南井三鷹の文藝✖︎上等

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『日本語と西欧語』(講談社学術文庫) 金谷 武洋 著

日本語に主語はない

本書は講談社メチエの『英語にも主語はなかった』(2004年)を原本として、加筆修正された文庫版です。
著者の金谷はカナダに移住して、モントリオール大学東アジア研究所の日本語学科で日本語教師を長年務めていました。
どうやら日本語学のアカデミズムの外部にいる人のようです。


金谷の論の骨子は「日本語には主語がない」ということにあります。
権威化した日本語文法では主語は存在することになっているので、金谷はそれに真っ向から反対しているわけですが、
ほとんど同調する研究者がいないらしく、彼に先行して「主語廃止論」を主張していた三上章という存在がしばしば取り上げられています。
三上は高校教師(どうも数学教師だったらしい)の立場で『現代語法序説』(1953年)を書いたのですが、
主流に反対する立場の上にアカデミズム外部の人間であったため、「黙殺」されたと金谷は述べています。
国語学界の排他的な「村の論理(差別体制)」がそこに見えると言うのです。


つまり国語学界にとって、理論の内容はどうでもいいのだ。学界のウチにいる人間の考察か、ソトにいる人間の考察か、が最大の問題となるのである。

同様のことは金谷自身にも当てはまるようで、金谷が著者で批判した文法学者たちからの反応はなく、これも黙殺という状態です。
このあたりのことは本書の第五章で書かれているのですが、
僕にも身に覚えがあることなので、金谷が「日本という風土がいかに論争に向いていないか」と言いたくなる心境がよく理解できます。
どうにも日本の研究者は自説の正しさの証明より、自らの社会的地位を保持する意欲の方が強いようです。
たとえ自説が批判されたとしても、相手の社会的地位が自分より低い場合は、
同じ土俵で批判に応じて下位の者に論駁されるリスクを取るよりは、黙殺してしまう方が相手からダメージを負わされる心配がない、と彼らは考えるのです。
都合が悪いから論争に応じないで逃げた、と考える人が多ければこういう態度は取れないはずなのですが、
論理より権威が優越する社会ではそういうことはなかなか起こりません。
日本が論争に向いていないのは、権威主義が強く機能していることと無関係ではありません。


金谷の主張がおもしろいのは、日本語に主語がないという主張が、日本語特殊論ではなく、それへの反論だということです。
これまで、日本語は主語のない特別な言語だ、とか平気で書いてある文章を何度か見たことがあるので、
金谷もその類かと思っていたのですが、立ち読みをしてみると、まったくの誤解だとわかったので、今回彼の本を読んでみることにしました。
むしろ、金谷は現代英語がヨーロッパの主要な言語に対しても「例外的」な位置にあるとしています。
(現代英語としているのは、古英語に主語がないことを金谷が本書で論証しているからです)
金谷が批判する現在の日本語文法は、現代英語を世界標準と思い込んで、それを参考にして作られたものなのです。




『平成はなぜ失敗したのか』(幻冬舎) 野口 悠紀雄 著

バブル崩壊の後遺症

野口は頻繁に著書を出す売れっ子経済学者です。
僕も過去に野口の本を何冊か読んでいるのですが、それでも新刊が出ると内容を確認してしまいます。
経済という現在進行形の状況を分析する視点は数多くあり、どの見解が正しいのかは判断が難しいのですが、
野口の視点は確かなものがあるため、つい参考にしてしまうからだと思います。


本書は題名で一見してわかる通り、平成の30年間を「失われた30年」という「失敗」の時代として捉えて、その原因に迫ろうというものです。
その作業はとても重要なのですが、僕は「失われた30年」という表現にまず躓いてしまいます。
「失われた○○年」という言い方にはバブル経済崩壊の後遺症が続いているという前提が感じられるからです。
そこには本当なら得るはずだった経済的利益があった、というニュアンスが読みとれてしまうわけですが、
その「得るはずだった」という感覚が問題であるように感じます。
野口も気づかずに使っているのですが、この表現はバブル期を健全状態として想定しているため、
解決策として金融政策による株価バブル(通称アベノミクス)を呼び寄せる心理的効果があります。
そういう誤った前提を破棄して、経済停滞の30年とか、経済失速の30年とか、衰退の30年とか言い換えた方が適切に思えます。


野口は「はじめに」で自分たちの世代が責任を果たせたかと自問したあと、
それに失敗したとして理由をこう語ります。


この30年間を一言で言えば、世界経済の大きな変化に日本経済が取り残された時代であったからです。平成時代を通じて、日本経済の国際的な地位は継続的に低下しました。
ここで重要なのは、「努力したけれども取り残された」のではなく、「大きな変化が生じていることに気がつかなかったために取り残された」ということです。改革が必要だということが意識されず、条件の変化に対応しなかったのです。

いきなりまとめが来てしまうのですが、野口は平成の30年がこのような「失敗の時代」であったと言います。
帯の文章にも「失敗の検証なしに、日本は前進できない!」とあるように、失敗したことはとっくに明らかであり、問題はその原因の認識にあるというのが野口の立場です。
彼の認識に異論はありませんが、僕の関心はさらに深いところにあります。
世界経済の構造変化に日本人が「気づかなかった」としたら、それはなぜかというさらなる原因の分析です。
本書の読解から僕が掘り下げていきたいのは、この深層レベルの原因分析であることを先に言っておきます。




『個人空間の誕生』 (ちくま学芸文庫) イーフー・トゥアン 著

実際の原題は「分節化世界と自己」

邦題は『個人空間の誕生』となっていますが、本書に「個人空間」の考察を期待して読んでみると、物足りなさが残りました。
そこで原題を見てみると、「Segmented Worlds and Self」とありますので、「分節化された世界と自己」の方が正確かもしれません。


著者のイーフー・トゥアン(段義孚)は天津生まれですが、アメリカの大学で学位を取得し、
人間主義的地理学の創建者とされているそうです。
西洋の異邦人であるトゥアンは、西洋を相対化する視点を持たざるを得なかったため、
本書の分析もどこか外から西洋を眺めているような冷静さ(というか冷淡さ)が感じられ、
考察が終始理知的で非常に明晰な論考になっています。


ところどころに中国人の空間意識についての考察があるのですが、実は僕はこちらの方が冴えたことを言っていると感じました。
考えてみれば、トゥアンは中国にとっても内なる異邦人として、広い視野から考察できる立場にあったのです。