- 2022/05/02
- Category : 【逸脱書評】思想・宗教
『疲労社会』(花伝社)ビョンチョル・ハン 著/横山 陸 訳
ポストモダンとは同質性の過剰
昨年、ビョンチョル・ハンの著作の翻訳が、花伝社から2冊同時に出版されました。
『疲労社会』(2010年)と『透明社会』(2012年)の2冊は、どちらも今から10年も前の本ですが、
短くて読みやすいので、ドイツの現代思想の一端を知るのにいい本です。
ビョンチョル・ハンは韓国からドイツに渡り、現象学研究で教授資格を獲得した人で、哲学やメディア論が専門です。
ベルリン芸術大学の教授だったので、ヨーロッパのアート界で高い評価を受けているのですが、
彼の著書は多彩で、現代社会論以外にもハイデガー論や東洋思想の本も書いています。
『禅仏教の哲学』(2002年)では、禅の理解のために俳句を取り上げているようです。
『疲労社会』『透明社会』と「社会」がついた書名でわかるように、この2冊は現代社会分析なのですが、
僕がこれらの本に取り上げるべき価値があると思うのは、両著を通してハンが「肯定性」の猛威を問題視しているからです。
日本では消費社会のバイブルだった〈フランス現代思想〉が、東大の権威を背景にして、いつまでたっても最新の現代思想として扱われていますが、
その特徴を簡単に言えば、「否定性」を基盤としたヘーゲル弁証法に対する「アンチ」として、ニーチェやスピノザに依拠した「肯定性」を持ち上げたことにあります。
しかし、バブル的な消費経済を背景に普及した「肯定性」の思想は、私的享楽とナルシシズムへと帰着する無責任社会を支える結果になりました。
ハンが注目したのが、このような「肯定性」の猛威です。
『疲労社会』『透明社会』という呼び方をされていますが、それらの本質にあるのは「肯定性」です。
この2冊をまとめて読むならば、「肯定社会」という一つの本として読んでいく方が理解しやすいので、そのようなアプローチで読んでいきたいと思っています。
今回はその前編として『疲労社会』を取り上げて読みます。
ハンを読むことで、消費市場の「肯定性」に依拠する〈フランス現代思想〉が、批判思想としてはとっくに時代遅れだという僕の主張が、
ドイツ現代思想と重なり合うことを実感していただきたいのです。
『疲労社会』の冒頭でハンは免疫学を取り上げ、「否定性」に依拠する免疫学の思考モデルは、もう現代社会では有効ではないと宣言します。
ワクチン技術の発達によって、免疫学で対処すべきウィルスの脅威はもう過去のものになった、と言うのです。
ウィルスの時代は過ぎた、という2010年時点のハンの記述は、
世界中に新型コロナウィルスの猛威が吹き荒れた現在からすると、先のことを予見できなかった意見にも見えますが、
免疫学のワクチン技術によってウィルスが脅威でなくなったというのは、マクロ的に見れば間違っていないと思います。
いずれは新型コロナウィルスもワクチンによって克服されたという歴史になるからです。
ハンは前世紀的なウィルスの恐怖よりも、いまだ有効な解決策を持たない現在進行形の病理を21世紀的な問題だとしています。
その病理とはうつ病などの精神疾患です。
ハンは精神疾患を、過剰な「肯定性」の要求によって、心がパンクしたものと捉えています。
ハンの言う免疫学のパラダイムとは、内と外、自己と他者の区別が明確だった20世紀的な見方です。
体内に侵入したウィルスや細菌などの異物が、身体に害を及ぼす時に、それを排除して自分を守る防御システムが免疫です。
そこには、攻撃してくる敵が、自己から区別された「異質なもの」だという前堤があります。
敵意の有無にかかわらず、異質な他者を排除することで自己を防御するのが免疫学的な方法論なのです。
しかし、このような自己と他者を明確に分けた防御法は、現代の社会ではもう有効ではないとハンは言います。
つまり、異質なものが持つ「否定性」を敵視するような価値観は、もはや時代遅れだとするのです。
こんにちの社会は、ますます免疫学的な組織と防御の図式から離れた状況にある。この社会を特徴づけているのは、他性と異質性の消失である。他性は免疫学の基本範疇である。あらゆる免疫反応は、この他性に対する反応である。しかしこんにち、他性は差異に取って代わられている。差異は、免疫反応を引き起こさない。差異はポスト免疫学的であり、それどころかポスト近代的であり、それはもはや病因ではない。免疫学的なレベルで見ると、差異とは、同質なものである。差異には、激しい免疫反応を引き起こす、いわば異質性の棘が欠けている。異質性はその鋭さを失って、消費の決まり文句に変わってしまう。異質なものは、エキゾチックなものに成り下がってしまう。そしてエキゾチックなものは、観光客に旅される。観光客や消費者は、もはや[異質なものに対して激しい拒絶反応を示す]免疫学的な主体ではない。(ビョンチョル・ハン『疲労社会』横山陸訳)
免疫学的=近代的図式を批判するポストモダン思想に、「時代遅れ」を刻印するハンの手際のあざやかさは際立っています。
ポストモダン的「差異」が、市場における差異でしかなく、同質性に属することは僕も指摘してきたことですが、
免疫学という喩えによって、異質性が現在的な問題ではないことを示す発想には唸らされました。
とりわけ異質性を消費へと置き換える「観光客」が、同質性を前提としたエセ他者であり、
哲学の対象どころかポストモダン的な消費者の典型でしかないことが、上の引用文ではわかりやすく示されています。
免疫学的な構造が後退したのは、「グローバリゼーションの進展」のためだとハンは述べます。
グローバリゼーションは他性を形作る境界を撤廃し、さまざまな要素の「乱雑な混合」を招きます。
たとえば文学の世界ではジャンルの境界が不明瞭になり、短歌は完全に口語化して、31音のワンフレーズ小説との区別が難しくなっていますし、
俳句も切れや季題文化が衰えて、キャッチコピー化の一途をたどっています。
こういうものを「横断的」と称したのがポストモダンでしたが、実際に起こった現象は、販売促進の同質的運動へと向かう知性なき「乱雑な混合」でしかありませんでした。
免疫学的な図式を時代遅れにしたのが、冷戦崩壊後の資本主義一強体制(グローバリゼーション)であるなら、
免疫学的な図式は冷戦構造と強い関連性を持っていることになります。
実際、ハンは免疫学的なものを、「冷戦の語彙」であり軍事的な発想だと言っています。
冷戦構造の恩恵による経済成長に、いつまでも恋々としている日本にいると実感しにくいですが、冷戦的な発想はとっくに時代遅れです。
(日本だけがガラパゴス的に〈フランス現代思想〉を現在形の「権威」としているのは、いまだ冷戦時代の精神構造を保存し続けているからです)
その視点から見ると、中東を除く現在進行形の軍事的危機が、冷戦終了後の同質性の文脈の中にあることがわかると思います。
ロシアによるウクライナ侵攻は、もともとソビエト連邦であった両者の争いであることから、内戦の延長として捉えるべきでしょうし、
中国と台湾・香港・ウイグルの問題も、同様に内戦という視点は欠かせません。
つまり、異質なものを排除するというより、前提とされていた同質性を維持するための戦争や抑圧だと言えます。
このように、異質性や他者性による葛藤は、現在の思想的主題ではありません。
より現在的な問題は、他者性が消滅し同質性が前提となった社会での「肯定性の過剰」です。
ハンは21世紀の精神疾患は、「肯定性の過剰」に起因するとしています。
「暴力は否定性からだけでなく肯定性からも生み出される」というハンの指摘は重要です。
否定的なものを排除するのは健全な精神だと思い込んでいる人は多いですが、それが根本的な誤りであることを示すからです。
肯定性による暴力には、免疫学的な排除のシステムは役に立ちません。
異質なものを排除する防御メカニズム(抗体)は、あくまで異質なものに対する対抗処置です。
同質的なものに免疫システムは機能しません。
そのため、同質的なものが支配的になると、異質なものに対する防御は官僚制に組み込まれ、大きな葛藤を引き起こすものではなくなります。
新型コロナウィルスの流行においても、ウィルスそのものの猛威以上に、政府のコロナ政策の方が人々に大きな葛藤を引き起こさなかったでしょうか。
むしろ、政府のウィルス対策は同質性の圧力として現れています。
異質なもの(ウィルス)への防御が、抗体形成(ワクチン)を求める過剰な同質性圧力として現れたことを、私たちは目撃したはずです。
(その圧力形成に権威的マスコミが援助の役割を果たしたことは、無視するべきではありません)
その意味で、ハンの「ウィルスの時代も過ぎ去った」という表現は不適切だとしても、
免疫学的な発想がもはや時代遅れである、という骨子は正しいと僕は考えます。
内在のテロル
要するにポストモダン以後の現代社会では、異質性や否定性による暴力はさほど脅威ではなくなり、
「肯定性の過剰」の方が現在進行形の暴力になってきているということです。
本質的な差異がなくなり、何もかもが似たり寄ったりになると、同質的なものが多くなります。
この「同質的なものが多すぎる」現象が「肯定性の過剰」であり、その状態が新たな暴力を生み出すことになるのです。
世界が否定なしに肯定されることから、新たなかたちの暴力が生まれてくる。それは、免疫学的に他なるものに由来する暴力ではない。むしろ、それはシステム自体に内在する暴力である。システム自体に内在するがゆえに、この暴力に対しては免疫による防御が作動しない。[感染ではなく]心の梗塞に起因し、[精神疾患を引き起こす]精神的暴力は、内在のテロルである。(中略)肯定性の暴力とは、欠如ではなく飽和であり、排除でなく包摂である。したがって、この暴力は直接知覚されない。(ハン『疲労社会』)
肯定性による暴力は、もともとはシステムの機能の一部です。
システムの中に組み込まれたものが、過剰に働いて恐怖を引き起こします。
異質なものは存在そのものが目立つので、知覚されるや否や排除することはたやすいわけですが、
肯定性による暴力は、同質的なものが数の過剰によって包摂の圧力をかけてきます。
肯定性が暴力となるのは、それが「過剰」であるからです。
肯定性は単独では無害なので、危険だと認識されることはありません。
簡単に整理すれば、肯定性の暴力とは体制を味方につけた弱者による暴力のかたちなのです。
システムに対する否定性は、少数の力でシステムに改変を要求する強者です。
当然ながら多数派としては現れません。
多数派がシステムの否定へと加担したならば、そのシステムの維持は不可能なので、必ずシステムに対する否定は少数勢力です。
数量的に「多すぎる」こと──つまりは「数の暴力」──は、必ずシステムに依存する「肯定性」として現れます。
稼働中のシステムにおいては、肯定性=マス集団、否定性=少数として把握されるのです。
数が多すぎるために、「肯定性」は集団=大衆として現れ、一人ひとりの顔がハッキリ知覚できません。
むしろ集団の中に身を隠しながら、「多数」として巨大化して現れるのが「肯定性の過剰」なのです。
(ポリコレなどは、「肯定性の過剰」の下位的な現象でしかありません)
否定性の脅威から、肯定性の脅威へのパラダイムシフトは、批判すべき権力像の書き換えを要求します。
近代を超克したポストモダン社会を支配するイデオロギーに、ポストモダン思想という近代批判理論は役に立ちません。
日本の〈フランス現代思想〉などは、アカデミックなツリー構造を基盤とした体制的イデオロギーでしかないのですが、
論理的一貫性の価値がわからない日本人は、ツリー構造に安住する人がリゾームとか口にしてもおかしいとすら思わないようです。
まあ、バカにつける薬はないので放っておくとして、近代批判は否定性を問題にした前時代の思想です。
「現代思想」という言葉がただの商標でないなら、それは21世紀の思想でなくてはなりません。
ハンはフーコーの規律社会という権力像が、否定性を基盤としているために、もう時代遅れだと指摘します。
フーコーのモデルにアップデートが必要なことは僕も何度か書いているので、ドイツでなら通用するのだとわかってホッとしました。
フーコーの批判理論は明らかに近代の国家権力を標的にしているので、現代的なグローバル金融資本という権力に対する批判としては機能していません。
だから「フーコーによる権力の分析は、規律社会から能力社会への移行に伴う、心理的で位相的な変化を説明できない」のは当然なのです。
「管理社会」という概念も同様に、肯定性の社会にはそぐわないとハンは言います。
ここで唐突に「能力社会」という言葉が出てきましたが、能力社会とは自ら自身の能力を示さなければいけない社会のことです。
肯定性が支配する能力社会では、自らの能力を肯定的に示す必要があり、それが社会的圧力として働いています。
今や社会的評価を受ける「能力」とは、個人に備わっているものとか、努力して身につけるものではなく、
社会に対して自らが可視的に示す「映える」ものを言うのです。
実際にはたいした能力もない人が、やたら自己肯定に躊躇がなく、自身を業界に売り込むことを正義とするようになったのは、能力社会のせいだったのです。
近代国家を支えた規律社会では、規律・訓練によって「してはならない」という禁止事項を否定的に刻み込むことに焦点がありました。
禁止や否定的な命令に従わない者を、狂気や犯罪者として「区別」し「排除」していったわけです。
近代ではそのような規律・訓練による否定的秩序が、社会的生産性を高めました。
しかし、否定性における秩序は画一性から逃れられません。
ポストモダン時代になり、クリエイティブなアイデアが社会的生産性を高める時代になると、
規律社会と禁止による否定的図式は、逆に生産性を低下させることになります。
それならば、「すべき」という規定性にとどまるよりも、自発的に「できる」ことを迅速に示してもらう方が、より生産性の拡大に結びつきます。
「できる」という肯定性が社会的に高い価値と見なされるのは、このような経済的事情によるものです。
ハンはうつ病などの精神疾患を引き起こす原因が、肯定社会の「能力を発揮しろ」というプレッシャーからくると考えています。
「うつ病が発症するのは、能力の主体がもはや何もできないときである」とハンが言うように、
何かをやり遂げることに疲れたり、できることを示すことに疲れた状態が危険なのです。
能力を発揮し成果を示すプレッシャーは、肯定社会のシステムによって強化されています。
今や私たちは、権力に命令されて労働し搾取されるのではなく、自発的に自分自身から搾取するようになっています。
たとえば、雑誌の編集者に依頼されて原稿を書くのではなく、自ら書かせてくれと自分を売り込む人がわんさか出てくるのは、肯定社会らしい現象と言えるでしょう。
自ら売り込んで、特に書きたいわけでもないゴミ同然の原稿を書いて、雀の涙ほどの原稿料で搾取されていくのですが、
彼らは自らの能力を示す自己拡張の機会だと思って嬉々として行っています。
踊る阿呆はまだ幸せです。
そういう肯定性を積極的に示せないことで、鬱々として精神を病んでいく人もいるわけです。
自らの能力を自発的に示せない、自分には何もできないという恐怖が、内在のテロルというものです。
社会生活や職業生活で能力を示せていない凡庸な人が、メディアの世界で必死に自分の能力を示そうとして「空疎なメディア弁慶」と化すのも、肯定社会の命令(能力を示せ)に従順であろうとするためです。
このような社会では、フーコーの権力モデルをそのまま紹介しても意味はありません。
ホモ・リベル(自由な人間)=ホモ・サケル(殺害可能な存在)
では、肯定社会で自らの能力を遺憾なく発揮している人は、幸せなのでしょうか。
外部に主人を持たず、自分自身が自らの主人となるヘーゲルの夢を実現した存在なのでしょうか。
能力の主体は外部の支配を受けず、自分にしか縛られない点で大きな自由を手に入れています。
しかし、ハンはその状態を「強制する自由」だと述べています。
その自由は、自己自身から自由に搾取する「自由」だと言うのです。
自分の身体を自ら虐待することが「自由」であるように、自分から好きなだけ搾取することができるというだけのことで、
その「自由」は搾取の支配そのものから離脱しているわけではありません。
人に言われるまでもなく、自ら自身に鞭を打って労働させることで、自由な気分を得ているだけなのです。
能力社会とは、自己搾取社会なのである。能力の主体は燃え尽きるまで、自分自身から搾取を続ける。そのさいに展開されるのは、自分自身を攻撃する自虐であり、それは先鋭化して自己殺害に至ることもまれではない。(ハン『疲労社会』)
能力の主体は、自分自身の主人であり経営者です。
自分自身の主催者である能力の主体を、ハンは皮肉をこめて「ホモ・リベル(自由な人間)」と呼んでいます。
この呼び名はジョルジョ・アガンベンの著書『ホモ・サケル』(1995年)で有名になった、「ホモ・サケル(聖なる人間)」にかけた言葉です。
ホモ・サケルとは、殺害しても罪にならない法秩序の外にある存在のことです。
守ってくれるものを持たない「剥き出しの生」とも言われます。
(突然にクビにしても問題にならない非正規雇用を思い浮かべるのは僕だけでしょうか)
ハンは能力の主体であるホモ・リベルは、実はホモ・サケルなのだ、と言っています。
「剥き出しの生」を健康な身体──生産に必要な身体だけが残された存在──と捉えているからなのですが、上記の引用箇所とあわせて考えると、
自分にとって自分自身はいつでも殺害可能な存在だ、という意味にしか思えません。
僕が興味深かったのは、規律・訓練による否定的な抑圧が衰えたために、フロイト的な無意識は今や存在しなくなっている、というハンの指摘です。
無意識というものに有効性がなくなれば、そこに依存して理性批判をしている〈フランス現代思想〉の思想的価値は完全になくなります。
フロイト的な自我のルーツは、カント的な主体にあります。
カントの道徳的主体は超越論的な「良心」に従っているわけですが、この「良心」がフロイトの「超自我」に対応しています。
良心との関係は自分自身との関係ですので、自らの理性によって労働することを命令されている感覚になります。
ハンは、これを自己の二重性を基盤とした義務の関係として説明します。
道徳的主体は義務を果たすために、快楽を抑圧して労働をするのですが、
そのような道徳性による成果は、(道徳的な)神によって祝福されることが約束されています。
つまり、道徳的主体は苦しみながら「良心」に従うことで、神から「報酬」を受け取ることができるのです。
一方、ポストモダンにおける能力の主体は、従順や道徳や義務ではなく、自由と自発性に従って労働をします。
その行動原理は義務ではなく、快楽を得ることです。
「できる」ことの快楽欲しさに、自分の能力を自発的に示すようになるのです。
自発性によって他者の命令という否定性から解放され、主体は自分自身の経営者となるのですが、
自己との関係が過剰になることで、他者との関係が欠如していきます。
他者との関係がなくなるということは、他者からの承認という「報酬」の危機にさらされるということです。
この状態が心の障害を招くのですが、その障害とは健全な自己愛とは異なるナルシシズムだとハンは言います。
ナルシストは「他のもの」や「新しいもの」と出会うことがなく、自分が出会うものすべてに自分自身を投影し、そこで自分自身を体験することを望んでいます。
(ここ数十年の日本社会はこのようなナルシス状態だと言えます)
こうして自分と同質であるものばかりが過剰に供給されるのです。
とりわけ他者と向かい合う時間より、スマホなどのメディア端末と向かい合う時間が多い人は要注意です。
ハンはうつ病と憂鬱の違いが重要だと言います。
憂鬱は大事なものの喪失という経験のうちにとどまり、喪失した不在のものと否定的な関係を持っています。
不在とはいえ、対象との関係を維持しているのです。
「それに対してうつ病は、あらゆる結びつきと関係とから切断されている」状態だとされています。
欲動のエネルギーの大半は自分自身のために使用され、その残りがやっと他者との関係に回ります。
うつ病はこうした自己搾取の果てに起こるのです。
肯定社会の病であるうつ病が、他者という次元と関係しないナルシシズム的な自己関係だとハンが言うのは、
うつ病の要因が他者との葛藤や二律背反を前提とせず、自分自身との戦いに倦み疲れていることにあるからです。
葛藤を引き起こすような他者との強い関係を持たず、自分が自分自身の主権者であろうとしながら、
自分自身にそれだけの能力がなく、自分との関係に疲れて衰弱した状態がうつ病なのです。
能力社会でナルシシズムを保つために、自己を現実以上に立派に見せようと自己拡大することに疲れると、うつ病の危機が忍び寄るのです。
燃え尽き症のあとに生じるうつ病は、人格の拡張、変容、再発見[を私たちに求める社会]の命法と表裏一体の関係にある。この命法は、私たちの人格の同一性と結びついた製品が市場に供給されることを前提としている。私たちの同一性が頻繁に変われば変わるほど、それだけいっそう[新たな同一性と結びついた製品の供給に向けて]生産は活発となる。(中略)ポスト産業社会としての能力社会においては、生産性をさらに向上させるために、柔軟で可変的な同一性が必要となる。(ハン『疲労社会』)
ポスト産業社会では、不変的で一貫性のあるパラノイア的なアイデンティティより、
可変的で断片的なスキゾフレニックなアイデンティティの方が生産性が向上するのです。
パラノからスキゾへという浅田彰的な図式が、生産性の向上を求めるイデオロギーだということがよくわかるハンの明快な指摘です。
僕が繰り返し言っているように、日本の〈フランス現代思想〉は、所詮は消費的な産業社会と呼応した「体制的思想」でしかありません。
自分の同一性を改変するたびに、新たな製品を生み出す、というあたりは、ポストモダン時代の売文家たちの生き方そのものです。
「人格の拡張、変容、再発見」は僕が「ドーピング」と呼んでいるものと同じ意味で、これが能力社会の要請であることが明らかにされています。
「能力の主体は自分自身と競争し、つねに自分に競り勝たねばならないという自己破壊的な強制のもとに陥っている」とハンは言います。
自己強制は主体に自由を与えるのですが、その自由が自らを破壊的に追いつめる結果になるのです。
規律社会は超自我による抑圧を基盤にしていたわけですが、
それが能力社会へと移行するにともなって、超自我が肯定性を帯びるようになると「理想的自我」による支配が台頭します。
超自我が禁止による抑圧の支配であれば、理想的自我は魅惑による欲望の支配です。
理想的自我は肯定性による強制を司るものです。
つまり、理想の自分を自ら思い描き、その魅惑的な理想像に到達するために、せっせと自分に仕事をさせるのです。
夢はあきらめなければきっと叶う、などという戯言を垂れ流し、むやみに高い目標へと自らを追い立て、高い能力を示せと自己に要求するのです。
能力の主体が理想的自我をめざすことを、ハンは「自己をプロジェクトする[=自己を企て投げる(sich entwerfen)]」と表現しています。
大谷翔平は投手と打者の「二刀流」を自己の理想像として思い描き、それを世界最高峰のリーグで達成したわけですが、
彼のように理想的自我を実現できる能力の主体は、一握りの成功者に限られます。
理想的自我から遠いところでもがき続けて、自分を破壊してしまう人の方が断然多いことは言うまでもありません。
「現実の自我と理想的自我の隔たりからは、自分自身を攻撃する自虐が生じてくる」のです。
ここで、僕はハンの理論では拾えないことを付け加えようと思います。
ハンは能力社会を自己との関係に集中して語っているのですが、実際はナルシシズム的な自己関係が、他者への攻撃や排除に結びつくことがあります。
理想的自我へと到達することで、自らの能力を肯定的に示そうとする主体は、
当然ながら、自らの能力を否定的に評価する他者を抹殺したいと考えるようになるからです。
とりわけドーピングによる過大な自己評価を、正当な現実レベルの評価に下げられるだけで、恨みに思う人が出てくることは避けられません。
理想的自我をめざすことが、着実な自己精進になるのならいいのですが、欲望を原理とすると、自分を高く見積もりすぎることになりがちです。
「ホモ・リベル」というまとめ方でもわかるとおり、ハンは能力社会が「自由」によって駆動されていると考えています。
おそらく、新自由主義を標的としている事情があるのだと思いますが、
そこは本来なら「自由」ではなく「欲望」こそが問題にされるべきだと思います。
自己を高く企てて、高くへ放り投げる──プロジェクトする──という理想化は、自己の終わりなき崇高化へと結びつきます。
覇権国家の最高権力者が、死ぬまでその地位を維持しようとするようなあり方です。
それは欲望が尽きない限り続けられる、終わりなき跳躍でもあります。
私たちは欲望に歯止めをかけないかぎり、自己破壊(というより自己消耗)の危険と向き合い続けなければならないのです。
これは社会レベル、さらには人類レベルに拡大しても言えることです。
到達不可能な欲望を追い求める社会は、自己消耗して意気消沈する社会へと陥るに違いありません。
能力社会への対処法
では、自己搾取を強いる能力社会には、どう対処したら良いのでしょうか。
『疲労社会』では直接的な対処法は語られていませんが、そう受け取れる箇所を探してみました。
「ニーチェにおける超人とは、近代の疲弊した能力の主体に対する、文化批判的な対抗モデルとなっている」と語るハンは、
能力の主体の対極にあるものとして、ニーチェの「超人」を挙げています。
超人のどこが対抗モデルなのかと言うと、時間をかけるということになるようです。
速いものや新しいものなどの強い刺激を好む人間は、刹那に身を任せて、過剰に活動しようとします。
超人は十分に中身を持っているので、現実の自分から逃れずにゆっくりと時を過ごすことができます。
要するに、現実の自分を超え出る理想的自我を追い求めることなく、現実のままで居続けることを恐れないのが超人なのです。
誰もが個性的で独特なキャラクターなどになれるはずはないのです。
もっと遠慮のない言い方をすれば、ほとんどの人は平凡でしかないのです。
肯定性の過剰とは、同質的なものが多すぎるということです。
決定的な他者性や異質性を排除してしまった社会では、同質的なものが多くなるのは必然です。
同質的なものが多いと自分もそこに埋没してしまうので、人々は同質的な大衆との差異を示すために自己像の理想化をはかります。
だからといって、普通の人は社会から排除されるような異質な他者を理想とするはずはありません。
そうなると、現行社会において肯定される形で理想化が行われるようになります。
その理想化は、必然的に大衆的な欲望の上に位置せざるをえません。
結果として、当人は同質性からの差異を求めたはずなのに、同質的で大衆的な理想をめざすことで社会的に搾取される道を歩むのです。
肯定性における理想では、搾取の文脈から逃れられないのです。
研究者として大学にいる人が、自分はアーティストだという馬鹿げた理想を抱いて、自己啓発本を思想と称して自己搾取する売名ドーピングへとはまり込むのも凡庸さの現れです。
凡庸から抜け出したいという欲望は、どうしようもなく凡庸であることを示すだけです。
言っては悪いですが、非凡な人はそもそも非凡なので、凡庸から抜け出す努力などする必要すらないのです。
自分の凡庸さが嫌なら、せめて自分が身を置く共同性から排除されるくらいのリスクを冒して、異質性を示してほしいものです。
それができないのならば、詩人だとかアーティストだとか言っていないで、凡庸な自分と向き合って生きればいいのです。
ハンが能力社会に対する処方箋として、他に挙げているのが「憤慨」です。
ハンは「苛立ち」と「憤慨」を区別した上で、「憤慨」には加速しスピード化する現代社会に対して、
否定性をエネルギーとした中断を呼び込む時間性があると述べています。
憤慨における特異な時間性は、加速化や過剰な活動と相容れない。加速化や過剰な活動は、時間的な幅を許容しない。そのため、未来は延長された現在という意味に切り詰められてしまう。だが、この延長された現在には、他なるものへの眼差しを許容する否定性が欠けている。それに対して、憤慨は現在をその全体において問う。そのために、現在のなかで中断し手を休める必要がある。(ハン『疲労社会』)
加速の中にある社会は、前へ前へと進むことを急ぐために、前提となる現在を疑う暇もなく、現在をどんどん延長していくことになります。
こうして未来は延長された現在の中に囲い込まれてしまうのです。
現在を疑うことがないということは、肯定性において突き進むということです。
ハンは「肯定性の過剰」をヴィリリオの言う速度信仰と結びつけてはいませんが、両者は確実に関係しています。
なぜなら、否定性とはブレーキのようなものだからです。
加速したければ肯定せよ!
否定をした分だけ他の者に遅れを取るぞ!
「肯定性の過剰」とは絶えず加速することを要求する、速度社会のイデオロギーだと考えるべきだと僕は思います。
ハンは「憤慨すること」に、肯定だけを許して加速を追い求める社会を中断する力を見ています。
それならば、加速に貫かれた肯定社会では、憤慨というブレーキをシステマティックに排除するメカニズムがあるはずです。
それが「気晴らし」です。
憤慨のエネルギーと強勢が沸き起こるのを防ぐのは、気晴らしである。気晴らしは、こんにちの社会に広く見られ、この社会の特徴でもある。憤慨はある状態を中断し、別の新たな状態を始めることのできる能力である。(ハン『疲労社会』)
ハンは苛立ちが個別の事態に関わるのに対して、憤慨は全体を対象として否定するエネルギーだと述べます。
社会の根幹に対しての疑問から起こる憤慨は、「今」の社会全体への問いかけでもあります。
ひたすら前へと進もうとする社会を、憤慨は「今」にいったん立ち止まらせ、新たな状態へと向かわせるのです。
そのような一時停止を嫌う速度社会は、スポーツや消費的レジャーなどの気晴らしを用意して、憤慨が起こらないようにオンデマンドで「ガス抜き」を提供します。
要するに、日々の不当な仕事への怒りが爆発する前に、仕事帰りにスマホゲーム等に没入して気晴らしをしてもらうようなものですが、
このような気晴らしによる憤慨の馴致が、社会においてシステム化されているのです。
現行社会に対する憤慨が、一定量を示すほどに結びつくと、革命運動へのエネルギーになることは歴史が示しています。
現行社会をひたすら延長する資本主義社会は、そのような革命的エネルギーの結びつきを防ぐために、労働と消費の「個人化」をめざしました。
社会的連帯による権力への大衆的対抗を妨げる「個人化」を推し進めたのがポストモダン思想です。
消費資本主義社会の「去勢」システムでしかない「個人化」を、「大きな物語」の終焉として正当化したおバカさんたちを、日本の伝統左派は文化左翼として扱ってきました。
文化左翼はオタク化し、消費的土壌において「個人的」にしか社会への違和感を示せなくなりました。
そのため社会への全体的「憤慨」に代わって、SNSで「個人的」に特定の「個人」を叩くガス抜きが横行しています。
肯定社会ではそういうものを「ネットの誹謗中傷」という括りで悪者扱いしていますが、社会への怒りをそのような消費形態でしか表すことができない社会構造について、もっと真剣に考えるべきだと僕は思います。
(権力者や著名人によるネットでの誹謗中傷については、いつになっても「ネットの誹謗中傷」として扱われないのですが、
そこに「ネットの誹謗中傷」問題が、権力側の自己防衛を前提としたものでしかないことが露呈しています)
また、肯定社会では不安や悲しみという否定的な感情が弱まる、とハンは指摘します。
社会の否定的な面が露出しそうになると、肯定性にあふれたスポーツのニュースや現実逃避的な消費産業のヒットなどの「気晴らし」で、即座に火消しをするだけでなく、
被害者やそれを問題視する「個人」への攻撃をも厭わないのが肯定社会です。
今や否定性や否定的感情は、肯定社会の内在のテロルによって地下に押し込められています。
その結果何が起こるかと言うと、思考において否定性が不在になり、思考が計算(=コンピュータ)へと近づきます。
「コンピュータは肯定的な機械である」とハンが指摘する通り、本質的な批判というものはコンピュータにはできません。
(つまり、コンピュータ全盛の時代には、批判的知性こそが最も希少で高度な知能だということです)
広く見られる世界の肯定化という流れのなかで、人間も社会も、能力を発揮して成果を生み出し続けるだけの自閉的な機械へと変貌していく。まさに成果の最大化を目指す行き過ぎた努力によって、否定性が廃棄される、ともいえるだろう。なぜなら、否定性は加速化のプロセスを遅らせるからである。(ハン『疲労社会』)
ここでは肯定化の中で憤慨を忘れた「人間のコンピュータ化」が語られています。
否定性を廃棄して、成果を最大化するためには、計算を加速するコンピュータに知的作業を任せるに越したことはありません。
最近、過去の俳句の語彙データをAIに学習させることが、俳句作りの足しになると思っている若手俳人がいたりしますが、
こういう産業的な発想しかできない理系バカを批判できない文学など、滅びるしかないと僕は思っています。
(それで俳句の生産性を上げたからって、産業社会の猿真似以外に何があるのでしょうか)
当然ながら、肯定社会に時代を超える文学の居場所はありません。
互いの言語遊戯を「挨拶」で肯定し合うだけの「相互承認消費物」だけが、商品寿命の「束の間」を謳歌して終わることでしょう。
むしろ、肯定社会に居場所を発見できない否定性のエネルギーを持つものこそが、文学の名にふさわしいということになるはずです。
ハンは「成果を生み出し続けるだけの自閉的な機械」へと変化した人間のことを「ドーピング」と表現しています。
偶然ですが、僕のドーピングという言葉の用い方とハンの使い方はほとんど同じです。
ただ、ハンの方が「人間のコンピュータ化」を踏まえている点で、考察が深いように思います。
つまり、ハンの「ドーピング」は、人間にコンピュータの補助をつけることで、当人の能力以上の仕事をさせることを含意しています。
疲労社会というユートピア
ハンは、疲労や疲弊──疲れていることが、否定性が乏しく肯定性にあふれる社会の特徴だと言います。
能力社会が、自分自身の自然以上の活動を自分に強要するため、過剰な疲労と疲弊を生み出しているのです。
「疲労と疲弊は、むしろ肯定性があまりにも多いことによって引き起こされる」とハンは述べています。
このような肯定性が引き起こす疲労は、悪い疲労です。
しかし、一方で否定の潜勢力とも言うべき良い疲労についてハンは語ります。
(この良い疲労、悪い疲労という言い方は、僕が便宜上名づけたものです)
実はこの記事で、疲労についてのハンの記述を取り上げるかどうか迷いました。
なぜなら、ノーベル文学賞作家のペーター・ハントケの「疲労をめぐる試論」を参照して、
悪い疲労に良い疲労を対置させるハントケやハンの論旨が、わかりにくい上に効果的だと僕には思えなかったからです。
しかし、『疲労社会』という書名と、直接に関係する部分に触れずに書評を終えるのは、礼に反すると思って書くことにしました。
肯定性に支えられた能力社会における悪い疲労は、強い孤独感によって人々を離れ離れに孤立させます。
人々は自分自身の疲労に沈み込んでしまうために、連帯することができなくなっているのです。
しかし、ハンによるとハントケは、人々を和解させるような良い疲労を提示します。
疲労によって自我が減退することで、自我が他者へと開かれていき、世界の内に共に存在する友情のオーラを生み出すとするのです。
疲労が良い状態を導くことになる、という主張はなかなか実感しにくいものがあります。
ハンによるハントケの論の説明はこうです。
加速してスピード化する社会の中ではじっくり捉えることができなかった対象が、疲労によってゆっくりとそのままのかたちを回復することになります。
ものがかたちを備えて他のものと一緒に現れてくることで、友情の空間が開かれ、自我中心的な孤立を乗り越える共同体の輪郭が浮かび上がるようになります。
このような疲労によって開かれる共同体を、ハンは「疲労社会」と名づけています。
書名の『疲労社会』は意外にも良い意味だったのです。
ここでは良い疲労によって、自己を他者から切り離す自我が弱まり、他者との共同性を回復するシナリオが描かれますが、
前述した通り、僕はこの部分にはあまり乗れませんでした。
なぜなら、ヨーロッパ人に比べると日本人は圧倒的に自我が弱い人々です。
すぐに他人の意見に同調しますし、いつも他人の反応を気にしています。
しかし、そこで生まれる共同性は友情と言うより、同調圧力に近いことを日本人なら実感できるのではないでしょうか。
ヨーロッパ人は自分たちが孤独であることを、理性的な自我のせいにしたがるところがあり、
そのため無意識や自我の解体によって人間存在の根源的な共同性が見出せると錯覚しているのですが、
ハッキリ言えば、そのような否定性によるユートピアは決定的に幻想でしかありません。
一人一人の自我の持ち方に問題や解決法があるのではなく、権力に統制された社会構造に問題があるのです。
つまり、今の社会構造がいったい誰を幸せにしようとしているのか、ということを考えるべきなのです。
現在の社会構造を維持したまま、ただ疲労の良い面に目を向ければ、ゆっくりと互いに眼差しを交わし合う関係が回復される、などというのは戯言でしかありません。
こういう怪しげな肯定的ヴィジョンを書名に持ってくるあたり、ハン自身が肯定性の過剰に抵抗できていないのではないか、と疑ってしまいました。
以上で『疲労社会』についての書評部分は終わりです。
実を言うと、この記事は『透明社会』とあわせて一つの記事にするつもりでしたが、
例によって分量が多くなってしまったために、一冊ずつ記事にすることにしました。
ハンの『疲労社会』に続く『透明社会』についての逸脱書評は、次回の記事としてアップしますので、それまでお待ちください。
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