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老いてなお「ニューウェーブ」の日常

ポップ文学が新しかった時代

1970年代に政治の季節が衰退し、80年代になるとバブル経済を背景として、消費文化が日本社会を牽引するようになりました。
音楽ジャンルでは、湿った「負の心情」に寄り添う歌謡曲や演歌より、
CMやドラマを彩る「軽快な」ポップ・ミュージックが主流になりました。
それと歩調を合わせるように、文学市場でも消費に適した「大衆的ポップ」な文学が求められていきます。
それまでの文学は、現実の重苦しい問題を意識させる堅苦しいものであったため、
「ポップ文学」は新しいスタイルだと信じられて、40年を経過した現在にまで至っています。
その結果、「ポップ文学」は、自覚なく同じ話を反復﹅﹅する﹅﹅、痴呆の初期症状のようなマンネリに陥っているのですが、
消費以上の文化的価値を持たない社会では、若さを失った老人たちがいつまでも「ポップ」に執着し続ける痛々しさを目にするほかありません。


転生の夢をもって自ら「老い」に終止符を打った三島由紀夫と、「老い」た自己を魔界へと消失させた川端康成のあとを受けて、
近代文学のジャンルで「ポップ文学」を確立したのは、言うまでもなく村上春樹と村上龍でした。
実は80年代以降の近代文学は、「老い」の否定という課題から始まったのです。
「ポップ文学」というスタイルは、「永遠の若さ」という十字架を背負って生まれてきたと言っても良いでしょう。
「永遠の若さ」を実現するために詩人は夭折しなければならない、という命題を、実現できた人は幸運でした。
ポップミュージックの世界では、暗殺されたジョン・レノンや、衝撃的な自殺をしたカート・コヴァーン、日本だと尾崎豊が、「老い」から解放された永遠のポップスターとなりました。


しかし、今や「ポップ文学」を担った村上春樹も74歳になっています。
彼は最近『街とその不確かな壁』(2023年)という新作長編を売り出したのですが、
驚いたことに、それは1980年に「文学界」に掲載された「街と、その不確かな壁」という小説を、40年後になって書き直したものらしいのです。
当人に事情はいろいろあるのでしょうが、僕が感じたのはポップが持つ「永遠の若さ」の拘束力でした。
若い時の仕事をわざわざ「反復ループ」しなければならないのは、ポップが志向するものが「(表層的な)若さ」と「(差異化した)日常」だからです。
夭折できなかった「ポップ文学」の旗手が、ポップな作品スタイルを維持した上で、自らの「老い」と向かい合うことは原理的に不可能です。
文学とは名ばかりの「消費物」でしかない「ポップ文学」は、売れっ子になって周囲にチヤホヤされる喜びを与えてくれるものですが、
いつまでもポップであること──若さを宣伝し続けること──を求められてしまうのです。


僕は『1Q84』(2012年)の想定外の続編(BOOK3)以降、話題の共有のために村上春樹の作品を読むことはやめてしまったので、新作の内容を確認しようとは思いません。
今回僕が話をしようと思っているのは、口語によるポップ短歌を切り開いて、「ニューウェーブ」と呼ばれた加藤治郎穂村弘最近﹅﹅の歌集です。


僕は定型短詩を好みませんし、詳しくもありませんが、俵万智の『サラダ記念日』(1987年)ブームはリアルタイムで体験しています。
1987年当時の俵は24歳で、若さを体現したポップな存在でした。
村上春樹の大ベストセラー『ノルウェイの森』(1987年)は、『サラダ記念日』から半年も経たないうちに発売されているので、
1987年はポップ文学が一般へと浸透した年だと考えてもいいのではないでしょうか。
春樹の『ノルウェイの森』という書名が、ビートルズの曲に由来することも、ポップ文学がいかにポップミュージックに影響されていたかを示していて興味深いのですが、
『サラダ記念日』にも浜田省吾のデビュー曲が詠まれていたりします。


  「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日


歌集のタイトルと関連して有名な一首ですが、「毎日の生活を記念日にしよう」という「(差異化した)日常」の感覚が、消費的な気分を示していることがわかるでしょうか。
「記念日」的な「豊かさ」が、ごく個人的な関係の中で自足していることが、いかにも消費的日常に思えます。
もちろん、このサラダは手作りなのでしょうが、仮にデパ地下で買ってきたサラダであっても、この歌の価値は動きません。
この歌が成功を収めた理由は、文学性とは関係なく、「サラダの味」という美食的になりえない、健康的かつストイックな「消費的ライフスタイル(差異化=オシャレな日常)」にあると思います。
軽いジャズを流しつつ、オシャレなキッチンで透明なサラダボウルに青々とした新鮮な野菜を盛り付けて、豆から挽いたコーヒーの湯気を立たせながら、カップルでそれを味わうYouTubeの「ライフスタイル」動画の世界に近いものです。


加藤治郎や穂村弘が「現代短歌のニューウェーブ」と呼ばれたのは、どうやら1990年代初頭のようなのですが、
彼らの登場も『サラダ記念日』や『ノルウェイの森』とほとんど同時期です。
加藤治郎の第一歌集『サニー・サイド・アップ』(1987年)は、現代歌人協会賞を『サラダ記念日』と分け合っています。
穂村弘の第一歌集『シンジケート』(1990年)はそれより3年遅れましたが、同様のポップ文学ムーブメントの中にあります。


実は2016年8月号の「ユリイカ」が、「あたらしい短歌、ここにあります」という特集を組んでいて、
加藤治郎が「ニューウェーブ」について説明した記事があります。
それによると、「ニューウェーブ」とは「口語文体をベースにして、記号、オノマトペなどの修辞を先鋭化した作品傾向である」とされています。
「先鋭化」を理由として、「ニューウェーブ短歌」には、塚本邦雄や岡井隆などの「前衛短歌の継承」があると主張するのですが、こういう「自分語り」を真に受けるわけにはいきません。
2018年6月のニューウェーブ30年を記念したシンポジウムで、加藤は言語の記号的な捉え方を、ワープロによって発見したと語っています。
穂村弘も「塚本邦雄が一生懸命机の上でやったことを、テレビをつければ直感的に分かる」と発言しているように、
その内実は前衛精神より、メディア・テクノロジーの変化に負うところが大きかったのではないでしょうか。


ボードリヤールは、消費社会の本質は「記号の経済」であって、そこで交換される商品が、社会的価値を持つ「記号」であることを解き明かしましたが、
消費社会に慣れ親しむことで、言語も商品と同じような記号として捉えられていきます。
精神﹅﹅として「ニューウェーブ」が依拠していたのは、このような記号の経済学であって、文学的な前衛精神とは思えません。
「ニューウェーブ」は、歌人の精神のあり方ではなく、消費社会に取り込まれて主体性を失った文学の現象として考察されるべきなのです。


しかし、歌人は短歌のポップ化を、大衆消費文化の問題として考えることを避けています。
80年〜90年代はバブル経済の影響下にあり、サブカル的な消費文化の本格的な隆盛の時期でしたので、その影響を重視しないのは現実否認でしかありません。
この時代から、文学はジャンルを問わず、大衆消費サブカル文化の片隅に位置するだけのものになっていきました。
わかりやすく言えば、文学は消費市場に居場所を奪われたのです。


「現代」というアメリカ依存

では、加藤治郎の最新歌集『海辺のローラーコースター』(2022年)を見ていきます。
まず、その表紙からして80年代だなあ、という印象を受けました。
アメリカの西海岸をイメージしたようなイラストは、当時のFMラジオ雑誌の表紙でよく見かけたものと似ていて、
洋楽の影響が濃い大瀧詠一や山下達郎などの、「シティポップ」のアルバムジャケットに描かれたイラストを彷彿とさせます。
書名の「海辺の」は、村上春樹の『海辺のカフカ』(2002年)から「いただくことにした」と加藤本人が書いていて、
アメリカからの影響が濃いポップ文学の「生きるレジェンド」の影響を隠そうともしません。
日本では「ジェットコースター」という和製英語の呼び名の方が一般的な絶叫マシンを、
ローラーコースター」という言い方にすることで、西洋的な「本場感」と「ノスタルジー」を強調しています。
この本の帯文には「弾け飛ぶ、現代短歌」の宣伝文句があるのですが、
「弾け飛ぶ」はローラーコースターからの連想でしょうが、この言葉がそのまま「ポップ」の意味と重なることをスルーしてはいけません。
つまり、ローラーコースターは、「ポップ」の隠喩なのです。


しかし、40年前のノスタルジーに支えられたものを「現代短歌」と呼ぶのは、どういうことなのでしょうか。
定型短詩において「現代」という語は、しばしば「伝統」と対比的に位置づけられるので、
日本的なものから解放された、アメリカ的な大量消費文化との親近性を意味します。
それをポップ文学やポップ短歌、ポップ思想、ポップ俳句などと呼んでしまうと、大衆消費文化やアメリカへの依存性が明らかになってしまうので、
現代文学や現代短歌、現代思想と呼び表すことにしているのだと思います。
その根底には、消費行為への依存とパラレルに、戦後日本の根深いアメリカ従属精神──アメリカが日本の面倒を見てくれる母親だと錯誤する精神──が刻まれています。


明治期の「脱亜入欧」には、国家の主体性を強化する目的がありましたが、
現在のアメリカ従属精神は、人々の能動的な主体性を薄めて(去勢して)いくかたちで機能しています。
ポップが広まったことで、日本人が西洋型の市民社会に近づいたかというと、むしろ逆方向に進んでいる感さえあります。
西洋人の持つオープンな開放性や余裕ある共同性をもたらすことはなく、
閉鎖的で傷つきやすい「ナイーブさ」の共有﹅﹅を求めるにとどまっているのです。
閉鎖的で傷つきやすい人たちは、市場を介したコミュニケーションに依存して金を落としてくれるために、日本人はそれを共同性の衰退だと認識してきませんでしたが、
大衆消費社会が完成した結果、自殺や「ひきこもり」が社会現象になったのは、その証明とは言えないでしょうか。


今や閉鎖的で傷つきやすい大和魂は、批判をそのまま攻撃とみなすような精神的な脆弱さと手を結び、批判そのものを社会から駆逐しようと躍起になっています。
言うならば、

  何しても「いいね」と君が言うのならその毎日はいつも記念日

みたいな自足と承認にあふれた「母性に守られた日常」を生きたいと本気で思っているようなのです。
(もちろん、上の歌にある「君」とはアメリカのことを意図しています)
誤解しないでほしいのですが、その「母性に守られた日常」を支えるのは、弱者に優しい社会ではありません。
「すでに持っている者」にとって優しい閉鎖的な社会であり、その既得権維持の価値観を現代日本では「保守」と呼んでいるのです。


さて、表紙だけでここまで語るのもどうかという声が聞こえるので、加藤治郎の歌にも触れていきましょう。
正直に言えば、僕は加藤の歌集を読んで、そこにある歌をどう楽しんでいいのかわかりませんでした。

 

  ボディソープぬりたくっているやわらかいやいばにゆびを滑らせながら
  ひとしきり除菌、ウェットティシューのひとひら引き抜くヒアルロン酸
  風と雲ふたりはとてもやわらかいゆうべの空はさくらんぼいろ
  わ、雪 ふたりは窓に近づいてそれすら夢のひとひらだった


読んで特に心が動くような歌はなく、ポップのエンタメ性も詩的技巧(「やわらかい刃」の性的隠喩や「ふーたりさくらんぼ」)もどこか陳腐です。
コロナ詠も批評性にも乏しく、「ひとひら」などの言葉もわりと無造作に使い回されています。
五七五七七の持つ「調べ」の魅力も、あまり意識できませんでした。
おそらく「短歌」である以上に、80年代のポップ文化への帰属を示す方が重要なのではないでしょうか。
そうなると、短歌としての必然性が見出しにくくなります。


では、実質を失ってもそれが「短歌」作品であることを示すには、どうすればいいのでしょうか。
短歌や七五調への自己言及や、同フレーズを反復することで、短歌としてのアイデンティティを示すという方法が選ばれているようです。


  円頓えんどう商店街の古本市にやってきてとんからり三十みそひと文字もじの本
  韻律の衣装を脱いで言葉ありとうめいな花束をかかえて
  五と七の花ふりしきるこの道を俺はゆくただひとり、未来へ
  韻律は龍のごとしもラムラムと遠のいてゆく言葉ひとひら
  五のグラス七のグラスに水満たし遊ぶも今日で終りなのです


これらの歌は、「私は歌人です」というアイデンティティのためにあるように感じます。
三首目の「未来」は加藤所属の結社名との掛詞、四首目は岡井隆の歌へのオマージュでしょう。
五と七が「花」だったり「グラス」だったりとイメージが揺らいでいることに、
単に五七と言えば「定型」のことだと通じるだろう、という内輪的な甘えを感じます。
こういう自己言及アリバイ的な作品は、短歌を作らない僕のような読者にとっては何の意味も持ちません。


同じ音を反復する目的で作られた歌も挙げておきましょう。


  キラ・キラ・キラではなくてキラ・キラキラなんです。きみの未来は
  雨脚に取り囲まれてぼこぼこにされたあめあめあやまちは花
  しろい耳しろい耳すらり少年すらり少年しろい耳しろい耳
  少女の目少女の目囁きあって少女の目少女の目
  俺たちのマジっすか今の叫びをマジっすか聞いてくれマジっすかバナナフィッシュよ
  吃音のキチキチと韻律は来てkっ危気機器機kiKikIkikiKIki


このような言葉の反復は、もはや詩が内包する韻というものではありません。
反復のための反復、ほとんど無意味な反復です。
無意味な反復というものは、「日常」を強く想起させます。
ローラーコースターは同じレールの上を、果てしなく反復移動するものですが、
一周の「今の叫び=絶叫」の後、必ず日常へと帰っていくものです。
ポップ短歌というものも、日常の中に一瞬の「今の叫び=消費的絶叫」という小さな﹅﹅﹅差異を導入する程度のものなのかもしれません。


これらの反復が、少年少女と関連づけられていることにも注意が必要です。
ポップというものが「永遠の若さ」を要請することについては、前に触れました。
つまり、ポップの反復には、成長というものがありません。
(バブル以後の日本は賃金が上がらず、経済成長はありませんでした)
薬物で若さに閉じ込められた名探偵コナンのように、「永遠の若さ」は無意味な反復を呼び、やがては殺人事件までも機械的な反復へと落ち込んでいきます。
「吃音の〜」の歌などは、韻律と言ってはいるものの、それがキーボードの機械的な反復連打で構成されたイメージであることは明らかです。


ポップが依拠する「永遠の日常」が、機械的な反復によって成立するのならば、
その行き着く先は人工知能(AI)になることでしょう。
最近テレビでは、対話型人工知能ChatGPTの話題が(国策として)やたら扱われているのですが、
そのような話題になると、必ずと言っていいほど人間とAIの優劣が問題にされます。
情報処理では明らかにAIと勝負できないので、どこか人間が勝てる場所を探さないと不安だということなのでしょうが、
リアルタイムのアップデートを繰り返すAIには、死へと近づいていく「時間」が実感できない、とハイデガーなら指摘するでしょう。
ポップ文学が登場したのは、近代文学から「老い」が追放された時であったことは前述しましたが、
反復とループで成立するポップ文学で「老い」を表現することには、機械学習で成立したAIが「老い」を語るような嘘っぽさがついて回るはずです。


しかし、『海辺のローラーコースター』には、ポップ文学のスタイルを崩さないままに作者自身の「老い」が詠まれています。
スタイルと噛み合わないテーマを詠んで、嘘っぽさを回避することができるものなのでしょうか。
それとも、ポップはあくまで虚構フィクションなので、嘘っぽくて当たり前ということなのでしょうか。


「受け入れやすさ」に奉仕するポップ文学

『海辺のローラーコースター』には、加藤が59〜62歳の時の歌が収められているので、「老い」を意識した歌がいくつも見つけられます。
60歳前後ならば、まだまだ本格的に老いを感じる年齢ではないので、
老いの入口に立った程度の感慨でしかないと思うのですが、それはこんなふうに表現されています。


  ありがとう退職の俺はあしたもとんちんかんさ職場にきます
  認印ななめにずれて(加藤)は哀し銀色シルバーの俺
  柿の葉の色づくころはみんなだれかの記憶になって消えてゆく
  いつかきっと祈られる日がくるだろう夜霧のようなささやきのなか
  カーテンにまろやかになる西の陽は俺に届いた死の書を照らす


大きく具体的な生活感を伴う歌と、雰囲気だけで漠然とした歌とに分けられます。
一首目、「退職」したけど明日もつい職場に来てしまう、というのは、「老い」よりは反復する「日常」の呪縛の強さを示しているのかもしれません。
「とんちんかん」の音で反復を刻むあたりは、芸が細かいと言えます。
二首目、自分のアイデンティティを表すハンコがズレているところに、模範的な大人になれずに歳を取ったという自嘲があるのでしょう。
「(加藤)」は印鑑の視覚的な表現に加えて、自分の存在が補足的なものでしかないことの哀しみも示しています。
この二首は具体的体験が描かれているため、自分の感覚と自分の実年齢とのギャップがうまく表現できています。
「老い」を実感できないことを表現した歌であれば、ポップなスタイルがユーモラスにはたらくこともあるようです。
しかし、これは実質的にはネタに近いものであって、文学として「老い」と向き合ったことにはなりません。


三首目、「柿の葉の色づく」秋は衰退の始まる季節ですが、「みんな」「だれか」が漠然としていて、ありきたりの一般論でまとめられています。
四首目、「いつかきっと」「祈られる」のは冥福なのでしょうが、これも他人事のような印象しか残しません。
五首目、「西陽」と「死の書」の組み合わせから、自らの死の宣告を詠んだ歌だと感じさせます。
しかし、「カーテンにまろやかになる」という表現から太陽の温かみが取り出され、死の恐怖が妙に去勢されています。
こういう抽象的で漠然とした歌で、「老い」や「死」を扱うのは、真剣味に欠けていて少し軽々しい感じがします。
いかにもポップさによって、自分自身の重荷からうまく逃げ出したような印象です。


このように鑑賞してみると、「老い」を詠んではいますが、表現に実質が備わっているわけではありません。
それは「老い」を描いたというより、広く「日常詠」に分類すべき歌のように思います。
この歌集ではコロナ禍の「(差異化した)日常」をモチーフにした歌も多く収められていますが、
これも反復する「ポップな日常」の中で消費されるものでしかなく、軽やかに流れ去っていくものでした。
加藤の歌には、どうにも言わなくてはいけない、という切実な内容が見当たらないのです。
その淡さ薄さがポップだと言えばそうなのですが、それを商業的作品として成立させるなら、「話題性」と「受け入れやすさ」が必要です。
ポップとは、言ってしまえば「不特定多数に欲望されるもの」のことなので、
内容の深さより「話題性」と「受け入れやすさ」に力を与えます。


読む快適さを重視したポップ文学で、人生の重荷を表現するのは無理な注文です。
具体的で「薄味でユーモラス」なものか、抽象的で「どこか他人事」にしかならないのは、引用した歌で見たとおりです。
「老い」が「話題性」をもたらすネタのレベルにとどまっていれば、ポップでも扱うことができるわけですが、
それ以上の表現をしたければ、ポップを放棄せざるをえなくなるはずです。
ポップでありたければ、あくまで重荷となるものは、薄く淡くしか扱ってはいけないのです。
「ニューウェーブ」が生きた言葉より、記号的で無機質な表現を好んだのも、
読者が「受け入れやすい」ように、言葉を淡く表層的にするための手段だったと解釈するべきでしょう。


短歌の「ニューウェーブ」について考察すると、「ライトヴァース」との関連が言われることがあります。
「ライトヴァース」と言うとかっこいい響きですが、要は文学的な難解さや重厚さよりも、読む快適さやエンタメ性へとシフトした詩のスタイルです。
明確な定義はないのですが、消費社会との関係を無視する人はいないと思います。
つまりは文学のポップ化運動のことです。
当然のことながら、詩の快適さと娯楽性の重視は、作家個人の内面的必然ではなく、
詩が大量消費の商品となるための社会的要請だと考えなくてはいけません。
だからこそ、特定の人に担われるのではなく、同時代の詩人を集団的に捉えた現象でしかないのです。
(ちなみにポップな日常では、詩や思想の「受け入れやすさ」をアピールする「入門書」が、定期的に生み出される反復ループに陥ります)


文学のポップ化は、文学的必然でも文学的要請でもありません。
グローバル経済体制からの、社会的要請でしかないのです。
端的に言えば、ポップ化したものは「文学」というにはあまりに弱すぎます。
それは「文学」になりたい﹅﹅﹅﹅人たちの商売であり、自己のメディア的(=商業的)流通であって、
作品は作者を売り込むための手段でしかなく、社会体制に受け入れられることを主な関心とするものです。
これは資本による文学領域への経済的汚染・環境破壊と言えるものです。
もし「文学」の内実を残したいならば、資本に汚染されない強い精神を見つけ出さなくてはいけません。
「現代」に問われているのは、「文学」が資本の支配する消費社会にいかに抵抗できるか、ということなのです。


現代短歌を特集した「ユリイカ」2016年8月号には、加藤や穂村の師であった岡井隆のインタビューも掲載されているのですが、
そこで岡井はアメリカや西欧の影響で、短歌の古典的ルールが破られてきたと言っています。
つまり、伝統破壊とは西洋化によって引き起こされたということです。
岡井の発言は、文学のポップ化をアメリカ大衆文化の影響とする僕の主張と、同じ歴史認識にあると言えます。
(そもそもアメリカとは非歴史的ポストモダンな国なので、伝統文化と相性がいいわけがないのです)
伝統文化にポップでサブカル的な要素を取り入れることは、創作する当事者にとっては「あたらしい」ことをやっている満足があることでしょう。
しかし、その結果どのような世界になるかというと、馴染みのあるものが全て馴染みのないものによって構成された「商品世界」になるわけです。
たとえば、今僕が執筆している書斎のMacBookはアメリカ、外部モニターは韓国、スピーカーはアメリカ、空気清浄機もアメリカのメーカーです。
時計はかろうじてSEIKOですが、電化製品のほとんどが外国メーカーに占拠されています。
もちろん、電化製品など外国製であっても構わないのですが、
日常で身の回りにあるものが、海の向こうという「手の届かない場所」に管理されている、ということが重要です。
身近なものが「手の届かない場所」に支配されると、馴染みのないものに支配される日常になるわけですから、
どうしても日常的に自己疎外感を深めずにはいられません。
スターバックスでおしゃれに一人のカフェ時間を楽しんでいても、やっぱりここは本場ではない、という疎外の感覚がつきまとうのと同じです。


ニューウェーブ歌人たちはバブル時代に人格形成を果たしたので、周囲の家電製品はほとんど日本製だったはずだと思います。
母なるものに守られて育った世代と言うこともできます。
そのため、本質的な疎外感に脅かされることはなく、アメリカ的な大衆文化に関しても葛藤のない「子供じみた憧れ」を抱くだけでいられたのです。
しかし、戦前生まれの岡井隆など前衛短歌の世代は、そうではありませんでした。
アメリカの帝国主義に対し、左翼的な抵抗運動もありましたし、ベトナム戦争反対の声も社会に響き渡っていました。
敗戦の傷跡も残っていたので、アメリカの支配に対して、葛藤なく受け入れるというわけにはいかなかったのです。
しかし、戦後生まれの村上春樹たちが牽引するポップ文学には、アメリカの世界支配に対する葛藤がありません。
完全にアメリカに去勢された人たちの表現なのです。



  海辺の朽ちたローラーコースター遠く剝き出しの自由の女神が見える


この歌では、老いてなお衰えないアメリカへの憧憬が(性的なモチーフで)詠まれている、と感じます。
朽ちるまで反復されたポップは、死して自由の女神に「救済」されるのでしょうか。


ポップ文学にはアメリカや西欧に対する「従属精神」が刻まれています。
実際に、ポップな態度には、支配権力に対する闘争心が徹底的に欠けています。
従属精神が生きているようなものなので、そもそも抵抗の基盤となる「主体」というほどのものが成立しません。
従属精神にあるのは、支配者に受け入れてもらうための自己宣伝だけです。
演出され宣伝された「受け入れられる」ための自己を、「主体」だと勘違いしているのです。


そこで重要なのは、他人に「受け入れられること」であって、「自分であること」ではありません。
グローバル化して無国籍となった電化製品のように、自分をポップ化することで、グローバルに受け入れられる「商品」となることが重要なのです。
そう、すべては資本の意のままです。


それでも、快適で楽しければいいのではないか。
外国製品であっても快適に使えれば問題ないのだから、従属的に生きていても、快適で楽しければいいのではないか、という意見はあるかもしれません。
それはその通りで、だからこそ商業的なエンタメ文化ならば、それでいいと思います。
しかし、人生が快適で楽しいことばかり、などということがあるでしょうか。
どんな金持ちになっても、そうそう実現できるものではありません。
人生が快適で楽しいばかりではないから、文学が存在してきたのです。


僕は現代で定型短詩というスタイルが必要とされている理由は、まさに疎外の問題にあると思っています。
身近にあるものが「手の届かない場所」に属するものばかりになり、自分がどうにも社会や周囲に疎外されている気分に押し潰されそうな時、
母国語の韻律に支えられた定型短詩というものが、「ここにある母なるもの」として発見される場面が、ありありと想像できるからです。
その意味では、若さへの追憶に囚われているバブル世代の人たちより、もっと若い世代の方が切実な思いで定型短詩と向き合っていると思います。


ただ、切実に定型短詩を必要としているから、いい作品を作るかといえば、そうでもないという現実があります。
今僕が話した疎外の文脈というのは、社会的・政治的に解決すべきものです。
だから、自己疎外に苦しんでいるなら、社会や政治に一撃を与えるような詩を書いていくべきなのですが、
どうにも定型短詩は個人の感慨のレベルにとどまってしまうという点で、疎外の現実と闘う武器としては物足りないのです。
もちろん、そのような気概で定型短詩と関わっている人もいるのですが、
大多数は疎外のもとになる社会から逃避し、傷ついた自分を「癒す」ことを求める程度のものに終わっています。
結果として、若い人の定型短詩は社会から孤立して、ひどく「狭い」ものになっているように見えます。


岡井隆は前述のインタビューで、千種創一などの若い歌人が「私性を隠している」と語っていました。
僕はこの記事を書くにあたって、たまたま買ってあった千種創一と藪内亮輔の歌集に目を通してみたので、岡井の指摘はよくわかる気がしました。


私は短歌の場合には私性というのが非常に大事だとずーっと思ってきて、今もそういうふうに思っているんですね。なにも自分の職業を正直に書くとか、自分の日常生活を書くことだけが私性だなんて思っていませんが、自分にとって大事なことなんですから。私性をここまで消してしまうというのは、どういうことなのか。
(「ユリイカ」2016年8月号岡井隆インタビュー)

インタビューでは、この話題はここで終わってしまいます。
この「私性」の問題は、岡井隆個人のこだわりではもちろんなく、定型短詩という「一人称の文芸」にとって本質的とも言えるものです。
戦後日本はアメリカに精神的従属をすることによって、伝統的なものや土着性の「暗さ」から解放されたわけですが、
そうして実現した「ポップで淡い明るさ」は、身近なものから疎外された一人称の居場所でしかありませんでした。
なぜ戦後の日本人はナイーブで傷つきやすいのか、その理由は一人称が依拠する自立性を「手の届かない場所」に預けてしまい、自分自身が「主権」を持って独り立ちしていないからです。
ただ漠然とした他者、周囲の人たちの承認によって、従属的﹅﹅﹅な自己﹅﹅﹅をかろうじて保っているにすぎないので、強くなれないのです。


この「他人任せの従属精神」(アメリカ任せの従属国)から、主体的で骨太な文学的な内実など生まれようがありません。
主体性なき一人称の文芸──その一首に言いたい内容はあるのかもしれませんが、それはハッキリ示さずに「背景」と化していて、小洒落た言い方で好印象だけを残して、快適に通り過ぎていった後に何も残らない、そういう「生活装飾品インテリアの文芸」──があるだけです。
「ニューウェーブ」がシティポップであれば、今の商業短歌は、オシャレなカフェで流れている耳馴染みの良いBGMのようで、リラックス気分を作る手助けになる程度のものに後退しています。
生活装飾品インテリア」のような文芸は、やはりYouTubeの「ライフスタイル」動画の世界に近似します。
そのようなムード作りをして、「傷つきやすい自己」が安心して自分でいられる場所を求めているのです。
(当然ながら、このような世界で求められるものは、承認だけであって批判や批評ではありません)


一人称の「距離感」

岡井隆の言う「私性」がどういうものか、僕には明確ではないのですが、
最近の短歌が「作中主体」という言葉で、「一人称=作者」という前提を崩すことに一生懸命なのは、門外漢の僕も薄々気づいていました。
短歌の世界ではどうやらそれを「一人称の拡大」という聞こえのいい言葉にしているようですが、
一人称が一個人の代理表象であるかぎり、「拡大」など起こるはずがありません。
それは端的に、自己相対化によって、一人称が現実と結びつくことを避けようとする努力に還元できます。
架空の一人称へと自己を仮託したいのであれば、本来は一定量の小説を書くのが妥当です。
(定型短詩あるあるなのですが、批評をするのも創作する当事者たちなので、誰も傷つくことのない、甘いだけで内実のない言説になりがちです)


実際は短歌の一人称は「拡大」しているのではなく、現実から身を引いているだけです。
たとえば「ニューウェーブ」の有名歌人である、穂村弘の最新歌集『水中翼船炎上中』(2018年)などは、
「読者へのガイド」として、各章ごとに「作中主体」の年齢を設定して、それを読者に提示しています。
この章は子供時代、続く章は思春期、この章はパラサイトシングル、この章は母の死という感じです。
それが「誰の」子供時代なのかは明らかにされていませんが、
僕は穂村が(虚構性に富んだ)自伝小説のような体裁で歌集を作ったという印象を持ちました。


たとえば、子供時代にあたる歌はこんな感じです。


  食堂車の窓いっぱいの富士山に驚くお父さん、お母さん、僕
  五組ではバナナはおやつに入らないことになったぞわんわんわんわ
  クリスマスの炬燵あかくておかあさんのちいさなちいさなちいさな鼾
  応答せよ、シラタキ、シラタキ応答せよ、お鍋の底のお箸ぐるぐる
  元日の朝におろした歯ブラシを刀の如く構えていたり
  エレベーターガール専用エレベーターガール専用エレベーターガール


「作中主体」に子供を架構することで、同フレーズの反復がしやすくなっているようです。
奇しくもこの無意味な反復は、加藤治郎にも見られたものです。
ポップ化によって五七五七七の韻律が崩された結果、単なる同フレーズの反復へと韻律が縮小しているように見えます。
無意味な反復が、痴呆の初期症状と子供の遊戯の区別を無にしてしまうところに、
ポップが依拠する「永遠の若さ」の逆説的性格を確認することができます。


穂村の短歌を読んで思うのは、小説スタイルを取らないために居心地が悪いことになっている、ということです。
何が言いたいかというと、小説であれば、追憶する作者の語りと登場人物である少年の内面描写はしっかり区別して記述できます。
しかし、短歌の一首で、その両者の明確な区別をするのは不可能です。
そのため、両者が無分別に「混在」しているような居心地悪さが現れてしまうのです。


上で挙げた歌であれば、三首目の「おかあさんのちいさなちいさなちいさな」と全てひらがな記述で子供っぽさを出していながら、
最後だけ「鼾」という、小学生が読めるとは思えない漢字を出したりする部分です。
五首目も同様で、歯ブラシを刀のように構える子供はいると思いますが、それを「刀の如く」と表現するのは追憶する作者自身の視点でしょう。
このような「混在」は、「作中主体」である子供と、それを詠む作者自身との「距離感」を出すために、穂村が意図的にやっているものだと思います。
なぜなら、穂村はこの「距離感」に強くこだわっていると感じるからです。
これは追憶の設定では「技あり」の巧みさを印象づけますが、現代やそれに近い設定においては別様に機能することになります。


  コンビーフはなんのどういう肉なのか知ろうとすれば濡れた熱風
  もうそろそろ目覚まし時計が鳴りそうな空気のなかで飲んでいる水
  あんなにもティッシュ配りがいたことが信じられない夕闇の駅
  水筒の蓋の磁石をみつめいる我等の頬にあおぞらの影


これらの歌で、コンビーフの原料を知ろうとしたり、水を飲んだり、信じられないという感慨を持ったり、磁石をみつめているのは、すべて作者自身もしくは作中の「私」だと思います。
しかし、これらの歌はすべて体言止めになっていて、最後に差し出された名詞の中で主体の能動性が溶解するようになっています。
わかりやすい言い方をすれば、一首が終わる時にそれぞれ「熱風」「水」「駅」「影」へとカメラが切り替わってフェードアウトしていく感じで、作中の主体の存在感が薄められているのです。
こうして穂村は自分自身から「距離」をとっていくわけですが、
このようなアイロニカルで傍観的な視点が、「母の死」という重いテーマの歌でも一貫して用いられているのです。


  月光がお菓子を照らすおかあさんつめたいけれどまだやわらかい
  箸立てたごはんを抱いた叔父さんがエレベーターにうつむいている
  髪の毛をととのえながら歩きだす朱肉のような地面の上を
  母のいない桜の季節父のために買う簡単な携帯電話


一首目は傍観的な印象はありませんが、むしろ子供時代の追憶歌と区別がつかない感じで、意図的な細工が「距離感」を生んでいます。
母という対象の前で少年である自分が露呈するのは、ポップを考える上で非常に興味深いところです。
二首目は完全に傍観的な視点です。
歌の作者は叔父さんより深い悲しみの中にあるはずですが、それを叔父さんとの「距離感」で間接的に示すのです。
三首目、これは母の死というガイドがなければ、あまりよくわからない歌でした。
悲しみで乱れた髪の毛をオフィシャルに整えて、書類にハンコをつく用事でもあるのか、足取りの不確かさを朱肉の喩で表しているのだと思います。
四首目、「簡単な携帯電話」という商品の記号性によって、父が高齢者であることを示す方法が、いかにも消費社会的です。
注目すべきは、母の不在を埋め合わせるのに、メディア端末が利用されていることです。


肉親の死にまつわるベッタリとした感情から自分を引き剥がすために、定型に収めてみせるということはあるでしょう。
悲しみと距離をとるために、あえて傍観的になることに意味がないとは言いません。
たとえば古典的なところを挙げると、新古今和歌集「哀傷歌」に家族の死を詠んだものがあります。


  たれもみな花の都に散りはててひとりしぐるる秋の山里  藤原顕輔
  たまゆらの露も涙もとどまらずなき人恋ふる宿の秋風   藤原定家


体言止めで終わる歌を探してみました。
これらの歌では涙する作中主体はそのまま描かれていて、穂村の歌のように、体言止めに「カメラ切り替え」の役割を持たせているわけではありません。
つまり、穂村の歌に見られる作中主体を薄めていく手法は、感情をコントロールするためというよりも、
大人という責任主体を回避する、モラトリアム的な自己のありようを示しています。
当事者性に乏しい、薄められた主体は、現実という足場を離れて、どこに属するともなくメタ的に漂っているのです。


「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は﹅﹅今ど﹅﹅こに﹅﹅いる﹅﹅のだ﹅﹅? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ? 僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。
(村上春樹『ノルウェイの森』)

これはポップ文学のレジェンド、村上春樹の『ノルウェイの森』の最後の部分です。
主人公のワタナベは、自分がどこにいるのかわからずに困惑しています。
対象に依存して、一人前の主体になれないワタナベは、「どこでもない場所」というメタ位置を漂うしかありません。
ここでワタナベが電話というメディア端末を手にしていることに、ぜひ注目してほしいところです。
彼はモニターを通じて現場を見ている監視員のように、場を持たない「視線」でしかなくなっているのです。
穂村弘の傍観的視点も、これとそう遠くないものでしょう。
場所を持たないということは、自分自身の身体が忘却されているということです。
ポップ文学の視点は、遠くから(メディアを通して)現場を眺めるだけで、身体的な当事者性に欠けたものにしかならないのです。
当然ながら、身体性を忘却した存在に、「老い」が表現できるはずがありません。


穂村の歌では傍観的な視点と体言止めによって得られた「距離感」が、主体の位置をメタ化しているわけですが、
批評的に言えば、その「距離」とは、ワシントンと東京のメディア的距離に喩えることができます。
アメリカ大統領が日本の首相を傀儡アバターとして重宝するように、作者が「作中主体」を代理表象アバターとして間接支配しているような距離感です。
「一人称の文芸」がこういう手法を好むのは、日本を去勢するアメリカの支配的位置を模倣することによって、能動的な支配的気分(母なるもの)を疑似体験したいからです。
つまりは、母(父ではない!)による「能動性の去勢」という不都合な真実と、向き合うことができないのです。
穂村の「水中翼船」にしても、加藤の「ローラーコースター」にしても、少年性の希求が強く感じられる乗り物です。
60歳を超えてなお、ポップが要請する「永遠の若さ」に逃げ込みつづけていることが、「ニューウェーブ」の限界を雄弁に物語っています。


二人称の子宮内世界

最後に、せっかく読んだので千種創一と藪内亮輔についても少しだけ書きます。
千種創一は、岡井隆に「私性を隠している」と指摘された歌人の一人でした。
しかし、おそらく千種は、「私性」を隠したいのではなく、
「自分であること」より「他人に受け入れてもらう」ことの方を重視しているのです。
多くの人に「受け入れてもらう」ために、「主体を薄める」結果になっているのだと思います。
それをわかりやすく立証するのが、歌中における「二人称」の台頭です。
千種の『砂丘律』(2015年)では、「一人称」の主体である自分の存在が歌の上で淡く薄められているのに対し、
やたら「君」「あなた」という「二人称」の存在が重要なものとして雄弁に語られるようになっています。
恋愛の歌だと考えれば、「君」への言及が多くても不自然には見えないのですが、
ここに「君」に受け入れてもらうことが至上命題になっている「私」という主体の姿を見るべきなのは言うまでもありません。
(僕が前に「疑似恋愛的」と書いたのはこのことです)
まるで母親からの承認を得ることが精一杯で、自己確立ができていない幼児のように、
他者からの承認を求めすぎて、自立した「一人称」が成立できないでいるのです。


  どんな嘘も混ぜないように歩いた、君と初冬の果樹園までを
  明日もまた同じ数だけパンを買おう僕は老いずに君を愛そう
  君のシャツ干すとき君の肩幅と割れたグラスを 暮れていく朝
  紫陽花の こころにけもの道がありそこでいまだに君をみかける
  すすき梅雨、あなたが車列に降る雨をそう美しい名で呼んだこと
  Googleの地図に賀茂川くだってくやがてあなたの母校が見える


このような「二人称」の台頭は、考えてみれば俵万智の「サラダ記念日」の歌──「この味がいいね」と君が言ったから──にも刻印されているもので、
いかに「現代短歌」がその延長にあるかを示しています。
「二人称」が前面に出てくる傾向は、藪内亮輔の『海蛇と珊瑚』(2018年)にも見られました。


  君も私もクソムシでありそれでよく地平線まで星で星で星で
  にすぎてるあなたとわたし鍋の中にくだけてゆける牡蠣のはらわた
  わたしはあなたが嫌ひではなくあなたはわたしをきらひではなく静かに花は
  鵙の目があなたの指に棲んでゐてひかりのやうに私にさはる


正直に言えば、この歌集は読み進めて60ページで休憩に入ったのですが、
そこまででも、これだけ「二人称」とセットの形で「一人称」が登場する歌がありました。
これだけ見ても、いかに「一人称」が「二人称」に依存するかたちで成立しているかがわかるのではないでしょうか。
その「二人称」も自然のような大きなものを含意しているのではなく、私の分身=鏡に映った私=「鏡像段階」における母親のようなものでしかありません。
そのため、オープンな精神が感じられるわけではなく、君と僕しか存在しない「セカイ系」のような閉鎖性に貫かれています。


「セカイ系」とは、君と僕の恋愛関係と世界の危機が直接結び付けられた物語構造のことで、
主体にとっての「対象」が極限まで狭くなって、世界が「君」だけに収縮した状態と解釈できます。
その「君」とは母のことを意味しますので、要は「母性に守られた世界」──地上に生まれ落ちる前の子宮世界を再現しているわけです。
人間が高度メディア技術によって子宮へと回帰することを、僕はメディア的な「救済」と呼んでいます。
千種の『砂丘律』は冒頭の歌から、自分の短歌が自らの子宮世界の構築であることをメタ・メッセージとして宣言しています。


  瓦斯灯を流砂のほとりに植えていき、そうだね、そこを街と呼ぼうか


流れ去る砂のほかに何もない場所に、人工物である「瓦斯灯」を植物のように配置した「箱庭」──その流れと光だけの空間を、千種はアイロニカルに「街」と呼ぶわけです。
とどまるものを持たない極小の箱庭は、ガスとなって(川端康成はガス自殺でした)漂う自分の精神(Geist)の居場所です。
心を照らす「瓦斯灯」とは、まさに皮膜化した「室内装飾インテリア」=スマホにあたるはずです。
穂村がメタ化した主体の「視線」は、光を発する気体と化して、パケットのような微小な砂粒と共に流れ去っていきます。
このデジタル空間と化した母(定型)の他に何も存在しないことこそが、子宮回帰という「メディア的救済」を導くのでしょう。
その次には、以下の二首が続きます。 


  だれひとり悲しませずに林檎ジャムをつくりたいので理論をください
  君はあくまで塔として空港が草原になるまでを見ている


一首目、誰一人傷つくことのない母性を作る﹅﹅ために、「原罪」の原因となった林檎(実際はイチジク?)をジャムへとズラす﹅﹅﹅ことを求めるのですが、
それを「理論」によって技術的に行おうというわけです。
そのジャムとなったアップルは、人間を子宮へと連れ戻してくれるコンピューター(AI)のことではないでしょうか。
ちなみに、「〜ください」という懇願系の短歌もわりと見るのですが、これも二人称への依存と能動性の喪失を示す事象です。
二首目、二人称の「君」には、文明を「振り出しに戻す」力があるかのようです。
こうして母の子宮へと回帰することを期待しているのでしょうが、
傍観的に「見守る」だけで能動的な力を描かないところに、根深いメディア依存を感じます。


「現代短歌」において一人称の主体は、身体性を失って淡く薄められた気体となり、「箱庭」の中をサーキュレーターで循環するだけになりました。
もちろん、この自己像も加工アプリによって美化されているため、真実の姿と向き合わずにすむようになっています。
「箱庭」がメディア端末の隠喩であるなら、そこを漂う気体は電波の隠喩でしょう。
今や文学の一人称は、商業空間と化した「箱庭」であるデジタル・メディアの中を行き交う「電波」との一体化を望んでいます。
そこで刻まれるリズムは、当然ながら自然のリズムではなく、人間の息吹のリズムでもなく、
電波信号が母なる「セカイ」を構成する電子的な波動──機械的な反復──でしかありません。
「現代短歌」は、ローラーコースターのような型破りな転調と、人間を超えたフレーズ反復を実現した「ボーカロイド」のような歌に、ちいさなちいさなちいさな抒情が宿ることを夢見ているのです。


千種創一の素顔についてはよく知らないのですが、本にある経歴から推測するに、東京外語大あたりでアラビア語を学んだ人のようです。
実際、「砂丘律」とは砂漠のリズムという意味でしょうし、砂漠やアラブについて詠んだ歌も多く見つけられます。
砂漠といえば、言うまでもなく一神教が依拠する土地です。
そこにはアメリカ依存丸出しだったバブル世代より、少しひねった一神教との関係があるわけですが、
『砂丘律』に真にグローバルな感性が見つけられるかと言えば、いかにも日本的で淡い自己しかなく、他者依存性ばかりが目につきました。
キリスト教地域ではなく、アラブ地域の一神教、というアイロニー(距離感)が新しいということでしょうか。
とにかく、そこにある短歌は電波のように通り過ぎていくだけで、何も残していきませんでした。
まあ、作者の手元には金銭と名声が残りますし、「傷つきやすい自己」の社会的受容を確認できただけでも、成果はあることでしょう。
ポップ文学は、こうしてアメリカ(やそれが依拠する一神教)への従属精神を育み続け、その哀しさを慰撫し続ける使命を果たしていくのです。


しかし、僕はもうこういう欺瞞には飽きました。
大量消費を求める商業文学には、もう文学的な内実はありません。
ただ負け犬である自分たちの心を癒すだけのものでしかなくなりました。
多数の人がそれに満足しているという事実は否定できませんが、「真実」は多数派の自己慰安によって語られるべきものではありません。
たった一人の人間しか主張しなくても、「真実」はその言葉に強い力を与えてくれるのです。
そして、それこそが真に文学的な力であると僕は信じています。


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軒端さんへの返答3

軒端さん、ご返信ありがとうございます。

音楽と高橋源一郎についてのご意見を拝読しました。
述べられていることには納得と同意しかなく、爽快でした。

残る「ポストモダン文学」についてですが、「ポストモダン文学」というものがどういうものか、定義が難しいですね。
軒端さんは「リアリティのない設定とプロット矛盾のある言語実験小説」と書いてくれましたが、
なるほど、そのような定義をすればいいのか、と膝を打ちました。

ただ、僕はポストモダンを「精神」の問題として扱っているので、
できあがった作品の特徴より、そのような作品が依拠する「精神」のありようを批判対象にしています。
たとえば、軒端さんの言う「プロットの無視、矛盾」については、
僕の言葉では、「類似作品が蓄積しビックデータ化して、設定や伏線から同ジャンルを読み慣れた読者に次の展開が予想されやすくなったために、
それを裏切る展開をすることで『目新しさ』や『面白さ』を生み出す手口」となります。
ポストモダン作品は、ジャンル分けが明確化し、同ジャンルの類似性が蓄積されて煮詰まった状態を前提として、
その類似性を「ズラす」「裏切る」「パロディ化する」ことに主眼が置かれているわけです。
つまり、「絶対的な安定性(可視性)」を基盤として、安全領域で演出されたスリルを味わうものです。
だから、ポストモダン作品とは、簡単に言えばディズニーランドなどのアトラクションのようなものでしかありません。

このような、どこから見ても消費文化でしかないものが、「文学」であるわけがないのです。
僕はプロットの構築以上に、書き手の人生経験・社会経験・人間理解の乏しさに問題があると思っています。
「前衛的な作風(笑)」という軒端さんの表現は的を射ていて、すべてがプラットフォームに安住した「なんちゃって文学」でしかないのです。
真のポストモダンがあるならば、文学システムを批判する文学、映画技術を批判する映画、西洋哲学を批判する哲学など、ディズニーランドを破壊するものであるべきでしょう。

しかし、既存システムに依拠している時点で、ある種の思考停止の中で創作することになります。
最近の本屋には書棚を貸し出して、そのスペースを借りた人が本を並べて売るシステム(一棚書店)があるようですが、
ポストモダン作家はそのレベルで「書店やっています」と自称する人のようなものです。
差異が重要だと言いながら、その差異は書棚に並べた本の「趣味=売り手の自意識」でしかありません。
営業にプロ意識を必要としない代わりに、プラットフォームを貸し出している「資本家」を楽に富ませているのです。
ポストモダン作品は、そういう書き手の自意識の中だけで成立しているために、それ以上の経験や理解力を持つ人には読んでもらえません。
結果、自ずと低レベルの読者だけがそれを喜びます。
ただ、必然的に高レベルの読者より低レベルの読者の方が絶対数が多くなるので、
売上だけを考えるのなら、それで問題はないということになっているのです。
こんな国が落ちぶれるのは当然です。

ちなみに、現在存命の日本の文学作家で「大御所」と言えるレベルの人は皆無です。
アマチュアレベルの人が、ただ業界に支えられて「大御所顔」をしているだけのことでしかありません。
だから、その程度の小説しか書けないのは仕方がないことなのです。
彼らにも、彼らの読者たちにも、何も期待しない方がいいと思いますよ。

日本のポストモダンは「日常の絶対的な安定性」に依拠したバブル経済の産物なので、
経済衰退で日常の安定性が危ぶまれるようになれば、自然とポストモダンは衰退します。
僕はかつて東京オリンピック以後に衰退すると予言しましたが、概ね予想通りに進んでいると思っています。
ですから、大事なのは、これからどのようなものを書いていくかだと思います。
次のステージに行くには、社会や人間に対する経験的理解(場合によっては苦難の経験)が必要になるのではないでしょうか。

返信2

南井さん、ご返信ありがとうございます。

>音楽について
ボカロ系音楽のビジネスモデルについては、まさにご指摘のとおりだと思います。
ボカロ系の電子音や、音域が広く早口なメロディーは、聞き手の一般大衆が口ずさむのはおろか、本家の歌手でさえ加工なしにうまく歌うことができないので、ライブパフォーマンスに適したものではありません。一方で、youtubeの動画のように、再生数だけで稼ごうとするのであれば、音楽というコンテンツは、100数時間の製作時間でわずか5分ほどしか注意を引き止められないので、10時間程度の制作時間で10分程度のコンテンツを作れる、ゲーム実況や自動音声の解説に比べて非常にコスパが悪いです。そのため、CDやグッズという形で、一つの楽曲を何バージョンにもパッケージ化することで、一曲あたりの利益率を上げようとしているのでしょう。こう考えると、定形短詩もポピュラーミュージックも、制作時間に比して消費するのにかかる時間が短いという点で共通している気がしました。インターネットによって簡単に受け手を拡大してしまうことは、自分の作品が採算にあわないほど安く短時間で消費され、結果的にジャンル自体を衰退させるものになるのかもしれません。

>高橋源一郎について
2000年に入ってからの高橋源一郎は、「日本文学盛衰史」が高く評価されたことを受けてか、日本近代文学とそのときどきの現代の風俗をミックスさせるという手法を、なんと3回も使い直ししました(「官能小説家」「動物記」「戦後文学編」)。これらはオリジナルの新作としてカウントできそうにないので、高橋源一郎の作家活動は、2011年の「恋する原発」をもって終わりを告げたと言って良さそうです。「恋する原発」は、「福島でAVを撮る」というコンセプトだけで、twitterで話題になりましたが、中身はただのAVの台本と制作スタッフの過去(太平洋戦争で家族が犠牲になったこと)の繰り返しで、不謹慎な題材でAVを撮ることへの制作スタッフの葛藤も描かれず、エログロ小説としても過去の作品にオトリ、ただただ被災地の方々に対して失礼なことをして、「アウトローな作家の俺」を演じただけといった印象でした。政府や東電などの「強い他者」を糾弾するためなら、眉をひそめるような不道徳な描写をしても許される部分はあるでしょうが、言葉の刃を福島の人々や原発そのものという「弱い他者」に向ける様は、単なる弱いものいじめだとしか言えません。
結局、ポストモダン文学は、近代文学(におけるプロットの無矛盾性や明快さ)や、国民国家の政府が強固なものとして残っていた時代には、それをあえて破壊するものとしてもてはやされただけで、それらが過去のものになってからは、近代文学や(文学研究に税金を投じている)政府が築きあげた権威にあぐらをかいて自らの存在を保ち、自己顕示の手段に文学を使う者たちの溜り場になるだけなのかもしれないと思いました。

>ポストモダン文学の害について
最後に、ポストモダン文学について、批評する側ではなく、作品を作る側からの意見を述べさせていただきます。プロットを無視した小説を有名作家が書くこと、そういった作風が、純文学だけでなく、SFやミステリなどの他ジャンルにも波及することは、作家を目指す者にとっても有害だということです。
お恥ずかしながら、私は大学生のときに、ポストモダン文学っぽい長編小説(リアリティのない設定とプロット矛盾のある言語実験小説)を作り、「すばる新人賞」に投稿したことがあります。もともと星新一のような社会風刺の入ったSFが好きで、SF作家に憧れていたのですが、大学入学後に、SF同好会を通して、後期の筒井康隆や円城塔、伊藤計劃のような言語実験がテーマのSFを知り、自分でも書いてみることにしました。当時は、SF同好会の間で、前衛的な作品を作るのが流行っていて、それこそ高橋源一郎を真似したような、太字や下線を多用した小説、マウスポインタで書いた絵の入った小説、突然少女がチーズケーキになって溶けるリアリティのない小説が毎号載っていました。
今にして思えば、私も他のサークルのメンバーも、自分の作風の特別さを顕示することだけに主眼を置いていた気がしました。起承転結や人物像のしっかりした王道の小説は、書いてみると非常に難しいものです。自分の思いついた珍奇なアイデアを全部乗せして、創作の技術を磨く努力を後回しにする手段として、「前衛的な作風(笑)」は非常に魅力的でした。20代前半の貴重な時間を、王道の小説を読みこみ、稚拙で陳腐なアイデアでも、まとまった小説にする練習に費やせばよかったと後悔しています。
人生経験が少なく、まだプロにもなっていない大学生が痛々しい作品を披露するのは、まだ黒歴史として済みますが、その黒歴史的な作品を、大御所の作家がそのネームバリューをもって堂々と披露しているのは、どうなのだろうかとずっと思っています。

また長文になってしまい失礼しました。
特に、後半の文学に関する部分について、お時間のあるときにでもご返信をいただければ嬉しいです。

軒端さんへの返答2

軒端さん、ご返信とご追伸ありがとうございます。

ヨルシカについて、詳しくご説明をいただき、多少は事情がわかりました。
簡単に私見を述べますが、ポップミュージックはサブスク配信等の拡大で、CD売上の商売モデルはほとんど崩壊しています。
そのため、最大の収入源はライブイベントになるはずですが、ボカロ系音楽はライブの価値を高めにくい上に、ヨルシカは顔を隠して活動をしているので、
ライブ動員においてハンデがあるのではないかと推測します。
そのため、「作品」に付加価値をつけて、売上を稼ぐ商売モデルが必要なのではないでしょうか。

そこでいまだ「書籍」形態という物質的価値が残っている「文学」ジャンルとの連携が有効だったのだと思います。
(YOASOBIにも、人気作家とコラボをする謎の企画があったように思います)
「文学」を芸術性の「コード」として、「作品」の物質面に付加価値をつけていくのが狙いなのでしょう。
まあ、イベント参加券をつけてCDを売る手法よりは、よっぽど努力が見られる気はしますけれど。

身もふたもない言い方をしますが、僕はポップミュージック商売はもう天井を極めたと思っています。
メディアによって受け手をどこまでも拡大したのに、最終的には直接音が届く範囲の相手で金儲けをするしかなくなったのですから。
メディアによる受け手の拡大を「進歩」だと思っているのは、田舎文芸である定型短詩くらいでしょう。
むしろ、インターネットによって、文化は原点回帰を余儀なくされていくのです。

高橋源一郎については、軒端さんの分析の通りです。
文学業界との癒着的関係抜きには語れない作家です。
彼の女性編集者に対するスタンスは、僕には到底受け入れがたいものですが、
それでも作品が良ければ、文学なので許される部分はあると思います。
ただ、作品は読む価値すら感じないものしかありません。
作品に力がない人が業界で活躍するためには、「人気」「知名度」を頼りにするしかありません。
そうなると、出版マスコミとの関係が重要ですから、「業界の空気」に敏感に反応して、己を売り込むことに執心するようになります。

彼は最近小説を書いているのでしょうか?
ポストモダンが明らかに下火になってきたので、「空気」を読んで別の仕事に逃げているのではないでしょうか。
彼が千葉雅也のアマチュアリズム溢れる小説を評価するのは、ポモ勢力である自分の利益になるので当然です。
保坂和志もポモ作家でしかないので、同様の動機を持っています。
新潮社がゴリ押ししたがっている作家を持ち上げれば、新潮社の覚えもめでたくなるので、
千葉を評価することに葛藤すらなかったと思いますよ。

軒端さんは20代とのことですが、
消費文化に対して問題意識を持つ若い方がいるのには励まされます。
また、あまり構えることなく、気になったことでもコメントしてみてください。

追伸(千葉について)

追伸失礼します。
ついこの間知ったのですが、千葉雅也に野間文芸新人賞を上げた審査員のうちに、高橋源一郎も入っていたのですね。
審査員としての高橋源一郎は、女性新人作家を過度に推すことからその能力が疑問視されていましたが、人文書でネームバリューを上げただけの千葉(作品を読みましたが、正直下手でした。新書のような「大衆受けする面白さ」すらありませんでした)にもホイホイと賞をやるような人だったんですね……。

返信

南井さん

ご返信ありがとうございます。

>ヨルシカについて
文学を「共通の趣味コード」として動員しているというご指摘は、本当にその通りだと思います。
「ヨルシカ」というバンドの作曲者(n-buna)は、もともとニコニコ動画全盛期にボカロ曲を投稿し、ボカロ曲だけでアルバムを2つ売ったほどヒットしたので、(YOASOBIなど以上に)「ボカロ」という共通のコードで客を動員しています。私も、中高生時代にボカロ曲を聴いた流れでヨルシカを聴いているので、明らかに彼は、ボカロの力で成り上がった人です。ただそれでは、自分の作品が「サブカル」的すぎるという負い目があったのでしょうか。ボカロ曲当時から、『始発とカフカ』『白ゆき』などの、童話や海外文学をモチーフとした作品をいくつか作っていましたが、「ヨルシカ」として人間の曲を作るようになってから、その路線をさらに強化し、歌詞に直接短歌を引用したりするようになりました。
「淡い印象で流れていくだけで、何も残らないという音楽に感じました。」とコメントされていましたが、私もその通りの感想で、ヨナ抜き音階やギターフレーズによって聞き心地の良いポップスになっていて、作業用BGMにしたりカラオケで楽しく歌ったりする分には良い曲だと思いますが、「芸術作品」として鑑賞できるようには思いません。ポピュラー寄りのメロディなのだからそれで十分だと思うのですが、n-bunaさんは大衆的娯楽としての評価に加えて、「芸術性」までも認めてもらいたいんでしょうか……。
「ヨルシカ」は、現代アートの真似事もしています。例として、「創作」というミニアルバムでは、通常版に加え、「CDの入っていないCDケース」版も売っています(https://www.universal-music.co.jp/yorushika/products/upzz-1839/)。また、最新作の「幻燈」は、サブスクで何でも聞ける時代に対抗して、絵画に付属したQRコードを読み込まないと曲が聞けない画集アルバムの形式をとっています(https://www.amazon.co.jp/%E5%B9%BB%E7%87%88-%E7%94%BB%E9%9B%86%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0-%E3%83%A8%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AB/dp/B0BPWNZHKW)。インターネット音楽という、「いつでもだれでも好きなだけ聞ける」システムに乗っかって有名になったのに、曲へのアクセシビリティを下げてまでコンセプチュアルアートを作るのは矛盾しているように感じます(ボカロ時代には、アルバムの値段を2000円程度にしていたのに、こういった高価な限定版を大量に作るようになったのも、資本主義への依存を感じます)。
ヨルシカ(に限らず、YOASOBIなどのネット初アーティストの販売戦略)に関しては、現代アートや現代文学のパロディ的現象として、いろいろ論じられることがありそうですが、私はそこまでの知識がないので、南井さんのような学識のある方が、批判的な視点で論じている文章を読んでみたいと思っています。


>高橋源一郎について
この作家については、最近名前を知ったばかりで、夏休みで暇だったので、代表作をいくつか読んでみました。彼がポストモダンに依存するようになったのは、彼自身の怠慢というよりも、彼を売り出した文学業界の態度にあると思いました。
彼が新人賞に出した作品のうち、最終選考で酷評された『ジョンレノン対火星人』(原題『すばらしい日本の戦争』)は、ポルノ作家の主人公が、かつて収容されていた東京拘置所にいる、死体のイメージに取り憑かれた男を救おうとする話でした。この作品の奇抜な点は主人公の名前ぐらいで、男の正体や、東京拘置所に収容されていた主人公とその友人たちの過去といった謎を散りばめつつ物語が進んでいくので、傑作とは言えないものの、作者が体験した学生運動の話としてはよくまとまっている印象でした。この作品が新人賞で選ばれず、現代詩へのリスペクトと称して、余白まみれで奇想を散りばめた『さようなら、ギャングたち』でデビューし、あまつさえそれが「日本のポップ文学の最高峰」と称されたことが、高橋源一郎の作家人生の最大の失敗だったかもしれません。結果彼のその後の作品は、古典文学の登場人物と現代(当時)の風俗を悪魔合体させただけの、プロットのないポストモダンもどきの小説ばかりになってしまいました。『さようなら、ギャングたち』までは、まだ、名前に殺されるだのという奇想を、『うたかたの日々』のカクテルピアノのようなノリで楽しむ小説として読めるのですが、以降の『虹の彼方へ』『ゴーストバスターズ』『優雅で感傷的な日本野球』は、そうした変な設定の部分すら面白くなくなっていました。
『日本文学盛衰史』は、デビュー作と三島賞作品以来の秀作ということになっていますが、同じ自国の名作のパスティーシュである、ソローキンの『青い脂』(前半で、ドストエフスキーなどの文豪の文章をまねたでたらめな小説を自動生成するロボットと、彼らが書いた作品が出てくる)に、原作への理解・原作のコンセプトの破壊の両方において遠く及ばないように感じました。
日本の近代小説は、音楽理論や絵画理論、西洋の小説におけるナラトロジーと比べて、確立された理論をもっていないため、破壊すべき理論自体があいまいなところで、リアリティのない設定をプロットもなく書き連なれた「ポストモダン文学」を作っても、大した意義はないのかもしれないと思いました。にもかかわらず、設定の奇抜さを「商品」として売り出そうとする仕組みが日本の文学業界にはあるため、ボリス・ヴィアンが『うたかたの日々』で、同時代のスター哲学者サルトルの欺瞞を痛烈に風刺したように、リアリティを無視したフィクションを、資本主義批判にも使えないのかもしれません。

長文の返信になってしまい申し訳ありませんでした。お時間のある時に読んでいただけますと幸いです。

軒端さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
軒端さん、刺激的なコメントをありがとうございます。

戦前の近代文学モチーフが、ポップ文化に利用されていることについて、
軒端さんのご指摘によって、自分があまり問題として扱ってこなかったことに気づかされました。
改めて考えると、あまり触れたくないという気持ちが自分にあったような気がしています。

僕は高橋源一郎が生理的に受けつけられません。
正直、作品を読むことを避けています。
高橋は典型的なポストモダン依存作家で、
『日本文学盛衰史』はパロディを隠れ蓑にして、近代という歴史を「消費的な現在」へと吸収する作品ではないかと思っています。
20年以上前に中沢けいという作家と話す機会があったのですが、
そのとき僕は、高橋源一郎は構築的なものがない国で構築破壊をして、地面を陥没させている、と語ったこともありました。
こういう「ちゃんとした仕事をしない作家」を評価することで、日本近代文学は単なる「趣味的なコード」でしかなくなったのです。

ヨルシカをまともに聴いたのは初めてですが、曲の進行などにボカロ系音楽の影響が見えるので、YOASOBIに通じる印象ですね。
淡い印象で流れていくだけで、何も残らないという音楽に感じました。
そのような「弱さ」を補うために、尾崎放哉などの「文学ファッション」が必要なのではないでしょうか。
オタク世代は作品鑑賞よりも、共通の「趣味的コード」を共有することを重視しているので、
自分が依拠する「趣味的コード」の提示が必要なんだと思います。
(文学の場合、そのコードは適度に隠されている方が、「自分だけがわかっている」気分を高めるので効果的です)
ただのコードでしかないのですから、当然、深い鑑賞は邪魔なだけですし、批判なんて問題外です。
ある程度の人を動員できそうで、まだ発掘されていない「趣味的コード」を選んで、
それを提示することで「共通の世界観(笑)」を求める人を、集客に繋げていくことが、今の消費文化の成功法則ではないでしょうか。

軒端さんには、またコメントをしていただけると嬉しいです。

無題

いつも興味深い論考をありがとうございます。20代の大学生で、ポストモダン批判の記事からずっと読ませてもらっています。
ポップ文学(小説、短歌)については最近知ったばかりなので、論考の中であげられている作者を直接読んだことがなく、他の作家の例になってしまうのですが、すこし気になったことをコメントします。
本文中では、アメリカや消費社会への従属として、日常的なモチーフや口語、同語反復を多用する作者の例が多く述べられていました。そうした「新しいもの」を無批判に利用したものがある一方で、ポップ文学のもう一端には、戦前までの日本文学のモチーフを多用することで、「教養がつく」ものとして商業小説になっている作品群もあるように感じました。
例えば、高橋源一郎は、デビュー作では、現代詩的な手法やパロディの多用によって、近代小説の解体を目指していました。しかし、職業作家としての地位を獲得していくにつれて、明治の文豪と現代の風俗をミックスさせた『日本文学盛衰史』をはじめとした、自分が日本の近代小説のよき理解者であることを示すような小説が増え、さらには、読書記録のようなエッセイやラジオ、大学教授としての仕事など、古典の解説委員のような仕事でお金を稼ぐようになっていきました。他に最近の例だと、短歌や文学作品を、テーマへの深い理解がないままに多数引用している、ロック音楽グループの「ヨルシカ」などがあるでしょうか(書店で、古典文学の文庫本のカバーが、ヨルシカのアルバムのジャケットになっていたときには卒倒しそうになりました)。文学の様式や社会の体制に刃向かう素振りを売りにしながら、すでに定評を得ている戦前の日本文学に対して、あまりにも素直に、そして深い批判のないまま取り入れるさまは、南井さんが論考で取り上げた作者たちと共通しているように思います。他者の承認を得るためなら、新しさあふれる日用品だろうが、古式ゆかしき古典文学だろうがなんでも利用するのが今の物書きなのかもしれません。

参考までに、ヨルシカの歌詞のリンクを一曲分だけ貼っておきます。
https://www.uta-net.com/song/286906/
この曲に限らず、メロディーは好きなのですが、「入れ物がない……」「春の山の後ろから……」などわざわざ引用した意味がわからないんですよね……。

さんぐりあさん、城前佑樹(白樹烝)さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
さんぐりあさん、城前佑樹(白樹烝)さん、コメントをありがとうございます。

さんぐりあさん

現代俳句について突っ込んだ意見をいただきましたが、
さんぐりあさんの見解には、ほとんど異論はありません。
「少し長い文章を書かせれば馬脚をあらわ」すとのことですが、
正直に言うと、定型短詩の人たちが骨太な長編や長い論考を読み通せるのか、僕はそこに疑いを抱くことさえあります。

ただ、さんぐりあさんが指摘される今の俳人たちの「スタイルの違い」こそが、
「ライフスタイル」の表現にすぎなくなった80年代以降の「ポップ文化」の影響だと僕は言いたいのです。
(つまり、ポップをもっと広い意味でとらえていきたいのです)
「自前のものがない」というのは、広く言えば戦後日本の十字架のようなものですね。
西洋への依存精神によって、「自前のもの」を捨て去ることが「進歩」だと思い込んだ結果です。
僕の個人的な見通しですが、もはやこの国で内容のある「文学」たりえるには、
西洋によるインチキ西洋批判(=ポストモダン)ではなく、西洋と正面から「思想的に」対決する以外にないと思っています。


城前佑樹(白樹烝)さん

言葉のパズルに頼っているのは、現代俳句の若い人にも多く見られる傾向です。
言葉は借り物の社会的産物ですので、使う人の能力にかかわらず、ある程度自立的に「意味」を表現してくれます。
つまるところ、定型の中で言葉のパズルで遊ぶのは、非常にインスタントで楽にやれるのです。
自分で意味する必要はない、置かれた言葉が勝手に「意味」してくれるのだ、というのが、頭の悪い人たちが応援した「意味のない俳句」の正体です。
しかし、そんなインスタントなものに詩の力が宿るなら、誰もが詩人になれることでしょう。

城前さんが「文学を「世に問う」ことにどれほど意味があるのか」と「虚無」の中で「途方に暮れている」と書いてくれたことに、
僕個人は光を見るような思いを抱きました。
自分の書いたことを、会ったこともない人が、近い濃度で受け止めてくれるというのは想像もしなかったことです。

実は僕自身は文学を「世に問う」必要はない、と思っています。
このネット文筆活動も、もうやめようかと思うことが多々あります。
それほど「世」には価値がもうありません。
自分で考える力を持つ人の集まりであれば、その人たちにどう評価されるかで鍛えられる面はあると思いますが、
ただマスコミやある種の業界の評価を気にして、それに逆らう考えを自己検閲し、押し入れにしまい込むような人たちが大多数です。
だからマスコミや商業的な業界事情を見ていれば、何が評価されるかなど、すぐにわかります。
(要するに、文学は今や出版業界の官僚的支配の中にあるだけなのです)

世の中が欲しているのは、ただ主体性を失った自分たちを「肯定」してくれる「癒し」でしかありません。
忌憚なく言えば、これからの文学は、ますます中身がダメな人間がやるものになっていくだけなのです。
(それを隠すために、社会的肩書きや学歴が立派な人ばかりを出世させることでしょう)

僕にこういうことを書かせてくれる城前さんが好きなので、城前さんにはあまり絶望してほしくはありません。
ご理解をいただきたいのは、このような絶望的な認識を持っている僕が、案外に文学そのものに絶望をしていないということです。
インチキと本物が区別される時、つまり「最後の審判」の時は、必ず来ると僕は思っています。
少なくとも、そういう天の配剤を、僕は信じています。
実際に天の配剤を知ることができる人間は一人もいないのですから、それを本気で信じている人間が一人でも存在すれば、その可能性は無くなることがないのです。

虚無感の文学

私自身、俳句という定型短詩から未だ離れられずにいる者として今回の文章は耳に痛いものでした。

短歌のポップ化に関しては、
加藤・穂村のみならず当人たちがはっきり自覚的に(もっと言えば戦略的に)作り上げて来た潮流であることが問題と感じます。

昔読んだ記憶ですが、前衛短歌の雄、塚本邦雄の歌(「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も」)を初めて目にした穂村は、
「何て面白いコトバのパズルなんだ!」と思ったそうです。
その後、彼は塚本を読むにつれ、言葉遊びと感じられた句割れ・句跨りなどの技法や、歌における象徴主義的な描写は
「戦前戦中期および敗戦後日本という現実への抵抗」
であったと気付き、そのような背景なしで玩具のように言葉を使うしかない自分を省みて背筋が震えたと書いていたように覚えています。

ただ彼のようなニューウェーブの世代が、所与のものであった戦後日本(高度経済成長からのバブル)に抵抗することはなく、
文字通り「修辞」の面を小賢しく扱ったに過ぎませんでした。
前衛の精神性に気付きながら、技法のみを借用するというのはあり得ないと私は思うのですが、
おそらくは自分たちの社会的な利益を投げ打って文学をする覚悟を持てなかったのでしょう。
(その面で言えば、塚本や岡井隆含めた戦後前衛文化人も、おおかたは社会的な立場が保証された上での抵抗だったと言えるのかも知れませんが…)

前衛短歌(他の短詩型ジャンルで言えば新興俳句や戦後詩などもそうかもしれません)の社会や政治への抵抗精神も、一種のファッションとして相対化されてしまう今、
そして果ては多数決によって全てが流れていく今、
文学を「世に問う」ことにどれほどの意味があるのか、私は途方に暮れています。

南井さんが最後に取り上げた千種・藪内の子宮的な二人称の閉鎖性は、おそらくは私も感じているような「虚無感」から来ているのではないでしょうか。
この虚無の大元にはこの国の対米従属の問題もあるでしょうし、近代からの日本人の性もあるのでしょうが、
ただこの虚無感を認めないことには何も始まらないように思います。
(ただ、その虚無に耐え切れず命を絶った川端や三島のような人間を考えると、また途方に暮れる逡巡に戻ることも事実です)

スタイル至上主義

いつも興味深い論考ありがとうございます。ちなみにサラダ記念日はもともと唐揚げ記念日だったそうですね。
ところで私の見るところでは、問題は必ずしもポップだけではないと思っています。雨蛙さんのあげている関悦史、佐藤文香、櫂未知子、村上鞆彦、髙柳克弘、あるいは髙鸞石界隈にしろ、どれも表面的な違いしかないように見えます。
単にスタイルの違いだけなんですね。「ポップ」、「伝統」、「前衛」といったガワの選択の違いに過ぎなくて、どれも内容がない。
作品だけではわかりにくくても、少し長い文章を書かせれば馬脚をあらわします。どこからか持ってきたレトリックの切り貼りばかりで、自前の思索がない。
アメリカのポップカルチャーにはまだ、人種、階層、信仰などの問題が避けがたく浸透していますが、日本の場合はそういった外面だけのスタイルが現実逃避の手段になっているように思います。

雨蛙さん、往来市井人さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
雨蛙さん、往来市井人さん、コメントをいつもありがとうございます。

雨蛙さん

今回は気まぐれでポップ短歌について書く気になったのですが、
ポップ性については俳句よりも短歌を扱った方がわかりやすいものがありますね。
哀れなのは、90年代という日本経済に余力があった時期に登場したポップ化を、
俳句では2010年代に本格的にやり始めたということです。
文学でポップをやることが「あたらしい」という幻想は、経済低迷とともに維持できなくなります。
今や経済発展の幻想はITとAIしかないので、ポップ文学はそこにすがるしかありません。

時代の気分を表現したり、時代を先取りしたりすれば、文学なのだという思い込みには根強いものがあります。
それはマスメディアと消費社会の要請でしかありません。
当然ですが、社会に支配された文学に、社会体制と戦う力はありません。
しかし、本来文学にはもっと力があるのです。
雨蛙さんが言うように、あきらめてはいけないと僕も思います。

往来市井人さん

「なんでもない日おめでとう」という歌でしょうか。
「生まれなかった日」とは、自分たちの誕生日でない、つまり記念日ではない日も祝おう、という「毎日が記念日」の意味でしょうが、
それが生まれなかったことを祝うように聞こえるのは、皮肉です。

単純に考えて、なんでもない毎日が記念日なら、本当の記念日は存在しないことになります。
「なんでもない」ことが薄められると、記念日も薄められるのです。
こうして、熱力学のヒートデスのような、ならされた毎日が続くようになると、
個人レベルの消費的記念日ばかり(=記念日ゼロ)の平板さを打開する、公的な大イベント(オリンピック、ワールドカップなど)に、人々が動員されやすくなるのかもしれません。

なんでもない日万歳!

無学を承知で申し上げます。

私はこの「サラダ記念日」の表題作

「この味がいいね」と君が言ったから
七月六日はサラダ記念日

この句を初めて読んだのですが、浅慮ながら、
ディズニー映画「不思議の国のアリス」の劇中歌
「なんでもない日おめでとう」が、どうしても頭から離れず、困惑しました。

「なんでもない日万歳!」を少女アリスと共に、
延々と繰り返されて歌われる様子を、今回の評論にそっくり当て嵌めるのは、安直だとは自覚しているのですが、それ以上発展させられませんでした。

自分が生まれてからの歴史を無視し、外部の評価と承認で自己を構成して行くことは、道程の線を瞬間上の点に変えるようなもので、飛躍かも知れませんが、デジタル信号の変換と重なる様に思いました。

(蛇足ですが、劇中でアリスが「今日は私の生まれてない日だわ」と言った事が南井様の前回のご質問の回答と重なり、こうした短歌が成立するのもメディア技術による知覚の変化が関係しているのかと、思案しています。)

無題

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