南井三鷹の文藝✖︎上等

Home > ブログ > 【逸脱書評】その他 > 『個人空間の誕生』 (ちくま学芸文庫) イーフー・トゥアン 著

『個人空間の誕生』 (ちくま学芸文庫) イーフー・トゥアン 著

実際の原題は「分節化世界と自己」

邦題は『個人空間の誕生』となっていますが、本書に「個人空間」の考察を期待して読んでみると、物足りなさが残りました。
そこで原題を見てみると、「Segmented Worlds and Self」とありますので、「分節化された世界と自己」の方が正確かもしれません。


著者のイーフー・トゥアン(段義孚)は天津生まれですが、アメリカの大学で学位を取得し、
人間主義的地理学の創建者とされているそうです。
西洋の異邦人であるトゥアンは、西洋を相対化する視点を持たざるを得なかったため、
本書の分析もどこか外から西洋を眺めているような冷静さ(というか冷淡さ)が感じられ、
考察が終始理知的で非常に明晰な論考になっています。


ところどころに中国人の空間意識についての考察があるのですが、実は僕はこちらの方が冴えたことを言っていると感じました。
考えてみれば、トゥアンは中国にとっても内なる異邦人として、広い視野から考察できる立場にあったのです。


連続体を分割する精神の力

トゥアンは最初に分節化について概論を述べているのですが、
注目すべきなのは、空間が分割されて自意識が生み出される以前に、
分節化というものが人間の精神の力として語られているということです。
まずトゥアンは分節化する精神の力として「分析」を挙げています。
分析は連続体を分割し、差異と明晰さをもたらします。
分割は外部の世界だけでなく内面にも及ぶことになり、人間は細分化された自意識を持つようになるのです。


トゥアンは西洋人がほかの誰より自身の性質を探ってきたと、として、
内省や分析や個性やプライヴァシーを発達させてきたのが「西洋」的な文化であることをわざわざ記したうえで、こう述べます。


自己とは何か? 私とは誰なのか? この種の疑問が起こるために前提となるのは、集団から距離をおくという能力である。個人は物理的・心理的に孤立することができなければならないのだ。人は、生物的な要求を満たすためや、考えるためや、自分自身に戻るためにひとりになる。


トゥアンの指摘でおもしろいのは、人が集団から離れて個であろうとするのは、
排泄や性交などの動物的な場面と社会を超えた自己に対する感覚を抱く超越的な場面の「両極端において」であるというところです。
個であることを一方的な自意識の発展と捉えていないあたりには、考察の深さが感じられます。


社会が発展していくにつれて、完全な自己の感覚を育てるために社会全体から孤立したいという欲望が増していくのですが、
トゥアンはこのプロセスを確認するために、中世と近代ヨーロッパのテーブルマナーに注目します。
焼かれた肉が丸ごと食卓に出されていたものが、しだいに切り分けられるようになり、
ナイフやフォークなどの用具を用いるようになるのですが、
具体的な飲食マナーの変化は、ヨーロッパのテーブルマナーが群集性を避けるためにあったことを示しています。


家屋における空間の限定

次にトゥアンは家屋と家庭の考察に移ります。
人間は広々とした空間より、閉ざされた空間の方が「人間社会の現実に対する意識が高まる」と考えるトゥアンは、
「閉空間はわれわれの存在の核を包んでいる」とします。


家屋の歴史は個別化へと向かいます。
トゥアンはルネッサンス期のフィレンツェに、家族のプライヴァシーの出現を見ています。

 

十五世紀までに部屋は、家庭内での特定の機能を担い始め、家族のメンバーひとりひとりのための空間として認識されるようになった。女性と子どもが注目されるようになったのだ。(中略)価値という観点で言うならば、私的な価値の重要性は公的な価値に匹敵するようになったのだ。個性は、男性の特質としてだけではなく、女性や、さらには子どもの特質としても認識されたのである。


このようなプライヴァシーの重視はこのままフィレンツェの外にまで広がったわけではありませんが、
17世紀には「家族集団への引きこもりの傾向」は社会的な趨勢として見られる、とトゥアンは述べています。
イングランドでは18世紀の初期に貴族の家に図書室が特徴的な存在になっています。
勉強と内省の場所を持った人々は、文章に頻繁に「私」を用いるようになりました。
「自己愛」「自己認識」「自己憐憫」「自我」などの言葉が、イギリスやフランスの文学に現代的な意味を持って出現したのもこの時期です。


自意識と視覚のつながり

トゥアンは近代になって視覚的な刺激や経験が他を圧倒していることに注目します。
「視覚は「そこ」にある鮮明ではっきりと分節化された世界を示してくれる」と述べているように、
トゥアンは視覚の鮮明さが分節化に大きく寄与することを重視します。
彼は分節化を西洋人の自己探求との関連で考えているのですから、
西洋とは視覚偏重文化であると言っているのと同じことになります。


他の感覚より視覚が圧倒的に優勢になると、知覚的な経験が分離され明瞭になるのですが、
知覚できる世界が拡大する一方で、原初的な豊かさが失われている、とトゥアンは指摘します。
しかし、そうした見ることの強調が個人を孤立させ、自己についての感覚を高めるのです。


分節化と視覚との関係については、映画において反映画を実践したギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』を想起しないわけにはいきません。
(いずれ僕は『スペクタクルの社会』について本ブログで文章を書くと思います)
ドゥボールは社会統合の道具としての「スペクタクル」(実は単なる視覚世界を意味しない)が「分離」(一種の疎外)を招くことについて批判しています。
もちろんトゥアンはそんなマルクス主義的な視点で述べているのではないのですが、
見ることが自意識の発達を促すことを示したのは、文学的な視点においても非常に重要だと思います。

 

人間が自意識をもつことが可能なのは、脳と目のおかげである。われわれはすでに、特定の場所を占める物体を個々に分離し、それぞれの印象を区別する視覚の能力についてみてきた。人間の内面に関して言えば、視覚は自己が互いにばらばらであることを示している。


トゥアンは自意識を支えているのが視覚であることを、このように明言しています。
興味深いのは、中国人は西洋人ほど視覚を重視する傾向を深めなかったとしているところです。
中国の画家がルネッサンス期の美術の特徴である遠近法を発達させなかった理由を、
人間が自然の一部であり、自分の周囲を取り囲む自然に「包まれている」という観念を持っていたからだ、としています。

 

もうひとつ重要なのは、ヨーロッパの画家と異なり、中国の画家は目の前の景観を描くことがめったにないということである。彼の理想は、多様な力をもった自然を経験することであり、その本質である気と神秘的な同一化を達成することであり、そして自然そのものの中から風景を作り直すことなのである。


もっとも、自意識の深化にともなって中国でも自然が観賞されるようになったとトゥアンは付け加えるのですが、
自然は自分を包むものであり、自然を描くことは視覚的な風景を再現する目的ではなく、自然を「体験」することにある、
という考えは、中国人のみならず日本人の自然観でもあると思います。
たとえば漢詩の影響を強く受けた俳句の自然描写というものにその影響が見られますし、
川端康成の『雪国』が日本的な自然を再発見したいがために、駒子や葉子から視覚を奪うシーンを書いているのもそのためです。


トゥアンは匂いや音には「包んでいる」感覚が濃密に反映されると考えています。
中世のヨーロッパは匂いに満たされていた、と書いています。
平安時代の宮中の女性にとっては、女性の姿をなかなか直視する機会がないため、香を焚くことが重要でした。
音に関しては現代的な問題として考えることもできるように思います。
音楽をライブハウスなどで音に包まれて聴くのではなく、イヤホンで個別に聴く方が主流になっています。


このあとトゥアンは劇場の考察をしたあとに、自己というものの社会的形成について述べていくのですが、
すでに結論がわかっていることの再確認という感じで、僕にはそれほど注目するところはありませんでした。
全体としては非常に分析的で明晰な筆致で書かれているので、トゥアンが世界の分節化じたいを批判したいわけではないのだと感じさせます。
あくまで学問的に事実がそうであることを示したいのでしょう。
彼の他の著書も読んでみたくなりました。


4 Comment

南後由和『ひとり空間の都市論』

レビューを読ませていただきました。
1月にすでに書かれていたんですね、私が読んだのはつい2〜3ヶ月前でした。
レビューを読むまでは思いもしませんでしたが、指摘されると確かにうなづけることばかりでした。
私は、ひとり空間という切り口で日本の都市空間を読み解こうとするスタンスと、そこで展開される具体の現状紹介的な内容である意味満足してました。
今更ですが、気づきを与えてくれるいいレビューでした。

失礼しました

既にレビュー済みでしたか!
これから覗いて読ませていただきます。
トゥアンに関する最近の事情は全く知りませんでした。
ではでは。

Tukinamiさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
Tukinamiさん、コメントありがとうございます。

トゥアンの『空間の経験』は遅まきながら注文しました。
今トゥアンというのは、どうもネット空間においても彼の理論は応用できるのではないか、という出版側の考えがあるようです。
南後由和『ひとり空間の都市論』は佐野波布一時代にレビューを書いていますので、そちらもご興味がありましたら。

イーフ・トゥアン

懐かしい名前です。1990年代前半あたりに集中的に読んだ記憶があります。久し振りに本棚を物色したら、「空間の経験」がまだ残っており、パラパラ捲ると所々にボールペンで書き込みがあり、また例えば「礼儀と無作法は、他者との接触があまりにも密になりそうな場合に、そのような接触を回避することを目的にした対照的な手段なのである」という箇所に線が引いてあります。
「個人空間」への関心ということで言えば、最近読んだ南後由和「ひとり空間の都市論」(ちくま新書)も議論の進め方が具体的でなかなか面白かったですよ。

Comment Form

  • お名前name
  • タイトルtitle
  • メールアドレスmail address
  • URLurl
  • コメントcomment
  • パスワードpassword