- 2022/12/23
- Category : 【逸脱書評】思想・宗教
『力と交換様式』(岩波書店)柄谷 行人 著
生産から交換へ
去る12月8日に柄谷行人がアメリカのバーグルエン賞に選ばれました。
僕は柄谷から多くを学んできたので、彼の実績が国際的に認められたことを非常に喜ばしく思っています。
その柄谷が集大成的に追求しているのが「交換様式」論です。
それを改めてまとめた『力と交換様式』(2022年)を今回は取り上げます。
「交換様式」とは何なのか、と思う人もいるかもしれませんが、広く社会的に行われている交換を、タイプ別に把握したものです。
それまでのマルクス主義理論では、経済的土台となる生産様式が社会を構成するという発想でしたが、
柄谷は生産様式が土台であることを認めつつ、問題意識を生産様式から交換様式へと移すことを提案しています。
「生産様式から交換様式への移行」が近年の柄谷のテーマなのです。
『力と交換様式』では、4つの交換様式は次のようになっています。
交換様式 A 互酬(贈与と返礼) 交換様式 B 服従と保護(略取と再分配) 交換様式 C 商品交換(貨幣と商品) 交換様式 D Aの高次元での回復 |
この関係性を図にしたのが、ネット上の柄谷行人のインタビュー記事にある交換様式の図です。
柄谷はこれらの交換様式を『世界史の構造』(2010年)で提唱したと述べていますが、
実際は岩波新書『世界共和国へ』(2006年)で、すでに語られています。
この交換様式論はかなり野心的なもので、社会を構成する交換の形態を4つに分類するだけでなく、
それが世界史的な視野で見た社会の発展段階に対応するようになっています。
交換様式Aは氏族社会、交換様式Bは王を権力の中心とする首長制社会、交換様式Cは広範囲の交易を行う世界帝国(この言葉はウォーラーステインに由来する)に対応し、
主流となる交換様式の転換が、社会権力構造の世界史的発展をもたらしたという整理がされています。
注意しておきたいのは、このような社会構造の歴史的発展を平面的な4つの象限に変換するやり方には、構造主義からポスト構造主義に至る〈フランス現代思想〉的な発想が見えるということです。
それでは、簡単にそれぞれの交換様式について説明しましょう。
まず、交換様式Aとされる互酬ですが、互酬とは贈与の形で贈り物をしたら、相応の返礼を贈り返されるという贈与交換のことです。
この贈与交換は、相手との関係性の保持を動機とした交換のあり方と考えることができます。
交換様式Bの服従と保護とは、ホッブズの『リヴァイアサン』(1651年)に見られる、主権者(国家権力)に自発的に服従する替わりに、その保護を得るという交換のあり方です。
柄谷はそういう言い方はしませんが、これは「政治権力」を機能させるメカニズムだと僕は考えます。
「私は、権力とはそもそも、“自発的な服従” にもとづくものだ、と考える」と柄谷が述べていることからも、これが「政治権力」に関係する事柄であることは明らかです。
しかし、権力への服従は、たとえ「契約」と考えられるにしても、
自らの身を自身の手で守ることができない場面において起こるものです。
たとえば敵国のミサイルから身を守るのに、自分だけの力ではどうにもなりません。
だからこそ、主権者(国家権力)に権利を集中させることでそれを巨大化し、リヴァイアサンという怪物にするわけです。
つまり、「持ちつ持たれつ」の同等の立場における契約というより、
そもそも契約者たちは他者の暴力に脅かされた無力な存在なので、そのような契約をせざるをえない状況にあります。
柄谷はこのような強いられた服従を、ホッブズが「契約」と言って問題ないとしていることを論拠に、「交換」としているのですが、
仮に服従を「契約」と呼べるとしても、それが半ば強制されたものであるならば、「交換」と呼ぶのには飛躍があるのではないでしょうか。
暴力をともなう政治権力のメカニズムを交換様式へと回収することは、牽強付会ではないかという不満が残ります。
『力と交換様式』で柄谷は、国家の誕生を交換様式Bの「霊的な力」によるものと説くのですが、
『世界共和国へ』では、国家は他の国家との関係において成立すると言っていたはずです。
他国の暴力に対抗する目的で国家が成立したのなら、交換様式Bの原動力は「自己保身の力」と言えるのではないでしょうか。
(富野由悠季『伝説巨神イデオン』(1980年)では、この「自己保身の力」を「イデ」と呼んでいました)
どうやら、服従の「自発性」に注目するならば、それを誘発するのは武力ではなく交換様式Bの力なのだ、という理論に変更されたようなのですが、
本当に武力や暴力によって「自発的な服従」が起こることはないのでしょうか。
交換様式Cの商品交換は、『資本論』(1867年)の分析対象でもある、貨幣と商品の等価交換です。
柄谷は、国家の成立には交換様式Bだけでなく交換様式Cも必要だったと述べています。
交換様式Bは政治権力ですが、交換様式Cは都市における貨幣経済なので、それぞれ違う位相にあるものです。
交換様式Cが政治権力の構成に直接的に関係しないからこそ、その延長に国家権力のないユートピアを構想することができたのではないでしょうか。
交換様式と社会構成を対応させる柄谷のやり方は、交換様式Cに対応する社会構成が不明瞭になる時点で破綻しているように感じます。
あとで詳しく触れますが、経済によって政治権力(とそれに伴う暴力)の問題を回避するという発想は、
消費資本主義への耽溺によって政治から逃避する日本型ポストモダン(オタク化)へと引き継がれていきました。
(ここに、なぜ柄谷行人が東浩紀を売り出す結果になったかという謎を解く鍵があります)
これは、なぜ革命によって現実化した社会主義国家には必ず暴力(=軍事力)が必要だったのか、という事実を無視するものです。
ポストモダン思想では、暴力の代わりにメディア・プロパガンダによって(小規模な)革命が成し遂げられると思っているのですが、
メディア広告は貨幣経済以上に国家権力を超えられません。
それでは、交換様式Dというものは何なのでしょうか?
柄谷の交換様式論はマルクスの『資本論』第1巻の最初にある「価値形態論」を基盤としています。
価値形態論とは、商品交換の過程で特定の一つの商品(金)が疎外されて、貨幣が発生したことを示す論のことを言います。
柄谷の言い方だと、「一商品のみが他のすべての商品と交換可能となるとき(貨幣が)出現する」ことを示した論理、となります。
この価値形態論に依拠しているため、柄谷の交換様式論も大枠としてはマルクス的な未来構想をなぞっています。
つまり、交換様式の「革命」によって、資本主義社会の問題を解決するオルタナティブ社会を実現するという未来図です。
現在の資本主義的な交換様式Cを超える、「X」とされる新たな交換様式こそが交換様式Dなのです。
この交換様式Dに対応する社会構成体を、柄谷は「世界共和国」と呼んでいます。
柄谷は、交換様式AからCまでは現実に存在するものですが、交換様式Dについては「つねに理念としてありつづけるような形態」だと述べています。
この未来志向の交換様式Dが「理念」としてしか存在していないのは、決して現実化することがない「目標」だからです。
このような「目標=救済」の無限後退は、カフカ=デリダ的(ユダヤ的)な発想だと感じました。
決して到達しえない目的地へ漸進的に近づいていく、
ここにはユダヤ的な「救済」の文学的あり方が見え隠れしているように思います。
「理念」としての交換様式Dについて柄谷は、「交換様式Aの互酬を想像的に回復するもの」としているのですが、
その具体的ビジョンは、マルクスやプルードンなどの共産主義者が構想したとされる「アソシエーショニズム」と同じものだと言います。
交換様式Dはキリスト教や仏教などの普遍宗教と深い関係を持っています。
柄谷は、交換様式Dが「イエスの教えにおいて典型的に示される」とも述べています。
『世界史の構造』によると、それは「無償の贈与」を基盤とした互酬的な共同体(アソシエーション)になるようなのですが、
「無償の贈与」が初期の普遍宗教において実現したのは、神の「救済」を信じる人々が直接的に結びついていたからです。
「救済」という神の返礼を強く信じていたからこそ、「無償の贈与(に見えるもの)」ができたのです。
そうなると、交換様式Dの実現には、神の「救済」にあたる超越的な信用力が必要になってきます。
おそらく、柄谷は普遍宗教の「救済」の位置に交換様式Dの「理念」を対応させたいのではないか、と想像しますが、
「理念」でしかない「擬似救済」に人々を駆り立てるには、宗教にすがるしかないような、現世における(物質レベルの)絶望的苦悩が必要なのではないでしょうか。
しかし、交換様式Cがもたらす消費的享楽は、人々がそのような絶望的苦悩から逃避するためのメディア空間を「擬似救済」化しています。
この消費社会の現実逃避メカニズムと、柄谷は本当に向き合っているのでしょうか。
実を言うと僕はキリスト教的な「擬似救済」のメカニズムは、「経済学」ではなく「媒介」を扱う広義のメディア論でなければ客観的に説明できないと思っています。
擬似宗教的「救済」(=社会主義)を交換様式の革命に置き換える柄谷の理論の可能性について、僕は媒介論の視点から考えてみたいと思っています。
それから、『力と交換様式』には、これまでの柄谷の交換様式論では目立たなかった「力」──とりわけ貨幣における物神──の問題が現れています。
交換様式論の中に権力の問題を取り入れる試みについて、すでに僕は不満を書きましたが、
交換様式Cの「物神」というアプローチの妥当性についても考えるつもりです。
価値形態論と交換様式D
柄谷の交換様式論のポイントは『資本論』の価値形態論にあります。
普遍宗教(≒キリスト教)とマルクス的社会主義を結びつけるのが価値形態論だからです。
普遍宗教と社会主義の関連については、『世界史の構造』の第3部第4章の「アソシエーショニズム」という章で詳しく説明されています。
1840年代に「科学的社会主義」を提唱したプルードンによって、社会主義は宗教性と決別して経済学に基づく現実路線へと転換したのですが、
完全に宗教性を否定してしまうと社会主義はうまく機能しなくなる、と柄谷は述べます。
そのような普遍宗教と社会主義のジレンマを説明したのが次の文です。
しかし、社会主義と普遍宗教の関係は複雑である。交換様式Dは最初に、普遍宗教というかたちであらわれる。それゆえ、社会主義にとって普遍宗教は欠くべからざる基盤である。だが、宗教というかたちをとるかぎり、それは教会=国家的なシステムに回収されてしまわざるをえない。過去においても、現在においても、宗教はそのようになっている。したがって、宗教を否定しなければ、社会主義は実現されない。けれども、宗教を否定することによって、そもそも宗教としてしか開示されなかった「倫理」を失うことになってはならない。(柄谷行人『世界史の構造』)
これを読むかぎり、社会主義アソシエーションである交換様式Dは、普遍宗教のメカニズムを経済において実現することに思えます。
宗教は国家と癒着するものなので、宗教というかたちを捨てることによってしか社会主義的な経済体制は実現しません。
しかし、宗教であることをやめると、それに支えられていた宗教的倫理が失われてしまいます。
まるでドストエフスキーの『悪霊』のテーマ解説のようですが、柄谷はこのジレンマの解決をカントに見出します。
プルードンに先立って交換様式Dを追求した思想家がカントだと言うのです。
他者を「目的として扱う」とは、他者を自由な存在として扱うということであり、それは他者の尊厳、すなわち、代替しえない単独性を認めることである。自分が自由な存在であることが、他者を手段にしてしまうことであってはならない。すなわち、カントが普遍的な道徳法則として見出したのは、まさに自由の相互性(互酬性)なのである。それこそ交換様式Dである。これが普遍宗教によって開示されたことは確かである。(柄谷行人『世界史の構造』)
柄谷はこのような自由の相互性を、交換様式BとCによって抑圧されていた「交換様式Aの高次元での回復」だとします。
そしてこのようなカントの倫理が、社会主義(アソシエーショニズム)の核心だと述べています。
社会主義とは互酬的交換を高次元で回復することにある。それは、分配的正義、つまり、再分配によって富の格差を解消することではなく、そもそも富の格差が生じないような交換的正義を実現することである。(柄谷行人『世界史の構造』)
ここで判明するのは、交換様式Dとは、富の格差が生じない交換のことだということです。
つまり、言うならば「真の等価交換」ということになります。
交換様式Dが等価交換であり、社会主義として語られているということは、
交換様式Dは必然的に交換様式Cの延長にあるということになります。
つまり、交換様式Dとは「交換様式Cにおける交換様式Aの高次元での回復」だということです。
ここまで『世界史の構造』を参照して交換様式Dについて見てきましたが、ここにはマルクス『資本論』の価値形態論は全く出てきません。
しかし、普遍宗教から交換様式Dに至る柄谷の思想展開の原点には、価値形態論があるのです。
『世界史の構造』の段階で柄谷はその痕跡を抹消してしまうのですが、それに先立つ『世界共和国へ』を読めばそのことがわかります。
ところで、普遍宗教は別に、超越的な人格神あるいは唯一神を不可欠とするものではありません。たとえば、仏教も普遍宗教です。このことを考える上で、示唆的なのは、先に述べたマルクスの「価値形態論」です。マルクスの考えでは、重要なのは一般的等価形態(貨幣形態)であって、そこに位置する物ではない。たとえば、金は金だから貨幣となるのではなく、一般的等価形態という場所におかれるがゆえに貨幣なのです。同様に、超越的なのは神ではなく、神がおかれる「場所」(一般的等価形態)です。(柄谷行人『世界共和国へ』)
この文章を見てもわかるとおり、柄谷は貨幣の位置を超越的な場所として捉えています。
「一般的等価形態」という言い方は専門的ですが、実際はすべての商品を貨幣(金)の量で示す貨幣形態のことでしかありません。
つまり、金という貨幣商品が他のすべての商品の価値を示す「基準」として、独占的な地位にあることを示すものです。
商品を価値づけする「基準」である貨幣は、すべての商品を「価値の体系(ネットワーク)」に組み入れるためのメディアです。
メディアはあくまで媒介なので、それが置かれる位置も超越性そのものではありません。
浅田彰が「クラインの壺」で示したように、貨幣はメタ的な位置(超越性)に上昇しても、再度オブジェクトレベルへと投下されるものです。
つまり、貨幣はメタレベルとオブジェクトレベルをつなぐ媒介です。
あえて柄谷的な言い方をすれば、メタレベルとオブジェクトレベルを「交換」するものです。
貨幣が位置する「場所」が超越的であるとしても、それは一時的なトポスでしかなく、必ず地上へと戻ってくるものです。
だからこそ資本主義メカニズムにおける「救済」とは、瞬間にしか訪れず、瞬間的な充溢を絶えず繰り返すように加速を促すことになるのです。
柄谷は、循環運動の中で瞬間に実現するだけの超越性を、静止した「場所」と捉えて、普遍宗教の「救済」と重ねているのです。
しかし、瞬間にしか成立しない超越性を、永遠の「救済」と同様に扱うと、時間性がすっぽりと抜け落ちてしまいます。
この点においても、柄谷の交換様式論には、スタティックな発想に偏った構造主義的な欠陥があると言わざるをえません。
柄谷の交換様式論がマルクスの価値形態論の影響を強く受けているならば、価値形態論そのものの有効性を問う必要があります。
マルクスは『資本論』で、貨幣形態の誕生を、物(商品)と物(商品)との等価交換から考え始めました。
2000リットルの麦と3枚の毛布を交換したり、1頭の牛と250リットルの食料を交換したりする「x量の商品A=y量の商品B」という交換です。
その中で金や銀という特定の商品が「排除」されて交換の尺度になっていきます。
1000リットルの麦は金16グラム、1枚の毛布は金11グラム、1頭の牛は金30グラムといった具合です。
こうして商品間の媒介を担う金が貨幣商品となった、というのが価値形態論です。
しかし、貨幣の歴史的起源を物と物との等価交換に見ることは、その実例がないことから歴史学や人類学では否定的です。
代表としてはデヴィッド・グレーバーの『負債論』(2011年)が挙げられます。
グレーバーは物々交換が真に普及したのは近代であり、すでに貨幣に親しんでいる環境で貨幣経済が崩壊した時だ、とした上で、
ミッチェル=イネスの系譜にある貨幣の信用理論を紹介して次のように述べています。
貨幣が尺度にすぎないなら、それはなにを測定するのか? 答えは単純だ。負債である。一枚の硬貨とは実質的に借用証書(IOU)なのである。(デヴィッド・グレーバー『負債論』酒井隆史・高祖岩三郎・佐々木夏子訳)
誰かから物品を受け取った結果、将来的にその支払いの義務を負うことが負債ですが、その負債がどれくらいかを示す借用証書が貨幣の起源だというのです。
しかし、その証書は約束でしかないため、将来にその支払いが実行される保証がないと紙屑でしかありません。
そこで必須になるのが「信用」です。
その人が債務を確実に返済すると人々が「信用」することで、その借用証書が別の債務の返済のために譲渡されていきます。
こうして流通した借用証書が貨幣となった、というのが信用理論の立場です。
つまり、貨幣の起源を負債に見ることは、貨幣は商品同士の等価交換ではなく、「将来的な約束に対する信用」によって成立したという考えになるわけです。
グレーバー自身は貨幣を商品として見る立場と借用証書として見る立場のどちらも正しい、として、貨幣にはその両面があるという煮え切らない態度ですが、
『負債論』という本で語っているだけに、信用理論の方に重点があるように感じるのが自然です。
実は柄谷の『力と交換様式』は、信用理論を裏口から取り入れるようなかたちで組み込んでいます。
裏口とは言い方が悪いですが、そう言いたくなるような論理の弱さがあるのです。
だが、小さな共同体の中で自給自足することには、限界がある。ゆえに他の共同体と交換しなければならないのだが、互いに見知らぬ共同体と共同体の間での交換は容易ではない。そのような他者と交換をおこなうためには、先ず相手との間に「信用」を築かねばならない。信用とは、いわば、両者を拘束するような「力」である。
そして、それをもたらすのが、贈与─お返しという交換である。そのとき、債権─債務関係が生じる。贈与した側が債権を、贈与された側が債務を負う。このような交換は、物の交換というよりも、交換を可能にする「信用」を作るためになされる。(柄谷行人『力と交換様式』)
この文章には首肯できない部分がいくつかあります。
まずは「信用」とは交換を拘束する「力」と言えるのか、という点、
贈与交換から信用がもたらされる、という点、
それから、贈与することが債権、贈与されることは債務に当たるのか、という点です。
常識的に考えるだけで、どれも支持するのは難しいと思います。
贈与に対する返礼とは、債務返済のように、必ず決められた額を返さなければならないものではないからです。
むしろ、何らかの「力」によって必ず等価のものを返却する義務があるなら、それは贈与ではありません。
このように交換様式Cを成立させる信用理論を、互酬つまり交換様式Aの中に組み込むのは理論的にかなり強引な手法だと思わざるをえません。
これを受けて柄谷は交換様式Cの根底には交換様式Aがある、と言うのですが、
これが交換様式Dの「高次における交換様式Aの回復」もしくは「抑圧されたものの回帰」の伏線になっています。
しかし、今検証したように、この理論はだいぶ怪しげなものです。
マルクスの価値形態論については、貨幣の歴史的起源の説明というより、
貨幣による「価値」が、他の商品との関係に依存した相対的なものであり、
ネットワークの上で成立するものであることを示すことに重点があるように見えます。
そのため、貨幣の起源を負債による信用理論に求めたとしても、すぐさま価値形態論が無効だということにはならないでしょう。
しかし、柄谷の交換様式論に関しては、この問題は軽くない意味を持っています。
なぜなら、柄谷は貨幣交換のシステムを普遍宗教の「救済」と重ねているからです。
貨幣と普遍宗教を同質のものとして語るのであれば、貨幣の成立を「将来的な約束に対する信用」に見る信用理論を無視することはできません。
というのは、「将来的な約束」がキリスト教の前身たるユダヤ教のコアにあるからです。
捕囚や離散によって土地との結びつきを失ったユダヤ教徒は、自分たちの神が将来において「約束の地」を与えてくれると信じています。
これはある種の「救済」の約束ですが、これを交換として考えれば、「奪われた土地を返してもらう」としなければなりません。
定住する居住地は自らにとっての本質と変わりがありません。
つまり、神による「救済」の約束の遂行は、失った自らの本質を取り戻すことに当たります。
この「失った自らの本質を取り戻す」ことを、マルクスの文脈に置いてみれば「疎外論」として語るべきものになります。
ここで重要になるのは、「疎外論」の構図にもなっている、失った自らの本質を取り返す「救済」は、負債を返済してもらうことに等しいということです。
負債の完済と宗教的な救済が重なることについては、前出のグレーバーも語っています。
たとえば、キリストはなぜ「救世主(redeemer)」とみなされるのか? 「救う(redeem)」のそもそもの意味は、なにかを買い戻すこと、あるいは借金のかたにとられたものを取り戻すこと、つまり負債を完済することでなにかを獲得することである。キリスト教の教えの真髄である救済、人間を劫罰から救うための神自身の子の生け贄、こういったことが金融取引の言語で形成されなければならなかったということは考えてみれば印象的である。(グレーバー『負債論』)
言い方は慎重ですが、グレーバーは普遍宗教の「救済」が、負債からの解放のイメージによって生じたものだった、と言いたげです。
グレーバーは一神教における「救済」が、単なる「債務帳消し」にとどまらず、
会計システム総体を破壊することだった、とも述べています。
ここから宗教的「救済」と社会主義を結びつけるのは容易ですが、その前にこのような宗教的=経済的「救済」が、疎外論の文脈に依拠することを確認したいと思います。
疎外論と「救済」
まず、マルクスの自己疎外論について簡単に説明します。
疎外論とは、人間は自身の「本質」を外部のものに対象化(外化)していく、という考えのことです。
ヘーゲルはこの自己疎外を肯定的に捉えていますが、マルクスは労働における自己外化を、自分の本質を喪失した状態として否定的に捉えました。
搾取によって本質を奪われた労働者の労働は、生産手段を持つ他人の利益に奉仕する活動であり、
この疎外を克服するためには、生産手段を労働者自身が手にする階級闘争が必要だというのが、マルクスの疎外論です。
この疎外論の扱いについて僕は「芸術疎外論【その1】」の後半でまとめていますが、ざっと整理しておきます。
アルチュセールの「認識論的断絶」以降、マルクス思想は初期と後期に分けられて、初期は(ヘーゲル的)疎外論で後期は(スピノザ的)科学思想とされるようになりました。
柄谷もこのようなアルチュセール由来の〈フランス現代思想〉的な立場にあり、『資本論』以後の後期マルクスを支持して疎外論には否定的でした。
しかし、マルクスの思想形成を考えれば、ヘーゲル由来の疎外論は無視できないものです。
とりわけ、ヘーゲル左派で『キリスト教の本質』(1841年)を書いたフォイエルバッハの唯物論に、マルクスは強い影響を受けています。
初期マルクス=疎外論を切り捨てるということは、理論的にはヘーゲル−フォイエルバッハ的マルクスを否定することであり、実践的には階級闘争を否定するということです。
(つまり、〈フランス現代思想〉とは階級闘争を捨てた左派的な思想と考えてもいいのです)
僕は柄谷の著書の多くを読んできましたが、柄谷のヘーゲルやフォイエルバッハに対する言及はかなり少ないと言えます。
しかし、僕は価値形態論のメカニズム自体がフォイエルバッハ的な自己疎外論に依拠していると考えています。
フォイエルバッハは観念的なヘーゲルの絶対精神を批判したのですが、その内容は宗教批判です。
神というものは人間の意識の集合(民族)が作り出したもの、つまり「人間の本質」を対象化したものだ、とフォイエルバッハは主張します。
神とは人間の創作物だ、というわけです。
フォイエルバッハは人間を(ヘーゲル的な思想や精神を主語とした)理念的存在ではなく、感性的な存在として捉えています。
感性的な存在である人間は、自分の内的な感性(本質)を外的な現実対象として示し、その外部の対象によって自らの感性を理解するのです。
これを「対象化」と言うわけですが、価値形態論に倣えば、貨幣も同様に全商品の内的な「本質」(=価値)を対象化したものと考えることができると思います。
なぜなら、商品の「価値」とは、人間の内的な感性に依存したものだからです。
引用文で見たとおり、柄谷は価値形態論の貨幣の位置を、普遍宗教の神(による救済)の位置と重ねているわけですが、
このメカニズム自体が疎外論の構造に依存しているように僕には思えます。
〈フランス現代思想〉はヘーゲル思想の土台に依拠して右派的ヘーゲルを批判する思想という面がありますが、柄谷もこの図式から逃れられているようには思いません。
柄谷の理論は唯物論から観念論への遡行──ヘーゲル−フォイエルバッハ−初期マルクスの系譜、つまりは疎外論の歴史的系譜を逆にたどったものと整理できるでしょう。
そうなると、柄谷のカント的な世界共和国の「理念」とは、ヘーゲル的絶対精神からさらに遡行したものと言うことができそうです。
そもそも柄谷は交換様式Dを、「交換様式Cにおいて交換様式Aの互酬を想像的に回復するもの」としたわけですが、
これを交換様式Cと交換様式Aの弁証法的統一と言うこともできそうに思えます。
僕は古典を重視する古典主義者ではありますが、
思想というものは適切な反省によって発展するべきものだと考えるリアリストです。
厳しい言い方をしますが、理念の現実化に失敗した場合、その失敗を反省して新たな理念を生み出すべきであって、
ただ現実化を回避し続けて純粋理念へと遡行するのでは、思想を観念上の遊戯にしてしまいます。
マルクスを読むにしても、いったん社会主義の「現実逃避」的側面(救済的側面)を批判する必要があります。
そうでないと、現代思想ゲームによって出版メディアランドに現実逃避するニセ司祭たちに「言い訳」を与える結果になるだけです。
柄谷行人は自らが打ち立てた「批評空間」の系譜から、東浩紀などのサブカル思想家が排出された事実と向き合うべきです。
現代思想がサブカル化するだけになったのは、左派的な現代思想(=ポストモダン思想)が「現実逃避」を本質的な基盤としているからではないでしょうか。
マルクスが原始共同体を理想としたことも、柄谷の交換様式論が初期キリスト教の共同体(アソシエーション)を理想にしていることも、
遡行した過去を未来へと投射する屈折だと考えることができます。
(この投射的方法が、もう中年を過ぎた大人が、少年期のサブカル世界の現実化に勤しむ精神と重なることは偶然ではないと思います)
それなら周の時代の政治を理想とした孔子(儒教)の方が、過去そのものを理想化している分だけ、現代への批判精神がはっきり出ていて潔いと言えるのではないでしょうか。
柄谷はこの遡行をフロイトの「抑圧されたものの回帰」として語っているので、単なる過去への遡行ではない、と反論できるのですが、
意図的に未来で実現しようという交換様式を、フロイト的な無意識のはたらきで語ることは論理破綻に思えます。
そもそも貨幣の信用理論からすれば、初期の狭い共同体の方が互いに顔見知りで「信用」の形成に対面的な確実性があるため、交換が互酬的になるのは当然です。
交換様式Dによって互酬の回復を考えるなら、巨大化したグローバルな世界でそのような対面的な「信用」をどう担保するのかが課題になると思いますが、
はたして不確かな「理念」によって、それが担保できるものなのでしょうか。
僕はずっと日本のポストモダン思想を批判し続けてきましたが、それは衰弱した左派思想の商業的延命が「思想の自殺」にしかならないからです。
実際、柄谷行人から浅田彰、さらには東浩紀に千葉雅也というフランス系現代思想の商業的スターの系譜をたどっていけば、
どんどんと思想的内実が失われていくだけの歴史だったことは明らかです。
これは実践的「闘争」を伴わずに、マスメディアを頼りながら「理念」だけで思想を行った結果です。
柄谷はNAMという実践運動に失敗したため、交換様式論という「理念」へと撤退したように見えます。
NAMの理念では社会体制の変革に暴力を用いないことが謳われていますが、
経済システムの変更だけで社会体制を変革するという考え方は本当に有効なのでしょうか。
歴史を顧みれば、社会体制の変革には経済的背景と軍事的暴力の両輪が必要になる場合がほとんどだと思います。
マルクス主義は、格差を生み出す経済システムを変更するために、プロレタリアートが権力を奪取する「革命」によって社会体制を変更する実践運動へと進みました。
この考えに現実性があったことは、実際に社会主義国家が誕生したことで歴史的に証明されています。
しかし、柄谷の考えは、経済システムを変更すれば社会体制が変革できるというもので、これはマルクス主義を「逆立ち」させたものとなります。
その意味で、経済システムの変更だけで社会体制の変革を語ることには、現実性の乏しさ──つまりは「現実逃避」のロマン的傾向──を感じないわけにはいかないのです。
左派的な「現代思想」が経済によって闘争なき現実逃避を貪るだけのものでしかないのなら、
それが(オタク的な)消費経済による現実逃避の加速に帰結してしまうのも必然に思えます。
今や消費的な現代思想は、「自分では何のリスクも取らずに消費メディアで売文商売をするための手段」でしかなくなりました。
「闘争」を「逃走」に置き換えて旧マスメディアで商業的利権を貪るだけになった腰抜けたちのノスタルジー思想など、延命させる必要はないと思います。
それ以後のオタク的な現代思想ゲーマーと違って、柄谷の思想は哲学的な議論によって成立しているので思想家には違いないのですが、
堕落していくだけのポストモダン的系譜と柄谷行人の思想も無縁でないことはハッキリさせておきたいところです。
「物神」の力とは何か
柄谷の交換様式論に対する批判の骨子はすでに書き終わりましたので、余談になりますが、
『力と交換様式』において柄谷が持ち出した交換様式Cの「力」についても書いておきたいと思います。
柄谷の思索が『世界史の構造』から『力と交換様式』へと展開する中で、「力」というキーワードが浮上してきました。
ここで柄谷は交換様式論に権力の問題をダイレクトに接続しようとしているように見えるのですが、これには強引な印象を感じました。
とりわけ理解に苦しむのは、交換様式Cの商品交換の「力」を「経済的土台(交換様式)から生じる観念的な力(物神)」としていることです。
そう、柄谷の言う「力」とは、観念的な力なのです。
『力と交換様式』に注目するならば、交換様式そのものから「力」が発生するという考えを取り上げる必要があります。
これは交換様式によって権力の問題を解決する試みと整理できますが、
無視してはいけないのは、この交換論が、権力を生み出す非対称な物理的力──数の暴力という問題を回避している、ということです。
交換様式Bは現実的に、単体の主権者と多数の服従者の間で行われる一対多の交換になるわけですが、
柄谷の観念的な交換論には、そういう数量の非対称という視点がうまく組み込めていないのです。
唯物論において、プロレタリアートの数量が主権者に対抗する鍵となっていたことを考えると、
対等な関係を前提とした観念論で、権力の問題を語るのは現実的ではないと感じます。
端的に言って、交換様式から発生する観念的な力だけを「力」だと考えることは、物理的なものに依拠する思想──唯物論を捨てるということです。
前述した疎外論の史的系譜で言えば、ヘーゲルの観念論をフォイエルバッハが唯物論へと展開し、そこからマルクスの唯物論が生まれるわけですが、
マルクス思想から唯物論を取り去ることは、ヘーゲル観念論への回帰(遡行)を意味するものにならないでしょうか。
これは、ヘーゲルを飛び越してカントの観念論へと接合すればごまかせるというものではないと思います。
念のために言っておきますが、僕はヘーゲルの観念論そのものは高く評価しています。
問題にしているのは、〈フランス現代思想〉やその影響を受けた「批評空間」関係の思想家たちが(潜在的に)ヘーゲル批判の立場にあったことなのです。
彼らはヘーゲル思想の国家主義的な面を嫌っています。
柄谷の思想は国家の揚棄を目標にしているため、ヘーゲル思想を受け入れることはできません。
だから、そこをすっ飛ばしてカントのコスモポリタニズムへと遡行するわけですが、しかし、歴史的発展とはある種の現実的要請から生まれるものです。
つまり、世界共和国の「理念」は、現実の要請の中で国家に妨げられてしまうということです。
なぜ人類は国家というものを超えられないのでしょうか。
僕の見るところ、西洋のポストモダン思想家たちは「本質」を想定することに問題があるからだ、という本質論批判に答えを求めたようです。
「本質」を想定すると、人々に共通するものを「本質」と見なす方向に行きがちになります。
実は共通性(同一性)に着目する本質論は大衆的な発想でしかなく、普遍を探求する本質論はいくらでもあるのですが、
近代になると大衆性が力を持つようになるので、どうしても本質論が共通性(同一性)へと回収されやすくなってしまいます。
そうなると民族主義や(言語と癒着した)国家主義が台頭することになります。
(僕は国家を揚棄するには大衆性そのものを克服する必要があると考えますが、人間が大衆性を克服できると信じていません)
僕は青年期に柄谷行人の『探求Ⅱ』(1989年)を読んで、〈特殊性−一般性〉という回路と〈単独性−普遍性〉という回路の違いを学びました。
(『探求Ⅱ』は、ヘーゲルに対する言及が最も見られる本ではないでしょうか)
一般性とは共通ベースの本質論と接合するもので、単独性は「この私」の「この」性を示す外部ベースの本質論と分けることもできます。
柄谷によれば、この両者の違いはスピノザにおける「概念」と「観念」の違いに当たるそうです。
ドゥルーズは、特殊性と一般性の結合は媒介あるいは運動を必要とするのに対して、単独性と普遍性の結合は、直接的(非媒介的)だという。このことは、スピノザの神の観念についていえる。それは「直接知」である。というのは、彼にとって「無限のなかで私は思いつつ在る」ことは、何ら証明(媒介)を必要としないし、証明すべき事柄ではないからだ。(柄谷行人『探求Ⅱ』)
この引用文で注目してほしいのは、スピノザにおける「観念」つまり〈単独性−普遍性〉という回路が非媒介的で直接的だというところです。
つまり、普遍性への回路には媒介の否定が必要だということです。
メディア空間で媒介を用いて己の有用性を「証明」しようとする人たちは、〈特殊性−一般性〉の回路の中に回収されるだけの人たちです。
(ちなみに僕が商業メディアで自分の書き物を商品化することに興味がないのは、非媒介的な「直接知」にしか価値を感じないからです)
こう考えると、貨幣という媒介による価値づけというのは、〈特殊性−一般性〉という回路に依拠するものでしかないことがハッキリします。
価値形態論にしたがって貨幣を商品の一つとして考えるならば、この商品を持っていない人はほとんどいないでしょう。
それならば貨幣こそが最も売れている大ヒット商品、つまりは一般性の極致ではないでしょうか。
つまり、貨幣は商品の本質なだけではなく、人々の共通性の象徴なのです。
貨幣が作り上げた商品の価値ネットワーク、つまりはグローバル市場に位置する商品はすべて〈特殊性−一般性〉の中に回収されるものでしかありません。
だから、ある商品がどれだけヒットしたとしても、それは一般性において高い成果を得たものであって、普遍性を持つものだとは言えません。
『探求Ⅱ』の柄谷がポストモダン的な低レベルな主張、つまり短絡的な本質論批判に陥らずに、本質論を悪い本質論と良い本質論に分けたことは慧眼だったと思います。
だからこそ、僕にはその柄谷が普遍宗教が持つ普遍性の位置を、価値形態論の貨幣の位置と重ねてしまうことに違和感があるのです。
自身が『探求Ⅱ』で行った本質論の区別を無にすることに等しいと思うからです。
国家の揚棄を求める柄谷がヘーゲルを回避するのは当然ですが、その回避の仕方は遡行によってなされるべきではなく、一般性と普遍性の区別においてなされるべきです。
しかし、当の柄谷がその区別を無化して、都合の悪いヘーゲルをすっ飛ばしてカントの観念を持ち出すのは、どうにも思想的退行ではないかと疑ってしまいます。
ちなみに今『探求Ⅱ』をパラパラと見てみたら、フォイエルバッハは〈特殊性−一般性〉という回路の中にある、と述べた直後に、ホッブズのリヴァイアサンの超越化は自己疎外論だと言っている文にぶつかりました。
過去の柄谷自身が書いているのですから、交換様式論は柄谷の疎外論回帰だという僕の指摘は間違っていないように思えます。
柄谷はマルクス主義が上部構造の観念的な「力」に敗れた、と主張することで、自らの思想の観念化を正当化しているように見えるのですが、
本当に社会主義が敗れたのは、資本主義の観念的な「力」のせいなのでしょうか。
もし、その「力」が観念的なものであるならば、それを「物神」と表現することに矛盾はないのでしょうか。
柄谷が「経済的土台(交換様式)から生じる観念的な力(物神)」をどう述べているのか、軽く確認しておきましょう。
すなわち、共同体と共同体の間での交換、つまり、見知らぬ者との交換においては、それを可能にする「力」が不可欠なのだ。マルクスはそこに、見知らぬ者同士の交換に保証を与え、また拘束力を与える霊的な力を見出した。そして、それを、一八世紀の先駆的な人類学者ド・ブロスにもとづいて、フェティッシュ(物神)と呼んだのである。(柄谷行人『力と交換様式』)
ここでは見知らぬ者同士の交換を可能にする「霊的な力」を、マルクスがフェティッシュ(物神)と呼んだと書かれています。
このフェティッシュが交換様式Aと交換様式Cをつなぐというのが柄谷の主張です。
私の考えでは、フェティシズムは、のちにマルセル・モースが贈与交換(交換様式A)として考察した問題につながっている。その意味で、マルクスが貨幣形態の起源を論じる際にフェティシズムをもってきたとき、交換様式Cの源泉にAを見いだしたといってよい。(柄谷行人『力と交換様式』)
柄谷が「貨幣形態の起源」と言い出したところで、しっかり読んでくれた読者なら思い当たったと思いますが、これが前出した貨幣の信用理論の裏口導入になるわけです。
つまり、柄谷の言う「物神(フェティッシュ)の力」とは、貨幣の信用理論にほかならないのです。
このことは『力と交換様式』の後半でダイレクトに書かれています。
あらためていうと、物神(フェティッシュ)とは、人と人との交換において生じる、霊的な「力」である。実は、マルクスは、『資本論』第一巻でそれについて述べた後、物神という言葉を二度と使わなかった。しかし、事実上、さまざまなかたちで、霊的な「力」を見ようとしたのである。たとえば、彼はそれを「信用」に見いだした。信用とは、契約・取引と決済との間に時間的乖離があるときに不可欠となる、当事者間の信頼である。だが、それはたんなる信頼ではなく、人を強いる観念的な力であり、その意味で物神的である。(柄谷行人『力と交換様式』)
ここではあられもなく「信用」が霊的な「力」とされていますし、「契約・取引と決済との間に時間的乖離がある」とは、完全に「負債」の構造でしかありません。
驚いたのは、それをマルクスが見出したことになっていることです。
マルクスが商品のフェティシズムと言っているのは、本当に「信用」のことなのでしょうか。
僕が『資本論』を読んだ印象では、そうは感じられませんでした。
生産した人間たち自身の社会的関係が、物と物との自立的関係に見えることを、マルクスはフェティシズムと名づけています。
つまり、労働者の私的労働が生産物を通して社会的関係を結ぶことで、人と人との関係が「物と物との社会的関係」として現れることを、マルクスはフェティシズムと呼んでいるのです。
「商品世界のこのようなフェティッシュ的性格は(……)商品を生産する労働がもつ独特の社会的関係から生じる」とマルクスが言うのは、
人間労働の共通性格を示すためであって、「信用」の「力」について語るためではないのです。
『資本論』を書かれたままに読むならば、マルクスは人間に共通する「本質」を、生産物へと対象化される以前の社会的労働──「抽象的人間労働」──に見ています。
それを対象化した物の力だと見てしまうことを、フェティシズムと言っているのです。
マルクスの『資本論』というテクストに依拠して交換を考えるならば、「抽象的人間労働」を無視することはできません。
『資本論』によれば、商品とは私的労働の対象化だからです。
そもそも、種々の使用対象が商品になるのは、これらの対象がたがいに独立して営まれる私的労働の生産物であるからである。これらの私的労働の複合体が社会的労働をつくりあげる。生産者たちはそれぞれの労働生産物を交換しあうことを通してはじめて社会的に接触するのだから、彼らの私的労働の独自な社会的性格もまたこの交換のなかでのみ現われ出てくる。あるいはこうも言えよう──種々の私的労働は、交換によって労働生産物がおかれる、また労働生産物を媒介にして生産者たちがおかれる種々の連関を通して、事実上はじめて社会的総労働のメンバーとして確認される。(カール・マルクス『資本論 第一巻(上)』今村仁司・三島憲一・鈴木直訳)
たとえば、自分の私的労働によって生産された「詩」は、労働生産物たる「詩集」という商品として交換されることで「社会的性格」を示すことになります。
労働生産物たる「詩集」が「商品=媒介」として交換されることで、それを書いた詩人は社会的総労働のメンバーとして確認されるということです。
(ここで注意してほしいのは、作品を「商品化」した詩人はあくまで「社会的総労働のメンバー」として認められるだけであって、「詩人」としての文学的価値が認められているわけではない、ということです)
つまり、『資本論』の主張に依拠すれば、商品交換を強いる「力」とは、霊的な「物神」などではなく、
社会的な生産者のメンバーとして自己の「信用」を確立しようという欲望、自己の社会化への欲望でしかないのです。
マルクスを現代にも有効なものへと読み替えるなら、自分の私的な活動を社会へと対象化する欲望が、商品交換を加速させていくという面に注目するべきなのです。
オタクの「萌え」というものが、私的な性欲を社会化する運動であったことを僕は以前に書きましたが、
このような欲望がなぜ商品交換を促進するかということも、『資本論』をこのように読むことで理解できると思います。
要するに、交換様式Cを強いる力とは、私的なものを対象化して社会的ネットワークを形成する欲望なのです。
こう考えると、SNSというものが「交換様式Cにおける交換様式Aの低次元での回復」にあたることがわかります。
人々はSNSで私的な事柄を発信することで、通信ビジネスの社会的ネットワークへと参入します。
原理的には、SNSで発信されたものは通信ビジネス上の廉価な「情報商品」に分類できます。
(それを見るためには通信量を支払う必要があるからです)
「情報商品」として発信された私的な「労働」に、「いいね!」などの認知的リアクションを互酬的に交換することで、自らを中心とした社会的ネットワークを強固にするのです。
世界中の全員がフォローするアカウントは、「普遍アカウント」としてある種の宗教的なネットワークを形成することもできるかもしれません。
このような社会関係はアソシエーションの実現とは言えなくても、「交換様式Cにおける交換様式Aの低次元での回復」とは言えるのではないでしょうか。
こういうことが技術的に実現している世界で、はたして交換様式Aの高次元での回復をどれだけの人が求めるのでしょうか。
例によって紙幅が尽きたので、結論を簡単にまとめますが、
交換様式によって世界を考える視点では、疎外論の文脈を超えられません。
なぜなら、人と人、共同体と共同体の間の交換にはどうしても共通の「本質」を想定する必要があるからです。
そして、その「本質」は〈特殊性−一般性〉の回路に属する既成のものである必要があります。
グローバル資本主義の確立によって、「どこかで見たことがあるもの」ばかりが繰り返されるようになるのはそのためです。
グローバル規模の巨大な大衆の間で交換が進むものは、誰もが無意識にわかっている既成のものである必要があるからです。
このような外部なき交換の加速的拡大は、最後には死や「無」の交換へと行き着くしかないでしょう。
広く生物が持つ共通の「本質」とは、「死ぬ運命にあること」だからです。
そして、このような死の運命への抵抗こそが、柄谷の言う交換様式Bの支配=服従を拡大する原動力です。
つまり、死の交換は、国家権力の拡大を導くことになるのです。
柄谷の交換様式論も発展図式から自由ではありません。
交換様式の発展によって世界史が構成され、未来の交換様式の実現によって人類は新しいステージに昇れるかのような発想です。
個人的には、人間社会は同じことを延々と繰り返しているだけだと思っています。
社会的存在としての人間は同一性をめぐる円環の中にあり、真に差異的で発展的なのは有限な生の中での単独的な個人においてだけのように思えるのです。
その単独的な個人に発展を促せるのは、商品やメディアによる社会的関係の力ではなく、単独者同士の対面的関係だと僕は信じています。
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