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『透明社会』(花伝社)ビョンチョル・ハン 著/守 博紀 訳【後編】

居心地を追求した静止=生死なきオタク社会

サブカル文学の批判に共感する人は少ないでしょうから、話を『透明社会』に戻しますが、
ハンはプンクトゥムを「静止の場所」として捉えています。
ハンがポルノとして示すイメージとは、広告のことだと考えるとわかりやすいと思います。
テレビでもネットでも広告というものは流れ去るものでしかありません。
わざわざ静止して熟考するものではありませんし、熟考させる間もなく消費の欲望を喚起し、購入へとつなげるのが目的です。


こんにち生じている視覚的なもののポルノグラフィ化は脱文化化として進行する。ポルノグラフィックで脱文化化されたイメージは、読解すべきものをなにも与えない。それは広告イメージのように、媒介されることなく接触して伝染するように作用する。
(ビョンチョル・ハン『透明社会』守博紀訳)

ただメディア上で展示されるだけのイメージは、読解されることを求めません。
意味などという遅いものに媒介されることなく、ただ素早く接触し伝染することが至上命題です。
そこに「静止の場所」であるプンクトゥムが入り込む余地はありません。
(ハンは広告イメージにはストゥディウムも存在しないと書いています)


このように、ハンはプンクトゥムの「意味的な遅さ=静止」に注目してバルトの論を扱っているのですが、
バルト自身は、プンクトゥムを「静止」を示すものとした上で、別の重要な捉え方を提示しています。
ここで『明るい部屋』の引用文をぜひ見直していただきたいのですが、【前編】の方に入ってしまったので、確認しやすいようにもう一度ここで引用を繰り返します。


ポルノ写真は一般にセックスを写し、それを動かない対象(フェティッシュ)に変え、壁龕から外に出てこない神像のようにそれを崇拝する。私にとっては、ポルノ写真の映像にプンクトゥムはない。その映像は、せいぜい私を楽しませるだけである(しかもすぐ倦きがくる)。これに反して、エロティックな写真は、セックスを中心的な対象としない(これがまさにエロティクな写真の条件である)。セックスを示さずにいることも大いにありうる。エロティックな写真は観客をフレームの外へ連れ出す。だからこそ、私はそうした写真を活気づけ、そうした写真が私を活気づける。プンクトゥムは、そのとき、微妙な一種の場外となり、映像は、それが示しているものの彼方に、欲望を向かわせるかのようになる。
(ロラン・バルト『明るい部屋』花輪光訳)

引用文の「エロティックな写真は観客をフレームの外へ連れ出す」という箇所に注目してください。
そこでプンクトゥムは「微妙な一種の場外」になる、とバルトは言っています。
つまり、プンクトゥムの役割は見る者を「場外」つまり「外部」へと連れ出すことにあるのです。
プンクトゥムに心を揺さぶられた人は、写真のフレームの「場外」(これをバルトは「見えない場」と名づけています)へと連れ出されてしまうのです。
このバルトの指摘は重要です。
作品がお行儀良くフレームの中におさまっていて、見る人の心を「突き刺す」ことがないものは、一般的関心(ストゥディウム)を引き起こすだけで流れ去ります。
自分の心をかき乱すこともない「安心安全」な作品は、誰もが手に取りやすい商品ではあるでしょうが、
そんなものは芸術でも文学でもないのです。
プンクトゥムこそが作品というフレームから外部にいる受け手を射抜き、その心を突き刺し、揺さぶることができるのです。
それはプンクトゥムが死の必然をともなって、受け手に痛みを与えるからです。
生死に関わる「意味的な強度」の前で、受け手はただ静止し沈黙するしかありません。
生死の実感から遠いところにあって、ただ「心地よい」イメージが展示されている現代では、プンクトゥムを感じる機会はますます少なくなっています。


オタク的な内輪志向と芸術や文学が両立しないのは、この点においてハッキリしています。
資本主義は終焉を限りなく先送りするシステムです。
そのため、消費資本主義では死を表層からどんどん遠ざけるようになります。
死という現実から切り離された文化という「場内」を、まるで膨張を続ける宇宙のようであるかのように偽装するのが消費資本主義です。
(メタバースはそれを視覚化したスペクタクルです)
芸術や文学が消費資本主義に対応すればするほど、そこからプンクトゥムは失われ、文化的関心(ストゥディウム)を引き起こすだけの擬似的な広告へと近づくだけになるのです。
文化はそれを一突きで葬り去る空無を嫌い、すべてを文化という「内輪空間」へと囲い込み、それを商業化していきました。
商業化こそが、文化の防波堤となって、それを内側に閉じ込めていく力になっています。
貨幣というものは、その価値を信じて次に受け取る者がいることで機能するので、次から次へと受け渡す換喩的な力学において成立しています。
つまり、運動に「終わり=死」がないことが貨幣価値の前提となっているのです。
資本増殖が死に対する抵抗になるのは、こういう理由です。
資本によって守られた商業空間が、永遠なる神の国の代替物に思えるのは、交換の運動に終わりがないからです。
静止画を連続的に回転させて作り出された映画に、プンクトゥムがないとバルトが言うのはその意味では当然と言えるでしょう。


オタクという人々は、資本によって守られた商業的娯楽空間(テーマパーク)の中で人畜無害なイメージと戯れることを好み、
その内輪空間のイメージが「場外」にいる現実の自分自身を脅かすことを徹底して嫌います。
簡単に言えば、彼らはストゥディウムだけを求めて、プンクトゥムを抹消することに懸命です。
以前なら、プンクトゥムのない作品は居心地が良くても、心に強く響くものがない「どこか物足りない」ものと受け止められましたが、
村上春樹が文学として大手を振って評価されるようになった今では、「ガチ文学を読まない人が楽しめる」ものが文学の地位を簒奪しています。
(日本で最も注目される文学賞が、「芥川賞」という新人賞ヽヽヽだということが全てを示しています)
出版社の過剰な消費志向が、読者に不快をもよおすかもしれない文学的な文学を抹殺したのです。
(年配女性を多少不快にする「ババア」程度の言葉でも、幅広い受け手を得るための文学的「商品」としては認められないということです)
もう日本の出版界に本気の文学は存在しません。
ガチな芸術や思想も存在しません。
すべては商業的メタバースに合うようにシミュレートされた、人畜無害な「シミュラークル」でしかないのです。


「メディアを通した像とはもはや「存在するもの」を表象しないシミュラークルである」とハンは書いています。
シミュラークルは「まがいもの」を意味しますが、現実に対応するオリジナルを持たないことが特徴です。
ここには、SNSなどで発信された自己像が、もはや現実の本人を直接反映しなくなった事態も踏まえられていると思いますが、
この文章がプラトン的な「詩人のいない社会」を批判する文章の後に置かれていることは象徴的です。
今や日本の出版界は、「真似事」でしかないシミュラークル作品を、ストゥディウムを用いた広告によって瞬間的に売り上げるしか、やることがなくなりました。
一般的関心を惹くだけで熟読に耐えられない低レベルの本を瞬間的にベストセラーにして、その真価が露呈する前に次のベストセラーを安直に生み出し、さらにその真価が問われる前に次の本を売る、それが資本主義的な永続運動です。
このような真似事による「ごっこ遊び」で成立した世界では、本の真価を問うこと自体が、死を予感させるテロリズムに思えることでしょう。
そう、出版業が商業テーマパーク化した時代に本気で批評をするならば、「安心安全」を求める消費的なオタクたちにテロリストと思われることを恐れてはいけないのです。


インターネット社会は透明な管理社会か

『透明社会』の最後は、「21世紀のデジタル・パノプティコン」という現代の管理モデルについて書かれています。
「パノプティコン」という監獄については、僕も〈ネットワーク型権力〉の記事で触れていますが、
中央の監視者の姿が囚人からは見えないことで、絶えず囚人の心理に監視のプレッシャーを与え続ける管理システムをそう呼んでいます。
そのシステムをインターネット上で実現したものが、デジタル・パノプティコンです。
ハンは中央の監視者が存在しないという点で、フーコー的なパノプティコンと異なる、と言っていますが、
フーコーもパノプティコンには主権者がいないと述べていたので、むしろデジタル化した状態の方が本当のパノプティコンだと言うべきでしょう。
(なにしろ西洋の社会モデルでは、真の主権者=監視者は「神」なのですから)


こんにちの管理社会は、ある特殊なパノプティコン的構造を示している。たがいに隔離されたベンサムのパノプティコンの入居者とは反対に、こんにちの管理社会の住人はたがいにネットワークを結び、激しくコミュニケーションする。隔離による孤独ではなく、過剰なハイパーコミュニケーションが透明性を保証するのである。デジタル・パノプティコンの住人は自分自身を見せびらかし、みずから剥き出しになるのだが、それによって、その住人自身がデジタル・パノプティコンの構築と維持に積極的に加担することとなる。とりわけこのことが、デジタル・パノプティコンの特殊性である。デジタル・パノプティコンの住人はパノプティコン的な市場で自分自身を展示する。ポルノグラフィックな見せびらかしとパノプティコン的な管理はたがいに移行しあうのだ。

(ハン『透明社会』)

『透明社会』の最後でハンが思い描くデジタル・パノプティコンは、〈自己発信パラノイア〉たちの自主的な情報発信による管理権力なき相互監視です。
フーコーの言う「従属する主体」が今や規律・訓練など必要とせずに、自発的に従属を求める主体となったことは、僕も指摘してきたことです。
ハンは上層も下層もなく「あらゆる人があらゆる人を可視性と管理に引き渡す」として、民主的な相互監視──「万人の万人による監視」──としてデジタル・パノプティコンを捉えています。
しかし、このような捉え方は、あまりに表面的すぎるように僕には思えます。
もし、現代の管理システムがハンの言うようなデジタル・パノプティコンであるなら、管理の目から逃れることは簡単です。
自ら情報発信によるコミュニケーションをしなければいいわけですから。
インターネットなどに関わらず、おとなしく現実世界を生きていれば、相互監視の網の目に引っかかることはありません。


しかし、実際は自ら情報発信をしなくても、ネットメディアから情報を受信しているだけでも管理社会には巻き込まれます。
誰かが発信した情報を受け取るということは、その情報の発信者に「発信力=権力」を持たせることにほかならないからです。
メディア上の情報というものは、それを参照するだけで、メディア権力を支える活動に参加することになるのです。
ハンの視点から抜け落ちているのは、メディアによる情報の大量流通が「発信力」という権力を生み出すという事実です。


説明しましょう。
メディア・ネットワークによる相互監視は、実際には万人が互いに自己をさらし合うようなフラットな場ではありません。
まず、自発的に発信される自己像は決して透明なものではなく、「他人に見せたい自己像」であり、自己都合による美容整形またはドーピングが施されています。
人々が自発的に展示するのは、「他人に見せたい自己像」でしかありません。
それについては、他人に見せたいものですから、いくら監視されても構わないのです。
それに対して監視されて困るのは、「現実リアルの自己」のとりわけ都合の悪い部分です。
都合の悪い部分を隠すためには、自ら都合のいい部分だけを他人に見せていく必要が出てきます。
人々が〈自己発信パラノイア〉となるのは、「都合の悪い自己像」を否定して「都合の良い自己像」だけをメディア上に流通させたいからなのです。


つまり、メディア・ネットワークとは、自分に「都合のいい自己像」と「都合の悪い自己像」の流通競争の場だということです。
メディアを利用した「都合のいい自己像」の演出は、「都合の悪い自己像」を打ち消す武器になります。
「現実の自己」が露呈すると都合が悪い人ほど、自ら「都合のいい自己像」を過剰に発信します。
(皮肉な見方をすれば、今やメディアに自己をさらしたがる人ほど、現実像はそこからかけ離れた低劣な人格であることが多いということです)
発信の「流通量」によって、「都合の悪い自己像」を凌駕してしまえば、それが「現実」として多くの人に共有されるのです。
このような「自己像をめぐる戦争」が、過剰なハイパーコミュニケーションを生み出す原因です。


つまり、もっぱら監視の対象となるのは「都合の悪い自己像」に限ります。
「都合のいい自己像」に関しては、どんどん他人に見てもらいたいし、いくらでも監視してもらいたいのです。
そして、「都合の悪い自己像」が監視の対象となり、それが問題となったとしても、
発信力を持つメディアの力を借りて「都合のいい情報」を流し、流通量で凌駕してしまえば危険は回避できます。
メディア・ネットワークの場というものは、そのような正しい認識をめぐる物量的な〈情報パワーゲーム〉が支配する場所なのです。
発信力を持つ人の誹謗中傷は正当な批判であり、発信力のない人の正当な批判は誹謗中傷となるのが、相対ポスト主義モダン的なネットワーク・メディアという場なのです。
ハンは自身が社会的地位も発信力も持つ身であるために、このような発信力の不均衡に思いが至らないのかもしれません。


インターネットは双方向通信なので、相互監視的な面を持つのは事実ですが、
それはハンが語るようなフラットな場ではなく、社会的地位を背景とした発信力の強弱と強い関連性を持っています。
たとえば何万人というフォロワーを持つ著名人と、100人しかフォロワーのいない人が相手の悪口を言い合ったとして、どちらがより悪いイメージを持たれるかはハッキリしています。
現実的根拠や、論理的な正しさ、倫理的公平さなどは、発信力の差と比べるとほとんど役に立ちません。
その意味で、巨大な発信力は明らかに暴力や権力として扱うべきなのですが、それが暴力や権力として正しく人々に認識されることはないと僕はあきらめています。
そういう世論を作るのは巨大な発信力なので、わざわざ己の発信力にとって「不都合な自己像」をさかんに発信するはずがないからです。


発信力を競う〈情報パワーゲーム〉の実態は、『透明社会』が書かれた2012年より10年後の現在の方が実感しやすくなっています。
私たちは、インターネットによる発信力の差が、国家間の戦争までも大きく動かすことをすでに目にしているからです。
たとえフェイクニュースでも、巨大な発信力でそれを大量に流せば、それを信じる人たちがたくさん出てきます。
今や「真実」は、それが「真実」であるというだけでは価値はないのです。


目下進行中のロシアとウクライナの戦いは、「情報戦」という観点で語られることが少なくありません。
侵攻当初、劣勢が予想されたウクライナが善戦をしている理由に、インターネットを使った情報発信の効果が挙げられるからです。
ウクライナ侵攻に先立つ2014年のクリミア危機では、SNSでロシアが発信したフェイクニュースが、親ロシア派を後押ししたと分析されています。
そのため、ロシアが成功体験に基づいて、ウクライナ人の抵抗意欲を奪うフェイクニュースを流す「情報戦」を展開することは予想されていました。
「情報戦」において鍵を握るのは発信力の差になるので、敵側の情報インフラにダメージを与えるのがセオリーです。
(実際、ウクライナ軍を支える通信衛星「KA−SAT」に、ロシアがサイバー攻撃をしていたことが伝えられています)
ウクライナは通信システムの遮断を避けるために、アメリカの実業家イーロン・マスクに助けを求めました。
マスクのスペースX社が所有する衛星「スターリンク」を利用させてほしい、と頼んだのです。
「スターリンク」は専用の小型アンテナを使えば、衛星経由でインターネットに接続できるサービスですが、
マスクはウクライナの求めに応じて、数千台のアンテナを迅速に提供しました。
(その資金はアメリカ政府が負担しているという話があります)
そのおかげで、ウクライナはロシアが発信するフェイク情報に対抗する発信力を確保することができたのです。


このように、情報の発信力を競う〈情報パワーゲーム〉は、国家間の戦争の行方を左右するまでになっています。
今や、情報の発信力は「兵器」なのです。
核兵器のような「大量破壊兵器」が、大国の管理を離れて小規模な勢力の手に拡散するようになれば、その濫用が心配されるわけですが、
同様に情報を大量発信できるメディアも、専門的な組織を離れてIT長者やYouTuberやSNSのインフルエンサーなどに拡散するようになれば、
それが濫用される危険というものは軽視できないのではないでしょうか。


実際、最近の文学や思想などの出版業界では、優れた作品を書く人より、業界の「広告塔」の役割を果たす人の方が偉そうな顔をしています。
彼ら「広告塔」は自らの権力を支えるのが発信力であることをよく知っているので、
長い準備期間を必要とするような書物を書くことは決してありません。
断片的な書き物を次々と乱発し、それを集めて書物を書いたような顔をしているのです。
もちろん、そのような書物に碌な中身はありませんが、そのような仕事しかできない人間こそが業界で地位を得ることになっています。
それもこれも人々の書くものが単なる「情報」に成り下がってしまい、〈情報パワーゲーム〉のコマでしかなくなったことが原因です。
そもそも書物というものは速いメディアではありません。
速さを競う時事的なフィールドで商売をするようになれば、将来がないことはハッキリしています。
しかし、雑誌販売で利益を上げてきた日本の出版業界では、残念ながら書物という「遅いメディア」の特性を活かすことができそうにありません。
最悪なのは、「都合のいい自己像」を流通させるために発信力を欲しているような〈自己発信パラノイア〉を、出版界が喜んで起用していることです。
出版がそのような〈情報パワーゲーム〉の場でしかなくなれば、出版物の文化的な信用は一気に落ちることになるでしょう。


失われた元ネタを求めて

この記事も予定量を大幅に超過してしまったのですが、最後にどうしても書いておかないといけないことがあります。
ハンの『透明社会』が、明らかにボードリヤールの仕事に大幅に依存しているということです。
僕個人はボードリヤールの『透きとおった悪』(1990年)が『透明社会』の元ネタだと思っています。
ただし、『透きとおった悪』は危機をウィルスのアナロジーで把握していますが、ハンは『疲労社会』でボードリヤールの免疫学的アプローチを批判しています。
しかし、その差異はそれほど本質的なものではないと僕は感じました。


僕はボードリヤールのラディカルな思考に強く共感するので、師匠筋のバルトにも触れたこともあって、ハンの思想を導いた『透きとおった悪』について書いてみたいと思います。
まず、肯定性の過剰という指摘は、すでに『透きとおった悪』の中でなされています。
ボードリヤールは、もはやシミュレーションで成立した社会システム全体が、テロリズムを引き起こす巨大な不確実性となっている、と述べたあとに、次のように述べています。


逆説的に言えば、この不確実性がもたらすものは肯定性の過剰と、否定性の割合の苛酷なまでの低下である。(中略)さまざまな問題が解決されたとしても、それは否定的均衡状態が崩れたからであり、呪われたエネルギーが、肯定性と作為性のみをめざすシミュレーションの流れにしたがって、拡散していったからであり、その結果、決定的な透明さが定着したからである。
(ジャン・ボードリヤール『透きとおった悪』塚原史訳)

ボードリヤールの言うことは明快です。
「肯定性の過剰」は、現行社会の持続(SDGs!)に対する不確実性が、人々の恐怖心を刺激し、
その恐怖から逃れるために過剰なまでの肯定性で社会を満たそうとすることから起こるのです。
(おそらく、上記の「否定的均衡状態」とは冷戦構造のことを言っているのだと思います)


【前編】にある展示社会についてのハンの引用文に、「美容整形手術」について書かれた部分があったと思いますが、おそらくこの言葉もボードリヤールからの借用です。
ただ、ボードリヤールが意味するものは、単なる美容整形にとどまりません。


われわれは、事物から否定性を切除し、接合手術オペレーションによって、それらを理想的に再モデル化したいという外科医的な強迫観念に取りつかれている。美容整形外科。顔の偶然性、その美しさまたは醜さ、きわだった、あるいは否定的な目鼻立ち、それらすべてを修理し、美しい顔よりもっと美しい何ものかに作り変えるのだ。理想的な顔、外科手術による顔。占星術の記号、あなたの誕生日の記号、それさえも作り直して、あなたの星座とあなたの生活スタイルとを一致させましょう、というのだ──占星術整形美容院という、いまのところユートピア的だが、将来性がないわけではないプロジェクト。ちょっとした適切な操作オペレーションで、あなたのお好みの星座があなたのものになるのです。
(ボードリヤール『透きとおった悪』)

消費資本主義とは、絶え間ない美容整形外科手術の欲望によって駆動されているのです。
僕の考えに照らして言えば、此岸の現実世界をメディア的な「彼岸」へと整形手術することに当たります。
(それにしても、ここで占星術が出てきたことには、笑いを禁じえませんでした。
〈フランス現代思想〉の「広告塔」になっている某教授が、占星術とジムで筋トレをすることに興味津々な人だからです)
僕が整形手術をした世界のことを「彼岸」と呼ぶことにこだわっているのは、それが西洋キリスト教の欲望に根ざしているからです。
直接的には資本主義の影響ですが、資本主義が寄生しているキリスト教の方が僕は本質的な問題だと思っています。
しかし、戦後生まれの日本人は、徹底的にアメリカに去勢されたために、
西洋風であれば価値がある、キリスト教風なら高尚である、という馴致された家畜としての価値観を後生大事に生きています。
そのくせ国民のほとんどはキリスト教の教義には全く興味がないのです。
西洋風、キリスト教風のものを、ただ「美的な記号ヽヽ」としてだけ享受しているのは、それがアメリカ消費主義を背景にして戦後日本に物質的に流れ込んだからです。


西欧社会がおこなった大事業は、世界中を金儲けの場にして、すべてを商品の運命に引き渡したことだ、と言われる。国際的な美的演出、世界のイメージ化と記号化による世界中の美化もまた、西欧社会の大事業であったと言えるだろう。現在われわれが、商品レヴェルの唯物論を越えて立ち会っているのは、宣伝とメディアとイメージをつうじてあらゆる事象が記号化される事態だ。もっとも周辺的マージナルで、凡庸で、猥褻なものさえもが美化され、文化となり、美術館に入ることができる。あらゆるものが言葉をもち、みずからを表現し、記号としての力あるいは記号の様態を帯びる。システムは、商品の剰余価値によってよりはむしろ、記号の美的剰余価値によって機能する。
(ボードリヤール『透きとおった悪』)

すべては商品となり、記号となる、それがメディア的な「彼岸」の存在論です。
商品として西洋風に「美化」されれば、それだけで記号としての価値を持つのです。
重要なのは「意味」ではなく、美容整形手術つまりは美的な記号化です。
ああ、世界のすべては美しい……。
普段は意味がなく思えるものすべてが美しく見えるのは、それがもうあなたの手には入らないものだからです。
そこでは特別な意味など必要ありません。
ただ、永遠に手に入らないものであれば、それでいいのです。
永遠に手に入らないものとは、「失われたもの」と「未生のもの」です。
「失われたもの」と「未生のもの」、それはいつまでも美しいのです。
このような美的操作が、自分が生まれる前に失われた過去へと退却する結果になるのは、火を見るよりも明らかです。
バルトが『明るい部屋』でこだわった少女時代の母親の写真が、それに当たるのではないかと僕は疑っています。
ここにあるのはロリコン=マザコン的な〈潜在性の普遍化操作〉というサブカル的な欲望ではないのか、と。
そして、それがキリスト教と関係しているのではないか、と。


『透きとおった悪』は刺激的な書物です。
僕はこの本をたまたま近くの古本屋で購入したのですが、やはり今は絶版になっています。
失われた本もまた美しいわけです。
まだまだ引用したいところはたくさんあるのですが、ここはハンの『透明社会』の書評なので非常に重要な指摘だけにしておきます。


コミュニケーションは、何かについて語ることではなくて、語らせる操作となり、情報も、知ることではなく、知らせる操作となる。「させるフェール」という助動詞は、そこでは単純な行為ではなくて、操作が問題となっていることを示している。商業的な、あるいは政治的な宣伝の場合も、信じることではなくて、信じこませることが問題となる。
(ボードリヤール『透きとおった悪』)

コミュニケーションは、使役させる「操作」である、というこの指摘も重要です。
ボードリヤールは「コミュニケーション」で一括りにしていますが、正確に言えば、メディアに支配されたコミュニケーションが「させる」ための操作だということになるでしょう。
なぜなら、メディア・コミュニケーションの本質は、発信側を優位に置く一方向的な情報発信にあるからです。
たしかにインターネットには双方向性がありますが、メディア・コミュニケーションは本質的に発信側からの一方通行です。
(インターネットはそれを交互に行えるだけのことです)
発信側が優位にあるという点で、メディア・コミュニケーションは権力の場であり、支配のメカニズムになりうるということを、私たちはもっと自覚するべきなのです。
メディアの権力性という「都合の悪い事実」を自覚したくない人は多いでしょうが、「都合の悪い」ことだから目をそらすというのは、それだけで知性の衰弱と言えます。
個々が自己発信のメディアを持つということは、個々が銃を所有するアメリカ的な社会の似姿と言えるでしょう。
銃を持った個人が数多く集まれば、軍隊と呼ぶしかなくなります。
個人メディアを持つ人を数多く動員できれば、それも軍隊に近づきます。
自己発信メディアのプラットフォームを作ったIT長者が、やたら偉そうな顔をしているのが現代社会です。
イーロン・マスクがウクライナに与えた力を考えれば明らかなように、彼らは国家の命運さえ左右する権力者なのです。
互いに命令し合うメディア・コミュニケーションの相対性を、それより上位のレベルでメタ的に管理できるのが、プラットフォーム権力です。
簡単に言えば、みんながカラオケで歌うようになれば、カラオケ業者が儲かるというビジネスモデルを、あちこちに拡大しているだけのことです。
(東浩紀が思想言説のカラオケ屋になったのも、自分がその業界のメタ的な支配者になりたいからですが、あくまで素人相手の思想カラオケを支配するだけに終わります)


メディア・コミュニケーションが対面コミュニケーションを凌駕した現代社会では、ボードリヤールが言うように、
自ら発信した情報を誰かに「知らせる」「語らせる」ことは、ある種の「操作」と受け取られる面があります。
このような状況が、何でもかんでも陰謀論だと受け取る人を増加させています。
「操作」を意図した情報発信もあれば、「操作」を意図せずにそういう結果をもたらす情報発信もありますが、ここでは意図のあるなしはあまり重要ではありません。


「操作」を意図した情報発信の最も確信的な形態が、広告です。
広告が商品を「知らせる」「語らせる」ことは、その商品を買うように受け手を「操作」することにほかなりません。
しかし、今や広告はだいぶステルス化していて、「操作」を意図していないような顔で「操作」を促す広告も珍しくありません。
その意味で、現代のメディアによる発信は、潜在的にすべて広告だと疑うべきなのです。


情報発信による「操作」をもっと露悪的に考えれば、メディア・コミュニケーションの本質はある種の「命令」だという結論になるはずです。
メディアを介在しているにしても、他人に何かをするように促すことは、「命令」が目指す機能と同じものであるからです。
アガンベンは『創造とアナーキー』(2017年)の中で、「命令の考古学(archeologia del comando)」という矛盾をはらむテーマを扱っています。
(矛盾と言うのは、考古学を意味するアルケーという語が、ギリシア語で「起源」と「命令」の2つの意味を持っているからです)
なぜ命令を考察するのかと言うと、権力が権力として機能するのは、従う人がいるという以上に、命令する能力があることが原因だからです。


わたしのうちに生じた確信とは、権力を定義するのはその従属させる能力ばかりでなく、何よりもまず命令する能力である、というものであった。権力が崩壊するのは、もはやその権力が全面的に服従されなくなる場合ではなくて、それが命令を発するのを止めたときなのだ。
(ジョルジョ・アガンベン『創造とアナーキー』岡田温司・中村魁訳)

命令する能力が権力となるならば、メディアを用いて「操作」をする能力も同様に権力となるはずです。
メディアによって現実を操作する欲望とは、何よりも権力への意志なのです。
マスメディアが自らの「操作」の力を自覚した現代では、マスメディアに群がる人の多くは権力志向の強い人間ばかりになります。
彼らが権力でなくなる時は、命令をやめる時すなわち情報発信をやめた時です。
だから、マスメディアで権力的な地位にいたい人ほど、定期的に情報発信することにこだわります。
多くの人が目にする雑誌やテレビで定期的に情報を発信することが重要になりますが、注意してほしいのは、そこで発信される情報そのものは「意味がない」もので十分だということです。
なぜなら、受け手を納得させ服従させることが問題ではないからです。
あくまで重要なのは、自分が多くの人が目にする情報の発信者の地位にあるという事実の証明なのです。
こうして、まったく「意味がない」内容の情報をやたらと垂れ流す「広告塔」が、現実を「操作」しうる権力者へと祭り上げられる事態が生まれたのです。


せっかくアガンベンの命令論に触れたので、もう少し詳しく書いておきましょう。
アガンベンは存在論には二種類あると言っています。


西洋の文化には、二つの存在論が存在する。両者は異なっているが、無関係というわけではない。一つめは命題的言表の存在論であり、これは直説法によって表現される。二つめは命令の存在論で、命令法においてその本質があらわになる。前者を「ある(esti)の存在論」、後者を「あれ(esto)の存在論」と呼ぶことができよう
(アガンベン『創造とアナーキー』)

第一の存在論が哲学と科学の領域、第二の存在論が法と宗教、呪術の領域に対応する、とアガンベンは整理します。
さらにこの区別を言語行為論に拡大し、第一が事実確認的(constative)な発話、第二がオースティン的な行為遂行的(performative)な発話に対応するとしています。
アガンベンは民主主義社会を「命令の存在論が言明の存在論の座を占めるようになった社会」としているのですが、
僕はそのようなパラダイムシフトが、メディアによる消費的な情報発信と強く関係していることを付け加えておきたいのです。


アガンベンは命令の存在論を、法と宗教、さらには呪術の領域と結びつけていますが、
ここで思い浮かべなければいけないのは、旧約聖書の天地創造の場面です。
神による天地創造は、「光あれ」という命令によって始まったのです。
命令の存在論には、一神教的な神秘思想へと結びつく要素があります。
また、呪術ということで思い出されるのは、ボードリヤールが『消費社会の神話と構造』(1970年)で取り上げた「貨物船カーゴの神話」です。
ボードリヤールは消費の心性を、神の恩寵を待ち望む原始人と同じものだと喝破しました。
(喝破と言っても、彼の天才的な直観についていけない人は多いでしょうが)


ここで問題となるのは私的および集団的消費の心性ヽヽなのである。いささか表面的ではあるがあえて比較すれば次のようになる。この心性は消費を支配する魔術的ヽヽヽ思考ヽヽであり、日常生活を支配し奇蹟を待望する心性であり、それは思考が生み出したものの絶対的力への信仰(ただし、われわれの考えによれば記号の絶対的力への信仰だが)の上に成り立つという意味での原始人の心性である。(中略)
日常生活の経験では、消費の恩恵は労働や生産過程の結果としてではなく、奇蹟として体験される。
(ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳)

貨物船カーゴの神話」というのは、メラネシアの原住民たちが豊かな物資を積んだ白人の飛行機を、自分たちのところに着陸させるために呪術を用いたことを言っています。
彼らは飛行機をおびきよせるために、着陸用の空き地を用意し、木の枝やシダの葉で飛行機らしきものを置いて、夜通し灯りを絶やさないようにしました。
この貨物船カーゴ崇拝は、ある種のメシア崇拝だと、ボードリヤールは述べます。
原住民は飛行する貨物船の物資が、実は自分たちの祖先の恩恵であり、それは本来なら自分たちにもたらされるものだと思い込んでいます。
呪術は本来あるべき恩恵を、あるべきところへと取り戻すための儀式なのです。
消費の恩恵はこのように天からの贈り物のように受け取られるのですが、今や先進的な西洋人の方が原始的な貨物船カーゴ崇拝に囚われている、という指摘は、なかなか皮肉が効いています。
僕が見るかぎり、ボードリヤールが消費社会の「神話」と銘打ったことの意味が理解できている人はほとんどいないようです。
僕はボードリヤールのような文学的な言い方を好まないので、もっと合理的な言い方をしています。
つまり、消費資本主義とは「内面的信仰なき外観的スペクタクルなキリスト教信仰」だということです。
誰も神を信じていなくても、実質的には信者にさせヽヽられヽヽているヽヽヽのです。


逸脱書評とはいえ、ちょっと僕の思想に深入りしすぎてしまいました。
このあたりのことは、稿を改めて書きたいと思います。
くだらない人物のくだらない書物がなぜ売れるのかというと、それを神の恩恵だと思い込む消費者の心性が、原始人のものと変わりがないからです。
彼らはただ恩恵を自らのもとに引き寄せることにしか興味がありません。
もっと悲しい事実を言えば、貨物船カーゴは決してメラネシアの原住民のところには降りてこないのです。
消費によってもたらされるものは、神の恩恵が近づいているという「予感」でしかありません。
つまらない売れ筋の新書を読んで、頭が良くなったような「予感」がもたらされ、
つまらない売れ筋の作品を読んで、文化的な存在になったような「予感」がもたらされ、
自分と無関係なスポーツ選手の活躍を見て、明日を生きる活力を得たような「予感」がもたらされているのですが、
それらは「予感」から一歩も出ることはありません。
ただ、奇蹟の気配を感じられなくなるよりは、まだ奇蹟の気配を感じていたい、というだけのために集団的消費に駆り立てられているのです。
あの大空を切り裂く飛行機が、いつか自分のところに降りてきてくれる、
その素朴を装ったヽヽヽ「欲望」を持続させるために、また現代の原始人たちは今日も大空を見上げ続けているのです。


3 Comment

HOHさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
HOHさん、コメントをありがとうございます。

プンクトゥムを立ち止まるための「躓きの石」と考えるのは教訓的ですね。
不意に躓いた時の気まずさが、自分の足元をしっかり確かめ直すことになったりします。
しかし、わざわざ躓きたい人はあまりいないでしょうね。

今の社会は立ち止まることができません。
震災や原発事故の躓きも、なかったかのようになっています。
現代は多幸感あふれる表層社会ですが、
それが不幸に対する免疫力の低下につながり、不意打ちのような痛みに躓くことすら恐れる悪循環を生んでいます。
自分に引き戻される間もなく、躓く原因となった石を異常に憎悪する人も少なくありません。
(それも、たいていは集団となって憎悪を振り向けます)

こういう社会では、「小説はわざと嫌なことを書くのだ」という理解しかできない大学教授を、出版社がチヤホヤするようになります。
不意の痛みや躓きがもたらすものが「不快なこと」でしかないと思っているオタクが、文学業界の現場を占めるようになりました。
快や不快のレベルを超えた人間の本質に触れることの重要性がわからずに、文学とか言っても構わない時代になったのです。
こんな社会が正常化するとしたら、プンクトゥム程度の痛みでは足りません。
社会レベルで大きく躓いてもらうしかないと思っています。

こんにちは

南井さんこんにちは。
今回の論考も興味深く拝読しました。

プンクトゥムという概念は初めて知ったのですが、なかなか複雑な内容を持った言葉のようですね。
私はプンクトゥムとは「躓きの石」のことではないかと思いました。
つまりストゥディウムに満ちた世界を無批判に歩いている主体の足元を掬い、立ち止まらせるモノ、ということです。
不意に転んでしまった時って気まずいような、悲しいような変な感じになりませんか?
自分自身にいきなり引き戻される感じというか。
その「変な感じ」がバルトの言う「一種の場外」なのではないかな、と思いました。
避けられてしまう岩でもなく、踏みつけられる砂利でもなく、
加速していく世の中を躓かせる小石になりたい。
そんな風に思います。

応援しています。

水運さんへのお詫び

どうも、南井三鷹です。
水運さん、コメントをありがとうございます。

せっかくの水運さんのコメントを、誤って削除してしまいました。
申し訳ありませんでした。
もう一度コメントを書くのはさすがにバカバカしいですよね。
仕方ないので、返答だけさせていただくことにします。

水運さんのコメントは、現代社会を表すのに「透明」という言葉より、
「円滑社会」とでも表現した方がいいのではないか、という内容でした、

現代が資本増殖やコミュニケーションの効率化、円滑化を動機としている社会なのは、僕も書いたとおりなのですが、
それが「透明」として示されるような表層的な可視化を導いていることに、ハンの関心があります。
ここではスペクタクル批判という文脈が重視されるべきなのです。
プンクトゥムが語られるのも、表層化への抵抗です。

可視化された表層が、深みを全く持たない表層として自足した状態を、「透明」と言い表しているのだと考えておけばいいように思います。
透明社会とは、スペクタクルの全体主義なのです。

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