- 2021/08/27
- Category : 【評論】ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉
ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その2】
ヨーロッパという「速度体制」
一般にポール・ヴィリリオは「移動」を前提とした「速度」の思想家と言われています。
それはヴィリリオが速度に注目し、ヨーロッパ社会全体を「速度体制」として描き出しているからです。
「速度体制」とは、どのような社会構造なのでしょうか。
この言葉はヴィリリオの造語であるドロモクラシー(dromocratie)の訳語です。
dromo-という接頭辞はギリシア語の「走行」を意味するので、「走行体制」と訳している翻訳者もいます。
前にも述べましたが、ヴィリリオは独自な言葉の使い方をするので、語義的な正確さにこだわる必要はあまりないと思います。
僕自身は「移動と加速を管理する権力による社会体制」と理解しています。
要するに、「速度体制」とは、社会全体が速度によって規定されていることを示す言葉なのです。
この表現が、総力戦体制から逆算して取り出されたイメージであることは疑いようもないことです。
つまり、ヴィリリオはかつてない大規模破壊を導いた総力戦体制のルーツを、権力が持つ速度への欲望とその社会システム化に見ているのです。
ヴィリリオは歴史事実の引用によってそれを示していくのですが、注意したいのは、
彼の目的が歴史事実を明らかにするのではなく、歴史を材料にして現代の総力戦体制がいかに「ある種の欲望の帰結」であったかを描き出すことにあるということです。
その意味で、ヴィリリオの結論はもうわかっています。
現代は総力戦体制が全般化した黙示録的な社会であり、それは速度への信仰に貫かれた軍事的な「移動=メディア技術」によって成立したものだ、というものです。
この結論を共有できない人は、ヴィリリオを読んでも得るものは少ないでしょう。
結論が揺るぎない一点にあるという点で、ヴィリリオの思想はちっともスキゾフレニックではありません。
完全に速度パラノイアとも言うべき思想家です。
スキゾをオシャレな価値とした、浅田彰以降の〈俗流フランス現代思想〉の固定観念から、ヴィリリオは大きく外れています。
強調しておきたいのは、速度体制には枢軸国と連合国の区別がない、ということです。
ヴィリリオの批判対象は西洋全体に及んでいます。
軍事的総動員体制という点で言えば、ナチスドイツはその徹底性において際立っていますが、
フランスやイギリス、アメリカも軍事テクノロジーの面ではそう変わりはありません。
中国やロシアはもちろん日本だって例外ではありません。
つまり、ヴィリリオの批判から自由でいられる先進国などないのです。
この態度が、プロテスタント的なドイツ思想を仮想敵としつつ取り入れる、他の〈フランス現代思想〉と大きく異なる印象を与えています。
仮想敵の批判をしていれば、自己反省をしなくても済むような「甘え」の入り込む余地はありません。
現代社会には、ヴィリリオの批判に対する「安全地帯」など存在しないのです。
ヴィリリオに人気がないのは、甘えや気休めを完全に排除しているからでしょう。
彼の思想を認めると、先進国社会が軍事的ディストピアであることを認めなければいけませんし、
自分たちがその動員技術であるメディアを無批判に用いて、享楽していることを思い知ることになります。
それと戦っている気分になれる安易な免罪符も提出されません。
そのため、ヴィリリオにはディストピアの危機に対する対処法がない、という不満も聞かれます。
しかし、ヴィリリオを真剣に読んでいれば、直接示されていなくても対処法を了解するのは容易です。
総力戦体制とそれが生み出す速度の支配空間──メディアが作り出すリアルタイムの今──に動員されないように抵抗しろ、ということになるはずだからです。
出版メディアやネットで流行の哲学を語る人には、ヴィリリオの価値は永遠にわからないのです。
総力戦の起源──現存艦隊
さて、速度体制の話に移りましょう。
前回の記事でヨーロッパ人の海洋進出について考察しましたが、ヴィリリオは『速度と政治』(1977年)の中で、
「海を求める権利」は「空を求める権利」と同じく、西欧独自の産物だと言っています。
やはり、ヨーロッパが海洋支配を積極的に求めたことに、特別な意味を見出す必要がありそうです。
前線と銃後の区別なき「総力戦」を可能にしたのが、戦場を選ばない航空戦力の登場を境にしている、というのが僕の見立てでしたが、
ヴィリリオは海洋支配を、総力戦の鍵を握る制空権確立の前段階と位置づけています。
『速度と政治』では、特定の戦場に限定されない攻撃を行う海上戦力として「現存艦隊(Fleet in Being)」が取り上げられています。
現存艦隊とは、戦略を、見えない船団の運用術として絶対的に達成する兵站術にほかならない。それは、敵をいつどこでも攻撃することができ、敵の権力意志を地球規模の非安全地帯の創出によって無効にするような不可視の艦隊を、海上に恒常的に現存させることにほかならない。(ポール・ヴィリリオ『速度と政治』市田良彦訳)
実際の軍事用語としての現存艦隊は、潜在的な攻撃能力を保つために、自軍の艦隊の温存をはかって敵主力との実戦を避ける戦略を言うのですが、
ヴィリリオはそのゲリラ的、機動的性格を拡大して、いつでもどこでも敵を攻撃できる不可視な軍事力として描いています。
なぜ不可視なのか、と言うと、どこにでも存在する遍在的な戦力とは、特定のどの場所にも存在しない、確認不可能な戦力だからです。
「地球規模の非安全地帯の創出」とは、要するに地球のすべての場所が戦場である、と言っているようなものです。
このような地球規模でどんな戦場にでもアクセスできる不可視な艦隊が、メタ的な存在であることは言うまでもありません。
ヴィリリオの描く現存艦隊のイメージは、歴史上のイギリス海軍よりも、
かわぐちかいじの漫画『沈黙の艦隊』(1988年〜1996年連載)で、独立国家「やまと」を名乗った原子力潜水艦と重なります。
核爆弾を搭載する原子力潜水艦が、どの国にも属さない独立国家として、世界のどの海にも出現しうる存在として描かれた作品でした。
「不可視の艦隊」と呼ぶなら、潜水艦が何よりふさわしい気もします。
実際、ヴィリリオは「戦略原潜はどこへ向かう必要もなく、大洋のただ中にあって不可視でありさえすれはいい」と、
しっかり「原潜」つまり原子力潜水艦について触れていますので、現存艦隊を純粋化すると潜水艦に至ると考えてもいいと思います。
地上のあらゆる場を戦場へと変える現存艦隊は、「移動」を宿命づけられた存在です。
特定の場にとどまらず、どこにでも移動していく、いつも移動を続けている戦力です。
「移動」状態にとどまっている逆説的な存在とも言えます。
現存艦隊は速度体制の新しい観念を創出する。大陸、大洋、都市から都市へ、岸から岸への横断はもはや問題とならない。現存艦隊が創出するのは、時間と空間のなかでの当てのない移動の観念であり、危険な騒乱状態のなかでの消失ではなく、距離のなかへの消失という本源的観念である。それは、彼方への疾走を絶えず現実化するのだ。(ヴィリリオ『速度と政治』)
絶えざる「移動」と距離への消失という「不可視化」によって、現存艦隊は「敵の権力意志」を無効化する「非安全地帯」を地球規模で生み出します。
要するに、どこに出現するかわからない、「非−場所」的な存在──場所から遊離したメタ的な存在──であるには「不可視」でなければならず、
それには絶えざる「移動」を実現する速度体制が必要だということです。
こうして、限定された「場」にある戦力は、遍在的な海上戦力によっていつ破壊されるかわからない「非安全地帯」に置かれることになります。
かかる非安全地帯にあっては、敵はもはや確信をもって「決定する」ことができず、意欲する、すなわち勝つことができないだろう。したがって現存艦隊とは、もはや直接の対決や流血からではなく、船団の不均等な特性、選定海域において船団に可能な運動量の評価、船団の力学的有効性の絶えざる検証、といったものから生まれる新しい暴力の観念なのである。(ヴィリリオ『速度と政治』)
ヴィリリオは現存艦隊をイギリス海軍のイメージと結びつけ、この箇所でもナポレオンやナチスドイツの逸話をはさみこんで、
ある意味レトロな直接戦闘の話から出ようとしないのですが、
注意深く読めば、この現存艦隊の「新しい暴力の観念」についての記述が、完全に核戦争を視野に入れたものだとわかります。
言うまでもないことですが、核爆弾は地上すべてを非安全地帯へと陥れるものです。
いつどこが攻撃されるかわからない点で、敵は絶えず「決定不可能性」にさらされています。
もはや「直接の対決や流血」に至る必要もなく、核爆弾の破壊性能やミサイルの航行距離などの「力学的有効性」だけが「暴力の観念」であるような状態です。
ここでヴィリリオは、陸地を基盤とした領土的なあり方と、海洋を基盤とした非−回帰的な「移動」を対立させて語ります。
つまり、「海を求める権利」とはドゥルーズ=ガタリ的に言えば「脱領土化」の運動に当たります。
しかし、ドゥルーズ=ガタリがそれを国家権力に対抗する力として無邪気に肯定するのと違って、
ヴィリリオはそれが資本主義や軍事的優位性と結びついたものであることを明確にしています。
ロマン主義の入り込む余地のない冷徹な認識が、ドゥルーズ=ガタリを批判する僕がヴィリリオを高く評価する理由の一つです。
奇襲の仕方は様々な兵器が開発される時代ごとに多様である。領土をめぐる戦争という考え方に対し、ブルジョワジーが突然示した抵抗は、以降、資本主義の原理となり、資本主義はその結果、水陸両用と化しつつ全面戦争を海上と植民地で遂行させる。(ヴィリリオ『速度と政治』)
陸地の領土を超えて海洋に進出するブルジョワ商人が、プロレタリアートをオールの漕ぎ手として引き連れていく姿は、
多くの兵士たちを抱えて海洋をどこまでも航行する現存艦隊のそれと重なります。
場所に限定されない資本主義の実現が、グローバル資本主義であることは明快です。
総力戦という軍事的な極が、資本主義の極と一致することには注意が必要です。
軍事的優位性を求めて神に至る
ヴィリリオは現存艦隊について、総力戦とグローバル資本主義という二つの面から記述しているのですが、
ここではヴィリリオが語らなかった宗教という面を取り上げたいと思います。
僕は宗教の観点から現存艦隊について考察してみたいのです。
現存艦隊は「彼方への疾走」によって「距離への消失」を果たすものでした。
距離の中に消失することで不可視となった艦隊とは、実際は幽霊のような存在であり、死の近くにあるということにならないでしょうか。
海の彼方をめざすことは、死の向こうにある宗教的な「彼岸」をめざすことと同じ意味を持つはずです。
海の向こうに宗教的な彼岸があるという発想は、そう珍しいことではないと思います。
たとえば「補陀落信仰」というものがあります。
僕は熊野の那智勝浦を訪れたときに補陀落信仰について知ったのですが、
古来から熊野灘は「補陀落の海」と呼ばれ、海の彼方に観音の浄土があると信じられていました。
彼方の浄土へと渡るために、僧たちは釘で扉を打ちつけた棺桶のような小さい舟で、30日分の食料と油を積んで、非−回帰の旅へと乗り出しました。
ちなみに井上靖の小説に、この題材を扱った「補陀落渡海記」(1961年)があります。
補陀落寺の住職には61歳で浄土をめざして海に出ていく先例があったので、
61歳になった現住職の金光坊も周囲の圧力で、生への執着を捨てられぬまま強引に舟に乗せられていくという話です。
熊野の浦からの船出は現世の生命の終焉を約束されていると同時に、宗教的な生をも亦約束されているものであった。従って、金光坊は未だ嘗て一度も、渡海者たちの顔に絶対に帰依する者だけの持つ、心の内側から輝き出して来るような一種独特の静けさと落ち着き以外の何ものも見たことがなかった。(井上靖「補陀落渡海記」)
周囲の人間には、補陀落への渡海が彼岸での安息を約束しているように見えています。
しかし金光坊は、自分が渡海する身になって、過去の渡海者たちの「静けさと落ち着き」が、宗教的平安とは違ったものに思えてきます。
おそらく井上は、思い悩む金光坊の姿に特攻していった英霊を重ねていたように思います。
総力戦と宗教的信仰の近接性を描くあたりは、いかにも戦後文学という感じがしますが、
前回も示した通り、ヴィリリオと戦後文学の接点こそが重要なのです。
僕が指摘したいのは、現存艦隊という軍事的優位を実現する場である海洋が、地上の生活から切り離された宗教的な彼岸と同じ意味合いを持っている、ということです。
つまり、「地上から自由である」という優位性において、宗教的彼岸もまた最強の軍事拠点となりうるということです。
「イスカンダル」という彼岸をめざす宇宙戦艦ヤマトは、汚染された地球に救済をもたらす存在でありながら、「移動」する軍事拠点でもあります。
ここには奇妙な逆説が存在します。
地上のすべてを死の可能性へと巻き込む現存艦隊が、死を遠ざける宗教的彼岸を実現する「方舟」である、という逆説です。
ヴィリリオは僕ほどあからさまに書いていませんが、似たような認識には到達しています。
自由な海はあらゆる社会的、宗教的、心理的束縛を相殺し、大地の重力や大陸的狭隘さに由来する物理的法則の限度ぎりぎりまで、あらゆる政治的・経済的圧力を償うはずであった。しかし海を求める権利は事実上、犯罪を犯す権利、それじたいがまた束縛にほかならない暴力を自由に行使する権利となったのだ……。(ヴィリリオ『速度と政治』)
この部分でヴィリリオは、海が「宗教的」束縛からも自由だと書いていますが、僕はむしろ海にこそ宗教的意味合いを見るべきだと思っています。
此岸の圧力を無化する海という非−場所は、宗教的彼岸とほとんど変わらないものだからです。
重要なのは、宗教的彼岸にも似た非−場所が、此岸に対して暴力を行使できる攻撃の拠点であるということです。
「海を求める権利」は社会の「政治的・経済的圧力」から自由になることを望むと同時に、そこを拠点とした「暴力を自由に行使する権利」となったのです。
「移動」の中に身を置く現存艦隊が、これ以上なく優位な軍事拠点となるのは、「闘わずして大陸の敵を打ち破る」ためだとヴィリリオは書いています。
戦闘を目論むものは、どこからともなく集中砲火を受け、近接戦闘をする間もなく消耗することになるからです。
現存艦隊からの砲撃は、原子力潜水艦からの核ミサイル攻撃に発展し、やがて地球を周回する人工衛星からのレーザー兵器へと置き換えられることになるでしょう。
ここに見られるのは「攻撃は最大の防御」という姿勢です。
奇妙な逆説の正体とは、これなのです。
最強の防御システムとは、最大効率の攻撃システムとして結実します。
僕はこのような逆説が、キリスト教において最も顕著に現れると主張したいのです。
なぜなら、キリスト教こそが、地上を自由に攻撃しうる彼岸を、地上において実現しようとする逆説的な宗教だからです。
ヴィリリオの弁証法
「攻撃は最大の防御」を突き詰めると、攻撃とはすなわち防御であり、防御とはすなわち攻撃である、という効率化に至ります。
多くの戦争が「自衛」を目的として行われるのは、誰もが知る真実ですが、
そのようなことが起こるのは、完璧な防御とは敵の殲滅以外にはありえないからです。
ドイツ民族の安全圏を作るために、東欧から他民族を排除するヒトラーの東方生存圏の構想を支えるのも、このような発想です。
ユダヤ人国家のために、パレスチナ人を締め出す発想にも似た面があります。
このような「完全」を求める「徹底性」のルーツには、一神教があります。
このような非現実的な発想を「現実的」だと思わせているものは、ユダヤ・キリスト教以外には考えられません。
なぜなら、ユダヤ・キリスト教にとって「神の国」という彼岸は、此岸である現世の否定を表す「終末」に実現するものだからです。
キリスト教哲学の近代的完成者であるヘーゲルが、「否定性」を弁証法の原理として取り出したのは慧眼でした。
西洋一神教の基礎には、此岸と彼岸の対立があり、ヘーゲル思想も対立構図を前提として成立しています。
この対立を「否定性」によって解決するのが、キリスト教の本質的メカニズムであり、ダイナミズムなのです。
(詳しく知りたい方は僕の「芸術疎外論」を参照してください)
否定神学という言葉がありますが、宗教的彼岸とは本質的に現世である此岸の否定によって成立しています。
簡単に言ってしまえば、現世に対する嫌悪や絶望から宗教的彼岸が求められるのです。
そうなると、彼岸に対する強い信仰心とは、現世に対する否定(仏教で言えば執着の否定)によって示されることになります。
ヴェーバーはカルヴァンの予定説が仕事に専心する禁欲的な態度を導いたとしていますが、そんな勤勉さはどんな宗教にも多かれ少なかれあるのです。
ただ、キリスト教やプロテスタントが問題にされなければならないのは、それが「徹底性」と「一般性」を併せ持つことを可能にしたからなのです。
たとえば仏教であれば、現世の否定と言っても、否定の対象は自身が執着する対象に限定されます。
だから、人里から離れて自然生活をすれば、彼岸に近づき仏の慈悲を実感することが可能です。
仏教においては否定というより、「離れる」ことが重視されていると言えるでしょう。
しかし、キリスト教の否定対象は個人の心理的問題には解消されず、もっと広範囲にわたります。
ある意味、現実世界のすべて──自然や宇宙までも──が否定の対象です。
最大の問題は、言語による天地創造にあります。
この世界が一人の神による言語的創造物であるならば、一人の意志でいくらでも世界は言語的に改変しうるということになるからです。
「個人」の価値を最も評価しているのはキリスト教です。
神がイエスという一人の人間に受肉するということは、一人の人間が世界の救済と関係を持ちえるということになるからです。
つまり、一人の人間が神の救済の実現を肩代わりしたとしても、キリスト教においては決して不遜ではないのです。
神による救済とは、神の国の到来です。
科学技術とは、未来に到来するはずのものを現に存在させるための手段だと考えてもいいでしょう。
到来は現前へと置き換えられ、一人一人の「個人」が参加するかたちで成し遂げられます。
「個人」が神の代行者になることで、科学技術は発展してきたのです。
この発想が、世界のすべてを神の意志へと隷属させる欲望を生み出し、宇宙規模の自然存在をすべて科学的に解明し、改変することを正当化するのです。
キリスト教において科学とは神の意志の実現なのです。
その意味で、彼らキリスト教徒が本質的に「神を演じる」種族であることは明確です。
突きつめて言えば、西洋科学によって実現したものはすべて神の創意なのです。
だから、キリスト教をこれっぽっちも信じていなくても、科学の恩恵さえ受けていれば、その人は神の創意の中にいるのと同じことになります。
キリスト教の「否定性」は最終的に内面的信仰をも否定するのです。
ポストモダン社会が人間の内面をどんどん排除していったのは、信仰の拠点が内面から「人からそう見える」外観の部分へと移動したからです。
心の中でどれだけ神を冒涜しようとも、人から敬虔な信者に見えればそれで神は満足するのです。
話が先に進みすぎたので、少し話を戻します。
「攻撃は最大の防御」という発想は、ヴィリリオの思想を読むにあたって重要な意味を持っています。
一般にヴィリリオが「速度」の思想家と言われていることはすでに何度も書きましたが、
社会が速度を求めてひたすら加速していく、という原理だけでヴィリリオを読んでも、ヴィリリオの思想を理解することはできません。
速度の原理一辺倒では、どうしても腑に落ちない部分が残るのです。
それは、ヴィリリオにとって「移動」の中にある存在である都市が、何度も「要塞」として描き出されているからです。
本来「要塞」とは要地の防御に特化した、城のような存在です。
地理に据え付けられた不動の存在である要塞が、「速度」という本質の中で土地の拘束から自由になり、「ヴィリリオの動く城」とでも言うべき移動できるものになっているのです。
「要塞が不動の機械であるとすれば、軍事技術に固有の役割はこの機械の不活性と闘うことである」とヴィリリオが述べているように、
軍事テクノロジーが不動の要塞を移動する都市や国家へと変貌させることを可能にしたのです。
停止すなわち死、これが世界の一般法則であるとき、要塞国家、その権力、その法は大規模な交通の場所の中にある。(ヴィリリオ『速度と政治』)
速度体制では、防御を固めることは移動することと同義なのです。
要塞は移動するから要塞であり、防御は攻撃するからこそ防御なのです。
速度体制がこのような傾向を強めていくのは、速度が土地というものを抹消するからなのですが、これについてはおいおい語っていきます。
まずは防御を固めることと移動することに統一をもたらす、ヴィリリオの弁証法について確認したいと思います。
ヴィリリオの最初の考察対象がバンカー(掩体壕)であったことを思い出してください。
バンカーは軍事装備や人員を敵の攻撃から守ると同時に、敵攻撃のための武装拠点でもあります。
つまり、防御拠点でありつつ、攻撃拠点でもある両義的な存在です。
普通ならバンカーは移動しませんが、ヴィリリオがイメージする要塞は、移動するバンカーのようなものになるでしょう。
絶えず移動する攻撃的存在が、不動の要塞以上の防御力を持つ「攻撃は最大の防御」の実現です。
ヴィリリオにとって、いや、軍事的理想において、攻撃は防御であり、移動は不動と同義になるのです。
僕はヴィリリオ自身がこのような弁証法について、直接語っている箇所を見つけました。
今回記事を書くにあたってヴィリリオの著書13冊を読み直したのですが、おそらく彼が自らの弁証法について明確に書いているのはこの箇所だけではないかと思います。
少し長くなりますが、『民衆防衛とエコロジー闘争』(1978年)から重要な箇所を引用します。
農耕にともなう定住化と富の性質の変化(運搬不能な財産)の結果、遊牧民流の逃走の可能性が消滅すると、もはや、周辺環境について速やかに情報を得る informé だけでは足りない。さらに、それを形成 informer しなければ、つまり、先手の優位を現地において保持しようとしなければならなくなるはずだ。その結果、堡塁の周囲に、防護された前哨地、防壁、防御柵が構築される。襲撃者の勢いを鈍らせるためである。こうして、攻撃と防衛が土地をめぐって分割され、同じ一つの弁証法の二つの要素を構成していく。前者は、速度・交通・進行・変化の同義語となり、後者は、運動に対置されるもの、同語反復的な保持、等々となるわけだ。(ポール・ヴィリリオ『民衆防衛とエコロジー闘争』河村一郎・澤里岳史訳)
この文章の「遊牧民流の逃走の可能性が消滅すると」という条件節は、ドゥルーズ=ガタリ的なノマドロジーにヴィリリオが懐疑的であることを示しています。
(『民衆防衛とエコロジー闘争』がドゥルーズ=ガタリに対する否の意思表示であることは、
『速度と政治』の「訳者解説およびあとがき」で市田良彦も指摘しています)
この文章で語られているように、攻撃と防御は「同じ一つの弁証法の二つの要素」として分割されたものなのです。
それが速度や交通などの「革新」と不動の反復である「保守」として構成されます。
ポストモダン時代において「革新」と「保守」がそう変わらないものになりましたが、そもそも両者には本質的な対立などなかったのです。
分割された両者は弁証法的に統一されるべきものでしかありません。
こうして「攻撃は最大の防御」となり、それを実現する「絶えず移動する不動の拠点」を生み出すことになるのです。
肝心なのは、「先手の優位を現地において保持」することです。
「攻撃は最大の防御」において先制攻撃は絶対条件です。
日本が最近になって専守防衛路線を放棄し、敵基地への先制攻撃路線へと舵を切ろうとしているのは、軍事的には至極当然の発想なのです。
攻撃と防御の弁証法を解決する「絶えず移動する不動の拠点」が、ヴィリリオの抱く要塞都市のイメージと重なるのは偶然ではありません。
僕はそれを都市を内包する宇宙戦艦(方舟)のイメージとして提出しましたが、
実際に〈総力戦テクノロジー〉が生み出した方舟は、宇宙戦艦ほど巨大なものではありません。
もっと私たちの身近にメディアとして存在しているものです。
方舟としてのメディアは、移動と不動の弁証法を解決する軍事テクノロジーとして発達しました。
それを具体的に見ていく前に、速度が何をもたらすのかを確認しておきたいと思います。
「場所」の喪失と「時間」の君臨
速度を追求する速度体制には、大いなる傾向が存在します。
それは「現地」であるこの場所で、「先手の優位」を実現することです。
敵よりも優位に立とうと、相手の「先手」「先手」をめざしていくようになれば、どうしても速度を追求しないわけにはいかなくなります。
「攻撃は最大の防御」へと結実する移動と不動をめぐるヴィリリオの弁証法は、絶えず「先手の優位」をめざす速度体制によって現実化するのです。
つまり、最大効率の防御を実現するために、スピードアップを図るようになるのが速度体制社会であり、それこそが近代の本能的欲望なのです。
速度体制が相手に対する優位を確立しようとして、相手の「先手」「先手」へとスピードアップすることを追求すると、
ある閾値を超えたところで、究極的な結果へと帰結することになります。
それは「場所の喪失」による「時間の君臨」です。
のちに詳しく触れることになりますが、『速度と政治』以後のヴィリリオの思想は、この災厄的な結論を追いかけるように展開します。
つまり、『速度と政治』には、先々のヴィリリオの思想展開がすでに予告されているのです。
たとえば、現存艦隊に関する記述には次のような箇所があります。
実際、目印も出来事もない世界における現存艦隊の勝利(決定的性格)は、地球上のどこであれ場所的に同定されないとすれば、少なくとも時間のなか、すなわち惑星の力学のなかに位置することを要求する。こうした単純な理由から、イギリス人は長い間、世界で最も優れた時計職人であったし、海の支配とは時間の支配、当時の言い方をすれば「月を目指すこと」を要請するものであった。(ヴィリリオ『速度と政治』)
現存艦隊とは、特定の居場所を持たない、陸地から解放されたメタ的な存在でしたが、
場所からメタ的に解放された存在は、時間の中に位置する存在へと移行する、という発想は慧眼と言えるでしょう。
海の支配とは時間の支配であり、そのため海上を支配したイギリス人は優秀な時計職人であった、というヴィリリオのレトリックはわかりにくいですが、
海上では時間を実感することが難しいので、時間を支配する意識が強まるのはその通りでしょう。
特定の「場所」を持たない存在は、「場所」を超えた地球規模の「惑星の力学」に属すことになります。
「場所」の上位にある「惑星の力学」とはすなわち時間なのだ、というヴィリリオの論理展開には兜を脱ぐしかありません。
こうして「場所の喪失」が「地球時間」を実現するのです。
人間存在における時間性を主題化したのが、ハイデガーの『存在と時間』(1927年)であることは有名です。
故郷を喪失した人間が〈現存在〉という時間的存在者として描き直されたあとに、
世界大恐慌から第二次世界大戦というワールドワイドな経験を経て、初めて「世界史」が誕生したことの意味は重要です。
場所を持たない時間とは、生起してはすぐに消える「瞬間」でしかありません。
人類は特定の場所を喪失し、世界規模の存在になったことで、「永遠の今」と言うべき瞬間を生きるようになったのです。
話を急に拡大するようですが、このような場所の喪失による瞬間化は、最近のポップミュージックの流行にも顕著に現れています。
もともと、音楽はある場所を音で満たし、その中に人間が位置することで鑑賞されていました。
ライブハウスやコンサート会場を音が満たし、聴衆がその音流の中に全身を投じることが音楽鑑賞であった時には、
そこは羊水で満たされた擬似胎内に似たものであったはずです。
水流ならぬ音流は、聴衆のいる「特定の場所」を包み込むものでした。
しかし、いつからかポップミュージックは場所を喪失して、イヤホンで耳に直接流し込むものに変わっていきました。
全身的体験を失ったこと以上に、音楽が場所を喪失したことの影響は大きいものでした。
ボーカロイド曲の延長にあるYOASOBIなどの最近のヒット曲に特徴的なのは、疾走感のあるサウンドがとにかく切れ目なく続くというところにあります。
絶えず「瞬間」を移動し続けるノマドミュージック!
そこには音楽的な内容はほとんどなく、ただ時間の流れがあるだけです。
場所を喪失したポップミュージックは、絶えず流れる時間がミュージックビデオによって「視覚化」されるところで終わりを迎えます。
キュビスムが描き出そうとする対象より、自らが依拠する遠近法の空間システムを主題化して均質化したように、
ポップミュージックも自らが依拠する音流の時間システムを主題化して均質化してしまうのでしょうか。
これはポップミュージックに限らず、文学にも同様のことが言えます。
たとえば最近の俳句では、「自意識の抽象化」を「私」を抹消した普遍化と取り違えた若手俳人たちによって、
俳句定型のシステムへの依存だけで成立する均質化した俳句が量産されています。
そこにはもはや心にとどまるほどの「内容」はありません。
ただシステムの中で行われるゲーム的な「瞬間の言葉」があるだけです。
最近の俳壇の傾向は、俳句システムへの自己言及だけで成立した作品を、
現代アート的で「新しい」と評して意味づけようとしているのですが、そのようなごまかしが早晩行き詰まるのは目に見えています。
話をヴィリリオに戻します。
ヴィリリオは「攻撃は最大の防御」を実現する海上の現存艦隊が、陸上へと転じられることで、
移動する要塞である「あらゆる土地を進む装甲車」が開発されたと述べます。
「あらゆる土地を進む装甲車」とは、もちろん戦車のことです。
ヴィリリオは戦車を「地上の甲鉄艦」と呼び、それが土地という存在を無にするものであるとして、次のように書いています。
速度は西欧の希望である。速度が軍隊の士気を支え、輸送が「戦争を扱いやすくする」。あらゆる土地を突き進む装甲車が障害物を一掃する。装甲車によって、大地はもはや存在しないも同然となるのだ。あらゆる土地を突き進むというよりは、土地なるものがないと言うべきだろう。(中略)装甲車は単なる自走車両ではなく、砲弾にして砲であり、やがては発信機にして受信機となるだろう。それは射出体と自身を射出する。装甲車とともに、死は改めて死を殺すことになった。(ヴィリリオ『速度と政治』)
障害物を一掃する装甲車(戦車)は、場所そのものを無にする存在です。
陸上の起伏や障害と無関係に移動するメタ的な乗り物の原始的形態といってもいいでしょう。
その延長に「発信機にして受信機」つまりはスマートフォンがあるという指摘には注意が必要です。
電波というものも、陸上の起伏や障害を極小にするメタ的な移動手段であるからです。
速度を求める「乗り物」の進化した姿こそが、電波を用いたメディア端末なのです。
スマートフォンの操作を、車の運転と同じだと思って使っている人は、おそらくほとんどいないでしょう。
しかし、パソコンやスマートフォンの通信機能は、本質的に「乗り物」としての役割を果たしているのです。
(iPhoneで有名なアップルが自動車製造に興味を示しているという話は、何も意外なことではないのです)
そのことを理論的かつ明確に示すことができたのは、ヴィリリオ以外に誰もいないように思います。
では、メディアの本質が「乗り物」であることについて、確認することにしましょう。
メディアという彼岸への「乗り物」
ヴィリリオは電波を用いたメディア端末を、速度を追求する乗り物の延長に位置づけています。
その根拠を見ていく前に、私たち東洋人は乗り物の比喩を用いる有名な宗教を知っていることに気づく必要があります。
小乗仏教や大乗仏教と呼ぶときの「乗」とは、乗り物の意味です。
(小乗は大乗仏教側からの蔑称として用いられたものらしいのですが)
やはり、宗教とは此岸から彼岸への「移動」であり、そのための手段として「乗り物」や「方舟」が欠かせないということなのでしょう。
物理的移動を超えた光学的移動の領域に至る「乗り物」とは、彼岸への移動を可能にする宗教的な手段に近いものとなるはずです。
つまり乗り物は、単なる移動手段にとどまらず、乗客を神や仏の前へと連れていく役割を果たすのですが、少し話を急ぎすぎました。
まずは、なぜ発信機かつ受信機であるメディア端末を「乗り物」に分類するべきなのかを確認しましょう。
ヴィリリオが速度とその社会体制ではなく、加速を実現する「乗り物」について考察したのが『ネガティヴ・ホライズン』(1984年)です。
この本の第一部はなかなか衝撃的な文章から始まります。
男性は女性という乗り物の乗客である。誕生の際も、そして性的関係においても。近親相姦タブーが存在するのはそのためだ。近親相姦とは悪循環、どうどうめぐりの旅にほかならない。サミュエル・バトラーの言葉をかりて言えば、メスとはオスが自己を再生産するために──つまりこの世にやってくるために──みつけた手段だ。この意味で、女性は人類という種が所有した最初の移動手段、一番最初の乗り物である。ちなみに二番目の移動手段は(馬・ラクダ・ロバなどの)乗用動物である。(ポール・ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』丸岡高弘訳)
ヴィリリオの語る歴史では、最初の乗り物は女性なのです。
女性を乗り物として、馬やラクダと同じ扱いをしたら、現代ではものすごい批判にさらされるでしょうが、ヴィリリオの主眼は暴力における役割分担にあります。
動物を狩るという狩猟行為と、その先にある男性を狩るという戦争行為には、
女性を捕獲して家畜のように利用することが必要だった、と彼は述べます。
女性に農耕や採取、さらには「輸送手段」として物資の運搬の役割を担わせることで、男性は狩猟や戦争に専念することができたのです。
自由のなかでも第一位をしめるのは運動の自由であるが、〈荷役−女性〉は〈狩猟−男性〉にこの運動の自由をもたらす。しかしこの自由は「余暇」ではなく、運動性能の向上を意味するのであり、そして運動性能とは、原始的な狩猟をこえて、戦争をおこなう能力にほかならない。家畜化されたメスは最初の兵站支援手段であり、狩人を補給業務から解放して戦闘遂行を可能にする。(ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』)
僕が小学生の時に『機動戦士ガンダム』を見て驚いたのは、子供向けアニメで物資の補給という兵站をきっちり描いていることでした。
ガンダムやホワイトベースの戦闘は、ミデア輸送機による補給によって継続が可能になっていましたが、その補給部隊の隊長がマチルダ中尉という女性でした。
そのような女性による「輸送革命」によって、「狩人が自己陶酔的同性愛的決闘という猥褻行為に専念する」ことができたとヴィリリオは言います。
戦争を「自己陶酔的同性愛的決闘という猥褻行為」と表現するのも、なかなかすごいですね。
男性が狩猟や戦争の場面で直接的に「乗る」のは、馬などの乗用動物です。
ヴィリリオは女性の次に乗用動物を二番目の乗り物としていましたが、馬による運搬に宗教的な意味が付随してくることに触れている文章があります。
メディアとキリスト教の関係を考えるのに参考となる部分なので、引用します。
騎馬的ヒロイズムにおいて、馬は生者の保護者であると同時に死者をはこぶものでもある。しかし、フェルナン・ブノワが自問しているように、「馬が生者の保護者であるのはただ、馬が死者をはこぶものでもあるからではないだろうか?」このテーマはキリストをはこぶ者で、自動車の守護聖人でもある聖クリストフォルスの伝説にもあらわれてくる。駿馬の速度は騎手をその追跡者からのみならず騎手自身の弱さからも保護する。乗用動物は乗り手をその身体的脆弱さから保護する。しかし保護とは同時にその不適格性の宣言でもある。だから馬や鳥は権力や支配の予兆であると同時に死の予兆でもあるのだ。支配するためには、まず駿馬の神聖な速度と一体化し、一時的に死んで自分の魂を喪失し、瞬間的に転生して馬そのものに変身しなければならない。「乗馬した(=上った)」者は地面にとどまるものを上から見下ろす(=支配する)。かれは乗用動物にのり、目の位置の高さがたかくなったためだけではなく、乗用馬の運動能力を自分のものにしたことによっても、そしてとりわけそのためにこそひとびとを上から見下ろす(=支配する)ことができるようになる。(ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』)
この部分には驚くほど内容が詰まっていて、ヴィリリオの天才的直観に畏れさえ抱くのですが、一つ一つ触れていきたいと思います。
移動手段である馬が乗り手の脆弱さを保護するものである、という指摘は、「攻撃は最大の防御」というヴィリリオの弁証法を実現する「移動する要塞」の姿と重なります。
馬の乗り手を追いかける追跡者とは死であり、乗り手は迫り来る死から身を守るために馬を飛ばすのですが、
死から逃走する乗り手の姿は、皮肉にも馬に乗せられて彼岸へと運ばれる死者とオーバーラップします。
聖クリストフォルスに関する伝承はいろいろあるようですが、ヴィリリオはカトリック信徒ですので、
キリストに仕えるために川を渡る人を手助けしたレプロブスのことで間違いないでしょう。
死者を彼岸へと運ぶ馬を語るのに、子供の姿をしたキリストを川の向こう岸(彼岸)まで運んだ聖クリストフォルスが呼び起こされるのは、
乗り物の宗教的役割を考えると必然にも思えます。
この箇所を読んで、僕はどうしてもフォークナーの『死の床に横たわりて』(1930年)という作品を思い出さずにはいられませんでした。
『死の床に横たわりて(As I Lay Dying)』は、死んだ母の遺体を、埋葬のために彼女の親が葬られた町まで運ぶバンドレン一家の物語です。
家族6人は洪水で橋が流失してしまった川を、母の眠る棺桶を乗せた馬車とともにロープを張って渡ろうとします。
まるでおれたちとのあいだをさえぎるものが、ただの空間というより、とり返しのつかぬ時間そのものといった感じだ。それもおれたちの前をまっすぐに流れ去り、次第に細くなってゆく時間じゃなくて、輪をまいてる糸みたいに向こう岸とのあいだを平行に走りぬけてゆく時間、その距離というのも間隔のすき間じゃなくて、糸の二重にもつれあい、といった具合だ。(W・フォークナー『死の床に横たわりて』佐伯彰一訳)
彼岸との間をさえぎる川が、空間ではなく「とり返しのつかぬ時間そのもの」として捉えられていることは興味深く思えます。
フォークナーがここに「場所の喪失」による「時間の君臨」を見ているように思えるからです。
死すべき魂に対する救済とは、取り返しのつかない時間の救済なのではないでしょうか。
そして、それはこの世に居場所を持たない魂が、永遠に住まうところとして見出されるのです。
結局、ロープを張って馬車を向こう岸に渡す計画は、川を流れてきた丸太によって台無しにされてしまいます。
その時、水中から飛び出し、流れの上に直立する丸太を、次男が「キリストみたい」と語るのですが、
この場面でキリストのイメージが呼び出されるのは、非常に象徴的です。
ヴィリリオの引用文に戻ると、馬に乗る人は速度と一体化して、一度魂を失い、移動する馬そのものに「転生」すると書かれています。
ここはもちろんキリストの復活を踏まえた表現でしょうが、乗客が速度と一体化することで乗り物へと「転生」する、というのはどういうことなのでしょうか。
この文章の意味は、ヴィリリオの考える「乗り物」に、パソコンなどの「AVメディア」が含まれていることを知らないと、なかなか理解しにくいと思います。
速度との一体化によって、メディアへと「転生」することについては、あとで詳しく見ていこうと思いますが、
ここでメディアへの「転生」が、キリスト教をモチーフとした彼岸への移動と重ね合わされていることが何より重要です。
あとは、「支配」をめぐる権力の話をしなければなりません。
ヴィリリオは乗り物に乗るという行為が、人より上に立つ支配的行為だと強調していますが、この指摘も非常に重要です。
馬に乗ることで、人より上の目線になり、それが支配者として他人を見下ろすことにつながる、という見方は、わりと短絡的にも思えますが、
目線の上下は象徴的な意味であって、実際に馬に乗ることが意味しているのは、自由に移動する力を手にすることになります。
ヴィリリオの言う「乗り物」が、あくまで軍事兵器であることを思い出してください。
つまり、乗り物の運動能力を手にするということは、軍事兵器を自在に使う力を手に入れるのと同じ意味を持つことになるのです。
乗り物に乗って、より上位のメタ的な視線を獲得することが、他人を支配するメタ位置に立つのと同じ意味を持つのは、そういう理由です。
ヴィリリオは速度に奉仕する乗り物が、暴力に属する存在だと強調します。
「速度の暴力とは皆殺しをする力にほかならない」とも書いています。
乗り物が本質的に生者を彼岸へと運ぶものであるのならば、それは死をもたらすものであるはずです。
死をもたらすことで死を克服するもの──神の国への転生を可能とするものが乗り物なのです。
個人的な話で恐縮ですが、僕は飛行機に乗るのが苦手です。
先日、飛行機で北海道に行ったのですが、飛行機に乗っている最中は生きた心地がしませんでした。
僕にとっては陸地から離れることが、擬似的な死の体験に近いものなのです。
(ちなみに僕は眠ることもあまり得意ではありません)
自動車や電車に乗ることも本質的には同じ面を持ち合わせています。
自分の身体が属しているこの世界とは、別の秩序へと属するような体験があります。
たとえば電車の車窓を高速で流れ去る風景は、静止状態の風景とは全く別の秩序に属しているかのように感じられます。
それは、私たちの身体が属する直接的な世界を、暴力的に掃き捨てていくかのようです。
ヴィリリオが次のように述べているのは、そのような速度の暴力性のことです。
出発するということは失うということでもある。出発するとき、われわれはホームや港を放棄するばかりではなく、平穏さも放棄して、速度の暴力に我が身をゆだねる。速度とは乗り物がうみだすおもいもかけぬ暴力であり、それは通過するすべての場所からわれわれを乱暴に引きはなす。われわれはひとびとと陶酔を共有しながら速度に身をゆだねる。
出発とはわれわれから接触や直接的経験を剥奪し、ひきはなすことである。乗り物という媒介物は移動する身体をひきさき、拷問し、乗客からいきた感覚を剥奪する。ひきずられ、移動の暴力のなかにとじこめられて、われわれは加速度、すなわち直接性の喪失を経験する。速度は暴力をともなうから、目的地であると同時に運命ともなる。われわれはどこにも行かない。われわれはただ出発し、速度の空虚を獲得して、いきた現実からひきはなされることに満足しているだけなのである。(ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』)
ヴィリリオの引用文は長くて難しいかもしれませんが、
速度の本質が、接触可能な直接的経験の世界、つまりは現実から私たちの身を引き剥がす暴力にあることを述べたものです。
速度とは暴力であり、その暴力が私たちから直接触れ合える世界を奪い取っていくのです。
「われわれはどこにも行かない」という一文は決定的で、乗り物の役割が目的地への到達にあるのではなく、直接的な現実から逃げ出すことにあることを、端的に示しています。
「乗り物という媒介物」という言い方は、乗り物がメディアであることを示唆する表現です。
メディアが乗り物とされるのはどういうことなのか、それを見ていく予定でしたが、残念ながら掲載字数内で語れそうにないので、それは次回の【その3】に持ち越すことにします。
その代わり、残りの紙幅で日本近代文学の観点からヴィリリオの議論を見てみようと思います。
速度の暴力性に関しては、日本の近代文学者の中にも敏感に反応していた作家がいます。
横光利一の短編「頭ならびに腹」(1924年)の有名な一文を、もしヴィリリオが知っていたら、著書のどこかで引用していたかもしれません。
真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。(横光利一「頭ならびに腹」)
この冒頭の表現が話題となり、評論家の千葉亀雄に「新感覚派」の名を冠されるキッカケとなったのですが、
横光の眼は、その特別急行列車の急停止というアクシデントにも無頓着で、一人気持ちよく歌を歌い上げる小僧に向けられています。
実は速度の暴力にも無頓着な「純粋さ」の方を描きたかったのです。
その横光には、記念碑的な短編「機械」(1930年)の試作とも言うべき「鳥」(1930年)という作品があるのですが、
「鳥」は短いながら改行(=休止)がひとつもない一連の持続によって書かれた、それこそ絶えざる移動を貫くスタイルで書かれています。
内容も「私」と「Q」という二人の男の間を「リカ子」が移動し続ける、という三角関係ならぬ力学的関係を扱っていて、
小説のスタイルと内容が見事に一致した芸術的な魅力の溢れる作品です。
この「鳥」のラストでは、「私」とリカ子が飛行機で天空に舞い上がることで結婚を果たします。
もう良い、さらばだ。機体が滑走を始め出した。私は足のような車輪の円弧が地を蹴る刹那を今か今かと待ち構えた。と私の身体に、羽根が生えた。車輪が空間で廻い停った。見る間に森が縮み出した。家が落ち込んだ。畑が波のように足の裏で浮き始めた。私は鳥になったのだ。鳥に。私の羽根は山を叩く。羽根の下から潰れた半島が現われる。乾いた街が皮膚病のように竦み出す。私は過去をどこへ落して来たのであろう。雲と雲との中で扇のように廻っている光りばかりを追っ駈けながら、私は浮き続けているのである。今や私には生活はどこにもない。心は光線のように地上を蹂躙しているだけだ。真っ二ツに割れていく時間の底から見えるのは、墓場ばかりだ。(横光利一「鳥」)
「鳥」は満州事変直前の1930年の作品ですが、原子爆弾を投下したエノラ・ゲイのパイロットが見た光景を予告するような筆致に思えないでしょうか。
無視できないのは、横光が飛行機を、高速の移動手段ではなく、陸上を離れる手段──陸地を生活のない墓場にするもの──として描いているということです。
これこそがヴィリリオの言う速度の暴力を描写したものに思えます。
新感覚派は映画に強い影響を受けていました。
横光利一の盟友である川端康成の代表作である『雪国』(1937年)も、主人公の島村が汽車で移動する場面から始まります。
川端の『雪国』についても、注目すべき描写がありますので、映画を扱う次回に触れたいと思います。
中途半端になりましたが、掲載字数の都合で今回はここまでにしようと思います。
次回の【その3】をなるべく早く書き上げようと思いますので、今しばらくお待ちください。
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