南井三鷹の文藝✖︎上等

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アドルノの文化産業批判【後編③】

タダより高いものはない──広告権力

『啓蒙の弁証法』の文化産業の章の最後になって語られるのが、文化産業と広告との関係です。
少し考えればわかることですが、文化産業が売り出す作品=商品は、その内容を十分に味わう前に料金を支払うことになる場合が普通です。
たとえば見終わった後に映画料金を払ったり、読破した後に本の代金を払ったりすることはありません。
内容がよくわからない状態で購入するのであれば、購入にはギャンブルの要素があるわけですが、
競馬に予想屋が欠かせないように、商品の「評価」をしてくれる広告(紹介記事を含む)の役割が重要になってきます。
そのため文化産業は、商品の「評価」に関わる広告(紹介記事)を業界のコントロール下に置いて、消費者に自分たちが売りたい商品を購入させるよう誘導していくことになります。
(当然ながら、商品購入にマイナスとなる正論を、消費者が信頼することを彼らは恐れています)



アドルノの文化産業批判【後編②】

現実を「救済の地」へと改変する〈メディア的存在者〉

少しアドルノの文脈から離れてしまいますが、ここで僕はメディア端末や出版物の中で「司牧」の役割を演じる〈メディア的存在者〉について少し説明しておきたいと思います。
前出の引用文では、映画を観る女性観客はスクリーン上の女優に自分もなれるかもしれないと感じるとともに、
スクリーン上の存在(メディア的存在者)と現実の自分との距離を意識しないわけにはいかない、と語られていました。
ここでアドルノたちの言う「現実との距離」が、〈メディア的存在者〉である女優と現実の自分との差異であり、「商業的メディア空間と現実との距離」を示していることは、強調しておきたいところです。



アドルノの文化産業批判【後編①】

文化産業による知性の排除

これまで『啓蒙の弁証法』(1947年)を読み解きながら、アドルノの文化産業批判をアップデートしてきましたが、今回はその完結編です。
文化産業は事前に想定された売り上げの確保を「予定された世界」と見なし、
「予定」がそのまま実現されることを「秩序」だと考えています。
つまり、電車が時刻表通りに狂いなく運行されるような世界を規範としています。
未来とは、将来の利益が不安定になるような予定外のものであってはならないのです。
そのため、文化産業は大衆のニーズを掘り当てる「作品=商品」を生み出す方向から、
自分たちが売り出したものを「予定された」とおりに大衆に買わせるという方向へとシフトしていきました。
事前のマーケティングで「予定された」とおりに商品が売れてくれたら、企業としてこれほど安心・安全なことはありません。
とりわけ、景気後退局面であれば、なおさら心強いことでしょう。



アドルノの文化産業批判【中編②】

アドルノが陥った罠

これまで僕は『啓蒙の弁証法』や「文化産業についてのレジュメ」に従って、アドルノの文化産業批判を取り上げてきたのですが、
ここからはアドルノの理論について物足りないと感じる点について言及したいと思います。
生意気なようですが、僕はアドルノの文化産業批判は不徹底な理論だと思っています。
それは文化産業の「様式化」を批判する彼らの主張自体が、「資本家こそが悪であり、労働者は搾取された被害者である」というマルクス主義的な「図式」に依存しているからです。
アドルノは文化産業という「売り手(資本家)」については激烈に批判しているのですが、「買い手(消費者)」の欲望や生き方をほとんど批判してはいません。
そのため、消費者は無力な被害者であるかのような印象を与えます。
しかし、本当にそうなのでしょうか。



アドルノの文化産業批判【中編①】

文化産業の画一性志向

アドルノとホルクハイマーの共著『啓蒙の弁証法』(1947年)は、なぜ近代啓蒙社会がファシズムを生み出したのかを解き明かそうとした書物です。
理性を至上の価値とするはずの社会が野蛮へと反転することを、彼らは「啓蒙の弁証法」と考えているのですが、
そのような反転した社会では、理性が追放されていくため、個人の批判的な感性も排除されます。
全体主義的な戦時体制の中で批判が排除されるのはわかるのですが、
アメリカのような大衆消費社会においても、同様の危険があることを指摘したのが「文化産業」の章です。
アドルノたちは大衆消費文化を生み出す「文化産業」に、個人の主体性剥奪の危険を感じ取りました。
大衆のための非政治的な娯楽作品が、どうして個人の抑圧を招く結果になるのでしょうか。



アドルノの文化産業批判【前編】

文化産業とは何か

普通に現代思想の本を読んでいても、「文化産業」という言葉を目にすることは、珍しいのではないでしょうか。
初めて聞いた、という方もいると思います。
この言葉は、フランクフルト学派に属するマックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノの共著『啓蒙の弁証法』(1947年)のⅣ章「文化産業」で用いられたものです。
「文化産業」の章は大衆文化(消費文化)に対する本質的な批判になっているので、
消費資本主義に依存した私たちにとっては、かなり耳が痛い内容です。


ホルクハイマーとアドルノが「文化産業 Kulturindustrie」と呼んだものは、複製を基盤とした大衆消費文化の生産者(生産事業者)にあたります。
今で言えば、市場にある文化的な生産物のほとんどが文化産業の手によるものです。
そんな文化の担い手が、なぜ批判されなければならなかったのでしょうか。
簡単に答えるならば、経済システムによって流通する文化生産物は、文化である以上に「商品」でしかないからです。
文化産業には、大衆向け文化を通して人々から主体性を奪い、社会体制にとって都合の良い「労働者」を作り上げる役割があります。
つまり、文化的商品﹅﹅には労働者を支配する側面が隠されているのです。