南井三鷹の文藝✖︎上等

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『カントの「悪」論』(講談社学術文庫)中島 義道 著【その2】

定言命法と仮言命法

中島義道のカント読解の続きです。
前回はカント倫理学が「誠実性の原理」という理性のはたらきによって成立しているという中島の主張を確認しました。
しかし、自己愛に基づく「幸福の原理」の声の大きさの前に、理性の声はかき消されがちだとカントは言います。
カントは自己愛と理性を比べたときに、易きに流れる人間が自己愛という「悪」へと傾くことをよく自覚していました。
理性信仰に基づく倫理学をカント自身が「危うい立場」と語り、脆いものとして捉えているのはそのためなのですが、
中島は「カント倫理学の真価は、まさに倫理学の危うさ、道徳的善さの危うさ、人間存在の危うさをしっかり見据えているところにある」と言います。


さて、理性の声に従って道徳的な善を実践するには、自分の意志から行う主観的な行為に客観的な普遍妥当性がなくてはなりません。
主観的な行為を普遍的なものへと格上げしていくことが、カント哲学の中核と言ってもいいのではないかと思います。
この昇格の手続きをカントは「定言命法」というかたちで成立させようとします。


定言命法と比較されるものに「仮言命法」というものがあります。
仮言命法は「約束を守る」などの格律を「嫌われたくないから」などの別の目的のために遂行するあり方を言います。
しかし、定言命法はそのような条件なしに「約束を守る」という格律を遂行するというもので、ただ理性に従ってすべきことを行うというところに特徴があります。



『カントの「悪」論』(講談社学術文庫)中島 義道 著【その1】

カント倫理学の真髄は自己愛の排除にある

本書の原本は2011年に勁草書房から出版された『悪への自由』です。
カントが道徳的な善を「形式」に求めたために、倫理が「形式」にあるかのように解釈する俗説(ラカンの読みがこれにあたる)があるのですが、
これに対して中島はカント倫理学には「形式」の名のもとに「誠実性の原理」という実質が潜んでいることを明らかにしています。
専門的な哲学研究にとどまらない活躍をしている中島の書いたものだけあって、解説は平易な文で読みやすく書かれています。
(それでも第三章の議論は難しく、僕には追いかけるので精一杯でしたが)


中島は「形式」だけで倫理学が成り立つはずがない、と言います。
表面的には「形式」を強調する姿勢をとっていても、それを支えるのはカントの信念というべきもので、これを中島は「誠実性」という言葉で説明します。
カント倫理学を裏で支えているのは「誠実性の原理」なのです。
カントは「誠実性の原理」が生命や安全や快適などを求める「幸福の原理」よりも重要だと考えました。
この誠実性を支えているものが快や幸福ではなく、理性であるということが非常に重要です。


さらに強調しておきたいのは、カントに「誠実性の実現のためには自己愛を徹底的に粉砕しなければならないという信念」があるとするところです。


巧妙に隠された自己愛、善良な行為の陰にとぐろを巻いている自己愛に対する嫌悪こそ、カント倫理学の骨格を形成している。

中島はカントにおいて理性が自己愛と真っ向から対立するものであることを明らかにしています。
本書は第三章、第四章とカントの自由に関する考察が続いていくのですが、前半部で語られた自己愛と理性の対立関係と定言命法についての部分が僕には非常におもしろく感じました。
理性が自己愛の排除を強く求めることを示している部分を引用しましょう。


理性に起源を有する感情は「知的軽蔑(intellektuelle Verachtung)」、すなわちあらゆる自己愛に基づく動機を軽蔑して排除するという知的感情である。道徳法則に対する尊敬という感情は、この知的軽蔑のいわば反射形態にすぎない。

ここで中島が強調しているのは、尊敬という感情が起こるのは道徳法則という「そと」にあるものに対してではなく、あくまで自己愛を排除する理性の「うち」に対してであるということなのですが、ここで議論は少々複雑になってきます。
理性自体は自分の「うち」にあるのですが、その対象である道徳法則は自分の「そと」にあるからです。 これを中島は「道徳法則は可想的性格として自分の「うち」にあるが、さしあたり常に経験的性格として自分の「そと」にある」と説明します。



批評を殺す〈内実に対するニヒリズム〉

〈内実に対するニヒリズム〉という日本の病理

僕はこのブログのトップページに「批評がすべて誹謗中傷扱いされる時代」と書いています。
批評の衰退はだいぶ前から起こっていることですが、SNSが一般化した時代になって、
作り手たちの「批評殺し」(というか批判殺し)の欲望がいよいよ前景化してきたと感じているからです。
もちろん、前々から創作者は批評家による批判をおもしろくないと思っていたと思います。
しかし、ある種の「必要悪」としてその存在を認めてきた部分があったと思います。


僕がこの現象を意識しはじめたのは、純文学のジャンルにおけるある出来事でした。
2006年冬号の「文藝」という雑誌で、高橋源一郎と保坂和志が対談をしたのですが、
「小説は小説家にしかわからない」と批評を否定する趣旨のやりとりがあったのです。
評論家の田中和生が「文学界」同年6月号でその態度に疑問を呈したのですが、
この論争は文壇全体を巻き込むほどに盛り上がることもなく終わったような気がします。
他者を重視するはずのポストモダン思想に前のめりだった人たちが、同質性に居直っている姿に僕はあきれたのですが、
このような同質集団に信を置く「日本人の本音」が露出したのが、日本型ポストモダンの成れの果てであったと今なら言うことができます。


西洋の自己反省によって日本が自己満足を深めたのが日本型ポストモダン現象であったわけですが、
他者を称揚するはずの思想が、日本に入ってくると既得権の保護のための保守思想になってしまう、それが日本という場所なのです。
「前提」を共有しない他者を重視し、同質性を解体するはずの思想を語る人が、平気で同質性による他者の排除を欲望し、ときに実行する、
そんな自らが支持する思想への矛盾した態度は、いったい何に起因するのでしょうか。


僕はそこに「評価されれば内容なんてどうでもいいんだ」という〈内実に対するニヒリズム〉があると思っています。
〈内実に対するニヒリズム〉が、ポストモダン思想などよりはるかに根源的な思想として日本には根づいているのです。



『個人空間の誕生』 (ちくま学芸文庫) イーフー・トゥアン 著

実際の原題は「分節化世界と自己」

邦題は『個人空間の誕生』となっていますが、本書に「個人空間」の考察を期待して読んでみると、物足りなさが残りました。
そこで原題を見てみると、「Segmented Worlds and Self」とありますので、「分節化された世界と自己」の方が正確かもしれません。


著者のイーフー・トゥアン(段義孚)は天津生まれですが、アメリカの大学で学位を取得し、
人間主義的地理学の創建者とされているそうです。
西洋の異邦人であるトゥアンは、西洋を相対化する視点を持たざるを得なかったため、
本書の分析もどこか外から西洋を眺めているような冷静さ(というか冷淡さ)が感じられ、
考察が終始理知的で非常に明晰な論考になっています。


ところどころに中国人の空間意識についての考察があるのですが、実は僕はこちらの方が冴えたことを言っていると感じました。
考えてみれば、トゥアンは中国にとっても内なる異邦人として、広い視野から考察できる立場にあったのです。