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現代アートへのレクイエム【その1】

「現代」ということの意味

「現代アート」や「現代思想」、「現代音楽」や「現代詩」など、「現代」を冠したものはいくつもあるのですが、
この「現代」というものはいったい何なのでしょうか。
「現代」という接頭辞は英語ではcontemporaryに当たると思いますが、contemporaryには「同時代の」という意味があります。
伝統的な古臭さにとらわれずに、同時代性に応える「新しさ」を備えたものこそが「現代〇〇」ということになるのでしょうが、
僕にはこれら「現代」を冠する文化が軒並み限界にぶつかっているように感じられて仕方がありません。
今回は現代アートを例にして考えてみたいと思っています。


何であれ、「ジャンル」というものは、伝統や歴史性を踏まえて発展していきます。
伝統や歴史性の理解を前提とした上での発展であるため、ある種の狭量さや排他性が存在するものです。
そこでは目的意識の集中によって強力な切磋琢磨がもたらされ、非常に高度なものが出現してくるメリットがある一方で、
伝統や歴史性に縛られると、狭い中でそのジャンルが煮詰まってしまうデメリットも目立つようになります。
また、伝統を前提としてしまうと、歴史性において利のある地域がどうしても優位に立ってしまいがちです。
さらに、その文化的な歴史性が国家権力に利用される結果になってしまうこともあったのです。
このような歴史や伝統、その上に成立した近代的な国家権力から自由であることを求めて「現代〇〇」というものが登場したように思います。


注意したいのは、歴史や伝統、近代的な国家権力からの自由を志向する場合、
たいていは資本主義と結託することになるということです。
「現代」という同時代的なものを重視する価値観において、資本主義経済の影響は無視できないものです。
芸術というと、経済から自立した領域であるかのように思われがちですが、「現代」と冠するもので資本主義イデオロギーに反しているものを見つけるのは難しいのではないかと疑います。


その意味で、資本主義が煮詰まってしまった現在、「現代〇〇」が例外なく危機に陥っているのは当然に思えます。
〈フランス現代思想〉に代表される現代思想が、口では資本主義批判を語りながら、
結局は消費資本主義を推し進めることに利用されたことは、もうすでに僕が何度も書いていることです。
現代アートなど他の「現代〇〇」にも同じような矛盾があると思います。
難しいままに言ってしまうと、資本主義とは矛盾を逆説として成立させてしまうシステムだからなのです。
私たちは矛盾を矛盾と感じないシステムに慣らされてしまっているのです。


現代アートとは芸術なのか?

まず現代アートの考察を始めるにあたって僕が確認しておきたいのは、現代アートを留保なしに芸術と見なしていいのか、という根本的な問いです。
アートが芸術の訳語であるのは自明ですし、現代アートの出自が美術にあることもハッキリしています。
現代アートの多くが美術館で展示されるため、現代アートは美術の一部であるという捉え方が当然であるように思います。
美術が芸術であることには僕も疑問はありません。
したがって現代アートは普通に考えると芸術だと言って何の問題もないことになります。
実際、ネットで検索をすると現代アートは20世紀から21世紀にかけての美術のことだと書いてあります。


しかし、僕は現代アートをそれまでの美術とは区別した方がいいと思っています。
「現代アートは芸術(美術)ではない」と大声で主張する人は目にしないのですが、
わざわざ「現代」と冠していることでもわかる通り、それまでの美術とは別のものとして、明確に線引きをしたい人はいるのではないでしょうか。
特に「現代アート」を名指しで批判をする人たちは、広義の芸術を否定するつもりではなく、
そこから切り分けられた現代アートだけを想定して批判しています。
現代アートは芸術ではない、とまで言い切ることはしなくても、広義の芸術から派生した別のジャンルとして考えた方が合理的だと思いますし、
僕がこの記事を書くスタンスはそのようなものです。
スピードスケートとフィギュアスケート、競泳とアーティスティックスイミング(以前はシンクロナイズドスイミング)のような区別をすればいいのではないでしょうか。


しかし、実際は現代アートと美術の間に明確な線引きがないために、現代アートの定義は困難です。
そのような定義を求めて僕は小崎哲哉の『現代アートとは何か』(2018年)を読んでみたのですが、
小崎は現代アートを美術とすることに明確に違和感を表明していました。
(「現代美術」というより「現代知術」と呼ぶべきかもしれない、と言っています)
アート界隈に通じているわけでもない僕は、この本を書名だけで手に取ったので、
著者の小崎についてはまるっきり知りませんでした。
経歴を見るとフランス留学後、アート関係の雑誌編集やアート講座などで活躍してきたアートジャーナリストであるようです。
多角的でバランスも取れている本で、自分が感じてきた疑問を考える上で非常に参考になりました。


小崎は『現代アートとは何か』で、現代アートを駆動している勢力ごとに章を立てています。
マーケット、ミュージアム、クリティック、キュレーター、アーティスト、オーディエンスという分類です。
最初にマーケットが置かれているように、小崎は現代アートが資本主義と切り離せないことを強く認識しています。
ただ、そのことをジャーナリズムが問い糺すことはない、と彼は述べます。
「いかなるアーティストも、グローバル資本主義と癒着したアートワールドに棲みついている、いわば同じ穴のムジナであり、そのことをジャーナリストたちが知っているから」なのです。
現代アートの場である「アートワールド」(もともとはアーサー・ダントーの論文による語)はグローバル資本主義に支えられたシステムであり、
アーティストはそのシステムから自由ではいられません。
だから小崎は「現代アートは、システムから独立して存在することはできない」と言い切ります。
なかなか潔い書きぶりで好感が持てました。
「現代〇〇」が資本主義イデオロギーとの共犯関係の上に成立していることは、現代アートを見れば当然の事実なのです。


ただ、出版を基盤とした現代思想や現代詩などと大きく異なるのは、現代アートのメイン顧客が大富豪だということです。
アートワールドが資本主義に依存するシステムであっても、その破格な値段設定によって大衆性を免れています。
理由はなんであれ、大衆性を免れていることは大上段から「アート」と呼ばれる根拠になりえます。
しかし、グローバル資本主義を批判する現代アート作品を、その勝利者である大富豪が購入し、
ハイソな人々だけが鑑賞できる大富豪の個人美術館に収蔵されたりすることをどう考えればいいのでしょう。
アメリカの富裕なコレクターは、公的助成を受けて私立美術館を建てておきながら、一般公開をしないでアートの私物化を進めています。
現代アートを公共財と捉える小崎は、アートがフランス革命以前のように特権階級だけのものになるのではないか、と危機感を募らせているのですが、
現代アートを超高額商品とだけ考えるならば、特権階級だけのものになるのは自然の摂理とも言えます。
業界人である小崎には受け入れがたいことではあると思いますが、現代アートが単なる超高額商品と化している現実というのも考えるべき問題のように思います。


小崎はビエンナーレのような現代アートの祭典に、現代アートの宿命的な矛盾がよく現れていると書いています。


ヴェネツィア・ビエンナーレが面白いのは、そこが売買の場ではないために、「反グローバル資本主義」というような建前がまず打ち出され、その向こうに本音が透けて見えるという二重性があるからである。(中略)ともあれ、アートワールドに入るということは、望むと望まざるとにかかわらず、グローバル資本主義の「勝ち組」に加担するということである。

小崎が終章で現代アートの問題を列挙した部分ではこのようにまとめられています。


アートワールドは矛盾に満ちている。
 ヴェネツィア・ビエンナーレに典型的に見られるように、アートワールドは本音と建て前を使い分けている。狭義のアートワールドはアートマーケットに依存していて、そのマーケットはグローバル資本主義に支えられている。アーティスト、キュレーター、批評家、ジャーナリストなどの多くはリベラルもしくは左翼であり、彼ら彼女らはグローバル資本主義を批判するが、実は日々の糧をそこから得ている者が少なくない。

もちろんこれは現代アートに限った矛盾ではありません。
資本主義の果実を手にしていながら、反資本主義のポーズをするエセ作家や思想家がどれだけいることでしょうか。
誰だって自分が大きなシステムの犬でしかないことは否定したがるものです。
その意味では、本気で支配的立場にある大富豪を除けば、
せっせと資本主義システムに協力しながら、自分は資本主義の外にいるのだ、と言いたがることでしょう。
こういう人々の中途半端な自意識を満たすために「現代〇〇」が存在していると言っても過言ではありません。
心の底まで資本主義に飼いならされた人々は、
大富豪御用達の現代アートや、資本の代弁(宣伝)をするマスコミ御用達の「現代〇〇」による、
見せかけだけの現代社会批判に共感して、日々をやり過ごすしているのです。


つまり、現代アートをはじめとする「現代〇〇」とは、資本主義体制の「ガス抜き」にしかなっていないのです。


現代アートがアートを詐称するメカニズム

では「ガス抜き」程度のものにどうして破格の値がつくのでしょうか。
アート作品は社会一般の価値観(通俗性)の外部を指示しうるという共通了解があるからです。
つまり、すぐれた現代アート作品であるという評価が得られれば、それは一般社会の外部を示しうるものである、ということになります。
現代アートにおける一般社会とはグローバル資本主義と同義ですので、グローバル資本主義の外部を示すことができない現代アートなど、価値がないわけです。
こうして、現代アートは「反グローバル資本主義」を建前として掲げることになるのです。


さて、そうなると次の疑問です。
実際はアートマーケットに依存した現代アート作品が、どうして資本主義の外部を示すアート作品として流通するのでしょうか。
「反グローバル資本主義」というコンセプトを示せれば、何でも評価されるものなのでしょうか。
もちろん、そんなことはありません。
ビエンナーレなどに代表されるように、現代アートを評価する場というものがあるのです。


小崎は「現代アートシーンをつくっているのはプライマリープレイヤーたちである」と述べています。
小崎の分類によると、プライマリープレイヤーとは、ギャラリスト、アーティスト、コレクター、美術館館長、キュレーター、アートフェアディレクター、アートスクール校長、メディア、オークションハウスであり、
セカンダリープレイヤーとは、アート史家、理論家、批評家、ジャーナリスト、企業のメセナ担当者、文化官僚、校長以外のアートスクール教員、オルタナティブスペース運営者などです。
この二分化は商業的なプレイヤーと非商業的なプレイヤーだと彼は言います。
まあ、乱暴に言ってしまえば一軍と二軍みたいなものでしょう。
特に、小崎は最近の現象として理論家や批評家の役割が消えていったことに注意を促します。
「巨額の金がアートマーケットに注がれる時代に、批評の影響力が極端に衰えていることは記憶に留めておいてほしい」


プライマリープレイヤーで構成される「アートワールド」が「王や女王」の役割を担い、
それが個々のアーティストに「ナイト」の称号を授ける権利を有している、と小崎は述べます。
アーティストはこのような「騎士道システム」によって、アートワールドに評価され、その一員として迎え入れられます。
アートワールドの一員の作品であるから現代アート作品と認知されるのです。
そしてアート作品と認知されたことで、それは資本主義の外部を示すことに成功したこととなり、
この社会で何もかもを手に入れた資本主義の勝者たちが、その外にあるものを手に入れようと大金を支払っていくのです。
格付け会社によるファンドの格付けと似ていますよね。


小崎はプライマリープレイヤーによる評価、簡単に言うと「業界内の評価」によって決定される価値に疑問を持っています。
しかしよく考えれば、アート以外の表現ジャンルも同じではないか、として、例として文学のジャンルを持ち出します。


例えば文学作品は、多くの場合、アマチュアが同人誌やウェブサイトなどに発表したものや、新人文学賞に応募したものを編集者らが読み、文芸誌に転載したり、新たに寄稿を依頼したりして、小説家や詩人としてデビューさせる。すでに他の領域で活躍している人材に、編集者が執筆を依頼することもある。

ポピュラー音楽や映画も同様だ、とします。
ならば現代アートだけ「騎士道システム」を司る「王や女王」の資質を疑わなければならない話はない、とこれを擁護するそぶりをしてみせます。
権威による認定など、どこの世界でも公正かどうかわかりません。
実際、リーマンショックと言われる株価暴落は、格付け会社が不適切な格付けをしていたことで引き起こされました。


ただ、現代アート以外のジャンルには自浄作用があると小崎は言います。
文学や音楽や映画などの大衆消費財は、「大衆」という消費者が存在しているおかげで、「王や女王」の専制を牽制している、とするのです。
たとえ「業界内の評価」でふさわしくない作品が評価されても、享受する大衆が自らの趣味嗜好によってそれを問い糺すことがあるということです。
それに対して現代アートの世界は、権威であるアートワールドの評価に影響を与えうる消費者という別の勢力が存在しないため、
権威である「王や女王」の資質が絶えず問われなければならないのです。


しかし、僕は文学など他のジャンルにおいても現代アートと同様の問題があると思っています。
(だからこそ今回はこのテーマで書いているのですが)
消費財として完全に大衆化されている小説、マンガ、映画、ポピュラー音楽においては確かに「業界内の評価」だけで消費者を押し切れはしないと僕も思います。
ただ、ある程度大衆性から距離を置いている純文学や現代詩、前衛系の短詩、現代思想に関しては、
「業界内の評価」が批評性のない頭の悪い大衆を食い物にしている現状があると思います。
とりわけ現代詩や短詩の世界は享受者の多くが創作者でもあるため、内輪の評価がそのまま固定化しやすい状況にあります。
そのような状況を示すわかりやすい現象が、小崎が注意を促している「批評の排除」です。


批評に影響力がない時代

『現代アートとは何か』で、小崎はアート評論家のジュリー・ソルツやサラ・ソーントンやハル・フォスターの文章を引用して、
近年になってアート批評が読まれていないことを示します。
以前はもっとアートと理論の関係は密接でした。
1980年代以降には現代アート界ではポスト構造主義などの〈フランス現代思想〉が大流行し、
ドゥルーズやデリダなどの文章がよく引用されたようです。
小崎は現代アートと思想や科学との関係は非対称だと言います。
つまり、現代アートの方は思想や科学を参照したがるのに、現代アートが思想や科学に寄与することはほとんどない、ということです。


小崎の終章のまとめを引用してみます。


批評や理論は影響力を失っている
 マーケットが巨大になるにつれて、批評の影響力が格段に低下している。『アートフォーラム』などの専門誌は広告で占められ、業界人でさえ批評を読まなくなっている。20世紀末以降、アーティストの運動や流派はほとんど誕生せず、それが批評の停滞を招いている面もある。現代思想や哲学に依拠するキュレーターや作家はいるとはいえ、美学やアート理論は一部の書き手を除いて衰弱している。

小崎はハッキリ書かないのですが、まとめにあるように、批評を殺しているものが「広告」であるのは明らかです。
資本主義的な本音ばかりが支配的になると、評価基準が「売れ行き」に一元化されていきます。
そうなれば「売れ行き」こそが批評性を持つようになるのです。


これは別に現代アートの世界だけの話ではありません。
文学に話を移せば、村上春樹の小説を論じた価値のある批評など全く存在していません。
彼の評価はもっぱら「売れ行き」によってなされてきたものでしかなく、その評価を後づけるために書かれた「売文」ばかりが世にあふれています。
(小崎はアート界でも作家が金を払って好意的なレビューを書かせることが行われている、と言います)
話題性や売り上げだけを評価基準にする世界では、批判される可能性がある批評など邪魔になるだけです。
こうして特定業界が自らの利益になるように、作られた「業界内の評価」を一元的な放送体制によって広告し、
物量という既成事実によって消費者を誘導していくことを試み続けているのです。


このような売り上げの毒になる「批評の排除」について、僕自身の体験を語ることがわかりやすいと思っています。
僕はこのような批評の不在は出版社に問題があると考えています。
実際、村上春樹などある種の作家の批判をすると出版社からクレームがつくことを何人もの著名人が語っています。
忌憚のない批評をするには出版社を通してはいけない、と思った僕はAmazonレビューに目をつけました。
つまり、批評を殺している「広告」を逆利用して批評をやってやろうと思ったのです。
その結果、案の定と言うべきか、著書の「売り上げ」を守るためなら恥も外聞もない千葉雅也(広告屋の息子!)という資本の犬が、
低評価のレビューを書く人は「基本アホ」だとしてツイッターで僕を攻撃するようになり、僕の言論活動は弾圧されてしまいました。
(こんなサイトで何を書いても波及力はないに等しいので、Amazonレビューとは違う目的で現在は批評を書いているわけですが)


現代アートの世界では、アートワールドという権威づけ機関に対して、
消費者による異議申し立てが存在しないことが問題でしたが、
出版の世界もさほど変わらないことがわかると思います。
どこの業界でも、「業界内の評価」という内輪の世界を絶対化する欲望を抑えられなくなっています。
おそらく、それは21世紀になってから加速した現象ではないかと思います。
インターネットの台頭と時期を同じくするので、メディアの問題として考える人もいるでしょうが、
僕は9.11のニューヨーク同時多発テロによって顕在化した、アメリカ中心の世界秩序の揺らぎが関係していると考えています。
なぜなら、その時期から搾取すべき外部を失って行き詰まった資本主義の延命化が至上命題になっていくからです。
資本主義の延命化が何より重要になっていくと、売り上げを阻害するものは社会の安定を脅かすテロリストでしかなく、
それを排除することは一種の「聖戦」と見なされることとなるのです。


今や「広告」の代わりとなる「幇間批評」こそが批評なのであり、
売り上げに響くような批判をする批評は「誹謗中傷」として扱われることになりました。
特に「業界内の評価」にケンカを売るような批評をすることは、タブー視されるような風潮があります。
「批評の排除」とは静かな権威主義の高まりであり、「王や女王」の専制を許す結果となることでしょう。


現代アートはコンセプトの具現化

小崎はアートと理論が互いに背を向けあっているとしているのですが、
その理由については有効な考察ができているようには見えませんでした。
僕は門外漢なので確信があるわけではありませんが、
アートが理論に関心を示さないのは、それが一種の「コンセプト」の実践に属しているからではないかと思います。


1960年代に流行したミニマル・アートの後を受けて登場したのがコンセプチュアル・アートです。
その源流はマルセル・デュシャンのレディメイドにあるとされますが、
デュシャンの話はまたのちにするとして、コンセプチュアル・アートの旗手であるジョセフ・コスースの「One and Three Chairs(ひとつおよび3つの椅子)」(1965年)を紹介しておきます。
現代アートの解説では必ず取り上げられる有名な作品ですので、見覚えのある人も多いと思いますが、
展示されているのは、本物の椅子とその椅子の写真、さらに「椅子」という語を説明する辞書の拡大コピーです。
これら3つをすべて椅子とするためには、外見を捨象して概念を取り出すほかありません。
このように、展示物を通して描き出される観念や概念を中心として扱う作品をコンセプチュアル・アートとしているのです。


コスース自身は自らのエッセイで、デュシャン以降のあらゆる芸術は概念的である、と述べて、
レディメイドによってアートの本質が形態から機能(観念)へと変わった、としています。
これを受けて小崎はこう述べています。


いまやアートは生産するものではなく、選択・判断・命名による真摯な知的活動となった。それがゆえに、現代アートはコンセプチュアルなのである。

しかし、僕はそうだろうか、と思わずにいられません。
選択・判断・命名とは要するにアイデアということだと思います。
美術から現代アートへの変化は、物質的生産から二次創作的なレディメイドや非物質的なアイデアになったということです。
これは見方を変えれば、アートとは「情報」だということになってしまわないでしょうか。
もっと突っ込んで言えば、「ネタ」と言えなくもありません。


現代アートが「ネタ」というコンセプトの表現に傾けば傾くほど、
観客には実際に見てもらって鑑賞してもらわなければ意味がありません。
批評家が批評してしまえば、本当にただの「情報」となってしまうのですから。
僕は現代アートが批評や理論を排除していく原因は、このようなコンセプチュアルな作品をアートだと主張していることにあると考えます。
批評家に批評されたら死んでしまうような作品が、果たしてアートと呼ぶに値するものなのでしょうか。
僕はそうは思いません。


コンセプチュアル・アートは難解だという触れ込みがあるのですが、
僕はコスースの椅子などは退屈だとしか感じませんでした。
ひとつの椅子という概念がありながら、それが3つの椅子のどれとも一致しつつどれとも完全に一致しない、ということを示しているのですが、
概念を扱っているということがわかってから見ると、それはそうだよね、ということになってしまうのです。
おそらくコスースの頭には、父なる神・神の子キリスト・精霊というキリスト教の「三位一体」があったのではないかと想像します。
このように、コンセプチュアルな作品はネタバレするとつまらなくなってしまいます。


コンセプトの台頭は、生産から消費へと移行した資本主義の展開を背景にして成立したものです。
消費においては交換と流通が何よりも重要です。
使用価値に準拠した商品交換とは次元が違う破格の交換価値を実現する現代アートは、いったい何を交換の材料にしているのでしょうか。
次回の【その2】でジャン・ボードリヤールの現代アート批判を参考にして考察したいと思っています。
ボードリヤールは現代アートに対して痛烈な批判を行い、フランスで大きな論争を引き起こしたようです。


9 Comment

クロさんのコメントへの返答

クロさん、僕が返答をしなかったために気を揉ませて申し訳ありません。
御察しの通り、ツイッター上のくだらない諍いで、
ネットから気持ちが遠ざかり、このブログに手が回らず、返答する余裕が失われていました。
もちろんクロさんのコメントに対して僕が嫌な思いをしたなどということはありません。
(というより僕もクロさんの感想に同意で、SNSはくだらないことを繰り返す場ですよね)
むしろ、クロさんが騒動に巻き込まれることを恐れていました。
こんなにご心配をいただいているとは、僕の配慮が足りませんでしたね。

僕はエゴサもしませんし、ブロックした相手のツイートなど見ませんので、
何を言われてるか知らないんですよ。
そのため命の危険も感じていませんし、妻は長らく僕の喧嘩人生に付き合ってきた人なので、ある程度は覚悟してくれています。

脅迫者はおそらく狂人ではなく、身内意識に凝り固まりすぎて批判を攻撃としか思えない幼稚な人なのだと思います。
脅迫をするとボスからお荷物扱いされるぞ、と僕がツイートしたことに「喧嘩を売った」とか粘着してきましたが、
実際にそうなったんですから事実でしかないんですけどね。

事実を言われて誹謗中傷だとか怒る奴が多すぎますよ。
クロさんのレビュー相手も相当ひどいですね。
でも、何か似たような事例を僕も体験している気がします。
自分は人の批判をしながら、自分は人に批判されたくない、これこそがメタ位置にいる幻想がもたらす心理です。
文章を書く人(もしくは出版マスコミ)が安易にメタ位置にある気になってしまうことが問題だと感じています。

クロさんのコメントは毎度ありがたく読ませていただいています。

先達ては、申し訳ありませんでした。

私が言葉を尽くす努力を欠いていたために、南井さんの不興を買ってしまったかもしれません。申し訳ありませんでした。
お目汚しすることを失礼して、ここで一度敷衍させてください。
私は人間の諍いを何度も見てきました。私も当事者になったことも何度もあります。今もあるところで醜い諍いを目撃しています。

>何度もこういった場面に出くわしているのでもはや予想通りでした。
>人のやることってどんな人でもどこに行っても同じです。

これは南井さんと南井さんのご友人を非難したつもりはございませんでした。
主語がなく、文章自体が無内容で下手くそなためにそのように取れてしまっただろうなと書いた後で読み返して後悔していました。

私自身、喧嘩の仲裁に入ったことがありました。
恥ずかしい話ですが、かいつまんでお話しすると、過去に関わりのあったアマチュア絵描きの青年なのですが、その時グループの中で絵が上手かった当時中学生の女の子に頼まれてTwitterのパスワードを預かっていました。ところが彼はその子に無断でDMのやりとりを覗き見していました。DMではその子とその子が慕っている絵描きとの陰口のようなやり取りがされていました。しかし、彼はお世辞にも上手いとは言えない絵を描いているにも関わらず、ナルシストであったためにショックを受けていました(むしろ褒めちぎってもらいたいだけらしい…)。
私はそのグループに入りたてで勝手もわからなかったのですが、彼に泣きつかれて事情もあまり知らないままに代理で闘わされました。
結果、その女の子は降参して仲直りしました。でも、その時私が彼をかばうために取った言動が火種となってそのグループで中心的な役割をしていた女性(成人)が私に食ってかかってきました。原因はその女性の全くの勘違いによる言いがかりだったのですが、周りの騎士たちからリンチを受ける形になりました。その時彼は私をかばうことは一切しませんでした。むしろ、その後、彼が私のことを気に食わなくなった時に、その時のその女性との諍いを引いて私を問題児扱いして非難するに至りました。

他にもたくさん諍いの渦中にいました……その時の私の苦しみと南井さんの状況をダブらせてのコメントでした。

ツイッターはすぐブロックできるために議論には向いていないこと、140字で真意を伝えることも論証することも不可能なこと、ツイッター民の読解力の低さ等々の点で、ネット上の横行する狡猾な戦法を取らない限り、いっぱい食わすのは困難だと思います。

ネットの人たちは、傾向としてすぐに徒党を組んで局地的に意味不明な理由をつけて攻撃してきます。140字しかありませんし、読解力も欠如しているようなのばかりですから意図もまるで理解していないのに決めつけてかかるんです。そういう手合いは、目障りな者を排除するためなら卑怯な手管をいくらでも使ってきます。

同時に、批判とは血を流すことだ、と昔読んだ本にありました。
お話を伺って理解した限りですが、相手は批判の正当性も理もわかっていません。しかも脅迫行為も辞さないほどの狂人です。南井さんには守るべき家族もいらっしゃる。南井さんだけの命ではないのですよね。精神力だってお金と時間と同じで有限です。大変辛い思いをしてるのではと想像してます。とても心配しています。

以下は無関係の話ですので読み飛ばしていただいて構いません。
くだんのレビューに関しては、非掲載にされていました。

私のレビュー内容はかいつまむと以下のようなものでした。
・素人作法で基礎がなっていないために文章が上手くない。ストーリーも面白くない。リーダビリティーに欠ける云々の指摘。
・公募自体が難しい。デビューしたいならちゃんとした出版社を選ぼう。
・電子書籍はキャリアにはならない。それをエサにしたこの出版社は良くない(という指摘)。
・著者の問題行動への指摘。

しかし、その後の著者の挙動が異常でした。
・私のレビューを非難、レビューには書いてなかった枝葉をつけて中傷。
・そして自著のレビューは非掲載にさせた。
・ところが、その著者がTwitterで口論した作家を憎んで個人攻撃レビューをAmazonで4回も書いて削除される。
・削除されたことに対して不当性を訴え、その作家の対応を粘着して非難した上で、Amazonカスタマーの対応をも非難、カスタマー担当者を警察に被害届を提出。

無題

お返事ありがとうございます。
理解しました。お察しします。
何度もこういった場面に出くわしているのでもはや予想通りでした。
人のやることってどんな人でもどこに行っても同じです。

芸術についても文芸批評についても私は不得手なので、これまた蛇足ですが。

あずまのアート観
https://togetter.com/li/163662

ちばの音楽観
https://togetter.com/li/990185

バルトもサブカル(たしかポルノも)を扱ってはいましたけど、これはどうなんだ?と正直疑問です。

クロさんへの返答

すみません、今さらですがツイッターの件を説明させてください。

半年くらい前に僕のフォローするある俳人と別の俳人が揉めていまして、
揉め事それ自体はどっちもどっちな感じだったのですが、
文句を言われた俳人の取り巻きの一人である下村が、相手の俳人を殴りに行くというツイートをして脅したのです。
僕は言論に対して暴力に訴えようとする下村を批判するツイートをしたのですが、
それを半年たって下村やその御友人から「下村に喧嘩を売った」とかわけのわからない言いがかりをつけてこられた、というのが実情です。

僕自身は言うべきことを言っただけなのですが、
面白がって暴力に訴えるツイートをしていた当人が、まるで自分が被害者であるかのように文句を言ってくる意味がわかりませんでした。
自分のやったことに反省の色もない下村と御友人から、1日に20近いツイートで嫌がらせをされたのでブロックしました。
そうしたら知性のカケラもない富永(コイツが何者なのか僕も知りません)という輩が尻馬に乗って、僕に文句を言っているということなのです。

今回のこともあって、もともと嫌いだったツイッターはちょっとお休みしようと決めました。
でも、ブログ更新の知らせだけはこのサイトから可能だと思います。
引き続き何かあればコメントに書き込んでください。

それからクロさんもレビューで災難にあいましたね。
読者が内容のある批判的感想をしっかり書いていても、悪口としか思えない書き手がいるのはわかるのですが、
そのレベルの人が一丁前の著者ヅラをするなんて、最近の現象ですよ。
取るに足りない著書を売ったくらいで、なぜそんなに選民意識が持てるのか、僕には本当に理解できないところです。

千葉雅也についての文章も参考になりました。
僕の問題意識が彼のアート観に真っ向から反対するものであることが確認できたのは収穫でした。
ありがとうございます。

無題

お返事ありがとうございます。

>フェイクをアートだと主張する土壌があるということです。

凄まじい欺瞞ですね。

今回は現代アートでしたが、今後の論の展開が気になります。

ところで、ちばに関してはブサナル(*知力についてはコメント控えます)、俳句の人たち(とくに無頼派とカッコつける人たち)には軽薄なチンピラにしか見えませんでした。
*
https://ask.fm/ytb_at_twt/answers/148581326154
https://researchmap.jp/jomk9e2xr-111/#_=_

私もある作品に率直なレビューを書いたところ、作者が3日間泣き通しで熱を出した末に発狂し、こちらに粘着して言論弾圧を企ててきました。どこもかしこも同じです。

作家も研究者も、このツイート内容がリトマス試験紙になると思いました。

くりぷとバイオ@研究職×投資家
@cryptobiotech
「研究に向いてない性格」を研究職メンバーで話し合ったことがありますが、

■研究への批判を“自身への批判”に置き換える

は満場一致で同意だった。

「その“研究”の進め方はおかしいのでは?」という指摘に対して「“あなた”はおかしい」と誤翻訳されてしまう人は成長機会を取りこぼしていると思う。

私はかげながら南井さんを応援してます。

クロさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
クロさん、ご心配のコメントありがとうございます。

ツイッターで僕はタチの悪い連中にでっち上げで文句を言われているわけですが、
暴力をチラつかせた脅迫行為を悪いとも思わない連中など、話の通じる相手ではありません。
それで相手をしなかったのですが、そうしたら仲間もここぞとばかりに乗っかって騒ぐ騒ぐ。
要するに街宣車みたいな連中です。

南京大虐殺や従軍慰安婦の強制がなかったと言いたい人たちと同じで、半年前の下村による脅迫事件もなかったと言いたいのでしょう。
いかにも現在至上主義のネットですよね。

このようなフェイクを生み出す現在至上主義と現代アートには深い関係があると思います。
つまり、フェイクをアートだと主張する土壌があるということです。
名画が後々に高額になるのはわかりますが、同時代の作品が高額取引されるのは、
明らかに芸術的価値以外の価値体系で評価されていることの現れではないでしょうか。

しかし「文句のある奴は殴りにいく」という下村の脅迫行為に対する僕の批判意見まで「喧嘩を売った」とか言うのですから、
この社会は戦時中のように善悪がひっくり返りつつありますね。

剣呑な…

論考読ませていただきましたが、それよりTwitterが何やら危なげですね。

下村という方はなんなのですか。
言動も思考も少年のままの年だけ取った始末に負えない大人の見本にしか見えません。
尊敬する美輪明宏さんはこう言っています。
「すぐキレるのは、自分の気持ちを表現する適切な言葉を知らないから。たくさんの本を読んで言葉を知ればストレスは溜まらない。」

取り巻きの富永とやらも「アウトロー」に「責任」を取らせるとか、仮にも言葉を扱う者が何を言ってるのかとわけがわかりませんでした。

ヴォネガットが唱えた炭鉱のカナリア理論も知らないで批評家の役割を語ってるのも失笑を禁じえません。

詩人も作家も俳人も言葉の芸術家のはずが、思想も論理も言葉すらもこの有様では批判されても致し方ないですね(底辺だからでしょうかね)。

雨蛙さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
雨蛙さん、コメントありがとうございます。

同時代の芸術作品の評価は難しいです。
「現代〇〇」は非常に屈折した仕方で芸術的な価値を延命させてきました。
(その屈折をどこまで説明できるかが今回の課題なのですが)
「業界内の評価」というある種の閉鎖性に依拠していて、
その閉鎖性への欲望が「反グローバル資本主義」という建前を信じさせていることや、
体質が閉鎖的なだけで内実はグローバル資本主義の価値観に従順であることも、
「現代〇〇」好きの人には向き合いたくない問題なんだろうと思います。

僕も書いていて思ったのですが、
現代アートの世界を「現代俳句」化したがっている俳句の世界に重ねることができそうな気がします。

無題

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