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芸術で現代に挑むために

ポストモダンという「近代=世界大戦」批判の恣意性

1990年の冷戦構造崩壊以後、資本主義一強体制となってから、文学は世界的に衰退しています。
それは2016年のノーベル文学賞をボブ・ディランが受賞したことでも明らかです。
日本ではいまだ「純文学」を扱う文芸誌が存在し続けてはいますが、吉本興業のお笑い芸人が芥川賞を受賞したことで、
出版社にとっては、文学そのものより文芸誌や芥川賞の生き残りの方が重要であることがハッキリしました。
社会性に欠けた研究者をスター扱いする思想界を含めて、出版業界を中心とした文学や思想の形骸化は決定的な局面にあると思います。


日本ではやっと90年代になってポストモダンという語が広まっていった感がありますが、
ポストモダンの問題意識(大義名分)が近代批判にあったことは明らかです。
近代化の末路が世界大戦と核戦争による人類滅亡の可能性であったという事実が、近代的思考に修正を余儀なくさせることになったのです。
しかし、ここからポストモダンの近代批判は恣意的な展開を見せるようになりました。
ポストモダンの前提はあくまでモダン(近代)にあるため、近代のどの部分を残してどの部分を修正するか、
つまりは脱構築する部分についての共通認識が甘かったことがその原因です。
結果、批判すべき近代とは何であるのかについては暖味なまま、「近代=悪」というお題目だけが流通し、
ポストモダンは批判としての内実をほとんど持つことなく終わりました。


ポストモダンの恣意的な展開とはどのようなものなのでしょうか。
たとえば世界大戦の原因に帝国主義がありました。
戦後、帝国主義は一応は放棄されたのですが、中央が周縁を収奪する資本主義のシステムそのものは形を変えて維持されています。
資本主義とそれに対抗する共産主義が核戦争の危機を生み出したため、
ポストモダンは二項対立や国家的イデオロギーの批判を展開しましたが、
国家社会主義は批判できても、潜在的にグローバルである資本主義を批判するには至りませんでした。
資本主義を批判できずに真の近代批判が達成できるはずもありません。
あろうことか、日本では資本主義批判であるはずの〈フランス現代思想〉が消費資本主義の擁護に用いられている始末です。


結局、社会主義体制が崩壊して資本主義一強体制となり、グローバリゼーションの猛威が吹き荒れると、
ポストモダンの近代批判はグローバルな新秩序に乗り遅れないための旧勢力批判に落ちぶれました。
つまり、単に勝ち馬に乗ることの態度表明でしかなくなったのです。
そこに現代に対する批判的視座はあるはずもなく、日常の支配体制を強化する役割を果たすだけになりました。


ポストモダンの「サブカル的転回」

ポストモダン思想の形骸化を示すわかりやすい現象が、マンガやアニメ、J-POPなどのサブカルへの依存的接近です。
ポストモダンの核であった近代批判が批判としての内実を失うと、グローバリズムという日常の支配体制が強化されるだけになるわけですが、
そのような支配に抵抗する運動や批判が難しくなると、単にそこから逃げ出して自らの憩いの場を確保することに奔走するようになります。
変化を迫る現実(日常)からロマン主義的に「逃走」する手段の代表がサブカルへの耽溺であることは言うまでもありません。


最もわかりやすい例が東浩紀という僕と同世代の批評家です。
東は『存在論的、郵便的』という〈フランス現代思想〉の思想家デリダについての著書で注目されたあと、
「ポストモダン」を「動物化(=オタク化)」と同義のものとして語り始めました。
1995年のオウム真理教事件もしくは「新世紀エヴァンゲリオン」放送は、
振り返ってみれば日本のポストモダン思想の「サブカル的転回」元年に当たるように思います。
宇野常寛や千葉雅也はもちろん、大澤真幸や斎藤環などもこのような価値変化の中で登場した人たちです。
一般的にいえば、「地下」の存在であったオタクが市民権を獲得するようになったわけですが、
これこそがポストモダンの形骸化であることはしっかり認識されるべきことだと思います。


東浩紀は「萌え」の分析(これは完全に失敗でした)をしたり、「切断の自由」と言って「プチ引きこもり」を肯定したりしましたが、
彼の「思想」というものは、結局はオタクの市民権獲得運動の範疇にとどまるものでしかありませんでした。
(震災以後は子供を持ったこともあって多少は考えもマシになったようですが)
彼は「ギャルゲー」や押井守「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」を取り上げて、
反復する日常を「無限ループ」として表現したことなどを高く評価しましたが、
これこそがグローバリズムという「変化」を強要する日常支配に対するノスタルジーの現れであることには思い至らなかったようです。


「新世紀エヴァンゲリオン」は「世界の終わり」と「日常」がないまぜになったこの時代の記念碑的作品でしたが、
「サブカル的転回」のパラダイムの最初に記念碑的傑作が生まれたために、それ以後のアニメはこれを越えることができず、
「涼宮ハルヒ」「魔法少女まどか☆マギカ」のような縮小再生産や、「世界の終わり」と「日常」のそれぞれに自足する諸作品を生み出すだけに終わりました。
(その意味で「エヴァ」以後に批評に値するアニメ作品はほとんどないと僕は感じています。
アニメで批評をしたければ「エヴァ」とオウム真理教の問題を考える以外に価値はないはずなのですが、東浩紀も宇野常寛もそこから逃げ続けています)


残念ながら、僕はポストモダンの「サブカル的転回」に生産的なものがあるとは思っていません。
オタクの欲望の在り処にそれほどの多様性はなく、
(というより「見かけの多様性」を称揚し、「実質的な多様性」を否認するのがオタクの欲望なのですが)
だいたいはグローバリズム以前の「反復的日常」へのノスタルジックな回帰で説明できてしまいます。
身もふたもないことを言えば、高度経済成長からバブル時代までの戦後日本への「ノスタルジー」とその崩壊を恐れるあまりの「先取り」です。
戦争と日常、懐古と先取り、この矛盾を生きるでもなく、自らをメタ化してモラトリアムに居続けようとするのがオタク的欲望だと言えると思います。
このような後ろ向きな欲望に媚びて文学や思想などができるはずもありません。


サブカル的転回の先にあった自己本位=自国中心主義

2009年に民主党政権によって政権交代が実現したことで、
これまで日常への潜在的圧力であった「変化」が、政治体制の変化として顕在化することになりました。
ここで日本の有権者は自分たちが本当に望んでいたものに気づくことになります。
自民党政権の腐敗は見ていられないが、抜本的変化も御免だということでした。


2012年に第2次安倍内閣が発足し、自民党が政権与党に返り咲くと、
短絡的な人々は本当は外圧である「変化」を、民主党がもたらしたものと考えて嫌悪し、安倍晋三を支持しました。
かつての「反復的な日常」へのノスタルジーが安倍政権支持の原動力といえると思います。
(だからこそ安倍はループ的に再選され、総裁任期も最長になるのです)
安倍は戦後の日本の繁栄がアングロ・サクソン依存によるものと考えているので、
アメリカとの一体化を進めることがノスタルジーを維持する手段だと思い込んでいます。
ノスタルジックな勢力が戦後体制を支えた憲法の改正を求めるのは矛盾にも見えますが、
世界情勢の変化の中で、日本がアメリカと以前のような関係を維持するためなのですから、
憲法改正は大きな現状維持に際して必要な小さな変化でしかないのです。
ノスタルジックな動機で進められる憲法改正など、僕は到底支持することはできないのですが、
人間はある年齢を超えるとノスタルジーを生きていくものであるということを僕は同世代の人たちを見て実感しています。


安倍を支持するバブル日本ノスタルジーの人々と、サブカル的ノスタルジーの中年が結託することになったのは、
この国に先行きがないことの証明のようなものかもしれません。
彼らは「日本の終わり」に怯えつつそれを先取りしながら、戦う気概がないために皮肉にもそこに向かって驀進していくのです。
好き嫌いにかかわらず、日本は大国中国と向き合わなければならない運命なのですが、
日本のノスタル爺さまはアメリカ依存によって逃げ切ることしか考えていないように見えます。
権力者はそれでいいでしょうが、下っ端の人間(特に若者)がそれに従うことは、既得権者が救命艇に乗るための踏み台になるだけのことです。


話が戻るようですが、そもそもサブカルには自国中心主義が刻印されています。
アニメなどでは、たいてい世界を滅ぼす勢力がなぜかチンケな島国でしかない日本を攻めてきます。
なんで怪獣は日本にばかり現れて、ウルトラマンは日本に住んでいるのか。
そこで日本人が世界を救うために戦うわけですが、実際は自分たちの生活を守りたいだけでしかないのです。
ここには自己本位の姿勢がそのまま世界救済になるという図式があるわけです。
サブカル作品ばかりを享受していると、こういう自己本位の視点が知らず知らずに身についてしまうのです。
このようなサブカル的陥穽にはまらないためには、世界情勢を勉強したり、世界文学を読んだり、歴史の勉強をする必要があるでしょう。


現代に芸術的なテーマはあるか

このようにまとめると、僕がAmazonレビューで断片的に展開した批判が、いかに歴史性に基づいたものであったかが理解いただけると思います。
僕は特定の誰かが嫌いだから批判しているのではありません。
無知な人間が垂れ流す表現の害悪を中和するために批判が必要だと考えただけのことです。


現代において、ただの近代批判はほとんど意味がありません。
ポストモダンに依拠する「サブカル的転回」にも芸術的価値など全くありません。
自国中心主義によるアメリカとの一体化に未来がないこともハッキリしています。
すべてはバブル時代へのノスタルジーの産物です。
トランプの「偉大なアメリカをもう一度」は海の向こうだけの話ではないのです。


このような後ろ向きの志向をやめて生産的な未来へ向かうにはどうしたらいいのでしょうか。
それは一人一人が大きな権力や多数の支持に依存するのではなく、自らの内なる確信に基づいた普遍的な闘争をするしかありません。
わかりやすくいえば、誰に支えられいるわけでなくても、自らが責任を持って他者に提示できる表現をすることです。
「みんなに言われたので句集を作りました」みたいなことを書く人は、たとえ本心でなかろうが、堕落した存在でしかありません。
本気で芸術や文学を考えるならば、自分の表現が何かからの受け売りではないか、
単に時代の流れに乗っているだけなのではないか、と絶えず疑うべきですし、
それを指摘されたら真摯に反省して、別の道を模索するべきでしょう。
(もちろん趣味ならそれで構いませんが、そういうものは販売してはいけません)


時代の犬のような奴が一丁前の表現者ヅラや思想家ヅラをしていることがこの国では多すぎます。
現代において、それが芸術的であるかどうかの判断材料として、最も重要だと思うのは、
やはり資本主義とどう向き合うかということにあると思います。
自らの作品が消費資本主義の商品としてパッケージ化されたら満足してしまうような輩や、
ナントカ賞とかいう権威に認められて自作の流通を喜んでいる輩は、例外なく作品もくだらないものになってしまいます。


資本主義に対する葛藤もなく、流通すれば勝ちなんだとばかりに、「現在」を肯定する人に、文学や思想を語る資格はありません。
もちろん、文学はそんなに甘いものではありませんので、その程度の作品は時間とともに流れ去ることになるでしょう。
そんなことより、資本が以前よりもさらに自動化、自律化を目指していることの方が問題です。
行きすぎた現在至上主義において、最近芸術や文学から「人間」を排除しようという動きが加速していることは看過できません。


資本主義、特に消費資本主義の日常から「人間」(もしくは自然)を取り戻すことが、現代の芸術的テーマのひとつであり続けていると僕は思います。


2 Comment

コメントへの返答

お久しぶりです、南井三鷹です。
またコメントをありがとうございます。

他のジャンルに対して文芸や思想が「怠惰」なのはどうしてなんでしょうね。
興味深いので、それについても今度考察してみようと思いますが、ちょっと書いてみます。

文芸や思想ジャンルは映像化して流通できないことが大きいと思います。
映像や音楽のように直接性・瞬間性・衝撃性がない活字の世界が、時代の圧力からファッション化や映像化への方向を辿るのは、抵抗しないかぎり必然の流れでしょう。
この方向に舵を切ると、内容が断片化・映像化するのはもちろんのこと、そこに擦り寄ってギャル男を担ぎ出したり、作家を路線バスに乗せたりして、迷走に迷走を重ねることになります。
ここで活字の世界は一つの覚悟ある決断をする必要があると僕は思っています。

佐野波布一から続けて読んでいただいて、本当に感謝しています。
それから僕のミスでコメントを上げ直したため、投稿時刻が変わってしまいました。すみません。

無題

南井さんが佐野波布一さん時代に、一度だけコメントさせていただきました。
今回改めて貴殿の文章を堪能してコメントいたします。
アマゾンレビューの頃から、貴殿の批評には勉強させてもらっていました。

思想家を名乗る人たちの軽薄さに、うんざりしていたのですが、南井さんの文章を読んで判然とした思いです。

>本気で芸術や文学を考えるならば、自分の表現が何かからの受け売りではないか、
単に時代の流れに乗っているだけなのではないか、と絶えず疑うべきですし、
それを指摘されたら真摯に反省して、別の道を模索するべきでしょう。

現代音楽が、現代美術が、挑戦的に模索しているのに対して、文芸も思想もここまで怠惰なのは、非常に残念です。

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