- 2021/10/11
- Category : 【評論】ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉
ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その3】
生きたままでの輪廻転生
前回はメディアが乗り物である、という話が中途半端なところで終わってしまいました。
速度の思想家であるヴィリリオは、『ネガティヴ・ホライズン』(1984年)で速度を生み出す乗り物について考察を試みています。
これまでのヴィリリオの主張をまとめておきましょう。
① 乗り物は乗り手を脆弱さから守る移動要塞である
② 乗り物は宗教的彼岸へと到達するための手段である
③ 速度とは暴力である
④ 乗り物に乗る、または乗り物に転生することは、支配的権力の地位にあることを表す
乗り物の初期形態は、馬やラクダなどの乗用動物です。
ヴィリリオは「乗り物」としての乗用動物が、主に戦争の手段だったことを重視しています。
乗用動物は乗り物であると同時に初期の軍事兵器でもありました。
当然のことですが、動物を乗用にするには調教が必要です。
「動物を乗用に調教することによって、運動エネルギーを、つまり馬のタンパク質ではなく、速度を保存する」と述べるヴィリリオは、
動物が狩られるものから家畜として育てられるものへと移行することで、「速度の保存」が行われるとしています。
「速度の保存」というのは面白い表現ですが、要するに電気自動車をフル充電するように、速度を生み出すエネルギーをいつでも使えるようにしておくということです。
こうして走行用の動物は、「最初の速度製造機」となり、それがやがては蒸気機関へと置き換えられていくのです。
注目したいのは、乗り手と速度との「一体化」というところです。
前回記事で引用した文にも速度との一体化に関する記述がありましたが、内容には軽く触れただけでした。
「支配するためには、まず駿馬の神聖な速度と一体化し、一時的に死んで自分の魂を喪失し、瞬間的に転生して馬そのものに変身しなければならない」
という箇所がそれですが、馬の速度と一体化するために乗り手は自分自身の魂を喪失して、馬へと転生することになるというものです。
乗り物に乗って支配の地位につくためには、自身の魂を捨てて速度と一体化することになるわけです。
乗り物に乗るたびに自分の魂を喪失するとしたら、これは非常に恐ろしいことではないでしょうか。
しかし、よくよく考えると魂は乗り物へと転生しているので、実際に喪失するのは乗り手自身の身体でしかありません。
「殺到すること、突進することはまた同時に、溶けること、溶解することでもある」とヴィリリオが述べているのは、
速度が乗り手の身体を溶かすことを意味しています。
速度との一体化は、自らの身体を溶解させて、魂を走行する乗り物に一体化させることなのです。
(そういえば、先頃大ヒットした映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』で、魘夢という鬼が自らを無限列車と融合させていましたね)
猟において狩人は片っ端から屠殺して野生動物の運動を停止させるが、家畜化において飼育者は速度を保存するだけで満足する。そして最後に、調教によって乗馬者は、運動に方向をあたえ、加速をうながして自分をその運動と合体させる。死の欲求から合体の欲求へ──ここにはいきたままでの輪廻転生という現象が問題になっているようにおもわれる。最初は対峙していたふたつの存在がただひとつの肉体となる。結婚におけると同様、ふたつの身体の合体というエロティックな欲求が人を出発へといざなうのである。(ポール・ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』丸岡高弘訳)
「人馬一体」という言葉がありますが、ヴィリリオは乗り物に乗り込むことが、すなわち乗り物との「合体」つまり一体化だと言います。
速度の中での一体化は身体の境界を溶解させた融合状態として捉えられているのですから、エロティックなものにならざるをえません。
これが結婚という男女の合体に重ねられるのですが、
前述したように、身体の融合による乗り手と加速運動との一体化は、魂の転生と捉えられていました。
このプロセスが「いきたままでの輪廻転生」と呼ばれているのはそのためです。
ここに宗教的な含意があることは、続く文を読めばすぐにわかります。
しかしこの瞬間、走行は狩りの上位形態に変化する。すなわち彼岸へとむかう狂奔的暴走に。肉体的・領域的・動物的身体の彼方にあるものにむかっての暴走──この狂気と憑依のイメージは中世の信仰であの「悪魔狩り」となり、そしてそこでは馬は黙示録的ひろがりを獲得する。(中略)
走行速度は距離を廃棄するが、彼岸へとむかう狂奔的暴走は時間の消滅を意味する。馬の速度は《終末》にたいする恐怖を象徴している。実際、恐怖と速度がむすびついていることに注目すべきである。動物界において速度は恐怖の果実であり、危険の結果である。実際、運動の加速化による距離の縮小は生存本能がもたらすものである。速度は恐怖の産物にすぎないのだから、暴走とははげしい後ずさりにほかならず、それを誘発するのは逃走であって、攻撃ではない。(ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』)
この難解な文章には、ヴィリリオが捉えた速度というものの本質が暴露されています。
人は乗り物に乗り込むことで自らの身体を溶解させ、速度そのものへと変化を遂げるわけですが、
人が速度へと身を任せたとき、その「狂奔的暴走」は、宗教的な彼岸へと向かう運動になっています。
それがなぜ「彼岸」に向かう疾走なのかと言えば、速度との一体化が自分の魂を身体から引き剥がし、「肉体的・領域的・動物的身体の彼方」である彼岸へと到達させることになるからです。
動物性を刻印された身体から抜け出ることは、死すべき身体を否定することであり、身体が囚われている現世からの魂の解放をもたらす結果になります。
それが達成されたとき、そこでは時間が消滅し、安息の地である彼岸が到来します。
そう、「彼岸」とは時間が消滅した終末において実現するものです。
しかし、その彼岸に向かう疾走が、《終末》の恐怖による「後ずさり」の「逃走」だとするのはどういうことでしょう。
ヴィリリオが考える彼岸への疾走が、「狂奔的」なものであるのは、狩られようとする動物が死の恐怖から逃れて安息の地へと逃走する状態に重ねられているからです。
狩人に追われる動物が移動を止めてしまうと、そこには死が待っています。
同じように、乗用動物の移動にも、死が刻印されています。
乗り物が移動し続けることを宿命づけられているのは、それが死の恐怖からの逃走であるからなのです。
死からの逃走が、安息地(彼岸)への暴走となるのは、こういう理由です。
ここは重要なところなので改めて言います。
乗り物の加速への欲望は、本質的に「死からの逃走」を目的としています。
乗り物の目的が彼岸への移動にあるのも、乗り物が要塞かつ兵器であるのも、
それが死の恐怖から逃走する手段とするならば、非常に納得できます。
ここで注意したいのは、死の恐怖からの逃走が求めているのは、安全な目的地であるのか「速度」そのものであるのか、という区別です。
動物が死を避けようと逃走するとき、常に安全な目的地をめざしているものでしょうか。
いや、それよりも追ってくる敵を引き離すために、自分のスピードを上げることに努めるはずです。
つまり、乗り物の「速度」もしくは「加速」こそが、死の恐怖から逃れるための原動力になるのです。
死から逃走する乗り物に特定の目的地はありません。
あえて言うなら、死の恐怖から解放された彼岸こそが乗り物の目的地なのです。
しかし、死後に到達するはずの彼岸は、現実の乗り物で到達できる場所ではありません。
彼岸は此岸とは切り離された場所なので、現世の延長には存在していないのです。
では、彼岸への疾走は決して成就することのない絶望の旅でしかないのでしょうか。
そんなことはありません。
めざすべき彼岸は、目的地への到達とは別の仕方で到達するのです。
彼岸とは、此岸であるこの世界から遊離した、此岸の価値を相対化し無化する場所のことでした。
つまり、此岸から完全に切断し離れていくことが、彼岸にあることと同じ価値を持ちます。
前回の記事の最後に引用した横光利一の「鳥」を思い出してください。
そこでは飛行機という乗り物が、地上の「生活」から離れるものとして描かれているだけで、飛行機の目的地は全く書かれていませんでした。
彼らの望みは「生活」を捨てて、鳥に「転生」することでした。
それは乗り物が地上から離れて、浮遊している間だけ実現するものです。
「そもそも、空気より重い飛行体が空を飛べるのは速度によってささえられているからである」とヴィリリオが指摘するとおり、
すべてのエンジンが停止した時、飛行機には死が待っています。
つまり、飛行している最中は速度によって生かされているわけで、そこで乗客は否応なしに速度に居住する存在にされてしまいます。
こうして速度に身を任せ、速度の中に住み込んだそのときにだけ、地上の現実生活から離脱し解放される「彼岸=宗教的恍惚」が実現されるのです。
そう、彼岸とは安定的な場所としては存在していません。
速度が生み出す「瞬間」に開けてくる(そして次の瞬間には消滅する)ものなのです。
現世の生活世界に生み落とされた〈世界−内−存在〉としての人間が、生活から解放された彼岸へと至るには、走行の只中にある〈速度−内−存在〉に転生する必要があります。
(注:〈速度−内−存在〉という言葉はヴィリリオのものではなく、僕の造語です)
「死」のにおいのする現世から逃走するため、人々は速度の中へと逃げ込んでいきます。
乗り物の速度と一体化する瞬間に、神的な彼岸存在つまり〈速度−内−存在〉としての自己が、瞬間の中で明け開けてくるのです。
これがヴィリリオの言う「生きたままでの輪廻転生」です。
速度との一体化まで話を進めてしまいましたが、少し話を戻して、
乗り手の身体が融解して乗り物と一体化することについて、確認したいことがあります。
ヴィリリオは乗用動物と乗り手の一体化を、二つの身体の合体という点に注目して、男女の結婚と同じ扱いをしています。
人間の身体と連結した動物パートナーを、外婚制と重ねてこう言います。
「馬にのった人間という融合=連結体の複合装置は異性カップルという外婚的単位を補完するものである」
外婚制のルーツは外部共同体の女性の「誘拐」という略奪結婚にありますが、
略奪された女性が乗用動物によって運搬されることに、ヴィリリオは注意を促しています。
結婚による両性の身体的融合は、自分を共同体の外部へと連れ出すものであるということです。
(同性の恋愛には共同体外部への越境という歴史的背景がないことを、ポストモダン思想を学ぶ人は真剣に考えた方がいいと思います)
つまり、ここで問題にされているのは、共同体の領域からの離脱・逃走という「脱社会化の運動」です。
ドゥルーズ=ガタリの言う脱領域化するノマドロジーとは、ヴィリリオの視点からすれば、
「乗り物」との合体によって何の苦労もなく技術的に実現できるものでしかないのです。
乗り物と乗り手の「一体化」をイメージとして捉えるときに、無視することができないのは巨大ロボットアニメというジャンルです。
日本では巨大ロボットアニメが、歴史的系譜を持つジャンルとして成立しているのですが、
このジャンルのロボットのほとんどが軍用の兵器であり、巨大合体ロボから一人乗りリアルロボット(かつ専用機)への進化系図を持つことには、注意したいところです。
いまだポストモダン時代の論者として支持されている東浩紀が、デリダ論で華々しく登場した時期に『新世紀エヴァンゲリオン』を強烈にプッシュしたことは忘れることができません。
エヴァンゲリオンをロボットと呼ぶべきなのかわかりませんが、
搭乗者が「一体化」するエヴァンゲリオンとは実は「母親」である、という設定は、ロボットアニメというジャンルの終焉を示した事態だったと思います。
父親の指令によって、「乗り物=母親」の胎内で羊水に浸ったまま戦う主人公、このようなアニメに多くの人が熱狂したことが何を意味するのか、当時の東浩紀は全くわかっていませんでした。
(遠慮せずに言ってしまえば、「父=メタなるもの」の庇護下で、他者としての女性を介在しない擬似的な性的陶酔状態にあり続ける、というオタク的欲望です)
だからこそ、彼はオタクが消費資本主義のエリートだという間違った妄想を抱いたのです。
現在の庵野秀明がエヴァンゲリオンを廃棄すべきものと考えたことに対し、東浩紀にそれだけの自己反省ができていると僕は思いません。
最大の問題点は、乗り物との身体的合体によって生活世界を離脱したとしても、それは乗り物に乗っている間しか実現できない、ということです。
「生きたままでの輪廻転生」は、走行の動力が続く間だけのもので、
動力が切れてエンジンがストップすると、輪廻も止まってしまうのです。
走り続けないと生きられない競走馬のように、乗り物と一体化した〈速度−内−存在〉は、加速をやめてしまうと生活世界を生きる〈世界−内−存在〉へと転落します。
これを現実では「事故」と言うわけですが、「事故」という運命についてはのちに触れることになるでしょう。
移動革命による束の間の現前
乗り物を利用する〈速度−内−存在〉となった人間は、生活世界とは「別の秩序」に乗り入れます。
近所の人間とくりかえす日常生活から離脱し、偶然に出会っては消えていく束の間の残像と関係を深めるようになります。
乗り物の窓から外にいる人々を視線に捉えても、彼らは次の瞬間には後景に消え去っています。
それは、ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にはあらず、という無常の実感とは似て非なるものです。
常にそこを流れている川も、よくよく考えれば流動して戻ることはない、という発想には、
現前する光景としては常態化して見えるものも、実際には無常で流動化しているという自覚、すなわち内面的な境地が伴います。
しかし、乗り物による移動は、現前する光景を次の瞬間に、本当に光景ごと消滅させてしまうのです。
流動性が内面のレベルではなく、知覚のレベルで起こることが重要です。
昨日までは、近所がひとつの統一体を形成していて、毎日くりかえし出会うことで他の人と知りあいになり、また知りあいとして認識していたのだが、移動革命により隣人は偶然にしか出会うことのない「亡霊」になる。われわれのすぐそばに見知らぬひとびとがひそんでいるのである……。交通網整備はグループ間のよりよいコミュニケーションや交流の改善を実現するだけではない。それはまた他者の束の間の現前という特殊な現前形態をうみだす。一瞬のあいだ隣りあわせになった人間が永遠に消えてしまう。たえず移動しているために同胞がとつぜん消滅するという事態がくりかえされ、それが習慣化してしまう。(ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』)
車窓から風景を眺めていると、建物が次々に通り過ぎては消えていきます。
信号待ちをしている間に見かけた人も、車が走り出せば二度と会うことはありません。
同じ電車に乗り合わせた人がホームに降りると、その光景は次の瞬間にホームごと消え去ります。
速度の中で知覚される光景とは、眼に映るものが瞬時に消滅する体験なのです。
これが常態化すると、目の前にあるもの(現前)が次の瞬間には消滅するものでしかないことを、当然のように受け入れるようになります。
目の前に存在するものが次の瞬間に突然消えても、何も感じなくなります。
確固として世界に存在するものが、この瞬間だけ暫定的に存在するもの、速度の中で瞬時に消え去るものでしかなくなるのです。
それをヴィリリオは「束の間の現前」と書いています。
速度の中にあると、すべての存在が束の間に生成したものでしかなくなります。
「束の間の現前」こそが、〈速度−内−存在〉の存在形態なのです。
ヴィリリオが述べているように、速度の中では、隣にいる大事な人も、いつ消滅してもおかしくない「亡霊」同様の存在です。
J-POPが恋人と会いたい気持ちをやたらに歌い上げるのは、次の瞬間に恋人が消えてしまうからにほかなりません。
速度は目の前の存在を、いつ消えてもおかしくない束の間のものとして認識させます。
この知覚上の変化でしかないものを、あえて存在論のレベルで捉えることが哲学的なアプローチだと僕は考えます。
存在論で考えたいのは、この変化が、此岸と彼岸という一神教的な世界認識を背景にしているからです。
速度が生み出す彼岸においては、世界に根を張って存在しているはずのものが、瞬間的に現れただけの表層的な存在に変わります。
これを僕は〈世界−内−存在〉(歴史性)から〈速度−内−存在〉(瞬間性)への移行として考えたいと思っています。
この変化は、生活世界から離脱した彼岸の世界が、生活世界の中に到来したかのような錯覚を引き起こします。
つまり、瞬間的にしか現前しない〈速度−内−存在〉とは、彼岸へと救済(=投企)された人──神の国にいる人──の姿なのです。
われわれは今日、都市のメタ安定性になれきってしまい、たえず亡霊とすれちがっているのにだれもそれに不安をかんじているようにはみえない。これは悲劇的なことだ。道ばたで出会ったあの女性に、おそらく二度とあうことはないだろう。われわれをとりまく大半のひとびとについても同様だ。近所のひととの出会いは本当に束の間の出会いでしかない……。(ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』)
人と人との出会いは「束の間」でしかなく、出会ったと人と二度と会うこともない、
それに不安を感じないでいられるのは、生活から遊離した都市がメタ的な安定性を持っているからだ、とヴィリリオは言います。
今や私たちは人と人との関係を生きていないのです。
都市が生み出す速度との関係を生きている(=死んでいる)のです。
しかし、「都市のメタ安定性」つまり都市の移動速度の安定的持続を信頼できない人は、亡霊との出会いに不安を感じないではいられません。
メタ安定性が崩れた都市では、隣にいる人が二度と会えなくなる亡霊であることが露呈されます。
隣にいる人が、次の瞬間には乗り物によってあの世に召されている!
それはまるで戦場のようです。
隣にいた戦友が、次の瞬間には死んでいる。
都市の本質が戦場であることに、私たちは気づいているでしょうか。
しかし、空襲で焼け野原になった東京を目にした人々が、それに気づかないはずはありませんでした。
復興後も「都市のメタ安定性」に支えられた生活への信頼を取り戻せなかったのが、戦後作家だと言えるでしょう。
川端康成の『みずうみ』(1954年)は、偶然見かけたゆきずりの美しい女の後をつけるストーカーを主人公にした話です。
ストーカーというと犯罪者のようですが、川端が描きたいのは欲望の対象である女性に直接的に触れ合うことの不可能性です。
『眠れる美女』や『片腕』などの後期作品にも、同様のテーマが見られます。
女性との相互接触を避けて、距離を介して一方的に眺める「老人」の、肉体を欠いた昇天願望を描いています。
ストーカーは女性と一定の距離をとって後をつけることで、自分は見られずに一方的に相手を見るだけの「窃視者」の立場を確立するわけですが、
川端作品の男性主人公の多くは、女性と非対称的な関係にある「窃視者」に分類できます。
その意味で、川端の性的欲望のあり方は、表層レベルでは二次元オタクと重なります。
しかし川端が文学たりえているのは、直接に触れ合うことが禁じられた若い娘が、彼岸にいる母の投影として決定的な断絶の向こうに存在しているからです。
この現前しえないものを執拗に求める信仰にも似た態度が、人間疎外の真実(川端的に言えば「かなしみ」)を照らし出しています。
これが見る側の優位を手放さず、女性のイメージを都合良く消費するだけの二次元オタクとの大きな差をもたらしているのです。
ここで本格的な川端康成論をやるわけにはいかないので、先に進みます。
『みずうみ』の主人公の銀平が、トルコ風呂の湯女相手に、自分が女性の後をつける理由を語っている部分を引用します。
「妙なことを言うようだが、ほんとうだよ。君はおぼえがないかね。ゆきずりの人にゆきずりで別れてしまって、ああ惜しいという……。僕にはよくある。なんて好もしい人だろう、なんてきれいな女だろう、こんなに心ひかれる人はこの世に二人といないだろう、そういう人に道ですれちがったり、劇場で近くの席に坐り合わせたり、音楽会の会場を出る階段をならんでおりたり、そのまま別れるともう一生に二度と見かけることも出来ないんだ。かと言って、知らない人を呼びとめることも話しかけることも出来ない。人生ってこんなものか。そういう時、僕は死ぬほどかなしくなって、ぼうっと気が遠くなってしまうんだ。この世の果てまで後をつけてゆきたいが、この世の果てまで後をつけるというと、その人を殺してしまうしかないんだからね。」(川端康成『みずうみ』)
都市では、ゆきずりで出会った人と二度と会えないことは珍しくありません。
我々はそれを不思議とも思わないほど、都市の安定性に慣れています。
「ほかの同類の肉体的現前がリアリティーをうしない、ちかくにいる人間がたんなる通行人、行きずりの人となってしまう」とヴィリリオは書いていますが、
都市で自分の近くに位置する肉体は、ただの「ゆきずり」の人でしかなくなるのです。
現代の都市では肉体的現前が奪われています。
デリダは現前批判の思想家として有名ですが、実は持続的な現前など、デリダが批判するまでもなく、不可能なものになっているのです。
もしゆきずりで出会った相手と、恋愛ドラマを始めたければ、別の場所で運命の再会を果たすことが必要です。
運命のようなメタ的なパワーが働かないならば、黙って相手の後をつけて、その人を彼岸(川端の言う「魔界」)へと一緒に連れていくしかないでしょう。
『みずうみ』の銀平にとって、ゆきずりで出会った美しい少女は、母性的な彼岸を示しています。
しかし、母性的なものは「ゆきずり」という移動の瞬間にしか現れません。
その恍惚の瞬間を持続する欲望を抱いてしまうと、銀平のようにストーカーになってしまうのです。
ここでは彼岸が到達する瞬間が、性的恍惚の瞬間と重ねられているわけですが、
ヴィリリオは性的視点より軍事的視点を好むので、性の問題は川端論で扱った方がいいかもしれません。
『みずうみ』では、現実生活と彼岸の対立が、醜さと美しさの対立にわかりやすく置き換えられています。
現実生活は醜く、彼岸は美しい。
このような明快な二分法は、サブカル的なわかりやすさだと言えます。
日本では一神教的な歴史的構築物が生活空間の内部に存在しないため、
一神教に倣って「彼岸」を思い描くと、どうしても生活世界の全否定という極端なわかりやすさに到達してしまうのです。
蛍狩りであの少女を見、土手で赤子の幻に追われ、こうしてゆきあたりばったりの女と飲んでいるのが、銀平は一夜のうちのこととはとうてい信じられないようだった。しかし、信じられないようなのは、女がみにくいからにちがいなかった。蛍狩りに美しい町枝を見たのが夢現で、安酒場にみにくい女といるのが現実だと、今はしなければならないのだが、銀平は夢幻の少女をもとめるためにこの現実の女と飲んでいるような気もしていた。この女がみにくければみにくいほどよい。それによって町枝の面影が見えて来そうだった。(川端康成『みずうみ』)
現実が醜ければ醜いほど、彼岸の美が強く求められるのは道理です。
日本浪漫派の保田與重郎は川端に日本の美を感じていましたが、川端文学が依拠しているのは明らかに現実否定を基礎とした一神教的な世界観です。
ちなみに日本浪漫派の流れをくむ三島由紀夫は、長らく川端の崇拝者でしたが、『みずうみ』が不快だったと中村真一郎に語っています。
おそらく三島が死を選ぶほどに嫌った「老醜」が、あまりに露骨に描かれていたからではないかと思います。
(三島が「窃視者」を嫌悪し、自らをスクリーン上の「見られる」存在へと変えていったのは、川端的な去勢に対する反発があったように思います)
さて、ヴィリリオに戻って、これまでの考察をまとめましょう。
全体が「乗り物」と化した都市で、速度との一体化に慣れきった人々は、束の間にしか現前しない存在に囲まれて、「生活」を失っていきます。
速度は「生活」のしがらみを一瞬にして置き去りにするので、人々に解放感をもたらします。
白馬に乗る速度の王子が、村の因襲に縛られた娘を連れ去って、暗い日常生活から解放してくれるのです。
娘は速度王子の住む宮殿にすぐさま魅了されることでしょう。
それが現世に到来した「神の国」にも思えることでしょう。
しかし、それも時間が経つ頃には「生活」となってしまい、娘は新たな速度王子の到来を待たなければならなくなります。
繰り返しますが、彼岸は目的地には存在しません。
今の「生活」から速度によって連れ去られている間にだけ、彼岸は到来します。
「生活」から逃走するためには、エンジンが高速回転し、速度を増していく必要があります。
彼岸の持続とは、加速の持続という連続性によって成立しているのです。
同じ速度の持続ではダメなのです。
加速によって、それまでの光景を認知的に変容させるからこそ、生活世界からの離脱が続くのです。
つまり、生きたまま実感できる彼岸は、「もっと速く!」を実現することによってしか持続できません。
こうして速度体制は、生活世界の恐怖から「逃走」するために、絶えざる加速を実現することになるのです。
もはや乗り物は目的地への到達を目的とするものではなく、「速度製造機械」でしかない、というのがヴィリリオの考えです。
速度体制では、いずれ生活を置いてけぼりにした「加速のための加速」をめざすようになるのは確実です。
乗り物からスクリーンへ
高速移動する身体は、次の瞬間には速度に連れ去られてしまい、その場所から消滅する運命です。
さっきまで隣にあった肉体が、「束の間の現前」を果たしたあと、すっかり消えてしまうのです。
「束の間の現前」においては、他者は網膜状の残像でしかありませんが、
ヴィリリオはそれがスクリーン上の映像となんら変わらないものであることを見抜きました。
映画とは運動映像のことであり、それは映画の発明をまつまでもなく何千年も前から存在していたが、他者はそうした運動映像と同一視される。騎手ははかない存在となり、網膜の残像とおなじような現象にすぎなくなる。走行の非現実性が身体の物理的リアリティーを追放する。存続するのはただその記号だけである。これはおそるべきことである。(ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』)
僕はヴィリリオ以外に映像メディアを乗り物の延長に置いた人をまだ知りません。
しかし、ヴィリリオの発想が圧倒的に正しいことは、今になって完全に証明されたと僕は思います。
ヴィリリオが『ネガティヴ・ホライズン』を書いた80年代当時はまだしも、インターネットが普及した現在、誰でもヴィリリオの言うことが実感できるようになりました。
東京から大阪に新幹線や飛行機に乗って移動するより、ネット回線でパソコン画面上に映像として移動する方が、圧倒的に現場に早く到着するからです。
物質的重量から離れて映像だけを移動させるなら、どんな乗り物よりネット回線の方が圧倒的に速く移動できるのです。
これを「乗り物」の一種と考えるのはそれほどおかしなことでしょうか。
いや、実物が現前するのと、単にその映像が現前するのでは大きな違いがある、と反論する人もいるかもしれません。
もちろん、そこに違いは当然ながら存在します。
しかし、思い出してほしいのは、乗り物の本質が到着点にないということです。
これまでの議論で確認してきたとおり、乗り物にとって本質的なのは、加速へと一体化する瞬間に現れてくる生活からの解放でした。
つまりは速度による彼岸への「救済」です。
その「救済」状態と映像メディアを見ている状態を比較したとき、両者に本質的な違いがないということを問題にしたいのです。
とりわけ、知覚上の影響を取り上げてみると、両者の違いはほとんどないと言えます。
速度の中に身を置く〈速度−内−存在〉は、知覚上において革命的な変化を体験することになります。
「〈運動がもたらす錯覚〉の光学によってあらたなる光学的錯覚がうみだされる」というのがヴィリリオの言い方ですが、
簡単に言えば、乗り物に乗る人は、速度の中にあることによって、錯覚に基づく光学的な別の世界を切り開くことになるということです。
この光学的な別の世界こそが、現世に到来する神の国、つまりは彼岸に対応します。
ヴィリリオが傑出しているのは、速度を生み出すモーター(エンジンを含む)の回転が、映像を生み出す光学装置であることを解き明かしたことです。
この高速回転に依存した光学的効果のことを、ヴィリリオは「走行光学」と名づけています。
移動する乗り物を外部から眺める視点と、乗り物の内部から外部を眺める視点の間には大きな違いがあります。
線路の上を駆け抜ける電車を見かけた時、その電車は明らかに移動していますが、
その電車の窓から外を眺めた時、目の前を移動していくのは外の風景の方です。
世界に確固として存在している建物や山などが、「束の間の現前」として次々に流れ去っては消えていく、
これは〈運動がもたらす錯覚〉でしかありませんが、これをヴィリリオは速度がもたらす光学的効果として捉えます。 つまり、乗り物の運転席に固定された身体にとって、動いているのは自分自身ではなく、ガラスに映る風景の方でしかないのです。
運転席に座って自動車を操縦する行為は、実際にはフロントガラスに到来する視界の見え方を調整するのと大差ありません。
ゲームセンターでカーレースのゲームをする場合を思い出してください。
ゲーム用の運転席はその場に固定されて動くことはありません。
動いているのは運転席の前の画面に映る風景の方です。
「乗り物とはフロントガラスをスクリーンにしたプロジェクター装置」だとヴィリリオが言うのは、そういうことです。
もちろん、加速に伴う身体的負担やリスクは同じというわけにはいきませんが、視覚的な面だけを取り出せば、
乗り物の搭乗者の視野と、スクリーンを見る観客の視野に、質的な違いはそれほどありません。
フロントガラスに映る風景を変えていく操縦行為は、スクリーン上に編集した映像を映し出す行為に重ねることができるのです。
たえず移動する乗客は自動車室内という映写室でまるで白く輝くスクリーンに映写しているみたいに世界を移動させる。自動車のたかい性能のおかげで、暗室(=黒い部屋)は白いカメラと一体になり、窃視者=旅行者が陣どる操縦席は移動の様子を展示する明々と照明された部屋、光景を展示したギャラリーとなる。(ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』)
速度は事物から不動性と物質性を奪い取り、すべてをスクリーン上で明滅する束の間の映像へと変えてしまいます。
つまり、乗り物の中に居続けることは、世界をメディア上の映像イメージへと転換し続けることと同義だということです。
乗り物の操縦席にいる人にとって、窓の外の光景はもはや現実ではなく、展示された現実のイメージでしかなくなっているのです。
こうして自動車の運転席は、映画館の座席へと進化を遂げます。
ダッシュボードはフロントガラスにうつった映画の映像のスナップショットにほかならず、突進する風景は運動学的幻想にすぎない。ストロボスコープとは逆に、走行光学において現前する事物の不動性は消滅し、移動の主体にして観察者たる操縦者に幻想をあたえる。高速で移動する窃視者=移動者は映画館の観客とは正反対の状況にいる。つまり投射されているのはかれ自身である。かれは映写(=発射)のドラマを演じるものであると同時にその観客でもある。そして移動の瞬間のなかで自分自身の終焉を演じるのである。(ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』)
問題なのは、ヴィリリオが指摘するように、乗客という「窃視者=移動者」が自分自身をスクリーン上の映像へと投射することです。
〈速度−内−存在〉としてあるということは、「束の間の現前」でしかない画面上の映像世界(=メディア)へと自分自身を投射(=露出)することなのです。
映画や映像メディアの中に自分自身を映し出すことは、加速する世界の中で自分自身を束の間のイメージへと変換(=転生)することに当たります。
スマートフォンという個人端末を用いて、自分自身やそのアバターを画面上に露出させることに勤しむ人々は、
速度体制に支配された都市の中で、〈速度−内−存在〉として生きる(=死ぬ)ことを余儀なくされているのです。
こう考えると、映像メディアの本質とは、物理的な高速移動なくして、速度による現実の切り捨てを実現することにあると言えます。
物理的に高速移動を必要とせずに、高速移動の光学的効果だけを享受しているのが映像メディアだということです。
つまり、乗り物においてはまだ目的地への移動という要素が貼りついていましたが、
映像メディアでは純粋に速度の中に身を置くことだけに集中することができるようになったのです。
映像メディアに実際的な移動が必要ないのはそういうことです。
ある閾値を超えた高速移動では、乗り手の身体は不動のまま、対象の方から到来するようになるのです。
たとえば、スマートフォンは目的の商品を向こうから到来させる乗り物と考えることができます。
こうして目的地へ向かうことから、目的物を向こうから到来させることが乗り物の役割になりました。
音楽で言えば、新幹線などの高速の乗り物が風景を非現実的に歪めていく感覚がサイケデリックに当たり、
不動の自己が高速に到来するものを眺める感覚が最近のYOASOBIなどの視覚的な疾走感ポップに当たります。
そしてちかい将来にはきっと到着しか、到着点しか存在しなくなるだろう。出発そのものが計画の瞬間性のなかに消えてしまうからである。AVコミュニケーションの場ではすでに事態はそうなっている視聴者はヘッドフォンをつけたりスクリーンの前にすわったままでいるのに、スクリーンに映像がうつりヘッドフォンに音声が到着する。出会いのために出発する必要が完全になくなっているのだ。(ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』)
テレワークの推進により、パソコン画面の前に座ったまま仕事が完了し、出社する必要がなくなった人も増えたようです。
もはや仕事は会社へと移動して行うものではなく、仕事の方からパソコン画面上に到着するものになっていくのかもしれませんが、
このようなステイホームの仕事形態しか持たない職業の代表がデイトレーダーです。
ヴィリリオは経済的な問題にはあまり触れないのですが、金融や証券の取引に関与することは典型的な〈速度−内−存在〉のあり方だと言えます。
刻々と変化する株価や為替のチャートを眺めることは、次々に流れ去る車窓の景色を眺めることと似ていないでしょうか。
夕景色の鏡と映画
乗り物から見た車窓の風景と映画のスクリーンが同質のものであることを感じ取っていたのは、なにもヴィリリオだけではありません。
川端康成は彼よりも早くそのことに気づいていたように思います。
川端研究者は気づいていないようですが、川端の代表作である『雪国』の真のテーマはおそらく映画技術です。
『雪国』は最初から現在のような長編として構想されたものではありませんでした。
短編のかたちで書いたものが積み重なって、長編としてまとめられた作品です。
(実はこれが川端の典型的な創作スタイルです)
『雪国』の冒頭部分は、先に発表された「夕景色の鏡」(1935年)と「白い朝の鏡」(1935年)という短編をもとにしています。
この2つの「鏡」を川端は詩的な風景として描いているのですが、
ノーベル賞で日本的美の世界と受け取られた川端の美意識は、実際は映画というメディア・テクノロジーに負うところが大きかったのです。
少し横道にそれますが、乗り物=メディアによる知覚の変化を、詩的なものの喚起と受け取る勘違いは、
現代のサブカル文学の世界などで、今でも飽きずに繰り返されていることなので、ここで少し触れておきたいと思います。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という『雪国』の冒頭の一文は有名ですが、
この小説は主人公の島村が汽車で移動する場面から始まります。
「夕景色の鏡」の「鏡」とは、汽車のガラス窓のことです。
島村が水蒸気で濡れたガラス窓を指で拭くと、そこに向い側の席にいた若い娘(葉子)の片眼が映し出されたので、それを鏡と呼んでいるのです。
葉子は連れの男をかいがいしく世話をしていて、その姿に島村は「母」(川端にとって母は処女でなくてはならない)を感じ取ります。
汽車の窓からは外の夕景色が見えています。
窓ガラスというスクリーン上で、夕景色と葉子の片眼がオーバーラップするのが「夕景色の鏡」です。
鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。(川端康成『雪国』)
川端にとって「鏡」というスクリーンは、遠景(夕景色)と近景(葉子)の距離の隔たりを無にして、平面的に重ね合わせるものとしてあります。
実際、この「夕景色の鏡」は、『雪国』のラストシーンでも反復されることになりますが、ここでは詳しく触れません。
それより、汽車という乗り物の速度が生み出したスクリーンが、遠景(=彼岸)と近景(=此岸)の二重化を実現するものとして描かれていることに注意すべきでしょう。
とりわけ遠景と近景が「なんのかかわりもない」とされていることには注意が必要です。
本来なら関わりのない二つのものが、速度が生み出すスクリーン上で重ねられ結びつけられる、
このような欲望は村上春樹の小説にも見られるものです。
(村上は夢とか井戸とか無意識領域のメタファーによって、それがメディア・コミュニケーションであることを巧みに隠蔽するのですが)
今やSNSの画面上で、無関係な人と結びつけられてしまうことは特に珍しいことではありません。
日本近代文学は、このような直接対面を避けたメディア・コミュニケーションに依存して発展してきました。
余談ですが、この前日本近代文学の末裔である平野啓一郎の『マチネの終わりに』(2016年)という小説を読んで、あまりのくだらなさに悲しくなりました。
語り手が運命の恋愛のようにやたら強調して描く「大人」の男女の恋愛が、恋敵の「なりすまし」メールによって引き裂かれる話だったのですが、
明らかに違和感のあるメールを受け取った女が、相手に直接会って確かめるどころか、電話もしないで別れていく展開に、大人の恋愛を感じろというのは無理があります。
こういう小説が通用してしまうのは、日本近代文学が直接対面を避ける「伝統」に依存しているからです。
「なぜ直接話さないのか」という疑問は、日本近代文学の根底的無意識に触れる不発弾のようなものです。
人々が個人端末を使うのが当たり前になり、メディア・コミュニケーションの方が対面コミュニケーションより一般的になった今、
対面コミュニケーションから逃避して、メディアのユートピアを描く従来の日本近代文学の役割はなくなりました。
もちろん、日本近代文学の延長に存在する〈俗流フランス現代思想〉も同様で、すべては個人メディアの発達によって用済みになってしまいました。
『雪国』の「夕景色の鏡」に戻ります。
「こんなふうに見られていることを、葉子は気づくはずがなかった」と書かれているように、
島村は「鏡=スクリーン」を通じて相手を覗き見する「窃視者」となっています。
相手から見られることなく、自分が一方的に覗き見るだけの状態とは、不均衡でアンフェアな関係だと言えます。
高速移動する乗り物の窓から道行く人を眺めた時には、その人から自分の眼を見つめ返される可能性は低いでしょう。
これが不可視な現存艦隊が、一方的に敵に攻撃を加えるような軍事的優位な状態と重なることは言うまでもありません。
乗り物=メディアは、見るものと見られるものの不均衡を生み出し、そこに支配の図式を持ち込むのです。
スクリーンではそれ以上に、見られるものに対する「見る主体」の圧倒的な優位が確立されています。
つまり、〈速度−内−存在〉にとっての優位性は、自分が見られることなく相手を一方的に見る、という「窃視」のメカニズムに依存しています。
この「窃視」のメカニズムが映画と軍事兵器を結びつけていることを、ヴィリリオは『戦争と映画』(1984年)で明らかにするのですが、
それは次回の【その4】で丁寧に見ていきたいと思っています。
速度による重量の死
触れておかなくてはならないのは、ヴィリリオが、媒介とは乗り物ではなく速度だ、と書いていることです。
実はヴィリリオをメディア論として受け取るのは、ヴィリリオの本質を理解していない呑気な態度でしかありません。
ヴィリリオはマクルーハンのメディア論を「多幸症的幻想」と揶揄しているのですが、
それは速度に媒介されるものが死(彼岸)でしかないからです。
実際、もはやひとつの媒介しか存在しない。それは運搬手段、自動車ではなく、速度である。AVメディアと自動車(すなわち走行光学装置)のあいだにもはやちがいは存在しない。両者はともに速度の機械であり、速度を生産することによって媒介する。両者は一体となる。というのも、目の機能と武器の機能は、輸送革命とのときに合体し、つながったからである。(ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』)
ここでハッキリと示されているのは、乗り物と映像メディアがともに速度を生産する機械だということです。
続く「媒介とは、当事者同士のコンタクトをどれだけすばやく実現するかという問題なのである」という文に示されているように、
速度というメディアにとっては、どれだけすばやくコンタクトを取るかだけが問題なのです。
ここにはヴィリリオの問題意識のほぼすべてが現れていると言えるので、強調しておきたいと思います。
速度というメディアが求めるのは、当事者同士の「超速コンタクト」だということです。
恋人同士が互いにコンタクトを取るときに、速さを追求するのは当然です。
一昔前のJ-POPなら、「今すぐ会いたい」と歌えば良かったのですが、もはや相手のところまで移動する時間すら遅すぎるのです。
それよりパソコンやスマートフォンを通じて、画面上に相手を映し出した方が圧倒的に早く相手とコンタクトを取れます。
このとき、両者を媒介しているものは、ネット回線に接続するデバイスではありません。
速度こそが恋する二人を媒介しているのです。
このようなメディアにおける加速の追求が、乗り物から映像メディアへの移行をもたらしました。
乗り物が動物から電車、飛行機へと進歩するのと、乗り物が映像メディアへと置き換えられるのでは、決定的に意味合いが違います。
移動に速さを求めて、乗り物から映像メディアへと移動手段を変えていくと、
速さにとって障害になるものが捨てられていくことになります。
捨てられるものは、身体という「現実の重量」です。
「重さ」はすばやく移動する上で、非常に邪魔になります。
速度という媒介が最も嫌うものが「現実の重量」だと言ってもいいでしょう。
「超速コンタクト」を実現するために、乗り物より映像メディアが利用されるようになると、現実世界との媒介である身体が捨てられて、すべてが薄っぺらいスクリーン上の表象となるのです。
身体を伴う出発がなく、ただ到着するものをスクリーンの前で待つ状態を、「みることがいきることのかわりとなる」とヴィリリオは表現しています。
そこで現代人は身体に依拠した「現実の重量」を捨て去り、重さのない軽快なスクリーン上の疾走世界へと「異世界転生」します。
それこそがユダヤ・キリスト教文化における救済の技術的達成です。
速度に救済された人々は、もはや生きることも死ぬこともなく、ただ到着するものを見るだけの「窃視者」となるのです。
すべてが平面上の表象や記号となる世界とは、速度によって死を先取りした世界です。
ヴィリリオがメディアを執拗に軍事兵器と結びつけるのは、それが重量を持つ現実の死をもたらすものだからです。
ものすごく簡単に言ってしまえば、死の苦痛を克服するためには、苦痛なき死への移動を実現すればいい、ということです。
川端康成が生も死も存在しない「魔界」へと移動するために、ガス管を咥えて、自分の精神を現実の重みから脱出させたように。
しかし、私たちはもはやガスとなって身体から離脱する必要もないくらい、より加速した社会によって無意識に彼岸へと連れ去られているのです。
ちなみに、三島由紀夫が肉体的苦痛を十全に味わう自殺を選んだのは、
身体的に去勢された川端的「窃視者」に抵抗し、行為主体として人生を終えることを意図したからだ、と解釈することもできます。
しかし、川端と三島には性的恍惚の趣向に違い(視覚的であるかマゾヒスティックであるか)はありましたが、
精神的な「転生」をめざす自殺という点では、本質的な違いはなかった、と僕は思っています。
さらに余談なのですが、同時的な音声より「記号」の価値を称揚したデリダの思想が、
誤読されて日本でアニメオタクのサブカル思想家に利用されたのは偶然ではありません。
デリダの意図を本当に理解していれば、彼の主題が加速の対極にある「遅れ」にあることが分かるはずです。
しかし、ネットやアニメの世界はまさに速度に依存した同時性への没入でしかありません。
どうしてそのような誤読がなされたのかというと、「記号」が現実の重量を削ぎ落とすものだからです。
デリダは記号の文学的な「遅れ」を重視していたのですが、オタク商売人はそれをメディアによる現実逃避へと趣味的に読み換えたのです。
誤読されたデリダの思想自体にも原因があったと僕は思っています。
人間の「意図」が痕跡となるには、死を待たなくてはならない、と考えていたことが問題です。
「話す=聞く」という同時性を、音声の自己触発として批判したデリダは、
終末を現世に到来させる原因を、音声的なロゴス中心主義に見ていましたが、
想定したメディア技術が古すぎたと言えるでしょう。
今や意図の発信と受信を「同時的に」引き起こす伝達メディアは、音声に限りません。
意図すると同時に痕跡化するメディア端末があれば、痕跡=記号であっても純粋な自己触発を引き起こすことは可能なのです。
ヴィリリオは、私たちが速度の習慣の中に住んでいて、速度が生み出す「外観だけの世界」を現実と同一視するようになっている、と述べています。
「速度がうみだす本当らしさがわれわれを現実から疎外する」のです。
現実を追放した後の現代人に残るのは「自我」だけです。
「自我中心主義」とヴィリリオは呼んでいますが、自我の前に到来するだけとなった世界では、もはや「主体」など必要としないのです。
単なる外観と化した世界は、ただ眺められるものでしかなく、主体的に関わるものではもはやありません。
もちろん、それは新たな感性が生み出した詩的・芸術的領域などではなく、現実疎外という人生の搾取の完成型でしかないのです。
モーターという第二の太陽の出現とともに、人間中心主義の最新形態、あたらしく独創的な形態が出現した。モーターは速度と映像の源であり、「窃視者=旅行者」はたえずそれを基準にして位置調節をし、不動点と一致した位置をしめる。(ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』)
乗り物で移動する人が、自らの位置を不動点だと錯覚すると、世界はスクリーン上の映像と化すことになります。
このような知覚の錯乱をヴィリリオは天動説になぞらえています。
つまり、地球という移動する乗り物に乗っている私たちが、自身を不動点だと錯覚して太陽の方が動いていると思ってしまうのと同じメカニズムだということです。
キリスト教が地動説を弾圧してきたことを想起すれば、天動説の復活が何を意味するかは理解しやすいと思います。
映像メディアの住人が、信仰なきキリスト教的世界へと「転生」することになるのは、
電気という第二の太陽が動かすモーター(映写機)の速度こそが、宇宙の不動点だと信じてしまう錯覚からきているのです。
そろそろ紙幅が尽きてしまいました。
ヴィリリオの思想の理論的核心には到達しましたが、次回は彼の映画論について本格的に書いていきたいと思います。
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