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『日本語と西洋語』(講談社学術文庫) 金谷 武洋 著

日本語に主語はない

本書は講談社メチエの『英語にも主語はなかった』(2004年)を原本として、加筆修正された文庫版です。
著者の金谷はカナダに移住して、モントリオール大学東アジア研究所の日本語学科で日本語教師を長年務めていました。
どうやら日本語学のアカデミズムの外部にいる人のようです。


金谷の論の骨子は「日本語には主語がない」ということにあります。
権威化した日本語文法では主語は存在することになっているので、金谷はそれに真っ向から反対しているわけですが、
ほとんど同調する研究者がいないらしく、彼に先行して「主語廃止論」を主張していた三上章という存在がしばしば取り上げられています。
三上は高校教師(どうも数学教師だったらしい)の立場で『現代語法序説』(1953年)を書いたのですが、
主流に反対する立場の上にアカデミズム外部の人間であったため、「黙殺」されたと金谷は述べています。
国語学界の排他的な「村の論理(差別体制)」がそこに見えると言うのです。


つまり国語学界にとって、理論の内容はどうでもいいのだ。学界のウチにいる人間の考察か、ソトにいる人間の考察か、が最大の問題となるのである。

同様のことは金谷自身にも当てはまるようで、金谷が著者で批判した文法学者たちからの反応はなく、これも黙殺という状態です。
このあたりのことは本書の第五章で書かれているのですが、
僕にも身に覚えがあることなので、金谷が「日本という風土がいかに論争に向いていないか」と言いたくなる心境がよく理解できます。
どうにも日本の研究者は自説の正しさの証明より、自らの社会的地位を保持する意欲の方が強いようです。
たとえ自説が批判されたとしても、相手の社会的地位が自分より低い場合は、
同じ土俵で批判に応じて下位の者に論駁されるリスクを取るよりは、黙殺してしまう方が相手からダメージを負わされる心配がない、と彼らは考えるのです。
都合が悪いから論争に応じないで逃げた、と考える人が多ければこういう態度は取れないはずなのですが、
論理より権威が優越する社会ではそういうことはなかなか起こりません。
日本が論争に向いていないのは、権威主義が強く機能していることと無関係ではありません。


金谷の主張がおもしろいのは、日本語に主語がないという主張が、日本語特殊論ではなく、それへの反論だということです。
これまで、日本語は主語のない特別な言語だ、とか平気で書いてある文章を何度か見たことがあるので、
金谷もその類かと思っていたのですが、立ち読みをしてみると、まったくの誤解だとわかったので、今回彼の本を読んでみることにしました。
むしろ、金谷は現代英語がヨーロッパの主要な言語に対しても「例外的」な位置にあるとしています。
(現代英語としているのは、古英語に主語がないことを金谷が本書で論証しているからです)
金谷が批判する現在の日本語文法は、現代英語を世界標準と思い込んで、それを参考にして作られたものなのです。



自然中心の言語と人間中心の言語

金谷は英語に代表される印欧語と日本語を対比して語っていきます。
対比が図式的でわかりやすすぎる面はありますが、大まかに捉えれば参考になる部分は多くあるように思えました。


金谷は日本語については、自然的な存在や生成を描く「ある言語」としています。
それに対して英語は人間の行為を描く「する言語」とします。
以下が本書における説明です。


日本語はある状況を、自動詞中心の「何がそこにある・自然にそうなる」という、存在や状態変化の文として表現する。一方、英語は同じ状況を、「誰が何かをする」という意味の、他動詞を挟んだSVO(主語─他動詞─目的語)構文で示す。つまり、人間の行為を積極的に表現する傾向が強いことを指摘した。

この分類では、日本語は自然にそこに存在することを示したり、自然に状態が変化する生成変化を示す言語となるので、
動作の主体である「主語」というものは必要でなくてもおかしくはありません。
英語の場合は、ある人間が何に対してどのような行為をしたかを述べることに重点があるため、
明確な主語を立ててから、動作である「する」を表す動詞、動作の対象である「何を」を表す目的語を続けるかたちをとるわけです。
こうした特徴から、英語が「人間中心」の「する言語」だと金谷は主張します。


本書から具体例を引っ張ってみましょう。
「ある言語」としての日本語の例では、「中国語がわかる」「この家が欲しい」「富士山が見える」などの用法が挙げられています。
これを「する言語」の英語に置き換えれば、「I understand Chinese」「I want to this house」「I see Mt. Fuji」と行為者である人間「I」を立てることになります。
英語文「I understand Chinese」を直訳した文「私は中国語を理解する」ともとの「中国語がわかる」の日本語と比べてみると、
翻訳文では目的語であるはずの「中国語」が、日本語では格助詞の「が」によって、主語であるかのような顔をしてしまうのです。


日本語で主語と言われているものはせいぜい「主題(トピック)」にすぎないと金谷は指摘します。
トピックの語源はギリシャ語の「場所」で、その物事が生じる「場所」を示すだけのものです。
「つまり、あの人がある出来事に関わっている、ある人を通じてこれこれのコトが出来(しゅったい)する、ということにすぎない」わけです。
日本語の主語は主語というより場所である、という主張には納得できる部分があります。
たとえば古文を読んでいると、人物と場所の区別が曖昧であることが多いのです。
「宮」「殿」などは人にも建物にも用いますし、「藤壺」「淑景舎」など部屋の名前で妃を呼ぶのが普通です。
また「ここ」「そこ」はそれぞれ「私」「あなた」となり、「ここに」という表現で「私は」の意味を表したりします。
金谷の説を受け入れると、このような用法に疑問がなくなるのです。


言語の依拠する「視点」

本書ではこの発想をさらに進めて、言語構造が想定してしまう日本語と英語の「視点」の違いを考察しています。
金谷は日本語をオブジェクトレベルにとどまる水平的な「虫の視点」、英語をメタレベルを導入した垂直的な「神の視点」と名づけています。
本書だけでなく、金谷は著作を通じて日本語に主語が不要であることを強く訴えているのですが、
僕個人は主語不要論以上に、「虫の視点」と「神の視点」という対比に興味が惹かれました。
このような言語の捉え方は、天上から地上を見下ろすような「メタ視点」を批判する僕の考えと共鳴するように思うからです。
金谷が主張するとおり、日本語がそもそも「神の視点」を持たない地上的な言語であるならば、
そのような地上的言語を用いながら「メタ視点」を架構するあり方が、
いかに英語の影響によって成立した「奇形」であるかが理解しやすくなります。
近代的な価値観が西洋人以上に日本人に孤独感をもたらしたのは、このような言語上の差異と関係があるのではないでしょうか。


では、「虫の視点」と「神の視点」について説明しましょう。
(ここではざっと触れることしかできないので、詳しくは本書を読んでいただくことをお勧めします)


この視点論を説明するのに金谷は川端康成『雪国』の冒頭の文章を例としています。
川端の文章はもちろん日本語ですが、これを翻訳して欧米に紹介し、川端のノーベル文学賞受賞に貢献したE・サイデンステッカーの英文と比較します。


(1)国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
(2)The train came out of the long tunnel into the snow country.

2つの文章の違いで金谷が注目するのは、言語描写から想起される「視点」の違いです。
「視点」について金谷による明確な説明がないので、僕の自己流な説明になってしまいますが、
小説を読んだ読者に喚起される映像を撮影しているポイントを「視点」としているように思います。


川端の原文では、読者の「視点」が汽車に乗る主人公と「同じ目の高さで追体験」するように描かれています。
つまり、主人公の視点と重ね合わされるかたちで描かれているのです。
それに対し、英語の翻訳文では、読者は上方から汽車を見下ろす「視点」で映像を思い描きます。
(これは実際にテレビ番組の企画で立証されていることのようです)
ここで金谷は、英訳文に原文には登場しないThe trainが主語として登場していることを問題にします。
英訳では「汽車」がトンネルから抜け出す映像が、上空から捉えられているように思えるのですが、
日本語の方では汽車に乗った主人公の体験した「出来事」を「時間の推移」とともに描いています。


推移していく出来事を表現するために、作者と主人公と読者がともに共有する地上的な視点を、金谷は「虫の視点」と名づけます。
「虫の視点」の特徴は、状況の中にあって時間とともに移動するところにあります。
あくまで地上から離れずに、水平的に移動を続ける視点と言えるでしょう。
日本語は「虫の視点」にあります。


英語の方は地上を離れて上空にある視点が、瞬間的に目下の全体的な事態を把握する視点であって、
神が世界を見下ろすことに擬せられるため、金谷はこれを「神の視点」と呼びます。
英語が「AとBとの行為関係を、高みの見物のように傍観的にとらえる立場」であることは、
森田良行の『日本人の発想、日本語の表現』(中公新書)でも指摘されていると金谷は言います。
金谷の視点論は森田が英語を「鳥の視点」、日本語を「蛇の視点」としていることに影響を受けています。


主語は不要という主張が不要?

金谷が「虫の視点」という名称を選んだのは、日本人の「植物志向」を踏まえたものです。
状況の中にあることを前提とする日本語では、自然の中に取り囲まれようとする美意識が生まれます。
古今和歌集の仮名序で、紀貫之が和歌を「つくる」ものではなく、自然と「なる」ものと把握していたことを、
金谷は「植物の芽生えや生長の見立てである」と述べています。
このあたりは丸山眞男が歴史意識の「古層」に、「つぎつぎ」に「なる」といる無窮の連続性を見出したことに通じるものがあります。


おもしろいのは、金谷が「植物志向」の例として俳号や文人の筆名を取り上げていることです。
芭蕉・蕪村・一茶が3人とも俳号に草冠の漢字を用いている上に、明治の文人も一葉・紅葉・鏡花・藤村・花袋と草冠が目立つことを指摘して、
次のように書いています。


こうした日本人の「植物志向」と「虫の視点」は深く繋がっている。俳句の歳時記に載せられた季語を数えると、植物と動物では圧倒的に前者の方が多いが、それも虫の視点のせいではないだろうか。虫は動物を恐れるが、植物とは相性がいい。そう言えば日本文学を特徴づける「私小説」も自分を客観視せず状況に取り込まれた視点からの作品だろう。芭蕉・西行から尾崎放哉・種田山頭火に至るまで、漂流した歌人・俳人も日本には数多い。彼らもまた、移り行く自然の中に包まれて杖を曳き「虫のごとくに」歩いた。

金谷は日本人が権威に弱いのも「虫の視点」のためではないか、と述べています。
言語構造を拡大して文化の批評に利用することはたやすく、いろいろ言うことができますので、あまり深入りしないことにします。
「虫の視点」にしても「蛇の視点」にしても、日本語が地を這うような視点を前提として成立しているという発想は同じです。
話者と同じ目の高さで追体験をする描き方が日本語の特徴だというのは、それほどおかしな意見には思えません。
それならば、「神の視点」つまりはメタ的な視点から、絶対的な距離をもって俯瞰または傍観するあり方は、
もともと日本語の得意とするところではないと考えるべきでしょう。


金谷は英語と日本語の人称は同じレベルのものではない、と言います。


英語においては、「私」自身を「神の視点」から眺めるもう一人の私がいる。その、状況から切り離された高みから「I/You/He/She/They」など、すべての人称が見下ろされるのである。(中略)
一方、日本語における話者は「虫の視点」におり、つまり状況の中に入り込んでいる。一人称である「私」は自分には見えないから客体化することができない。そもそも人称を前提とする動詞活用などもない。話者自身が見えない地平では人称論は成立しにくいだろう。聞き手との関係によって話者が「私」を「僕・俺・先生・パパ・おじさん」などと(大抵は何も言わないから、ゼロを含めればこれでちょうど)「七変化」するのも、まさに状況の中に身をおくからだ。

このような人称の問題は、とりわけ文章を書く人にとって無視できない問題だと思います。
たとえば、僕自身の関心に結びつけて言いますと、
英語でheやsheが頻発しても変な感じはないのですが、
日本語で「彼」「彼女」を主語とした文章を多く用いると、うまくハマってくれないということがあります。
そのため小説では「彼」などの三人称を用いずに、すべて固有名で通す方が好まれているように思います。
おそらく「彼」「彼女」という純粋な人称の記述だと、存在が抽象化されすぎてしまい、
状況の中にある存在を呼ぶのにそぐわないからではないでしょうか。


日本語の記述では二人称もあまり明示されませんね。
いちいち「あなたはいつ起きましたか?」と、二人称主語「あなたは」をつけて言うことはしません。
(わざわざYouをつけて話すのは故ジャニー喜多川氏くらいに思えます)
状況からして主語を明示しなくても通じる場合は、状況内にあることを前提とした言語では、主語は省略されて当然にも思えます。


こうして考えると、金谷の言うことには十分な説得力があると感じさせられます。
優れた主張だと思うのですが、本書を通して読むと、金谷の論旨が「日本語に主語は不要だ」という点に焦点化されすぎていることが惜しまれます。
三上章の遺志を継ぐことの意義はわかるのですが、すでに英語文法や翻訳文が日本語に影響を与えてしまっている中で、
「本来の」主語不要のスタイルだけが日本語であるとする言語観は視野狭窄と言われても仕方ないところがあります。
もし僕が金谷ならば、日本語は「状況」の中に視点を置く言語なので、「状況」の明示こそが最重要となる言語なのだ、という主張をすると思います。
「状況」の明示さえされていれば、必ずしも主語は必要ではない、と。
主語不要にこだわるよりも「状況」中心の言語として日本語を位置づけた方が、もっと支持が集められるような気がするのですが。


時間性という反形而上学的な課題

金谷は日本語と英語の違いを「コト」と「モノ」に関連づけて説明していますが、
コトとはまさに状況や出来事のことを指しています。
日本語は状況の中にあるので、出来事の経過にそって追体験するように文章を追いかける読み方をします。
しかし、英語はコトから身を引き離して「神の視点」へと上昇し、見晴らしの良い地点からモノを捉えるのに適しています。
英語はSVO構文に代表される、モノ(主語)とモノ(目的語)の関係を示すことが得意です。
英語においてはコトもモノ化されると金谷は言います。


『英語の発想』(2000年)で、安西徹雄が日本語は動詞中心、英語は名詞中心の性格が強いと考察したことを受けて、
英語で名詞の修飾としてよく用いられる関係代名詞が日本語で発達しなかったことを金谷は問題にします。
ここで金谷は安西の著書にある日本語と英語の比較例文を引用します。
谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』の一文です。

(3)そこらに虫の音が聞こえていたので、季節が秋であったことは確かである。
(4)Shigemoto could remember a hamming of insects that suggested the autumn.

日本語は状況という「コト」を説明する文なので、明確な主語が置かれていないのですが、
英訳文ではshigemotoという主語が「発明」されています。
「そこらに虫の音が聞こえていた」は時間の推移をともなう状況そのものの描写と受け取れますが、
英訳では、a humming of insectsという名詞句に押し込まれてしまいます。
「季節が秋であったこと」という「コト」を示す部分は、the autumnという名詞(モノ)に置き換えられ、
関係代名詞thatによってa humming of insectsという名詞句(モノ)にさらに結びつけられています。


これでは2つの文は「まったく別の発想と文法」だと金谷は言います。
英文をさらに日本語に直訳すると、「滋幹は秋を告げる虫のすだきを思い出すことができた」となり、原文の臨場感は失われる、とします。
さらに「虫の音が聞こえる→秋であった→確かだ」という「時間の推移」も失われると言うのです。


金谷の説に従うと、「時間性」の欠如が印欧語の特徴と考えられます。
その「時間性」こそが西洋が20世紀を通じて乗り越えようとした課題であったと僕は思っています。
なぜ20世紀の課題であったかと言えば、それは西洋が「時間性」の導入を映画によって成し遂げようとしたからです。
金谷が「神の視点」と名づけたように、西洋の形而上学的な視点を支配するのは永遠性であって、時間性ではありません。
金谷が指摘する「虫の音が聞こえる→秋であった→確かだ」という「時間の推移」とは、
別の言い方をすれば滋幹の「認識の経緯」すなわち「意識の流れ」ということになります。
「意識の流れ」でピンとくる人もいるかもしれませんが、ジェイムズ・ジョイス、ウィリアム・フォークナーなどの文学技法をしばしば「意識の流れ」と呼びます。
フォークナーは映画の脚本を書いて生活の糧にしていたことがありました。
ちなみに金谷が紹介した川端康成にも「意識の流れ」を用いた作品が見られます。
川端は映画に強い影響を受けた新感覚派の一人です。


反形而上学としての時間性と言うなら、マルティン・ハイデガーを忘れるわけにはいきません。
また、パブロ・ピカソのキュビスムという手法が時間性の導入にあることも思い起こす必要があります。
これら西洋の20世紀芸術は日本語表現が示すような「時間の推移」を取り戻したがっていたと僕は考えています。
金谷は本書の第三章で古い英語、つまり古英語が「虫の視点」であったということを示しています。
もしその分析が正しいのならば、英語のような人間行為中心の文化のルーツには日本語のような自然中心の文化があることになります。
20世紀の西洋文化に「時間性」を取り戻す遡行主義の一面があるならば、それは日本に色濃く残っている文化を追いかけていたとも言えるわけです。
フォークナーの文学が南米のマジック・リアリズムの作家たちに引き継がれていき、
中上健次の文学と共鳴したのはなぜなのかも「遡行」をキーワードにすればわかりやすいように思います。


古英語に主語はない

現代英語が他のヨーロッパ言語と比べても、際立って人間中心の言語であるというのが金谷の意見でした。
それを裏付けていくのが第三章で、ここで金谷は英語の歴史を振り返っていきます。
英語史の時代区分は以下のようになっています。

古英語(700−1100年)
中英語(1100−1500年)
近代英語(1500−1900年)
現代英語(1900年−)

古英語は現代英語とはだいぶ違う言語です。
あまりに違うので、古英語の代表文献である8世紀前半の『ベオウルフ』は、
発見されてしばらくは古い英語だと気づかれなかったという話もあります。
古英語には主語はなく、行為者は文脈によって理解されていた、と金谷は考えています。
語順も基本的には自由だったようです。
文構造を比較した結果、古英語は中英語よりも日本語に近いというのが金谷の実感で、
古英語と中英語の間に決定的な断絶があると言います。


では、古英語から中英語への変化を促したものは何だったのでしょう?
金谷は1066年の「ノルマンの征服(Norman Conquest)」がキッカケだと語ります。
ノルマン・コンクエストとは、フランスの臣下であったノルマンディー公ウィリアム(ギョーム)がイングランドを征服した出来事を言います。
これによってイングランドはノルマン人に支配されることとなり、ラテン系のフランス文化の影響を強く受けるようになりました。


北方ゲルマン人であるノルマン人は、イングランドのサクソン人やデーン人と同じゲルマン人ではあるので、
征服と言っても民衆レベルの強い抵抗は避けられたようです。
ただ、支配層がサクソン人からノルマン人へと変わったことで、支配層が古英語を用いることがなくなりました。
その結果、フランス語の混入による英語のクレオール化が起こり、文法規則が簡素化され、動詞の人称変化や名詞の性別が失われていったのです。
ノルマン・コンクエストが古英語に影響を与えたことは、ウィキペディアの記述でも確認できます。


ノルマン人の子孫であるノルマンディーの貴族たちは、移住してから100年程度たち、風習、言語ともにフランス化していたので、イングランドではそれまでのテュートン系古英語に代わり、ノルマンディー方言(ノルマン・フレンチ、アングロ・フレンチ)を中心とする北フランスの言語が貴族社会の言語となった。また、英語もこれらの言語の影響を強く受け、中英語へと変化した。

金谷はノルマン・コンクエストを境とする中英語への変化によって、不可欠主語が登場したと考えています。
スペイン語、イタリア語、ポルトガル語には主語が不可欠でないことから、
それらを英語の前段階にあるものと位置づけます。
スペイン語では行為者を強調するための主語が、英語では不可欠になっていることで、
いかに現代英語が人間の行為中心の「する言語」として成立していったかを論証しています。
なかなか興味深い説なのですが、ここで詳しく説明することはできないので、関心がある人はぜひ一読してください。


中動態とは無主語文である

第四章で金谷は「中動相」を取り上げています。
中動相とは古典ギリシャ文法の用語を起源とした語で、能動相と文法的に対立するものでした。
つまり、現在は能動/受動というペアが当たり前になっていますが、ギリシャ語やサンスクリット語など古い印欧語では、能動/中動というペアが先に成立していたのです。
ラテン語では中動相の多くは受動相へ姿を変えていき、中動相というカテゴリーは消えました。
そのため、中動相は受動相のルーツに位置するものと考えることができます。
しかし、中動相が実際にどういうものであるかという文法的な定義に関しては、諸説入り乱れて論争が絶えないようです。


ここで金谷はギョームやパンヴェニストなどの先行研究に触れながら、丁寧な考察を行なっているのですが、
彼が中動相を考察する動機は、やはり主語が不要であるということを示すことにあります。
金谷は考察を中動相から、その発展形である受動態へと広げます。
サンスクリット語研究者のJ・ゴンダの、受動態には行為者がほとんど現れない、という説を受け、
受動態とは自然とその事態が起こることを示す文である、と述べます。
受動態の本来の機能は「行為者を表現しないこと」にあり、
これが中動相の機能と重なってくるとして、金谷は次のような結論を導きます。


印欧語古語には、行為者を前面に打ち出す能動相と対立する文法カテゴリーとして中動相があった。その機能は行為者の不在、自然の勢いの表現である

金谷は中動相が「印欧語における無主語文」だとします。
彼が主語不要にこだわっていることを考えれば、ここに着地するのも致し方ないところではありますが、
僕自身はそれ以上に中動相が、行為者不在で自然に物事が起こることを記述するものだという考えに興味が惹かれます。
金谷の考察が正しければ、印欧古語の中動相は自然中心の日本語と近い性格を持っていることになるからです。


本書の前身は2004年の出版なので、まったく触れていないのも当然なのですが、
この章を読んで僕は國分功一郎の『中動態の世界』(2017年)を思い起こしました。
中動態と中動相は言い方が違うだけでまったく同じものです。
國分は古代ギリシャ語の中動態からアーレントの意志論へと話を展開させ、
最終的に〈フランス現代思想〉の「聖典」であるスピノザへと至ります。
「スピノザが構想する世界は中動態だけがある世界である」と國分は書いているのですが、
能動/受動の対立を中動態(=スピノザ)で乗り越えられると考える國分の論が、
金谷の考察を読んでいると、とんでもなく滑稽なものに見えてしまうのです。
なぜなら、中動態について考えるならば母国語の考察をするのが近道だということを見落としているのですから。


日本語で当たり前に行われている主体不在の状況的な記述を、
わざわざ印欧古語の中動態やスピノザに求めてしまうポストモダン思想のいつもの勘違いがここにあるわけです。
國分は細江逸記の論にある、中動態と上代古語の自発の助動詞「ゆ」「らゆ」の共通性について触れて、
細江が自発を「自然の勢い」と呼んでいることまで書いていながら、丸山眞男に突き当たらないあたりも物足りません。
実は國分が取り上げた細江の「驚くべき論文」については、すでに金谷が細谷の論の問題点も含めて本書で考察しています。
西洋の文献に酔った國分に、先行する金谷の論を参考にした気配がないのは残念なかぎりです。
金谷の論を読めば、國分も能動と受動の二項対立を中動態によって脱構築して、単にスピノザ思想につなげる程度の退屈な論を書かなくてすんだかもしれません。
僕も言い飽きてしまいましたが、日本で主体的意志の批判などをしたところで何の批判的意味を持たないことが、いまだ〈フランス現代思想〉の学者にはわからないようなのです。


状況言語における文学

金谷が主張するように、日本語が自然に取り囲まれた状況の中にある「虫の視点」を前提として、
主語を必要としないかたちで発達した言語であるならば、
日本文学には日本語のそのような性質が色濃く反映しているはずです。
金谷は川端康成や谷崎潤一郎などの文豪の文章を引用していますが、それは有名作家の作品に翻訳が多いからという理由だけではないと思います。
おそらく村上春樹の文章では例文として機能しないのではないでしょうか。


アメリカに植民地化された精神を代表する村上の小説は、
英語を模範とした「神の視点」と日本的な「虫の視点」との折衷で構成されていて、
日本においては神が不在であるために、状況内にいる「ぼく」を思念的に「神の視点」に置いて代理させてしまいます。
現実のショボい自己を「神」となった思念的な自己が軽蔑する、これが日本のサブカル精神であり、
その代表がショボい自分も異世界に転生したら無双だった、というパターンを飽きもせずに消費するオタクです。


自然に取り囲まれた状況を前提としているため、世界一短い詩型として成立したのが俳句です。
最近では自然や生活に取り囲まれたことを前提としていることに息苦しさを感じた俳人が、
趣味的な外部状況を自ら「設定」してみたり、状況の必要のない表層的な「言語遊戯」でショボい眩暈感を出してみたり、
無条件に「共有」される状況に放り込まれることをなんとかコントロールしたい、という私生活主義的な欲望を持っているようなのですが、
僕には短詩としての成立条件を捨てていくならば、必然すぎる結論ですが、長く書くしかないように思えます。
結果として俳句にこだわるなら連作の形を取る以外に方法はなく、なぜ俳句なのか、という問題から永遠に逃れられないことになることでしょう。


最後に個人的なことを書かせていただくと、
僕自身は文章を書くときに日本語ではなく英語で書きたい、とずっと思ってきました。
ただ、読ませたい相手として日本人を想定しているために、英語で書くことは早々にあきらめてしまいました。
金谷は英語が自己主張向きで「攻撃的」な言葉であって、アメリカの凶悪犯罪にまで「神の視点」の影響を指摘するほどなのですが、
犯罪との関係はともかく、意図を明確に伝えることに向いている言語であることはその通りだと思います。
ネットで「攻撃的」な文章を書くため、僕は自分の文体をだいぶ変えました。
内田樹や大塚英志などは村上春樹の文体に影響を受けたことが想像できますし、
僕のように印欧語の伝達力をめざした平易な論説文を書く人もこれから増えることでしょう。
グローバリズムの影響は言語にも必ず出てきます。
そのため、日本語は「虫の視点」だという金谷の主張も、そう遠くない未来に「伝統的」な発想として理解されることになると想像しています。


20 Comment

洛書さんへのコメント

『Fields of Sense』に関しては一応英語で読んでいます。
自分が読みたいという意図でツイートしたわけではないのですけどね。
僕は学歴コンプレックスも語学コンプレックスも感じない人間なので、
大学院とか外国語とか全く興味がないので悪しからず。

英語で読んだら?

記事と関係ないコメントですみません。

ツイッターで話題にしたマルクス・ガブリエルの著書だけれど、翻訳出版を待たないで、英語で読んだらいかがですか。

あなたの文章の水準の高さといい、いろいろな機会に持ち出される東大卒の人文学者たちを見下しぬいた態度といい、どう考えても、あなたは、大学院進学者でしょう。違いますか。

私は、学部卒だけれど、いま、イギリスのジャーナリストのバジョットの著作を英語の原書で読んでいます。大学院に進学した方なら、和訳されるのを待たないで、英語で読んだらいいと思います。違いますか。

無題

たなかです。

お返事ありがとうございます。
ふたたびけんか腰で投稿してしまったかと思い反省していたところ、穏やかなお答えを頂戴して安堵、恐縮しております。
相手の顔が見えないとどうしても互いにけんか腰・上から目線(自分のほうが知的優位にある)になりがちで、ネトウヨなどとの数々の泥仕合を経て、そのあとにあたりを見渡せば不毛の地が広がるばかり、自分が多くの時間を無駄にしてきたことを痛感して、ネットでの投稿はほとんどしないようにしてきました。
ではなぜあえて今回投稿したのかというと、それは南井さんの諸論考を拝読するかぎり、権威主義的蒙昧とは縁遠く、理知による対話が可能な方だと感じていたからです。といいながら、はじめに手間を惜しんで言葉足らずの投稿をしてしまったのは我ながら対話的態度とはいいがたく、申し訳ないことでした。

①主語不要論について
たしかに、南井さんと私とでは関心の重点が異なっていたようです。
私としては、ただただ三上は冷遇などされていなかったという事実を明らかにしたく、かつ三上は冷遇されていた主張する金谷さんの虚偽(強いことばですが)を明らかにしたかったのです。
現在まで私は金谷のそういう事実誤認(意図的歪曲でないことを祈ります)に対して大きな不信感を抱いていますが、読み始めたばかりの『日本語と西欧語』を読了するころには金谷に対する認識を私が改めねばならなくなる可能性も、もちろんあります。今の私は明白に「金谷が嫌い」という感情にもとづいて彼を評価している、偏見にとらわれていますので、その偏見を少しでも払拭するために彼の本を読むという修行を自らに課しました。これじゃずいぶんな言いようですが、自分の読みたい本を読む時間も満足にとれない生活を続けているのに、ましてや読みたくない(少なくとも積極的に読むことを欲しない)本を読むのは修行というべきものだ、というほどの意味です。

②講談社のくだりについて
私は南井さんのブログをはじめて読んだとき(最近のことですが)、「これは商業出版物として売られていてもおかしくない(むしろその多くよりもすぐれた)水準の論考だ」と感じ、結局ほとんどすべて読みました。
とくに、日本でフランス現代思想をやっている人たちに対して私が名状しがたい形で抱いていた違和感の正体を明らかにしていただいたと思っています。彼らがやっているのは、実存的営みというよりは、むしろ商売なのだな、と。むろん、一概にそう言い切ってしまうことには慎重でなければならないでしょうけれども、言われてみればそういう感じはします。あんまり苦しくなさそうなんですよね、東大の教養学部を出て現代思想家を気どっているような類型の人たちは。生活者としてどこまで苦しんできたかが、その人の思想の内実をきめると、私は思っています。ある種のアナクロニズム、根性論に過ぎないとは感じつつ、一生活者でしかない私はそこに希望を見出ださざるを得ないのです。

> 僕ごときより講談社に抗議された方が有意義なのに、なぜわざわざこのブログに抗議するのか不思議だと言いたかったのです。
> まあ、僕のブログがたなかさんの目に留まったので言いたくなったのでしょうから、
> 余計なことを言ったのかもしれません。

さしずめ、論をふっかけたくなるだけの魅力ある文章をお書きになる方だから、というところでしょうか。ご迷惑かとは思いますが、今後ともブログは拝読させていただきたいと存じます。

たなかさんへの返答

南井三鷹です。
たなかさん、懇切なコメントを本当にありがとうございました。

たなかさんの意図が今回は僕にもある程度理解できた気がします。
三上章が学会から不当に扱われている、という金谷の主張は、金谷自身の不遇を投影している誇張の可能性があるわけですね。
なるほど、と勉強になりました。
ただ、僕の記事は金谷の主語不要論についてはあまり真剣に賛同していません。
そのため、僕は三上が不遇であるかどうかにも比較的関心が薄かったところがあります。

あと、講談社のくだりについては、たなかさんの受け止め方は僕の意図と少し違っています。
僕のブログをいろいろ見ていただければわかることですが、
僕は日本のマスコミや出版界に強い懐疑心を抱いています。
なので、講談社が出版しているから金谷の主張に理があるという意味ではないのです。
僕ごときより講談社に抗議された方が有意義なのに、なぜわざわざこのブログに抗議するのか不思議だと言いたかったのです。
まあ、僕のブログがたなかさんの目に留まったので言いたくなったのでしょうから、
余計なことを言ったのかもしれません。

それにしても、ケント・ギルバートの本が売れたら表彰されるのですか。
やはり出版社の一部はくたばった方がいいと思いを新たにしました。
また、お気づきのことがあればご教示ください。

無題

たなかです。
坊主(金谷さん)憎けりゃ袈裟まで憎い式にやや攻撃的な文章を投じてしまい申し訳ありませんでした。
金谷さんの本をちゃんと読んだのはもう十数年前のことなので、当時の認識のまま彼を難ずるのはフェアではあるまいと考え、いま『日本語と西欧語』を読みすすめているところです(西欧語というのもだいぶ問題を含んだ表現ですが)。

ちなみに、いま手元に『国語学大辞典』(1980年)という、当時の国語学会の編になる一書があります。これは国語学会の総力を結集して刊行された本であり、「その項目は、中項目を主として千六百余、国語学の諸分野を網羅し、かつ隣接諸科学の要項をも含むもので、それぞれの執筆には、最適と考えられる研究家二百八十余名の協力を得た。現段階での学界最高の水準の内容が記述されているということができよう」と「刊行のことば」にあるとおりのしろものです。つまり、各項目の執筆者を見れば、当時の学界においてその分野の第一人者と目せられていた人物が把握できるわけです。
ここまで書けば何を言いたいかおわかりいただけるかもしれませんが、「主語」で引いてみますと、その項目の執筆者は三上章なんですね。そして当然、主語を自明視するような記述にはなっていない。この一事をもってしても、三上が学界から黙殺されていたなどとんでもない事実誤認であると言わねばならないのです。
なお附言すれば、三上の主著である『象は鼻が長い』には佐久間鼎が序文を寄せています。佐久間はこの本が刊行された6年後には学士院会員に列せられていますから、文字どおりの「アカデミー」に属する人間です。

「文化論」は一般に主観的な価値判断に属するもの、いわばエッセイですから、別にどのように論じようとそれはそれで他人が容喙すべきことでもないかと思います。が、少なくとも私は事実判断においては厳格でありたい。その意味において、三上が黙殺されていたというのは明らかな誤りであって、誤りが公然と流布されることは承服できないのです。

ところで、日本語特殊論に対する学術的な反駁としては、たとえば角田太作『世界の言語と日本語 改訂版』(くろしお出版、2009年)があります。これは事実によって日本語が特殊でないこと、および英語こそ特殊であること、を証しています。これは文化論ではなく学としての言語学に基づく研究です。

これ以上あれこれ記すとあまりにとりとめがなくなりますが、一つだけ触れておきたいことがあります。

> 一定水準にない説ならば、アカデミズム外部の人ですし、適切に反論すれば自然淘汰されるものだと僕は思います。
> たなかさんがおっしゃるように、金谷の論が水準以下でバカバカしくて誰も取り上げない説ならば、
> どうして講談社は年数を経たあとも繰り返し書籍化するのでしょうね。
> たなかさんは僕ごときの拡散性のないブログより、
> 出版した講談社に編集者の良識を疑う旨をお書きになればいいのではないでしょうか。

私は比較的講談社に好意を持っている人間ですが、たとえば講談社はつぎのような本も出していますよ。

ケント・ギルバート『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』(講談社+α新書、2017年)

この本はたいへんな売れ行きで、講談社内では編集者が表彰されたそうです。ご存じかと思いますが、これは典型的なネトウヨヘイトスピーチ本です。
比較的ヘイトスピーチ色の少ない講談社であってもこんなものを称揚する側面もあるということを忘れてはならないし、そもそも講談社という権威に寄っかかって論の正誤を判断することもできないはずです。岩波ですらたまにおかしな本を出していますから、いわんや講談社においてをや。

皆様のコメントへの返答

南井三鷹です。
南海さん、クロさん、コメントありがとうございます。

南海さん、
僕の今回の記事は金谷への共感を示しはしましたが、
特にアカデミズムの批判を目的としたものではありません。
僕はたなかさんという方のコメントを怪しんだだけで、南海さんをヒートアップさせることになったのは不本意です。

クロさん、
日本の組織に見える病理は、官庁に至って明白化していますね。
特に利権団体(アカデミズムにもこのような性格があります)は、自らの利権の保守のため、
内輪の事情を恥も外聞もなく優先するようになっています。

僕の世代は団塊ジュニアというベビーブーマーにあたるようなので、多数派として社会を自らに最適化させています。
(いい歳してガンダムによる消費喚起とか、本気でやめてほしいのですが)
その意味で若い世代の方が損害を被るばかりになると思います。
「内輪主義こそが多数派の横暴を容認する」という視点はリベラルの方々にも見られないんですよね。

無題

いぜんから南井さんの論考を読ませていただいてますが、南井さんのおっしゃる病理については、根深いものがありそうです。
「ムラ社会」「同調圧力」「なあなあ」とか、やはり目に付きます。
象牙の塔に限らず、医療現場も、官僚も、あるいは現業レベルの下層でも、こどもの学校でも、内輪のジメジメした構造は話題になります。

どこを見ても出る杭は打つし、気色悪いとしか思えません。

「日本人論」の勉強も浅く、アンテナもたいしてないですし、南井さんとは世代が全く違うにしても、これはゆゆしきかなと思います。

無題

アカデミズムに冷遇された異端者を持ち上げること自体は、出版界の商業主義やある種の書き手が自分を権威付けする手口であり、割とありふれたものです。南井様自身の実体験や見聞に基づいてアカデミズムの特定の業界を内在的に批判されるのであれば是非読んでみたいですが、そうする意向が無いということであれば(勿論それはブログのスタンスだと思うので良いのですが)、南井様の主張が凡百の異端者アゲと一線を画しているということを読者に納得させるのは、やや難しいのではないでしょうか。これは論理ではなく、実例の提示に関わる問題です。内部事情に通じていると言われても、それを明らかにするつもりがない以上、読者としては知ったことではありません。
俳句界や千葉雅也への批判はウェブ上での実体験がベースになっていたので読みごたえがありましたが、今回の記事は他人(金谷)の主張に乗っかっているような印象を受けてしまいました。
とはいえ、日本語と主語の問題は前から気になっていたので、『象は鼻が長い』あたりを読んでみようと思います。こういう勉強のきっかけをいただけるブログは貴重なので、感謝いたします。

南海さんへの返答

網野の学会からの冷遇は嘘ではありませんよ。
最近はさすがに扱いが違っていますが、リアルタイムで事情を知っている方ならわかることです。
現在の状況だけを見て判断するのは間違いのもとです。

僕は自身の経験だけで言っているのではなく、専門的な情報筋から長い時間をかけてアカデミズムに対しての「全般的」な知見を得てきました。
まあ、南海さんにはアカデミズムを信じたい事情があるのでしょうが、
生半可な認識で書いているわけではない僕にまでそれを押し付けるのはご遠慮ください。

あと、書き手への批判と労力の問題ですが、
南海さんの見解が仮に「一般論」であったとしても、変わった考えの持ち主なのかもしれない僕はそうは思わないのです。
僕が労力を判断基準とすることは僕なりの考え方なので、他人にとやかく言われることではないように思います。

無題

網野善彦については昔勉強したことがあります。網野がアカデミズムから冷遇されたというのは、網野に依拠する非アカデミズム系の書き手(中沢新一とか)が広めた嘘だと思っています。例えば東大アカデミズムの重鎮石井進は網野の盟友ですし、最近文庫になった網野の著作には『応仁の乱』の呉座勇一が肯定的な解説を寄せていましたよ。
南井様が御自身の経験(私の関知するところではありませんが)に基づいてアカデミズム批判をするのは良いですが、事例がそのために適合的かどうかという問題があります。三上章や網野善彦はむしろ、アカデミズムの外部や周縁部にいた人の説がアカデミズムによって認められた事例であり、アカデミズムの一定の柔軟性を示す事例に見えます。
それから、一般論として、書き手が文章にどれくらい労力をかけたのかに配慮する義理は読み手には無いと思っています。読み手がその道の専門家であり(たなかさんは国語学畑の人なのかと思いますが)、書き手の前提がそもそも間違っていると判定できる場合、「楽に」有効な批判をできることは充分考えられます。そのときどのような反応をするかで、書き手の質が問われるのではないでしょうか。

南海さんへの返答

南海さんは誤解をされているようですが、
僕は「アカデミズム」が外部の優れた学説を評価しない、ということを問題にしているわけではありません。
異端者を排除する内輪的な体質があると言っているのです。
そして、これは「アカデミズム」に限らず、日本の組織の病であるというのが僕の問題意識です。

それから僕のアカデミズムについての認識は、〈フランス現代思想〉の低レベルの研究者によって形成されたものではありません。
もっと全般的かつ内的な視野に基づいたものです。
このことについては僕の出自に関わるのであまり語りたくはありません。
南海さんがアカデミズムに信頼を置くのは自由ですが、僕が例外を全般化していると仮定するのはお門違いも甚だしいのでおやめください。
金谷程度なら何とでも言えるでしょうが、それなら網野善彦の学説はどうしてアカデミズムに冷遇され続けたのでしょうね。

【追記】
こちらは長々と労力をかけて文章を書いているのに、
金谷への批判を書く気力もない人が、このサイトを読んでくれ、などとアドレスを貼り付けるやり方を僕は好みません。
楽をして他人の意見を否定できると思ってる人など僕は信用しません。

無題

私自身はアカデミズムに一定の信頼を置いているので、たなかさんの指摘に共感する点も多いです。恐らく南井様とは「アカデミズム」という言葉でイメージする範囲が若干異なるのではないでしょうか。例えば千葉や国分は大学教員なのでアカデミズムの一員と言えますが、多くのアカデミックな哲学研究者からすれば、おフランス現代思想で商売するタレント学者としか見られていないのではないでしょうか。いわゆる「ニューアカ」が商売としては「アカデミズム」を掲げつつ、最終的にはアカデミズムになり得なかったのと同型の問題です。
たなかさんのリンク先を読むと、自分は当時院生で時間があったので金谷説への批判的な記事を書くことができた、みたいな内容があります。要するに金谷の主張を問題だと思っていた国語学研究者は少なくなかったにもかかわらず、専門の学者同士の議論には発展しなかったということですね。
こうした経緯を読むと、アカデミズム外部の優れた学説が評価されないという南井様が取り組まれている問題は、アカデミズム外部の問題のある主張が専門家によってきちんと批判されない、批判することが専門家の職務と見做されていない、という問題と表裏一体なのではないかと感じられます。

たなかさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
たなかさん、コメントありがとうございます。

金谷の論を批判している方がいるのは知っていますし、
そこで金谷の論が先行文献の引用も含めて一定レベルに達していないと言われていることも確認した上で僕は書いています。
つまり、僕自身は金谷の論は参考にすべきレベルにあると判断したわけです。
(僕は金谷の論に留保や注文をつけて書いているのですが、そこはお読みになっていますか?)

一定水準にない説ならば、アカデミズム外部の人ですし、適切に反論すれば自然淘汰されるものだと僕は思います。
たなかさんがおっしゃるように、金谷の論が水準以下でバカバカしくて誰も取り上げない説ならば、
どうして講談社は年数を経たあとも繰り返し書籍化するのでしょうね。
たなかさんは僕ごときの拡散性のないブログより、
出版した講談社に編集者の良識を疑う旨をお書きになればいいのではないでしょうか。

ちなみにアカデミズムが異端者を排除するというのは陰謀論ではありません。
一様でなかろうが、実際にそのような体質があることを僕は知っています。
事実存在するものを陰謀論と軽々しく決めつけるたなかさんの物言いが、
あまりに日本語学会寄りの公的見解すぎて、僕には非常に腑に落ちませんでした。

無題

金谷さんに対する批判をここに縷述するだけの学識も気力もありませんが、以下のウェブサイトに簡要にまとめられていますので、もしよろしければご一読ください。
https://dlit.hatenadiary.com/entry/20100818/1282130262

「旧態依然たる学界を批判する異端者」というのはしばしば学界から無視されますが、それはたいてい体制派にとって都合が悪いからではなく、単に「学説」として批判される水準に達していない、またはそもそも「通説」であることをさも異説のごとく言い立てているにすぎない、そのバカバカしさゆえに誰も取り上げないからではないでしょうか。あくまでも一般論であって金谷さんがそうだというつもりはありませんが。少なくとも、学界が異端者を排除する、という陰謀論がまかり通るほどに日本語学の世界は閉じておらず、学問に打ち込む人たちが一様に政治的であるとも思いません。

ところで、かつて学生であったころ、日本語学概論の講義でまっさきに取り上げられたのは三上章の『象は鼻が長い』であり、それは「君たちがこれまで常識だと考えてきた“主語”概念も、実は学としての日本語の世界では自明視されているわけではない」という肯定的文脈においてでした。高校までと大学との違いを教えられた思い出として、今でも印象深く記憶しております。おそらく、どこの大学でも大同小異ではないでしょうか。

南海さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
南海さん、コメント楽しく読ませていただきました。

国語学の内実は僕もよくわからないのですが、
アカデミズムというものは自分が師事した流派がコケると自身の出世に響くので、
仮に学問的な真実だと感じても簡単に批判を受け入れがたい体質があると思います。
〈フランス現代思想〉がダメとなると、東大閥の利権を貪った方々が危機に陥るので、
日本アカデミズムでいつまでもポストモダン思想が支配的であり続けてしまうのと同様です。
僕が日本の大学の学問を信用しないのは、こういう藩閥的な出世メカニズムがあるからです。
(無能な千葉雅也が現代思想のスター扱いをされているのも、このような藩閥体質が原因です)

國分功一郎が西洋崇拝でしかないことも、アカデミズムの権威主義体質に関係していると思います。
アカデミズム外部の金谷の論に依拠しても、アカデミズムでは権威として扱われないので、
アガンベンとかスピノザとかアーレントとか言うのが合理的なのです。
最近では俳句の世界でも、大して理解もできていないデリダやベンヤミンやバルトなどを手前勝手に利用して、
何か知的なことを語ってるかのような顔をしている破廉恥もいます。
卑屈な日本人の病理です。
ハナから西洋は優れていると思って、西洋思想に挑戦しようということすら考えたことのない日本人がいかに多いか日々感じていますが、
こういう負け犬連中と、対米依存によって日本が他の東アジアの国に優越していることにこだわる連中のメンタルは、
本質的に同根ではないかと僕は思っています。

無題

南井様

面白く読ませていただきました。
学界が排他的なのは、専門家集団を再生産しながら学問を継続していく上で、ある程度まで仕方のないことだとは思います。ただ、三上章は金谷というれっきとした国語学者の手で再評価されることになった訳で、これに対する国語学界の反応は気になります。素人として勝手なことを言うようですが、国語学は研究の細分化が特に著しい分野に見えます。このため体系的な理論を作ったり、かつて提起された理論を再検討したりする能力自体が弱っているのではないでしょうか。
国分功一郎について思ったのは、やはり哲学・思想畑の人間の西欧崇拝ということです。日本語の主語についてこれまで国内でなされた国語学的考察を調べることなんてさして手間も要らないはずなのに、こうした作業が疎かになってしまうのは何故でしょうか。国内の立派な業績が軽視される一方、おフランスの思想家がもとの文脈を外して「現代思想!」と持ち上げられる様は滑稽です。少々嫌味な見方ですが、仮に三上章がフランスの日本語学者だったら、国分も必死で勉強したのではないかという気がしてしまいます。専門の研究者向けの論文はどうしても制約が多いので、一般読者のある国分のような人が狭い専門分野を横断して著書に盛り込むこと自体は歓迎すべきだと思いますが、どうせならもっと徹底してやってもらいたいですね。
そういえば、手元に無いのでうろ覚えですが、たしか永井均が西田幾多郎についての本で「虫の視点」の説に触れていた気がします。

皆様のコメントへの回答

どうも、南井三鷹です。
皆様のコメントに感謝します。

雨蛙さん、俳句の英訳で苦労されたようですね。
詩の場合は翻訳が非常に大変だと思いますが、
自分の句でもないのに翻訳が不満で殺意を持つというのは理解しがたいですね。

クロさん、日本の書評は宣伝を期待されていますし、
出版界で生きてる人が空気を読んでやっているので、
あまり読者に向けて書いている気がしないんですよね。
小谷野敦は一度僕のAmazonレビューにくだらないコメントをしてきたことがあります。
彼の読み間違いを指摘したらスルーされたので、非礼なヤツという印象しかありません。

洛書さん、僕はグローバルに発信することなど考えていません。
むしろ、発信をやめたくなることが頻繁にあります。
外国語によるグローバルな発信は洛書さんにお任せします。

英語で書いたら?

英語で作文したければ、そうすればいいではないですか。

わたしは、ときどきブログに英語の要約文を付け足しています。

それは、日本人に英文を読ませるためでなく、グローバルに発信したいためです。英文で記述するのは、短文でもなかなか大変です。内容にもよるけれど、そんなに簡単なことではないですよ。

無題

今回もすごい書評でした。
書籍の内容を紹介するばかりでなく、アカデミズム、川端、三上、丸山と…そして読んで理解したことを応用して国分批判まで…。
文壇もアカデミズムと同様に閉鎖的なのでしょうか。

最後の英語で書く、ですが、確かに日本語だと言葉遣いがまだるっこしくて、敬語だなんだとコメントまでされて厄介だなと私は常々思っていました。
「お前」「あんた」なんて人称の使い方一つでカッとなってギャーギャー騒ぐんですから。ジョークも口に出来ませんよ。
その点、英語は(そこまで上達してるとは口が裂けても言えませんが…)くっきりわかりやすいです。

書評について、カクタニミチコのような辛口な書評って、南井さんがおっしゃっていたように利権が絡むせいか日本では行われてませんね。
丸谷才一が指摘していましたが、輸入の段階でイギリスやアメリカのような、著者の思想にまで踏み込んだ切れ味鋭い書評は困難なのですかね。
どこかの新聞が書評の活性化を求めた社説の載せて、鹿島茂のALL Reviewsを紹介までしてましたが…うーん。
小谷野敦、豊崎由美、斎藤美奈子辺りが変わり書評をやってはいますけど…彼らの書きぶりになにか言葉にできないファジーさを感じます。

俳句の翻訳

 俳句の翻訳も難しいです。直訳だとリズムが死にますので、原句より多少長くなっても、抑揚があり、リズミカルの方が良いようです。あと感情的問題が発生する場合があります。原句と翻訳の作者が違う場合、その翻訳は頂けないと原句側が不満に思うことも発生すると思います。原句と翻訳が同一作者の場合でも、他者が外国語に熟達している場合、その翻訳を読んで大いに不満を持つことは有り得ます。その不満が「殺意」に発展することも。この「殺意」に関しては、当事者である私は詳しく述べない方が良いようです。SNSを外国語で書けば、世界中に読者を広げることが出来ますが、功を焦らず、腰を落ち着けて外国語を学んだ方が良いようです。

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