻よ!」の暗記を担当していました。


島根県人会の山村昌雄は、山本と同郷でしたが、それほど親しい仲ではなかったようです。
そのため、新見から「本文」の暗記を頼まれた時には困惑しましたが、新見の思いつめた顔を見ると断れませんでした。
遺書がもし見つかったら営倉送りは確実でしたが、山本の遺書を読んでこれは何としても家族に届けなければと思い、暗記に努めました。


そうしているうちに、1955年にハバロフスクの収容所で、非人道的な扱いに対する対抗処置として、日本人の抑留者たちがストライキをする事件が起こります。
ストは100日以上続き、断食という決死の抵抗にまで至りましたが、最後はソ連軍によって制圧されてしまいました。
しかし、1956年に日ソ共同宣言が行われると、日本人抑留者全員の帰還が急遽決定します。
とうとう待ちに待った帰国ダモイの日がやってきたのです。


山本の遺書を暗記した者たちは、他の捕虜たちと同じく、1956年12月24日に帰還船に乗り込みました。
やはり所持品検査はありましたが、それぞれが写しを用心深く隠し持ったために、見つかることなく持ち帰ることができました。
記憶から再現された遺書を含めて、すべての遺書は1年ほど後には山本の妻モジミの手へと次々に送り届けられることになります。


帰還船の船上では、18人による句会が行われていました。
289回目となる最後のアムール句会です。
船室のあちこちから捕虜たちの喜びの声や笑いが聞こえていましたが、
そこだけは、どこかしめやかな雰囲気が座を満たしていました。
何も言わずとも、句会のメンバーたちの胸には、「選のみ」と最後の文字を書いた山本の姿が自然と思い出されていました。
帰国ダモイを誰よりも信じていた山本北溟子が、本来ならこの座の中央にいるはずだったのに……、
喜びにわく帰還船は大きな空白を抱えて、日本への航路を進めたのでした。


その後、アムール句会のメンバーが俳句を続けたのか、それについては書かれていません。
苦しい環境に負けずに生きる「抵抗精神としての文学」が、豊かな社会の中で埋もれていったのは、表面的には幸せなことなのかもしれません。
しかし、そのような文学を見失うことは、生きることの本質を見失うことにも等しいのではないでしょうか。
『収容所から来た遺書』を読んで、僕はそう感じないわけにはいきませんでした。


6 Comment

城前佑樹(白樹烝)さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
城前佑樹(白樹烝)さん、今回もコメントをありがとうございます。

城前さんからコメントをいただくたびに、
記事の内容を深く受け止めてもらえていることに驚くとともに、
良い読者に出会えた喜びを感じています。

個人的な実感ですが、僕は薄っぺらなマス・コミュニケーションを信用していません。
自分の書いたものが、マス(大衆)に広く受け入れられるより、
一人一人の心の奥にどれだけ響くかの方が重要だと思っています。
(その深度こそが、文学のありかではないかと思うのです)

これは城前さんが指摘してくださった朱子学の問題と関係しています。
あの程度の記述で、「格物致知」が現実的な実践であり、ただの概念や知識でないことを理解するあたりも素晴らしいのですが、
それを批評でどう伝えるかという問題は、まさしく重要な課題にほかなりません。

朱子自身は、朱子学の教えは「体得」するものだということを繰り返し言っています。
朱子の死後に、朱子学は科挙の中心学問になり、形式化・権威化されていくのですが、
もともとは「格物致知」も「居敬」も精神修養の面が大きいものです。
「批評で追いつけない部分」があるのは、全くその通りです。

だからこそ人間関係が希薄になった社会で、マスに表層的に浸透するキリスト教文化ばかりが軽薄に広まって、
伝統的な漢籍文化が失われていく事態になったのだと思います。

おそらく俳句の世界でも同じことが起こっていて、
結社における師弟関係がわずらわしいために、出版社と癒着してマスを相手にした俳人が、
西洋的な手法(ファッション)で句の表層化(意味がない俳句)をはかって、それが「現代俳句」であるかのようにふるまっています。

僕はマス・コミュニケーションを用いて、対面的な効果を出せるような批評をめざしているのですが、
それをうまく達成することができれば、批評においても朱子学の教えを間違えずに「体得」する優れた読者が出てくるのではないかと期待しています。
しかし、正直なところ、僕にもどうなることか見通しはないのですよ(笑)
今回の記事も書き上げるまでは、うまく書けるか本当に不安でした。

読ませていただきました。

今回の山本幡男についての批評を何度も読み、私が生きる今の時代との落差に感動しています。
たった半世紀前にはこのような人物が生きていたのですね。
目の前の現実と格闘し、生の実感を生きがいとして死守しようとした山本の姿は、令和日本ではどう見出せば良いのか考えるのですが
、私には全く答えが出ません。

ただ、山本の俳句への姿勢に関しては、深くうなずくばかりでした。
私自身俳人として句を詠んでいますが、新森貞への季語についての語りかけで(厳しいシベリアの自然を含む)新森自身の世界が豊かになっていく様はリアルでした。
(今の俳句界は「季語」をネガティブなものとして捉えている、という南井さんの言葉がありましたが、それが正しいのなら彼ら彼女らには新森のような経験がないのかな、と人ごとながら不安になりました。)
また山本の言葉を引き、句の「格調」について述べた部分と合わせ、「季語」と五七五の「定型」とがなぜ今の時代の私にも新鮮なのか理由が分かりました。ありがとうございます。

朱子学での「格物致知」に関してももっと知りたいと思いましたが、このような実際的姿勢を含めた概念に関しては批評や言論では追いつけない部分があるのではないでしょうか。そこのところをどのように表現しようと思っているのか、南井さんに聞いてみたいです。

無名の俳人さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
無名の俳人さん、コメントありがとうございます。

この記事を評論として評価していただけたのは嬉しいですね。
まあ、比べる相手がもっとまともなら、なお良いのですが(笑)

僕はTwitterで芝不器男俳句新人賞の不祥事について、だいぶ批判しています。
他の人が十分にやっていれば、部外者の僕がどうこう言う必要はないのですが、
俳人たちが話題にすらしないのは、妙な政治的圧力みたいなものを感じますね。

もう自由に生きるために文学をやるという感覚は薄れています。
もはや「俳句業界」は、社会的影響力を行使したい天下り官僚と、
趣味で名を挙げたい、という安っぽい立身出世のために俳句をやっている人たちが、
「共犯的」に結びつく場になってしまいました。
俳句総合誌は、ラーゲリの「民主運動」のように、出版商売に都合のいい消費的ポストモダンの「思想教育」をしています。
その「思想教育」に忠実な若手が、俳句賞などを通して、活動分子として利用されていくのですね。

僕はこういう「文学の名を騙る消費商売」を敵視していますが、
それがなぜ悪いのかが理解できる人は多くないようです。
残念ながら、僕の批判には期待するほどの影響力はないという気がしています。

南井氏に期待

この文章は、関悦史や筑紫磐井の駄文よりも優秀な評論と思います。
俳壇にはこういう文章を書く評論家がいないのは残念です。
芝不器男俳句新人賞の実行委員会からの解任処分を受けて
謹慎中の関悦史が、謹慎せずに、角川「俳句」8月号で偉そうに発言している。
また高氏が受賞を辞退した理由として、筑紫磐井の不公平な誘導による採決を指摘しているにもかかわらず、「俳句四季」8月号で、まったく触れず、何の問題もなかったかのように、新人賞を持ち上げている。天下り官僚の筑紫磐井が問題を隠蔽して実行委員会にゴマをすっている。
高氏と南井氏が、筑紫の間違いを指摘しても、何の問題もなかったように、覆い隠そうとしている。外部からの批判で俳壇を正すことが望まれる。

俳人さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
俳人さん、コメントをありがとうございます。

山本幡男の精神に魅了されて、だいぶ俳句に対する個人的な思いを書いてしまいましたが、
現代の俳句の潮流とは全く合わない考えなので、
俳人の方に好意的に評価していただけるとホッとします。

感銘しました

優れた俳句論にもなっているかと思います。

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