- 2021/12/03
- Category : 南井三鷹の【評論】
なぜ日本でポストモダンは「保守」になったのか【前編】
そもそもポストモダンは左翼思想
80年代以降のジャーナリズムで隆盛した「ポストモダン」という時代区分は、〈フランス現代思想〉の日本的受容と深い関わりを持っています。
日本で「ポストモダン思想」といえば〈フランス現代思想〉のことになりますが、
その受容のされ方は本場と異なった独特の意味合いを持っていました。
しかし、ジャーナリズム上の論考では、西洋の「ポストモダン思想」が日本にそのまま適用できる前提で語られています。
中身が本場と全然違っていることは、議論の対象になっていません。
その結果、日本的でしかない思想をいまだに西洋思想として扱っています。
フランスの68年革命と強い関わりを持つドゥルーズやガタリ、デリダ、フーコーに代表される政治的なフランス現代思想と、
バブル経済期に出版ジャーナリズム市場で花咲いた消費的な「現代思想ブーム」には、大きな違いがあります。
出版市場によって生み出された後者の現象を、僕は〈俗流フランス現代思想〉と名づけて本場の思想と区別してきました。
「ポストモダン」とか「ポストモダン思想」とかいう言い方もありますが、基本的に日本ではこれはすべて〈俗流フランス現代思想〉による現代思想ブームのことを指しています。
海外の「ポストモダニズム」と比べても相違点があります。
あくまで日本の「ポストモダン思想」は、バブル期の多幸症的な好景気を背景として、出版ジャーナリズムが売り込んだ思想ブームとしてありました。
しかし、当初は「ポストモダン」という言葉は、今ほど現代思想の代名詞として用いられていませんでした。
実際、ドゥルーズ=ガタリの思想を紹介して大売れした浅田彰の『構造と力』(1983年)に象徴される現代思想ブームは、
「ポストモダン思想」ではなく「ニューアカデミズム」と呼ばれていました。
「ニューアカ」はその名のとおり、アカデミズム領域の新たな動きとして注目されました。
ここで気をつけておきたいのは、「ニューアカ」現象自体がアカデミズムという権威からの逸脱を伴っていたという事実です。
「ニューアカ」のスターである浅田彰と中沢新一は、その当時京大と東大の助手でした。
アカデミズムという権威の世界で、教授でも助教授でもない人がジャーナリズムに持ち上げられてスターとなったのです。
これは、アカデミズムの権威構造にジャーナリズムの大衆性が介入した事態だと言えるでしょう。
浅田と中沢はその後、京大と東大の教授にはなれていません。
権威の序列を擾乱した人が組織から干されるのは必然ですが、当時のアカデミズムはまだジャーナリズムと対立していた部分があったのです。
重要なのは、現代思想ブームが出版ジャーナリズムという市場的権威の力で、アカデミズムの権威を擾乱する「擬似革命」としてあったということです。
「ニューアカ」後も〈フランス現代思想〉は、「現代思想」と呼ばれることが普通で、「ポストモダン」という言葉はそこまで一般的ではありませんでした。
90年代には、「ニューアカ」の浅田彰は、マルクス思想を軸とする批評家の柄谷行人と「批評空間」(1991〜2002年)という雑誌を刊行していました。
柄谷はマルクス主義から離れたマルクス読解を進めた人ですが、マルクスに依拠して思想を展開した点で、本場フランスの構造主義・ポスト構造主義と親しい面を持っていました。
その意味で柄谷と浅田が牽引した頃の「現代思想」には、マルクス経由の左翼色がまだ保たれていたと言えます。
日本で〈フランス現代思想〉として有名なドゥルーズ=ガタリやデリダは「68年の思想」と呼ばれている思想家です。
フランスの68年パリ五月革命と強く結びついているので、左翼思想に分類されます。
マルクス主義の科学的思考から影響を受けた構造主義やポスト構造主義が、
日本ではジャーナリズムの商売事情で別のものになったことは、今村仁司『現代思想の基礎理論』(1992年)にも書かれています。
僕はその書評で日本の〈フランス現代思想〉の歪んだ日本的受容をこうまとめました。
① マルクス主義の影響を無視
② 科学的方法論であることの無視
80〜90年代の現代思想ブームを牽引した柄谷行人と蓮實重彦が、出版ジャーナリズムの文学批評のジャンルで活躍した人だったので、
〈フランス現代思想〉は文芸誌を出している出版社と結びついて、「文学」のジャンルで広がりました。
主な読者が文学人であったため、科学的な面は置き去りにされました。
こうして、日本の文学シーンでは〈フランス現代思想〉が、必要不可欠な文学理論であるかのような幻想ができあがっていったのです。
ポスト構造主義が「ポストモダン」という言葉で広く一般の人にまで通じるようになったのは、
柄谷や浅田の「批評空間」から登場した東浩紀の『動物化するポストモダン』(2001年)が話題になった頃だと思います。
ちょっと調べてみると、それ以前に「ポストモダン」という言葉を書名に使った本は海外の著者を除くとわずかですし、専門書に限られます。
たとえば1999年に青土社から翻訳出版されたジョン・レヒテの『現代思想の50人』は副題が「構造主義からポストモダンまで」となっています。
当時の「ポストモダン」という言葉が、現代思想の一部だけを表していたことがわかります。
ポスト構造主義や「ニューアカ」を語る場面で「ポストモダン」という言葉が出てきても、ポスト構造主義や「ニューアカ」という言葉の方が主役でした。
興味深いのは、『動物化するポストモダン』の発売とほぼ同時期に、雑誌「現代思想」が「ポストモダンとは何だったのか」という特集を組んでいることです。
この特集が「ポストモダン」をすでに終わったものとして扱っているのは明らかなので、
「ポストモダン」という言葉はその潮流が総括される時期になって表面化したと考えられます。
それから20年経った今年6月に、「現代思想」は奇妙にも「いまなぜポストモダンか」という特集をしています。
同じ雑誌にもかかわらず、なぜいったん過去のものにした「ポストモダン」を、現在進行形で語る事態になっているのでしょうか。
僕は東浩紀のサブカル論の影響だと思っています。
思想の専門領域で過去のものとなった思想を「ポストモダン」と呼んだその時に、東がサブカル領域で「ポストモダン」を最新モードを表す語として使ったのです。
こうして主にサブカル領域において、「ポストモダン」は現代思想と同じ意味を持つようになり、現代思想に第二のステージを用意することになりました。
「ポストモダン」という語は、現代思想領域ではすでに「終わったもの」を表す語でありながら、サブカル領域では最新モードを表す語になったのです。
(「ポストモダン」という語が時に蔑称で用いられるのは、その二面性のためでしょう)
日本で「ポストモダン」という語が一般化したのが、ポスト構造主義が同時代のサブカル文化領域全体へと逸脱するタイミングであったことは、注意しておくべきことだと思います。
現代思想は「ポストモダン」と呼び名を変えて、学問的な思想領域から逸脱して別の領域で生き残りを図ったのです。
これ以降、現代思想は主にサブカル志向の「プチインテリ」のバイブルになりました。
〈フランス現代思想〉の文化現象化(サブカル化)が、ポピュリズムによる劇場型政治で人気を誇った小泉純一郎が首相になった時に起こったのは、おそらく偶然ではないでしょう。
佐々木敦『ニッポンの思想』(2009年)では、「ポストモダン」という語が、リオタールの『ポスト・モダンの条件』(邦訳1986年)の翻訳によって広まったかのように書かれています。
しかし、「ポスト・モダン」という一般化しなかった表記でもわかるとおり、それは事実ではありません。
日本でポスト構造主義の思想家として、リオタールの名前だけは聞いていても、どういう思想家であるかに興味がある人はほとんどいませんでした。
リオタールの影響力はほとんどなかったので、彼の用語が急速に日本で一般化したなどということは考えられません。
(柄谷行人の『批評とポスト・モダン』(1985年)も用語の定着には役立ちませんでした)
参考までに言っておきますが、前述の今村仁司の『現代思想の基礎理論』は、リオタールの『ポスト・モダンの条件』にちょっとだけ触れていますが、
現代思想、構造主義、ポスト構造主義、という名称を用いるだけで、「ポストモダン」という語を使っている箇所を見つけられませんでした。
仲正昌樹『集中講義! 日本の現代思想』(2013年)の副題は、「ポストモダンとは何だったのか」となっていて、
2010年代には「現代思想」と「ポストモダン」は同じものとして受け止められていました。
ちなみに仲正はこの本で日本の現代思想をメタに立って総括した気になっているようですが、
彼自身が出版社と結びついて低レベルな売文をしている、ポストモダン現象の「一部」であることについては、なぜか考察の対象にはならないようです。
仲正昌樹が「2ちゃんねる」の書き込みを、確認もせずに事実として垂れ流す三流学者であることは、僕が過去の記事で書いたとおりです。
仲正は「左旋回」とか言って左翼嫌悪に凝り固まっているため、
ポストモダン批判をしている僕が吉本隆明を専門にしている(つまり古い左翼だという理解)などという嘘の書き込みを信じた上に、
吉本の思想も理解できていないなどと居丈高に悪口を書いていました。
完璧に無根拠な誹謗中傷なので抗議をしたら、彼の勤務先の金沢大学ともども逃げ続けるだけでした。
大学教授の肩書きを持つ人が、批判する相手の文章も読まずに平気で嘘を書く、それがポストモダン商売人によるアカデミズム崩壊現象です。
日本では現代思想と言えば〈フランス現代思想〉一色でした。
本場の〈フランス現代思想〉は68年革命やマルクス主義の影響下にあった思想なので、決定的に左翼思想だったわけです。
それが2000年代の後半くらいになると、仲正昌樹のようなポストモダンをネタに左翼批判をする人が出版ジャーナリズム領域でも徐々に台頭するようになってきます。
「現代思想」2008年12月号の小泉義之の発言も、このような反左翼的な傾向を示していて興味深いものがあります。
小泉は檜垣立哉との討議「来るべきドゥルーズ」で、次のような発言をしています。
小泉 ドゥルーズのエコ・エティカ、ガタリのエコロジーの読まれ方にしたって、悲しくなるくらい人道主義的で道徳主義的ですからね。(「現代思想」2008年12月号)
小泉が人道主義や道徳主義を左翼的発想として嫌悪していることは、別の箇所で「左翼的」「批判的」な研究者を仮想敵にした発言をしていることでわかります。
どうやら小泉は教条左翼的な研究者が、ドゥルーズ=ガタリの尖った思想を、微温的で官僚的なものにしてしまうことに不満のようでした。
しかし、文科省という官僚機構の下に組み込まれている日本の大学の研究者が、官僚的な思考に侵されるのは構造上の問題と言えるのではないでしょうか。
小泉の不満は理解できないこともないのですが、日本アカデミズムの総本山にいたわりに、
研究者の官僚的体質を研究者個人の「左翼的」資質の問題としているのには違和感しか感じませんでした。
また、こういう発言もあります。
ドゥルーズ=ガタリが参照している文献を見ればすぐに気づきますが、実は「ええ?」という感じのものが多い。左翼文献ではないものがほとんどなのです。(同上)
このような発言などは、ドゥルーズ=ガタリが左翼的思想家だと受け取られることへの反発としか思えません。
たしかに僕の記憶の中でも、当初ドゥルーズ思想はニーチェとの関係が強調されていたのですが、ある時期からニーチェが消えてスピノザばかりが語られるようになったように思います。
スピノザはアルチュセールによってマルクスに結びつきますので、小泉はそのあたりが不満だったのかもしれません。
ちなみに立命館大学の先端研で、この小泉教授の下で准教授をしていたのが千葉雅也です。
小泉はこの対談で、ドゥルーズを読解するには物理学と生物学の知識が必要だとか、後期ドゥルーズは代数学だとか言っているのですが、
千葉にはそういう理系的資質が欠けているので、ドゥルーズ研究から離れて文芸誌に居座っているのがなぜなのかも想像できます。
千葉はメイヤスーをさんざん宣伝しておきながら、メイヤスーの数学的思考を美学的に置き換えようとしていたりします。
千葉の胡散臭いアート志向や文学志向には、理系コンプレックスが関係していると考えるべきでしょう。
文系ばかりの出版マスコミの編集者は、いまだ千葉を権威的存在として宣伝要員に使ったりしていますが、
彼はドゥルーズ研究者としてはとっくに落ちこぼれなのではないでしょうか。
千葉というのは一貫性がない人間で、修士までは東大で中島隆博という中国思想系の研究者を指導教授にしていました。
博士課程ではドゥルーズ論ということでフランス思想の小林康夫にバトンタッチしたわけですが、
おそらく思想についても人生を賭けるほどに興味があるわけではないのでしょう。
小泉の下に来てから道徳批判の発言をたびたびしているのですが、中国哲学を学んだのならば道徳思想が基本ですから、カメレオンのような人だということがわかります。
國分功一郎との対談で、小説はバカのトラブルを書くから嫌い、と発言していたのに、
小説の仕事が舞い込むと、あえてバカなことを書くのが小説だとか言い訳する人です。
(その対談はネットに再掲載されているのですが、小説を侮辱した千葉の発言部分だけ消去されていました)
こういう人の書くものが信用に足るとは思えないのですが、なぜ日本のマスコミは「いい加減」な研究者を好んで使うのでしょうか。
外国人の目には、日本人が相手によって態度を変えるカメレオンに見えるようなので、千葉の姿は日本人のカリカチュアみたいなものかもしれませんが、
そんな人物が出世するのは、ポストモダン現象が、思想的内実を持たない「自己愛的現象」へと突入していったことと関係があります。
メディアに依存するポストモダン
千葉雅也のデビュー作『動きすぎてはいけない』(2013年)は、浅田彰と東浩紀の「絶賛」の帯文で大々的に売り出されました。
千葉は出版ジャーナリズムが意図的に作った、浅田、東というポストモダン思想スターの後継者です。
後継者と言っても、浅田や東の作った路線を引き継ぐだけの傀儡なので、考察に値するのは浅田や東だけです。
ここからは東浩紀とその時代を振り返っていきます。
東浩紀が活躍した2000年代は、文化領域が「ポストモダン」となった時代です。
東は出発点こそ現代思想の批評家ですが、インターネット新世代の代表として活躍するようになります。
その結果、東は若い世代とともに「朝まで生テレビ」にも出演したのですが、これは柄谷や浅田の立ち位置とはだいぶ異なります。
日本の「ポストモダン」は、インターネットの台頭というメディアのパラダイムシフトと関係していたのです。
そもそも「ニューアカ」などの現代思想は、ジャーナリズムの市場権威に支えられていました。
つまりはメディアの力をあてにした現象であったのです。
現代思想は思想の内容以上に、出版業界やジャーナリズムなどのメディアとの関係の方を本質としています。
僕が〈俗流フランス現代思想〉をすべてメディア論で片付けられると思っているのは、そのためです。
日本の現代思想の読者は、哲学や思想についてほとんど理解する力を持っていません。
千葉の書くものに西洋思想の基礎教養が感じられたこともありません。
(浅田の帯文を見ると、千葉にはドゥルーズの正しい解説ができないと遠回しに言っていますね)
それでも全然問題がないのです。
なぜなら現代思想ブームや「ポストモダン」現象には、哲学的な内実など全く存在しないからです。
ただ、市場を背景としたジャーナリズムの権威によって、大衆メディアが専門知を駆逐する現象でしかなかったのです。
「ポストモダン」とは思想的内実のない、単なる市場支配の全般化とメディアの権威拡大現象でしかありません。
柄谷や浅田の時代は、メディアの力を頼りながらも、まだ現代思想が哲学や思想であろうとしていました。
しかし、東浩紀の時代になって、日本の「ポストモダン」の実態は、現代思想から新メディアの台頭を示すものへと変わりました。
メディア・テクノロジーやそれによる消費市場の拡大という現象を、現代思想の実現であるかのように意味づけるだけになったのです。
そのため、「ポストモダン思想」は、経済市場の現在形のモードを「思想色」によって意味づける手段になりました。
そんな時代にサブカル批評ばかりが溢れるようになるのは必然ではないでしょうか。
東が今でも「思想家」として扱われ続けているのは、柄谷・浅田たちの「批評空間」に連載された『存在論的、郵便的』(1998年)というデリダ論を出版したことにあります。
この時はまだ現代思想の新進気鋭の批評家という位置付けでした。
『存在論的、郵便的』はデリダ論ということになっていますが、僕の読むところ、この本で展開される思想はデリダの問題意識とはだいぶ異なっています。
ハイデガーやフロイトを援用していますが、「郵便」のメタファーでも分かるとおり、ハッキリ言ってメディア論です。
デリダの記号(痕跡)はエクリチュールを意図していますが、東にとって「存在」とは記号を流通させるメディアであり、商品の消費者でしかありません。
東の思想は出発点から市場とメディアに依存しています。
その後、東は現代思想の分野から降りて、消費市場へと活動の場を移していきます。
そもそも彼の適性はメディア批評家でしかないので、それも必然なのです。
次世代のメディアであるインターネット世代を代表すると目されるようになった東は、その時期に成長したオタク向け消費市場の代弁者となっていきました。
それを決定的にしたのが、『動物化するポストモダン』のヒットです。
『動物化するポストモダン』という本の狙いは、言ってしまえば同時代的な日本のマンガ・アニメ・ゲーム系のオタクの消費行動に「思想色」をつけることにありました。
マンガやアニメのキャラを記号の集積として要素ごとに分解し、それを記号データベース上の「萌え要素」として消費するのがオタクであり、「動物化」だというのが東の主張です。
つまるところ、マーケット上の商品を自分の好みによって自由に購入する消費的構造を、
二次創作的なオタク文化を題材として、「大きな物語」にとらわれない「ポストモダン」とか、コジェーヴ由来の「動物化」とか言うことで、思想的な最新モードであるかのように意味づけたのです。
なぜ一般的な消費市場のあり方を、秋葉原を聖地とするオタクという部分的な現象で語ることができたのでしょうか。
それは、アニメオタクをターゲットとした当時の消費市場が、注目すべき成長マーケットだったからです。
東のサブカル転向が、深く消費市場と結びついた動きであったことは無視できません。
難しい話をすると、東の試みは、秋葉原という「部分」にグローバル資本主義という「全体」を代表させるものであって、
これは日本の「天皇制」という「大きな物語」のフラクタル的な構造をなぞったやり方です。
秋葉原はオタクにとっての皇居であり、「表徴の帝国」(バルト)の空虚な中心であったわけです。
2008年に首相になった麻生太郎やその後の安倍晋三が、秋葉原を選挙演説の聖地にするようになったことについて、東はどう言い訳をするのでしょうか。
僕は東浩紀と同じ団塊ジュニア世代ですが、同世代に対してはずっと違和感を抱いて生きてきました。
その違和感の正体を簡単に言うと、彼らが消費市場やそれに従属したメディア業界の「外部」を持っていないということです。
これは決定的な問題点です。
東の思想にはネットワークの「外部」というものが存在していません。
『存在論的、郵便的』で彼は「複数の超越性」とか言っていましたが、彼の考える「超越性」はメディア・ネットワークによって到来するものでしかありません。
だから「郵便的」なのです。
東が「誤配」という概念を重視していたことは有名です。
「誤配」は、情報が宛先に正確に届くことなく、誤った宛先へと偶然に配送されることで起こります。
これを「偶然性による同一性の擾乱」と解釈すれば、たしかに典型的なポストモダン思想の文脈に回収することができます。
しかし、この考えには、明らかに乱されることのない「強固な同一性」が別個に存在していることに気づかなくてはいけません。
それは情報を届けるための郵便的ネットワーク、つまり情報伝達のメディア・ネットワークの存在です。
『存在論的、郵便的』では、デリダが郵便や電話などの複数メディアを使い分ける行為遂行的なやり方から、超越性の複数化を導き出しているのですが、
超越性とメディア・システムが無批判につなげられていることも、彼の思想の本質的な欠陥だといえます。
つまり、「誤配」とはシステムの中に含まれた偶然的なバグでしかなく、インフラとして成立したシステム自体は強固な同一性を保ち続けるものでしかありません。
東浩紀と「批評空間」の関係は、彼が当時法政大学で教鞭をとっていた柄谷行人に、ソルジェニーツィン論を手渡したことに始まるようです。
つまり、東浩紀を世に出したのは、柄谷行人だということです。
柄谷は東について語ることを避けていると思いますが、僕は柄谷に見る目がなかった、もしくは年寄りに媚びるのがうまいおぼっちゃんに騙された、と思っています。
「批評空間」を駆動した柄谷行人と浅田彰が、左翼的な思想に位置付けられることは誰もが認めることです。
彼らにとって、マルクスは特別な思想家だったと言えると思います。
デリダもマルクスに強い関心を持っていたことは疑いようもないことですが、
東浩紀は初期の頃から今まで一貫してマルクスへの理解は乏しく、口先では資本主義と戦っているかのようなことを言っていますが、彼の思想内容を検証すれば、マルクスに関して圧倒的に不勉強で無理解だと言えます。
わかりやすいところを取り上げれば、
マルクスは『資本論』で、資本によって成立した市場メカニズムの分析を行なっています。
つまり、マルクスの標的は、資本主義社会の基盤となっているネットワーク・システムにありました。
このような試みが、最終的にインフラとなっているシステム自体の転換、修正、更新になることは当然すぎることです。
そのシステムで成立する社会ごと転換する試みが「革命」であり、この夢に取り憑かれた人たちが左翼思想家だと言ってもいいかもしれません。
柄谷が「外部」との交通にこだわったのも、保守的で閉鎖的なシステムを変革することが目的でした。
しかし、柄谷と浅田の後継者として登場した東は、現行のメディア・ネットワークというシステムを安定的なインフラとして揺るぎないものと考えています。
現行の社会インフラが安定的に機能することを優先している人は、「保守」思想の持ち主でしかありません。
2015年から東浩紀の「ゲンロン」で批評再生塾というものをやっていた佐々木敦は、『ニッポンの思想』で東の姿勢についてこう分析しています。
「情報自由論」以後の東浩紀の「思想」は、「アーキテクチャ」の偏在による「監視社会」化は、われわれが「安全」と「幸福」を望むのならば、現実的(功利主義的)にやむを得ない、という方向に向かっていると思えます。(佐々木敦『ニッポンの思想』)
「アーキテクチャ」とはコンピュータなどの構造設計のことですが、ここで言われているのは消費の多様性を支えるシステムのことなので、大雑把に言えば市場ネットワークのことです。
佐々木は「ソフトな管理=アーキテクチャ」とまとめているので、言葉を選んではいますが、東がシステムによる管理を肯定していると指摘しています。
この「ソフト」というのは、「インフラそのものの保全に関わるところだけ管理します」という意味でしょうが、
最低限の管理という留保をつけようが、それが体制に対する「弱腰」の姿勢であることは間違いありません。
千葉雅也はいつぞやTwitterで、自分は「ソフトな権威主義」を推進している、と言っていましたが、この態度は東の発想を北関東テイストに展開した、より保守的なものだと言えるでしょう。
思想的教養のないポップ批評家の佐々木敦にはわからないでしょうが、東は「情報自由論」以前の『存在論的、郵便的』から一貫して社会インフラ(とりわけメディア)の保守を前提としてきた思想家です。
笑えるのは、保守勢力から左翼として攻撃される朝日新聞が、村上春樹をはじめ、東浩紀や千葉雅也のような保守的な人たちを嬉々として起用してきたことです。
権威依存型の学歴エリートばかりを雇うから、メディアに依存する「人気者」に自分たちとの同質性を感じて評価してしまうのです。
商業的な「業界」外部の視野を持たず、営利企業の広告に依存する人たちが左翼であるはずがありません。
僕は21世紀の朝日新聞を左翼だと思っている人は全員バカだと思っています。
左翼はもう死にました。
満足してしまった日本人は、もれなく保守となって、システム自体をひっくり返すような社会変革を考えることさえしなくなりました。
残った変革らしきものは、システムの下部領域でジェンダー・イコーリティをめざすことや各種マイノリティ(LGBTQ、オタク、陰キャ、若者など)の地位を上げることくらいです。
東のような保守的な人が考える変革があるとすれば、それは「次世代的」メディア・ネットワークによる「進化」しかありません。
だから、彼はインターネットというニューメディアの使徒として、オジサン社会に受け入れられたのです。
日本に存在するのは、所詮は世代論だけです。
東浩紀の社会的評価は思想家でも批評家でもなく、インターネットというニューメディア世代の代表的「論客」でした。
だからTwitterの登場で名を売った津田大介と一緒になっていたのです。
もう一度言いますが、東浩紀の本質はメディア依存にあります。
メディア・ネットワークの技術的システムを前提とした上でしか、東の思想は成立しません。
〈プラットフォーム保守主義〉の台頭
インターネットはネットワーク・システムでしかありませんので、使い方でいくらでも効果は変わります。
問題は、それが一般化したときに、どのような使われ方をしたかです。
東が『動物化するポストモダン』で、ポストモダン世代を「データベース消費」によって欲望を自己完結する「動物化」として描き出したように、
インターネットの効用の一つは、オタク的消費者の欲望を想定内で満足させることにありました。
ネットの利用者は、ネットワークとの接続状態がもたらす「共同性」の中で、自由に欲望することが許されています。
そのため、「自由」な欲望を求める人たちは、ネットワーク共同体から外れることを極度に恐れるようになりました。
彼らがネットワーク共同体が提案する欲望に従順なのは、このような「不自由な自由」で躾けられているからです。
ネットワーク共同体は流動的なので、所属による安心感を得るために絶えず接続確認をする必要があるのですが、
接続証明の手段として、自分がネットワーク上の人々と同じ欲望を持っていることを示さなければならなくなります。
こうして人々はマーケティングと広告メディアの家畜となり、接続確認のためにネットワーク共同体に流れる餌に飛びつくだけの存在となりました。
その動物農場が欠陥システムであることに関心もなく、動物農場からの解放を夢見ることもなくなりました。
これが左翼の保守化の顛末です。
佐々木敦は『ニッポンの思想』の中で、東浩紀「ひとり勝ち」のゼロ年代の思想を次のようにまとめています。
「ゼロ年代の思想」は「現状」に対して「受容的(肯定的)」です。「ゼロ年代の思想」は、「世界」を「変革(更改)」しようとするのでも、「世界」を「記述(説明)」しようとするのでもなく、この「世界」を「甘受」する、こう言ってよければ「受け入れる」だけです。それは「世界」も「社会」も変えもしなければ分かろうともせず、ただ「こうだからこうなのだ」とトートロジカル(同語反復的)に頷くことから始めます。(同上)
佐々木の言うことを鵜呑みにすれば、「ゼロ年代」になって「思想」と称されるものは何も考えないで肯定するだけになったということです。
しかし、問題なのはなぜそのような事態になったか、という原因分析です。
原因分析もなく、ただ「そうなりました」では、そうだからそうなのだ、というそれこそトートロジーでしかありません。
東浩紀や千葉雅也や佐々木敦などの「ゲンロン」勢の本を読んでもその原因は永遠にわかりません。
なぜなら、彼ら自身が権威的ジャーナリズムに対する批判的知性を持たないトートロジー的な存在だからです。
(今やこういうピエロが業界に庇護されて「批評家」と呼ばれる時代です)
実際に「ゼロ年代」の「ポストモダン」現象はトートロジーなどではありません。
その現状肯定にはメディア・ネットワークの生み出す〈プラットフォーム保守主義〉が影響しています。
プラットフォームとは、サービスやシステムが機能するための共通基盤となる動作環境のことですが、僕はネットワーク・システムに依拠する共同の場のことをそう呼んでいます。
インターネットや雑誌などのメディア・ネットワーク上で形成される共同性は、オタクのプラットフォームとして機能しています。
プラットフォーム上で実現される自由と多様性は、プラットフォームの共同性によって維持されているものです。
そこでの自由と多様性は、プラットフォームへの忠誠、つまりネットワークへの従属によって成立するものでしかありません。
他者性をはらんだ真の自由よりも、プラットフォームに管理された自由と多様性を重視するあり方が〈プラットフォーム保守主義〉です。
ポストモダン以降の世代は〈プラットフォーム保守主義〉に染まっているので、ジェンダーなど細かいレベルでは変革を求めるのですが、
自分たちが依拠する共同的環境(プラットフォーム)については批判の対象にしたがらないのです。
権威を生み出すプラットフォーム(たとえば出版社が実権を持つ文学賞など)で何か問題があった場合、
生み出された結果(たとえば誰が賞に選ばれたか)については批判が起こりますが、プラットフォームそのものが批判されることはありません。
〈プラットフォーム保守主義〉によって台頭してきたのが、GAFAと呼ばれるグローバル企業であることは言うまでもありません。
Amazon上の気に入らないレビューに文句を垂れても、その元締めであるAmazonを批判することはなく、その流通網にはどっぷり依存する姿勢などは、典型的な〈プラットフォーム保守主義〉と言えます。
だから、実際は権威的プラットフォームや社会的インフラに関する批判がなくなっていると言うべきです。
これを僕はポストモダンの「非思想的展開」と呼びたいのですが、このような状況を正当化したのが「ニューアカ」以後の現代思想であることは強調しておくべきでしょう。
「ニューアカ」は、大学の助手でしかない浅田彰と中沢新一が、メディア・ジャーナリズムの力でスターとなった現象でした。
学問修行中の助手がメディアの寵児になってしまったことが、上位にいる教授たちの反感を買い、彼らの出世の妨げになったことは想像に難くありません。
それが上下関係が厳格な日本において、権威を擾乱する行為であったことは、彼らの思想内容以上に注目すべき事実です。
要するに、「ニューアカ」現象には事実確認的(コンスタティヴ)と行為遂行的(パフォーマティヴ)の両面があったのです。
ポストモダン思想に依拠した既存の権威を擾乱する理論面(コンスタティヴ)と、出版ジャーナリズムの市場原理によるアカデミックな旧権威を擾乱する社会実践面(パフォーマティヴ)の両面です。
「ニューアカ」の紹介する理論は、実際に浅田と中沢の二人がアカデミズムの権威を擾乱するというパフォーマンスによって、社会的リアリティを持っていました。
ここには現代思想の消費市場的転回・ジャーナリズム的転回があったわけです。
東浩紀が大学の庇護を離れて、企業経営者の道を選んだのも、この流れの中にあります。
そして、最も重要なのは、この現代思想のコンスタティヴとパフォーマティヴの両面を支えていたのが、出版ジャーナリズム市場であったという点です。
日本の「ポストモダン」は確かに権威の擾乱や権威からの逸脱をめざしていましたが、それはすべて出版ジャーナリズムの市場権威をあてにしたものでしかなかったのです。
そのため、ジャーナリズムで大衆的パフォーマンスをすれば、ポストモダンの実践をしているかのようになりました。
(大学の研究者でありながら、ろくに論文も書かずにマスコミで雑文を書くだけの人が出世する風潮が、まさに日本の「ポストモダン」なのです)
もはや「ポストモダン」にはコンスタティヴで「意味」のある内容など必要ありません。
ただ、出版ジャーナリズムなどのメディアに依存して、大衆が好む程度のズレや逸脱を口にしていればいいのです。
このような現代思想ブームのカラクリを知ることは非常に重要です。
「ポストモダン」という現象が、大学の専門知から商業出版の大衆ポピュリズムへと移行しただけであることを証明するものだからです。
僕が日本の〈俗流フランス現代思想〉が消費資本主義に依拠したものでしかない、とずっと批判してきたのは、このようなポストモダン隆盛の歴史的背景がわかっているからです。
日本のポストモダン思想は出版ジャーナリズムが作り出す市場権威に依存してきたので、すでに古くなった共同体的権威を批判することはできても、
出版ジャーナリズムの大衆消費システムというインフラを批判することは決してありません。
まとめてしまえば、「ポストモダン」など、新しいメディア的権威に依拠して古い共同体的権威を批判しただけのことなのです。
だから、彼らポストモダン自身が批判にさらされると、出版ジャーナリズムと一緒になって批判者を権威丸出しであられもなく叩くのです。
そこで保存されていくのは、大衆的メディア・システムに依存する保守的心性です。
システムに依存的な保守勢力が、体制転換を伴うシステム変革など受け入れるはずもないので、システムの管理に従うだけになるのは当然ではないでしょうか。
出版ジャーナリズムの広告的なメディア・ネットワークに耽溺して、言うがままに消費をさせられているのが21世紀以降の日本人の有様です。
彼らが称揚する「差異」は、権力と結びついたプラットフォームの「同一性」の下部領域に存在するものに限られます。
その程度の「差異」によって、権力が求める「同一性」を擾乱できるはずがありません。
(つまりは、市場権力とマスコミによって「去勢」された「差異」でしかないということです)
これは本来なら「ポストモダン思想」の敗北なのですが、サブカル化した「ポストモダン」にもはや反権力的な思想性はないので、誰もそんなことを問題にしないのです。
当然ながら、そんな消費市場に依存した精神で、マルクス的な変革思想など理解すらできるはずがありません。
(もちろんMEGAの斎藤幸平も例外ではありません)
社会主義陣営の敗北によって、市場の支配こそが何よりも権威となった時代が「ポストモダン」です。
もはや消費資本主義と金融資本主義のタッグを転覆する勢力はなくなりました。
弁証法的な否定性を持つ勢力がなくなったので、資本主義は絶対知に至り、「歴史の終わり」へと突入しました。
否定性が用済みになったのですから、残るものは肯定だけとなります。
さあ、肯定セヨ! 肯定セヨ!
こんな社会に難しい思想など必要があるでしょうか?
社会インフラとしての資本主義が揺るぎないものとなったら、あとはその安定的な機能を「妨害」する人たちを排除することしかやることはありません。
市場経済に依拠する「権威」に対して否定的な人たちは、「サヨク」として排撃されることになるのです。
こうして「ポストモダン」という言葉は、左翼的な思想の死を刻印した言葉になったのです。
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