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『相互批評の試み』 (ふらんす堂) 岸本 尚毅・宇井 十間 著

相互性に欠けた「相互批評」

本書は岸本尚毅と宇井十間という二人の俳人が、往復書簡の形式で俳句について語り合ったものです。
「相互批評」という言葉が意味するものがよくわからないので評価が難しいのですが、
そもそも「相互」というならば、その両者の実力にはある程度拮抗したものが必要となるのは言うまでもありません。
しかし、僕が読んだ印象では、宇井の持論というか個人的見解を岸本が深い洞察においてたしなめつつ受け止めるという展開で、
知性と俳句に対する深い理解に関して両者の実力の差がはっきり現れていたように感じます。


最初のテーマは「俳句の即物性について」というものでしたが、
宇井はその主題を語り出すときに佐藤鬼房の次の句をあげています。

 みちのくは底知れぬ国大熊生く

この句の「大熊」は「みちのく」の「底知れぬ」未知を表す象徴なので、観念的な存在として現れています。


その意味で岸本が「〈大熊生く〉の〈生く〉は即物的でないと思います」と返信したのは当然に思えます。
つまり、岸本はこの句を俳句の「即物性」の例として受け止めて、その不適切さを指摘しているわけですが、
注意して宇井の文章を読んでみると、この鬼房の句について「「物」に対するある種の懐疑の精神」があると述べているので、
彼はこの句を即物的でないものとして持ち出したようにも見えるのです。
実は僕も最初に読んだ時に岸本と同じ勘違いをしたので、このような両者の行き違いの原因は宇井の文章のわかりにくさにあると考えていますが、
このように即物性についての了解もないままに、それを否定する句を先に持ち出してしまうあたり、
宇井がいかに俳句における「通念」を否定することばかりに前のめりであるかが現れています。


正直に言えば、俳句が即物的であるかどうかというここで展開されている議論は僕にはまったく退屈でしかありませんでした。
即物的なものを描きつつ、即物的なものからはみ出して読めるのが俳句だからです。
つまり、日常性と詩的精神を両立させる聖俗一元論の価値観が俳句にはあるのです。
(このルーツにはおそらく漢詩があるはずです)
東洋にとっての「自然」の奥深さが理解できず、偏狭な二元論を絶対化して詩的精神を躍起になって日常性から切り離そうとする発想は、
俳句を語るにはあまりに幼稚であるのはもちろん、
心まで西洋に植民化された「ワナビー西洋人」の底の割れた自意識を見る思いがします。


「俳句は思想詩である」と殊更に言いたがる宇井十間は「ワナビー西洋人」の典型に見えます。
宇井の頭には詩的精神(思想性?)と日常性が両立するという発想がありません。


私の考えは、俳句は日常性の詩型ではなく、ある種の思想性を表現する形式であるというものです。

このように宇井は俳句の「日常性」を否定することと「思想性」の強調とを同時に行います。
明らかに二頃対立図式に依存した論の進め方です。
即物性を否定し、日常性を否定することで、「通念」を否定した気になっているのかもしれませんが、
宇井には東洋の詩において「日常性」と詩的な「思想性」が両立するものであるという基礎知識が欠けています。
西洋由来のものを普遍的な「学問」だと思い込む人が陥る「オリエンタリズム」の現れでしかありません。


これを受けて岸本は至極当然のことを書いて不勉強な宇井を諭すことになります。


日常を詠うことがそのまま「思想」や「概念」を詠うことになるというところに、俳句形式に内在するアフォリズム的性格があります。

ここで述べられている俳句における「日常」と「思想」の両立は、岸本の個人的な考えではなく、東洋文学研究を踏まえた学問的に正しい説といえます。
宇井が持ち出す二元論などは俳句においてはそもそも的外れなのです。
こんなことを教えてあげなければいけない相手と対等な「相互批評」が成立するとは思えないのですが、
岸本は宇井の認識の浅さを指摘することもなく、次のように宇井を評価しようと温かい書き方をしています。
ホント、岸本尚毅は偉ぶらない人なんですね。


今回の貴信は「日常」対「非日常」、「日常性」対「思想性」、「日常生活の詩」対「思想詩」という二項対立的な論点の立て方をしていません。

こんなふうに「あなたは二項対立では発想していません」と岸本は宇井をフォローしてあげるのですが、宇井は次の返信で、


そもそも、日常性と思想詩性との関係はどうなのでしょうか。俳句に限らず、一般的かつ単純に考えるとき、「日常」と「思想」は別物です。

などと二項対立に凝り固まった考えを再び繰り返して、岸本のフォローを台無しにしてしまうのです。
宇井が岸本の返信をよく読んでいないか、自分の考えに固執しているだけなのかわかりませんが、
誤った認識を正せない岸本の「甘さ」にも問題を感じました。
残念ながら、このような独りよがりな態度の人とそれを修正できない甘い人との間に、
「相互批評」が成立する余地はそもそもなかったのではないかと思わざるをえませんでした。


西洋を権威として俳句の日常性を排撃するメンタリティ

このように本書では西洋と東洋の差異を無視した宇井の強引な詩論につき合わされることになります。

 鰯雲日かげは水の音迅く      飯田龍太
 かたつむり甲斐も信濃も雨のなか   〃

この両句を宇井は「これほど日常性とかけ離れた作品も、あまりないでしょう」とするのですが、
これが宇井が言うように龍太の思想を表しただけのものである、とするなら、そもそもなぜ俳句は季語や音数律を必要としてきたのでしょうか。
また、それならなぜ宇井は思想詩そのものを書かないで俳句を作ろうとするのでしょうか。


西洋詩の発想やポストモダン思想を俳句にそのまま持ち込んで、
何か新しいことをやっている気分になっている人を、僕は団塊ジュニア前後世代によくある「病理」だと思っています。
僕を含めた団塊ジュニア前後世代は物心ついたときにバブル経済の真っ只中にあり、
社会主義に対する資本主義の勝利によって、日本が西洋諸国の一員であるような幻想の中で育った世代です。
そのため西洋的なものを相対化できず、安直に普遍化してしまう「ワナビー西洋人」がたくさんいます。
定義大好きのウィトゲンシュタイン気取りの俳人が、東洋文化への理解もないまま、西洋詩の価値観を東洋詩に押しつけようとする態度は、
アジアにおける西洋普遍主義の体現者としての日本が、アジア土着的な中国・韓国を侮る態度と共通するものを感じて心穏やかではいられません。


さらに読み進めると、宇井は日常と歴史を二項対立で語りはじめ、
「歴史とはまさに時間によって変化するものの総称である」という謎の定義を持ち出します。
歴史=変化と読み替えて、変化のない日常を排撃するのが宇井の論理なのですが、
そうまでして俳句を日常性から切り離さなくてはならない理由が全くと言っていいほど語られていないのは問題です。
理由が示されないので、ただ宇井個人が「日常」を嫌っているだけにしか思えないのです。


軽みが日常性と共犯関係にあるとすれば、その答えは否定的であるように思えます。私はそこに、表面上の軽やかさとは別に、ある種の抑圧のようなものを感じます。かりに俳句が日常性に制約される詩型であるとすれば、それは変化を抑圧することで存続していると考えることもできます。そこでは歴史が消失し、思想的な多様性が許容されることがありません。

岸本尚毅にツッコミの力がないので僕が代わりに言いますが、
上記のような宇井の主張は端的に思慮が足りないとしか言いようがありません。
少し考える力があればわかることですが、俳句に限らず、小説であっても詩であっても、文学というものは日常性と無縁でなどいられません。
日常の上に歴史があるのは当然の事実でありますし、日常において歴史が消失するなどという世迷言を平気で言えてしまうのは、
名もなき人々の生活に対する冒涜とも言える、口だけ詩人の奢り高ぶった意見でしかありません。


このような日常性に対する理由なき嫌悪には、それこそ歴史というものがあります。
近代文学からサブカルに至る戦中戦後のポストモダン的な系譜というのがそれです。
このことに関しては別のところで書こうと思いますが、考えておかなくてはならないのは、
戦後文学の一部においては「日常性」から逃れたところに「戦争」が位置しているということです。
(代表は島尾敏雄ですが、三島由紀夫にもそのような面があるはずです)
つまり、日常への嫌悪が戦争の高揚感を招き入れるのです。
いたずらに日常性を否定することにどのような危険があるのか、個人的な事情でなく、文学史の中で考えていく必要があると思います。


そこまで昔に戻らなくても、宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』という本がオウム真理教の「地下鉄サリン事件」に抗する目的で書かれたことを想起すれば、
サブカル的想像力と日常性への嫌悪が最悪の出会い方をすると何が起こるかということについて、十分な用心が必要なのは言うまでもありません。
我々の生活の基盤であるはずの日常性を、宇井が軽々しく否定することができるのは、
宇井がアメリカ在住(ネット情報)であるため日本に生活の基盤を持っていないということと関係があるように僕は感じています。
外国で生活しながら母国の日常を否定することがどれだけ安直なことか、この国で生活するほかない人なら誰でも理解できるのではないでしょうか。
僕は宇井十間の無責任極まりない日常否定を決して認めませんし、これを問題だと感じない俳人の想像力の乏しさにも、ただ呆れるしかありません。


歴史性なきメタ化で俳句を一様化する現在至上主義という暴力

これまで見てきたように、宇井の主張には歴史性がスッポリと抜け落ちています。
最もひどいと感じたのは、これまでの俳句を一括りにして「制度」だと書いていることです。


まず軽み偏重はなぜそうなってしまったのかという質問についてですが、私はそれは一つの制度の問題なのではないかと考えます。巨視的に考えるならば、二十世紀前半のある時期に今日私たちが「俳句」と呼んでいる一つの制度が成立し、そのような制度のもとに現在でも個々の俳句作品が作られているのは確かでしょう。

宇井は「俳句」は「制度」であり、それを成立させている原因に「日常性」があるとするのですが、
相当に身勝手な論ではないでしょうか。
前述したように、日常性から自由な文学形式など西洋の詩を含めて何一つありえません。
(そんなものが人々の心を捉えるはずもありません)
だいたい、俳句がそんな不自由な「制度」であるならば、どうして宇井はそんな詩型をわざわざ選んだのでしょう?
僕は俳句をやらないので、この点が絶対的に納得がいかないのです。


面倒になってきたので、結論を書くことにしますが、
宇井が「制度」と呼んで排除しようとしているものは、俳句の「歴史」そのもののことなのです。
自由詩を書く能力がないので俳句の詩型には依存したい、だけど、歴史的に成立している俳句の制約からは自由でありたい。
まさにポストモダン的な非歴史性に耽溺した僕ら団塊ジュニア前後世代の「甘え」丸出しの発想です。
こういうことを求める人間は決まって実作の力がないので、俳句をやらない僕でも批判するのが気楽です。
宇井の本当の目的は「歴史」を否定することにあるのですが、それがバレないように、自ら歴史とは変化のことである、というようなインチキな定義をして、
本当の自分の欲望を首尾よく隠したつもりでいるのもウンザリします。


僕と近い年齢の団塊ジュニア前後世代の俳人たちは、
一様に賞味期限の切れたポストモダン思想の価値に依存して、非歴史性を振り回しているように見えます。
僕から見れば彼らはワンパターンで芸のない連中です。
彼らは「俳句とは~である」というテーゼをやたら口にしたがるのですが、
批評家でもない実作者がそのような定義に勤しむのは、どこか滑稽ではないでしょうか。
そんなことを口にせずとも、そのような俳句を作ればいいだけのことではないでしょうか。


俳句の歴史を真面目に勉強すれば、俳句というものが「制度」と呼んで括れるほど一様なものでないことがわかるはずです。
宇井は口では「「俳句」という制度によって保証されてきた言語的な一様性」などと述べるのですが、
そう言う宇井自身が俳句の歴史をメタ視点から一様化しているのは明らかです。
最大にお笑いなのは、宇井が次のように述べていることです。


俳句を定義するものは、何よりも、現在進行形の作品群とその多様性にあるはずです。「俳句とはxのようなものである」という何らかの一様性によって、俳句そのものが枠にはめられてしまうとすれば、それは本末転倒に他なりません。言い換えると、俳句の現在はつねに「俳句」と「俳句以後」のせめぎあい、闘争の場であると言ってもいいでしょう。

さんざんに自分で「俳句とは思想詩だ」とか「制度」だとか俳句を一様化しておきながら、
現在進行形の俳句に関しては一様性の枠にはめるな、と言うのです。
過去の俳句を一様化し、それと現在(「俳句以後」(笑))を二元論で切り分けて過去の俳句を排撃する、
これが現在至上主義の価値観でなくていったい何でしょうか。
これからの俳句に何か積極的な価値を提示するでもなく、ただ過去を批判して新しいことをやっている気分になっているのは、
近代批判をすることがポストモダンであるかのような錯覚をそのまま流用した態度でしかありません。
こういう態度からは自己弁護的な甘えた姿勢しか感じません。
(正直、俳人は俳句批評をやめたらいいのではないかと思います。大方の俳人が結局批評の名の下に自己弁護を語って終わっているからです)


俳句について偉そうに何かを言いたいのであれば、自分の創作を俳句史の「治外法権」に置こうというつまらない努力をするのではなく、
俳句をやらない人間以上に俳句の歴史を真剣に学んだらどうなのでしょう。
そもそも芸術とは、デュシャンなどでも明らかなように、過去の文脈に対する態度によって成立しているものです。
もし俳句という固定観念が「制度」のように強固であったとしても、
ポストモダンの安っぽい方法論の流用くらいでは破壊できるはずもありません。
もう少し俳句に対して真面目になってほしいと僕は切に望みます。


これまでの俳句をメタ視点から一様化し、「黒歴史」として処理をすれば、
資本主義的な現在至上主義が猛威を振るうのは目に見えています。
ポストモダン的な価値観を振り回す人間はたやすく現在を正当化します。
何度も口にしていることですが、現在至上主義に「文学」の居場所はありません。
自分がおもしろいと感じたから、文脈など気にせずにアップしたい、というだけなら、
コンビニのアイスケースに寝転んだ写真をネットにアップする行為も創作と言えるでしょう。
団塊ジュニア前後世代はこれまで自分たちが依拠してきた、「甘え」でしかないポストモダンの価値観を反省して、真面目な大人になるべきだと思います。
そして若い世代には団塊ジュニア前後世代の「ポストモダン的な歴史嫌悪」という幼稚な病理などに、
悪影響を受けないように気をつけていただきたいと思っています。


2 Comment

佐々木貴子さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
佐々木貴子さん、コメントありがとうございます。

僕は俳人の方々とお会いしたことがないので、書かれたもので判断するしかありませんが、
書かれたものから浮かび上がる顔にも重要な面があるだろうと思います。

Amazonレビューの制約がなくなって丁寧に書けるようになった気がしますが、
まだまだ手探りで書いています。
何かお気づきの点があればご指摘ください。

無題

相変わらず、するどいですね(笑)
私は実際にお会いしたこともあるのですが、
その時に自分が感じたことを思いだしました。

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