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「従属」を価値とするパロディ国家【前編】

対米従属と強者依存

日本では経済繁栄を極めた80年代以降に、「文化のサブカル化」と「知性のオタク化」が進みました。
これまで僕は、このポストモダン現象を、主に消費経済との関係で考えてきましたが、
今回は政治的問題、とりわけ「対米従属体制」の絶対化という視点からアプローチしたいと思っています。
「対米従属体制」とは、国土防衛を日米安保(日米同盟)に依存するだけにとどまらず、日本の種々の政策決定をアメリカの都合に合わせて行う社会体制のことです。
簡単に言えば、今の日本はアメリカから言われたことに、できるかぎり従う「子分」でいることに自足﹅﹅した﹅﹅ということです。
実際、日本にはアメリカに従う以外の選択肢が、少数派の間でさえ社会的に共有されているとは言えません。
「対米従属体制」は80年代以降の「国是」であり、日本人は他の可能性を考えることをやめてしまいました。
それ以後の日本は、世界で経済競争に勝利するのではなく、世界経済の支配国(アメリカ)にただ認めて﹅﹅﹅もらう﹅﹅﹅ことを国際的﹅﹅﹅目標にしていったのです。


このような「対米従属体制」は、当然ながら、その中で暮らす人たちの精神にも影響を与えます。
対米従属が日本人の精神に根付くことで、自己修養より「強者への依存」が正解であるかのような風潮が支配的になっていきました。
「権力=強者」に従う人間は模範的であり、「権力(国家権力・資本権力)」を批判する人間は社会を不安に陥れる悪人である、という「力こそ正義」という発想です。
問題なのは、これが「暴力」と認識されずに「倫理」として語られるようになっていったことです。
「強者に従え」という考えを、そのまま口にするとこの上なくみっともないものです。
だから、「強者に従う」ことが「秩序の重視」であり「倫理」であるかのような建前を語ることになります。
今の時代、「社会正義」や「人権」を声高に主張する人が、実際は「強者(メディア権力・アカデミズム)」を頼りにするだけの依存的人間であることは珍しくありません。
このような強い者に従うことを「倫理」へとすり替える社会風潮を、僕は〈強者依存イデオロギー〉と名づけました。


〈強者依存イデオロギー〉が支配する社会では、多くの人が「強者」に媚びるようになるため、すでに「強者」の座にある者がそれを維持することを容易にします。
つまりは既得権の維持に貢献するわけです。
〈強者依存イデオロギー〉は、社会からダイナミズムを奪って保守化を進めます。
それが日本では封建的な価値観に結びつき、世襲議員中心で構成される自民党一強政治をいつまでも維持することに貢献するわけですが、
家父長的で縁故主義的な価値観を信奉する保守派が、リベラルで能力主義的なアメリカに依存するという笑うに笑えない事態になっています。
(このような内実を伴わない「形式的従属」で、相手から信用が得られると思っている「甘え」が、いかにも日本的です)


〈強者依存イデオロギー〉下にある既得権維持の社会では、「強者」の支配をひっくり返すことは不可能になるので、
実力で競争に勝利するのではなく、「強者」に認めて﹅﹅﹅もらう﹅﹅﹅ことを価値とするしかありません。
実力は二の次で、強者や有名人や成功者に自分を認めてもらいたい、とにかく承認が欲しいというのが、この時代の風潮です。
国内の評価を決めるのは、実力ではありません。
ただ強者に承認されることだけです。
スポーツの世界だけに実力主義が浸透しているのは、スポーツには国際的な基準、つまりは「外圧」が絶えず働いているからです。
イチローも大谷もメジャーで活躍する前は、日本でどの程度の評価であったかを思い出せる人はいるでしょうか。
有力芸能事務所の性加害問題を見てもわかるとおり、「外圧」がなければ日本のマスコミは「強者」を批判する仕事はできません。
「外圧」のある世界はまだいいのですが、日本語を用いる文化の領域は閉鎖的でドメスティックなので、〈強者依存イデオロギー〉が猛威を振るうことになっています。
今や業界で権力を握る「強者」に、自分を認めてもらおうという「売り込み」に精を出す人が、
既得権を危険にさらさない「安心安全」な凡人として、重宝されるようになりました。
こうして、日本人は自力で問題を解決する能力を捨てて、ただ「強者依存」の凡庸で甘えた精神だけを育てたのです。


ある時期から、日本では「保守」を自称する人たちが増えましたが、この「保守」とは「既得権保守」という意味でしかありません。
「戦後レジームからの脱却」と言いながら、社会権益を握る勢力がちっとも変化しないのを見ても、それは明白です。
社会主義体制崩壊後のグローバル資本主義で、閉鎖的な日本社会は変化を嫌い、経済的な敗北の道をたどっていきました。
彼らは日本がグローバル世界に対応できない「負け犬」であることを、「保守」と言ってごまかしてきたのです。
「負け犬」の希望は、「飼い主」であるアメリカに可愛がってもらうことしかありません。
そのため、「保守」勢力は「対米従属体制」にしがみつき、〈強者依存イデオロギー〉を社会に浸透させ、それこそが正解だと思い込もうとしています。
彼らが「日米安保」をいつの間にか「日米同盟」と呼び換えるようになったのは、
対等であるかのような言い方で、その従属度合が強まっていることをごまかすためでした。


今や政治の世界は「保守」だらけです。
「既得権保守」と対立すると見なされる「護憲左翼」に支持が集まらないのは、
「既得権保守」勢力以上に時代遅れとなった、建前﹅﹅に依拠しているからです。
日本国憲法の戦争放棄も、実質的にはアメリカ依存によって成立しているものなので、「対米従属こそが現実的なのだ」という「保守」の主張には有効な反論ができません。
もはや従来の左派的な発想で「既得権保守」に対抗するのは、難しいと僕は思っています。


この20年くらいは中国経済の成長によって、経済的には中国がアメリカと競う「強者」となり、
貿易額の拡大から「爆買い観光客」に至るまで、日本で中国への「経済的依存」が強まったのは事実です。
しかし、中国共産党は「反日」を存在意義の一つとしているため、政治的には日本と中国の政治的関係が蜜月となることはありません。
そのような政治的状況を受けて、政治における「保守」勢力は、
共産党の「反日」性への反発と中国の経済成長への嫉妬心を基盤として支持を伸ばしました。


つまり、近年の日本は、中国への経済的依存という現実を、アメリカへの政治的依存というイデオ﹅﹅﹅ロギー﹅﹅﹅で抑えつけてきたのです。
今の日本の課題は、右派と左派の対立ではなく、政治的依存と経済的依存の対立だと言えるでしょう。
その対立の結果は、みなさんが生活で実感しているとおりです。
経済的利益より政治的イデオロギーを重視する自民党長期政権によって、
経済基盤の改革は先送りされ、「アベノミクス」などと呼ばれた金融緩和で「延命処置」をするだけに終わりました。
その間に国家財政では債務が膨らみ、円安によってインフレが進行しても中央銀行がそれを制御できない「偽アンダーコントロール状態」に突入しています。
労働力不足や少子化に対する対策も、社会の変化を嫌うために、AI依存や財源不明の対策で場当たり的です。
これが、経済的利益より政治的イデオロギーを優先する政権を支持し続けた結果です。


その政治的イデオロギー優越の本丸にあるのが、日米安保を基盤とする対米従属精神です。
経済より政治を優越させる価値観は、自国憲法より日米安保(日米同盟)を優越させる価値観と歩調を合わせています。
こうして、日本はアメリカに依存すればするほど、政治的イデオロギーの価値を高めて、自分たちの経済生活を犠牲にしていったのです。
(このような日本の現状は、皮肉にも一見「利他的」なあり方に見えます。
だからこそ、「利他的」という美辞が肯定する私たちの無意識というものを、深く考えた方がいいと思います)


このような政治と経済の序列は、観念やイメージ(主観的表象=SNS映え)を現実生活より優先させる傾向へと結びつきます。
80年代以降に、「文化のサブカル化」と「知性のオタク化」が進んだのは、この序列の影響だと僕は考えています。
客観的事実(総合)を相対化によって解体し、主観的イメージ(断片)を肯定したポストモダン思想によって、この序列は正当化されていきました。
その結果、「人それぞれ違う」という綺麗事が語られるわりに、ちっとも異質性が尊重される社会にはならず、
主観的イメージであろうが多数の支持を得た者が勝つ、という客観性不在のパワーゲームが行われるだけになりました。
メディア露出による人気稼ぎや肩書主義(権威主義)が蔓延するようになったのは、そのためです。
誤解してほしくないのですが、「売れれば勝ち」というイデオロギーは、経済的要請ではなく、実は政治的要請で広がったのです。
それが、売り込み至上主義となって、果ては「売れたければ事務所の社長の鬼畜な所業にも黙って従うしかない」というような歪んだ風潮さえ生んだのです。


「対米従属イデオロギー」とは、簡単にまとめてしまえば、「強者」に逆らうことを倫理的な悪とするイデオロギーです。
これが文化の領域にまで及んでいることは、作り手の売り手依存や、両者の癒着が進んだこと、ネットで多数の支持を集めた人が安直に売り出されることによって、確認できます。
もともと政治的であった価値観が、経済の領域を巻き込んで、ついには文化までを支配下におさめた、という感じでしょうか。
この「強者に逆らうな」というイデオロギーは、適者生存を旨とする社会進化論と結びつきやすいと思います。
そうなると、人種差別や経済格差を肯定する人が増えていくかもしれません。
最近はマスコミが性差別について取り上げるのがトレンドですが、これも「強者に逆らうな」という〈強者依存イデオロギー〉と衝突しない範囲でしか行われていません。
性差別批判は、体制マスコミという権威に依存して行われているかぎり、〈強者依存イデオロギー〉の一部にしかならないのです。
(たとえば9月13日の第二次岸田内閣では女性の入閣が最多になりましたが、その多くが世襲議員であることに、この国の性差別批判の表層性が現れています)


今や「対米従属」による〈強者依存イデオロギー〉は、社会全体にまで及んでいます。
社会体制が民主主義であろうと、大多数がこのイデオロギーに従うと、どこぞの権威主義的国家体制と中身は変わらなくなります。
もし、現代日本において有効な「イデオロギー批判」があるとすれば、それは大衆の〈強者依存イデオロギー〉に対する批判しかありません。


しかし、大衆の強者依存に対する批判を現在進行形で行っている人は、僕が見るかぎり皆無です。
左派系と思われる論客にしても、全然それには触れません。
たとえば、内田樹と白井聡の対談本『属国民主主義論』(2016年)を読んでみると、
アメリカの「属国化」が進んでいるという話の中で、自民党政権をアメリカの「傀儡かいらい政権」と言ったり、在日米軍基地が実際は不要であるかのような話がされています。
僕には彼らの認識が、〈強者依存イデオロギー〉と実際の政治的パワーの混同によって成立しているように思えました。
対米従属を是とする自民党政権は、紛れもなく日本国民が選挙で選んだ政権であり、満州国のような傀儡政権ではありません。
在日米軍基地の問題も、実際の必要性だけを語って片付く問題ではありませんし、現在の自衛隊の戦力を考えると、必要がないとも言えないでしょう。
日本が「属国化」しているとすれば、それはアメリカ政府やその言いなりである日本政府が進めているのではなく、
そもそも日本国民が社会の現状維持のために望んだものと考えた方が、真実に近いのではないでしょうか。
彼らは日本人が「敗戦」を否認している、と主張していますが、
僕が見るところ、彼ら二人も日本国民の多数派がその状況を望んでいる、という現実を否認しているように見えます。
つまり、彼らは巧妙に(自分たちのお客である)大衆の批判を避けているのです。


対米従属の実態

日本の「対米従属体制」は、多数の国民の意志によって成立していると僕は思っています。
だからこそ、大衆レベルで〈強者依存イデオロギー〉が蔓延しているのです。
なぜ大衆がそれを望んでいるかといえば、生活の維持が社会支配層の既得権維持へとすり替えられていることに、大衆が全く気づいていないからです。
わかりやすく言えば、株価の維持が生活の維持になるかのような誤解です。
実際は円の国際的価値の方が庶民の生活に直結するのですが、円高が原因となる物価高が社会問題化しても、
株の値動きほどに分析や批判がされているようには思えません。
本来、それを大衆に啓蒙するのがマスメディアの役割なのですが、マスメディアも社会支配層の一翼でしかなくなってしまったので、その役割が果たせなくなっています。
その結果、現状の「保守」が「強者依存」へとすり替わり、保守精神が〈強者依存イデオロギー〉へと置き換えられました。
右派であろうと左派であろうと、今の堕落したマスメディアに取り入る人間は、すべて例外なく保守的人間だと僕が考えるのはそのためです。


「日米同盟」という呼び方をしても、日本とアメリカの関係には不平等性が確固として存在します。
1960年に締結されて以来、63年にわたって改定されることもなかった「日米地位協定」を確認するだけでも、そのことはハッキリしています。
日米地位協定は、在日米軍や米軍基地についての日米間での取り決めです。
ここに米軍関係者の優遇が見られるのです。


毎日新聞の記事によると、米軍の特権にはこのようなものがあります。
▽基地返還時に米軍が原状回復義務を負わない
▽米軍の船舶・航空機・車両や米軍関係者とその家族が基地間の移動を自由にできる
▽米軍人は出入国管理法の適用から除外され旅券や査証(ビザ)なしで日本に出入りできる
▽米軍が日本に持ち込む品に関税を課さない
▽米軍関係者による公務中の犯罪は米軍が裁判権をもつ


最後の項にあるように、米軍が公務中に事故や事件を起こしても、日本が先行して捜査することはできません。
日本が捜査できるのは、アメリカが裁判権を放棄したときだけです。
まあ、アメリカで裁かれるのなら、それでいいじゃないか、
という考えもあるでしょうが、
実は戦後の米兵による事故や事件が、アメリカで軍事裁判にかけられたケースはたった1件しかないようなのです。
せいぜいが懲戒処分で終わりです。
防衛省の資料では、1952年から2017年の期間に、在日米軍の事件・事故で日本人の死者数は1092人に上るようです)
この問題については、松竹伸幸『対米従属の謎』(2017年)に詳しく書かれていますが、
松竹が強調するのは、これほどアメリカの言いなりになっている国は、日本しかないということです。


たとえばイタリアでは、1998年に米軍機にケーブルを切断されたロープウェイが地上に落下して20名が死亡した事故の時に、
第一次裁判権がアメリカにあるにもかかわらず、イタリア政府はパイロットの裁判権を引き渡すようにアメリカ政府に要求しています。
アメリカがそれに応じることはありませんでしたが、パイロットを軍事裁判にかけるところまではいきました。
結果は無罪に近く、イタリアの思いとはかけ離れたものでしかありませんでしたが、
それでも、裁判権を要求することもなく言いなりになっている国の政府とは、自国民の生命を重視する姿勢がだいぶ違っています。


さらに松竹は、この事故の原因となった戦闘機の低高度飛行訓練について、驚くべきことを書いています。
イタリアの事故でもわかるように、戦闘機の低空飛行は、地上の生活に影響を及ぼす危険なものです。
だから、米軍はアメリカ本土はもちろん、イタリアでも低空飛行訓練のルートを公表しています。
しかし、日本では飛行ルートの公表は行われていません。
松竹が問題にしているのは、米軍がルートを通知してこないこと以上に、日本政府が米軍にルートの公表を要求する気がないことです。
米軍には駐留して﹅﹅いただ﹅﹅﹅いて﹅﹅いるので、その活動を妨げるのはよろしくない、という「おもてなし」の心によるものなのでしょうか。
松竹は苦々しげに次のように述べます。


そろそろ書き続けるのにも苦痛を感じてきました。この日本は、いったいどうなっているのでしょうか。
結局、こうなっているのです。在日米軍は日本に知らせずに勝手に訓練ルートを設定して、勝手にいろいろな訓練をしています。それが問題になってくると、日本政府は、米軍の行動を正当化するような法的根拠を考え出すのです。
それが積み重なって、いよいよ安全が脅かされる状態がつくり出され、米軍も何らかの対処が必要だと考えるようになります。訓練ルートを公表しようとする。そうすると、日本政府は、これまでとまったく異なる説明をしたくないので、アメリカに対してどういうわけか強く出て、公表しないように迫る。
(松竹伸幸『対米従属の謎』)

松竹は「置き去りにされるのは、日本国民の安全」と締めくくります。
日本政府は、国民の安全を守るとよくアピールするのですが、米軍の活動による安全被害は、その対象には入っていません。
大多数の日本人は、同盟国アメリカがいざとなったら自分たちを守ってくれると思っているようですが、
米軍にとって日本国民は、被害を及ぼしても罪に問われることのない、自国民より明らかに生命の価値が低い存在です。
そのような価値づけがされている中で、日本国民に危険が迫ったとき、アメリカが米兵という自国民を危険にさらしてまで戦ってくれると、なぜ思えるのか僕には不思議です。
そして、日本政府は自国民の安全より、米兵の自由な活動の方を優先しているのです。


このようなアメリカとの地位協定は、日本以外の国にも存在しますが、日本以外の多くの国では不均衡を是正する改定がなされています。
日本とともに連合国の敵になったドイツやイタリアは、アメリカとの間のNATO軍地位協定で不利な状態に置かれていましたが、
ドイツは冷戦構造崩壊後の93年に改定交渉に臨み、外国の軍隊が基地使用をする際に、ドイツの法令を適用することができるようになりました。
(日米地位協定では米軍基地の中で日本の法令を適用する規定はありません)
その他にもいろいろな改定があり、ドイツの主権が高められる結果になっています。
地位協定によって日本は、イタリアやフィリピンと比べても、だいぶ不利な立場に置かれていますが、
日本は冷戦構造が崩壊した後も、不利な日米地位協定を一度として改定したことがありません。
永遠に親から独立しない「引きこもり」のように、いつまでもアメリカの下に置かれて、自らの主権を放棄し続けているのです。


日本は国家としての主権を放棄して、アメリカに対して屈辱的な隷属を続けているのですが、
これを「屈辱」と捉えないために、自民党政権や「既得権保守」の間では心理的なごまかしが行われています。
まず、冷戦構造の崩壊を否認する態度です。
世界では西側と東側の対立は90年代初頭に終わりを告げ、経済的にグローバルで政治的に多元的な世界に突入しています。
しかし、東アジアには北朝鮮の世襲支配や中国と台湾の軋轢といった冷戦構造の負の遺産が残っているため、
その状況を取り上げれば、未だ冷戦構造が生き続けているかのような気分でいられます。
冷戦構造が維持されているなら、対米従属体制が維持されるのも当然、という発想ができるわけです。
こうして、自分たちがアメリカの圧力に抵抗する姿勢のない腰抜けであることを、ごまかしているのです。


「政治的なもの」の不在

「対米従属体制」成立の起源は、日本の敗戦に求められます。
連合国による日本占領は、実質上アメリカの単独占領でした。
日本がアメリカ一国に対して従属姿勢をとり続けている原因に、この占領が影響していることは間違いありません。
しかし、僕が問題にしている「対米従属体制」は敗戦を区切りにしたものではありません。
現在の「対米従属体制」のパラダイムがいつからなのか、というのは非常に重要な問題だと思います。
敗戦によって現在の課題が生じたという杜撰な議論をすると、アメリカに押し付けられた憲法を変えれば主権が回復するかのような自己欺瞞に与することになります。


「既得権保守」の象徴的存在であった安倍晋三が、日本国憲法を変えることに執着していたのは、誰でも知っていることです。
そこでクローズアップされたのは、現在の憲法9条を変更して、自衛隊の存在を憲法に書き込むということでした。
しかし、僕にはこの議論の重要性がさっぱり理解できませんでした。
自衛隊は憲法に書こうが書くまいが長らく存在してきましたし、必要がないと本気で思っている人が多数いるとは思えないからです。
そもそも、「既得権保守」勢力が、日本国憲法をアメリカから「押し付けられた」と主張していることが奇妙です。
憲法が「押し付けられた」のであれば、普通なら押し付けた国に対する反発があるはずですが、
そういう主張をしながら、彼らは「対米従属体制」を支持しています。
日本国憲法が「アメリカに押し付けられた」と主張するわりに、
同様に「アメリカから押し付けられた」米軍基地については、彼らは反対どころか諸手を挙げて賛成しています。
このような矛盾に身を任せている「既得権保守」勢力には、現状を追認する以外に何かヴィジョンがあるのでしょうか。
おそらく、彼らは現状追認のことを「保守」と呼んでいるのだと僕は思っています。
仮に自衛隊を新憲法に書き込んだり、敵基地攻撃能力を保有したとしても、敵国との交戦を決定する能力が日本になければ、事態は現状と何も変わりません。
「既得権保守」の人々は、口では勇ましいことを言いたがりますが、
日本がアメリカから独立して交戦を決定するだけの主権を持っていない、という事実について、ごまかさずに議論してほしいと僕は思っています。


カール・シュミットはナチスの御用学者と言われた人物で、その思想を無批判に扱うのは危ない思想家ですが、
シュミットは著書『政治的なものの概念』(1932年)で、「政治的なもの」の条件を友と敵の区別に見出しています。
このシュミットの定義は、強制的に形成される「統一体」を価値とすることに起因しています。
というのは、「敵」を明確にしてそれを排除することが、その排除に反対しない者たちを「友」という「統一体」の中に同意なく組み入れることになるからです。
シュミットが語る政治は、「敵」の排除という否定的な方法による共同体の形成であって、
人々が自然に共感し合ったり、信条を確認し合って共有したりすることで形成される肯定的な共同体ではありません。
そして、その排除されるべき「敵」は、集団にとっての「公敵」だとシュミットは語ります。
「敵」の決定は、集団を司る権力によってなされるのです。
要するに、友と敵の区別は、集団の成員相互のコミュニケーションを不要とする「統一体」の形成方法なのです。
こうしてシュミット的な「政治的なもの」が、相互コミュニケーション不全の人々にとっての「救済」になるのですが、
インターネット上で国家権力にとっての「敵」や、女性にとっての「敵」、出版業界にとっての「敵」を恣意的に設定して、それを叩くことにばかりに一生懸命な人は、シュミット的な政治の罠に陥っていると言えます。


シュミットが政治の単位とは国家だと考えるのは当然です。
外的な脅威に対して結集する集団は、武装集団という単位になるはずだからです。
武装集団を単位とする場合、持続的かつ最大のものが国家なのは言うまでもありません。
シュミットが国家の基盤に「交戦権」を置くのは、その意味で必然と言えるでしょう。


本質的に政治的な単位としての国家には、交戦権﹅﹅﹅がある。すなわち、現実の事態のなかで、みずからの決定によって敵を定め、それと戦う現実的可能性である。(中略)
決定的な政治的単位としての国家は、途方もない権限を一手に集中している。すなわち、戦争を遂行し、かつそれによって公然と人間の生命を意のままにする可能性である。なぜなら、交戦権﹅﹅﹅は、このような自由に処理する権能を含んでいるからである。それは、自国民に対しては死の覚悟を、また殺人の覚悟を要求するとともに、敵方に立つ人びとを殺りくするという、二重の可能性を意味する。
(カール・シュミット『政治的なものの概念』田中浩・原田武雄訳)

友と敵の決定が「政治的なもの」の根拠であるなら、敵を明確に決定できる交戦権こそが政治を支える基盤となるわけです。
しかし、「対米従属体制」の日本には、実質的に交戦権は存在していません。
アメリカとの間で集団的自衛権を成立させようが、敵基地反撃能力を持とうが、日本に交戦権がないという事実は変わらないのです。
日本が戦争をするとしたら、他国から攻撃されるか、アメリカが敵と認定した相手でしかないからです。
自分で敵を設定して、主体的に交戦することはできません。
つまり、シュミットの論に依拠するならば、戦後日本には「政治的なもの」が存在しないことになるのです。


「既得権保守」は、日本に交戦権がないことを日本国憲法で戦争放棄を謳う9条のせいにしているようですが、それは明らかに自己欺瞞です。
それは彼らの弄する論理の中で証明されています。
日本国憲法がわれわれの交戦権を奪っているとして、それを「押し付けた」のはアメリカであったというのが「既得権保守」の主張です。
となれば、それはアメリカが意図したことであり、アメリカこそが日本から交戦権を奪った元凶であるということにならないでしょうか。


古関彰一『対米従属の構造』(2020年)には、朝鮮戦争によって日本が「再軍備」をするときに、いかにアメリカが日本の軍隊(自衛隊)の指揮権を掌握することにこだわったかが示されています。
つまり、アメリカの意図は、日本の軍隊の指揮権を米軍が握ることにあったのです。
日本がそれに対して十分な抵抗を見せてきたかというと、どうもそうではなく、「密約」という形で受け入れてきたようです。


日本政府は従属をひた隠しに、国民には「自主・自立の憲法改正」を公言し、米国には「従属した密約付き安保」を認めてきた。これが「従属的ナショナリズム体制」であり、戦後体制の基本構造でもあったと見ることができる。
(古関彰一『対米従属の構造』)

古関の考察は現状分析を超えて、深いところにまで到達しています。
日本国憲法よりも日米安保の方が優越する戦後日本の対米従属構造は、
大日本帝国憲法より「国体」の方が優越した戦時体制と同じ「二元的制度」だと言うのです。


国体のもとに帝国憲法は存在し、安保のもとに日本国憲法は存在することになった。しかも、国体の中核である天皇も、安保を動かす米国政府も、どちらも、たとえば「勅語」であれ、「ガイドライン」であれ、どれをとってみても国民は言うまでもなく国民代表(国会議員)も手を出せない「絶対的な最高の存在」である。あるいはまた、本書で論ずる日本の指揮権は米国にあると考えられるが、帝国憲法下でも「統帥権」は天皇の専権であり、「統帥権の干犯」は許されなかった。つまり、国民から見れば明治期以来、天皇制も日米安保も、手の届かない遠い存在という意味では、近代一五〇年一貫していることになる。ここに、国体に支えられた「二元的制度」としての日米安保と憲法との「親密性」があり、「永続性」があるのではないのか。
(古関彰一『対米従属の構造』)

僕は古関の言う「二元的制度」は、近代150年どころではなく、もっと根の深いものだと思っています。
それが天皇と摂関家、院と天皇、天皇と将軍という昔からの「代理的支配」の延長にあるからです。
この支配構造が日本という国の宿痾であるならば、仮にこれから日本がアメリカ従属体制から抜け出るとしたら、再び国民から手の届かない「国体」や天皇のような存在が再び呼び出されることになるはずです。
(アメリカ従属体制において、本質的に天皇の政治的役割はなくなったわけですが、それでも天皇制が保存されなければいけない理由がここにあります)


この古関の分析が正しければ、「対米従属体制」にある日本は、システムの上では民主主義国家ではないということです。
国民の手の届かないところに主権者がいるわけですから。
日本国民がそのような「対米従属体制」の代理政権を積極的に支持しているかぎりは、それが国民の決定ということになり、結果﹅﹅として﹅﹅﹅民主主義国家の体裁は保てるのかもしれません。
しかし、もし日本国民が「対米従属体制」とその代理政権を支持しなくなった場合、どんな結果になるかは民主党の政権交代の末路を見れば一目瞭然です。
アメリカ支配に従属する官僚やメディアなどによって、それが「間違った選択」であったと思い込まされ、自分たち自身で他の選択肢をなくしていくことになるのです。


話を戻すと、古関は自衛隊の指揮権がアメリカにあると考えています。
僕も同様に考えますが、そうなると、日本の積極的な交戦権もアメリカを無視して行使することは不可能です。
つまり、日本は交戦権を持たない国家であり、安保が憲法の上位にあるかぎり、憲法を変えたところでその事実は変わりません。
僕が何を言いたいかというと、「既得権保守」勢力はシュミット的な政治として、対外的には中国や朝鮮、対内的には「反日分子」という敵を設定して、それを攻撃することで国家という「統一体」の形成に勤しんでいますが、
その本質にあるはずの交戦権がないことについては考えが及んでいない、ということです。
どんなに口先で敵を攻撃した気になっても、現実的に彼らには軍隊で敵を攻撃する決定権はないのです。
この滑稽な﹅﹅﹅事態﹅﹅は、僕にはほとんど愛国のパロディにしか思えません。


主体性なきパロディ国家

もう日本は何でもかんでもサブカルになってしまったので、愛国ごっこが世に蔓延はびこるのも仕方がない気がしますが、
恐れずに本当のことを言えば、我が国の主権を奪っているのは中国でも朝鮮でもなくアメリカです。
真に国を愛しているなら、我が国の主権を奪っている国を敵と認定する方が自然なのですが、そんな愛国者はあまり見かけません。
中国や朝鮮を叩く愛国現象のパロディばかりが目につくのは、日本人がアメリカの用意したサンドバックを叩くことしかできないからです。
なにしろ、その拳をアメリカに向けたら「不敬罪」になりかねません。
なぜなら、古関が指摘するように、在日米軍こそが「国体」の地位を受け継いでいるからです。
戦後日本にとって、在日米軍は日本の軍隊の「統帥権」を持つので、戦前に「統帥権」を持っていた者と同等の地位にあると評価すべきなのです。


常識的に考えて、日本の軍隊の指揮権を持つアメリカが、日本の交戦権を握っている存在です。
シュミットの理論を援用すれば、日本人の「敵」を最終的に決定できるのは、アメリカになるわけです。
アメリカにとっての敵を忖度して叩くしかないのが、戦後日本の右派の現実です。
たとえば中国がアメリカの敵と見なせる場合は、中国を敵視していればいいのですが、
もしアメリカが中国と仲良くなってしまったら、日本の右派はどうするのでしょうか。
では、ウクライナに侵攻したロシアや、イスラエルと敵対するアラブ勢力はどうでしょうか。
これらは目下アメリカの敵ですが、日本人にとって彼らは敵と言えるのでしょうか。
むしろ、敵を増やせばテロの標的になって、国土をいたずらに危険にするだけでしょう。
しかし、「対米従属体制」が進むことになると、日本を守るのに無関係な相手であっても、アメリカの敵をことごとく敵視しなければならなくなります。
しかし、そのような行為を、本当に「愛国」などと言えるものでしょうか。
繰り返しますが、これは愛国のパロディでしかないと僕は思います。


現在の日本で愛国がパロディにしかならないのは、そもそも戦後日本が戦時日本のパロディのような存在だからではないでしょうか。
古関彰一が戦時国体と対米従属が構造的に重なることを指摘していましたが、それをパロディ化と考えてもいいように思います。
ポストモダンをサブカルの二次創作に置き換える東浩紀の理論などを、日本人が大真面目に受け入れることができたのは、
戦後日本が果てしないパロディの連鎖を生きていることの「自己言及」に思えます。
たとえば大江健三郎や三島由紀夫のパロディとしての村上春樹。
この前、本屋で春樹について書かれた本を立ち読みしたら、春樹は柄谷行人に貶されて評価を下げられたが、大江作品との関係性が深いみたいなことが書いてあって、すぐに本を閉じました。
春樹は大江や三島の作品を意識しているのですから、関係があるのは当然です。
問題はどのような関係にあるかであり、その本質がパロディでしかないことを認識できないのが、日本人の病だと思います。
いや、すべてがパロディなので、売れたりして多数に支持されれば、それはもう「本物」だということなのでしょう。
パロディしかない世界では、他に評価基準などあるものでしょうか。
そして、パロディしか生み出されない国の人々が、真の批評に耐えられるものでしょうか。


戦後日本はパロディなのではないか、という思いつきから、すぐに連想されるのは三島由紀夫の『豊饒の海』(1965年〜1971年)4部作です。
『豊饒の海』は三島が自死の直前に書き上げた、主人公(松枝清顕)の魂の転生を主題とした物語ですが、
第4巻『天人五衰』(1971年)に登場する転生者の安永透は、第三者に「贋物」と評価されます。
実際に彼が本物か贋物かは作中の記述では決定不能ですが、三島の意図を想像するに、それが現実と関わりを持たない「小説フィクション」であるかぎりは贋物だと思っていたのではないでしょうか。
三島は「本物」の転生があることをあえて﹅﹅﹅信じて、自らの「行動」によって実現することを重視していたと僕は想像します。
だからこそ、阿頼耶識の唯識仏教に入れ込み、すべては「心」次第ということになったのでしょう。
パロディを本物であるかのように信じて、「行動」へと結実させる、
三島がこだわっていたのは、現実的行動によって「信」を示すことだったように思います。
二・二六事件のパロディのような三島事件も、パロディを現実化する「儀式」だったと考えれば、僕には腑に落ちます。


つまり、パロディを現実として信じることは、戦後日本をリアルな国家として信じることに通じています。
二次創作の「格上げ」に懸命だった東浩紀のポストモダン論はその典型で、彼に共感する現代思想オタクたちの生も、戦後日本に強く縛りつけられています。
しかし、どんなに信仰心を持とうと、贋物が本物になることはありません。
霊感商法で売りつけられた安物の壺を、後生大事にして終わりです。
政府与党と霊感商法で資金を稼ぐ宗教団体がズブズブの関係だったのは、どちらもパロディを本物と信じ込ませて人々を支配する、という共通した方法論を持っていたからではないでしょうか。


「対米従属体制」が露骨になった国家は、もはやパロディ国家でしかありません。
そこで生み出されるものは、すべてがパロディです。
他の誰かを主権者として、そのオリジナルな判断を真似たりズラしたりするしかありません。
真に戦うべき相手と戦わずに、何かと戦っているかのような顔をするのは、滑稽極まりない闘争のパロディであり、その実態は現実からの逃走でしかないのです。


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