南井三鷹の文藝✖︎上等

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さらば俳句村

高松霞と西川火尖の集団嫌がらせ事件

もうバカバカしくて詳細を書く気にはならないのですが、
先日、僕は連句人を名乗る高松霞の発案に乗っかった西川火尖などの俳人たちから、
ネットで集団嫌がらせの標的にされました。
キッカケは最果タヒという詩人が書いた俳句を、髙鸞石という俳句界の異端児が引用リツイートで「全然面白くない」と吐き捨てたことにありました。
その結果、髙鸞石は最果タヒの怒りを買い、関係者である「東京マッハ」そのほか多くの人にTwitter上で袋叩きに遭いました。
僕自身はその袋叩きがだいぶ盛り上がった頃に、その事態を知りました。
僕は髙鸞石の行為に賛同する気は全くなかったのですが、面白くないものを面白くないと言うくらいで、どうしてそんなに騒ぎになるのか理解できませんでした。
最果タヒのツイートを見ると、どうやら髙鸞石が俳句業界を背負った人物であるかのように勘違いして、
俳句ジャンルに凝り固まった人が現代詩ジャンルの自己流俳句に文句を言っている、というような流れになっていることに気づきました。
いつの間にか、ジャンルとジャンルの間の揉め事のようになって、炎上していたのです。



俳句の終わりを考える【後編】

河東碧梧桐という「詩人」の亡霊

俳句はクリエイティブでもなければ、アートでもない、と僕は言いましたが、
何も俳句をけなしているわけではありません。
そんなものがなくても俳句は立派に文学として存在できます。
俳句には俳句の道があるのですが、なぜか最近の俳人は俳句にコンプレックス(隠キャ!)があるらしく、
俳句でありながら俳句でないものとして見られたい、という青臭い我儘に膠着してどんどん作品の質を下げています。
俳句として見られたくないなら、俳句雑誌や俳句番組になど出て来なければいいと思うのですが、
前述したように、彼らは本質的に業界のインフラに依存しないで売り上げを稼ぐことができない新フレーバー製品なので、旧製品の販売ラインから外れることができないのです。
このような試みが何か生産的な結果を生むはずもないのですが、クリエイティビティと無縁な俳人は本質的な業界批判ができない人ばかりなので、
出版メディアの没落に付き合って、文学としての俳句文化も没落させてしまうことになりそうです。
まあ、本当に没落するまで僕の言うことなどわからないのでしょうし、僕自身は不愉快な目に遭わされた業界なので、勝手にすればいいと思うようになりました。



俳句の終わりを考える【前編】

ジャーナリズムと一体化した文学

僕は俳句を作ることはありませんが、ある不愉快な事件から俳句を学ぶようになりました。
「週刊俳句」というサイトで生齧りの現代思想を身勝手に用いる某俳人を批判したら、当人が応じることを避けるだけでなく、代わりに仲間が不愉快なコメントをしてきたのです。
彼らは自分たちが現代思想をきちんと学ばずに適当なことを書いているくせに、
その批判をした僕に「俳句をやらないなら謙虚でいろ」などと言ってきました。
そんなに偉そうに言うなら、彼らの土俵で論戦してやろうと思って俳句を学んだのですが、
その結果わかったことは、彼らは現代思想どころか俳句についても生半可な知識しか持っていなかったということでした。
俳人の多くはアーティスト気分で俳句を作ることには一生懸命なのですが、案外俳句や俳句史をたいして勉強していないのです。
そのため俳人は自分のアラがバレないように、互いに批判をすることがタブーになっています。
批判は裏アカウントやエアリプで行われ、それほどでもない句であっても表面上は過剰に褒め合う「挨拶」が客観評価として流通する有様です。
批判をする人間は非礼であり悪である、という通念が俳句の世界にはあるのです。
それだけではありません。
当時の「週刊俳句」周辺にいた俳人は、俳句をやっていない人間を差別しておきながら、今や俳句の勉強が必要ない「わからない」俳句を褒めることに執心しているのです。
しかし、こういう連中を出版やマスコミなどのジャーナリズムがありがたがって起用しているのも事実です。
どうしてこんな事態になってしまったのでしょうか?



たかが俳人されど俳人

コンプレックスを埋めるためのドーピング

この文章は本当はTwitterでつぶやきたかったのですが、
あまりに長くなりすぎるので、不本意ながらブログを使うことにしました。
俳句に興味のない読者は読み飛ばすことをお勧めしますが、
文学や詩の現状を知る手がかりにはなるかもしれません。


最近、安里琉太という1994年生まれの若い俳人が、処女句集『式日』を出しました。
帯文には「到来し、触発する言葉」とか「書くことは、書けなさから始まっていると、今、強く思う。」とか、
安里当人の言葉かわからないのですが、フランス現代思想にでも憧れてしまったかのような浮ついた言葉が踊っています。
(これを見て福田若之『自生地』のデリダってる自意識を思い出してしまいました)
私が書くのではなく、言葉の方から到来したのだ、ということなのでしょうか。
こういう宣伝文句から「自称詩人」感があふれているのですが、いやいや、これは若い人の句集でしかありません。



「反伝統」という詐術

伝統をめぐる「対立」などあるのか

俳句界には「伝統」と「反伝統」という対立軸があるようです。
俳人の中には何かしらの了解があるのかもしれませんが、このような「対立図式」が外部の人間である僕には正しいとは思えません。
少し前のことになりますが、「俳句界」2019年1月号で「「ホトトギス」は永遠に不滅です」というタイトルの特集がありました。
この特集が本気なのか皮肉なのか、一見しただけではよくわかりませんが、「巻頭言」を寄せた筑紫磐井にとっては明らかに皮肉でした。
この筑紫の文章について少し語ってみたいと思います。



現実逃避に俳句を利用するペテンの危険性

岐路に立つ俳句商業誌

俳句人口のうちのどれほどがシニア層になるのかわかりませんが、
世代ごとに俳句人口比率をわざわざ出さなくても、40代が「若手」と呼ばれる世界が高齢層に支えられていることは明白です。
つまり俳句界で商売をするには高齢層への目配りが必要になるのは今さら言うまでもないことです。
もっとマクロ的な話をすれば、テレビ番組の構成を見るまでもなく、日本全体においてマーケティングの関心が主に購買力のある高齢層になっています。
加えて出版という旧メディアに親しんでいるのは高齢層です。
このような事実を考えれば、俳句で商売を考えた場合、どうしたって高齢者を相手にしなければならないことになります。
出版市場に存在する俳句商業誌のほとんどが高齢層の購買によって支えられているのは間違いのない事実でしょう。



「現在」に依存する「甘え」を許すな

無知な「若手」俳人のワガママはもうたくさんだ

50歳以下の人を「若手」と呼ぶのもどうかと思うのですが、
『新撰21』(邑書林)以後に頭角を現した若手俳人たちの多くには共通する「病理」が感じられます。
簡単に言えば、自分の作品を「俳句」であると言いたがるくせに、
俳句の歴史や詩型の制約からは自由にさせてくれ、というものです。
彼らは俳句の因習から自由な新しい俳人を気取っていますが、その実ただ俳句の資産にぶらさがってアンモラルなことを貪っているだけに終わっています。
大きなものには守られたいが、その中では好きにやりたい、という発想は、ガキっぽい「病理」とも言えるものなのですが、
商業主義に走る俳句出版界では彼らが新しいことをやっている若手であるかのように捉えています。
冷静に見れば堕落しただけの作品を、新しい潮流であるかのように扱い、
それを大御所たちが見て見ぬ振りをしているというのが現状です。
日本の内輪組織のアンモラルさについては、最近のスポーツ界ではかなり表面化しているのですが、
同じく因習を維持している伝統文学の世界では、一般人の注目が低いのをいいことに、同様の問題に対して批判精神が薄いように思います。