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批評を殺す〈内実に対するニヒリズム〉

〈内実に対するニヒリズム〉という日本の病理

僕はこのブログのトップページに「批評がすべて誹謗中傷扱いされる時代」と書いています。
批評の衰退はだいぶ前から起こっていることですが、SNSが一般化した時代になって、
作り手たちの「批評殺し」(というか批判殺し)の欲望がいよいよ前景化してきたと感じているからです。
もちろん、前々から創作者は批評家による批判をおもしろくないと思っていたと思います。
しかし、ある種の「必要悪」としてその存在を認めてきた部分があったと思います。


僕がこの現象を意識しはじめたのは、純文学のジャンルにおけるある出来事でした。
2006年冬号の「文藝」という雑誌で、高橋源一郎と保坂和志が対談をしたのですが、
「小説は小説家にしかわからない」と批評を否定する趣旨のやりとりがあったのです。
評論家の田中和生が「文学界」同年6月号でその態度に疑問を呈したのですが、
この論争は文壇全体を巻き込むほどに盛り上がることもなく終わったような気がします。
他者を重視するはずのポストモダン思想に前のめりだった人たちが、同質性に居直っている姿に僕はあきれたのですが、
このような同質集団に信を置く「日本人の本音」が露出したのが、日本型ポストモダンの成れの果てであったと今なら言うことができます。


西洋の自己反省によって日本が自己満足を深めたのが日本型ポストモダン現象であったわけですが、
他者を称揚するはずの思想が、日本に入ってくると既得権の保護のための保守思想になってしまう、それが日本という場所なのです。
「前提」を共有しない他者を重視し、同質性を解体するはずの思想を語る人が、平気で同質性による他者の排除を欲望し、ときに実行する、
そんな自らが支持する思想への矛盾した態度は、いったい何に起因するのでしょうか。


僕はそこに「評価されれば内容なんてどうでもいいんだ」という〈内実に対するニヒリズム〉があると思っています。
〈内実に対するニヒリズム〉が、ポストモダン思想などよりはるかに根源的な思想として日本には根づいているのです。


〈内実に対するニヒリズム〉という語について念のため詳しく説明しましょう。
大衆などそういうものだ、と考えることもできるでしょうが、僕はあくまで日本的な現象としての〈内実に対するニヒリズム〉を考えたいと思っています。
日本には帝国の周辺国として大陸文化の影響を受けてきた歴史があります。
強力な外圧の影響下にあり、その影響に呼応する社会において、なにより重要なのは外圧にいち早く適応することです。
そこでは外圧の消化がいかに早く行われるかが問題となるため、その「内実」を検証することは置いてきぼりになってしまいます。
次々に訪れる外圧を素早く消化することに執心するあまり、「内実」に対する関心を削ぎ落としてきたのが日本なのです。
中村光夫が「「移動」の時代」という文章で、日本には蓄積がなく「移動」があるばかりだと書いたのは、このような事情のことを言っています。
僕は「移動」よりも〈内実に対するニヒリズム〉の方に焦点を当てたいと思ってこう命名しました。


「現代思想」のような思想誌でも、「新しさ」を取り上げることしか価値観を持っていないのは、
「内実」を置き去りにする日本近代の悪しき伝統に対する批判的視座が欠落しているからです。
母国の伝統に対して批判的にもなれずにポストモダンも何もあったものではありません。
こうして「内実」を問わない思想は話題性だけを追いかける情報番組(ワイドショー)と同レベルの精神でしかなくなりました。
今や日本の文化はすべてが話題性に依存した「その場限りのもの」に堕してしまいました。
それに対して文学は「内実」しか問題にならないために、現代ではすっかり衰退してしまいましたが、これは必然です。
「無意味」なものが文学だと主張する無知で無恥な人が最近大きな顔をしていますが、
ちょっと勉強すればわかることですが、文学が意味に回収しきれないことと「無意味」であることとは全く別のことです。
広告のような「内実」を欠いた言葉しか知らない単細胞生物などに、人間の作る文学が理解できるはずもないので、
僕はこのような寄生虫を文学から即刻退場させたいと思っています。
(特に栃木の広告屋の息子がたいして文学を読んでもいないのに、偉そうに文学の定義をする詐欺行為に対して僕は憤りを感じています)


「内実」の否定がゲッペルスの亡霊を召喚する

落ち着いて考えれば、本当に無意味なものなどを読む必要がないことは誰にだってわかります。
そのため、文学が「無意味」であると主張したがる人間には、ある「屈折した欲望」があることが明確になります。
これは断言しても構わないと思いますが、こういう連中はまちがいなく自らが「内実」を欠いた低レベルの創作能力しか持たず、
そのくせ「おほけなき」社会的承認(わかりやすくいえばセールス)を受けたいと願っているのです。
それ自体に対する関心は乏しく、それに対する人々の評価ばかりが気になるという態度や、
それ自身ではなく、その様式上の代替物が流通することだけが大切で、内実については関心がないという態度は、
まさに〈内実に対するニヒリズム〉が伝統として存在する国だからこそ成り立つワガママだと言えるでしょう。


本の売り上げを「内実」より重視する社会風潮がそんな子供じみたワガママに正当性を与えています。
たとえば、僕は村上春樹の作品に評価できるほどの文学的「内実」はほとんどないと思っています。
そして、そう思っているのが僕だけではないことも、佐野波布一の村上作品のレビューへの反応などである程度確認しています。
しかし、村上春樹の作品に対するキチンとした批判というのは活字上ではほとんどありません。
どうやら出版社が村上に批判的な言説を取り締まっているようなのです。
作品の内実についてほとんど議論もしたことがないのに、ノーベル賞候補だとかマスコミは騒いでいます。
「世界で読まれている」とか、流通の話しか聞こえてきません。
村上の登場あたりの時期から、内実より流通を価値とする考え方が日本で広く一般化してしまったように感じます。


このような状況が常態化すれば、内実など欠けていても「流通すれば勝ち」もしくは「流通しなければ意味がない」と感じる人が出てくるのも当然ではないでしょうか。
〈内実に対するニヒリズム〉が過剰な「流通信仰」を生み出し、全ての言語表現が「広告化」するエクストリームな世界を支えています。
大量のプロパガンダで大衆を動員すれば正義である、という考えであれば、ゲッペルスが行ったナチスの大衆動員とそう変わりがありません。
内実で勝負したくない人間がゲッペルスの亡霊に魂を売り飛ばし、内実を高める努力をするのではなく、自己の痕跡の流通に勤しむようになっていくのです。
「無意味」なものが文学だ、という声高な言説の裏側には、「流通」こそが意味だというゲッペルスの亡霊が取り憑いていることを、注視しておかなくてはなりません。


丸山眞男が指摘しているように、もともと日本人はいったん成立したものを既成事実化して、そのまま追認する傾向があります。
単なる現状追認を招くという点で、内実を欠いた流通の重視は日本的な現象のひとつだと言えるかもしれません。
それがここまで表面化してこなかったのは、「戦後」という時代が「日本的なもの」と距離を取っていたからです。
敗戦によって自己批判が必要になった「戦後」という時代には、「日本的なもの」は常に理性による批判の対象であって、放し飼いにはされていませんでした。
しかし、高度経済成長後のバブル経済期になると、敗戦の痛みと無縁な世代が台頭し、抑圧していた「日本的なもの」が呼び戻されていったのです。
主体性と理性の価値を貶めた〈フランス現代思想〉がこの時期に隆盛したのは、
抑圧されていた「日本的なものの復権」の姿でしかありませんでした。
その意味で西洋では近代批判であるはずのポストモダン思想が、
日本国内においては「戦後」を否定し「あの近代」を肯定する役割を果たすという「ゆがみ」が生まれてしまったのです。
つまり、日本のポストモダンは「理性的な抑圧(戦後レジーム)からの脱却」という動機によるものであったという点で、
安倍晋三に代表される保守勢力の発想とほとんど変わりがなかったということです。


「メディア的自己」という日本的構造

日本ではポストモダンという言葉は消費資本主義の隆盛と歩調を合わせるようにして広まりました。
消費資本主義の中で育った人々は、消費というものが自己表現の手段だと思い込むようになり、
何を買ったか、何を持っているか、が自分を形成する重要な要素だと感じるようになりました。
所有したものを発信することが表現だと見なされるようになると、人々はメディア的な存在として自己を「流通」させることに勤しみました。
言ってしまえば、携帯端末のカメラで写真を撮って、それをネット上で流通させれば誰でも表現者であり、
それを批判することは人格を貶める行為と見なされるようになりました。
SNS的な自己とはそういうものなのですが、やはり人間の偏った一面があまりに強調されているという印象は否めません。


ポストモダンを喧伝して登場した思想家に東浩紀がいます。
彼のデビュー作『存在論的、郵便的』は新進の「若手」によるデリダ論として受容されたため評判になりましたが、
内容はメディア利用の複数性(メディアミックス)を語ったもので、
今となっては特に目新しいものではありません。
そもそも東が批判対象にしていた否定神学システムはドイツ思想を敵視したフランス思想的な問題意識でしかなく、
身体性を核とした天皇制国家である日本の批判には役に立たないもので、
「日本では現実化しない全体性」を標的としたために、批判としての内実を持たない「リスクなき思想ゲーム」でしかありませんでした。
むしろメディアミックスはマーケティングのやり口として権力側に利用されている手段でしかありません。
それなのに、当時の人々は東をチヤホヤするのに一生懸命で、著書の内容にはほとんど関心を示しませんでした。
ちなみに、こういうものを今になって批判する動きというのもありません。
そのため、いまだ千葉雅也がメイヤスー思想は否定神学システムに抵抗する、とか言っている始末です。


このような内実なき流通至上主義が日本的だと感じるのは、これが天皇制と密接な関係を持つことにあります。
天皇は神(外圧)との間をつなぐメディアであり、その天皇の言葉を神の代理者が伝えることで、その代理者が権力の代弁者としてふるまうという構造が天皇制を支えています。
詳しい説明は別の機会に譲りますが、
天皇制とは権力の源泉を「外部」に求めながら、「代理者」という責任のない立場から自己都合の意図を「流通」させる日本的構造なのです。
(翻訳者という立場がこれに近い位置にあることにも注意が必要です)


このように見ていくと、〈内実に対するニヒリズム〉が権威主義を横行させる原因になることがよくわかると思います。
内実を問わないからといって価値判断をしないわけではありません。
内実の代わりに何か価値を示すものが必要です。
さしあたり、それは権威による判断となるはずです。
こうして日本では内実なき権威と内実そのものである実力が分裂する事態が起こります。
天皇と武家政権との関係はまさにそういうものでしたが、このような二面性は日本のあらゆるところに見出せると思います。
そして、実力なき権威主義者こそが内実に基づく批判、批評を「不敬罪」として弾圧し、殺そうとするのです。


批判を弾圧したがるのは非実力主義の世界

スポーツの世界はもともと実力主義であることに加えて、最近はグローバルになっているので、批判を受けない状態を作るのは難しくなっています。
そう考えると、いまだ権威主義によって内実の排除が行われている世界は、非実力主義でローカルな世界となるのは必然です。
いや、それ以上にもはや批判の排除の度合が、その界隈の実力主義の程度を測る指標となると言えるかもしれません。


実力や能力というものが測りにくい界隈では、「内実」というものの価値が無視されやすい環境にあります。
そこでは簡単に「流通」が「内実」よりも重要であるかのような転倒が起こり、
「人気」と「実力」が混同される事態となっています。

たとえば現在、マスコミ等による批判を排除することに躍起なのは政治の世界です。
二世三世の世襲がワンサカいるこの界隈に実力主義が欠けていることは強く指摘するまでもないことです。
最近この世界では能力に欠けた人物が手っ取り早く人気を稼ぐために、偏った政治的言説を弄することが目立っています。
ポストモダン以後の状況においては、非実力者ほど保守的な言動を好むようになっているように見えます。
現在の日本の保守化には、〈内実に対するニヒリズム〉が深く巣食っているのです。


文学や学問の世界も同様です。
大学の研究者は地道な研究実績が評価の基準であるはずですが、そこをショートカットして出版業界と懇意になり、
オタク受けもしくは保守受けする怪しげな著書を書いて人気稼ぎをする非実力者が増えています。
こういう連中は実力の裏付けがないため、真っ当な批判に対する反論ができません。
その上、「流通」だけが生命線となっているため、自説の「流通」を阻害する批判を単なる「攻撃」としか見なしません。


批判的なAmazonレビューを削除する言論弾圧を、なにか正義でもあるかのように自ら喧伝した千葉雅也などはその典型です。
東京大学や出版社の思惑でスターに祭り上げられた千葉には、専門家を納得させられるだけの実力がありません。
ただ西洋(といってもフランスだけだが)の思想事情に通じているという「メディア的存在」として便利使いされているだけの存在です。
勉強をしない最近のマスコミはこのような寄生虫的な存在を、自分たちが楽ができるからとこぞって起用します。
(みんなで同じ人物を起用したがる日本の〈無責任型全体主義〉については、また別の機会に書こうと思います)


翻訳職人と言うべき村上春樹の文学的実力に関しても僕には大いに疑問があるのですが、
文学や思想という、人の生き方に強く影響を与えるはずの分野でも、本のセールスでの評価しか語られなくなっています。
これは同時に、文学や思想がただの愛好家のものでしかなくなり、人の生き方に影響を与えるものではなくなったことを示しています。
好き嫌いしか基準を持たない愛好家に奉仕する作品が、〈内実に対するニヒリズム〉を高めることになるのは必然です。
文学や思想が〈内実に対するニヒリズム〉に深く蝕まれた原因は、セールス一元主義と愛好家精神にあると僕は考えています。


愛好家だけのもの(ハルキスト!)となった文学や思想は、内輪の世界での流通という既成事実を背景として、
内輪の感覚でしかないものを外へと垂れ流していくことになります。
その内輪感覚の基礎には愛好家精神があるため、本質的には批判が存在しません。
つまり、「いいね」以外の評価は彼らにとって評価ではないのです。


愛好家精神において評価の基準は「作品」ではなく「作家」にあります。
なぜそうなるのか、という点については難しいところがあるのですが、
非実力者には作品の内実が理解できないため、それを隠蔽するために作品の内実を語りたがらないということがあると思います。
また、非実力者には実力に対するコンプレックスがあり、評価をすべて作品の帰属先である作り手に還元することで、
実力を問題にする機会自体を抹消しようとしているのではないか、と僕は疑っています。
とにかく、愛好家精神というものが内輪主義を既成事実化し、内実に対する批判を禁じる動きにつながっているのは確実です。


このように〈内実に対するニヒリズム〉と内輪主義というものは強く結びついています。
現代においては、批判に対して開かれていない人は非実力者であると簡単に判断してもいいのではないかと思います。
批判と誹謗中傷の区別がつかない人も同様です。
〈内実に対するニヒリズム〉が蔓延している界隈においては、批判の標的となる内実が存在しないため、
それが単なる誹謗中傷と何ら変わりがないものにしか思えなくなります。
つまり、「批判がすべて誹謗中傷扱いされる時代」とは、〈内実に対するニヒリズム〉による内輪主義が、
内輪を越えて外へと垂れ流されて権威化する時代だということです。
作り手たちの「批評殺し」は、作り手たちが内実なき内輪評価に満足している時代に起こる現象なのです。


2 Comment

緑の橋さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
はじめまして緑の橋さん、コメントをありがとうございます。

栃木の広告屋のおぼっちゃまがそんなことを言ってましたか(笑)
「子供の積み木遊び」とは言い得て妙ですね。
見た目のために論旨を変えるのは、彼がファッションと思想を勘違いしていること、言うほどの論旨がないことの証明ですね。
「自分大好き」しか中身がない人を持ち上げるマスコミの姿勢に、今の日本の病理が現れていると言えると思います。
おっしゃる通り10年後の日本は当然あるべきツケに見舞われるでしょう。

僕は千葉雅也に良い思いは抱いていませんが、彼は「子供」なので仕方ないとして、
それ以上に周囲で持ち上げている低脳低俗な大人たちに腹が立っています。
立命館大学や東京大学はもちろん、各出版社やマスコミ、浅田彰や小泉義之や國分功一郎や東浩紀らの出版寄生虫、頭の悪い現代思想オタクどもです。
彼ら戦犯どもには責任を取らせる必要があると思っています。

例の哲学者について

初めまして。ブログの一読者です。
例の哲学者についてですが、彼は言論人としてはかなりダメな人ですね。

最近出た対談本(「思弁的実在論と現代について」青土社)にはこんなことが書かれてありました。

187ページ
「言葉の選択についてはかなり神経症的でして、漢字ばかりが詰まるのがすごい嫌で、文字面の黒さと白さのバランスを取るために論旨を変えたりする(笑)」
「あと、できる限り段落の最終行改行で文字が余らないようにする、京極夏彦的なぴったり感とか。」

そのほか自身の著作についても、

163ページ
(「動きすぎてはいけない」について)「自分に向かって言っている、きわめてプライベートな著作なんです」

と述べています。
これでは子供の積み木遊びと違いがありません。こうした人物が、自分への反対意見を攻撃と見なしてしまうのは無理もないことだと思います。
自分なりに積み木を組み合わせて遊びたい子供にとって、外野からの茶々ほどイラつくものはないでしょうから。
問題なのは、こうした人格水準の人間が大学の准教授というポストについていたり、
メディアに持ち上げられたりしている、ということで……

現首相と同じく、ある意味ではこういうタイプの人間こそが現代日本における時代の寵児、という奴なのかもしれませんね。
果たして10年後、20年後の日本はどうなっていることやら、と思います。

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