南井三鷹の文藝✖︎上等

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『透明社会』(花伝社)ビョンチョル・ハン 著/守 博紀 訳【後編】

居心地を追求した静止=生死なきオタク社会

サブカル文学の批判に共感する人は少ないでしょうから、話を『透明社会』に戻しますが、
ハンはプンクトゥムを「静止の場所」として捉えています。
ハンがポルノとして示すイメージとは、広告のことだと考えるとわかりやすいと思います。
テレビでもネットでも広告というものは流れ去るものでしかありません。
わざわざ静止して熟考するものではありませんし、熟考させる間もなく消費の欲望を喚起し、購入へとつなげるのが目的です。


こんにち生じている視覚的なもののポルノグラフィ化は脱文化化として進行する。ポルノグラフィックで脱文化化されたイメージは、読解すべきものをなにも与えない。それは広告イメージのように、媒介されることなく接触して伝染するように作用する。
(ビョンチョル・ハン『透明社会』守博紀訳)

ただメディア上で展示されるだけのイメージは、読解されることを求めません。
意味などという遅いものに媒介されることなく、ただ素早く接触し伝染することが至上命題です。
そこに「静止の場所」であるプンクトゥムが入り込む余地はありません。
(ハンは広告イメージにはストゥディウムも存在しないと書いています)



『透明社会』(花伝社)ビョンチョル・ハン 著/守 博紀 訳【前編】

透明性を要求する社会

前回に続きドイツ現代思想のビョンチョル・ハンを読んでいきます。
ハンの『疲労社会』(2010年)のテーマは、「同質なものが多すぎる」こと、つまり「肯定性の過剰」でした。
『透明社会』(2012年)でも同じく「肯定性の過剰」を問題にしているので、『疲労社会』の続編と考えて良いでしょう。


21世紀の社会では、グローバル産業社会の要請によって異質性や他者性が減退しています。
市場取引の拡大には商売における同一基準が必要になるので、異質性が差異へと切り下げられた同質的な社会が求められます。
社会が同質性を前提とするようになると、否定的要素を消し去るメカニズムが発達して、肯定性ばかりがあふれるようになりました。
それが「肯定性の過剰」です。
肯定性があふれると同質なものが多すぎる状態となり、他との差異を明らかにするために自分の能力を自発的に示すことが必要になります。
誰もが「できる」という肯定性を示すプレッシャーに苦しめられるのです。
つまり、現代社会において問題とすべきなのは、もはや否定性や他者性ではなく、肯定性による精神的な暴力プレッシャーだということです。