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イワン・カラマーゾフ「大審問官」の射程【後編】──あるいは『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について

享楽の管理

前回に引き続き『カラマーゾフの兄弟』に収められた劇詩「大審問官」を読んでいきます。
「大審問官」は、カラマーゾフ三兄弟の次男、イワンの悪魔的思考によって生み出された問題作です。
その舞台は16世紀のスペイン。
そこに不意にキリストが現れ、死者を生き返らせます。
大審問官はすぐさまキリストを捕らえさせ、牢の中で沈黙する相手に語りかけます。
キリストの教えは人間の「自由」を価値とするが、人間に「自由」は重荷でしかなく、むしろキリストが「奇蹟」によって人間を服従させるべきだった、
人間は個々の「自由」よりも、みんなで同じ対象に服従する方を望んでいる、
キリストがそれを実現しないので、大審問官が神の代理人として、「地上のパン」を与えて民衆を服従させ、彼らの望みを叶えている、
こうキリストを問い詰めながら、大審問官は自らの民衆支配を正当化するのです。


人間は「自由」よりも「服従」を望むものである、と大審問官は確信しています。
それが本当に真実と言えるのか、そこは検証されるべきところです。
人間が自由に耐えられないことを裏付ける理論として、前回はエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を紹介しましたが、
今回はさらにアレクシ・ド・トクヴィルの考察も加えておきたいと思います。
トクヴィルはフランスの貴族の出身で、渡米経験を活かして『アメリカのデモクラシー』(第一巻1835年、第二巻1840年)を書いた人です。
ドストエフスキーとはほぼ同時代の人で、貴族制(アリストクラシー)から民主制(デモクラシー)への移行期に当たります。
『アメリカのデモクラシー』は、自由に価値を置くアメリカの民主社会が、「境遇の平等」によって成立していることを解き明かした本です。


その『アメリカのデモクラシー』第二巻の最後では、民主国家が専制へと陥るプロセスについて考察されています。


専制がこの世界に生まれることがあるとすれば、それはどのような特徴の下に生じるかを想像してみよう。私の目に浮かぶのは、数え切れないほど多くの似通って平等な人々が矮小で俗っぽい快楽を胸いっぱいに想い描き、これを得ようと休みなく動きまわる光景である。誰もが自分にひきこもり、他のすべての人々の運命にほとんど関わりをもたない。彼にとっては子供たちと特別の友人だけが人類のすべてである。
(トクヴィル『アメリカのデモクラシー 第二巻』松本礼二訳)

トクヴィルはアメリカを平等社会と見ているので、平等な社会において専制が生じる場合を考えています。
自分への関心に貫かれた似通った人々が、俗っぽい矮小な快楽を得ようと動き回っている、
この箇所を読むと、19世紀のアメリカよりもむしろ現代の消費社会について書かれたかのように感じられないでしょうか。


この人々の上には一つの巨大な後見的権力がそびえ立ち、それだけが彼らの享楽を保障し、生活の面倒をみる任に当たる。その権力は絶対的で事細かく、几帳面で用意周到、そして穏やかである。人々に成年に達する準備をさせることが目的であったならば、それは父権に似ていたであろう。だが、それは逆に人を決定的に子供のままにとどめることしか求めない。市民が楽しむことしか考えない限り、人が娯楽に興ずることは権力にとって望ましい。
(トクヴィル『アメリカのデモクラシー 第二巻』)

ここでトクヴィルが考えている「専制」のかたちは、生活と享楽を与えてくれる権力によって、市民が幼児化していく社会です。
(トクヴィルは「父権」に似ている権力としていますが、むしろ「過干渉な母親」に近いものです)
これは、大審問官が支配する社会とも近いものです。
大審問官が民衆を服従させるために与える「地上のパン」とは、直接には食料のことを示していましたが、実際は「生活の面倒を見る」ことでした。
それを望む民衆たちは、自分たちの生活の細かなことまで、大審問官の判断を仰ぐようになります。
「彼らが妻や恋人と暮すことも、子供を持つか持たぬかということも、すべて服従の程度から判断して許しもしようし、禁じもしよう。そうすれば彼らは楽しみと喜びとを感じてわれわれに服従するだろうからな」
こう大審問官は語っているのですが、これは「楽しみと喜び」という享楽ヽヽ管理ヽヽによる支配システムです。
大審問官の支配は、父や母の代理として「享楽を保障し、生活の面倒を見る」ことによって、民衆(市民)に服従を求めるものです。
この点がトクヴィルが予言した専制社会と共通しています。


僕は19世紀の知識人であるドストエフスキーやトクヴィルが語る管理権力の方が、
20世紀末のフーコーの権力論よりも、現代的で正鵠を射たものに思えます。
なぜなら、「享楽の管理」こそが、現代の国家権力の大きなテーマになっていると感じられるからです。
景気後退局面にある国家が、なぜオリンピックやワールドカップの招致に前向きなのか、
最近の話で言えば、全国的な選挙の前に、なぜWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)がニュース番組の冒頭を占拠し続けていたのか、
これらは権力による「享楽の管理」でしか説明ができません。


現代思想ではフーコーやドゥルーズの管理社会論をやたらと重宝していますが、
彼らの思想には「享楽の管理」という消費社会批判につながる回路は存在していません。
これは管理社会論としては思想的に後退したものでしかないわけですが、
〈フランス現代思想〉が消費資本主義に協力的な思想として、もてはやされることになった原因の一つとも言えるでしょう。
市民が享楽にうつつを抜かしているうちに、専制的な権力の支配が強まるという19世紀の知性を、今こそ真剣に引き受ける時ではないかと思います。
支配権力の片棒を担いでいる「現代思想®︎」などに、消費的享楽を求めている場合ではないのです。


思い出してほしいのは、この大審問官的な専制社会が、自由の重荷から人々を解放するために成立しているということです。
トクヴィルが描く専制でも、やはり自由との関係について触れられています。


したがって今日権力は日ごとに自由意志の行使をますます無効に、いよいよ稀にしている。意思の作用をより小さな空間に閉じ込め、次第に個々の市民から自ら動く力さえ奪ってしまう。平等がこれらすべてへ向けて人々を準備させていたのである。
(トクヴィル『アメリカのデモクラシー 第二巻』)

イワンの「大審問官」では、人間が自由より服従を望むことで圧政が生まれますが、
トクヴィルが語る専制では、民主的な平等が市民から自由を奪うとされています。
服従の本性か、平等の重視かという違いはありますが、人間が自ら自由を手放す社会が成立しうるという認識については、イワンもトクヴィルも共通しています。


前回、『カラマーゾフの兄弟』の語り手が、社会主義を否定的に評価していることを取り上げました。
作品全体を見回して、ドストエフスキーの立場もわりと革命には否定的に思えます。
王党派の家に生まれたトクヴィルも、親族が革命政府に殺されているため、革命に対してやはり否定的に考えている面はあるでしょう。


しかし、トクヴィルはイワンほどに悲観的な見方をしていません。
現代人には「指導されたいという欲求」と「自由のままでありたいという願望」の「矛盾した情熱」があることが問題だとしています。
指導されたい(=服従したい)、でも自由でいたい、
服従と自由の両方を同時に満たすために、市民が選挙で後見権力を選ぶという民主的方法を取る、というのがトクヴィルの洞察です。
しかし、国民代表を選ぶ集権制という方法でも、極端な集権制を生み出す危険はなくならない、とも付け加えています。


実際、ナチスドイツのケースを考えれば、民主制から独裁権力が生まれることは歴史的に証明されています。
トクヴィルの描く専制社会が事実と結びついているからこそ、
結論を同じくするイワンの悲観的な見方も、リアリティをもって検証する必要が出てくるのです。


自由に耐えられない人間の「弱さ」

「大審問官」では、人間が自由よりも服従を求める理由を、人間の「弱さ」に見出しています。
大審問官の論法はこうです。
キリストが人々に与えた自由は、「天上」へと結びつく永遠的な知恵によって価値が実感できるものであり、
「地上」に縛られている現在ヽヽ的なヽヽ知恵では達することができないものです。
つまり、地上での現在的な生活を克服することで、キリストの説いた「天上のパン」という自由を得ることができるわけです。
しかし、多くの人間にはそんな高尚な精神などわからないので、「地上のパン」という物質的なものにこそ価値を感じています。


「天上のパン」は素晴らしいものだが、それを得られるのは少数の強い人間だけだ、ということに「大審問官」が提示する問題の核心があります。
キリストの教えは高尚かつ強靭なので、少数の強者にしか受け入れることができません。
だから、大多数の弱い人間はそこから排除されている、というわけです。
人間は本来的に弱いものなので、キリストが説く「強者のための教え」──地上と現在を離脱した自由──にはついていけない、
だから弱い多数の人間のために、誰かが「地上のパン」を与えて、彼らを支配してあげなければならない、
しかしキリストはそれをやらなかった、
だから代理人の大審問官がそれを実行している、というのが大審問官の論理です。
つまり、大審問官は「地上のパン」によって、キリストの教えが置き去りにした、弱い人間たちのための支配体制を作り出したのです。


お前は彼らに天上のパンを約束した。だが、もう一度くりかえしておくが、かよわい、永遠に汚れた、永遠にいやしい人間種族の目から見て、天上のパンを地上のパンと比較できるだろうか? かりに天上のパンのために何千、何万の人間がお前のあとに従うとしても、天上のパンのために地上のパンを黙殺することのできない何百万、何百億という人間たちは、いったいどうなる? それとも、お前にとって大切なのは、わずか何万人の偉大な力強い人間だけで、残りのかよわい、しかしお前を愛している何百万の、海岸の砂粒のように数知れない人間たちは、偉大な力強い人たちの材料として役立てばそれでいいと言うのか? いや、われわれにとっては、かよわい人間も大切なのだ。彼らは罪深いし、反逆者でもあるけれど、最後には彼らとて従順になるのだからな。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』原卓也訳)

「天上のパン」の価値がわからない多数のかよわい人間を救済するには、享楽と生活を保障する「地上のパン」による支配が必要だ、
この大審問官の主張は、キリスト自身が説いた教義(オリジナル)の価値は大衆の前で滅亡する運命にある、という話だと理解するべきものです。
「オリジナル」の教義が、多数の弱い人間にとって受容し難いものであるとき、
そこに大審問官のような代理人が現れて、地上的で現在的な──要するに俗物的な誘惑に富んだ──「劣化コピー」の教義によって彼らを服従させるということなのです。
大衆支配というものは、大審問官の「劣化コピー」を価値として、「オリジナル」を忘却したときに完成を迎えます。
「大審問官」とは、信仰を世俗化したポストモダンの勝利と、それが専制的な支配体制を呼び込むことを示す寓話だと僕は考えます。


大審問官はさらに興味深いことを語ります。
強者であるキリストは、奇蹟の力を退けることができた、
しかし、多くの人間にはそのようなことはできない、
キリストは人間を愛しすぎたために、人間への評価が大きすぎた、と大審問官は言います。


人々がお前をからかい、ろうして、《十字架から下りてみろ、そしたらお前が神の子だと信じてやる》と叫んだとき、お前は十字架から下りなかった。お前が下りなかったのは、またしても奇蹟によって人間を奴隷にしたくなかったからだし、奇蹟による信仰ではなく、自由な信仰を望んだからだ。お前が渇望かつぼうしていたのは自由な愛であって、永遠の恐怖を与えた偉大な力に対する囚人の奴隷的な歓喜ではなかった。だが、ここでもお前は人間をあまりに高く評価しすぎたのだ。なにしろ彼らは、反逆者として創られたとはいえ、もちろん囚人だからだ。あたりを見まわして、判断するがいい。すでに十五世紀が過ぎ去ったけれど、お前が自分のところまで引きあげてやったのがどんな連中だったか、見てみるがいい。誓ってもいい。人間というのは、お前が考えているより、ずっと弱く卑しく創られているのだぞ! その人間に、お前と同じことがやりとげられるだろうか?
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)

この大審問官の言葉は、僕にはひどく残酷に響きます。
多くの人が語ることを避け続けている真理と、ここで向き合わざるを得なくなるのです。
「自由」のために「奇蹟」を拒否するキリストの強さを、人間に同じように要求することはできない、
なぜなら、人間とは「弱く卑しいもの」だからです。


宗教的な強さ──それは、文学や思想の根底にあるものです。
大審問官によれば、それを追求したとしても、弱く卑しい人間には負担にしかならず、それに反逆するようになるだけです。
そのような反逆は、小学生が教室から先生を追い出すような「子供か小学生の誇り」にすぎない、と大審問官は語ります。


現代の出版界には、「オリジナル」の権威だけを利用して、享楽的な「劣化コピー」を流通させたがる大審問官のような商売人が数多くいます。
そのような堕落を「オリジナル」の教義をもって批判したとしても、「弱い魂」である多くの消費者には重荷にしかなりません。
「自由」という気高い精神を取り戻そうという動きは、「弱い魂」を管理する大審問官からすれば、「われわれの支配の邪魔をしにきた」ことにしかならないのです。
そうして、教室から先生を追い出す小学生のように、高貴な精神は追放されるのです。
わかる人にはわかると思いますが、僕はここに文学がサブカルチャーによって追放される大衆社会の必然を見ているのです。
文学は人間に強く高尚な魂を要求するために、「弱い魂」の砦である大衆消費サブカルチャーによって追放される運命にあるのです。
大審問官がキリストに「人間への尊敬がもっと少なければ、人間に対する要求ももっと少なかったにちがいない」と語ったように、
人間を高く評価し、尊敬することが間違いだという結論にたどりつくわけです。


多くの人間は無力で弱く卑しい、
だから生活と享楽を管理する権力に支配されながら、
「自由」を捨てて、起こることのない「奇蹟」を待ち望むほかない、
これが「大審問官」を構想したイワン・カラマーゾフの悪魔的結論です。


劇詩「大審問官」が投げかける最大の問題とは、
強い人間は必ず少数であり、弱く罪深い反逆者が多数を占める、という真理にあります。
「大審問官」について書かれた文章は数多くありますが、この真理に正面から挑んだものを、僕はまだ読んだことがありません。
小林秀雄はこの真理を正面から取り上げましたが、それでもこの真理と格闘することはしていません。
僕がこの問題を考え続けた30年の間で、同様のテーマに挑んでいると感じたのは、「機動戦士ガンダム」シリーズの原作者である富野由悠季だけでした。


富野由悠季の対話性

ドストエフスキーがサブカル要素を巧妙に利用したのは、大衆社会で対話劇としての文学を生き残らせる手段だった、と僕は考えます。
そのため、ドストエフスキーをリスペクトしていても、
そのサブカル要素を利用して対話性を引き継ぐこともなく、自分の中に引きこもった作品を書けば、それはもう文学ではありません。
ノーベル文学賞の候補だと毎回騒ごうが、それはサブカルに多く依拠した作品でしかないのです。
それならば、アニメという完全なサブカル作品でありながらも、
作中の対話劇を高いレベルにまで引き上げれば、それは文学と呼べるかもしれない、ということになります。
僕の見るところ、富野由悠季のアニメ作品だけが、唯一そのような評価に耐えられるものです。


富野由悠季のアニメ作品の多くは、いわゆるロボットアニメというジャンルになります。
作品に登場するロボットの玩具を売る目的で、スポンサーに制作を支えてもらうという構造で成立したジャンルです。
ものすごく意地の悪い見方をすれば、模造品とはいえ武器商売によって支えられたジャンルということになるでしょう。
このような環境の中で、富野由悠季はアニメ監督として、戦争をなくすことを追求する作品を作り続けました。
ここでは富野由悠季論をやるつもりはないので、ざっくりと結論を言いますが、
富野作品は戦争をなくすことに挫折して、人類が絶滅する作品で頂点を極めました。
その後、玩具商売が衰退したこともあって、彼は戦争をなくすために武器を放棄する方向に舵を切るのですが、
絶滅を描いた作品を超える文学性を宿すことはできませんでした。
(ちなみに武器商売を放棄したアニメは、キャラクターを売る性的なアイドル商売へと姿を変えました)


富野由悠季のロボットアニメで、メタ的な要素を持つのが「対話性」です。
ロボットに乗る敵同士が、常態的に戦いながら対話を繰り広げるのです。
もちろん、敵同士の間では通信回線は開いていないので、それぞれが独り言の体で喋っているのですが、
もはやそんな設定を無視して、対話の応答になっている場面も少なくありません。
「対話性」が世界設定を軽々と超越していくポリフォニー構成が、富野作品の特徴であり、僕が文学と言って憚らない所以なのです。


富野由悠季の『機動戦士ガンダム』(1979年)では、大きな対立軸は主人公アムロ・レイと、宿命のライバルであるシャア・アズナブルによって担われています。
この二人は人類が宇宙に飛び出して、脳の潜在能力を全開にすることで目覚めた「ニュータイプ」という異能者です。
「ニュータイプ」は人間の認識能力を異常なまでに発達させ、離れた人や物の存在を察知したり、果ては死者の声を聞くことまでできたりします。
しかし、遠く離れたものを認識する能力は、撃破するべき敵を正確に見つけ出す戦争の道具として、有効活用されてしまいます。
地球連邦軍のアムロもジオン軍のシャアも、「モビルスーツ」というロボット兵器のエースパイロットとして、とてつもない戦績をあげていきます。


そして戦いの最中、アムロはニュータイプ能力によって、精神の深いところで理解し合える相手ララァ・スンを見つけるのですが、
ララァは敵軍の最強ニュータイプであり、宿敵シャアの恋人だったのです。
すでに「地上のパン」=シャア(身体性)を選んでいたララァにとって、「天上のパン」=アムロ(観念性)の登場は遅すぎた、とララァは嘆きます。
(ニュータイプとは、ある種の経験的−超越論的二重体なのです)
空間を飛び越えてわかり合えるはずのニュータイプの二人は、時間の壁によって引き裂かれ、
戦場の敵同士という地上の現在的関係の中で、運命の相手の命を自ら奪うという業をアムロにもたらします。
観念が常に身体に「遅れ」を取ることを「原罪」として捉えた『機動戦士ガンダム』という話は、僕にとっては悲劇ヽヽとして刻まれています。


人はなぜ人を殺すのか、
実際に知り合ったら、自分にとって運命的な相手かもしれない人を、なぜ殺してしまうのか、
それは考えるより前に身体が動くからだ、というのが富野の悪魔的結論です。
考えるより前に、身体に備わる防御本能が自身を守ろうとするのです。


そのような「純粋な防御本能」を、人類絶滅の原因として描いた作品が、続く『伝説巨神イデオン』(1980年)でした。
イデオンでは、「純粋な防御本能」は「イデの力」と呼ばれています。
「イデの力」は思考以前の自己防衛に根ざしているので、生まれる前の胎児こそが最大のパワーを持ち、その力が人類を絶滅に追いやるのです。


今回僕が「対話劇」として、「大審問官」と並べて取り上げたいのが、
ガンダムの宿命のライバルである、アムロとシャアの最後の決戦を描いた『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988年)という映画作品です。
ガンダムの作品世界を一口で説明するのは難しいので、あらすじが載っているサイトを参考にしてほしいのですが、
作品世界の背景に移民問題があることは抑えておく必要があります。
地球人が宇宙に巨大な居住空間(スペースコロニー)を作り、そこに移民として移り住んだ宇宙移民(スペースノイド)が、地球政府のエリート支配に対して反旗を翻すという、一種の「階級闘争」が通奏低音として存在しているSF世界です。
実はシャアの父ジオン・ズム・ダイクンは、宇宙移民たちの国家が地球から独立することをめざした人です。
シャアはその遺志を継ぐ宇宙移民の代表(ネオ・ジオン総帥)として、腐敗した地球政府のエリートごと地球人全体を粛清しようとします。
その粛清(=虐殺)方法とは、小惑星を人為的に地球に落下させて、人が住めないように地球を寒冷化する、というものでした。
当然、地球政府の軍隊は全力でネオ・ジオンを叩く必要があるわけですが、地球政府の高官があまりに腐敗しているために、
和平を装ったシャアの政治力と裏金に屈して、地球人滅亡の鍵を握る小惑星アクシズをネオ・ジオンに売り渡してしまいます。
そのため、アムロの属するロンド・ベル隊が単独で、小惑星アクシズを地球へ落下させるシャアの作戦を、なんとかして食い止めようとするのです。


富野はシャアとアムロの位置付けを、非常に複雑にしています。
「難民のための政治」を掲げて、地球のエリートに対抗するシャアは、言わば虐げられた弱者の側にいるわけですが、
彼自身はニュータイプによる世作りを考えていたエリート主義者です。
それに対して、アムロは腐敗した地球の権力者を守る組織に属しているのに、誰にでも優しい人民派の人物です。
シャアは人間の愚かさを憎む革命的テロリストですが、アムロは人間に希望を持つ保守主義者だと言えます。


『逆襲のシャア』は35年も前の作品ですが、興味深いことに、シャアは人間による環境汚染に地球はもう耐えられないと主張します。
いち早く、人間による地球環境の汚染を問題にしているのです。
小惑星を落として寒冷化する作戦は、地球にしばらくの間「休んでもらう」ことを意図しています。
つまり、シャアは地球環境を保護する環境テロリストの側面を持っているのです。
サイド1でシャアとアムロが偶然出会ってしまう場面があるのですが、
そこで二人が殴り合いながら行う「対話」は、そのことに及んでいます。


シャア「地球は、人間のエゴ全部を飲み込めやしない」
アムロ「人間の知恵はそんなもんだって、乗り越えられる」
シャア「ならば、今すぐ愚民ども全てに叡智を授けてみせろ」
クェス(そうだ、それができないから)
アムロ「貴様を殺ってから、そうさせてもらう」(銃を抜く)
(クェスが背後からアムロに迫り、銃を奪ってアムロに向ける)
クェス「アムロ、あんたちょっとセコいよ」

人間の欲望の巨大さが地球を滅ぼすと警告するシャアに、アムロは「人間の知恵」が危機を克服する、と応じます。
しかし、シャアは愚かな大多数の人間に、そんな知恵を持たせることはできまい、と現実を突きつけます。


ここでシャアが立脚しているのも、「大審問官」と同様の真理です。
つまり、「叡智」を持つ人間は少数でしかなく、多数の人間は弱く卑しい「愚民」であるということです。
大審問官の主張は、キリストの教えを実現できる人間は少数であり、その千倍万倍もの人間は「地上の現在性に囚われた」弱く卑しい反逆者だ、というものでした。
シャアの考え方も同じで、人類すべてが「ニュータイプ」という宇宙規模の認識能力を持つことはできず、
多数の人々は「地球の引力に囚われた」愚民でしかない、と考えています。
大審問官がキリストの代理人として、人間の服従を正当化しているように、
シャアは宇宙秩序の代理人として、愚民の抹殺を正当化するのです。


もちろん、多くの人間は愚かであるから地上から抹殺する、という思想は過激で性急です。
実を言うと、アムロは終始シャアの思想そのものに反論することはできていません。
アムロの反論はシャアの「過激さ」に向けられています。
小惑星アクシズを地球に落下させる、という作戦を食い止めるために、アムロが単身でアクシズの破壊を試みる場面で、
シャアとアムロは(半ば強引な方法で)対話をしているのですが、それはこのようなやりとりです。


アムロ「世直しのこと、知らないんだな。革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標をもってやるから、過激なことしかやらない。しかし革命の後では気高い革命の心だって、官僚主義と大衆に飲み込まれていくから、インテリはそれを嫌って、世間からも政治からも身を引いて世捨て人になる。だったら……」
シャア「私は、世直しなど考えていない! 愚民どもにその才能を利用されている者が言うことか!」
アムロ「そうかい!」

二人の「対話」は、それぞれが自己主張をぶつけ合っているような形ですが、
互いが互いを否定しようと「殴り合う」ことで、「対話」としての内実が成立していると僕は考えます。
(この「観念性」と「身体性」の結びつきが、富野由悠季作品をアニメから演劇の表現レベルに引き上げているのです)


革命は気高い心で「夢みたいな目標」を立てるが、それを実現しようとして過激になる、というアムロのセリフは、大審問官がキリストを責めた言葉と重なるものです。
キリストの説く自由は「強者のための教え」であり、人間への過大な要求であるため、多くの民衆には重荷でしかない、という大審問官の考えと、
「世直し」を掲げるインテリ革命家は、人間に過大な要求をするために、人々に重荷をもたらす、というアムロの批判は同じものだからです。
つまり、『逆襲のシャア』を「大審問官」と重ねると、シャアの思想はキリスト的な「強者のための教え」であり、
それが過大な要求であると主張する点で、アムロは大審問官と同様の立場にあるということになります。
ただ、こう整理したときに決定的に居心地が悪いのは、「大審問官」と『逆襲のシャア』で、善玉と悪玉が入れ替わっていることです。
これはおそらく、民主制に懐疑的な時代の作品と、民主制に肯定的な時代の作品との差だと思います。


実際、富野由悠季はアムロ・レイを、キリスト的な自己犠牲の人物としてキャラ造形していたと推測します。
アニメ版の『機動戦士ガンダム』では、最後のア・バオア・クー攻防戦で大破したガンダムの腹の中で、アムロは仲間たちを救出するために「啓示テレパシー」を人々に与えます。
実はニュータイプ以外の人にまで「啓示テレパシー」を与える能力を、その後のアムロが発揮することはありません。
おそらく、この「啓示テレパシー」は本来ならアムロの死をもって発揮される「奇蹟=天上の力」だったはずなのです。
なぜなら、テレビ版以前に富野が構想したと思われる小説版『機動戦士ガンダム』(1979年)では、
アムロが戦死することによって「啓示テレパシー」が発動し、敵であるシャアが裏切って戦争を終わらせるストーリーになっているからです。
アムロは自己犠牲によって、周囲の人々を解放するキリストのような人物として描かれていました。
しかし、アニメ版では物語の最後でアムロが生還を果たしてしまったために、感動でしめくくられる印象深い作品として人々の心に残りましたが、
作品を文学として完結させることを捨てた、どこか都合のいいサブヽヽカルヽヽ作品ヽヽとして終わったのです。


サブカルチャーという大審問官の法具

富野作品は悲劇として完結することでしか文学にはなりえない、というのが僕の印象です。
これは富野由悠季の持っている資質のためだと思います。
人間を愛しすぎたキリストのように、愛と自由を求める人間のポジティブさを信じられるか、
それとも大審問官のように、弱く愚かな人間のネガティブさをリアルとするか、
「天上」の神と「地上」の悪魔のどちらの側につくかが、「大審問官」的な問題だとすれば、
ドストエフスキーは前者に近く、富野由悠季は後者に近いからです。


その意味で、富野作品として文学的ヽヽヽ成功を収めているのは、『伝説巨神イデオン』や『聖戦士ダンバイン』(1983年)だと言えるでしょう。
「ガンダム」は悲劇を描きながら、ラストを「奇蹟」によってまとめあげたために、サブカルの枠に収まって商業的なファン(オタク)を安心させることになりました。
オリジナルのガンダムシリーズの完結編に位置付けられる『逆襲のシャア』も、「奇蹟」から逃れることはできませんでした。


『逆襲のシャア』のラストは、こう締め括られています。
小惑星アクシズを地球に落下させて核の冬を招き寄せ、地球上の人類を絶滅しようとするシャアに対して、
アムロたちロンド・ベル隊はアクシズを内部から爆破して、地球への落下を阻止する決死の作戦を実行します。
その作戦はなんとか成功し、小惑星アクシズは爆破によって真っ二つになりますが、
その爆発が大きすぎたために、アクシズの片方が地球へと引き寄せられて落下ルートに入っていきます。
人間の愚かさがシャアの作戦を手助けする、という状況になってしまうわけです。


シャアとのバトルに勝利したアムロは、シャアの脱出ポッドを手にしたまま、
新型ガンダムを駆って、落下し始めているアクシズを、無謀にも単身で押し返そうとします。
半分になったとはいえ、大気圏へと落下を始めた小惑星を、ガンダム一機で押し返そうとすることは、竹槍でB29に挑むような愚かな行為ですが、
人類の命運を背負った壮絶な行為だけに、援軍だけでなく敵だったシャアの配下のロボットまでガンダムに協力して、落下するアクシズを押し返そうと頑張ります。


しかし、現実の力学において、ロボットたちのパワーでは小惑星の落下を食い止めることはできません。
大気圏の熱によって一機、また一機とロボットは吹き飛ばされて、最後にはシャアの脱出ポッドとアムロのガンダムまでもが燃え尽きます。
そこで「奇蹟」が起こるのです。
アムロとシャアという人類を代表するニュータイプ二人が、肉体を失って「天上の魂」となった瞬間に、
それと共鳴する「サイコフレーム」というメディア技術(!)が、巨大な「遺志ヽヽの力」を充填させ、小惑星アクシズを押し返して地球から遠ざけていったのです。


地球の空には、肉眼で確認できるほどに、二つに割れた小惑星アクシズが浮かんでいました。
二つに分裂したまま均衡を保ったその姿は、相入れぬままに同時に「天上の魂」となったアムロとシャアのように僕には見えました。
これは1988年の作品ですので、冷戦構造の崩壊が目前だった時代です。
おそらく、この時の富野は、敵対し合う両陣営がそのまま併存するような世界を、思い描いていたのではないでしょうか。


この『逆襲のシャア』のラストは、(主人公とライバルの)絶滅という悲劇と「奇蹟」による救済をうまく組み合わせたものになっています。
しかし、やはりラストの余韻は、悲劇よりも感動の方に比重があるのは否定しがたく、サブカル的な「奇蹟」を示して終わった作品という印象になりました。
その意味で、『逆襲のシャア』はやはり「ガンダム」であった、と言えるサブカル作品です。


熱が入ってストーリーを追いすぎましたが、ここで僕が話したいのは、「大審問官」と「ガンダム」の違いであり、文学とサブカルとの違いについてです。
イワンの「大審問官」では、キリストが「奇蹟」を退けて「自由」の価値を示したことの重要さが強調されています。
大審問官はそのキリストの姿勢を批判し、自らは「奇蹟」に基づいた支配を実行している、と言います。


われわれがやったのは、まさにそれさ。われわれはお前の偉業を修正し、奇蹟ヽヽ神秘ヽヽ権威ヽヽの上にそれを築き直した。人々もまた、ふたたび自分たちが羊の群れのように導かれることになり、あれほどの苦しみをもたらした恐ろしい贈り物がやっと心から取り除かれたのを喜んだのだ。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)

「自由」を重荷とする大審問官の大衆支配は、「奇蹟と神秘と権威」によってなされる、と宣言されます。
つまり、キリストが説く「強者のための教え」についていけない大衆には、「地上のパン」を与えるだけでなく、「奇蹟と神秘と権威」によって導いていくことが必要だ、と言うのです。
つまり、「奇蹟と神秘と権威」こそが、大審問官の支配を盤石にするための道具だということです。


サブカルチャー作品の物語性は、「奇蹟と神秘と権威」に支えられていることが少なくありません。
映画や漫画やアニメが「奇蹟」や「神秘」を大安売りすることは、誰もがよく知るところだと思います。
不思議な現象や、神秘的な力など、「意味化できない」ものが、サブカルチャーに力を供給しています。
スポーツの世界でも「奇蹟」が演出されることは珍しくありません。
サブカルチャーはセックスとバイオレンスの欲望という「意味化できない」ものも大好きですが、同様の理由で「奇蹟」や「神秘」も大好きなのです。
「権威」が好まれるという点で言えば、漫画やアニメでやたらと社畜から貴族に転生する話が流行していることがわかりやすいでしょう。
要するに、サブカルチャーとは、大審問官の民衆支配を手助けする法具なのではないか、ということです。
少なくとも、そうではないかと疑う視点は非常に重要だと考えます。


高度メディア技術という「奇蹟」

『逆襲のシャア』のラストシーンで「奇蹟」を生み出した「サイコフレーム」を、
僕は死者たちの「遺志の力」を結びつけるメディア・テクノロジーだと表現しました。
われわれは映画作品の中で「奇蹟」の実現を目撃したとき、そのような「作り物の奇蹟」をそうそう簡単に信じるわけではありません。
そんなこと起こるわけないじゃないか、と冷笑することは難しくありません。
しかし、同じように「奇蹟」を描いた作品でも、小説を読むよりも映画で見た方が、より「奇蹟」に感銘を受ける人は多くなるはずです。
映画が「奇蹟」を実感させやすいのは、活字より映像のイメージ伝達力が勝っているからではありません。
映画というメディアが、平面的なスクリーンに現実を映し出す「奇蹟」を、目の前で実現している、
その事実ヽヽが、作品の中で起こる「奇蹟」の現実化に、説得力を与えているのです。
重要なのは、高度メディア技術そのものが、神の「奇蹟と神秘と権威」の代替物だということなのです。
その意味で、現代社会を支配する大審問官が、「奇蹟」を引き起こす高度メディア技術を、自分たちの支配の法具として利用しないはずがありません。


キリスト教以外の一神教であるユダヤ教とイスラム教は、偶像崇拝を禁止しています。
つまり、偽物の神の像を作ることを強く戒めているわけですが、キリスト教はそのような教義の「純粋化」を無視して、偽物コピーの流通拡散力を勢力拡大に利用することを厭わなかったように見えます。
「作り物の奇蹟」という偽物が大審問官に利用されてしまうのも、
そもそもキリスト教が「純粋化」よりも、偽物さえ利用して勢力を拡大する方を重視していたことにあると僕は思っています。
当然ながら、このような宗教を信奉する社会は、勢力拡大を優先する原理に貫かれているために好戦的な社会にならざるをえません。
キリスト教が支配したヨーロッパ社会が戦争の絶えない場所なのは、そのような理由ではないでしょうか。
(コピーの拡散力を肯定したポストモダン思想が、フェイクの拡大に寄与するのは当然極まりない結果だと言えます)


現代はメディアやサブカルチャーによる、大審問官的な支配が盤石になった社会だと僕は見ています。
多数者が有利になる社会は、少数の人しかやり通せない「強者のための教え」を排除し、弱く卑しい反逆者を「奇蹟と神秘と権威」によって支配する社会でもあるのです。
すべての「オリジナル」で強靭な思想は、弱い人にとって都合のいい「コピー」としてしか流通しなくなります。
こうして強く気高い「天上」へと誘うはずの文学は、弱い人間に努力を求めない「地上」のサブカルチャーへと転落していきました。
要するに、イワンが描いた大審問官は、文学の終焉とともに未来における勝利者になったのです。


現代の文学や思想は、大審問官による支配の中で、人々の享楽を管理するための偽物サブカルとして、その命運を維持しています。
今や「奇蹟と神秘と権威」によって、その地位が維持されているだけなのです。
支配のための「奇蹟と神秘」を担当するのは、コピーを大量生産するメディア技術です。
文学や思想においては、出版メディアがそれにあたります。
出版メディアに取り上げられることで、自分の作品が数多くの知らない人に届けられる、という「奇蹟と神秘」が実現します。
「権威」を担当するのは、商品の売り上げや各種の文学賞になります。
しかし、文学賞の多くは出版社が権限を持っているので、エセ文学における大審問官とは何なのかは考える必要すらありません。
それら出版社のいくつかはサブカルチャー商売によって経営を維持しているため、
文学や思想がサブカルチャーへと転落することは、彼らにとって歓迎こそすれ、否定する理由はありません。
もちろん、それらが偽物でしかないエセ文学やエセ思想であっても、大審問官が与える「地上のパン」であるわけですから、
弱く卑しいに反逆者たちはそれを喜んで享受し、進んで服従することでしょう。


ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、現代においてイワン・カラマーゾフの「大審問官」に敗れ去ったのです。
勝敗の鍵を握ったのは、数の論理です。
強く気高いものであっても、数が少数でしかなければ、価値などないのです。
多数の弱きものを見捨てることなど、大審問官にはできないのですから。
ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』に込めた主題が何であるか、僕はそれを説明していませんが、
その気が起こることを期待しながらも、それをここで説明する気持ちはとうとう起こりませんでした。
説明すると、それも僕が生み出した偽物コピーのように思えるからです。
もし読者の中に文学を愛する方がいるなら、ご自分で『カラマーゾフの兄弟』を読んで、ポリフォニーの奥にあるドストエフスキーの意図を聞き取っていただけたらと思います。


最後に僕が教訓めいたことを付け加えるならば、弱者というものは必ずマジョリティを形成しようとする、ということです。
その意味で、勢力拡大を旨とするキリスト教こそが、弱者のための宗教だったということになります。
となれば、「大審問官」はこう読まれるべきです。
キリスト教の真の姿は、キリストというオリジナルによってではなく、
その代理人(偽物コピー)である大審問官によって完成された、ということです。
書く機会を逃していましたが、イワンの描く劇詩「大審問官」はこのように終わります。


「こんな結末にするつもりだったんだ。審問官は口をつぐんだあと、囚人が何と答えるか、しばらく待ち受ける。(中略)老審問官にしてみれば、たとえ苦い恐ろしいことでもいいから、相手に何か言ってもらいたかった。だが、相手はふいに無言のまま老人に歩みよると、血の気のない九十歳の老人の唇にそっとキスするのだ。これが返事のすべてなのだ。老人は身ぶるいする、唇の端で何かがぴくりと動く。老人は戸口に歩みより、扉を開けて言う。『出て行け、もう二度と来るなよ……まったく来ちゃならんぞ……絶対に、絶対にな!』そして《町の暗い広場》へ放してやるのだ。囚人は立ち去ってゆく」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)

キリストは大審問官にキスをして、大審問官がキリストを解放するという結末です。
このキスをしても大審問官は考えを変えることなく、自分の理念に踏みとどまる、とイワンはアリョーシャに説明しているので、
キリストのキスは、大審問官への抵抗というより、祝福を与えるためにも思えます。
やはりキリストは、自らの教義を修正する代理人コピーを、決して責めたりはしないのです。
むしろ、自分の偽物を許し、認めてあげるのです。


キリストのキスの後、大審問官はただ「老人」とだけ呼ばれています。
これは、「奇蹟と神秘と権威」を剥ぎ取られて、弱く卑しい反逆者としての本性をさらけ出した大審問官の真の姿です。
「大審問官」の作者イワンは、神の作った世界を認めない無神論的な立場です。
無垢な存在に、謂れのない苦しみを与える残酷な世界は、神が作ったものとは認められない、
それは神の代理人である弱く醜い年寄りが、偽物の支配者として振る舞う世界でしかない、
イワンはそのような思いで「大審問官」を構想したのではないでしょうか。
そう、これこそが「人間のヽヽヽ世界」なのです。
無垢で気高い精神が住むことのできない、偽物が支配する残酷な世界。
大審問官が支配する世界とは、神の代わりができると慢心して「天上のパン」を見失った、卑小な人間たちの「地上の楽園」なのです。


実を言うと、「大審問官」で描かれた支配体制は、まだ良識的でマシな社会だと僕は思っています。
なぜなら、支配者である大審問官は、キリストの教えの価値がわかっていますし、
自分が多数派のためにそれを偽物へと修正している、という自覚があるからです。
つまり、支配者自身が、自分がオリジナルに劣るコピーでしかないことを、十分に自覚している点で、まだマシなのではないかと思うのです。
最悪なのは、支配者が大衆の好む劣化コピーでしかないことが自覚できず、自分が本当にオリジナルと肩を並べる強者だと思い込んでいる社会です。
こういう支配者は、自分より強い人間を次々に異端者として弾圧していくことになるでしょう。


果たして現代社会の支配者たちは、大審問官のような「謙虚さ」を持ち合わせているでしょうか。
もしそうでなければ、現代社会は劇詩「大審問官」よりも、もっと「天上の魂」の存在を認めない社会なのかもしれません。
弱く卑小な人間が多数であっても、支配者が気高い魂を求めれば社会はそこまで悪くなりませんが、
支配者たちが弱く卑小な人間であり、それに満足している場合、その社会はどこまでも堕落します。
もし気高く高潔な魂が「天上」の価値観で、堕落した社会を批判することがあれば、
弱く卑しい「地上」の価値(それは多数を恃むものでしょう)を結集して、その魂を汚そうとするに違いないからです。


残念ながら、大審問官を支持する弱く卑しい人々は、その支配を通して弱い自分自身を肯定するため、ますます弱く卑しくなっていきます。
それでは社会は悪くなるばかりではないか、と憤慨する人もいるかもしれませんが、
そもそも「神の国」を求めるキリスト教は、「地上」に価値など認めていないのです。
こうして人間の愚かさがますます拡大すれば、劣化コピーによって勢力を拡大するキリスト教の支配は、さらに揺るぎないものになっていきます。
おそらく、「地上」の劣化は、キリスト教にとって悪いことではないのです。
地上の世界への絶望が、神の世界の渇望へと結びつくのであれば、神はますます地上を絶望的な世界にすることを望むでしょうから。
そうであれば、神の救済とは、地上の人類の絶滅によってもたらされることになります。
(もちろん、その絶滅が高度メディア技術によって、地上から電脳世界メタヴァースへの移民という形で成し遂げられてもいいわけです)
逆説的ですが、そのような「救済」の罠には、高尚で気高い「強者のための教え」を、「地上」において維持し続けることで対抗するほかないでしょう。


2 Comment

往来市井人さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、コメントをありがとうございます。

往来市井人さんの的確かつ熱意のある読みに、書いた僕の方が頭が下がる思いです。
「大審問官」や「ガンダム」における身体性とは、演劇的なものだと思います。
キリストのキスという結末も、舞台上の演出として効果的で、演劇的な手法と言えるでしょう。

NHKで放送されていた庵野秀明の映画『シン・仮面ライダー』(2023年)の制作ドキュメントを見ていたら、
主演の池松壮亮が、庵野監督は「身体性」を求めて映画に来たのではないか、というような話をしていました。
ドキュメントでは、庵野の身体探求が困難を極めていることが伝わってきましたが、
そのような困難は、庵野秀明が演劇からドラマ、映画へとステップアップした監督であったなら、起こらなかったことでしょう。
アニメや特撮というオタクの世界で身体性を見失った人だから、
身体性の探求が困難であり、まるで巡礼のような道のりになるのです。
おそらく演劇畑の人には、庵野が何を求めているのか、よくわからないのではないでしょうか。
そして、彼の実写映画を必要とする人が、どのような人なのかもよくわかるというものです。
(念のため、僕は制作ドキュメントだけ見て、映画の方は見ていません)

往来市井人さんの高度メディア技術についてのご質問ですが、
ご自分で書かれた通りの理解で間違っていないと思います。
映画は個々人のイメージを殺し、スクリーン上のイメージを多くの観客で共有する「中央集権的」なメディアです。
神の創り上げた虚構的な唯一世界を、観念世界として多くの人が共有することで、魂の「救済」が訪れたように錯覚させるものです。
その「神の国」に入るには、身体性を捨て去ることが条件です。
(当然ながら、身体的性欲も「萌え」へと観念化される必要があります)

イワンが認めない世界は、子供に身体的な苦痛を与える世界です。
つまり、イワンはこの悲惨な世界を認めないと発言しながら、本当は神の仕事の不完全さを責めているわけです。
罪深き身体を捨てて、清らかな魂として「救済」される、というキリスト教的なメカニズムに関しては、
イワンも全く否定的に考えてはいないと思います。
(イワンと悪魔との対話が、身体性に欠けていてインパクトがないのはご指摘のとおりです。
余談ですが、身体が不自由なリーズは、本心ではアリョーシャより観念的なイワンに惹かれているはずです)

大審問官が管理する世界は、私たちの人生を、身体が朽ちて魂の「救済」が訪れるまでの「待ち時間」にしてしまうものです。
現代の日本人は「待ち時間」になると何をしていることが多いでしょうか?
そう、スマホをいじっていますね。
高度メディア技術は、来るべき「身体の死=魂の救済」を先取りするシミュレーターみたいなものです。

いつか何かをしよう、と思いながら、スマホ画面やスクリーンやモニターで「管理された享楽」を貪っているうちに、
私たちの人生は終わってしまうのです。
そうして死んだ後に、我々の魂が本当に神に救済されるとしたら、
それは生まれたこと自体が間違いであった(正確に言えば、生産性に寄与するためだけに生まれてきた「家畜」であった)、という結論にしかならないと思います。

サブカル的受容

今回の記事も拝読させて頂きました。

オリジナルを多数のコピーが圧倒するという結論や「強者の教え」を保持し続けるという対策から、素晴らしい新世界と華氏451、それぞれの結末を思い浮かべ、この評論を拝読させて頂くまでは、「大審問官」も同様にイワンの中で完結した独白として考えていました。

しかし、そうした展開よりも、「大審問官」が互いの身体性を懸けた対話劇という点に重点を置き、漫画作品であるガンダムを今回の評論に引用したことはとても驚き、刺激的でした。

ロボット同士の対決によって、身体性を代替し、享楽的かつ持続的な構成を可能にするロボットアニメにおいて、あれ程までに肉体的で逃げ場のない作品として描かれたガンダムという作品は「大審問官」と並列して評価するに相応しい作品だと思っています。

けれども、私はガンダムも上記のSF作品同様に、一つの世界観の中で完結できる物語だと思い込んでいました。
このSF的(東浩記的?)受容は今回の評論内で示された文学的態度とは相容れないものであり、反省の課題となりました。

「大審問官」の中でキリストのキスという、身体的行為によって、「奇跡と神秘と権威」が無効化され、老人自身が露わになった様に、対話には観念が示される為の実体が欠かせないのだと実感しました。
(その後のイワンと悪魔との対話が何処か浮薄に感じるのは悪魔がインクを透過する実体のない存在の為だと考えています。)

そして、その点について、一つだけ私から南井様に質問したい事があります。

評論の最後で「サイコフレーム」と重ねて批評された「高度メディア技術」による奇跡の実現が活字よりも優れているというのは、個々人のイメージの受容ではなく、実際にスクリーンに現実(過去?)を映し出す事が出来る事実の為とされました。
これによれば、イメージを受入れることよりも、映された物自体のほうが価値を持つ様になっています。
「高度メディア技術」による奇跡とは身体性よりも観念性が価値を持つという「天上のパン」が身体性の無効化(服従?)によって観念性(虚構?)が優位なるということで擬似的に成立するということなのでしょうか?
「すべてが赦される」ということの代替的成立が身体性の証明を必要としないということなのでしょうか?

自分の能力が足りず、質問者でありながら、うまく言語化出来ませんでした。「意味化」できないという事をサブカルに明け渡さない為に、言葉にする力を磨いていきます。

未熟な結果となりましたが、
ありがとうございました。

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