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「現在」に依存する「甘え」を許すな

無知な「若手」俳人のワガママはもうたくさんだ

50歳以下の人を「若手」と呼ぶのもどうかと思うのですが、
『新撰21』(邑書林)以後に頭角を現した若手俳人たちの多くには共通する「病理」が感じられます。
簡単に言えば、自分の作品を「俳句」であると言いたがるくせに、
俳句の歴史や詩型の制約からは自由にさせてくれ、というものです。
彼らは俳句の因習から自由な新しい俳人を気取っていますが、その実ただ俳句の資産にぶらさがってアンモラルなことを貪っているだけに終わっています。
大きなものには守られたいが、その中では好きにやりたい、という発想は、ガキっぽい「病理」とも言えるものなのですが、
商業主義に走る俳句出版界では彼らが新しいことをやっている若手であるかのように捉えています。
冷静に見れば堕落しただけの作品を、新しい潮流であるかのように扱い、
それを大御所たちが見て見ぬ振りをしているというのが現状です。
日本の内輪組織のアンモラルさについては、最近のスポーツ界ではかなり表面化しているのですが、
同じく因習を維持している伝統文学の世界では、一般人の注目が低いのをいいことに、同様の問題に対して批判精神が薄いように思います。


過去の俳句の歴史を批判的に乗り越える作品づくりというのは、新たな創造だと言えますし、僕も歓迎します。
しかし、俳句を俳句たらしめてきたものを単なる「制度」として批判し、自分の思いつきをそのまま俳句として流通させようとする態度は、
俳句の名を借りて好き勝手なことをやる「俳句へのタダ乗り行為」に等しいと言えるでしょう。
実作の力も乏しい俳人がやたらと理屈を振り回し、その実主張の内容が「好きにやらせろ」でしかないという昨今の現象を見ていると、
読む一方の純粋読者である僕からすると、読者そっちのけで作者が自己都合のことを言っているだけにしか思えません。
(俳人は読者の多くが俳人であることに甘えていると思います。他のジャンルではこんなくだらない主張に耳を貸す人などいないでしょう)
あまりに不毛なので、こういうくだらない主張を簡単に切り捨てるられるように、「若手のワガママ」をまとめておこうと思います。


(1) 俳句の制約を「伝統」とくくって、古くて不自由という理由で排撃する人【歴史嫌悪】

「客観写生」をメディア的な視線の問題としか理解していない程度の知識で、それを否定しようとする態度などがこれです。
「写生」という言葉でカメラ的なものをイメージし、俳句を作ることが写真を撮ることのようなものであるかのような誤解をしている人は少なくありません。
僕は「客観写生」というものが視線の問題に還元できるとは思いません。
漢詩や古代の和歌のように自然の描写が自己の心情の描写であるような「自然」の捉え方がそこにはあります。
映画芸術に魅せられた「新感覚派」の川端康成が、日本回帰の中で再発見した「自然」もこれに近いと思います。
俳句において対象は単なる対象ではないのです。
それがわからない人はさっさと映像芸術の世界に行けばいいと思います。


勉強した上で俳句史を批判するならまだしも、不勉強なくせに俳句史を否定したがる人も同様です。
宇井十間がそうであることはすでに書きましたが、特定の内容ではなく川名大の存在を否定したがる外山一機にも同様の欲望を感じます。
歴史を否定するためには歴史との「闘争」が必要です。
「闘争」をすることから逃げて「逃走」すればいい、というのはポストモダンの間違った考えです。
ポストモダンが有効でないことはもうとっくに明らかになっているのですが、この考えが「甘え」を許容するため、
いまだに振り回したがる大人になれない中年が多いのは困ったものです。


(2) 海外アートや映画を前提とした〈フランス現代思想〉系の思想を持ち出す人【エセグローバル化】

古くは関悦史がそうでしたが、その不勉強な用い方を僕に文句を言われてからやらなくなりましたね。
最近では小津夜景とか福田若之とか、あと田島健一もこの手の思想が好きなようですが、
彼らは例外なく実作がたいしたことないんですよね。
俳句と直接には関係の薄い論を振り回すくらいなら、俳句を勉強すればいいのですが、
そうしないのは、俳人が得意としないジャンルで勝負したら俳句下手な自分にも勝機があるかも、という助平心でもあるのでしょうか。


海外の権威を傘に着て日本の現実を批判するのはよくある手です。
オリンピックを盾にサマータイムの導入を強要しようとする態度と根は同じです。
海外の英語俳句を持ち出して日本の俳句に何か言う人も同様です。
これまでのルールでは勝てないので、自分で新しいルールを作って勝利者になろうという欲望を感じます。
自分のために作ったルールが広く共有されるはずもなく、時間によって淘汰されるのは目に見えています。
彼らは最終的に「新しさって何?」みたいな顔で俳句の枠内にある作品を作り始め、必死に俳句界の中に留まろうとするのでしょう。


(3) 作家性やキャラ立ちなどで個性の多様性を語ってしまう人【サブカル病】

これまでの俳句の制約から自由になることで、個性的で作家性がある作品が増えて俳句が多様になる、という議論は端的に嘘です。
こういう嘘を語る人はすぐさま「ウソつき」として弾劾しましょう。
一部の天才的な俳人が作家性を持つことは僕も否定しません。
こういう人は稀な才能であるため、いつの時代にも数多く出てくることはありません。
つまり、作家性のある俳人によって多様性がもたらされるはずがないのです。
日本人は元来自己の欲望を享楽的に充溢するナルシシズムに価値を置く人たちです。
そんな人たちが社会性のあるものを作るには、一定の制約が必要なのは当然の帰結です。
では、その制約を無くしたらどうなるのでしょう。
おのおのが自己満足のための独りよがりの作品を作って、ただ己の醜い自意識を垂れ流す結果になるだけです。


ある同人誌が俳人をタイプ別に分類する俳句地図なるものを作った欲望はここにあります。
制作した人たちは全く自覚していなかったと思いますが、
その頃流行していた「艦隊これくしょん(艦これ)」というゲームの、戦艦を女の子に擬人化してキャラ立ちさせる手口の影響下にありました。
宇井十間も自意識の垂れ流しを「キャラ立ち」とか言って肯定していましたが、
その程度のものが詩であるはずもなければ文学であるはずもありません。
明らかに内輪的世界をサブカル的に可視化することに喜びを感じているだけです。


これにはAKB48的な十把一絡で有名になった『新撰21』の若手俳人たちの出自がいまだに影響していると言えるでしょう。
それによってグループ内での位置付けがすなわち「キャラ」であるかのようなオタク的な錯覚が文学ヅラで語られているのです。
僕は俳句界の『新撰21』の受容があまりにも軽薄だったと考えています。
あんな寄せ集め本の連中を一丁前扱いしたから、
アイドルか何かと勘違いをして、挙句にユニットを組んだりディナーショーをやったりする輩が出てくる結果になったのだと思っています。


俳句に個性を求めるならそれはそれで構いませんが、
そんなに個性的な作家になりたければ、「天才になりなさい」と言っておきます。
天才は自己の欲望が必然的に因習との「闘争」を招き入れてしまうために、好むと好まざるとにかかわらず単独者になってしまいます。
気の合う仲間と寄り集まって「楽しく」イベントなどをやっている連中の中に天才などいるはずもないのですが、
「闘争」する覚悟もないくせに、安直に俳句の制約を否定して「作家」を名乗ろうという態度には醜悪さしか感じません。


参考までに、高橋睦郎『百人一句』の巻末にある仁平勝との対談の一部を引用しましょう。


仁平 さっきいみじくも非個性ということが出ましたけれども、今まで僕たちは、いかに個性的であろうかというところを一生懸命、もう多分、フルにやったと思うんですけれども、非個性的であろうとすることに関しては、まだまだ浅いですよね。
高橋 どんどん浅くしていきましたね。詩歌形式、あるいは文芸全体、さらに表現ということに広げてもいいけれども、非個性、没個性であるべきです。考えうる限り、短い定型である俳句が一番、そのことを方向として示していけるんじゃないか。
仁平 だから、なんで短いのかと問われたとき、非個性だから短いんだというのがうんと簡単な答えなんだけれども、これが今までわからなかった。非個性ということに意識的になれば、一つの批評性を持つようになると思います。
高橋 そうですね。

高橋と仁平は俳句の短さと「非個性」との関係を考えています。
個性的であろうという試みなど、すでに「フルにやった」と言われているわけですから、何も新しくないわけです。
俳句において非個性的であることこそが新しいという視点は、賛同しないにしても、ものを知らない「若手」俳人たちが当然おさえておくべき意見であると思います。
そうすれば、個性的で多様だから新しいなどというくだらない「通念」を、
俳句において大上段から語ることがいかに恥ずかしいか、自省できるのではないでしょうか。


(4) 薄っぺらい現在至上主義の価値観しかない人【資本の犬】

これまで挙げてきたこと(歴史嫌悪、エセグローバル化、サブカル病)のまとめと言えるのですが、
最近の若手の「病理」を支えているのは、文学とは直接関係を持たない商業主義的な価値観です。
資本主義は超越性を先送りするシステムであるため、常に暫定的な現在が至上の価値を持ちます。
簡単に言えば「今がサイコー!」というだけの幼児的価値観です。
これを経営力と信念のない出版社が後押ししているのです。


「資本主義的な日常」でしかない現在至上主義の価値観で、
「遅れ」を価値とする文学ができるはずがありません。
「現在」に依存した精神で作られた「逃走」しか知らない俳句は、
生活の「日常」ならぬ「資本主義的な日常」とともに流れ去っていく運命にあります。
単なる「商品」でしかない俳句などは、ツイッターのように流れ去るだけのものとなり、
作られては消え、作られては消えて、いつしか俳句史を本当に終わらせることになるに違いありません。
しかし、「現在」と「闘争」する俳句をやり続ける人がこれからも出てくるのならば、
その人たちが俳句史を刻み続けていくことになるでしょう。


誤解がないように言っておきますが、僕は個性的な俳句を否定する気はありません。
個性とはあらかじめ備わっているものではなく、形式との闘争において垣間見えるものだと思っているだけです。
制約から自由にやるだけの「赤信号みんなで渡れば怖くない」という安直な「逃走」など、
個性的なわけがありませんし、一読者としては迷惑以外の何物でもありません。
こんなワガママを口にする俳人が一刻も早くいなくなることを期待しています。


1 Comment

花田心作さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
花田心作さん、度々のコメントありがとうございます。

昔の俳壇はものすごく批判をしていたのに、最近は少ないので、どうしてかなと思っていました。

僕について言えば、僕は俳壇の人間ではありませんし、目立つ若手に嫉妬する立場にもありません。
おかしいことをおかしいと声を上げるのが僕のスタンスです。
おかしいことを言う人は若手であろうが大家であろうが僕は批判してきましたし、これからもそれは変わりません。

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