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「資本教」についての覚書

価値とは交換であり、力とは数である

社会主義体制が崩壊した1990年代以降、資本主義が世界を支配しています。
それが唯一絶対の地位を得たことで、人々は消費資本主義がイデオロギーであると意識しなくなりました。
社会の評価基準を手中に収めた資本主義は、
現代の犯すべからざる神とまで言える段階に達しています。
もはや資本主義をイデオロギーだと主張するだけで、神が作った世界の安定を乱す「迷惑な人」と見なされてしまうのではないでしょうか。


今や資本主義イデオロギーという神は、世界のあらゆる宗教の神を超えた存在です。
もはやイデオロギーというより、資本教(正式名はユダヤ=キリスト資本教)という宗教のメタファーで認識した方が、本質の理解がしやすいと僕は思っています。
主にアメリカの力によってグローバル化した消費資本主義は、資本教とも言うべき宗教だと考えるべきなのです。


資本教は徹底して世俗化されているために、「教義」のわかりやすさに関しては、世界のどの宗教にも勝っています。
その「教義」は、「価値とは交換であり、力とは数である」というものです。
それは表面上、経済原理として広く共有されているもので、
貨幣を多く持つもの、多数に交換されるものを崇拝するという現象を生み出します。


力とは数である──、
この「教義」によって、すべての要素は数量化されるようになります。
いや、数量化せずにはいられないのです。
資本教信者たちは、数量化したもの以外は現実的な力ではなく、妄想だと思っています。
そのため、あらゆる物ごとを原子レベルに分解し、最小単位を基準とした数量に還元しようとします。
要するに、デジタル化するのです。
デジタル化の欲望は、資本教の信仰から生まれます。


交換されるものが価値である──、
これをわかりやすく言ってしまえば、他人に欲望されるものが価値と認められるということです。
多くの人の間で交換された「商品」(ここには「情報」も含まれる)は、その内容にかかわらず価値となります。
交換された「情報」において言えば、その真偽や有用性など関係ありません。
単に交換されることが価値であるため、多数に交換されたという事実以上に何ら評価する必要はないのです。


そのため資本教の信者は、大ヒット商品の批判をする人間を許しません。
たとえ多数に流通(=交換)した情報の内容が虚偽であっても、真実をもってそれを批判することは「教義を理解しない悪魔サタンの所業」でしかないのです。
こうして、資本教信者だらけの世界になると、真偽の区別や有用性は、交換量に比べたら何ら価値がないものになりました。
多数に交換されることのなかった真実は、原子化され個人化されて「自分だけの妄想」へと格下げされます。
宗教らしい宗教であれば、「自分だけの真実」を多数の人が受け入れてくれなくても、
その宗教の神を真摯に信仰していれば、「自分だけの真実」を神と共有することができます。
神だけが自分の正しさをわかっている、と迫害や孤独に耐えるだけの力を神が与えてくれたりします。
このような宗教では、交換されることがない「自分だけの真実」でも、精神的﹅﹅﹅な強さ﹅﹅﹅さえあれば支えることができます。


しかし、資本教は人間の精神などに依拠していません。
むしろ、資本は人間の精神的営みとは独立に存在しているので、精神の力に頼ることはできないのです。
言葉を変えて言えば、資本は唯物論的かつ数量的に存在しています。
資本教が依拠するのは交換可能な物的数量です。
マルクス主義が唯物論と生産数量を基礎とした階級闘争を選んだのは、資本教と正面から戦うには資本教が依拠する舞台を前提にする必要があったからです。
つまり、唯物論と生産力と社会階級という争点は、そもそも資本教が依拠するものだったのです。
(だから、本来のマルクス主義は、資本主義の延長上にあるオルタナティヴとしてしか実現しません)


この「正面攻撃」は成功しませんでした。
なぜなら、人間は「自発性」に期待するよりも、「強制」した方がよく働くからです。
プロレタリアが生産手段を資本家から自分たちのものにした場合、生産にかける労働者のエネルギーを自発的に供給する必要があります。
しかし、現実には「自発性」を根拠にして熱心に働いてくれる人は、そう多くはないのです。
そうなると、資本家に握られた札束から、いくらかを分けてもらうために、言いなりになって働かされる方が生産性が高くなります。
この資本教のやり方に対抗するには、社会主義においても労働者を「強制」して働かせるよりほかなくなります。
そこで革命指導部のようなものが登場し、それが強制力を持った巨大な権力となってプロレタリアの同志たちを「革命に奉仕させる」ことになります。


社会主義の失敗は、人間の「自発的労働意欲」の乏しさにある、というのが僕の個人的な考えです。
それを考慮できなかった原因は、マルクスの共産主義思想が、原始共同体的な理想をイメージしていたことにあるのではないでしょうか。
原始共同体は、顔見知りだらけの村のような集団です。
普段から親しくしている仲間のためなら、自発的に奉仕する意欲がわいてくると思いますが、国家レベルの共同体の成員などほとんどが知りもしない隣人です。
親しくもない隣人たちから成る共同体のために、自発的に尽くす人がどれだけいるでしょうか。
お国のために死ね、と言われても、実際は身近な人々を守るためにしか命を捧げられないのと同じです。
仮に理想のために自発的に尽くす人がいたとしても、それは新体制の成立当初だけで、社会体制が安定するにつれて減っていくことでしょう。
「強制」でしか生産性が上がらないから、資本教に対抗できる国家はファシズム体制しかないのです。


社会主義やファシズム国家が依拠する「強制」に対して、資本教は「欲望」を原理として活用しています。
より多くのお金が欲しい、お金を手に入れれば社会的地位が上昇する、すると自分が巨大化する、
このような「欲望」を駆動させれば、「強制」などしなくても人間は働いてくれます。
皮肉にも社会主義が必要とした「自発的労働」は、資本主義が改良される中で実現していったのです。
ただ、その「自発的労働」のループは、「欲望」における労働に邁進したことで、自分が望むだけの対価が得られた人たちにだけ成立するものです。
要するに、成功者だけが「自発的労働」の恩恵を受けられるのです。
成功者は、自分が欲望することのために努力し、それが成功によって報われるという体験をしています。
しかし、誰が見てもわかる成功者というものは、圧倒的に少数です。
他人より勝っていることが、成功の条件である場合が多いからです。
そうなると、多くの人が成功者になるには、成功の達成ラインを下げるしかありません。
大人になるにつれて、人々は自分相応の成功ラインを設定し、それで「欲望」の果てしなさを飼い慣らそうとするのです。


自分相応の成功ラインの国民的平均値が下がると、「今の自分」に満足できる人が増えるわけですが、
そうなると、「自発的労働」の頑張りも下がっていきます。
とりあえずゲームさえできれば、コンビニ飯で単身生活で満足できる、という人の場合、「自発的労働」への意欲もそれだけの生活費を稼ぐだけにとどまります。
資本教は資本の増殖を真の目的にしているので、そのような低い生産性しかない労働者にもっと「欲望」をさせる必要があります。
あれも欲しい、これも欲しい、と思わせる必要があるのです。
すると、どうなるでしょうか。
ゲームをするのにも金がかかるような環境へと、社会を変えていくのです。
その手段はいろいろあるわけですが、基本的に資本教の発想はそうなります。
簡単に言えば、低い生産性の人間が逃げ込む先を、金のかかる環境に変えることで、生産性を上げようとするのです。
たとえば、旧Twitterができるだけ課金ユーザーを増やす方向に進むのも、同様の発想です。
これはイーロン・マスク個人の経営センスに還元すべき問題ではなく、
資本教に牛耳られた社会は、「欲望」というエンジンを守るために、環境=システムの変更という透明な力によって、「それとわからない強制」がなされるだけのことなのです。
「強制」が「欲望」に置き換えられると言ってもいいでしょう。
資本主義社会はこのような手口で自己矛盾を解決していくのです。


等価交換という「救済」

「欲望」を駆動させるのが資本教の神なのですが、その人の「欲望」はその人から自発的に生じているように見えるため、
「強制」されているようには見えませんし、当人にもそう自覚されません。
しかし、資本教のシステムに「欲望」をコントロールされているとしたらどうでしょう?
怪しげな宗教に「洗脳」されて大金を献金したとしても、自発的な形で行われれば「強制」ではありません。
自発的に欲望していると当人が思っていることが、実は宗教によってマインドコントロールされているだけということは、よく見られることです。
資本主義の核にあるのは宗教的メカニズムであり、それは新興宗教と同様のマインドコントロールによって成立しています。
ただ、資本主義が宗教として認識されないのは、それが無償奉仕ではなく功利的な交換によって成立しているように見えるからです。


資本主義では、交換こそが価値となっています。
タダほど高いものはない、というのが資本教の教義です。
そこでは誰もが交換において損をすることを嫌がり、自分の取り分をどれだけ大きくするかにこだわっています。
資本教のマインドコントロールの一つに「等価交換」というものがあります。
交換される両辺は、等価なものとして行われる、というものです。
マルクスの『資本論』(1867年)の冒頭には、この等価交換のメカニズムから貨幣が発生したとする「価値形態論」があります。
x量の商品A=y量の商品Bが等価物として交換される状態を、『資本論』では「等価形態」と呼びますが、
実はこの交換を「等価」と見なすことこそが幻想であり、資本教が「洗脳」によって成立させているものなのです。


『資本論』では、「等価形態」によって全商品を網羅的にネットワーク化した「一般的価値形態」から「貨幣形態」が成立した、としています。
しかし、等価交換から貨幣が成立した、という理論は、むしろ資本教の「洗脳」を強化するアシスト行為でしかないと僕は思います。
実は、僕が『資本論』を読んでつまずいたのが、価値形態論の等価交換の部分なのです。
20エレのリネンと1着の上着を交換する場合、その両者を等号(=)で結びつけ、「20エレのリネン=1着の上着」といかにも数学的に成立した数式のように表していくのですが、
そのイコール(等価という判断)は単に交換に臨んだ両者の合意でしかありません。
問題なのは、この交換において両者の社会的立場が捨象されていることです。
たとえばリネンの所有者Aさんはヤクザと親しくしていて、上着の所有者BさんがAさんを怖がっていたとします。
そこでAさんが「20エレのリネンでお前の2着の上着と交換してくれ」と要求した時、Bさんは1着の上着が妥当だと内心で思っていても、それを等価交換として了承することは十分ありえます。
しかし、価値形態論では等価交換をする両者の社会的関係を無視して、交換されるものは平等な両者が自発的に合意したものと考えています。
つまり、交換において最初から自由市場を前提としているのです。
マルクスの価値形態論だと、単純な等価交換はフラットで自由な場で行われるものですから、
商品交換において剰余価値が生まれるのは、間に貨幣を用いていることが原因ということになってしまいます。
そうなれば、真の等価交換を実現するには、貨幣を廃棄する以外ないということにならないでしょうか。
(柄谷行人が、NAMという運動で貨幣の脱構築を目指してしまったのは、価値形態論を重視したせいかもしれません)


デヴィット・グレーバーは、マルクスとは違う考えを持っています。
初めにフラットな社会関係があって、そこで等価交換が行われるのではなく、
むしろ等価交換の成立によって、交換した両者の社会的立場が等しくなるのだ、と主張しています。


交換において取引される対象は等価とみなされる。それゆえ、そこにひそむふくみから、[交換にあたる]人びとも等価であるとみなされる。少なくとも、贈り物にお返しされたり、金銭の持ち主が交替する瞬間にあっては、そして、それ以上の負債や義務が存在せず、両者がそれぞれ等しく自由に立ち去ることができるときには、そうである。逆にみれば、このことは自律を内包しているということである。等価と自律──どちらの原理も君主との相性は悪い。
(デヴィット・グレーバー『負債論』酒井隆史・高祖岩三郎・佐々木夏子訳)

つまり、お互いが等価で物を交換したという事実こそが、交換する両者の社会的関係がフラットであることを示すということです。
等価交換とは、社会的諸関係からの自律であり、封建的な地位の上下関係に対する対抗手段なのです。
社会的諸関係からの離脱が、擬似宗教的「救済」になるのは言うまでもありません。
等価交換を成立させれば、社会的関係から自由になる瞬間が訪れるのです。
資本主義は、貨幣を儲けたいという欲望だけで動いているのではありません。
交換そのものを価値とする、宗教的性格を見るべきなのです。
(等価交換の成立は瞬間的なものなので、資本教の「救済」は瞬間性に依存することになります。
ポール・ヴィリリオの言う「速度体制」は、交換の高速回転をエネルギーにしていると僕は考えます)


等価交換へのこだわりは、私たちの日常を振り返っても簡単に実感できます。
「コスパ(コストパフォーマンス)」という言葉がありますが、
私たちは自分が支払った金額に見合うだけの商品やサービスを得られるかどうかを、絶えず気にしています。
これは自分が関与した交換が等価交換であるかどうかを、いつもチェックしているのと同じです。
日本ではあまり見られませんが、買い物で日常的に「値切り交渉」をする国では、
売り手と買い手とが等価と納得できる交換を成立させるための交渉が、その都度その都度行われていることになります。
「値切り交渉」が行われない場合でも、その代わりに商品選択の幅が確保されていれば、実質的に値切りと同様の行為が行われます。
買い手が等価だと納得できない店の商品は買わず、納得できる価格の店の商品を選ぶようになれば、値切りに成功したのと同じ結果になるからです。
だからこそ、価格が固定的な市場で、同業者が談合して価格競争の圧力を回避することは認められないのです。


つまり、等価交換とは「瞬間のユートピア」なのです。
これを繰り返すことによって、その人は社会的上下関係の起源となる「負債」から解放されることになります。
これが資本教における「救済」の正体です。
ポイントは、普遍宗教に見られる「救済」のように彼岸の永遠性を基盤とせず、俗世の瞬間に基盤を置いた「救済」であるということです。
そのため資本教は世俗の生活へと溶け込むことができ、その宗教性を透明化することに成功したのです。
資本主義とは、透明化した宗教である、というのが僕の考えです。


神は死んだ、いや、神は透明だ

資本教は、システムの中枢である権力=神を不可視化=透明化します。
資本教の神をあえて可視化するなら、「人間の欲望を抽象化した資本が持つ量的増殖メカニズム」ということになるでしょうか。
それは抽象的な運動体であるため、目で捉えたり、固定的に認識することはできません。
神が見えないことで、その指令が「強制」であると認識できないのです。
「信者たち」は資本教の不可視=透明な神(システム)から、商品を消費することを「欲望」するように仕向けられているのですが、
透明な相手から「仕向けられた」ことを自覚することは難しく、自発的な「欲望」で消費したと思い込んでいることが普通です。
当人が主体的な行為だと思っていれば、「強制」にはなりません。


宗教はそういうマインドコントロールに長けています。
たとえば生まれた時から、親も親類もご近所さんも一日に三回聖地に向かって礼拝をしていたら、
その行為がある宗教の信仰形態であると自覚することもなく、自発的に自分も礼拝するようになるでしょう。
資本教も同様です。
幼少期から社会レベルで人々が自分の「欲望」を等価交換によって叶えることに勤しんでいれば、それが「強制」だとは思いません。
資本教は神や教義イデオロギーを「生活様式ライフスタイル」へと溶け込ませ透明化しているので、
人々はそれに強制的に従わされていることを自覚できず、自発的に信仰をさせ﹅﹅られ﹅﹅結果になっているのです。


資本主義の宗教的性質は、個人的な商品選択に「貨幣量による価値づけ」が伴うことにも現れています。
貨幣量による価値づけとは、簡単に言えば値段のことです。
たとえば、300円のバッグと30万円のバッグが売れた場合、30万円のバッグを売った方が価値が高いのは誰にでもわかります。
この量的な価値づけのために、等価交換はより大きな単位でなされるべきものになっていきます。
10万円の交換より、1000万円の交換の方を、自然と欲望するようになるのです。
これは売る側の話ですが、買う側であれば逆の価値づけがはたらきます。
つまり、10万円のバッグを5万円で買って安く交換した方が、価値が高いという心理になります。
半額で買えば、それだけ多くの貨幣を自分の手元に溜め込んだ(獲得した)ことになるからです。
このように、等価交換という幻想の中で、実態として少しでも多くの貨幣量を獲得した方が、価値が高いとわれわれは思わされているのです。
多くの貨幣を獲得することは、それだけ多くの商品を購入することができることになり、
多くの商品を購入できるということは、それだけ商品を売りたい人を多く救済することができるということです。
つまり、購買量の大きさは、神の救済の大きさと比例するのです。
来世の救済を求める権力者が、宗教施設の建築のために自らの巨万の富をつぎ込むことで、「教団」にとって付加価値を持った信者となるのと同じく、
資本主義で大金を稼いで、それだけ多くのものを購入することは、模範的な信仰者のあり方そのものなのです。
ソースタイン・ヴェブレンが「顕示的消費」と呼んだものは、自らの信仰の度合いが高いことを「顕示みせびらかし」する、宗教的欲望として捉え直す必要があるでしょう。
資本教の信者は、所有する貨幣量によって、自らの「救済」可能性の高さを見せびらかすのです。


たいていの宗教は、誕生してから初期にかけて、理念の純粋性が保たれているため、量的な価値判断から隔絶されています。
つまり、信仰者は社会的属性に関わらず、等しい存在と見なされるものです。
しかし、ある宗教が「教団」として巨大化するにつれ、信仰には量的な価値判断がつきまとうようになります。
見も蓋もない言い方をすれば、成功した宗教では大金が動くようになります。
その理由は簡単です。
宗教が存在し続けるには信者が必要であり、信者の量こそがその宗教の神の力を示すからです。
要するに、神はフォロワーの多さによって格付けされるのです。


信者数を増やすことと、「教団」の金銭的富を増やすことは同義です。
その証拠に、信者数を増やしたがらない宗教や金銭を集めようとしない宗教が力を持ったという話は聞いたことがありません。
とりわけキリスト教は、信仰と金銭的な価値観を結びつけています。
わかりやすい例で言えば、新約聖書のマタイによる福音書にある「タラントのたとえ」がそうです。
「タラント」は通貨の名前なので、これをドルに置き換えると、
主人から500ドル預かった下僕はさらに500ドル稼ぎ、200ドル預かった下僕は200ドル稼いで褒められ、100ドル預かった下僕はそれをタンス預金していたことで怒られた、という話になります。
今やキリスト教圏の金融主義に影響された日本政府が、NISAの税制優遇などで「貯蓄から投資へ」の呼びかけを行っているので、
マイナス金利下で貯蓄しかしていない下僕が怒られたとしても、納得できてしまう人が多いかもしれません。


一般的にこのたとえ話は、神から与えられた才能ギフトを活かさないのはダメという解釈で語られているようです。
しかしこの話は、神からの負債を返済するために信者を増やすことが求められたものと考えるべきでしょう。
クリスチャンの福永武彦も、『草の花』(1954年)の主人公に「福音を聞いたらそれを他の人々に伝える義務がある」という意味だと解釈させています。
神からの恵み(タラント)をいただいた信者は、その負債を同じだけ神に返済する必要があるのです。
信者が神に贈与できるものとは何でしょう?
そう、新しい信者を連れてくることです。
宗教には「教団」を拡大する欲望があるため、心理的に負債を背負わせることで自発的に神にお返しをしようという気を起こさせる互酬メカニズムを有しているのです。


「教団」が信者や金銭を集めることで神の国の実現を約束するのならば、
信者や金銭を集める行為そのものが、神による「救済」の実現と結びつけられることになるはずです。
世界宗教の「教団」が例外なく世俗権力と結びついたのも、成功した新興宗教「教団」が例外なく集金システムを持っているのも、
信者の拡大をめざす宗教が、結局は信者や金銭による量的価値に依存していることを示しています。
どんな宗教も量的価値に依存しているのならば、量的価値こそが新たな神となって、全ての宗教の上に君臨する「進化形態」への移行が必然的に起こるのではないでしょうか。
そう、それを実現したのが資本教です。
普遍的な量的価値は、人格神を超えた透明な神なのです。


資本教の正式名称はユダヤ=キリスト資本教だと僕は言いましたが、
資本教がユダヤ=キリスト教を宗教的基盤としていることに、必然性はないと僕は思っています。
他の宗教が資本教として発展する可能性もあったのではないでしょうか。
資本教がユダヤ=キリスト教から発展したのは、拠点となるヨーロッパがいち早く世俗化・民主化を実現したからです。
世俗化・民主化されていない宗教では、禁欲・節制が求められるため、欲望を原理としてはたらかせることができません。
資本教は支配体制の世俗化・民主化と結びついて発展するのです。
その意味では、現在の支配体制の中ではヨーロッパ型の民主体制こそが、最も資本教の発展に適した環境であるのは間違いないでしょう。
ただ本質を言えば、資本教はユダヤ=キリスト教を基盤としなくても、発展できたと思います。
量的価値を実現さえすれば、「何にでもなれる」のが資本教です。
金や人を自発的に集めろ、さすれば救われる。


スペクタクルという透明な権力

最近は文化領域が、消費資本主義の支配にすっかり組み込まれてしまいました。
そうなると、権力システムは透明化していきます。
権力は自己正当化を図るものなので、文化領域を支える「思想」によって、資本教の透明な神が肯定されるようになります。
それがポストモダン社会を支える〈フランス現代思想〉の役割でした。
〈フランス現代思想〉がアカデミズム外部の一般消費市場で広まったのは、それが資本教という世俗権力と結びついたものだったからです。


〈フランス現代思想〉は、国家を権力装置として批判していました。
言い換えれば、国家を権力として「可視化」していたのです。
しかし、資本教がグローバル世界を支配している現在では、もはや国家は権力装置の中心には位置していません。
そのため、その批判は急所への攻撃にはならず、実質的には資本教にとって「安心安全な思想」にしかなりませんでした。
権力にとって「安心安全な思想」は、必然の流れとして権力に奉仕する保守思想へと姿を変えていくことになりました。
〈フランス現代思想〉を総括すれば、反権力としての「外観(=映え)」を備えたファッション・ブランドとして、社会に馴染めない人にちょうどいい消費の舞台を提供し、
権力に反抗する人を実際的行動へと接続しないように「去勢」するための装置だったと言えるでしょう。
ポストモダン思想やポストモダン文学が、自作自演の言葉遊びレベルにとどまって、資本が支配する社会構造に何ら打撃を与えることがない「安心安全な思想や文学」だったのは、そのような理由です。
哲学より消費に親しい事象を持ち出して、「〇〇の哲学」などと自称﹅﹅する本をポストモダン論者が出したがるのは、
彼らにとって「哲学」という語が単なる「商標ブランド」でしかないことを示しています。
こういう本を買ってしまった時点で、その人はもう真の哲学とは関係のない世界に「救済」されるしかなくなるのです。


資本が権力として「外観化」を推し進めることを指摘した思想家に、ギー・ドゥボールがいます。
ドゥボールは68年のフランス五月革命に影響を与えた人なので、いわゆる〈フランス現代思想〉に強く関わる人なのですが、
日本のポストモダン論客は柄谷行人と浅田彰の反疎外論的な潮流に影響されたのか、ドゥボールについて驚くほど不勉強に見えます。
ポール・ヴィリリオも疎外論系の思想家として、日本ではドゥボールと同じく人気がありませんが、
おそらく、日本の現代思想論者が彼らを扱いたがらないのは、彼らの思想が疎外論的だからではなく、彼らが消費経済とマスメディア批判をしているからだと僕は思っています。
(同様にマーケティング消費批判をしているボードリヤールも、日本の現代思想論者は真面目に扱っていません)
その意味でヴィリリオとドゥボールは資本教と敵対する思想家なのですが、
ヴィリリオが西洋社会の「加速化=瞬間化」による断片化・外観化を批判しながら、資本の問題から距離を取っているのに対して、
ドゥボールはマルクスを踏まえて、視覚による断片化・外観化は資本が社会を個人へと分解した結果であるとしたところが異なっています。


ドゥボールは映画監督であり、「シチュアシオニスト・インターナショナル」という社会革命的国際組織の中心にいた前衛的な思想家でした。
彼の代表作『スペクタクルの社会』(1967年)は、68年のパリ五月革命の直前に出版されています。
「スペクタクル」という概念については、一口で説明するのが難しいのですが、
商品の物神化がしだいに抽象的なイメージ化(ボードリヤールなら記号化)へと達することで、
その商品性(交換価値)が「外観的イメージ」へと集約されるようになる消費社会的な現象を言ったものだと僕は解釈しています。
商品がその使用価値で消費されるのではなく、どのようなイメージをもたらすかで消費されるようになったことを問題にしています。
『スペクタクルの社会』の翻訳者である木下誠は、「訳者改題」で次のように解説しています。


歴史上類を見ぬ大量消費社会の到来によりすべてが「商品」に支配され、マスメディアの急速な発達は、人々の生も死も、社会的関係そのものまでをもメディアが描く「見世物的なスペクタキュレール」イメージのなかでしか存在を許さなくなった。こうして「スペクタクル」と化した現代社会において、それとの闘いは、生産ではなく消費、労働ではなく余暇をめぐるものとなり、そのフィールドは工場ではなく日常生活の場、特に都市の空間である。
(木下誠『スペクタクルの社会』所収「訳者改題」より)

おおかたは上記の木下の説明でいいと思いますが、
スペクタクルは「メディアが描く」イメージというより、商品の消費活動において現実が「外観=広告的イメージ」としてしか受け止められなくなる現象のことだと考えた方がいいと思います。
つまり、「目に映るものがすべてである」ような、「奥行き」や「裏側」を喪失した現実の平面化=広告化現象を意味しています。
そこでは資本が「見せたいもの」が刺激過剰なスペクタクルとなって、うるさいくらいに前景化し、視野のほとんどを塞ぐように占めていくのです。
(スペクタクル化が進むと、何かしらの事態の「裏側」をメディア上で過剰に露出する、裏側の前景化=広告化が横行するようになります)
スペクタクルと化した資本によって、人々は個々に分解され、資本に与えられたイメージの中で生きることを余儀なくされます。
同時に、スペクタクルの背後では、資本が「見せたくない現実」は知らぬ間に存在﹅﹅しない﹅﹅﹅ことになっているのです。


スペクタクルは、現実の社会の非現実性の核心なのだ。スペクタクルは、情報やプロパガンダ、広告や娯楽の直接消費といった個々の形式のどれもの下で、この社会に支配的な生の現前的モデル﹅﹅﹅となる。それは、生産と、その必然的帰結としての消費において、既に﹅﹅なされ﹅﹅﹅てしま﹅﹅﹅って﹅﹅いる﹅﹅選択を、あらゆる場所で肯定する。スペクタクルとは、その形式も内容も、完全に同じように、ともに現システムの諸条件と目的とを完全に正当化するのである。
(ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』木下誠訳)

上の引用は『スペクタクルの社会』の6番目のアフォリズムの一部です。
ここでドゥボールが強調するのは、消費活動において生み出されたイメージ(スペクタクル)は、支配体制に用意された生の外観的モデルであるということです。
そこではイメージを消費することが、支配的な現行システムの「肯定」や「正当化」となるのです。
スペクタクルの社会とは、恐るべき「消費的な保守化」のシステムなのです。


スペクタクルは視覚的な外観世界なので、消費者の内面という不可視なものに関心がありません。
現行システム(要するに資本教)に対して批判的な思想信条を持っていても、それが用意した選択なき選択をしてしまった時点で、現行システムを肯定したことになっているのです。
つまり、スペクタクルの社会では、「消費をしたら既に負けている」のです。
権力の透明化というのは、そういうことです。
現行システムを肯定している、肯定させられている、という現実を意識しないままに、「透明な権力」によってそうさせられているのです。
このような恐るべき社会とは、営業妨害と目されるような手段でしか戦うことはできないでしょう。
仮に資本教を批判する本を出しても、それが消費されて資本の増殖に貢献してしまえば、資本教システムの肯定になってしまいます。


今や資本教の「透明な権力」は、権力批判の欲望まで権力強化に利用することができる段階に達しています。
もはや権力が関心を持っているのは外観スペクタクルだけです。
外観が持つ意味を考えることなど、個々人に勝手にやらせておけばいいのです。
文学や思想をどう理解するかは瑣末な趣味の領域でしかなく、どれだけの「量」を消費されたかしか重要ではないのです。
外観しか「存在」しないので、内実を伴わない外観だけフェイクの自己像でも、流通さえしてしまえば通用するのがスペクタクルの社会です。
外観だけの残骸となった文学や思想がまだ生き残っているのは、そこにまだ資本教のイデオロギー装置として利用価値があるからです。
とりわけ過去の作品は、新たな生産コストがかかりませんので、本の外観カバーを漫画イラストに変えるだけで資本の増殖に役立てられます。


資本教の世界はスペクタクルの社会です。
すべては布教のためのプロパガンダでしかありません。
メディアは「外観スペクタクル」を都合よく操作して、実際は特定の利権団体の利益でしかないものを、いかにも公正で普遍的な価値であるかのように見せかけていきます。
通常の宗教は、目に見えるものを仮象として、目に見えないものに価値を与えるものですが、
資本教はそれとは全く逆の方向を持つ宗教で、視覚的なスペクタクルを布教の手段としています。
「キミの目に映るものこそが真実だ。それを信じよ」
資本教はそう語りかけてきます。
「考えるな。批判をするな。ただ見えているものを受け入れろ」
とも言ってきます。
資本教の神は、スクリーンや液晶画面の上にだけ存在するのです。
だから、ヘビーな資本教信者は、絶えずスクリーンや液晶画面を見ていなければならなくなります。
音楽は移動中や作業中に流すものになり、部屋で落ち着いて聴く場合は映像がついていなければならなくなりました。
スペクタクルが伴わない音源の価値は地に落ち、壮大なスペクタクルに満ちたライブ会場の価値だけが高まりました。
文学や思想もテレビやYouTubeなど視覚的な動画コンテンツと関連づけられないことには、売れないものになりました。


視覚的な興味・関心アテンションの獲得を量的価値にする場合、必然的に時間によって計量されるようになります。
人間の視覚的活動時間は限られているので、そこから何時間を奪い取るかが資本教にとっては重要です。
そのため、商品の移送や取引の迅速さに関しては瞬間性が求められるのに対して、
視覚的コンテンツの利用に関しては永遠性が求められるようになります。
つまり、動画でもアニメでもゲームでもいいのですが、中毒性や没入感を高めて利用時間を引き伸ばすことが重要になります。
カフェで話しているはずの若い人たちが、絶えずスマホを握っているだけでなく、場合によっては操作していたりするのは、
気づかないうちに資本教の敬虔な信者にされてしまったことの証左だと言えるでしょう。
そうやって、自分の時間を奪っている量的価値(=時間的価値)を、互いに交換しあっているのです。


交換の場としてのプラットフォーム

ポストモダン文化における透明な権力の代表は、プラットフォームです。
ITビジネスにおけるプラットフォーマー企業を、国際的な権力として批判する論客は多くいますが、
テレビ局や出版社やネット掲示板やオンラインゲーム運営を含めたメディア・コミュニケーションの管理者を、包括的に「プラットフォーム権力」と概念化するべきだと思います。
ポストモダン論客は、既存マスメディアに依拠している人が多いので、
プラットフォーム権力を広く概念化すると、言説の「場」を提供しているマスメディアが権力であることが暴露されてしまうので、そういうことは絶対にしません。
重要なのは、プラットフォーム権力とは海外のIT企業にだけ当てはまる概念ではなく、
マスコミ産業全体やゲーム業界、テーマパーク産業からオリンピックやワールドカップや万博などのイベント開催者までを広く指しているということです。


プラットフォームという言葉の意味を明確にしておきましょう。
広い意味では「環境」「基盤」など様々な「場」のことを示しますが、一般的な用語として広まったのはインターネットが普及してからです。
そのため、IT用語としてのプラットフォームの意味を重視します。
この場合のプラットフォームは、サービス提供者が利用者に提供する「サービスの場」のことです。
つまり、消費文化においては、そのサービスを利用する人たちが共有する「交換の場」のことだと言ってもいいでしょう。
それが「買い物の場」であれば、Amazonが巨大プラットフォーマーになります。
検索の場を寡占するGoogleや、SNSの場を提供するFacebook、
それらに接続する端末やソフトウェアを提供するAppleとMicrosoftがまとめてGAFAM(ガーファム)と呼ばれるわけですが、
プラットフォーマー企業をある種の「場」を運営する権力として考えると、前述したようにマスメディアなど幅広いジャンルにわたることになります。
文学新人賞などの「一般公募の場」を管理する出版社や組織も、一種のプラットフォーム権力と言えると思います。
ビッグ・テックとも呼ばれる企業は、巨大な売上をあげているため、権力として理解することは易しいのですが、
これを概念化して「プラットフォーム権力」と考えるようになると、小規模のものでも権力として扱うことはできると思います。
しかし、やはり権力とまで言うならば、「場」の規模が問題になるでしょう。
それは、SNSのフォロワー数が一定以上になれば、その人を権力者と考えるべきなのと同じ原理です。


「プラットフォーム権力」の起源は、不動産所有者です。
「場」を提供するのがプラットフォームの権力形態なので、場所を持つことが絶対条件になります。
場所の所有がまずあって、その場所を「遊べる場」にすることで、人々が自発的にその場に隷属することを実現しようとします。
場所を奪われると、人間は生きていくことができないので、居場所を持つ権力は強力です。
国家権力が強力なのはそのためです。
しかし、資本教は神が透明であるために、現実の土地に支配圏を置いていません。
だからこそ国家権力と資本教が互いを排斥し合う必要がなかったのですが、
資本教は国家の管理する土地の中に、さらなる支配地を作り上げることで、国家権力と相補的な関係になっています。
簡単に言えば、国家が管理する土地の内部で、自分の支配する「場=プラットフォーム」を確立することにしたのです。
資本教による「場」は、国家権力の内部にありながら、国家権力の影響を直接に受けることのない場所なので、(現実の)国家からは自由であることができます。
簡単に言えば、消費の場に逃げ込めば、国家権力から自由でいられる「気分」でいられるのです。
ポストモダン思想の「逃走」とは、これだけのことでしかありませんでした。


透明な権力が管理する場所は、離脱することが易しいために、そこにいる人々に強制力で働きかけることはありません。
そのため、「強制」ではなく、あくまで「誘惑」によって人々の自発性を引き出そうとします。
プラットフォーム権力となった資本教と「誘惑」には、切っても切れない関係があるのです。


誘惑と信仰の関係を扱った哲学的書物に、セーレン・キルケゴールの『誘惑者の日記』(1843年)があります。
もともとは独立した作品ではなく、『あれか、これか』第一部に収められた8つの作品の中の一つです。
この作品は誘惑者ヨハンネスが、コーデリアという女性を誘惑し、婚約にまでこぎつけた後に、捨て去るまでを描いたものです。
キルケゴール自身がレギーネ・オルセンと婚約破棄をしているため、ヨハンネスをキルケゴール自身と重ね合わせる解釈がありますが、
僕はそのような私小説的な読み方にはあまり関心がありません。
注目すべきなのは、男女の愛に信仰(神への愛)との等価物を見出すと、誘惑というプロセスに帰着するということです。
誘惑されたコーデリアは、最後には自分を「あなたのもの」へと捧げる無償の愛へと自発的に身を投じることになるのですが、
その愛のあり方は、神への信仰に限りなく近いものに思えます。


地上の愛が天上の愛へと移行する上で鍵となるのは、誘惑者の不在﹅﹅です。
ヨハンネスが自ら姿を消すことで、コーデリアの手紙に現れる「あなた」には永遠の不在が刻まれます。
「どこへなりとおすきなところにお逃げなさい、それでもわたくしはあなたのものです、世界の果てまでもお逃げなさい、それでもわたくしはあなたのものです」
姿を消したヨハンネスに対して、最後にコーデリアはこのような手紙を送りますが、
彼女が「あなたのもの」であることを宣言しても、その「あなた」が彼女の前に現れることはありません。
決して現前しないものへの愛、というかたちで、彼女の愛は結末を迎えます。
皇帝の綸旨を届ける使者のように、無限の果てへと逃走するヨハンネスに対するコーデリアの愛は、もはや敬虔な信仰者のそれと区別ができません。
誘惑者の不在によって、二人の愛がエロス的な肉欲や刺激のない結婚生活ルーティーンへと堕ちることなく、信仰レベルへと高められたのです。
おそらく、キルケゴールがこの作品に込めた意図は、地上の愛より天上の愛を選ぶということだったのではないかと思いますが、
僕が言いたいのは、相手の所有を求めない純粋な﹅﹅﹅「誘惑」──誰のものでもない処女の興味インテレサントを自分へと向けさせること──が、
誘惑者と誘惑される者との両方に、自発的な信仰を導く「産婆術」になるということです。


「誘惑」による信仰の目覚めが、誘惑された者だけでなく、誘惑者自身にも起こるのはどういうことでしょうか。
遠くからコーデリアを美的に眺めていた誘惑者ヨハンネスは、しだいに彼女に接近していくのですが、
そのヨハンネスこそが実はコーデリアに誘惑されていたと見ることもできます。
実際、「彼のほうが自分こそ誘惑されたのだといってまかり出ることもできるくらいである」という文も出てきます。
誘惑者は詐欺師ではありません。
誘惑者自身も本気で相手に恋こがれ、彼女の美しさに心臓を昂らせ、「どうしてコーデリアはぼくの心を奪ってしまうのだろう!」と嘆息します。
誘惑者は相手に魅了され、その関心を強く欲しているのです。
誘惑者とはそもそも相手に誘惑された者であり、相手からなされた行為の反復﹅﹅を求める者なのです。


つまり「誘惑」においては、誘惑する側が誘惑される側に絶えず反転する契機を持っていると考えられます。
誘惑している自分が、同時に相手から誘惑されているのではないか。
この相互関係の反転性に関しては、レヴィナスの「愛撫」に対する考察を参考にすることができます。
相手の肌に触れるという行為は、同時に相手から触れられ返していることでもあるため、
愛撫というエロス状態にある時、能動と受動のどちらとも言える宙吊りの状態になります。
(レヴィナスが考察したエロス状態を「中動態」という文法システムで語るのは、去勢された安心安全な誘惑者でしょう)
自分が相手の肌に触れているのか、相手の肌が自分に触れているのか、
実際はその両方がどちらとも決定できない状態で同時に成立しているのですが、
「誘惑」はその決定不能な状態を、直接に﹅﹅﹅触れる﹅﹅﹅ことが﹅﹅﹅ない﹅﹅まま﹅﹅実現するのです。
直接に触れることがなくても可能である、という点で、「誘惑」にはメディア技術の入り込む余地があります。
(実際、『誘惑者の日記』では、手紙というメディアが重要な役割を果たします)


キリスト教におけるエロスと信仰の関係については、また別のところで考えるとして、
今回は「誘惑」と資本教の関係を示して終わることにします。
誘惑者ヨハンネスは、所有することが所有されることに反転することを知っています。
その非エロス的反転を、信仰の契機として見出すのです。


  ぼくのコーデリア!
ぼくの﹅﹅﹅〟、このことばは、何を意味するのでしょうか? それは、ぼくに属するものではなく、ぼくがそれに属するものです、ぼくがそれに属しているという意味で、ぼくのものであるぼくの全存在を含むものです。ぼくの神とは、ぼくに属する神ではけっしてなく、ぼくがそれに属する神なのです。
(セーレン・キルケゴール『誘惑者の日記』桝田啓三郎訳)

「僕に所有されるものに、僕は属している」、ここには所有の反転が雄弁に語られています。
コーデリアを「ぼくの」ものとして所有することが、「ぼく」がコーデリアのものになることであるのなら、
商品を「ぼくの」ものとして所有することが、「ぼく」が商品に属することへと反転することもありうるということです。
商品に属する私というのは、所有物によって自分のステイタスを示し、ステイタスこそが自分であるかのような状態のことだと考えてください。
ここに、「誘惑」のメカニズムが、消費者を資本教の信仰者へと仕立て上げる通路が見出せるのです。


最近は「アテンション・エコノミー」という言葉で語られるようになっていますが、
人々の関心・注目アテンションの「量」が経済的価値になっています。
他人の関心を惹こうとすることが、誘惑行為と何ら変わらないことを考えると、経済的価値とされているものの宗教性が見えてくるのではないでしょうか。
美的関心を引き起こす処女の「仕草=痕跡=記号」にあたる「新商品」に誘惑されてしまった人々は、
今度は誘惑者へと反転して、痕跡(新商品)の背後にいる処女(資本教の暫定的な神)を誘惑するために彼女の「仕草=痕跡=記号」を逃さず見つめる(=「新商品」に注目する)ようになります。
商品に絶えず注目し多くを所有すること、もしくは多くの商品を購買できるだけの貨幣を所有することは、資本教においては神への接近と同義です。
誘惑者たる消費者は、自分が処女を引き寄せようと誘惑しているつもりでも、実際は永遠に逃走する処女に誘惑され続けている信仰者でしかありません。
誘惑者が手に入れるものは、いつだって瞬間的な「救済」と手元に残った「痕跡=記号=商品」でしかないのです。
(ここは難解だと思いますが、わかりやすく説明するにはボードリヤールを持ち出す必要があるので、別の機会にします)


資本教は信者を増やすために布教などはしません。
現実を拡張するスペクタクルで誘惑し魅了するだけで、自覚なき信仰者を増やせるのですから。
資本教の神の正体は誘惑者であり、そのため彼方に逃走を続けていくことになります。
その存在すら不確かな神は透明でしかなく、もちろん偶像による崇拝は不可能です。
資本教の神は、痕跡メディアを通じて信者を誘惑する「不在の神」となり、直接に現前することなく「根源の彼方に」安らいでいます。


ポストモダン思想とポストモダン社会は、エロスを引き起こす直接性を資本の支配下に置こうとしています。
宗教がエロスを管理するのはよくあることですが、資本教も例外ではありません。
エロス的なエネルギーは、支配体制にとって危険なものだからです。
性的に去勢されたオタク文化や、怨念めいたジェンダー論や性自認問題の隆盛は、エロス的(身体的)直接性を敵視する「誘惑の宗教」に踊らされた結果だと僕は思っています。
これらの現象が体制の保守化と結びついているのは、全く偶然ではありません。
エロスの間接化=物象化は、主にマスメディア上の誘惑によって広まりました。
残念ながら、メディアで人を誘惑する行為は、それが資本の増殖に貢献する結果になるかぎり、もはや資本教への信仰でしかないのです。
つまり既存マスメディアに踊らされた人は、当人の自覚にかかわらず資本教信者でしかありません。


問題は、資本教に抵抗する異端者は、市場において他人を誘惑することを禁忌とするために、
「外観」としては、資本教における無能な信者と変わりがなくなってしまうということです。
資本教に抵抗することは、資本教が支配する場において無能のレッテルを貼られることと等しいのです。
これが資本教と戦う人が増えない最大の原因だと僕は思っています。
資本教に抵抗するには、国家の中で資本教が自分たちの「場」を作っているように、
資本教から自由な──交換の量以外を価値とする「場」を、資本教の中で実現することが急務です。
そのような「場」を本気で必要とする人たちを、どうやって集めるのかが悩ましい問題なのですが、
資本教の間接的「誘惑」に勝つには、直接的「誘惑」しかないのではないか、と疑いながら、僕はひとまずこの記事を閉じようと思います。


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