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なぜ日本では高度情報技術と消費社会の批判は歓迎されないのか

マス消費者を操るテクノロジーとイデオロギー

先頃、ドイツ現代思想の思想家ビョンチョル・ハンの『情報支配社会』(2021年)の邦訳を読みました。
現代社会の「肯定性の過剰」を取り上げた『疲労社会』(2010年)と『透明社会』(2012年)に続いて、
この本では「デジタル情報体制(Infokratie)」の支配を切れ味鋭く批判しているのですが、
ハンの優れた考察が日本の読者に響くかと言えば、極めて怪しいと悲観せずにはいられませんでした。


ズバリ言ってしまいますが、日本ではメディア技術の批判は歓迎されないのです。
書店を見回してみれば、高度情報技術を批判する本は、海外の翻訳ものがほとんどです。
たとえばアンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』(2019年)は、日本でベストセラーになりましたが、
このようなスマホ批判の本は、不思議と著者が外国人なのです。
どうやら日本の出版人やマスコミは、高度情報技術や消費社会の批判を、自分ではやりたくないようなのです。


どうして日本では、高度情報技術と消費資本主義を批判する本を見かけないのでしょうか。
その二つが「大衆マス」の大量消費を促す原動力だからです。
高度情報技術は広告等で「マス消費者」を誘導して、商品を買わせるための重要な手段ですし、
そういった操作マーケティングで需要を生み出す経済を支えるのが、消費資本主義というイデオロギーです。
簡単に言えば、現代ポストモダン社会の金儲けに欠かせないのが、高度情報技術と消費資本主義だということです。


つまり、高度情報技術と消費資本主義は、この社会を支える経済的=文化的なテクノロジーとイデオロギーであって、
その批判をすることは、現在の社会経済体制の「自己批判」を意味します。
「肯定性の過剰」を旨とするポストモダン社会で、多くの人が依拠している体制的ヽヽヽテクノロジーやイデオロギーへの「批判」が好まれるはずがありません。
それで、高度情報技術と消費資本主義の批判が、自然とヽヽヽタブーになるのです。


世界ではとっくに過去のものとなった〈フランス現代思想〉(=ポストモダン思想)が、日本でいつまでも最先端の「現代思想」扱いされていることにも、この問題が関係しています。
日本の〈フランス現代思想〉はマスメディアに依存しているために、高度情報技術と消費資本主義を本気で批判することができません。
要するに、「現代思想」は現行の社会構造を反映した体制ヽヽ的なヽヽ思想です。
この社会のあり方に根本的に疑問を持たない多くの人にとって、非常に親しみやすい思想だと言えます。
本来儲からないはずの思想というジャンルで本を売るためには、
難しい哲学学習の必要がなく、彼らの消費的日常を肯定する物語ヽヽを、「現代思想」という看板で売り続けるのが一番効果的なのです。


僕はAmazonレビューで〈フランス現代思想〉と消費資本主義との親和性について書いて、市場依存オタクからいろいろ文句を言われたことがあります。
しかし、〈フランス現代思想〉以外に目を向けてみれば、そのような指摘は世界の知性たちが普通に書いていることでしかありません。
オタクは「消費的大衆マス」向けの「現代思想」売文家の本しか読んでいないので、そういうことがわからないのです。
また一つ新しい例を挙げておきましょう。


ポストモダニズムを歓迎していた者たちが描いていたことの大半は、この普遍的市場システムの結果にすぎない、ということがあきらかになってきている。普遍的市場システムは、あらゆる全体化する価値体系と同様、それ以外のすべてのものを疑惑と混乱へと陥れる傾向を持つのである。
(デヴィッド・グレーバー『価値論』藤倉達郎訳』)

デヴィッド・グレーバーが『価値論』(2001年)で、ポストモダン思想の限界を指摘した2001年に、
日本では東浩紀の『動物化するポストモダン』(2001年)が新しい思想のように受け止められていたのですから、そのズレは決定的です。
(東はポストモダンとポストモダニズムは違うなどという内容のないゴマカシをしていましたが、
東の主張がいかに消費市場に依存したものであったかを、僕は過去の記事で検証しています)
それから20年、日本は先進国の中でずば抜けて経済成長がなく、実質賃金もほとんど上昇していない唯一の国となりましたが、
世界の先端思想を追い求めることより、ドメスティックな「消費的大衆マス」相手の差異なき反復商売に精を出した点に、
日本が世界から置き去りにされた要因を見出すことができるのではないでしょうか。


日本の出版業界でポストモダン思想の批判がタブーになっている例を出しましょう。
マルクス・ガブリエルという哲学者が、日本では人気になりましたが、彼の「新実在論」はフランスのポストモダン思想の批判を含んでいます。
そのためポストモダン思想の利権に依存していた売文家は、一斉にマルクス・ガブリエルの思想を不当に貶めました。
その結果、ガブリエルはテレビ系マスコミに「文化批評家」扱いで多くの仕事をもらっていますが、
現代思想界隈からは「村八分」にされています。
そのためだと思いますが、ガブリエルがこれだけ有名になっても、彼の哲学的な主著『Fields of Sense』(2015年)は、いつになっても邦訳が出版される気配がありません。


この構造に気づいてしまうと、中国に比べて日本の情報発信が自由だという認識がいかに表層的であるかがわかってきます。
そして日本ではこのような権力体制の利益につながる「統制」を、支配者による目に見えた「統制」や「弾圧」のかたちではなく、
もっと水面下の次元で批判者と同程度かそのちょっと上の地位にいる人間が行うシステムになっています。
参考になるのが旧日本軍の支配構造です。
反抗的な下級兵士に将校がいきなり制裁を加えるのではなく、同僚の下級兵士かそのすぐ上位の中級兵士がその下級兵士をリンチで痛ぶるのです。
将校クラスの弾圧は目立ってしまいますが、下級レベルの争いならば、取り上げるほどの事件にもならずに抹消できてしまいます。


実際、〈フランス現代思想〉に代表される日本の現代思想商売は、高度情報技術の「次世代メディアコミュニケーション」と手を結んで、若い読者を「新刊本の消費」に駆り立ててきました。
ネット文化と共に台頭した東浩紀は言うまでもありませんが、千葉雅也も誇大宣伝を背景に、Twitterのつぶやきを「哲学」と称して書籍化した黒歴史があります。
卑近な例で申し訳ありませんが、職場の隣の若い同僚が、どうやら現代思想が好きらしいのですが、まあ絵に描いたように毎度毎度そのジャンルの新刊本を熱心に読んでいます。
こういう若い人は、彼だけではなく、多くの現代思想オタクの共通した姿だと想像されます。
彼らは「自分の問題意識で本を選ぶ」という行為をどこかに忘れてしまったようなのです。
いや、もしくは「自分の問題意識」というものがないのかもしれません。
なにしろ、彼らが大好きな〈フランス現代思想〉は、主体性や理性を批判しているのですから。


高度情報技術が見せる「次世代コミュニケーション」の夢

日本人は年齢に関わらず、やたら「次世代コミュニケーション」が大好きです。
僕は青少年の頃、なぜ夕方のニュースでやたら渋谷の女子高生を取材するのか意味がわかりませんでした。
テレビ業界人の趣味かとも思いましたが、やはりそこには一定の需要があったと考える方が自然です。
おそらく、自分が渋谷の女子高生と同等にヽヽヽコミュニケーションが取れるかどうかを、何らかの基準にしている大人が多かったということでしょう。
彼らはなぜ「年季の入った大人」として若者の前に立とうと思わずに、若者の言葉を知ってその内部にスパイのように入り込みたいと願うのでしょうか。
おそらく、それによって自分が「次世代コミュニケーション」の一員になれるかどうかをチェックしているのです。


「次世代コミュニケーション」が大衆に求められる理由は何でしょうか。
一つには、最先端に通じていることが、社会的成功につながること。
もう一つは、自分がいつまでも「若い」という幻想を抱けること。
この二つが代表的な理由だと思います。
大衆は、自分が最先端にいち早く対応することができる「若い」存在であると示したくて、「次世代コミュニケーション」を追い求め、それへの理解を示そうとするのです。
たとえば文学の世界では、いい歳になった爺さん婆さん作家が、若い人の未熟なだけの作品を、やたら理解があるような顔で褒めそやしたりするのですが、
こういう痛々しい風景は、作品の評価と本来は関係のない、自分の大衆的欲望の解放にすぎないのです。


「若さ」への欲望を社会体制レベルで後押ししているのが、消費資本主義です。
消費社会は人間を幼児化します。
なぜなら、消費社会に君臨する王とは「子供」だからです。
子供は生産活動に携わることなく、純粋に消費を行う存在です。
平日ずっと働いて生産活動をし、週末にだけようやく消費をするような大人とは違うのです。
いや、子供にだって学校の勉強があるではないか、という意見もあるでしょう。
しかし、学校の勉強には社会人の仕事ほどの拘束力はありません。
勉強にやる気を出さずに、放課後の消費の方に全力を傾けている存在の象徴が、かつての「渋谷の女子高生」だったのは明白です。
つまり、彼女たちは消費社会の女王であり、だからこそ多くの大人がその輝きを羨んで「自分もそうなりたい」という憧れを密かに抱いていたのです。


このような「次世代情報技術」に強く依存した「幼児的消費者」が、日本の大衆が密かに憧れている自己像なのです。
日本人がこのような自己像に疑問を持たないのは、前述したように、最先端に通じていることが社会的成功をもたらすという強い信念を持っていることに関係します。
海外の最先端に通じていることが社会的成功をもたらす、という信念は、日本の歴史から生じたものです。
日本は自分たちより先を行く文明(古くは中国・朝鮮、近代になって西欧、戦後はアメリカ)から最先端の技術を流入することで発展してきました。
物部氏(神道系)を滅ぼした蘇我氏(仏教系)には渡来系の力があり、その蘇我氏を倒した中大兄皇子には百済という渡来系の力がありました。
奈良の寺院に対抗するために桓武天皇が育てた最澄や空海は渡来系です。
織田信長と火縄銃や南蛮貿易の関係も有名です。
江戸幕府を倒した薩摩と長州の連合は、海外から軍備を買い入れるために成立したものです。
つまり、日本国内の権力闘争では、海外から先端技術や先端思想を取り入れることで勝負を決してきた事実があるのです。
この経験を信頼するならば、日本で権力闘争に勝ちたければ、海外の最先端技術や思想を取り入れることを重視すればいい、ということになります。
次世代情報技術やその消費への熱意は、日本では「権力への意志」から生じるのです。


その意味で、高度情報技術や消費資本主義を批判する言説は、「権力闘争に負けろ」と言われているようなものなので、日本では全くウケないということになります。
代わりに別の最先端技術を示したり、別の大衆享楽社会を示したりすれば、歓迎もされるでしょう。
斎藤幸平の「脱成長コミュニズム」というのも、現実的内容がわからないだけに、大衆が別の最先端社会だと都合良く解釈をしたことで受け入れられたのだと思います。
大衆の支持を得るということは、要するに嘘をつくことだと僕は思っています。
なぜなら、大衆が見る夢は、現実逃避と相場が決まっているのですから。


しかし、ヨーロッパには大衆に嫌われても、本当のことを言おうとする学者インテリが存在するようです。
こういうものを尊重する文化があるのは、本当にすばらしいと思います。
出版界に蔓延る日本の大学人はすっかり大衆に嘘をつく商売人になってしまって、大衆社会を決して批判しません。
彼らは日本社会の未来などに関心はなく、ただ自分の社会的成功だけを求めているので、
公共性の観点から高度情報技術批判や消費社会批判をすることはないのです。


消費社会と幼稚化

参考までに、消費社会が人間の幼稚化を進めることを、学問的に研究した本を紹介しましょう。
ベンジャミン・R・バーバー『消費が社会を滅ぼす⁈』(2007年)は、日本ではなかなかお目にかかれない消費社会を批判した本です。
「消費が社会を滅ぼす」という安っぽいアオリのような書名はいかにも邦題で、原題は「Consumed : How markets corrupt children, infantilize adults, and swallow citizens whole」です。
この副題がラノベの題名のように親切に内容を説明しているのですが、市場が子供を壊し、大人を幼児化し、市民を丸ごと取り込むことについて書いている本です。
冒頭から前述した「渋谷の女子高生」の話と似たようなことが書かれています。


大衆文化ポップ・カルチャーに敏感なジャーナリストたちはいつまでも若年のままでいる新たな種族を表現しようと多くの術語を編み出してきた。(実例は中略)こうした大衆新造語とともに認知されているのは、その強力で新たな文化的なエートス(生活態度)への帰着であり、それらは認識されるというよりも感得されるものである。それは誘発的な幼稚っぽいエートスであり、その幼稚化はグローバル市場経済の下、消費資本主義が追い求めるものと密接に関わるのである。
(ベンジャミン・R・バーバー『消費が社会を滅ぼす⁈』竹井隆人訳)

バーバーの本は500ページ以上にもなる大著ですが、要約すると彼の主張はひどく短くすることができます。
グローバル資本主義が「消費する大衆」を幼稚化し、市民参加型の民主主義を破滅させてしまう、というものです。
市民参加による民主主義が崩壊することに対する危機感は、最初に触れたビョンチョル・ハンの『情報支配社会』の趣旨とも共通しています。
ハンの場合は、インターネットという高度情報技術が、ハーバーマス的なコミュニケーション行為を破壊することへの危機意識を語っています。


データ主義者は、まさしくビッグデータと人工知能に、こんにちの朽ち果てた討議的公共性と同じ機能を果たすものを見出す。しかし、これによってハーバーマスのコミュニケーション行為の理論は時代遅れのものとなる。討議はデータに置き換えられる。ビックデータのアルゴリズム処理は、住民を包括的に巻き込むものでなければならない。
(ビョンチョル・ハン『情報支配社会』守博紀訳)

一人一人が主体的意見を持った市民であり、それがそれぞれの意見を出してコミュニケーションや討議をし、合意へと至るのが本来の民主主義であるならば、
そのような社会のあり方は、高度情報技術や消費社会によって崩壊の危機にあるのです。


しかし、彼らの批判を読むと、むしろ日本人が高度情報技術や消費社会の批判を必要としない理由がわかってきます。
そもそも「市民参加の民主主義」が、あまりに西洋的で縁遠いものだからです。
「市民参加の民主主義」に価値を感じていない人々が、その危機を真剣に憂いたりするものでしょうか。


「市民参加の民主主義」を日本の大衆が望んでいない、ということについて証明するのは簡単です。
まず、日本ではそれぞれが主体的な意見を表明することを、強く嫌う社会を作っています。
周囲や共同体の多数派に歓迎されないような意見は、なるべく慎むことが要求されます。
要するに、「空気を読め」というやつです。
社会的地位が高い人が「鶴の一声」で決めた意見に、粛々とみんなで従う方が落ち着く人たちなのです。
ならば、その「鶴の一声」が瞬時に全体に行き渡る高度情報システムの方が、すばらしいのではないでしょうか。


それから日本人は討議をする能力が欠如しています。
コミュニケーションも形式的なものを好み、互いの異なる意見を聞いた上で調整するという高度なコミュニケーション能力をちっとも育てません。
僕は学校教育でディベートの体験は数えるほどしかしていません。
入試や就職でも、ディベートのテストは一回だけでした。
国会やテレビの党首討論を見ても、まともな対話すら成立しないことがほとんどです。
このような国で育った人に、ビッグデータによるアルゴリズムが討議的コミュニケーションを抹消する、と訴えたところで、危機意識など感じるはずがありません。
(余談ですが、最近はたいした知見を持たない統計学者をコメンテーターに呼んでくるニュース番組が多くてウンザリします。
彼らはアルゴリズムの力を過信して、討議の必要がない民主主義が可能だとかバカなことを言い出すに違いないのです)


こう考えると、高度情報技術批判と消費社会批判はタブーではなく、普通に日本で需要がないだけだと勘違いする読者も出てくるでしょうが、
そこはやはりタブーのようなものが存在すると考えた方が正しい、と僕は思っています。
たとえば〈フランス現代思想〉の売文家は、口先で「大文字」の「資本主義批判」を語ることはあっても、「不必要な消費行為の批判」をすることはまずありません。
たとえば、國分功一郎はまだそれほど売れていない時期には、『暇と退屈の倫理学』(2011年)という本でボードリヤールの「浪費と消費」の違いを持ち出して、
「消費」を批判する論を展開していたのですが、売れっ子になったら消費批判はどこへやらと消えてしまいました。
タブーというほど明確な形ではないでしょうが、「売れる」ためには慎むべき主張であることは確かです。
國分が大衆御用達の大手出版社で仕事をするようになって、消費社会批判を押し隠していったことは、もちろん偶然ではありません。


もう少しだけ面倒な話をします。
バーバーの消費社会批判やハンの高度情報技術批判は、西洋型の「市民参加による民主主義」を守ろうという「保守思想」にあたります。
この「保守」という感覚が、日本では非常に曲者です。
日本ではアメリカの言いなりである右派が、自分たちのことを「保守」と自称しているので、本来の「保守」という意味でこの言葉が使われることはほとんどありません。
本来の保守は、海外などから怪しげな新しい思想が入ってきて世の中を乱すことから、従来の社会を守ろうとする姿勢のことです。
しかし、日本ではアメリカという海外の圧力を受けて、従来の社会を支えた憲法を改正したがっている勢力が「保守」を自称しているのです。
なぜこのような誤解が起こるのかというと、日本では「保守」という語が社会体制の保守ではなく、「自己保身」の意味で理解されているからです。


太田肇の『何もしないほうが得な日本』(2022年)では、「自己保身」のために現状を変える努力をしない人を「消極的利己主義」と呼んでいます。
「消極的利己主義」という何やら新しそうな言い方は、商売テクとしてなかなか巧妙だと感心しましたが、
要するに昔から繰り返し言われている日本人の「事なかれ主義」の言い換えでしかありません。
日本で言う「保守」とは、自己保身を何より優先する「事なかれ主義」のことだと考えれば分かりやすいと思います。
「事なかれ主義」の保守勢力が憲法変更を訴えるのは一見不自然のようですが、実はそうでもないのです。
憲法変更は戦後アメリカ追随体制という、より上位にある「現状」を「変える努力をしない」ための努力ヽヽであるからです。
(民主党政権はこのような「現状」を変えようとしたためにアメリカに潰されたと僕は思っています)


要するに、日本の「保守」が守りたいのは市民や国民が参加する民主政治ではなく、
アメリカ様の要求にひたすら屈して、その陰で個人的な利益を貪ろうとする政治家に政治を任せるような体制なのです。
(世界の警察をする金がなくなったアメリカが、当事国にGDP2%の防衛負担を要求すれば、
国民的議論もなく勝手に防衛費増額を既成事実化してしまうような政治体制です)
このような体制に疑問のない人が、「市民参加による民主主義」を守るという議論に興味を持つはずがありません。
なにしろ、そもそも意見を持った市民の討議による民主主義に、価値など感じていないのですから。
それより偉い人の「鶴の一声」に従って、「何もしないほうが得」という社会の方がお好みなのです。
出版マスコミとつながっている業界の偉い人が不正を働こうが、差別発言をしようが、「何もしないほうが得」だと考えるような利己的な人が、
文学や思想の旗を掲げて集まっているのが、日本という国なのです。


消費家畜は自ら喜んで家畜になる

ビョンチョル・ハンの『情報支配社会』の後半は、物語を単なる情報へと変えてしまうデジタル化を問題にしています。


ポストモダンの時代とともに始まった大きな物語の終焉は、情報社会において完結を迎える。物語はばらばらになってただの情報になる
(ハン『情報支配社会』)

ハンが警鐘を鳴らすのは、デジタルによる断片化が「真理」に対するニヒリズムを横行させ、ひいては民主主義を危うくする、ということです。
「デジタル性は事実性とは真っ向から対立する」とあるように、ハンはデジタル化や情報化が、現実存在から簡単に遊離してしまうために、事実や真理の価値を低下させる、と主張します。
しかし、情報と真理の対立図式を作ることには、僕はあまり賛成できません。
情報というものは、別に最近になって登場したものではないからです。
論理を精密にするならば、デジタル断片情報が事実性を軽視する理由は、受け手が「自己都合」で情報を取捨選択できることにあると思います。


デジタル化以前の情報は、それが事実であることに価値がありました。
事実でない情報を信じても、得をすることなどなかったのです。
その基本は今でも変わりがありません。
商売で成功したり、戦争に勝利するためには、間違いなく事実である情報を得ることが必要です。
しかし、そのような確実な情報を必要とするのは、能動的に意志決定をする社会組織の上層部に限ります。
与えられた情報を受け取るだけの受動的大衆にとっては、その情報が事実であるかどうかに大きな影響はなく、
それより自分にとって都合がいいかどうかの方が重要になるはずです。
つまり、正確な情報処理が必要でないような下っ端の「大衆」だから、その情報が事実であるかどうかに関心を持たずにいられるのです。


僕は前に「大衆の支持を得るということは、嘘をつくことだ」と書きました。
フェイクニュースの横行は、デジタル化というテクノロジーの問題ではないのです。
それが大衆の支持を得るためのテクノロジーだからこそ、嘘ばかりが流通するようになっているのです。
断片化した情報をつなぎ合わせて背景にある事実を推測することもできず、
流れてきた情報が自分にとって都合が良ければ、すぐに飛びついてしまう主体性なき受け身の大衆が、
情報から事実の裏付けを奪ってしまったのです。


まるで与えられた餌がおいしければ、すぐに飛びついて食べる家畜のような大衆の生き様は、消費社会によって形成されたものです。
マーケティングのシミュレーションによって生み出された「商品」を、その通りに消費していく客は、与えられた餌を食す家畜とそう変わりがありません。
定期的に餌が与えられることを理解した家畜は、自分で餌を探しにいくことをしなくなります。
悲しいことに、がんばって探しに行くよりも、労せず与えられた餌の方が美味だったりするのです。
こういう経験が重なると、もうマーケットに並んだ餌しか美味しいと思わなくなります。
市場で流通しているものに異常な「信用」を抱くのが、消費市場に依存した人間の特徴です。
店頭でたくさん売られているもの、みんなが買っているものはすばらしいのだろう、と感じて自分も買ってしまう「消費家畜」の誕生です。


卵の生産をどんどん増やすには、それを産む鶏を増やす必要がある、というのは生産ベースの考え方です。
消費資本主義ではそうは考えません。
卵の生産をどんどん増やすには、卵を食べる人、卵を消費する人をどんどん増やす必要がある、と考えるのです。
そこで重要になるのが人々をマインドコントロールするための広告です。
卵料理がいかに優れているか、今のトレンドが卵料理だ、この有名人も卵で美しくなった、などの広告をマスメディアでガンガン流します。
(もちろん、番組内の話題として紹介するので、おバカな家畜はそれを広告だとは認識していません)


高度消費社会を発展させるためには、このような消費家畜を増やすことが重要です。
すぐ目につく店頭に積み上げられた本を、すぐさまレジに持って行ってくれるような「思考力のない」カスタマー(つまりは家畜)が、何よりも大量生産されるべきなのです。
そのためには大人としての「思考力」を削ぎ落とす必要があります。
だからこそ消費拡大社会は、消費者を幼稚化していく努力を惜しまないのです。
こうして『消費が社会を滅ぼす⁈』のバーバーが、「幼稚エートス」と呼んでいるものが人々の中に形成されていくのです。


この「幼稚エートス」なる概念は、ヴェーバーの論じた「プロテスタントの倫理」の着想と同じくらい挑発的で、論争的である。幼稚化とは捉えどころがないとともに挑戦的な用語だが、それが強く暗示することは、一方で人びとの需要よりも多くの商品を生産するようなポストモダン的グローバル経済では、商品と購入層の質を劣化させることであり、他方で購入層が決して十分に存在しない市場では、子供たちを消費者として標的にすることである。
(バーバー『消費が社会を滅ぼす⁈』)

バーバーが用いている「エートス」という言葉は、マックス・ヴェーバー由来の社会学的用語で、
「習慣的な生活態度」や「無自覚に身についた精神的あり方」を示すものです。
僕が用いてきた「精神構造」という意味に近い気がします。
ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)で明らかにしたような無自覚的な「精神」がエートスです。


ここでバーバーが指摘しているのは、消費資本主義の中に身を置いていると、無自覚のうちに人々の精神が幼稚化していく、ということです。
消費資本主義では、生活に必要のないものを購入させることに労力が傾けられています。
つまり、消費者に「本当に必要かどうか」を考慮されては困るのです。
「欲しい!」という瞬間的な欲望にすぐ身を任せるような人を歓迎しているのが、消費社会です。
どうしたって、消費資本主義の社会では、熟慮ができない幼稚な人をあるべき社会人モデルにしていくことになるのです。
(消費資本主義の社会モデルでは、必然的に学者も芸術家も文学者も幼稚な人間ばかりがどんどん売れていきます)


バーバーによると、幼稚エートスは消費資本主義体制によって意図的に作り出されているものです。
その大きな力となるのが、やはり広告です。


世界市場に向けての商品を製造かつ広告宣伝する責任者たちは、今日の市場動向や広告宣伝について実際に調査し、教え込み、実践しており、人口構成上のより若い層に売り付けることと、そしてより年配の消費者には若者の嗜好を刷り込むことの双方を目指している。
(バーバー『消費が社会を滅ぼす⁈』)

あまり巧い訳文ではありませんが、バーバーが言いたいのは、製造業や広告業は消費拡大の戦略として、人々に若者嗜好を刷り込んでいく、ということです。
前に例として挙げた「渋谷の女子高生」のように、消費に特化した存在のモデルは生産活動に従事していない若者になります。
簡単に言えば、最も消費を楽しんでくれる購買層です。
購買意欲の高い若い層の「嗜好」を、それより上の年齢にまで拡大することが、消費資本主義の売り手側の思惑なのです。
こうして消費社会では若者の価値観(Z世代!)をやたら高く喧伝するようになります。
(伝統系の定型短詩業界が、消費文芸化しようとして、やたら若い世代の「作家」を高く持ち上げるようになったのは、このような商売事情でしかないのです)


広告やモードによって購買者の好みを標準化しコントロールすることができれば、当てるべき的がハッキリしているわけですから、製造販売する側にとっては無駄玉を減らすことができます。
必ず売れるところに投資することができれば、ハズレ馬券を買わずに当たり馬券だけを買うようなものですから、儲けが最大化できるわけです。


バーバーの主張で納得できないのは、このような消費者が売り手によって買い物を強制されている、と考えているところです。
この主張は非常にナンセンスだと思います。


ポストモダン的消費資本主義を活気づけるエートスは、愉悦を欠いた一つの強制である。現代の消費者は自由意志をもつ愉楽の徒ではなく、資本主義の将来が消費に依存しているが故に、消費に追い立てられた衝動的な買い物客なのだ。こうした消費者はより幸福や官能から縁遠いのであって、(中略)彼らは、ちっとも望んでいない放埒に身を委ねる幼稚化倫理によって消費という労働に身をやつすのである。
(バーバー『消費が社会を滅ぼす⁈』)

消費者は自由意志がなく「消費に追い立てられ」ていて、幼稚エートスによって「望んでいない放埒」を行う消費労働者だとバーバーは言うわけですが、
このような考えでは、消費資本主義の支配体制の恐ろしさを捉え損なうだけに終わります。


ここからはバーバーではなく僕の分析ですが、商品の製造販売で効率的に利益を上げるためには、消費購買層の「嗜好の標準化」を進めることが戦略的に重要になってきます。
「嗜好の標準化」とは、不特定多数の人が気にいるものだけがチェーン化して身近に存在するような状態です。
例を挙げれば、ハンバーガーならマクドナルド、カフェならスターバックス、牛丼なら吉野家に行けば多くの人は満足するでしょ、という感じです。
このような「嗜好の標準化」は、製造販売側が行う広告やマーケティングやブランド化などの意図的な「企業操作」が、消費購買層の「嗜好を念入りにつくり上げ」た結果です。


重要なのは、「嗜好の標準化」によって見ず知らずの消費者同士が共通の基盤を持つようになることで起こる変化です。
共通の基盤を元にした消費の嗜好によって、自分がどのような「ライフスタイル」を持った人間であるか、を伝え合うことができるようになります。
そうなると、消費が「ライフスタイル」を形成する重要な行為になりますし、
その「消費的ライフスタイル」が、自分のアイデンティティを示すものに思えていくのです。
こうして、余計な消費を必要としない年齢になったいい大人が、消費物の嗜好テイストによる自己イメージの「ブランド化」をアイデンティティと取り違えて、
消費による生活の彩りライフスタイルの実現に勤しむようになっていくのです。
いったん購買者を消費行為でアイデンティティを形成する「消費家畜」にしてしまえば、
あとは放っておいてもアイデンティティを維持するために、自分から嬉々として消費をしてくれるので、売る側にとってこんなに都合のいい存在はいません。


 消費による嗜好の確立 → 消費的ライフスタイル → アイデンティティ形成 

SNSやYouTubeなどで読書好きが本棚を見せたがる理由が、はじめ僕にはわからなかったのですが、
どういう本を購入しているかで、その人のライフスタイルやアイデンティティを知り、ひいては自分のアイデンティティ形成に活かそうとしているのだと今は理解しています。
ファッションモデルのワードローブと、読書系インフルエンサーの本棚は同じようなものなのでしょう。
そうなると、自分のライフスタイルをオシャレに見せるために、自分の趣味ジャンルのものを次々購入することになっていきます。
そして、狙ったものを購入するたびに、望み通りのライフスタイルやアイデンティティの形成に近づくわけですから、
彼らが自分の嗜好に合った商品を購入することに、愉悦や喜びがないはずがありません。


実はバーバーの『消費は社会を滅ぼす⁈』の第5章は、「ブランド化されたアイデンティティ」と題されています。
そこでは、ブランド化によるアイデンティティ形成のことが書かれています。


消費主義は新たなアイデンティティ政治にくっついているのであり、そこではビジネスそのものが売買の手助けとなるアイデンティティを創り出す役割を担うのである。ここにいうアイデンティティは「ライフスタイル」を反映するのであり、それは商業ブランドと密接に関係した、そのブランドを貼り付けた製品であり、また、我らがどこで買い物をし、我らがどのようにモノを買い、そして我らが何を食べ、着て、消費するのかという、態度や振る舞いなのである。
(バーバー『消費が社会を滅ぼす⁈』)

ここまで書いていながら、なぜかバーバーは消費者が自己のアイデンティティ形成のために、嬉々として自ら消費をしていくという発想にならないのです。
それがどうにも僕には不思議でなりません。


バーバーは出版業に対しても辛辣なブランド化批判を書いています。
なかなか傑作なので引用します。


彼らがフィクション、ノンフィクションまたは内輪話を書くかどうかにかかわらず、新しいブランドであるのはその著者自身である。スティーブン・キング、ボブ・ウッドワード、トム・クランシー、ダニエル・スティール、アン・クールターはまず最初に「自己」を売り込み、そして、著作は次にその波に乗って行くのだ。事情はフランスでも変わらず、著者名のブランドと『ヴォーグ』誌掲載の著者の写真がその著作を動かすのであって、その大衆文化ポップ・カルチャー的な著者によって本や回顧録やエッセイを飾り立てているのだ。
(バーバー『消費が社会を滅ぼす⁈』)

著者の写真が著作を動かす、というのは、さすがにフランスをバカにしている感がありますが、
著者名がブランド化して作品を売るという構図は、日本でもほぼ常識と言えるものでしょう。
そのため、作家当人を名指しで批判をすると、ブランド価値を落とされたという怨念を著者本人からぶつけられたりします。
現在の出版市場で「作品本位」の売上評価などは、ほとんど幻想でしかありません。
出版市場のブランド化と言うならば、日本の場合、大手の新書で出してもらうことができれば、そこそこは売れるはずです。
どこの出版社のどのシリーズから出た本であるか、は内容よりも売上に強く影響していると思います。
だから、マイナー出版社で絶版になった本でも、大手の文庫で出し直すと新刊と扱われて売れるという現象が起こるのです。


ポストモダン支配体制の「救済メカニズム」

さて、やっとビョンチョル・ハンの『情報支配社会』の話ができるところに来ました。
情報支配というものを考えるとき、「支配」という言葉のもつイメージが、どうしてもネックになると僕には思えたのです。
つまり、強者がその力によって弱い者を半ば強制的に従わせる、というイメージです。
しかし、消費的なポストモダン社会の「支配」とは、そういう強い圧力によって行われるのではありません。
自らの欲望を叶えたり、自らのアイデンティティを確立するために、消費者が自発的かつ積極的に「力」のもとに集まっていく形で、支配が実現しているのです。


ハンの言う「情報支配」も、人々が自らの自由を行使することで、情報支配に囚われていく構造について語っています。
服従とは無縁に見える、自由で利己的な情報発信によるコミュニケーションが、なぜ支配体制を利することになるのか、
この構造を理解することが難しいのですが、ハンの批判では現代社会の「状況」は説明できても、その支配権力の「メカニズム」は説明できないのです。
とりあえず、ハンの情報体制批判を見ていきましょう。


情報体制のもとで従わせられる主体は、従順ではないし、服従するのでもない。むしろ、情報体制の主体は、自分が自由であり、ほんとうの自分らしさがあり、クリエイティブであると思い込んでいる。情報体制の主体は、自分自身を生産プロデュースし、自分自身を実演パフォーマンスする
(ハン『情報支配社会』)

ハンは情報体制の支配が、自由と監視が一体になった形で行われることを強調します。
「自分自身を生産プロデュースする」ということは、自らを進んで(市場と結びついたメディア空間へと)可視化することです。
このような自己の可視化は、自ら支配されるべく自分の情報を非人称的なメディア空間へと引き渡していくことになります。
彼らは自己のナルシシズムを満たすために、SNS等のメディアで「自分語り」や自己宣伝を繰り返し、都合のいい自己像をメディア上で可視化することに勤しみます。
それこそがクリエイティブで「芸術的な生活」であるかのように思い込んで、せっせと自らのアイデンティティを作り上げているのですが、
このようなアイデンティティ形成は、それ自体が消費促進の役割を背負わされています。
研究者の肩書きで大学にいながら、ちっとも研究実績がなく、現代思想商売の消費促進の宣伝マンをやらヽヽされヽヽていヽヽ人が、
自分は自由でクリエイティブなのだと(痛々しくも)思い込んでいたりするのは、ハンが言う「情報体制の主体」の典型と言えるでしょう。


私たちは自分が自由であると思い込んでいるが、じつのところ私たちの生活は、魂政治によって行動をコントロールできるように、隅から隅まで記録されるようになっている。新自由主義的な情報体制では、権力の機能を保証するのは、つねに監視されているという状態を意識させることではなく、自分は自由であると感じさせることである。
(ハン『情報支配社会』)

ハンは「魂政治」という言葉について、「魂を掌握する政治」という以外にあまり説明していません。
問題なのは、これが宗教的な意味を持つ言葉であるということです。
また、ハンはYouTuberなどの「インフルエンサー」を、「救世主」のような存在として描き出しています。
実際は「救世主」よりも、インフルエンサーは教会の「司祭」の位置にあると僕は考えますが、
なぜインフルエンサーを語るときに、ハンはキリスト教を連想するような比喩を用いたのか、僕にはそれも引っかかります。


ハンが言う通り、自由と監視が一体となっているのが情報支配体制であるならば、そのような状態がなぜ成立するのか、が問題です。
なぜ人々は監視されるかもしれないメディア空間で、わざわざ自由を行使するのでしょうか。
それよりも、本当に自由になれる場所が他にあるにもかかわらず、です。
本当はこの疑問にハンは答えるべきなのですが、彼がそこに達することはないと僕は思っています。
なぜなら、その答えを得るためには、メディア・テクノロジーが「一神教的な救済の幻想」を与えるものであることを示す以外にないからです。


ライフスタイル消費による市場ヽヽを介ヽヽしたヽヽアイデンティティ形成や、自発的な情報発信によるメデヽヽィアヽヽを介ヽヽしたヽヽアイデンティティ形成は、
自分こそが神に「救済」されるのに相応しい人間であることを、他の人々に示すために行われています。
市場やマスメディアで注目される人間こそが、神の眼差しを受ける人間であり、
そうなることで神からの「救済」を得ることができると信じて、
人々はせっせと消費とメディア発信に明け暮れているのです。
ヴェーバーは、プロテスタンティズムの予定説に資本主義の精神を見ました。
それは、神に救済されるのにふさわしい人物になるために、プロテスタントが自発的に勤勉になる、という理論です。
それが現代の消費資本主義では、市場やマスメディアで救済されるのにふさわしい人物になるために、人々が自発的に勤勉に消費や情報発信を行うように変わっただけなのです。
人々は、救済されるべき自分をめざして、消費や情報発信に勤しんでいるのです。
神に救済されたい人が、神から見てもらうことを望まないはずがありません。
消費市場やそれと結びついたメディア空間で救済されたい人は、当然ながら市場やメディアによって監視されることを望むことになります。
これこそが、自由な消費をしたがる人々が、自発的に監視を受け入れる心理メカニズムです。


ハッキリ言いますが、高度情報技術と消費社会を本気で批判するためには、その精神的支柱であるキリスト教批判は避けて通れません。
それはアメリカをはじめとする西洋文化と根本的に対決することを意味します。
つまり、日本で高度情報技術や消費社会の批判が歓迎されない真の理由は、西洋文化と対決することがタブーだからなのです。
西洋人による高度情報技術や消費社会批判が問題にならないのは、彼らにとっては自己批判でしかなく、日本が西洋と対決するという「過去のトラウマ」を刺激される心配がないからです。


日本の「現代思想」商売は、ただ消費を通じて「消費家畜」に西洋崇拝をすり込むための手段でしかありません。
アイデンティティ消費による「救済」の正体は、西洋人(=支配階級)に近づいた「気分」でしかないのです。
話題の新刊を次々に購入して、それをSNSにアップすることで、「思想に通じている私」というアイデンティティをいそいそと作り上げても、
実態はただ「販売促進の道具」として、支配体制に利用されているだけの人生でしかないのです。


まとめましょう。
消費資本主義が作り上げた高度情報社会は、人々を地域や生活上の人間関係から切り離し、
それでも「私が私であるため」のアイデンティティを消費や情報発信によって埋め合わせるように仕向けていきました。
その結果、人々は〈消費的アイデンティティ〉を維持するために、絶えず自発的に消費行為や情報発信に駆り立てられ、消費家畜へと転落しているのです。
ここまで書けば、最後に引用するハンの文章の意味するところが理解しやすいのではないかと思います。


インフルエンサーはたんなる消費財を自己実現の道具のように思わせる。かくして私たちは自己実現しながら死んでいき、自分自身を消費しながら死んでいく。消費とアイデンティティがひとつになる。アイデンティティそのものが商品となる。
(ハン『情報支配社会』)

消費社会やそれに従属するメディア空間が作り上げた〈消費的アイデンティティ〉は、そのものが「商品」なのです。
ジェンダーやクィアなどのアイデンティティ活動は、このような消費資本主義=ポストモダンのアイデンティティ政治に後押しされているのですが、
これについては別の記事で触れたいと思っています。
(広島修道大の河口和也教授の「ネオリベラリズム体制とクィア的主体」(2013年)という論文が参考になるので、紹介しておきます)


6 Comment

往来市井人さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、コメントありがとうございます。

主人に鎖で繋がれた家畜は、上位の主人と一体化する欲望を持つ、というのはよくわかります。
主人が神であれば、繋がれることが不死(宗教的救済という永遠)への欲望を叶えることにもなるでしょう。
一般的な信仰については、その心理メカニズムで説明できる気がします。

しかし、消費家畜は自分自身が主人だと思い込んでいます。
主人であろうとして、家畜へと転落しているのです。
このメカニズムは、ラカンの「鏡像段階」論を応用するのが、わかりやすいと思います。
自分の理想を投影した鏡像上のアイデンティティ(主人としての自己)と一体化することを欲望する、貧しい現実を生きる子供(消費家畜としての自己)という図式です。
消費家畜が欲望する主人とは、彼らの消費物を生み出すクリエイター、
もしくはアイデンティティ形成に必要な消費物を自由に買える貨幣保持者になります。
つまり消費家畜が主人になるためには、
消費をする側ではなく、消費をさせる側に回ることだ、と考えるような社会構造になっています。
大した能力もないのにクリエイターになりたがる人間が、わんさか出てくるようになったのは、
彼らがそれを救済だと思い込んでいるからです。
しかし、実際はどちらの自己も、資本増殖に利用される存在でしかありません。

各種創作のレベルが見る影もなく落ち込んだのは、
クリエイターに求められるものが、消費家畜の鏡像となることでしかなくなったからなのです。
その結果、往来市井人さんが言う「(低いレベルでの)均質化」が起こっているのです。

数量と不死の関係は、まだ理論を詰める必要がありそうですね。
おもしろく読ませていただきました。

鎖に繋がれた犬の幸福

私の体験なのですが、
ある時、先輩から「鎖に繋がれた犬の方が自由な犬より幸せだろう。」と問われたことがありました。
私は「ミミズなどの雌雄同体の生物(植物)は移動能力が低く、雌雄異体と移動には関係があると考えているため、移動を阻害するようなことはしない方が良いのでは?」と答えましたが、
その後、「ならば鎖が無限に伸びていけばいい。そうすれば相手を探すのも訳ないだろう?」と答えられた後、ただ誤魔化す事しか出来ませんでした。

なぜ、鎖に繋がれていなければならないのか?
自然界に犬が犬を繋ぐ事例がない以上、それは人間の欲望の為に他なりません。犬の幸福を望みながら人間の欲望を当てはめる事から、鎖に繋がれた状態を望むことは、それが、自身の欲望と上位の存在が一致した時に起こり、そのために巨大な存在の一部として一体化することではないかと考えました。
また鎖に繋がれた犬は不自然である以上、主人からの餌によって生活できます。この状態は主人の生存が持続する事でのみ成立するものであり、ただ餌を貰うだけの犬は、主人の不死を信じなければなりません。そうして、自身の不死を信じるために、存在の一部となった自身の生を存続のために明け渡すことになるのではと考えています。
以上の考えを踏まえた上で、先輩の返答である「無限に伸びる鎖」とは自分の欲望と一体化した姿が拡大を続ける姿を認知してもらう事で、社会との関係を感じることであり、その為に巨大な存在の手足として機能し続けなければならない事、
(自由な行動と大差ないのに、敢えて鎖をつけるのは観られる為であり、主人を観せるためである。)
そして、上位と下位が欲望によって互いに均質化される事ではないかと思いました。

的はずれかもしれませんが、権力者と呼ばれる人々が数量を求めるのは、下位の人々による不死の信仰が自身の死の恐怖を肩代わりしてくれるためではないかと思案しました。その為に、より多くの繋がるための力(権力)が必要であり、そのために本質を無視して欲望へ接近していくのではないでしょうか。(孤独と多頭飼育から考えた、安直な発想ですが。)

あくまで自己案の模索のみに留まり、南井様の評論の内容に触れることができませんでした。
また、自身の解答である「性と奔走」も前回同様「無限に伸びる鎖」の中で完結する無害な発想であり、その解答をまだうまくまとめられていません。次回のジェンダー論までに思索をまとめ、
明確な意見を提示できるように致します。

お目通し頂きありがとうございました。

城前佑樹(白樹烝)さんへの再返答

城前さん、早速のご返答をありがとうございます。

私たちは例外なく「消費家畜」にされているわけですが、
やはりその度合いが大きいか小さいかは、人それぞれに違っています。
僕のような年寄り世代よりは、若い世代の方が金銭的余裕はないでしょうし、
仕事や家庭環境による貧富の差も影響します。
そして、当然ながらノリやすいか、ノリにくいかの個人的性質も。
そのような個別ケースにまで僕の記事は届いていませんので、
こうして城前さんの個人的実感と照らして、お考えを聞けるのはありがたいことです。

生活と消費は、大きく言って必要と不必要の場面を代表します。
生活の場面を見つめれば、消費に勤しむ人の姿があまり見えないのは当然のことかもしれません。
逆にディズニーランドなどのテーマパークや観光地やショッピングモールに行けば、
そこらじゅう「消費家畜」の姿しか見えないわけです。

僕の返答は城前さんの自覚が足りないかのような言い方になっていたかもしれませんが、決してそういう意図ではありません。
多かれ少なかれ、誰でもそのような部分はあるでしょう、という話です。
正直、僕のブログなどを熱心に読んでくださる方は、社会の消費を煽る傾向に懐疑的な生き方をしていると思いますよ(笑)

城前さんは「社会に馴染めず、浮いている」とご自分のことを分析していますが、
それが非常に重要なことだと思うんですよね。
たとえ「文学」を扱う商売であっても、商業的世界にスイスイと乗れてしまう人は、やはりどこか違うのではないかと僕は思います。
反抗や抵抗をすることも場合によっては必要ですが、
社会と自分との距離感をしっかり意識することができなくては、それすら意味を持たないでしょう。
とりわけ、社会がおかしな方向に進んでいくときは、社会に馴染めない方が正常で、人間的に誠実だったりするものです。

無題

南井さん、貴重なご返信ありがとうございます。
確かに私も「消費家畜」であるという自覚を奪われているのかもしれない(もしくは今の夢から覚める「覚悟」ができていないのかもしれない)との自己批判が足りなかったかもしれません。

ただ南井さんの返信を読み、私自身は余分な消費ができない「貧乏人」なのかもしれないな、という気が少し兆しました。
私事ですが、現実的に社会的なステータスも経済的な力も少なく、一人の生活をこなし日々をなんとか考えて生きることに手一杯なところがあります。

文学、芸術をしているものとして、「消費家畜ならざる姿勢」が己の文学観、芸術観から来ているなら立派なものでしょう。
私の場合は社会への抵抗・批判というよりは、ただ馴染めず浮いているというだけに過ぎません(鬼滅の刃に例えれば、夢を見させてもらえる乗車賃すら払えないという状態でしょうか笑)

そういう自身の性だからこそ色々と文学、芸術に救われて来たこともあり、
昔は賞や人脈、あるいは金儲けやメディアによって作られていく詩歌句ジャンルに苛立ったこともありました。
しかし、今は社会との意思疎通がおろそかとなる自分自身の問題なのだなと観念するようになりましたし、
個々の芸術的な価値の判定の難しさを知るほどに「売れるから良い・悪い」「売れないから良い・悪い」というフレームも付けられなくなりました。

南井さんの思想的な観点での消費社会批判は、「醒めつつ踊る」という常識的な(しかし実行がかなり困難な)処世に帰すると思うのですが、
そのための文章として、ありがたいことに私にはとても力になっています。

城前佑樹(白樹烝)さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
城前佑樹(白樹烝)さん、コメントありがとうございます。
今年も当ブログをよろしくお願いします。

城前さんのご指摘で、僕が書いたような消費社会批判の難点が一つ浮かび上がりました。
なぜ消費社会批判がウケないのか、の大きな理由が、「誰もが消費家畜にされているという実感がない」ということにある、ということです。
この大きな問題に触れていなかったのは、僕の記事の大きな欠陥でした。
率直なご意見をありがとうございます。

その理由は2つ考えられます。
一つは消費資本主義の背景には宗教的メカニズムがあるということです。
宗教の信者というものは、その宗教にダマされている、と言われてもなかなか認めることはできません。
とりわけ社会レベルで推進されている「宗教」であるならば、
そのマインドコントロールは相当な強さでなされていると考えなければならないでしょう。

もう一つは自分や周囲の人が「消費家畜」であるという事実を知るのは、相当に勇気がいるということです。
一時期大ヒットした映画『鬼滅の刃 無限列車編』というものがありましたが、
その話では、主人公たちは乗り込んだ「無限列車」の中で、楽しい日常の夢(例えば死んだ家族と再会するなど)を、夢と気づかずに「生きて」います。
実はその無限列車そのものが敵である鬼であり、鬼によって主人公たちは「都合のいい夢」を見せられて骨抜きにされていきます。
そこから抜け出すために、主人公の炭治郎は夢の中で自らの命を絶つという壮絶な手段に出ました。

このような方法で攻撃する敵が登場するサブカル作品は、他にもわりと見つけられると思います。
僕はこの無限列車が消費資本主義の隠喩だと思っています。
無限に続く消費資本主義の列車が乗客に見せる夢は、現実にはありえない「都合のいい夢」なのです。
そこから覚めると鬼のいる現実に出会うことになりますし、そのためには自死に値する苦しみを必要とします。
その場合、そのまま夢を見続けて鬼に(家畜のように)食べられる方が幸せなのではないか、と思う人すらいるのではないでしょうか。

「鬼滅の刃」ではそのような展開はありませんが、実際に「都合のいい夢」を見せられて幸せな気分でいる人を、
食べられないように助けようとしたならば、必ず「余計なことをするな、夢の続きを見せろ!」と怒り出したり恨んだりする人間が出てきます。
僕は俳句の世界でそんな人たちを多く知ることになりましたので、
そういう人たちの消費的利害と衝突してみれば、
もしくはそういうメディア家畜の裏側を勇気を持って覗き込めば、わかりやすい実例が理解できるようになると思います。
(もちろん、知りたくなければそれも自由です)

僕の同僚だって、僕以外の人は誰も(本人も)彼を「現代思想」の「消費家畜」だと思っていませんよ。
ただの勉強家だと思う人の方が大半でしょう。
だから、僕が「現代思想」嫌いだから悪意でそう決めつけている、としか他人には思われないだろう、と僕自身も思っています。

実を言うと、金儲けに直接関与しない言論活動をしている僕が、やたらと攻撃に遭うことで、
自分の考えが正しいと実感するようになりました。
つまり、僕の消費資本主義批判、メディア批判の言説そのものが、
その業界の消費によって儲けている人たちの反感を買っているのです。
僕の言っていることが、僕が見ている「都合のいい夢」つまりは個人的な妄想でしかないのなら、
こんな権威のかけらもない人物をわざわざ貶めたり、嫌がらせをしたり、言論弾圧をする必要などあるものでしょうか。

重要なことを言っておきたいのですが、
こんなことを書いている僕も、消費資本主義の消費に全く踊らされずに生きるということはできません。
価格が高すぎるので断念しましたが、韓流アイドルのライブにだって行く気はありましたし、
こうやってネットに接続しているだけでも、無限列車には乗っているわけです。
踊らされる度合いは人それぞれですし、のめり込む人もそうでない人もいるでしょう。
それを一律に「消費家畜」だと言うのは、だいぶ暴力的だと自覚して僕もこの記事を書いています。
ただ、踊っていない人というのは、厳密に言えば余分な消費ができない「貧乏人」だけなのです。
つまり、僕の大衆批判や日本人批判は、自分自身への「自己批判」としての意味が必ず含まれています。

だから、まず重要なのは、自分自身が「消費家畜」かもしれないという自覚です。
城前さんにとっても他人事ということは絶対にありません。
もしそう思うなら、それは夢から覚めることを恐れているからだと僕は思うわけです。
もちろん、僕の考えが正しくなければ、それは杞憂でしかありません。
僕も自分の考えが間違っていればいいなあ、と思っていますよ。

「大衆」の居所

今回の論考、昨今の世の中の違和感を分かりやすく言語化されていて、はっきり整理がつきました。
文学・思想の界隈から現代社会、新米保守(というねじれ)状態であるこの国の政治の問題まで、
西洋からのものによる「消費支配社会」という一本の論点で突けると言うのは鮮やかでした。

特に南井さんの言うように、大衆が「自ら主体的に動いている」との意識で逆に支配されているのが問題とは思うのですが、
私としてはその踊らされた主体感覚に依っている人々が多数いる、という現状が肌感覚では分からないのですよね。
世の中的にはそういった人たちがマスメディアで目立っているというのは事実と思います。ただ、私の周りでは自身の生活や人間関係に向き合うという形がほぼ全てで、いわゆる「大衆」というイメージではない実体が不明です。

南井さんが例に出されていた「現代思想に熱中している同僚」のような存在も全くおらず、
意外と今流行とされている出版業界の流れも、ただの一潮流でしかないのではないでしょうか。
もちろんその一潮流を一押しのようにごり押しするメディアテクノロジーの権力性は批判されてしかるべきだと思いますが。

おそらくは日本という中流国の上流メディア人が掲げている、突き詰めの甘い餌に反射的に食いついているのは、意外と少ない気がします。
ですが、メディアの権力性があふれたこの社会に、南井さんのようにはっきり言語化された批判はありがたいです。(ジェンダー・クィア論についての別稿も楽しみにしております)

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