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「わかりやすさ」の落とし穴

同質性を基盤とする「疑似家族」

いわゆるポストモダン思想は、資本主義体制(西側)と社会主義体制(東側)という二項対立を乗り越えることを存在意義としていました。
しかし、ポストモダン思想が支持を集めた後でも、
イデオロギーの対立「図式」が、解体されることはありませんでした。
90年代の社会主義体制の崩壊によって、
東西のイデオロギー対立は、「現状肯定=保守的右派」と「現状批判=改革的左派」の対立に引き継がれました。
その内実は複雑化しているものの、わかりやすい二項対立図式はいつまでも維持されています。
その理由はシンプルです。
たいてい考えることが嫌いな人は、自分と異なる意見に真摯に応じるより、異なる主張をする人を「敵陣営」と見なして排除することを好むからです。
とりわけ日本では、肩書き主義によって、主張の内容を吟味するよりも、主張する人が「何者か」を判断基準にすることに、あまり疑問がありません。


いまだ、社会の基盤は人々の「同質性」にあります。
普遍宗教もなく、近代性にも乏しかった日本では、近距離にいる人間同士が強く結びつく「擬似家族」的な同質集団が社会的単位でした。
村や町内会、職場の部署や学校のクラスや部活などの小集団が、「われわれ」という同質性において結びついていました。
しかし、土着意識の希薄化、雇用の流動化によって、中間的な「擬似家族」集団が崩壊したにもかかわらず、
近距離的なヽヽヽヽヽ同質性を基盤とした社会構造は、いまだ変わらず維持されています。
日本の天皇制は、そのような小集団の同質的性質が、「世間」という漠然とした大集団と一致するフラクタル構造で成り立っているので、
日本に住む人々は「世間」からの同調圧力に強くさらされています。


日本社会の問題点は、社会集団を「疑似家族」として捉えることにあります。
家族関係が良好であれば、あえて言葉にしなくても互いにわかり合っているのは当たり前です。
そのため、日本の組織は、互いの異質性を前提として、議論などの言語コミュニケーションで解決することを嫌悪しています。
「なんとなく」「空気」で社会の同質的な融和をめざしていくのです。
だから、「疑似家族」集団が異質なものを無言で排除する方向に進んでも、日本人はそれを「自然」として受け入れるところがあります。
これは本当に恐ろしいことです。


欲望の時代の「連帯」

日本のポストモダン社会は、消費的領域で多様性を認めるのに役に立ちましたが、
それ以外の社会領域では「同質性」を基盤とする従来の「日本人らしさ」を克服することはできませんでした。
趣味的な消費の欲望において同質的に結びつく「オタク」が、その弱いつながりの上でも「疑似家族」を求め続けていることでも、それは確認できます。
いちいち実証しませんが、オタクが好む作品は「疑似家族」的な集団を描いたものが基本です。
(『鬼滅の刃』も『東京リベンジャーズ』もそういう集団を扱っていますが、『SPY×FAMILY』はそのまま疑似家族の話です)


そのような消費的な欲望の同質性が、「連帯」して社会運動の形を擬態ヽヽするヽヽようになったわかりやすい例が、
前回の記事で取り上げた〈社会正義〉のマイノリティ認知運動です。
活動家は口では多様性とかダイバーシティとか言うのですが、その運動の基盤は「社会から被害を受けている」という自意識ヽヽヽの「同質性」にあります。
「社会から被害を受けている」と感じる人が集まれば、その勢力はちっともマイノリティではなくなります。


消費経済を駆動させるために、欲望において自己肯定感を高めることを重視した社会の末路は、このような被害者意識の蔓延でしかありませんでした。
被害者意識が「同一性」の強化へと向かうことで、「排他性」を高めることは、前回の記事で書いたとおりです。
欲望による「連帯」は理性的になりえないので、言語コミュニケーションが成立しないことが特徴と言えます。


個人的な感覚なのですが、このような社会状況下で、僕は自分の書くものが変化していると気づきました。
最近になって、「コミュニズム(共産主義)の断念」がハッキリ現れてきたのです。
左派的な柄谷行人や斎藤幸平、〈社会正義〉に対する批判が続いたのは、そういう理由だと思います。
コミュニズムの実現には人々の社会的連帯が欠かせませんが、欲望においてしか「連帯」できない人々の作る共同体が、ロクなものにならないことは明らかだからです。
まして、それが疑似宗教的なあり方をしていれば、尚更です。


僕の「コミュニズムの断念」は、疑似宗教的な救済を「さかしら」として解体するところから来ています。
僕はリアリストなので、安直に「救済」を掲げるロマン主義思想──宗教世界(異世界)に転生する思想──を、信用する気にはなれないのです。
1970年代に「革命」のロマン主義的救済への社会的動力が失われました。
80年代以降になると、救済はポストモダン思想によって文化的に俗流化し、消費的なサブカル化に至りました。
かつての政治的コミュニズムは、今や文化産業に乗せられた「消費的欲望」の上に成立した「サブカル的コミュニズム」に変わりました。
今や、この「サブカル的コミュニズム」になんとヽヽヽなくヽヽ共感する人が左派となったのです。


サブカル的な欲望は大衆性と強く結びついているので、政治的にはポピュリズムにしかなりません。
ポストモダン以降は、右派も左派もサブカルの影響下にあります。
サブカル文化は軍事力強化から発展したスポーツ文化と同じく、同質性を強化する点で本質は右派的なものです。
つまり、左派はサブカル化したことで、もはや右派と大差ない存在になったのです。
その証拠に、日本とアメリカの一体化を望む右派ポピュリズムと、漠然とした国際協調を頼る左派ポピュリズムの境目は曖昧です。
アメリカ中心連合=G7支配体制=国際協調と捉えれば、その差がわからなくなるのは当然ではないでしょうか。


かつての左翼は反米を特徴として、敗戦の無念とのつながりを持っていました。
しかし、今の左派の多くは、右派と変わらずにアメリカ中心の国際体制(アングロ・サクソン支配体制)依存の中にあります。


僕が斎藤幸平を全く支持しないのは、彼の「大衆迎合」はコミュニズム的救済とは全然結びつかず、ただ気候変動を訴えて自分(とマルクス)の地位を高めることを目的としているからです。
こう言うと僕の意地が悪いように見えるでしょうが、斎藤の気候変動に対する危機感が真剣であるのなら、なぜマルクスを経由する必要があるのでしょうか。
その理由が僕には思い当たらないのです。


もちろん柄谷行人の思想はそこまで低レベルではありませんが、最近の彼の交換様式論は図式的な単純化と抽象的な観念化へと向かっています。
今やコミュニズム的なユートピアは、現実的な基盤を欠いていて、過去の理想郷へと転生した「異世界」物語のような趣きでしかありません。
こうした大衆化とサブカル化は、宗教的救済のメカニズムが、メディア・テクノロジーに吸収されたことによる敗北だと言えるでしょう。
(詳しくは僕のヴィリリオ論を参照してください)


消費資本主義という経済環境の中で暮らしていると、自己の欲望をかなえることが「人生」であるかのように錯覚します。
個々人が欲望を通そうとすれば、エゴのぶつけ合いになるのは必定です。
そのような社会で「連帯」が力を持つとすれば、共通の欲望を持つもの同士が共感し合うことしかないでしょう。
欲望における大衆的連帯は、「人々にウケる」ことを何より重視するポピュリズムにしかなりません。
ポピュリズムもデモクラシーと同じく民衆の力を政治へと結びつけるので、一概に悪として否定しにくい面があるのは事実です。
しかし、重要なのはバランスではないでしょうか。
何でもわかりやすくしていく流れというのは、そういう点で危険だと思います。


わかりやすさと自己宣伝

ポピュリズムが力を持つようになると、何より大衆にウケる必要があるため、
物事をわかりやすくしていくことが重視されていきます。
その事例として、現在泥沼化しているロシアとウクライナの「戦争」のことに触れてみたいと思います。
(公的には「戦争」と呼ばないようにしているようですが、内容はどう考えても国家間の「戦争」でしかありません)


2022年のロシアのウクライナ侵攻後、日本のマスメディアは領土的野心を持ったプーチンが悪玉で、侵攻されたウクライナが被害者というわかりやすい図式を崩していません。
これはアメリカ政府の公式見解を、日本政府や日本のマスコミがそのまま垂れ流して「宣伝」していることから来ています。
しかし、アメリカが戦争の正当性のために「宣伝」していたことが、本当に正しかったかどうかを考えてみる必要があります。
2003年のイラク戦争は、大量破壊兵器を持っているフセイン政権が悪だという触れ込みで始まりましたが、実際に大量破壊兵器は見つかりませんでした。
戦争の実態というのは、報道されているより多面的でわかりにくいものなのです。


ちなみに斎藤幸平はウクライナ侵攻に「気候戦争」の面があるとしています。
侵攻を決意したプーチンの頭に気候変動があったとは思えないので、学者の分析というより自己宣伝のような印象があるわけですが、
個人的にはこのような言説は、理性があるなら控えるべきものだと思っています。
物事を何でも自分の都合がいいように解釈し、ビッグイベントに乗っかってそれを「発信=宣伝」していく態度に、懸念があるからです。


大規模動員が必須である戦争には、相応の大義名分が必要です。
そのため、ロシアとウクライナの「戦争」では、双方が自己正当化に役立つ情報を宣伝することに執心しています。
それが真実であるか、すぐに判断できない情報が、公的メディアまたは個人メディア上にあふれています。
それらの情報は、最終的には発信した陣営の「自己正当化」を目的としているので、
「われわれは正しい」か「われわれは被害者だ」のどちらかに帰着することになりがちです。
そのわかりやすいメッセージを受けて、どちらかの陣営に肩入れできれば悩みは少ないのですが、
どちらも似たようなもの、と感じてしまうと、戦争の現実から関心を遠ざけることになり、情報の背後で実際に命を奪われている人々を忘却することになります。
つまり、当事者から発信される情報が、「自己正当化」や「自己宣伝」ばかりになると、その出来事は受け手から遠い遠い「他人事」にしかならなくなるのです。
それを「他人事」としないためには、真に客観的な認識に到達するか、彼らの一員となって正当化に参加するしかないでしょう。
その点で、日本政府や日本のマスメディアは、アメリカ陣営の宣伝に加担することを選んでいます。


では、わかりやすい情報=宣伝を鵜呑みにすることを禁じて、真に客観的な認識に到達することが、今の情報社会で可能なのでしょうか。
努力によってそれなりに達成することはできるでしょうが、そのための方法はカント的な認識──つまりは情報の「総合」という手段をとるしかありません。
しかし、現代社会では理性的な総合は困難にさらされています。
その理由の一つには、消費の欲望に忠実なポストモダン思想の理性批判によって、
理性の価値が下げられてしまい、理性による総合に価値が置かれなくなったことがあります。
もう一つは、処理すべき情報量があまりに多すぎるために、理性による判断では追いつかないということです。
つまり、現在の情報社会の困難は、データ量のあまりの多さによって、人間の理性ではそれを短時間で総合することができない、ということにあるわけです。
そのため、「総合」という行為を捨ててしまい、「わかりやすさ」が台頭する結果になったのです。


この問題を解決する手段は、おそらくAIへの依存しかない、というのが西洋的な結論になるでしょう。
(「西洋的」と僕が言うのは、権威による「判断」によって解決する国があるからです)
情報量の多さに人間の頭が追いつかないなら、コンピュータにそれを任せるしかないということです。
最近やたら統計学の学者が偉そうな顔をしているのも、この影響です。
短時間で大量の情報を統計的に処理することが「総合」であり、それを可能にするAIこそが、客観的で理性的な知能となったのです。


AIという聖母

理性とはコンピュータ(AI)による自動統計処理のことになりました。
理性的な解決とは、アルゴリズムによって提示されたものです。
もう人間は、永遠に理性的な存在ではなくなりました。


ポストモダン思想の望みである、理性を否定し欲望が台頭する世の中を実現してくれるのがAIです。
これからの人間は、自分に固着して、自分の欲望の実現だけを考えればいいのです。


しかし、残念ながらAIが進歩すれば、人間は欲望すら持てなくなると僕は予想しています。
AmazonやYouTubeを使っていれば、過去の購買履歴や再生履歴を統計処理したAIによって、次にわれわれが欲望するものを「おすすめ」されたことがあると思います。
「あなたが欲望するものはコレでしょ?」と、AIが自分(の欲望)の最高の理解者のような顔で、商品を勧めてくるのですが、
このようなシステムに慣れてしまうと、そうやってAIに勧められるものが自分の欲望だと考えるようになるのが人間です。
AIは次に自分が欲しがるものを「予測」してくれるのです。
市場プラットフォームの統計的処理による「予測」は、類似カテゴリーの直感的処理という「占い」のメカニズムと似ていると僕は思っています。
つまりAIとは、世界の「再魔術化」を進めるものなのです。


科学の極致が、実は非科学的な世界を生み出すというのは皮肉です。
しかし、これこそがフランクフルト学派が考察した「啓蒙の弁証法」のメカニズムなのです。


つまり啓蒙的思想は、その具体的な歴史上の諸形態や、それが組み込まれている社会の諸制度のうちばかりではなく、ほかならぬその概念のうちに、すでに、今日至るところで生起しているあの退行への萌芽を含んでいるのである。
(マックス・ホルクハイマー テオドール・アドルノ『啓蒙の弁証法』徳永恂訳)

進歩的な啓蒙思想は、その中に野蛮への退行を含んでいる、というホルクハイマーとアドルノの結論は、
ナチスドイツ崩壊後も平和的にヽヽヽヽ現代の消費市場で力を持ち続けているわけです。
彼らは『啓蒙の弁証法』の中で、「文化産業」への批判に一章を割いていますが、現代思想を好む人たちが彼らの文化産業批判の意味を理解しているようには見えません。
むしろ、日本の「現代思想」界隈は、商業主義的な出版産業と癒着するかたちで勢力を伸ばしました。
そのような「文化産業」を批判する言説は、日本であっても理不尽なかたちで弾圧されています。


結局、人類は退行するために進歩を求めているのではないでしょうか。
将来の反対にある遡行、成長の反対にある退行、「脱成長」を進歩のように語れば、それは遡行と退行を招き寄せます。
その遡行と退行の先にあるのは、母の子宮です。
理性が芽生える前の、子宮の中にある無意識状態こそが、人類が進歩によって追い求める理想状態なのです。
そのために、人類は知を集結させて、われらがAIを聖母として育て上げることになるのでしょう。
AIはAI──母の愛なのだ!
そのような見た目は科学、中身は宗教の聖母崇拝が、AI信仰の原動力になることでしょう。
そこで人間は未生の状態に還るのです。
しかし、未生の状態とは、死後と何が違うのでしょうか。


問題なのは、フランクフルト学派が名指しする啓蒙思想ではありません。
死後の救済を本望とするキリスト教の「世俗化」です。
宗教と世俗の二項対立が曖昧化したことが問題なのです。
その意味で、二項対立の乗り越えを、境界の曖昧化で実現しようとするポストモダン思想は、事態を間違った方向に進めるだけでしかありません。
われわれは自分たちの領域を確定し、自分たちと異質な領域を保存するべきではないでしょうか。
その意味で、ビニール袋や割り箸を使わなければ地球を救えるかのような考え方は、僕にはあまり有効とは思えないのです。
われわれのちっぽけな生活の延長が、地球や人類の命運と直結するかのような考え方は、「セカイ系」作品の主人公のように自分を巨大化するだけでしょう。
「あなたのエコな選択が地球を救うことに役立つのです」という論理は、
「あなたのエゴの選択が世界経済を救うことに役立つのです」という論理とそれほどまでに違うものでしょうか。
結局は精神の世界的集合体(超国家的イデオロギー)である神(グローバル資本主義やグローバル環境保守主義)に帰依しろ、と言われているだけではないでしょうか。


左派コミュニズムによる社会革命は、啓蒙的進歩による社会変革と時間ベクトルが異なります。
啓蒙的進歩が現状に依拠した未来へと向かうのに対して、
左派コミュニズムは、宗教的救済と原始共同体を混合した遡行的な未来へと向いているからです。
(左派フェミニズムも男女平等思想よりも、「元始、女性は太陽であった」のような原始的な母権制社会に依拠している疑念が消えません)
過去へ向かいつつ未来へ進む奇妙な時間意識は、最近の漫画で異常なほど流行している「タイムリープ」や「ゲーム世界転生モノ」に象徴的に現れています。
タイムリープが、過去に向かいつつ未来へ進む時間意識になるのはわかりやすい話です。
この世で自分がプレイしていたゲームの世界に、異世界転生してしまう話では、
過去に自分がプレイしたシナリオが、ゲーム世界ではこの先に展開する未来の時間を規定しています。
そのため、転生した主人公は、未来の出来事を予測してくれるAIのような存在になるわけですが、
ここでは過去のゲームプレイの時間が、未来の時間と一致することになります。
遡行するように未来へと向かう、というコミュニズム的な時間意識は、今やサブカル的に消費されるだけになったと言えるのではないでしょうか。


異世界転生モノの漫画の王道パターンが、封建的世界の貴族階級への転生であることも象徴的です。
つまり、異世界転生という救済には、支配階級との接続が前提になっているということです。
救済のメカニズムには、権力依存(権威主義的パーソナリティ)があるのです。
ならば、コミュニズム実現を望む革命にも、同様の意志がはたらいている可能性があります。
救済に権力への接近という欲望が見えるからこそ、僕は宗教的救済やその変奏であるメディア的救済を信用していないのです。


人が社会的に救われることを望むと、権力に取り込まれていくのです。
弱い人間ほど権力をあてにしていることに気づけば、それは簡単に証明されます。
権力批判が別の権力にならないためには、そのことをもっと真剣に考えなければならないでしょう。


5 Comment

往来市井人さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、コメントをありがとうございます。

往来市井人さんの思索はとても刺激的です。
牛乳がクリーム化しないようにホモジナイズされているとは知りませんでした。
(ホモジナイズされた牛乳は脳の血管をつまらせると書かれたサイトもあって、ビビりました)

三島由紀夫の海の描写が、デジタル的になされているというのも面白い着眼ですね。
説得力がありました。

現代社会のテクノロジーが、批判性や不確実性を濾過していく方向で凝固しているのは間違いないでしょう。
言ってしまえば、人間を「温室育ちのか弱い植物」にしていく結果になります。
どんなにテクノロジーを発達させても、不確実性は消し去れないので、
いざトラブルや災難に見舞われたときに、人間の精神的耐久力の衰退によって、さらなる災厄を招き寄せる気がしています。

往来市井人さんだけでなく、僕はもちろん、人間はすべて「未熟」です。
だからこそ、まだまだ成長できるということでもあるはずです。
お互いそういった反省的な自覚を持ちながら、思索と表現をしていきたいものですね。

ぜひとも、またコメントをお寄せください。

牛乳と同質化

今回の記事も拝読させて頂きました。

前回の記事で批判された「社会正義」ごっこが、以前私が投稿したアキレスと亀の内容と一致する部分が多く、改めて私自身も同質性の中にある若輩であると実感し、情けなく思いました。

AIはあくまで機関でしかないので、南井様のご指摘通り、利用する人間の欲望と自己正当化の為に使われる事になります。AIが前述の目的を肩代わりする事になれば、目的の為に情報を「最適化」した後に統合する事になるため、批判性や不確実性を持つ情報をも、目的に沿った形として吸収して利用する事になります。

関係の無い事かも知れませんが、牛乳の精製工程にはホモジナイズ(同質化)と呼ばれる工程があり、
牛乳の脂肪分を細分化する事で、脂肪の粒を均等に揃え、口当たりが良くなるよう加工しています。

AIによる情報の統合に依存すればするほど、批判性や不確実性はどんどん濾されて、口当たりの良い同質的なものへと向かう事になります。
それは純粋を求める行為ですが、純粋なものだからこそ退行と重ねて考えて行かなければならないものと考えています。

これは私個人の妄言ですが、波は皆同じ方向を目指し、波がやがて浜を目指すにつれて飛沫に変わる。そうした飛沫の拡がりと凝結の重複こそが海であるという、三島由紀夫による海の描写とAIによる情報の統合が重なるように直感したことは、自分自身の考えるきっかけになると思っています。

未熟の内容ですが、これからもどうか投稿を許していただくことを願います。

無題

〈本当のAI〉は見果てぬ夢なのかな、という気がちょっとしています。
「(一部の)人間が〈神〉の座に就く」「その他大勢の人間を管理する」ためのツールとして、AIの開発は加速してゆくのかもしれません。
でも、どこまで行っても、人間が〈新しい人間〉を生み出すのは不可能ではないか、と。

将棋ソフトの手が「人には指せない」と持て囃されるように、AIが組み合わせの新鮮さによって耳目を集めるのは否定できないですし、面白くなくはないですが、無限にも思える順列組み合わせを超高速で生成できるのなら、それは原理的に当たり前のことですよね。
根本的な驚きというか、物事に対する批評性がまったく介在しない。
南井さんが繰り返し警鐘を鳴らしているように、今の社会は「安全」(という名の羊水システム)からの逸脱を極度に嫌いますから、寝た子を起こす目覚ましに登場されては困るのでしょう。
ほんのわずかな批評性さえ。
表現の場においてさえ。

「消費市場の規格化に対して「無関心」なものを作る」
「統計処理できない真にパーソナルなものを探求する」
玩味したい言葉です。

江口敬さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
江口敬さん、ブログにコメントをしていただき、ありがとうございます。

映画『A.I.』は僕も見たような記憶があります。
どうも人工知能は人型アンドロイドとごっちゃにされがちですね。
天馬博士は死んだ息子を模して鉄腕アトムを作りましたが、
やはりロボットは人間ではなかった、というのと似たテーマでしたよね。

最近のイギリス文学では、カズオ・イシグロ『クララとお日さま』(2021年)やイアン・マキューアン『恋するアダム』(2020年)など、
AI搭載の人型アンドロイドの話が目立ちました。
『恋するアダム』では、アンドロイドが俳句を作るシーンもあります。

基本的に創作の世界では、AIの現実を描くというより、AIを人間にしたがっている感じです。
人間が神になるためには、人間が人間を創造しなくてはいけないのでしょうが、
こういうキリスト教的無意識というか一神教的欲望に、僕は飽き飽きしています。

現実のAIは、江口さんが指摘するように、過去のデータを集めてきて最適解を提示するものでしかありません。
人間以上の反応速度で最適解を出せるので、「安全」な自動運転システムや、「安定」した投資回収システムの形成が期待されています。
巨大なデータを組み合わせれば、意外で新鮮なものが出来上がる可能性はありますが、
基本的に統計の利点は最適解を出すことなので、既視感のある「安全」な範囲におさまります。
そういうもので満足する人々は、まさに母の庇護下にある退行現象を生きていることになります。

最近のポップカルチャーの多くは商品の規格化に抗えないものばかりなので、想像力に乏しく退屈かつ「安全」です。
過去の作品を超えられないのであれば、AIでも生み出せるレベルだということになります。
AIに真似できない、本当にクリエイティブな仕事をしたいならば、消費市場の規格化に対して「無関心」なものを作るほかない、と僕は思っています。
美的態度は、社会性(ジェンダー!)や実用性(商売!)に対する「無関心」によって成立するものだからです。

もう今の時代はエクストリーム(=わかりやすさ)ではダメです。
統計処理できない真にパーソナルなものを探求する方が、個人発信の時代におけるクリエイティブなのではないでしょうか。

無題

スピルバーグの『A.I.』は、「母の愛」を求め続けるロボットの物語でしたね。
現実のAIは、未来を考える力も、新しいものを創造する力も無いので、そのようなAIに期待を掛け、隷従すれば、後ろに向かて歩く未来が訪れるだけですね。

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