南井三鷹の文藝✖︎上等

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芸術疎外論【その1】

疎外されたクリエイター

ケース①
出番を待つ間、お笑い芸人のMはまた学生時代を思い出していた。
サークルの合宿で先輩から「何か面白いことをやれ!」と急に声をかけられて、とっさに思いついたギャグをした時のことだ。
彼自身は自分が何をやっているのかもよくわからなかったが、
その場にいる人々の笑い声が、空間を震わせるうねりとなり、
正面に立つ彼の全身に次から次へと降り注ぐのを感じていた。
ウケるということは幸福な空間づくりなのだと知った。
快進撃はお笑いの世界に足を踏み入れても続いた。
Mのギャグはお茶の間にも知られるようになった。
そうしてMは、そのギャグをしている瞬間のために生まれてきたかのように感じるようになった。
彼のギャグは彼の魂だった。
しかし、そこまでだった。


何年かすると、Mは新しいギャグも求められなくなっていた。
多くの人が見飽きているはずのギャグをテレビ局から要求された。
そのうちMは散発の笑いの間にあるソーシャルディスタンスが計測できるようになった。
もうやめたい、と思った。
もうやめたい、と事務所にも相談した。
まだ喜ぶお客がいる、と言われた。
そして今日もステージに立っている。
「あれ、お願いします」と言われるたびに、彼のギャグは彼のものでなくなる気がする。
Mはもう自分のギャグの奴隷だった。
いっそ現実の自分は死んでしまって、インターネット上にいる映像の自分が、勝手にギャグを繰り返していればいいのだ、と思った。