南井三鷹の文藝✖︎上等

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アドルノの文化産業批判【中編②】

アドルノが陥った罠

これまで僕は『啓蒙の弁証法』や「文化産業についてのレジュメ」に従って、アドルノの文化産業批判を取り上げてきたのですが、
ここからはアドルノの理論について物足りないと感じる点について言及したいと思います。
生意気なようですが、僕はアドルノの文化産業批判は不徹底な理論だと思っています。
それは文化産業の「様式化」を批判する彼らの主張自体が、「資本家こそが悪であり、労働者は搾取された被害者である」というマルクス主義的な「図式」に依存しているからです。
アドルノは文化産業という「売り手(資本家)」については激烈に批判しているのですが、「買い手(消費者)」の欲望や生き方をほとんど批判してはいません。
そのため、消費者は無力な被害者であるかのような印象を与えます。
しかし、本当にそうなのでしょうか。



アドルノの文化産業批判【中編①】

文化産業の画一性志向

アドルノとホルクハイマーの共著『啓蒙の弁証法』(1947年)は、なぜ近代啓蒙社会がファシズムを生み出したのかを解き明かそうとした書物です。
理性を至上の価値とするはずの社会が野蛮へと反転することを、彼らは「啓蒙の弁証法」と考えているのですが、
そのような反転した社会では、理性が追放されていくため、個人の批判的な感性も排除されます。
全体主義的な戦時体制の中で批判が排除されるのはわかるのですが、
アメリカのような大衆消費社会においても、同様の危険があることを指摘したのが「文化産業」の章です。
アドルノたちは大衆消費文化を生み出す「文化産業」に、個人の主体性剥奪の危険を感じ取りました。
大衆のための非政治的な娯楽作品が、どうして個人の抑圧を招く結果になるのでしょうか。