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イワン・カラマーゾフ「大審問官」の射程【前編】

ドストエフスキーとサブカル的要素

ドストエフスキーには『罪と罰』(1866年)や『白痴』(1868年)『悪霊』(1871年)など代表作と呼べる長編がいくつもありますが、
その中でも『カラマーゾフの兄弟』(1880年)は最も宗教色が強く出ている小説です。
物語の軸は、カラマーゾフ家の「父殺し」──父フョードル・カラマーゾフ殺人事件と、その容疑者である長男ドミートリイ・カラマーゾフの裁判ですが、
そこに信仰と無神論という、宗教的なテーマが絡められた複雑な構造をしています。
フョードルの息子にはドミートリイ以外に、修道院に身を置く純真な三男のアリョーシャと、悪魔的知性の持ち主である次男のイワン、不敵な使用人の私生児スメルジャコフがいます。
(この記事では、人物名の日本語表記は新潮文庫の原卓也訳を用います)


ドストエフスキーはサブカル的な要素を使いこなして、文学的な成功に至った稀有な小説家です。
とりわけ『カラマーゾフの兄弟』と『罪と罰』は、「サブカル要素の強い文学」としての頂点にある作品と言えます。
横光利一は「純粋小説論」(1935年)で、文芸復興を担うべき「純文学にして通俗小説」の例として、『罪と罰』の偶然性と感傷性を取り上げましたが、
ドストエフスキー作品の通俗性は、偶然性や感傷性よりもサブカル的な要素によって印象づけられています。
「サブカル要素」を説明するのは難しいですが、虚構的な登場人物名による「キャラ化」の手法(たとえばカラマーゾフ=「黒塗り」など)だけでなく、
都市的な狭い舞台で、恋愛や血縁という家族ヽヽ的なヽヽ人間関係を中心に物語が展開する点や、
それが非歴史的なヽヽヽヽ短期間の出来事として描かれている点を指摘することができるでしょう。
土着性や歴史性という社会的要請から切り離され、人物の関係性と自意識に焦点が絞られていくあたりが、よくあるサブカル作品と共通するのです。
(村上春樹に『カラマーゾフの兄弟』の影響があるとしたら、このサブカル的な文学の構成の仕方であって、思想的な深みではないでしょう)


僕は『カラマーゾフの兄弟』を、20歳から50歳までの間に、異なる訳で4回くらい読んだと思います。
(50回以上読んだというヴィトゲンシュタインに比べたら少なすぎるのですが、僕の中では再読回数が多い部類に入ります)
読むたびに新しい発見や、印象の変化はありますが、最初から変わらないのが、
この小説の核となる部分は、次男イワンの語る劇詩「大審問官」だという確信です。
最近またこの小説を読み直したということは、僕にとって「大審問官」は30年来抱え続けた問題だったということです。
今回は、とうとう「大審問官」についてまとまったことを書こうと思って筆を取りました。
要するに、30年来の問題に、とりあえずの結論を出そうという個人的な試みです。


「大審問官」の話に移る前に、この作品が『カラマーゾフの兄弟』という小説の中で語られた「作中作」であることについて、触れておきましょう。
劇詩「大審問官」は、『カラマーゾフの兄弟』の登場人物である次男イワンが作中で語ったものです。
そのため、「大審問官」は作中ではイワン・カラマーゾフ作となるのですが、
当然ながら、実際にそれを書いたのはドストエフスキーその人に違いありません。
しかし、ことドストエフスキーに関しては、登場人物の思索を作者に還元することを慎むべき理由があります。
それは、ドストエフスキーの作中人物が、単一の作者に回収できない妥協なき主張を繰り広げているからです。
「ドストエフスキーの詩学』(1963年)でミハイル・バフチンは、多様な主張がぶつかり合うドストエフスキーの作品構成を、ポリフォニー(多声楽)小説と名づけました。


それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。(中略)実際ドストエフスキーの主要人物たちは、すでに創作の構想において、単なる作者の言葉の客体であるばかりではなく、直接の意味作用をもった自らの言葉の主体でもあるのだ。
(ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男 鈴木淳一訳)

ドストエフスキーの登場人物の「語り」は、その多様性と独立性から判断すると、
登場人物そのものから発した主張とする方が妥当だと言うのです。
バフチンの主張を受けて、イワン・カラマーゾフを作者の代理人ではなく、「自らの言葉の主体」だと考えるならば、
「大審問官」はイワン自身が生み出した作品として扱う必要があることになります。


ちなみにバフチンはドストエフスキーの作品をポリフォニーで構成された「芸術世界」だとしているのですが、
それが少しでも陳腐化するとサブカルに転落するので、注意を促す意味を込めて、僕はそれをあえてヽヽヽ「サブカル要素」として低く見積もっています。
登場人物の自立性は、ドストエフスキーにおいては主張内容(意味や価値)の異質性によって成立しているので、芸術と評価することに異論はないのですが、
それが視覚的なわかりやすさによってカテゴリー化していくことで、漫画やアニメ(もしくは村上春樹やラノベ)の「キャラ」が成立していることも、また事実だからです。
『罪と罰』を愛していた手塚治虫が、それを漫画化したことでも、ドストエフスキー作品が持つサブカル性については、無視できないものがあります。
(ドストエフスキー特集の雑誌の巻頭に、東浩紀の文章を載せるような国だから、こういうことを言わなければならないのです)


要するに、『カラマーゾフの兄弟』をサブカル的に受容することは、難しいことではないのです。
ドストエフスキーが異質な対話的世界を構成していることに気づかずに、作中の人間関係と話の展開ばかりを追いかければ、そうなるかもしれません。
とりわけ日本では、信仰の問題を真剣に考える機会があまりないので、サブカル的にしか受容できない人も少なくないでしょう。
僕がこれから「大審問官」だけを取り出して読もうとしているのは、ドストエフスキーのサブカル的な受容を避けるための試みです。
「大審問官」は独白のようでありながら、その実は信仰と支配をめぐる対話劇であり、
サブカル的には処理できない、人間の普遍的な業が問題にされているのです。


神への失望が生んだ「大審問官」

劇詩「大審問官」は、信仰者アリョーシャを前にした無神論者イワンの反逆という形で語られます。
信仰か、それとも無神論か、という対決が、『カラマーゾフの兄弟』の中心テーマだと単純化しても、間違いではないでしょう。
ただ、イワンは、神の存在を信じるか、信じないか、で葛藤しているのではありません。
神が創造した「この世界」を認めない、というのがイワンの主張です。


俺はこの神の世界を認めないんだ。それが存在することは知っているものの、まったく許せないんだ。俺が認めないのは神じゃないんだよ、そこのとこを理解してくれ。俺は神の創った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できないのだ。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』原卓也訳)

「大審問官」を披露する直前のアリョーシャとの会話で、イワンはこのように語っています。
神の存在は認めるが、「神が創った世界」は認めない、という態度は、厳密に言えば無神論ではありません。
神がやった「仕事」に対する不信感のようなものです。
「あいつが生物学上の父であることは認めるが、あいつが自分の父の役割を果たしているとは認められない」という感情に似ているものです。
この主張は、結果として無神論になるので、一応は無神論に分類してもいいわけですが、
イワンという人物を理解しようとするなら、「この世界の悲惨さ・残酷さ」に対する神の無力ヽヽを糾弾したい人、もしくは神に失望した人と考えるべきしょう。
失望は期待の反作用なので、イワンも本当は神を頼りたいということになります。
そうなると、問題は信仰の「弱さ」だとも言えるわけです。
(自分が神を信じきれないのを、神のせいにしている、ということです)
実は、大きく見ればイワンも信仰者に分類できるという認識は、非常に重要だと思います。


そうなると、『カラマーゾフの兄弟』のテーマは、信仰と無神論の対決ではなく、神への信頼か、それとも失望かという対決だと整理し直すことができます。
そもそも信仰者であることが前提となっている対決図式なので、
ドストエフスキーの力点は、信仰に生きることの勝利を描くことの方にあるのは明らかです。
つまり、信仰の価値を認めないイワン(やスメルジャコフ)は、ドストエフスキーにとっては敗れ去る人間として描かれます。


イワン自身が語ることによると、彼が「神の世界」を認めない理由は、子供が悲惨な目に遭わされていることにあります。
罪のない子供が理不尽な殺され方をする世の中を、どうして赦せるのか、とイワンはアリョーシャに熱っぽく語ります。
つまり、イワンは子供に象徴される「無垢」の側に立って、「罪人」の宗教であるキリスト教に戦いを挑んでいるのです。


『カラマーゾフの兄弟』は、アリョーシャが「カラマーゾフ万歳!」と叫ぶ子供たちと絆を深める場面で幕を閉じます。
そのラストシーンは、アリョーシャもイワンと同じく、「子供=無垢」を支持する方向へと舵を切ったことを暗示しています。
実は『カラマーゾフの兄弟』には、テロリストとなった13年後のアリョーシャを描く続編があったはずだと言われています。
もしそれが実現したならば、「闇堕ち」したアリョーシャには、かつてのイワンの姿が重なったことでしょう。
書かれなかったものを推測するのは不毛ですが、ドストエフスキーお得意の極から極への転換があって、
「罪人」となったアリョーシャが信仰の道を見出すストーリーだったのではないか、と要らぬ想像をしてしまいます。


あと、注意しておきたいのは、この作品で不信心のイワンと対照をなす信仰者はアリョーシャではないということです。
アリョーシャの修道院で尊敬を集めているゾシマ長老その人が、イワンの反対側の存在としてバランスを取るように置かれています。
アリョーシャは狂言回しのような役割であり、実際には主人公らしい主人公ではありません。
アリョーシャを挟んで、イワンとゾシマ長老が対照をなしているのです。
(アリョーシャは見かけほど強い信仰者ではなく、作中では現実主義者であることが強調されていて、中間的存在者として位置づけられているわけです)
イワンの「大審問官」の構想の後に、ゾシマ長老の信仰に目覚めた話が置かれて、作品構成の上できれいな対照をなしているのが、その証拠です。
つまり、イワンの「大審問官」はそれ単独で扱うべきではなく、極をなす直後のゾシマ長老の話とペアで考えられるように構成されているのです。
両者の対応関係は「大審問官」を扱った批評でも、わりと軽視されているように思えます。


要するに、『カラマーゾフの兄弟』では、無神論と信仰者の双方の言い分を併記する、バランスを重視した構成が意図されているのですが、
そのような作者の意図が軽視されているのは、両者の力関係に釣り合いが取れていないからです。
無神論側のイワンの「大審問官」のインパクトがあまりに強烈なために、続く信仰者側のゾシマ長老の説法を凌駕していることは間違いありません。
だからこそ、僕も創造主の意図に反逆して、「大審問官」だけに注目しているのです。


では、劇詩「大審問官」の内容を見ていきましょう。
せっかくなので、導入部は小林秀雄の名文で説明してもらおうと思います。


イヴァンの「大審問官」という劇詩の舞台は、十六世紀のスペイン。宗教裁判のきょが、ごとに多くの異教徒をき殺している、セヴィリヤの街を、キリストは、千五百年前、三十三年間、人々の間を遍歴した同じ人間の姿を借りて、ひそかに訪れる。ひそかに訪れたのだが、人々は、どういうわけか、それが主だという事を悟り、彼の後に従う。大審問官の僧正は、キリストをばくし、牢に入れる。「お前はイエスか。返事しないがいい、黙っているがよい、お前なぞに何も言えるはずがない。わしにはお前の言う事が、分り過ぎているくらいだ。それにお前は、もう昔に言ってしまったこと以外に、何一つ附け足す権利さえ持っていないのだ。何故、お前はわしの邪魔をしに来たか」。キリストは、終始口を開かず、僧正の審問は、長い独白となって劇詩を領する。独白の調子は激しく、混乱しているが、その論理の糸を辿たどることは必ずしも困難ではなく、読者は、キリストを選ぶか、大審問官を取るか、他にどの様な逃げ道もない、そういう岐路に立たせられる。
(小林秀雄「カラマアゾフの兄弟」『小林秀雄全作品14』)

「大審問官」の舞台設定は、16世紀のスペインです。
そこで枢機卿をしていた大審問官が、100人の異教徒を焼き殺したところに、キリストがそっと姿を現します。
登場人物としてキリストが登場する、という大胆な設定には驚かされます。
姿を現した人物がキリストその人であることは、何も言わずとも、誰もがすぐに理解できてしまいます。
なぜなら、キリストはその場で民衆に、難病の治癒や死者の蘇生という「奇蹟」を見せてしまうからです。
少女が生き返ったのを見た大審問官は、暗い顔で護衛兵にキリストを捕えるように命じました。
大審問官に拝跪する民衆をよそに、キリストは狭い丸天井の牢屋(聖堂を連想させる)に連行され、鍵をかけられます。
その夜、大審問官は一人きりで牢の中に入り、その中でキリストとの対話に臨むのです。


大審問官とキリストの対話の前に、こだわる人がいるかもしれないので、一応触れておきます。
ここに登場する大審問官は、キリスト教と言ってもローマ・カトリック教会のイエズス会の僧正がイメージされています。
イエズス会はプロテスタンティズムに対抗する役割を果たした、カトリックの改革勢力です。
神の国の秩序を重視するため、神や教皇への軍隊的な「服従」を特徴としています。
世界各地への宣教活動にも熱心で、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルもイエズス会の宣教師です。
ドストエフスキーやロシア人が信仰しているキリスト教は、ギリシア正教という東方キリスト教です。
ローマ・カトリックとギリシア正教は教義において対立した「別のキリスト教」なので、
ギリシア正教の立場からローマ・カトリックを批判するのは、他宗派の批判と解釈できるわけです。


しかし、この宗派の違いに関しては、「大審問官」を考える上では、本質的な問題ではないと僕は思っています。

僕はギリシア正教の一般向け概説書を4、5冊読んで、「フィリオクェ」を含めたローマ・カトリックとの違いを学びましたが、
イワンの不信は「無垢」と「罪」をめぐるキリスト教の根底に関わる問題であり、ギリシア正教であれば当てはまらない、というものではありません。
それよりも、イエズス会によって示されているものが、神の国──キリスト教的な「共同体」主義──であることに注目した方が意義深いでしょう。
ここに神の救済を模した共産主義的なコミュニズムに対する批判を読み取ることができると思うのです。
つまり「大審問官」は、キリスト教はもちろん、コミュニズム的な救済に対する懐疑としても読まれるべき作品なのです。
実際、『カラマーゾフの兄弟』の語り手は、社会主義とは無神論の問題だ、と強調した上で、
「(社会主義は)地上から天に達するためではなく、天を地上に引きおろすために、まさしく神なしに建てられるバベルの塔の問題でもある」と述べています。
社会主義の本質が、「俗世での信仰なき宗教的救済」の実現にあるという認識は、非常に重要です。


キリストは死んでいなければいけない

大審問官がキリストに話しかける最初の場面は、小林秀雄が書いている通りです。
大審問官は「お前はキリストなのか」と尋ねた後に、沈黙するキリストを見て、返事をしなくてもよくわかっている、と言った後に、こう付け加えます。
「お前には、もう昔言ったことに何一つ付け加える権利はないのだ。なぜわれわれの邪魔をしにきた?」
大審問官は、キリストに過去の発言以上に喋ってはならない、と言います。
つまりはキリストに沈黙を強いているわけです。
そしてキリストは、この劇の間に一言も発しません。
ここが劇詩「大審問官」の最大のポイントだと僕は思っています。
「大審問官」は黙り続けている相手との対話ヽヽ劇なのです。
読者の注意を促すように、ドストエフスキーは「大審問官」を聞いていたアリョーシャにこの点を念押しさせます。


「じゃ、囚人も沈黙しているんですか? 相手を見つめたまま、一言も言わないんですか?」
「それはどんな場合にもそうでなけりゃいけないよ」イワンがまた笑い出した。「老人自身が指摘しているとおり、キリストは昔すでに言ったことに何一つ付け加える権利はないんだからね。なんだったら、まさしくその点にこそローマ・カトリック教の根本的な特徴があると言ってもいいんだ。少なくとも俺の考えではね。
(『カラマーゾフの兄弟』)

キリストの沈黙は、イワンが「どんな場合にもそうでなけりゃいけない」と言うように、劇詩「大審問官」では絶対の条件として機能しています。
キリストには過去の発言に付け加える「権利」がない、と大審問官は言っていましたが、
権利がない、とはどういう意味なのでしょうか。
続く大審問官の発言が、その意味を明らかにします。


ところで、『お前が今やってきた、向うの世界の秘密をたとえ一つなりとわれわれに告げる権利が、お前にはあるだろうか?』と老審問官はたずね、キリストに代って自分で答える。『いや、あるものか。それというのも、昔すでに語ったことに付け加えぬためだし、この地上にいたころお前があれほど擁護した自由を人々から取り上げぬためなのだ。お前が新たに告げることはすべて、人々の信仰の自由をそこなうことになるだろう。なぜなら、そのお告げはせきとして現れるからだ。
(『カラマーゾフの兄弟』)

キリストが沈黙を強いられているのは、信者たちの「自由」のためだ、と大審問官は明かします。
つまり、キリストの発言はすべて「過去のもの」でなければならない、ということです。
簡単に言えば、キリストは死んでいなければならない、ということでもあるわけですが、
今現前しているキリストが発言をしてしまうと、それは「奇蹟」になってしまい、その「奇蹟」が信者の「自由」をそこなってしまう、というのが大審問官の論法です。
小林秀雄の引用文では、「キリストを選ぶか、大審問官を取るか」という二択が示されていましたが、
より本質的な選択は、「自由」を選ぶか、「奇蹟」を取るか、という大衆の視点に立ったもので考えられるべきなのです。


「自由」と「奇蹟」がなぜ対立するのかは、言葉を提示しただけではわかりにくいものです。
さすがに小林秀雄は、「「奇蹟」は常に、途方もない自由に堪えられぬ人間に、心地よい拘束として現れる」と述べて、ここでいう「奇蹟」が服従を意味することを明確に示してくれています。
「奇蹟」とは人智の及ばないものです。
つまり、人間にとってどうにもならないものですので、ただそれには「ひれ伏す」以外にないわけです。
こうして、「自由」か、それとも「服従」か、という大審問官の基本構図ができあがるのです。


この構図が人類にとって本質的な問題であることを、僕は近代哲学的な視点で説明してみたいと思っています。
神(の奇蹟)を追放することによって、自由を成立させる主観的哲学を生み出したカントのことが思い出されるからです。
僕の見たところ、カントの自由が成立するためには、事物そのヽヽものヽヽ(物自体)は直接的に認識できない、という「前提」が欠かせません。
カントの『純粋理性批判』(1781年)によれば、人間は事物そのものを直観することはできますが、理性的に認識できるのは事物の「表象」だけにとどまります。
少し乱暴なたとえになりますが、これはネットショッピングで商品を認識するメカニズムと似ています。
画面上の商品は、その存在を直観的に把握することはできても、商品そのものを直接に認識することはできません。
商品を理性的に認識するには、その「イメージ」と「情報」から総合するしかないわけです。
このメカニズムは、人間は神の存在を直観できるが、実際に認識できるのはその被造物(という痕跡)でしかない、という中世神学的認識を発展させたものだと、僕は解釈しています。
人間は神を現前させることはできないが、神の意図(表象)を個々人が「自由」に総合することができるのです。
このように考えれば、個々の主観的自由とは、普遍的な神を理性で到達不可能な領域に保存する(根源を手の届かない彼方へと追放する)ことによって、成立するものになります。
(こう考えれば、デリダ思想が到達不能性の強調によって何を擁護したいのかが、理解しやすくなると思います)
つまり、一神教のメカニズムにおいては、個々人の自由と普遍的な神の現前は、両立しえないのです。


キリストが沈黙していなければならないのには、このような事情があります。
自由を保障するためには、キリスト=神は、決して現前しないもの──解釈を許す痕跡でなければならないのです。
それがわかれば、キリストを民衆の目の前に出現させる「大審問官」という作品が、いかに悪魔的な思考実験であるかが理解できると思います。


自由を守るためには、キリストは痕跡テキストのように沈黙していなければなりません。
再臨したキリストが民衆に何か新たな言葉を与えたら、神の現前を本格的に認めることになり、その時点で人々はただ神に服従するほかなくなるからです。


自由=全能感というものの耐え難さ

小林秀雄が書いたように、「大審問官」はわかりやすい二者択一のかたちで話が進みます。
この「わかりやすさ」が一見サブカル的な印象を与えるのですが、
ドストエフスキーはその二者択一を、巧妙に変奏し重層化することで、複雑な内実を持たせることに成功しています。
表面上は二項対立を守りながら、その奥に入り込むと、もっと複雑に錯綜した内容が現れるように作られているのです。


キリストと大審問官の対立が、「奇蹟」と「自由」の対立へと変奏された後、この対立がさらにどう重層化されていくか、
そこに注目しながら、「大審問官」の話の展開を追いかけましょう。


大審問官は民衆の「自由」のために、イエスに沈黙を強いて「奇蹟」を封じました。
大審問官が一人でべらべらと喋るのは、イエスに沈黙させることの手助けでしかありません。
大審問官の語り口に騙されないでほしいのですが、ここにおいて、実は大審問官とキリストは対立してはいないのです。
キリストが民衆に「自由」の価値を説いた、という点に関しては、大審問官も反対の立場ではなく、それを支持しています。
つまり、「自由」と「奇蹟」の二項対立では、大審問官も「自由」に価値があることを認めているのです。


両者が対立するのは、この先の展開です。
キリストは自由の尊さを民衆に示したが、民衆の方はその自由を望んでいない、と大審問官は主張します。
なぜなら、 「人間と人間社会にとって、自由ほど耐えがたいものは、いまだかつて何一つなかったから」なのです。
自由にどれだけ価値があっても、多くの人間はその重荷に耐えらえない、というのが大審問官の結論です。
自由とは、それほど大変なものだと言うのです。
大審問官は、自由に耐えられない人間は、それよりも「地上のパン」の方を求めている、とイエスに説きます。
だからキリストは自由を与えるのではなく、「奇蹟」によって「地上のパン」を分配して、民衆を「服従」させるべきだった、と言うのです。
キリストがそれを実行しなかったから、自分たちがキリストの代理人として、
民衆の望み通りに「地上のパン」を与えて支配しているのだ、というのが大審問官の論理です。


この論理に納得するためには、まずは大審問官の人間観を受け入れる必要があります。
人間は本来的に自由に耐えられない、というところです。
自由が「ある」と「ない」では、誰でも「ある」方がいいと思いそうなものです。
だから、自由がない方が耐えられないでしょ、というのが一般的な意見かもしれませんが、実は案外そうでもないのです。


たとえば、ショッピングで自由に商品を選択することは、楽しいことでしかないように思えます。
しかし、資金に限りがある場合、送料との兼ね合いで欲しくもない商品を選ぶ必要が出る場合、似た商品が多すぎる場合など、
自由に選択するより、買うものが決まっている方が楽だということはないでしょうか。


また、自分の書きたいものを断念して、出版社が望むもの(=購買者の需要があるもの)を書く態度にも、自由の放棄という面が見られます。
こういう方々は、マスメディアに服従することを好む人だと言えますが、
そもそも「書くことの自由」という孤独を、一人ヽヽ引き受けられないことの現れではないでしょうか。


われわれは選挙で自由に候補者を選んで投票できるわけですが、その自由をありがたがっている人がどれだけいるでしょうか。
日本の投票率はそこまで高いとは言えないので、投票の自由を放棄している人は少なくないわけです。
選挙の場合は、個人的なショッピング以上に、選択に社会的責任が生じてしまうため、
自由と言いながら、国会に一度も来ない議員に投票したりすると、その人の信用にも傷がつきかねません。
しかし、責任を果たすために全候補者について真剣に調べると、膨大な手間がかかります。
自由は非常に尊いものであるのですが、それだけに人間に大きな負担を強いるというデメリットがあるのです。


そうなると、現実的要請や社会的責任を意識せずに、個人的な自由を行使できればいいわけですが、そのようなことは可能なのでしょうか。
ドストエフスキーは、可能だと考えていたようです。


本当の自由というものは、何一つ制限されることなく、「自分は何でもできる」という状態でなければなりません。
この「何でもできる」という全能感は、ドストエフスキーの小説では癲癇てんかんの病との関わりで語られます。
ドストエフスキーには癲癇の病があり、その発作の時に調和に満ちた恍惚感を体験していた、と言われています。
(ドストエフスキーと癲癇について、まとめているサイトがありました)
癲癇でエクスタシーとも言える恍惚感になることは、実際は稀なようですが、
その恍惚感が神秘体験をもたらし、「何でもできる」という全能感を引き寄せたとしても不思議はありません。
実際、父フョードルを殺害することになる私生児スメルジャコフには、癲癇の発作があると設定されています。


問題は、ドストエフスキーが癲癇体験から得たと思われる神秘体験=全能感が、作品内で「自分は何でもできる」という悪魔的な思想として現れることです。
『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが、金貸しの老婆を殺害するに至ったのは、自分に全能者の資格があるのか確認するためでした。
『カラマーゾフの兄弟』では、自分の不死を否定すれば、人間は全能者になれる、というイワンの思想に反映されています。


イワンの思想が明らかにされたのは、『カラマーゾフの兄弟』の最初にある修道院での会合の場面です。
それは、アリョーシャの友人ミウーソフによって、このように語られます。


ほかならぬイワン君に関するきわめて興味深い、この上なく特徴的な話を、みなさんにご披露しましょう。つい 四、五日前のことですが、この町の主として上流婦人を中心とする集まりで、この人は議論の中で得々としてこんなことを明言したんですよ。つまり、この地上には人間にその同類への愛をいるようなものなど何一つないし、人間が人類を愛さねばならぬという自然の法則などまったく存在しない。かりに地上に愛があり、現在まで存在したとしても、それは自然の法則によるのではなく、もっぱら人間が自分の不死を信じていたからにすぎないのだ。その際イワン君が括弧つきで言い添えたことですが、これこそ自然の法則のすべてなのだから、人類のいだいている不死への信仰を根絶してしまえば、とたんに愛だけではなく、現世の生活をつづけようという生命力さえ枯れつきてしまうのだそうです。それどころか、そうなればもう不道徳なことなど何一つなくなって、すべてが、人肉食いさえもが許されるのです。
(『カラマーゾフの兄弟』)

このイワンの思想をまとめると、次のようになります。
人間が人類愛を持つとしたら、それは自分の不死を信じているからであり、
その不死への信仰を根絶すれば、生きる気力も愛も失われ、すべてが許される、というものです。
最後の「すべてが許される」という結論は、「自分は何でもできる」という全能感を言い換えたものでしかありません。
この思想が、イワンを崇拝するスメルジャコフに、父殺しの実行を決断させる手助けになります。


フョードル殺しが発覚した後、犯人と疑われた長兄ドミートリイが逮捕されますが、真犯人は私生児スメルジャコフです。
しかしスメルジャコフは、自分の犯行をイワンにだけ打ち明けると、「自らを根絶するイストレブリャーチ」という遺書を残して、首をくくってしまいます。
これでドミートリイの冤罪を晴らすことが難しくなるのですが、
スメルジャコフがなぜ自殺をしたのか、ということについては、遺書も謎めいていて、明確には書かれていません。
しかし、イワンの思想に従うなら、スメルジャコフは自殺しなければならなかった、と僕は考えます。
イワンによれば、「すべてが許される」──父殺しという不道徳でも許される──ためには、自分の不死への信仰を根絶することが条件でした。
重要なのは、不死を信じていないことの証明です。
では、不死の拒絶を証明するには、具体的にどうすればいいのでしょうか。


スメルジャコフはイワンとの最後の対面で、父フョードルから奪った3000ルーブルをイワンに手渡して、自らの犯行がイワンの思想によるものだったことを告白します。


「わたしにはこんなもの、全然必要ないんです」片手を振ると、スメルジャコフはふるえる声で言った。「前にはそういう考えもございましたよ。これだけの大金をつかんで、モスクワか、もっと欲を言えば外国で生活をはじめよう、そんな考えもありました。それというのは、『すべては許される』と考えたからです。これはあなたが教えてくださったんですよ。あのころずいぶんわたしに話してくれましたものね。もし永遠の神がないなら、いかなる善行も存在しないし、それにそんなものはまったく必要がないって。あなたは本気でおっしゃってたんです。だからわたしもそう考えたんですよ」
(『カラマーゾフの兄弟』)

イワンの崇拝者であるスメルジャコフは、本人のイワン以上に、魂の不死を捨てればすべては許される、というイワンの思想を信じていました。
思想というより、イワンその人をあてにしていたのかもしれません。
しかし、イワン当人は自分の思想が現実化されると、情けなく怯えているだけでした。
(概してインテリというものは、反逆の思想を声高に語りはしても、現状の世界に安住する気でいるものです)
もはや自分の思想を全うできないイワンを崇拝しても、父殺しが許されるとは思えません。
スメルジャコフは一人で最後までやりきるほかなかったのです。
神の永遠を捨て去った証を、自殺という方法で。


このあたりの「代理」をめぐる対比にも、非常に興味深いものがあります。
キリストの教えを、その代理人である大審問官は修正したのですが、
イワンの教えを、その代理人であるスメルジャコフは忠実に実行しました。
その結果、キリストは神として保存され、イワンは悪魔に取り憑かれた病人になるわけです。
デリダなら、思想のオリジナルは痕跡メディア化される必要がある、と音声伝達の直接性を批判するでしょうが、
ここではどちらの世界もディストピアでしかない、ということの方が重要です。


スメルジャコフの犯罪を見てもわかるとおり、「何でもできる」という自由は恐ろしいものです。
自分が好き勝手できるのは楽しいかもしれませんが、それは同時に、誰もが自分を好きにできる、ということでもあります。
不死への信仰を根絶して、自殺さえすれば何をやってもいい、ということになれば、「死刑になりたかった」とたまたま出会った人に切りつけることも不思議ではなくなります。
極限の自由には、互いに殺し合う事態が含まれてしまうのです。
そのような自由の恐ろしい面については、劇詩「大審問官」の中でも語られています。


われわれの下ではあらゆる人が幸福になり、もはやお前の自由にひたっていたころのように、いたるところで反乱を起すことも、互いに滅ぼし合うこともなくなるだろう。そう、人々がわれわれのために自由を放棄し、われわれに服従するときこそ、はじめて自由になれるということを、われわれは納得させてやる。
(『カラマーゾフの兄弟』)

ここで大審問官は、自由のために反乱や絶滅が起こることを示唆しています。
この状態はホッブズが『リヴァイアサン』(1651年)で示した、「万人の万人に対する闘争」とも言えるものです。
つまり、「自由」と「奇蹟」の対立軸を、「絶滅」と「服従」の対立軸へとシフトさせれば、「大審問官」はホッブズ的な主権国家の必然性へと接続するのです。
ただ、ホッブズの場合は成員相互の契約によって服従を受け入れるのであって、
「地上のパン」のために自ら「家畜」へと転落する服従とは、かなり性質が違います。
大審問官の支配は、明らかに全体主義的なものとして描かれています。


「地上のパン」と全体主義支配

キリストが人間の自由を尊重したのに対し、大審問官は自由には耐えられないのが人間だ、として、「地上のパン」による支配を正当化します。
大審問官は「地上のパン」を単に食料のこととして語っているのですが、
その意味するところは「生活保障」のことではないかと思います。
われわれがお前たちの生活を守ってやるから、われわれ(の抱く神)に従え、というのが「地上のパン」による支配です。 


大審問官は、キリストが心の自由などという負担を要求せず、奇蹟や神秘によって民衆を盲目的に従わせる帝王となるべきだったと語ります。
自由などという重い負担より、人間はパンを与えられて服従する方を望むものだ、という確信が大審問官にはあります。
人間は服従したがっている、というのが大審問官を支える真理なのです。


服従したがっている、という言い方をすると、マゾヒストみたいに思えるのですが、
服従状態には生活保障という物質面での充実とともに、精神面においても民衆を安定させる効果があるのです。
受難の中にある民衆は、苦しみそのものよりも、自分一人が苦しんでいるという孤独感に耐えられないものです。
そのため、世界中の苦しむ人々が集まって、一つに「統合」されることを望むようになります。
人間の最終的な望みは、全人類が親密な共同性の中で「統合」されることにある、と大審問官は考えています。
それが明らかになるのは、キリストが奇蹟によって世界を支配する「帝王の剣」を用いなかったことを責めるくだりです。


実際のところ、お前はあのときすでに帝王の剣を受けとることもできたはずだった。なぜお前はあの最後の贈り物をしりぞけたのだ? あの力強い悪魔の第三の忠告を受け入れていれば、お前は人間がこの地上で探し求めているものを、ことごとくかなえてやれたはずなのに。つまり、だれの前にひれ伏すべきか、だれに良心をゆだねるか、どうすれば結局すべての人が論議の余地ない共同の親密な蟻塚ありづかに統一されるか、といった問題をさ。なぜなら、世界的な統合の欲求こそ、人間たちの第三の、そして最後の苦しみにほかならぬからだ。人類は全体として常に、ぜひとも世界的にまとまろうと志向してきた。
(『カラマーゾフの兄弟』)

人間が探し求めているものは、「人類の世界的、全体的統合」を実現してくれる帝王だ、と大審問官は言います。
人々はただ服従したいわけではありません。
「人類の世界的、全体的統合」を実現してくれる帝王に進んで服従し、「羊の群れのように導かれ」たいのです。


この人類の「全体的統合」を良いふうに捉えるか、悪いふうに捉えるかは大事ですが、
その分かれ目は、神の教えという「天上のパン」による「全体的統合」と、支配者から与えられる「地上のパン」による「全体的統合」の差となって現れます。
「地上のパン」による世俗的な「全体的統合」は、地上の個人を神として崇める個人崇拝に結びつき、全体主義へと結実するでしょう。
そこで人々は、たった一つの対象にみんなでひれ伏し、全体として「統合」されることになります。
そう、ひれ伏す対象が「同じ」であることが、そこでは重要になるのです。


自由の身でありつづけることになった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探しだすことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。しかも人間は、もはや議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。なぜなら、人間という哀れな生き物の苦労は、わしなり他のだれかなりがひれ伏すべき対象を探しだすことだけではなく、すべての人間が心から信じてひれ伏すことのできるような、それも必ずみんヽヽながヽヽいっヽヽしょヽヽひれ伏せるような対象を探しだすことでもあるからだ。まさにこのはいの統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類全体たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにほかならない。統一的な跪拝のために人間は剣で互いに滅ぼし合ってきたのだ。
(『カラマーゾフの兄弟』)

大審問官の論理によると、人類最大の苦しみは、みんなで同じ対象にひれ伏すという「跪拝の統一性」が実現しないことにあるわけです。
「跪拝の統一性」が地上の王国でなされたとき、それが独裁者による全体主義国家のイメージに結びつくことは避けられません。
イワンの思考が悪魔的に思えるのは、劇詩「大審問官」が20世紀のファシズム体制や社会主義のスターリン独裁を予言した、と受け取れるからです。
ドストエフスキーがどこまで社会主義を意識していたかはわかりませんが、
少なくともイワンは、「大審問官」をキリスト教全体の問題として広い視点で描き出しています。
その意味で、「大審問官」が、社会主義にとどまらず、キリスト教社会に潜む独裁者への服従という暗部を、明るみに出したことは間違いありません。


しかし、自由の反作用を服従に結びつける考え方は、学問的に正しいと言えるのでしょうか。
エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』(1941年)が、その正しさを支持するでしょう。
ユダヤ人のフロムは、ナチスの難を逃れてアメリカに移住した新フロイト派の社会心理学者ですが、
『自由からの逃走』は、ナチスのような全体主義の誕生を、人々の服従を求める本能から説明した本です。
人間は自由が持つ否定的性格──耐え難い孤独感と無力感──から逃れるために、マゾヒズム的な努力へと向かう、と述べる箇所で、フロムは『カラマーゾフの兄弟』に触れています。


個人は否定的な意味で自由であると感ずる。すなわちかれはひとりぼっちでおり、よそよそしい敵意にみちた世界に対立している。この状況のなかでは、ドストイエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のなかのすぐれた叙述をひくならば、「人間という哀れな動物は、もって生まれた自由の賜物を、できるだけ早く、ゆずり渡せる相手をみつけたいという、強い願いだけしかもっていない」。おびえた個人は、自分をだれかと、あるいはなにものかと結びつけようとする。もはやかれは自分自身をもちきれない。かれは狂気のように自分自身から逃れようとする。
(エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳)

フロムが引用している『カラマーゾフの兄弟』の文章は、おそらく僕がその前に引用した「大審問官」の箇所をまとめたものだと思います。
フロムは個人としての自分自身から逃れることを、マゾヒズム的努力としていますが、
マゾヒズムは圧倒的な力に参加することで、個人的自己を解消していく、と考えられています。
自分に無関心な圧倒的力への信頼を、フロムは「権威主義的性格」と名づけて、「ファシズムの人間的基礎となるようなパースナリティ」として描きました。
つまり、「権威主義的性格」はファシズムの基礎となる人格であり、大審問官が語る人間像はその典型だと言えるのです。


注意しておかなければならないのは、すべての人間が「権威主義的性格」へと落ち込むわけではないということです。
つまり、「大審問官」の民衆像は偏っているということです。
しかし、現実にファシズム社会が成立しているのですから、服従を求める人々が特殊な人間だということでもありません。
では、大審問官の「地上のパン」による支配に屈してしまう「権威主義的人間」とは、いったいどんな人なのでしょうか。


それを考えるのは、次回の【後編】にしようと思います。
おそらく次で完結できるはずなので、少々お待ちください。


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