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集約−拡散ゲーム

集約と拡散のせめぎ合い

社会のかたちは時代ごとに移り変わっていきます。
右に寄ったと思えば、今度は左に寄ってみたり、またその逆になったり、なかなか同じかたちを維持し続けることができません。
そのような社会変化を大きく捉えれば、「集約」と「拡散」のせめぎ合い、というふうに整理できると僕は思っています。
「集約」とは、さまざまなものを一つにまとめることですが、
人々が集まって社会を形成することが、まずは社会集約の運動だと言えます。
その上でさらに集約の運動を推し進めると、中央集権的な管理へとたどり着くことになるでしょう。
集約は中央に管理された同一性を価値とする運動です。
「拡散」は、集まっていたものが散り散りになって拡がっていくことです。
集団が個へと分解するのは拡散運動ですし、社会形態としては権力分散型や地方自治にあたります。
拡散は多様性を価値とする個々の自立を価値とする運動です。
大雑把に言えば、国家権力を中心として人々をまとめ上げた「近代」は集約の時代でしたし、
自由市場を前提として脱中心的な欲望を称揚した「ポストモダン」は拡散の時代でした。


僕が〈集約−拡散ゲーム〉と名づけているのは、社会形態が交互に集約と拡散の移行を繰り返す反復運動のことです。
社会の締め付けが強いファシズム体制が猛威を振るうと、今度は社会に縛られない個人を尊重する動きが強まります。
そうして末端まで個人の尊重が行き届くと、理性が足りない人が自己中心的な振る舞いをするようになり、今度は中央権力による管理が求められるようになります。
僕はポストモダン的左翼がサブカル的国家主義(ネトウヨ)を生み出したと考えていますが、
そのような転回が起こるのは、〈集約−拡散ゲーム〉の影響です。
集約の裏には拡散が、拡散の裏には集約が隠れています。
そのため、集約の傾向が強まりすぎると、今度は拡散の運動が支持を集め、拡散が強まりすぎると、その反動として集約へと向かいます。
つまり、完全無欠な社会体制というものは、存在しないということです。
あえて理想を言うならば、集約と拡散の波形の振幅が狭く、「中庸」な均衡状態にとどまる社会になるでしょう。
両者がせめぎ合ってバランスを取っている状態が、理想状態だということです。
重要なのは、せめぎ合っているストレス状態こそが、理想的だという認識です。


ヘーゲル的弁証法の場合、テーゼ(正)とアンチテーゼ(反)のせめぎ合いが、止揚(昇華的統一)されてしまうことが問題でした。
そこには統一が存在することになっていて、それを果たすことで精神がレベルアップするという進歩史観と結びついています。
居心地の悪いせめぎ合い状態こそが、理想だという「中庸」の発想とは違うのです。
そこではせめぎ合いの解決(統一)こそが、進歩的な目的とされてしまうため、
せめぎ合っているストレス状態は、不健全な未熟状態だと認識されます。


しかし、少し考えてみれば誰にでも実感できることだと思いますが、
弁証法による進歩史観は、科学技術の発展にはうまく適用できるのですが、人間の精神に関しては、全然当てはまらないのです。
簡単に言えば、人間個人の「精神」(「社会」ではない)は歴史的に進歩などしてこなかった、ということになるのですが、
この事実は古典を虚心に読んでみれば、すぐにわかることです。
イエスやアリストテレスや孔子や孟子の言ったことを、未熟状態の思想だと現代人がバカにできるとは思えません。
古典というものは実際にはすごいもので、たとえばハイデガーの思想の原型をヘーゲルの思想の中に見出すことができますし、ヘーゲルの思想の原型をアリストテレスの思想の中に見出すことができたりするのです。
(現代思想が最先端だという思い込みが、哲学を体系的に理解できない教養不足のオタク学者を多く生み出しました)
孔子や孟子だけでなく、道教や禅宗(もしくは華厳教)の中に朱子学が発見されることがあるのも、同様の温故知新の現象です。
哲学的もしくは文学的な精神は同じところを巡っているものであって、垂直的な進歩をしていると考えるのは難しいのです。


テクノロジー科学の進歩史観と結びつき、「新商品」の価値を高らかに謳う消費資本主義社会を自明視してしまうことで、
人文学の「進歩のなさ」にコンプレックスを感じる人文学者が続出するようになりました。
文系に対する理系の優越は、理系が科学的であるからだと考えた人文学者は、
科学的な装いをした人文学研究やコンピュータによる統計データを活用した研究を「進歩的」であると考えるようになりました。
これは非常に滑稽なことです。
人間個人の精神に進歩がないのですから、人文学に進歩がないのは当たり前でしかないのです。


たとえば儒教の価値観は、西洋的な進歩史観と真っ向から対立しています。
儒教つまり孔子にとっての理想は、周代以前の古代にあるからです。
ここでは、過去に還ることが理想への接近を意味します。
先祖というものを重視する発想も、儒教の過去志向と強く結びついていました。
しかし、資本主義にそのような発想はありえません。
いつだって現在が最先端であり、未だ到達しない未来はさらに価値が高いために、いち早くそこに到達することが最大の利益をもたらすと信じられています。
前方へ前方へと前のめりに加速﹅﹅する﹅﹅のが資本主義社会であり、そこに生きる人々は加速していく社会に置いていかれないように、必死に社会を追いかけることになります。
遅刻して乗り遅れたらもう追いつけない、という「乗り遅れ」への恐怖が、社会を支配しているのです。
(とりわけ横並び社会の日本では、一度乗り遅れると並んでいる全員に置いていかれることになるので、その恐怖心は一際強くなります)


資本主義に反対するエネルギーを吸収したマルクスの共産主義が、原始共同社会を理想としていたことは明らかです。
共産主義を「コモン」と言い換えようが、過去への方向性をもった過去ベクトルの思想であることに変わりはありません。
それが同様に過去ベクトルの思想であった儒教と異なっていたのは、
共産主義が資本主義のオルタナティヴとなる未来社会だとされていたからです。
つまり、共産主義は自らの過去志向を、未来の時間軸に置くことで、うまく覆い隠したと言えるでしょう。
その隠蔽には、ユダヤ=キリスト教的な「神の国」の到来という未来志向が、力を貸していたと思います。


現代日本の右派である「保守」の人たちは、このような共産主義の「まやかし」を借り受けて、逆ベクトルにしているように見えます。
自分たちの欲望を過去の「保守」とすることで、自らが過去志向であるかのように装いながら、実際は現状追認以外の未来を排除することを求めているからです。
つまり、自らの反未来志向を、過去の時間軸に置くことで隠蔽しているのです。
「保守」とは未来の排除であり、現状にとどまり続けること、時計の針を止めるという無理を通す欲望でしかありません。
当然ながら、いずれ確実に敗北するものです。
この「未来には確実に敗北を迎える現在」を引き延ばす欲望が、戦時中の大日本帝国もしくは悲壮な特攻隊へのシンパシーと結びつくのです。
僕は合理的なリアリストなので、このような精神のメカニズムはくだらないとしか思わないのですが、
進歩史観に対する反発という点で、「保守」の欲望はかつての共産主義の欲望と実は似てしまうので、「保守」は共産主義に強い近親憎悪を抱いています。
だから、大して力を持っていない共産主義を、最も過大評価しているのが「保守」の人たちになる滑稽な事態が起こります。
まあ、合理主義とリアリズムのない国というのは、他人事であればおもしろがれるのですが、自分の住む国だったりすると悲劇でしかありません。


〈集約−拡散ゲーム〉の消費的転回

未来志向と過去志向のせめぎ合いを、〈集約−拡散ゲーム〉の時間的バリエーションだと考えれば、
同種の心理ゲームとして処理できるのではないでしょうか。
振り子のように、右に傾けば今度は左に戻るという反作用的な運動の繰り返しと考えることができるのです。
しかし、このような運動の繰り返しに終止符を打つ社会システムは可能です。
作用に対する反作用が生じない、完全に静止したかのような世界を生み出すシステムです。


それは、時間的には「永遠の現在」しか存在しない社会であり、
集約−拡散においては、拡散がすなわち集約(拡散=集約)であるような社会です。
ただ、ここで注意してほしいのは、その状態はあくまでも人間心理において達成されるべき目標であり、
社会の実態が資本主義的な進歩史観であり続けていても成立するという点です。
たとえば「保守」は共産主義のような過去志向ではなく、反未来志向であり現在にとどまることをめざしています。
つまり「保守」は「永遠の現在」を求めているのです。
しかし、彼らは反未来志向ではあるのですが、資本主義的な進歩史観と正面から対立しているようには見えません。
なぜなら、彼らが求めている「永遠の現在」は、心理的なものでしかないからです。


心理的な「永遠の現在」においては、今までになかった考えを「未来」と認識します。
だから、それが「現在の延長」であるかぎりは、どこまでも未来にそれが続くことを受け入れることができます。
たとえばSDGsという考え方は、このような「保守」の発想とだいぶ親しいものです。
「持続可能」とは、「現在」を永遠に持続させることでしかないからです。
未来とは、「革命」とか「変革」などの大きな価値転換を伴うものだけであって、
未来が「現在の別バージョン」と受け取られる限りは、その未来は(心理的には)未来であって未来でないということになるのです。
(スピンオフ作品が続編を意味しないことと似ています)


ここで思い当たってほしいことは、同じ時間を繰り返すタイムリープ系サブカル作品の流行と、「保守」の隆盛の時期がかぶっているということです。
並行世界において「別バージョンの現在」を繰り返すことは、「保守」の欲望と全く同じ欲望なのです。
僕が左派的サブカルオタクとネトウヨ保守の精神を連続的に捉えているのは、このような現象を取り上げれば立証可能だと思います。
このように「未来志向=反未来志向」は、「永遠の現在」において成立する余地があるのです。


拡散がそのまま集約でもある場合(拡散=集約)は、もちろん両者の欲望を同時に満たすわけですが、
それはインターネットを用いたメディア・コミュニケーションによって一般化されることになりました。
個々人が各々自分の個室にこもっていても、スマホを通して自分が一人でなくみんなと一体であることを実感できれば、「拡散=集約」の状態を成立させることはできます。
つまり、現実には別々の部屋に拡散している状態でも、グループLINEやZOOM会議などでそれらの人々を同時に集約することが可能です。
その状態は、拡散と集約を中途半端に両立した状態でしかありませんが、
それ以上の拡散を求めるなら参加しなければいいだけの話ですし、それ以上の集約を求める相手には直接会えばいいだけのことです。


現代資本主義社会は、このような極を目指すゲームの終わりを「(心理的な)救済」と見なしています。
どっち向きであろうが「極端エクストリーム」を目指すことは禁忌であり、中間的微温的な「なんとなくぬるい風呂」のような社会にできるだけ多くの人が浸かっていることを理想としています。
これはせめぎ合いの中で「中庸」を身につける、人間性の陶冶とは全く逆向きのあり方です。
屋上では端っこには近寄らずに、安全な真ん中に集まって遊びましょう、という人間的に未熟な幼稚園児向けの超管理社会なのです。
拡散はしてもいいが危険な端っこには行かせない、安全な真ん中にある程度の集約をしてください、という「ソフ﹅﹅トな﹅﹅管理社会」です。
当然ながら、その社会を生きる人間たちは、いつまでも幼稚園児レベルの自我であることが暗黙に求められています。
自分で責任を取るから、危険な端っこへ行かせてくれ、などと言い出す大人びた人は、社会にとって迷惑な人ということになるでしょう。


メディア技術が「拡散=集約」を実現したと言いましたが、それは「安全=危険」の両立と深く関わっています。
戦争では、自分が攻撃されないところから攻撃することで最大効果が得られます。
最近は大陸間弾道ミサイルのような超遠隔兵器や、レーダーの外部から攻撃するステルス兵器だけでなく、無人攻撃機による戦闘が広まっています。
つまり、遠隔メディア兵器を利用すれば、安全な地点にいながら、無傷で相手を攻撃することが可能だということです。
そうであるならば、安全な地点はいつ危険な場所になるかわからないことになります。
いや、安全だと安心していた次の瞬間に、危険を感じる間もなく死んでいくことになるのかもしれません。
もはや攻撃をされたらおしまいなので、いつだって安全なところに隠れている以外にありません。
そうして、攻撃する側は集団の中に身を隠そうとするのです。
そのために同種の人たちを集約する動きが加速します。
ただ、彼らは自分の身を守る上で集約を必要としているだけで、個の欲望を捨てて集団に奉仕する気はありません。
結局、安全安心において集約される以外は、個別化し拡散した状態であろうとするため、彼らの精神のあり方は集団的ヒット商品を各々で欲望するような、消費的な「集約=拡散」状態に依存するようになるわけです。


SNSはこのような「集約=拡散」「安全=危険」状態に最も近いところにある情報メディアです。
そこには、単に多くの人たちの関心を集めたものが価値である、という価値観しかありません。
そこでは誰にでもわかる、誰でも共感できる情報が「祭り」となって大多数に拡散され、それが集約の足跡を示すことになります。
拡散されることが「いいね」集約の根拠になっているのですから、そこで「拡散=集約」が実現されていることは言うまでもありません。
ここで考えなければならないのは、SNSには、それを管理するプラットフォーマーが存在するということです。
つまり、安全がいつ危険に反転するかわからない情報メディアは、普段は忘れていますが、実際は端っこに寄りすぎると危険な屋上のような場です。
幼稚園児レベルの人をそこで遊ばせるには、危険な端っこに多くの人が寄りつかないように管理する必要があるということです。


つまり、「集約=拡散」状態を「永遠の現在」として繰り返す社会は、権力によって危ない端っこに一般人が寄りつかないよう管理された社会だということです。
それは周囲の現実から隔絶されたディズニーランドのような社会です。
ディズニーランドは、園内で過ごす人たちに「外部の現実」が目に入らないように徹底的に管理された構造をしているのですが、
管理システムによって「本当の危険」が排除された社会は、安心安全なテレビゲーム内の世界のようなものです。
子供が安心安全に遊べるエンタメ世界のような社会で、拡散した消費の欲望を発揮してもらうことが現代社会の理想になっています。
現代社会が管理された箱庭のような世界であることは、サブカルのエンタメ作品で何度も描かれてきました。
しかし、僕の見るところ、そこから批評性はどんどん失われています。


一昔前には、この社会が管理された箱庭であることに気づいた主人公が、その世界のシステム管理者を倒して、外部の世界に出ていったり、代わりに世界の管理者になるという物語が見られましたが、
最近では、ゲーム内世界に転生した主人公が、ゲームのシステムやシナリオのメタ的知識を持っていることで、ゲーム内世界でチートな活躍をする物語ばかりです。
このようなエンタメ作品の大まかな時代変化を見るだけでも、今の若い人が管理された消費的テーマパーク社会を所与のものとして受け入れていることが感じ取れます。
むしろ運営システム(プラットフォーマー)側と同一化することによって、ゲーム的箱庭世界の中で自分だけが無双になるという「下層メンタルのままで上位階級になった気分」を肯定しているものを多く見かけます。
そういう作品が売れている気配を見ると、僕はこう話しかけられているような気分になります。
社会がディズニーランドなら、その中で楽しめばいいじゃん!
与えられたものを楽しめないなんて、人生損してるよねー。
家庭も子供も持たなければ、高い入場料もなんとか払えるでしょ!


こうして、人々は一つのエンタメ的消費パーク社会に集約され、その中で個々の欲望を拡散することを許されるだけになりました。
これは「集約=拡散」の両立ではありますが、冷静に分析すれば、拡散より集約の方が上位にあることがわかるはずです。
なぜなら、拡散はある程度の集約の範囲の中でしか許されていないからです。


文学をエンタメへと去勢する「文化産業」

ディズニーランドのような消費のためのテーマパークが、植民﹅﹅化さ﹅﹅れた﹅﹅現代都市の理想像です。
そこでは全ての都市が非歴史的(アメリカ的)で似たり寄ったりなものになっています。
どこにでもスタバやマックがあり、どこにでもユニクロがあり、どこにでもマツキヨなどのドラッグストアがあり……、
それがネットの中に移行すると、誰もがAmazonやLINEやインスタグラムやエックスを利用する巨大プラットフォーム・ビジネスに連結します。
それこそが集約の力なのです。


集約が拡散の欲望をどのように組み込んでいったかを理解するには、書店の変遷を見ていけばよく実感できると思います。
かつては街の書店というものが数多くあって、書店があちこちに拡散していました。
しかし、90年代後半以降に、池袋の「ジュンク堂書店」をはじめとする巨大店舗が数多く登場した時期がありました。
拡散した街の本屋がどんどんと減少していく中で、多くの本を集約して所蔵する巨大店舗だけは増加した時期があったのです。
さながら巨大書店は、いろいろな本を選びたい放題の「本のテーマパーク」もしくは「本のディズニーランド」の様相を呈していました。
しかし最近は巨大書店の閉店も見られ、また、閉店しないまでも、これまで置いていた専門書を引き上げてライトな本ばかり目につくように棚を変えてしまった店もあります。
その理由は読書人口の減少もありますが、Amazonのウェブサイトで本を買う人が増えたことも関係しています。
Amazonのウェブサイトは巨大店舗よりも拡散した欲望を集約して引き受けることができますし、
わざわざ遠くまで足を運ぶ必要がありません。
こうして人々の拡散する欲望は、ますます狭い空間へと集約され集中するようになっています。


このような「不自由」を不自由と感じない鈍感なセンスの人だけが、エンタメ的消費パーク社会に嬉々として適応できるため、
鈍感なセンスの人間が消費的な趣味テーマパーク社会から「公認」を受けた表現者になっているのが現在です。
僕は社会で認められた書き手たちを「鈍感なセンス」だと断じますが、
その理由は、彼らがこのような社会状況について関心がなく、管理された趣味的世界で満足できてしまう程度の人たちだからです。
管理された社会で満足できるセンスなど、凡庸でしかありません。
たとえて言えば、体操競技やスノーボードなどで、危険だからこれ以上の新技を試みてはいけない、と安全管理をされても不満すら抱かないようなセンスです。
消費的な趣味型テーマパーク社会の文化において、必要なのは趣味における消費促進の管理だけです。
これまでにない可能性に挑む危険な新技など必要なく、一般人の趣味的消費を促進する新技だけが必要とされるのです。
つまり、必要なのは「趣味領域における新しい話題」でしかありません。
このテーマパーク文化を管理する共同企業体を、テオドール・アドルノに倣って「文化産業」と呼ぶことにします。
(アドルノの「文化産業」批判については、近々別の記事で書くつもりです)
「文化産業」は企業体として、自分たちのJ(自由)Y(欲望)パークの管理体制を脅かさない安心安全な「去勢された表現者」たちを飼育して、
自分たちの思惑に沿った商品を供給するように仕向けているのです。


「文化産業」における「去勢」とは、要するに消費資本主義を批判するイデオロギーを育てるものや、消費的大衆を悪として描くようなものを商品としてヒットさせないという自主的な検閲機能のことです。
消費的な欲望を拡散させる個人こそが他人とわかり合い、世の中を良い方向に変えていく、というイデオロギーを代弁するものだけを市場に「適者生存」させるというダーウィニズムがそこにはあります。
「文化産業」は欲望を原理とする市場システムによって、欲望を抑制する「敵」(たとえば倫理)を淘汰していくのです。
これはある種のファシズムなのですが、見えない領域で排除が行われていることと、多くの人が欲望の肯定に「満足」しているために、表沙汰になりません。
そもそも社会的地位のある文化人は、例外なく「文化産業」と強い関係を持っているので、
このような文化的ファッショ体制をアカデミズムでさえ(笑えることにマルクスやレーニンの研究者も含めて)全く批判しないのです。


大都市や大手ウェブサイトのような集約・管理された環境で、拡散された欲望をトイレに流すように消費させるのが、趣味型テーマパーク社会の理想です。
要するに、今や都市は外見上、ディズニーランドと化したということです。
ここでは入場料を払わない人に、生活する資格はありません。
たくさんのグッズを買った人が、最もテーマパークを楽しんだ人ということになり、
YouTubeでは、どのグッズを買ってどのようなライフスタイルで生きれば幸せになれるか、というテーマパーク社会を楽しむ人生ガイドばかりが有難がられています。
非現実的なテーマパーク世界を設定して、その中で批評的なことを書いた気になっている文芸作品があるようです(僕は最近の日本の小説をほぼ読みません)が、
テーマパーク的世界を設定している時点で、もう現実を脅かさない「文化産業」の作品でしかなく、文学的価値はゼロに近いと言えます。


しかし、この安心安全なテーマパーク社会には、大きな欠陥があります。
安心して消費行動に勤しんでもらうために、この社会は「死」を排除(正確には不可視化)してしまいました。
1000年以上の長寿のエルフが主人公のアニメ『葬送のフリーレン』(2023年)がヒットしていますが、
テーマパーク社会の住人たちは、無限長寿のエルフに同一化するほどに、「死」というものに対して鈍感になっているのです。
フランス現代思想のバタイユやブランショを語りたがる人が、この状況に不満を表明しないのを見ると、趣味化した思想の虚しさを感じます。
バタイユやブランショは、「死」というものに自分を超えたものへの通路を見出した危ない人たちです。
「死」と関係する機会を極小化しようとするテーマパーク社会は、バタイユやブランショの敵であるはずなのです。
日本人のやっている〈フランス現代思想〉は、「文化産業」が用意した箱庭で趣味を満喫するためにあるだけなので、
その思想が自分たちの現実にどう対応するのか、真剣に考えたこともないのでしょう。


「死」を排除してしまった社会を支配する「文化産業」が、「死」と強い関係を持つ思想や文学を「去勢」していくのは必然です。
こうして思想も文学も、単なる消費的ファッションやエンタメの一つでしかなくなりました。
当然ながら、それは思想でも文学でもある必要はなく、中身はスカスカな「看板だけの産業」として延命するだけの「寝たきり文化」(ギリギリ持続可能!)になっています。
それもこれも、拡散のエネルギーが消費の枠内におさまってしまい、集約による管理の壁を崩すことができないことが原因です。
「寝たきり文化」となった思想や文学が、自分の足で再び立ち上がるとしたら、
思想や文学を商品化するシステムを、集約・管理の手段として問題視することができるようになるしかありません。
これまで自分が見ていた世界が、「文化産業」の管理下にある箱庭だったと実感できれば、
あとは広い世界を求めていく強い好奇心と勇気によって、その外に触れることも可能です。
それは同時に、我々の礎となった無数の死者たちや人間が及ばない世界と関係を持つことでもあるはずです。
「現代人の作ったお遊びの世界に満足するな」というのが、ここでの合言葉になります。
本気で思想や文学をやりたいのであれば、まずは金銭に依存した世界で満足している「表現者」たちとその管理者である「文化産業」を、嘲笑うくらいの気概プライドが必要です。
業界の管理者の意向に沿った「模範的な文化産業作品」が、優れた思想や文学、さらに言えば芸術作品であるかどうかは、古典的な作品と見比べてみれば自ずとわかるものです。
先人たちの戦いの遺産から逃げているから、いつまでも管理される側にいるしかないのです。
本来の思想や芸術は、そのような商業的管理に対して、人間精神の自由を勝ち取るものでなければいけません。
端的に言って、自由は管理に挑戦するものですが、その挑戦ができないのは、自由を支えてくれる責任の意識から逃げているからです。
既存権力や多数派や有名人の承認をあてにするばかりで、孤立する勇気のない無責任なヘタレは、
本来は思想や文学の世界で「発信者」になる資格のない人なのです。


まずは「文化産業」に批判的な視座を持つことから始めましょう。
いったん片足を「外の世界」へと出す勇気が持てれば、はるかに巨大な天や真理が自分を応援してくれることを知るチャンスも得られることでしょう。
飼育ケースの中で一生を終える人たちのための「気晴らし」など、たとえ「永遠の現在」が評価したとしても、
次に到来する「別の現在」がケースを清掃して、跡形もなく消し去ってしまうものなのです。


4 Comment

城前佑樹(白樹烝)さんへの再返答

あの程度の説明では誤解されても仕方ないと思いますが、
僕にとって神とは無力な存在です。
つまり「最終勝利者」とは、世の中で勝ち名乗りをする人ではなく、
世の中に居場所を持たないものに近い存在です。
ただ、それが「真理に属する者」であるために「最終勝利者」と呼んでいるだけのことで、
「真理」に関心もなく価値も置かない、ただの自己充足社会では、それが神だと認識されることさえないでしょう。
つまり、社会の方から見れば、処刑されたイエスのように罪人や敗北者にしか見えません。

あくまでこの世の中に対して、真理としての「否定性」をつきつけるのが僕の役割であり、
だからこそ僕が好んでなくても、堕落社会で肯定されたいだけの人から迫害を受け、争うことが避けられないのです。

僕にある自信は、「この世の中が間違っている」という思いです。
自分に自信があるのとは、ちょっと違うんですが、外からみれば似たように見えるかもしれませんね。

「生きるよすが」としての創作を「楽しむ」のは至難でしょう。
それは人生を楽しむのと同じだからです。
難しいから「楽しむ」ことを求める必要があるのであって、
むしろ「楽しむ」だけを目的とするなら、そう難しいことではないような気がします。
だから人々は、人生となるべく関わらない場面で、趣味的に「楽しむ」ことを求めます。
しかし、人生と関係のない異世界で「楽しむ」ことを目標にしている作品を、文学だと思われるのでは、先人に申し訳ないのです。
僕は創作で楽しみを捨てているので、そのぶん日常を楽しむようにしています。

まあ、僕がどんな人間であるかはどうでもいいのです。
問題は人や命あるものを尊重しない社会原理に、従うべきか否かです。
社会システムは、社会に従うことで楽しみを享受できるよう誘導しているのですから、
単に言葉のレベルではなく、楽しむということが本当はどういうものかを示す必要が出てくることでしょう。

勝利という価値観

暖かい返信ありがとうございます。

おそらくは現実の私の実人生は南井さんにとってどうしようもないものだと思いますが苦笑、
そのことも込みで南井さんと私の違いは「勝利という価値観」への向き合い方なのかな、と思いました。

これまで私が出会い、今でも尊敬している物作りに携わる人たちは(その作品のクオリティの上下はあれ)、大上段な言い方をすれば誰かを思って制作をしている方々でした。
それは南井さんが現代のこの国のメディア状況、ひいては「キリスト教的な価値観」に戦いを挑んでいるスケールとは比べられないかもしれませんが、私の目から見れば「生」における戦闘行為であり、いつも羨望の的でした。
(「命あるものが好き」だとおっしゃる南井さんなら分かってくれるとも思います)

またこれは蛇足だと分かっていて言いますが、世に問うわけもなく私が句作やラップといった創作行為を続けているのは、
勿論ただの遊びという点もありますが、それを生きるよすがにしなければ生きるという土俵にも上がれないからかもしれません。
(ただ、俳句は目の前の具体的な風物、ヒップホップ・ラップは具体的な音楽あるいは人という対象がなければ立ち上がらない営為であることが明白であり、
(勿論定型や季語、拍子などの型もあり)
だからこそ自意識の垂れ流しにならないのだと信じています)

南井さんは「最終勝利者」ということを言われました。私の少ないこれまでの人生で自分のことをそこまで信じられる人間は、二人ほどしか会ったことがなく笑、
おそらく彼ら彼女らは所謂「勝利」ということに粘り勝ちを収めるのだと私は確信しています。
ただ、私は心身について一般的な人よりは悩んだ上で、最終的な勝利というものの価値が分からなくなって来ました。
抽象的なもの、社会や時代風潮にきょろきょろするのみの人間は置いておいても、それ以外で自分の人生をまっとうに生きようとする人たちは、争うことよりもまずは「楽しむという営為」をどう持続させるかが大切な気がしています。
(これは推測ですが、現代日本で文化的に勝ち名乗りしようとするだけの沢山のクリエイターは、
「楽しむ」どころか不安感と虚無感で一杯なのだと思うのです)

誰かが何かと戦わなくてはいけない現代日本で、以上のようなことを思うのは覚悟が足りないのかもしれない、とも考えました。
ただ、人には人の身の丈があり、私は私自身の具体的な存在を大切に守るのみなのだと最近は思うようになりました。

話が集約拡散モデルとはかなりかけ離れてしまいましたが、おそらく私のように考える人間はあまり居ないだろうし、このように書き置いておきます。

城前佑樹(白樹烝)さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
城前佑樹(白樹烝)さん、コメントありがとうございます。

数々のご指摘を興味深く読みました。
僕は自分の書いていることを、多くの人が実行できなくても構わないと思っています。
ただ、高い基準で生きている人間がいることを示せればいいのです。

城前さんは、自発的に危険に打って出る人と自然と危険な場にはみ出す人を分けていますが、
その差はそこまで明確ではないような気がしています。
やむをえずに危険に足を踏み入れる人間が、あきらめて自発的に危険に出て戦うのではないでしょうか。
正直に僕自身のことを言えば、誰かが代わりに僕のような仕事をしてくれたら、僕自身は今のような立場で本当は活動したくありません。
僕は厳しい考え方をするので、要は覚悟の問題だと思ってしまうのです。

だから城前さんが「今の社会から踏み越えてしまった側」だと自覚しているのは、無責任に喜ばしいと思ってしまいます。
進んで社会から逃れたいのではなく、自然と社会からはみ出してしまう……、
僕はそういう人が大好きです。
文学や芸術に救われた、という言葉に、嘘がないとわかります。

僕は一般的な視点では社会の重要性を認識しつつも、個人的には社会という抽象的なものに何の価値も認めていない気がします。
城前さんが僕に「具体的な存在」がないはずがない、と書いていたのは、さすがに言い当ててきたな、と思いました。
僕は「具体的なもの」を基礎としてしか抽象的なものに価値を認めません。
つまり、社会は今僕の目の前にいる「具体的なその人」の尊重においてしか尊重されないのです。
(今で言えば、こうして返答している城前佑樹その人が僕にとって社会への扉です)
だから、目の前にいる人(それが敵であっても)から逃げ出す人を、僕は軽蔑しています。

僕は具体性から切り離された抽象性をバカにしています。
学問の上でしか思想を理解できていない人や、
業界の動向を窺いながら文学をやっている人など、
社会的観念や抽象に振り回される人は、基本的に不幸な人生になるだけだと思っています。
具体的生活において消費にしか着地しない、フランス現代思想などをありがたがっている人をバカだと感じるのはそのせいです。

恥ずかしいことを言えば、僕はおそらく命あるものが好きなのです。
具体的な人間を描ききった作品に出会うと非常に感動しますが、私小説を基盤にしすぎた日本の作家はちっとも人間を描けない人が多いです。
(だから日本人は身体を伴うドラマや映画や演劇の方が、人間を描ける気がします)

確かに俳句業界にはどうしようもないクズがいて、不愉快にはさせられますが、
それでも他の業界よりは、素朴で誠実な人が多いと感じました。
それで関わりを持ってしまったところがあります。
僕がパワハラや弾圧を受けるのは毎度のことです。
僕の論理ではなく、僕自身を攻撃しても僕の負けにはならないのに、
愚かな連中は僕自身に個人攻撃をして、僕の論理に勝てないことを示してしまうのです。
権力を頼る人間は、安倍派みたいにその権力が沈没すれば共に沈没します。
そんな連中の攻撃など怖いものでしょうか。
こういう言い方は傲慢に聞こえるかもしれませんが、どうせ最後に勝つのは僕なのです。

神は最終勝利者の位置にあります。
僕がニヒリズムに陥らずにこんな孤独な活動を続けていけるのは、自分より確実に最終勝利者に近い人を発見できないからです。
どいつもこいつも何らかの権威をあてにしている弱い精神ばかりでした。
(僕は本心では自分より最終勝利者に近い人が登場したら、その人についていきたいと望んでいます)

無題

最近の南井さんの論は、これからの時代においてどのように文化を作り上げていくのか、に関する「手引書」というような認識を持っていました。
あえて言えば図式的な分かりやすさに富んでいて、
ただだからこそ行動に移すには(私を含め今の日本人は特に)難しいところがあるように思います。
(南井さんの言うようなことは理想論で、だからこそ「敢えて」俺はこのように戦っているんだ、と現代日本人は言い訳をするでしょう)

南井さんの社会批判には同意しますが一つ言いたいことがあるとすれば、
「集約=拡散」「安全=危険」モデルから踏み越えて危うい戦いの場に立つ人間は、
自発的に危険に打って出る者とは別に、そうせざるを得ず危険な場に足を踏み入れてしまう人間がいるように思います(私の周りにもそのような形で命を落としてしまった人間も何人かいます)。
自己責任だと言われてしまえばそれまでですが、彼らの生き方を見てきた私としては、南井さんの姿勢に鼓舞されつつも「文学や芸術を追求していた彼らは何故救生きられなかったのか」と思い悩むこともあります。
私自身、文学・芸術に確実に救われながら、今の社会からは踏み越えてしまった側なのだと自覚したものの、ではこれからどうするのかは全く定まっていません。

これまで私は学生時代から狭い場ながら詩歌句ジャンルに関わってきた中で、
本当に純粋にものづくりに携わる人は(意味性を持たざるを得ない文学ジャンルは特に)微々たるものなのだと思い知ってきました。
南井さんも俳句業界などと関わる中で暗澹たる思いを抱いたのだと感じていますが、
その結果として、所謂ニヒリズムに陥らずにネットでの執筆活動を続けていられるのは、自身の大義への信があるからでしょうか。
その理由を聞くのは烏滸がましいのは承知ですが、何か具体的な存在がないとあり得ないような執筆活動だと思うのです。

南井さん自身のことを聞いてしまい申し訳ありません。ただ、論考は論考である上で、このような論を問う人間の生き方がどのようなものなのかが分かると、批評の照準の精度が上がると感じてしまいました。

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